月のない夜に

 

 

 そっと保健室のドアを開ける。中には白衣を着た女性が椅子に座って俯いていた。わざと音を立てながら中に入ると、相手は驚いた様子で振り向いてきた。
「ラザーラス君! どこへ……どこへ行っていたの?」
 目の前まで寄ってくる。まっすぐ相手の目を見ることができない。人の声を聞くと頭がくらくらしてきた。突然全身の力が抜けて、俺はその場に崩れ落ちてしまった。
 おかしいな、これくらい、大したことないはずなのに。ちょっとエダと遊んでいただけじゃないか。疲れるほど遊んだらいけないって、いつもケキに言われていたっけ。ああ、あいつの言葉を裏切ってしまった。
『せっかくの休みだ。二日間だけ仕事はやめにして、ゆっくり休んでおきな』
 昨日のエダの言葉が甦る。やめにする。俺を縛るものがなくなる。あんな恥辱を受けるのは、昨日限りだったということ?
 目を閉じると暗闇が呼んでいた。手を伸ばせば触れられそうだ。だけどもう手が動かなかった。自分の心を殺さなきゃ、暗闇には受け入れてもらえないと分かっていた。

 

 

 ふと気付けば、見慣れた天井が視界に映っていた。
 まばたきを一つしても同じ世界が映っている。明るいオレンジに彩られた木造の天井。風が窓ガラスを叩くガタガタという音。白紙に戻ったように真っ白なベッドの中で、俺は裸になって寝かされていた。
 いつも匂っていた木の香り。懐かしい匂い。小さな机の上の赤い花。花瓶に入れられた、自由のない造形物。
 身体を起こし、確信した。ここは師匠の家の中、俺が自分の部屋として使っていた空間。窓の傍にある小物入れにはたくさんのナイフを詰め込み、壁に沿って置いてある箪笥にはクトダム様の鎌がしまってある。自分の家と呼ぶべき場所。安心と安らぎが詰まっている、永遠の中に見出す愛情の終着点。
「気が付いた?」
 ドアが開き、部屋の中に青い髪の男が入ってきた。この家の持ち主、カイ。俺に部屋を与えている男。いつも頼りにしていたはずの、俺なんかよりとても強い人。
「ほら、服」
 傍まで寄ってくると相手は黒服を手渡してきた。そして近くにあった椅子を引っ張り出し、ベッドの横に置いてその上に座った。俺は相手が見ている前で渡された服を素直に着た。もう恥じらいなんてどこかに置いてきてしまっていた。
「川君が運んできてくれたんだぞ、学校で倒れたからってさ。そんなに忙しかったのか? 倒れるまで頑張ってたのか?」
「……」
「お前、俺に何か隠してるんじゃないのか? 急に家に帰ってこなくなるし、事情を少しも話さないし。川君もアス君も口を揃えて言ってたぞ、最近のお前はどこか変だって」
「……」
「何か困ったことがあれば話してくれっていつも言ってるだろ? そうやって何でもかでも自分で背負って、それで壊れちまうことは目に見えて分かってるんだから。なあ、ラザー、俺はお前の味方なんだぞ。たまには怒ったりすることもあるけど、お前のことが心配で心配で仕方がないんだから」
「うるさい……」
「うるさいって、そんな言い方はないだろ! な、話してみろよ、お前を苦しめてるのは何だ? また組織の連中に追い回されてるのか? そうなら俺がどうにかしてやるから。お前の為なら何だってできる、本当だ。お前が一人で苦しんでるのを放っておくことはできないんだよ。俺はお前のことが大切なんだ」
「うるさい、うるさい!」
 俺は耳を塞いだ。そんな言葉を放たないでくれ。そんな台詞が聞きたかったわけじゃない、そんな思いを知りたかったわけじゃない!
 相手にぐいと手を引っ張られ、耳に音が入ってくるようになる。まだ何か言い足りないのか、まだ俺を困らせようとするのかよ、あんたは!
「ラザー、俺は、本当にお前を――」
「黙れよ、お前は俺を愛してなんかいないんだ、お前が抱いているその感情は同情だ! 同情なんて要らない、同情なんて必要ない! だからもう黙れ、何も言うな、俺の前から消えろ、もう俺の心に入ってくるな!」
