月のない夜に

 

 

 異世界の夜空は俺に安堵を与えることはなく、そればかりか過去のあらゆる憎悪をひたすら混ぜ返す効果だけを与えた。窓から覗く星の川は美しく、遮断される風が立てる音は静寂に容赦なく飲み込まれてゆく。俺はこういった景色の中で何度も生きていたから、余計に心が不安に襲われることとなったのだろう。夜中の十二時頃に計ったように目が覚めたのは、習慣とかそういったものの他にこうした原因があったように思われた。
 暗闇の中で身体を起き上がらせる。俺の隣のベッドでは樹が静かに眠っており、胸のあたりが上下に動いているのがよく見えた。すっかり安心し切ったような表情で眠っている。思えば彼の寝顔を見るのは初めてのことだった。
 目が覚めたのはいいものの、もう何も考えたくなかった。この異世界に来てまで組織の連中に頭を支配されるのは耐えられないことだった。ここには気分転換に来たはずだ。わざわざ苦しくなることを自分から考えなくてもいいだろう。
 再びベッドの中に潜り込もうとすると、後ろから誰かの手が伸びてきた。それは俺の肩を掴み、首の方まで伸びてくる。気色悪くなってその手を押し返そうとすると、どこかで触ったことのある感触が俺の手に伝わってきた。なんだかひどく懐かしい肌だった。
 懐かしい? いや、そんなことは。そんなことはないはずだ。ここに来てまで俺を追い詰めようとするなんてこと!
「ラザーラス」
 誰かが俺の名前を呼ぶ。耳元でひそひそと囁くように。それは秘密の合図に似ている。この声は、ああ、彼だ。毎晩聞いていた彼の声に相違なかった!
「昨日は悪かったなぁ、ケキさんに捕まっちまったもんだから、お前に逢うことができなかったな」
 小さな声が大きく響く。俺は後ろから抱き締められている。身体が彼を拒んで小刻みに震え始めた。心臓の運動が異様なほどスピードを増していった。
「淋しかっただろう? 今日は昨日の分まで愛してやるからな。お前も昨日の分まで俺を愛するんだ。いいな?」
 甘い声だった。俺を騙そうとする声。
「休みだって、言っていたじゃないか」
 喉の奥から声を絞り出す。たくさんのことを言わなければ相手に食われそうな気がしたが、どれほど頑張ってもそれ以上の言葉は出てこなかった。
「休みなのは仕事だけだろ。愛し合うことに休みなんて必要ない」
 相手は――エダは俺の身体をベッドの上に押し倒した。相手の赤い髪が宵闇に溶け込んで黒くなっている。震えた手では彼を乱暴に押し退けることはできなかった。ただ恐怖が体中を支配しており、それが全身を流れる血の騒ぎからはっきりと感じることができてしまった。まさかここで、樹が寝ている隣で襲う気なのか。なんということを……なんて恐ろしいことを考えているんだ!
「やめ――」
「騒ぐなよ、あの兵器君が起きちまうじゃないか」
 さるぐつわを噛まされ、言葉の自由が奪われる。続いて両手を背中に回され、手首にいつかの手錠を素早く掛けられた。
「今日は静かに楽しもう。お前だって、自分が男と性交している姿を友達に見られたくはないだろ?」
 言うな。何も言うな。俺に汚い言葉を投げかけるな、これ以上卑しいもので心を染めないでくれ!
 エダは俺の服を脱がせ始めた。上半身があらわになり、アニスの十字架が闇の中で光る。俺の黒服を床の上に捨て、相手は自分の服を一気に脱いだ。彼の裸を見て気分が悪くなったので俺はぎゅっと目を閉じた。
「なあ、ラザーラス。お前が静かにするって約束できるならさ、このさるぐつわ、取ってやってもいいんだぜ」
 内緒話のように耳元で囁く声は優しげだ。その提案がいいものなのか悪いものなのかは判断できない。だけど途中で樹が目を覚まし、今の俺の情けない格好を知るならば、少しでも情けなさを減らしておきたいと考えてしまった。目を開けると相手の顔が間近に存在し、何かを察したかのようにさるぐつわを口から離してくれた。そして髪を撫でてくる。彼の為に整えたわけじゃないのに。こんな卑猥な目的の為に鏡を見たわけじゃなかったのに!
「何をそんなに怯えているんだ? お前がこうやって俺に尽くしていることで、お前は隣で眠っている奴を守っているんじゃないか。こうしてすぐ傍で身体を捧げていたら、自分が犯されることによって彼を守っていることの実感だって湧いてくるものだろう?」
 違う、そんな実感、欲しくなんかなかった。感じるのは罪悪感だ、胸を突き刺すような痛みだけだ! 彼を、樹を徹底的に裏切っているように感じられる。普段の自分の姿は偽りなんだって、夜の仲間は狂った連中ばかりなんだって、そう宣言しているかのように。
 相手は俺の身体に唇を押し付け、触れるだけの全ての場所を執拗に舐め回してきた。何日か前から同じことばかりを繰り返している。最初は気色が悪くて仕方がなかった行為だったが、今ではすっかり慣れてしまった自分がそれをただ静観していた。体中に相手の唾液が浸み込んでいき、全ての細胞に彼の遺伝子を埋め込まれたような感覚がした。相手の色に染められている絵画のような気分だ――自由に創造し、芽吹き、踊り出すまでに張り巡らされる、赤くて細い切れない糸が見える。
「そういえば昨日、珍しくケキさんが嘆いてたよ。なんでアニスは自分を愛してくれなかったのか、自分じゃなくロイの方へと心を向けたのかってさ」
 俺の右耳を咥えた後、呟くように相手は話した。黒いガラスのピアスを外され、耳の裏まで舐められる。
「なあ、どう思う、ラザーラス。アニスはケキさんのことを憎んでいたのかな」
 口から声が放たれる度に相手の息遣いが感じられた。これが人を愛するということだとして、俺はアニスに対し、こんなに近くまで距離を縮めたことがあっただろうか。
「あ……あいつは、アニスを苦しめていただろ。そんな奴を好きになるわけがないじゃないか」
「だったらロイはアニスを苦しめてなかったと言えるのか? それならなぜ、アニスはロイに殺されたんだ?」