「ラザー!」
「帰れ! 二度と……二度と俺の前に現れるな!」
 布団の中に顔をうずめる。
 息がうまくできない。口の中に埃が入って、それを吐き出そうとして咳が出た。白いものを見ているはずなのに視界は黒かった。誰かが部屋から出ていく音が聞こえた気がした。
 寂然とした世界が襲ってきた。何もかもが黙っていた。その中央で俺は叫んでいたのに、その声は誰にも届かなかったんだ。誰も気付かなかった。誰も知らないまま。俺だけが知っていて、俺だけが苦しんで、俺だけが守っていた。体力の限界まで酷使され、快楽が終わったら捨てられた。繰り返される痛み。希望と絶望とが互いに誘惑し合う。
 顔を上げると、もう誰もいなかった。狭い部屋に一人きり。立ち上がって扉の方まで歩き、そっと音を立てずに鍵をかけた。
 誰も入ってくるな。誰一人として入れてやるものか。ここは俺だけの空間だ、俺だけの心だ。いくら身体が汚されようと、どれほど身体で遊ばれようと、この心だけは差し出したりしない。何があろうと絶対に! 売るのは身体だけ。それだけで彼らの純潔や未来や信頼が守れるのなら、これほど安い代償はないはずじゃないか!
 めまいと吐き気に襲われながら、ふらりとベッドの上に倒れる。見上げる天井は決して高くはなく、だけど昔に見た黒い天井より遥かに高くて、広い世界の片隅に閉じこもっているような感覚がした。
 この場所は安心できる? この場所は誰にも干渉されない? そんなこと、俺の知ったことじゃない。それが事実だろうと偽りだろうと、扉に鍵をかけたのは自分自身だった。
 自分の為に自分を見失うのはいけないことだとよく聞いたけど、他人の為に自分を犠牲にすることは許されることなのだろうか。誰かの命が犠牲になれば大勢の人が幸福になれるとして、自ら命を差し出す人はどうしようもない愚か者なのだろうか。極限まで追い詰められた精神状態の人が、誰にも頼ることができずに、誰かの為に隠し事をすることは、本当にその人の為になることなのだろうか。
 相談すれば楽になる? 逃げ出せば助けてくれる? そんな保証、どこにもないはずだ。互いに何を考えているか分からないのが人間で、時折自分自身の正体さえ分からなくなってしまう。意識しない場所で生きる精神はとても強くて、自己暗示せねば維持できない精神は脆く崩れやすい。何も見えぬ暗闇を破壊するには、何かを強く望まなければならない。
 俺の望みは仲間を守ること。俺の願いは彼らの幸福の果てを消し去ること。永遠に続く幸せを、終わりのない夢を、彼らにずっと捧げていきたい――止まった時を持て余す者として。
 すっと手を天井に向かって伸ばしてみた。見てくれは普段と変わらない、見慣れた自分の右手。かつては血や泥で汚れていたけれど、今ではそんなものは久しく触っていない。あの堕落した生活に戻らないと決めたのは自分自身であり、そしてその約束を守り続けている自分がいた。これは罪の償いにも繋がるとヤウラに言われ、そう信じて生きてきた自分がいた。確かに過去は消えないものであり、それは今の自分を作り上げてきたものだけど、世界では様々な変化が渦巻いていることも知らなきゃならない。あらゆる変化を経験しながら成長していくのが人間だと言うのならば、俺はもうすっかり成長していなければならないはずだ。あんな安っぽい誘惑に揺さぶられ、挙句に自分の身体を失うようでは、過去よりみっともない人間になっているのではないだろうか。
『そう。みっともないのはお前だ。情けないのはお前だ。お前は愛すべき者を守っているけど、その愛すべき者たちはお前のことを同情だけをもって見つめている。それに気付いたことは幸福なことだったよ、そこだけは褒めるべき点だね。ラザーラス、愛されてもいない人間を愛する必要がどこにあるっていうの。君は夢を見すぎている……人間の中に潜む闇の恐ろしさをすっかり忘れてしまっている。昔から嫌というほど経験してきたはずだろ、美しいものに裏切られる怒りや、愛すべき者に取り残される絶望感を。まだ遅くはないよ、今なら間に合うはず。その信頼の糸を断ち切ってしまえ。君と魂を繋ぐ者がいなくなれば、君は始終憧れていた自由を手にできる。その自由は本物さ、そいつを掴んだなら、もうエダに服従する必要はなくなる。もうヨウトに脅されることも、ケキに怯える心配もなくなる。分かるだろう……君が僕のような人間に戻ったなら、君は君の思うように生きることができるんだよ』
 彼らと別れることが自分の幸福に繋がる。
 そうだろうか。本当にそうだろうか。確かに俺が彼らと無関係だったなら、これほどまでに追い詰められることもなかったかもしれない。今の俺はあいつらがいるために自分を売らねばならなくなった。あいつらがいなければ、いいや、あいつらと自分が知り合いではなかったなら、奴らに脅されても知らん顔をしていられたはずだ。彼らが俺の重荷になっていることは確かだ。
 ……それでも、どうしてだか、俺はあいつらと離れたくはなかった。あの若い生命たちが輝く様を、もっともっと見ていたいと思っていた。彼らとの繋がりを無くしたくなかった。彼らと繋いだ手を解きたくはなかったんだ。
 だって俺は彼らと過ごし、たくさんのことを知ることができた。彼らは俺にいろんなものをもたらしてくれた。穏やかな空気を、眩しい正義感を、まっすぐな優しさを、俺に偽ることなく差し出してくれた。俺が組織で生きていたことを知っても受け入れてくれた人々。俺が過去に数え切れぬ罪を重ねたことも、命の重さを理解できないほど壊れていることも、彼らはもうずっと前から知っている。それらを知っているうえで尚も心配してくれる人たちを、どうして裏切ることができるだろうか! 彼らは或いは命の恩人でもある――他人を信用することができなくなっていた俺を、ここまで更生させてくれたのだから!
『自分が大切じゃないの――そんなに君は、エダと遊ぶことが好きなの?』
 嫌いだ、あんなこと、もう二度と経験しないと思っていた! 組織から抜け出して、ケキの呪縛から解放されて浮かれていたんだ。こんなに唐突に戻ってくるとは思ってなかったんだ!
『他人の為に自分を殺すか、自分の為に他人を殺すか、か。強い繋がりは君を殺す方向へと誘導した。僕ならどちらを選んだだろう? 誰との繋がりも持たなかった僕が、君だったならば……』
 ごろりと身体を転がし、椅子の方に目を向ける。そこには俺を見下ろすロイが座っているように見えた。まだ銀色だった大きな瞳を細め、真剣に悩んでいる姿が幻覚として現れている。
「お前だって……」
 ああ、ロイだって。
「アニスの為なら命を投げ出せた。クトダム様の為なら心を手放せた。そうだろ?」
 ロイだって、俺なんだから。俺と同じ考えを持っているんだから。
 俺がロイのことを理解できないはずがなかった。
『そうだね。僕はどうも、その二人にはめっぽう弱いんだ……』
 すっと手を伸ばし、ロイは俺の髪をふわりと撫でた。そしてちょっと微笑んで見せた。それはあの見せかけの笑みではなく、腹の底からの素直な微笑みだった。
『疲れたね。今日はエダは来ないらしいから、ゆっくりと休んでおこう。今日くらいはいい夢を見よう。まだ太陽は沈んでいないけど、もう目を閉じても大丈夫だよ。……ラザーラス、君は確かに僕だ。僕は僕が好きだから、君のことも愛せるよ。僕は永遠に君の味方だ。カイのことなんて信じちゃいけないよ』
「ああ、分かってるさ……」
 過去の自分に見守られながら、すっと目を閉じて暗闇を見た。安堵の中で眠ることができるなど、いつ以来のことだろう。あの場所にいないことだけで救われている。汗と唾液と精液とが浸み込んだ地面の上では、落ち着いて眠ることなどできるわけがなかったのだから。
 優しく撫でる手は幻覚だったけれど、その気持ちいい感覚だけは本物のように思えた。ロイが自分を認めたことで安心を手に入れたのか、俺は薄れゆく意識を手放すことに対し抵抗を感じることはなかった。