「そ、そんなこと――」
 声を吐き出す勇気が続かない。こんなに騒がしくして、樹が起きたりしないだろうか。いや、本当は起きて欲しい。起きて、今の俺の現状を知り、あの輝かしい手を差し伸べて欲しい。
 だけど。
「そんなこと、何?」
「なんで……あんたに教えなくちゃいけないんだ」
 アニスとの秘密を組織の連中に知られることは、彼女の生命を裏切ることと同等のことだった。絶望の中に沈んだ彼女の感情を、欲望に利用された彼女の生涯を、こんな下卑た連中に知られるなんてことはどうしても嫌だった。それこそが今を生きる俺にできる唯一の償いのような気がするから。
「まあ、何だっていいや、そんなこと。それより……お前のこの綺麗な髪、俺にもちょっと分けてくれよ」
 優しく髪を撫で、一房だけ手に取って口づけする。もうすっかり汚されていたはずの髪なのに、まだ相手は俺に失望を与えようとしているんだ。払い除けようとしても手が動かない。ああ、こんな手錠なんか、あいつがいればすぐに外してくれるのに!
「お前の髪はいい資金になってたんだぜ。どんな金品よりもこの美しい銀髪を求める好事家だっているってことさ。お前は生まれながらにして幸福な人間さ……クトダム様に気に入られ、ケキさんにも愛されて、警察とさえ仲良くし、しかも不死の身体を手に入れたんだからな!」
 黙れ。黙ってくれ。そんなに大きな声を出さないでくれ、お願いだから。樹が目を覚ましてしまう。俺の姿を見られてしまう。ああ、でも、見て欲しい。見られたくないけど知って欲しい! それはなぜ? どうしてこんな矛盾が生じる? 知られたくないけど救って欲しい。でも彼を裏切りたくはないんだよ、絶対に!
「なあ、俺、お前が羨ましいんだぜ。お前は俺が欲しかった全てを持っているんだ。美しい容姿、確かな信頼、横に並ぶ友情、類まれな素質。お前は俺を虜にしたさ、俺の兄を追い詰めたことによってな。兄貴はいつも言っていたよ、もしも追い詰められることがあったなら、それは皆に誇るべきことだって。だから兄貴は自ら生命の糸を断ち切った――あらゆる負の感情を置き去りにして。俺は兄貴を追い詰めた人間がお前だと知って、今まで目も向けていなかったお前に急激に惹かれたのさ。そしたらお前は俺が欲しかった全てを持っていてさ……こんなことを知らされたなら、お前を愛さずにはいられないじゃないか! そうさ、ラザーラス、俺はお前を愛している。お前の光と闇を、感情と狂気を、欲望と永遠を、地の底から愛している――発狂しそうなくらいに憎たらしいよ、お前のことがいつだって!」
 大声で怒鳴りつけられ、背後から何かが動く音が聞こえた。布と布とが擦れ合う音だった。彼が寝返りを打った音? いや、彼が目を覚ましてこちらの様子を確認したのかもしれない! だけど俺の身体はエダの方を向いており、彼には背を向けていた。確認したい。今の音は何? 確認させて、ああ! もう声が出てこなかった。
 エダは俺の顔をぶった。普段よりもずっと大きな力が込められていた。それでいて俺の肌を舐めるように手で触れた。これが彼の愛し方なのだと瞬時に覚った。無言になった相手は恐ろしい。息を荒げ、何度も殴打され、唾液を吐き出し、髪をナイフで乱雑に切られた。もう止められなかった。怖くて声が出せない俺では、彼に食われるのを待つことくらいしかできない。腹にナイフを突き立てられた。闇の中でベッドに血が染みた。興奮した相手の陰茎を口の中に押し込められた。頭を乱暴に動かされて意識が朦朧とし、口の中に広がる異様な感触に吐き気がした。
 どれほど酷い辱めを受けても、どれほど残虐な狼藉をはたらかれても、俺は決して声を上げてはならなかった。せめて声だけでも美しいままに保っていたかったんだ! だけど声が口から漏れることを必死になってこらえていたら、今度は目の奥から溢れる熱い涙をこらえられなくなってしまった。今まで一度だって凌辱によって泣いたことなどなかったのに、一つのことに集中していたから感情のはけ口が涙の方へと向かったんだ。手には既に自由がないから、涙を拭うことはできなかった。だけど顔にかかった相手のあらゆる体液を押し流してくれるのなら、みっともなくめそめそと泣くことがとても有益なことのように感じられて怖かった。
 これは何度目の嫌がらせ? これからもずっと、こんなことが続いていくのだろうか? それを俺は許せるのか? 他の人間が気付かない闇の中で、ただ一人きり心を正常に維持できるのか?
 相手はもう俺の顔など見ていないようだった。身体に突き刺さったナイフを抜くこともなく、子供のように俺の身体で遊ぶだけだ。疲労が蓄積されていく中で快楽は感じられなかった。こんな暴力で快楽を感じるほど堕落したくはなかったから、自分の意思と相反して反応する身体を呪わしく思った。こんな身体ならもう要らない。汚いものに喜んで、偽りの温もりを欲しがる身体なんて、もう誰にどうされたって構いやしない。どうせ既に売った身体だ、好きなだけ弄って遊べばいい。それに過去に言われたじゃないか、不老不死の体なんて気色悪いって――ちょうど俺の隣で寝ている守るべき少年に!
 心だけ、意思だけが無事ならいい。他のものなんて全て捨ててしまえ。この身体も、アニスの十字架も、黒いガラスのピアスも、あの人の為の銀髪だって。もう取り戻そうと思っても、それらはすっかり汚されてしまった。そんな汚いものを今更掻き集めたいとは思えないんだよ、心まで汚されそうだから! 何もかもくれてやる、好きなだけ持って行け! 一つ残らず奪われてしまう方が、こっちとしても清々するんだよ!
『大事なのは肉体じゃない、魂だ。必要なのは物質じゃない、記憶だ。ああ、ラザーラス、もう目を閉じてしまえ。いつかの夜と同じように、身体と魂を分離させて時の流れに埋もれてしまおう。……』