 

 

  夢の世界から呼び戻されると、周囲は暗闇に包まれていた。
 俺は結局夜になるまで眠り続けていたらしい。眠り始めたのは朝だったはずだが、それほどまでに疲れが溜まっていたのだろうか。布団も被らずに寝転がっていたから体が冷えていた。ちょっと力を入れて起き上がると、なんだか頭がくらくらした。
 時計を見ると十一時だった。まだ日付が変わる瞬間は訪れていないらしい。一度目が覚めるとすっかり眠気は吹き飛んでしまい、何か飲みたくなったので床の上に足を下ろした。
 自分でかけた鍵を開け、夜のひっそりした廊下に出る。いつもの癖で音を立てずに歩いていき、玄関の近くの広間に着くとぼんやりとした明かりが見えた。
 俺が一人立ち尽くす目の前で、広間の机に突っ伏してカイがぐっすりと眠り込んでいた。周囲には大量の酒の瓶が転がっており、どうやら酔っ払って眠ってしまったらしい。一体一人でどんな馬鹿なことをしていたんだろう。こいつは酒には強いはずなのに、どうして酔っ払うまで飲み続けていたのか。本当に彼の行動は理解できないものばかりだ。だからいつもあんなに苛々してしまうのだろうか。
 近くまで寄ると酒の匂いがした。それを我慢して相手の身体を持ち上げ、彼の部屋まで運んでいく。扉を開けてベッドの中に押し込み、上から布団をかけてやった。彼の寝顔を見ることは非常に珍しいことだった。
 もう一度廊下を歩いて広間に戻り、そこで少し休憩する。地面に転がっている瓶に躓かないよう気を付けながら椅子に座り、落ち着くとふうと一つのため息が出た。しかし周囲から酒の匂いが漂ってくる。これだけはどうしても耐えられなくて、苛々してきたので瓶を一つ残らず片付けた。ついでに冷蔵庫から適当に飲み物を取り出し、綺麗になった広間でようやくくつろぐことができた。
 そういえば、この席に座っている時は、いつも誰かが共に座っていたんだな。一人でここに座っているのは初めてだ。普段ならカイと向き合って話をし、少し前までは真や樹たちと食事をしていた。自分一人だけではなんだか虚しい。またあの頃のように互いに笑い合ってみたいな。
 ぼんやりとコップに入った飲み物を飲んでいると、ふと背中から風の気配を感じた。振り返ってみると扉が開き、誰か知らない人が立っている姿が見える。相手は黒髪に黒い目を持っているが、日本人というわけではなさそうだ。白いローブを身にまとった幼げな顔の青年で、どこか不思議な感覚のする相手だった。
「こんばんわ」
 まっすぐこちらを見て挨拶をしてくる。何だこいつは。勝手に人の家の中に入ってきて、何をのんきに挨拶なんかをしているんだ。
「君がラザーラス? 直接見るのは初めてだけど、確かに面影はあるみたいだね」
 静かな笑みを顔に湛え、相手は俺の名を間違えることなく呼んできた。組織の新参者かと疑ってみたが、相手の持つ空気には邪悪なものなど一切見えない。あの組織の連中は、どれほど隠そうと努めても負の感情が滲み出ている奴らばかりだった。それだけはどうしても克服できないようで、だからこそ俺は彼らを見分けることができるのだと分かっていた。
「誰だお前は」
「らい、だよ。俺はらい」
 知らない名前。こんな奴が俺に何の用だ。
「ラザー君、俺はずっと君の行動を見ていた」
 相手は扉を閉め、裸足の足で歩いて俺の横に立った。おかげで顔がよく見えるようになった。樹のように幼い顔立ちで、黒い目の中に光は見えず、肩より長い髪は後ろで一つに束ねられている。白いローブは埃を踏んだように薄汚れており、胸元まで開けているラフなものだった。俺がじろじろと相手を観察している中、彼は懐から何かを取り出して机の上に無造作に置いた。
「好きなのを一つだけあげるよ。選んで」
 それは飴玉だった。いろんな色の紙に包まれた大粒の飴。とりあえず言われた通りに赤い紙のものを手に取ると、相手は他の全てをどこかにしまってしまった。
「それはリンゴ味だね。美味しいから舐めてみて。俺は、そうだな……レモン味にしようかな」
 どこからか取り出した飴を素早く口に放り込む相手。こいつ、本当に何をしに来たんだ? なんで他人の家に入り込んできて、俺の名前を呼んできて、いきなり飴の話を始めてそれを舐め始めるんだ? まるでわけが分からない。
「ラザー君。カイと喧嘩したんだね」
 わけが分からない行動をする相手だが、言っていることは全て的を射ていることだけだった。
「……お前はあいつの知り合いか?」
「そうだね、知り合いだよ。俺はカイの元師匠だから。と言ってもカイは俺のことなんて覚えてないだろうね」
 あいつの師。そんな奴が存在していたのか。だけどそれなら頷ける。俺のことを知っていたとしても、何も不思議に感じられない。
「ねえラザー君、君の今の考えを当ててみせようか?」
 机の上に身を乗り出してくる。まるで子供のような動作を見せられ、俺は少しばかり戸惑っていたのかもしれない。
「君はカイと喧嘩をした。その理由はずばり、彼に愛されてないと思ったからだ。カイは君のことを愛情ではなく同情を以て見ていたんだと、そう思ったんだね。今まで君をこの家に置いてきたのも、困った時に相談に乗ってくれたことも、全て愛情ではなく同情によって為された行為だったんだって、そう感じて失望したんだね。確かに君は、全然君と関係ない人から見ても、とても可哀想な人間だと思うよ。君は親に捨てられ、幼い頃から罪人の生まれ変わりと呼ばれ、命の恩人に組織に入れられ、何も分からぬまま不死となり罪を重ねてきた。元々純粋だった君の心は大きく歪められ、組織を抜け出す頃にはすっかり世間の闇に染められた人間になっていた。それだけでも可哀想なのに、君がやっとのことで得た平穏を平気な顔をして壊そうとしている連中がいる。そいつらは君が住んでいた組織の人たちで、意地の悪い方法で君を精神的に追い詰めた。君が相手の誘いに乗らなければ君の大事な友達に手を出すって、そう言って君を脅したんだね。君は本当はとても優しい子だから、相手の要求に従うことしかできなくなってしまった。だけど心の底では彼らから逃げたいと思っていた。もうあんなことを繰り返したくはないと思っていたんだ。それを相手に告げてもからかわれるだけで、君はすっかり道を見失ってしまった。これが今の君の状況だ。あってるよね?」
 長々と語られた物語には偽りなど含まれていなかった。だから俺は素直に一つ頷いた。相手はそれを見てちょっと得意げに微笑み、その大きな瞳をぱっと開いて俺の顔を覗き込んできた。
「俺から言うべきことは一つきりだ。君は誰かに頼るべきだよ。一人で戦うには限界が近いってこと、君ならもう分かっているはずだよ。だから、カイと仲直りしろとまでは言わないけど、君が最も信頼している人に全て打ち明けるべきだ。その人は君を心の底から愛してくれてるんでしょう? 君が本当に信頼できる相手なら、君を捨てて立ち去ったりはしないはずだから」
 信頼している人に頼れ、だって。何をそんなことを、今更になって言っているんだ。それができるならもうとっくにそうしているさ。こいつは俺をからかいに来たのだろうか。
「ラザー君、惑わされないで。君を愛してくれる人は、あの組織の中じゃなくてもたくさんいるんだから。カイだって本当は君のことを愛してるよ、でも彼はとても不器用だから、君に対して気を遣ってしまうところがあるんだ。君はその壁だけを見て、彼の本当の気持ちに気付いていないんだ。一度彼とじっくり話し合ってごらん、そうしたらきっと、彼のことをもっとよく知ることができるから」
「俺はあいつを信用していないし、信用する気にもなれない。あんな奴は警察の連中と同じだ、自分の知りたいことだけを容赦なく聞いてくる。俺の事情だけを知りたくて、俺の気持ちなんか少しも気にしちゃいないのさ」
「……君は、それで怒ったの?」
「他にどんな理由があるっていうんだよ、ええっ?」
 苛々して睨みつけると、相手は少し戸惑っているような表情をした。それから二、三回まばたきをし、音も立てずにこちらに手を伸ばしてくる。それは俺の頭に向けられたもので、髪に触れられそうだったので力任せに相手の手を振り払った。
「だけどカイは君のことを愛してるよ、それだけは本当のことだ」
「うるさいな、お前はあいつじゃないだろ。あいつの感情なんかあいつ自身にしか分からないことだ。あいつだって自分の感情に気付いてないかもしれない。俺に向けた同情が愛情なんだって勘違いしてるんだろ、きっと」
「勘違いしてるのは君の方だよ、ねえもっと落ち着いて、彼とまっすぐ向き合ってみてよ」
「黙れよ! お前なんかただの他人のくせに、これ以上俺のことに首を突っ込んでくるな! 俺は誰の意見も聞かない、どんな行動をするか決めるのは俺自身だ!」
「ラザー君!」
 相手を残して家の外へ飛び出す。
 何もない草原の上をひたすら走った。とにかく家から遠ざかるよう、風に邪魔されながらもただ一心に走り続けた。数分間走った後、何かの気配を感じて足を止め振り返ったが、視界に人の姿が入ってくることは決してなかった。もう一度前を向き、雲のない夜空を見上げる。
 誰かに頼るだとか、悩みを打ち明けるだとか。当事者じゃないからあんなに簡単に言えたんだな。そう考えるとあいつが戸惑った顔をした理由もよく分かる。優しい言葉をかければ救われると思ったんだろう。甘やかすことが俺の為になると思ったんだろう。けど、それは大きな間違いだった。どうしようもないくらいに愚かな間違いだった。
 あいつは何もかも知っていた。俺がどうして悩んでいるかも知っているくせに、最も信頼している人に頼ればいいと言ってきた。あいつは全ての事情は知っているけど、俺の奥に潜んでいる苦悩には一つとして気付かなかった。俺には信じている『彼』に頼れない理由があったんだ。
『どれほど追い詰められても、君は彼の元に逃げられない。そんなことは分かっているよ、だって君は僕だもの』
 そう。俺は逃げられない。あいつの所へ逃げ込んだなら、俺はもう二度とあいつに顔向けできなくなるだろう。あれほどの恥辱を塗りつけられ、低俗な汚い人間に成り下がり、自分の魂を売るしか方法を見出せなかった俺なんかじゃ、光に向かって手を伸ばしていたあの頃の自分にさえ届かない。あいつは俺を表の世界で生きられるよう配慮してくれた。俺が更生できるよう努力してくれた。罪と侮蔑と怠惰とに埋もれていた俺をすくい上げ、美しい景色を教えてくれ、俺が語り出すのを静かに待ってくれた人。他の誰よりも信頼し、どんな存在よりも尊敬している人――そんな彼に今の俺の姿を見せることは、彼の優しさを裏切る行為に他ならないんだ。
 そんなことはしたくなかった。彼の優しさを踏み躙りたくはなかったんだ。もし俺がそれさえ忘れて彼の元へ逃げ込んだなら、俺はどんな犯罪者よりも下劣な人間になってしまう。あんたに捧げた花は綺麗なままなんだと、そう自信を持って言える自分でありたかった。彼にみっともない姿を見せたくなかった。彼に頼らなくとも生きていけることを示したかった。そして俺は恐れているんだ。彼が俺を見て幻滅し、俺の元から離れていくことを何よりも恐れているんだ。
『……淋しくなった? でも、泣いちゃいけない。涙は他人に見せるべきではないよ。どんなに辛くても、ぐっと我慢するべきものだ』
 分かってる。分かってるさ、そんなことは。
 それでも溢れてくるものがあった。溢れて止まらなくなったものがあった。冷たいはずの風にさらされ、吹き飛ばされることもなく、頬の上を滑るように落ちる雫が俺の感情を表に出していた。いくら拭っても消えたりしない跡。目を閉じても肌を伝う感触が残る。耳に届く風の音が俺を叱り、傍にいる過去の自分が心配そうに見つめていた。その只中で思い出すべきは何だろう。俺が今ここで思い出したのは、悲しいかな、エダによってつけられた顔の傷の痛みだった。温かな記憶など、もう俺の中には残っていないような気がしたんだ。

 

 +++++

 

 自分の部屋の中で朝を迎えるのはいつ以来だろうか。低い天井を見上げながら身体を起こし、いつものように髪を整える。もう長いあいだ手入れをしてなかったからぼさぼさだし、風呂にも入ってなかったから触り心地もすごく悪い。机の上の手鏡を取って覗き込んでみると、疲れた顔に垂れる輝きを失った髪が見えた。これじゃいけないな。早く風呂に入りたいけど、カイと顔を合わせてまで入りたくはない。
 そうやって悩んでいるとドアをノックする音が聞こえた。師匠が俺に謝りに来たのだろうか。とりあえず無視して髪を梳いていると、今度はノックの音の代わりに人の声が聞こえてきた。
「ラザー、俺だけど……」
 声の主は樹だった。こんな朝早くから様子を見に来たのだろうか。
「入れよ」
 一言かけると躊躇いがちにドアが開く。廊下に立つ相手は寝癖がついたままの頭で俺を迎え、おずおずと部屋に入ってきちんとドアを閉めた。
「あの、ラザー。……師匠と喧嘩したのか?」
「別に」
「あ、いや、師匠が部屋に入れなくなったって言ってたから。それで……その、俺、今日ガルダーニアに行こうと思ってるんだ。だから、ラザーも久しぶりに誘ってみようかなって、思って」
「……」
 なぜそんなに怯えるように話す。俺はお前にそれほどの恐怖を植え付けていたのか。
「そうだな、行ってみるか」
 この家の中にいるのは窮屈だ。たまには異世界でのんびりしてきても、誰も怒ったりしないだろう。
「よかった。じゃあ、準備ができたら早速行こう」
 俺の返事を聞いた樹は明るい笑顔を見せてきた。俺には勿体ないほどの笑顔。これを守りたいと思うのはおかしなこと? いいや、誰だって守りたいと思うはずだ。
 当たり前のことをしているという意識が自分の中には確かにあった。同時にそれを壊そうとする感情が裏側に強く根付いていた。双方に引っ張られながら今日まで生きていたけれど、休みの日くらいはどうかのんびりとさせて欲しい。
 髪を整えて黒服に着替え終わるとすぐにガルダーニアに飛んだ。懐かしい世界の風が俺に微笑みかけ、俺もまた風たちに自分の姿を差し出した。樹の存在は俺に穏やかさを取り戻させ、異世界の空気は心地いいくらいの安心感を含んでいた。このままここにいられたなら幸福だっただろうけど、そんな夢は既に絵の中で完結しており、俺はまたあの世界に戻らねばならないこともちゃんと理解することができていた。

 

 

「樹! それにラザーも! 久しぶりだねぇ」
 数か月ぶりに訪れたガルダーニアは、国と呼ぶより寧ろ村と呼ぶ方がしっくりくるような、そんな質素な場所になっていた。国の姫君――いや、今は女王だったか、とにかく王族であるアレートは国の門の前で俺たちを待ち構えていた。少し背が伸びたように見えるが、その偽りのない笑顔だけは少しも変わっていなかった。
「どう、ガルダーニアにも威厳が戻ってきたでしょ? この調子でどんどん大きくしていって、他の国に負けないくらいの大帝国にしてやるんだから!」
「そ、そう」
 熱く語る理想は輝いている。この国はとても大きな国だったが、最近になって樹の兄であるシンによって滅ぼされた過去を持つ。樹たちは国が炎上している様を直接見たと言っていたが、その頃俺はまだ彼らと知り合いではなかったから話に聞いただけだった。彼らが言うには酷い有り様で、人も建物も何も残らぬくらい無残に破壊されていたらしい。大きな国を壊すには相当の力が必要なことはよく分かる。でも俺は、樹の兄以上にたくさんの国や町を鬼のように滅ぼしてきたんだ。
「ねえ見てよ、城もすっかり元通りでしょ?」
「そ、そうかな……昔はもっと大きかったような」
 俺と樹はアレートに連れられて町の中を案内されていた。どこからどう見てもそこは村だったが、そう呼ぶとアレートの鉄拳が容赦なく飛んできそうだったから何も言わないでおいた。彼女は王族で且つ細身なくせに、男でさえ勝てないほどの怪力の持ち主だった。一度本気で殴られたことがあったが、あれは涙が出るほど痛かった。
「ねえラザー、せっかく久しぶりに会えたんだし、私と手合わせしてよ」
「断る」
 彼女が俺に頼んでくることとはいつも一つきり。これ以外の要求を俺はまだ聞いたことがなかった。今はいろいろあって疲れてるんだから、こんな時に闘ったりしたら間違いなく瀕死の重傷を負わされるだろう。しかし潔いのも彼女の特徴の一つであり、迷いを見せずに断ったらすぐに諦めてくれたのでほっとした。
 一通り町を見終わると城に案内された。大帝国の城にしては小ぢんまりとした雰囲気の王宮であり、美しく装飾された外見とは裏腹に、屋内はレンガ造りの一般的な家を広くしただけのような建物だった。天井にシャンデリアがぶら下がっているわけでもなく、床に赤い絨毯が敷き詰められているわけでもない。さらには奥へ進んでも玉座さえ背もたれのない木の椅子に化けている始末で、ここはもうあらゆる意味で無茶苦茶な国だった。
 長い机が無造作に置かれてある部屋で、俺と樹は女王に昼食をふるまわれた。出てきたのは大きな国で作られたとは思えないような料理ばかりで、特に畑で採れたばかりの土入り野菜が多かった。俺と樹が複雑な顔でそれを眺め、それでも和やかに口に運んでいる隣で、アレートは始終笑顔を見せ続けていた。どこか哀愁さえ感じる表情で、だけど本当に嬉しそうに見つめていた。
「ねえ、今日はここで泊まっていってよ」
 食事が終わった頃にアレートは唐突な案を出してきた。この大風が吹いたら壊れそうな建物に泊まれと言っているのだろうか。しかし、なんだかそれは惹かれる案だった。少なくとも家で眠るより、この質素な王宮で休む方が安心できそうに思えた。
「そうは言っても、明日は学校だからなぁ」
「俺が送っていってやるよ」
「え……そ、そう? じゃあ泊まろうかな……」
 樹は相変わらず不安そうな顔を向けてくる。何がそんなに不満なのか分からない。これじゃあ俺が彼を脅しているみたいじゃないか。俺は彼を守ろうとしているのに、どうしてこんなことになってしまうのか。
「決まりだね。それじゃあ二人とも、夜になるまで私の修行に付き合ってくれないかな」
 そんな話は聞いていない。
 俺たちに反論する隙を与えず、相手は俺と樹を引きずって城の外へと元気よく出た。そうして始まろうとする彼女の修行に怯えながらも、俺は平和というものを全身で感じようと目を開けてしっかりと大地の上に立っていた。

 

 

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