 

 

 エダが立ち去ると、辺りは夜の静寂に包まれた。
 彼は俺につけた傷を消さないままどこかへ行った。ただ最後の情けとして、身体には布団が被せられていた。ベッドに浸み込んだ黒みがかった血は生々しく残っており、腹の切り傷からはまだ温かい血が溢れ出していた。強引に切られた髪が周囲の床に散在している。幾度か引っ張られて切られていたけど、どれくらいの長さになっただろうか。ちょっと顔を横に向けると、アニスの十字架が俺を見ていた。そのすぐ傍には黒いガラスのピアスもあり、同じ存在である横のベッドの客人は、何事もなかったかのように静かな寝息を立てていた。
 眠れなかった。身体は疲れているはずなのに、意識はぼんやりとしているのに、まるで眠ってはいけないかのように目が冴えて睡眠を拒否していた。朝になるまで少しも動けず、金縛りにあっているような心地がした。俺の中の全ての感情が誰かに救いを求めていた。
 長い時間を見つめた後に、眩しい太陽の光を感じた。隣の彼はなかなか起きなかった。窓の外で鳥が歌い始めた頃、彼は何かに驚いたように飛び起きた。床に足を下ろし、少し窓へ顔を向け、それから俺の方へと近付いてくる。
「ラザ――」
 俺の肩に手を置いた相手の顔が少しだけ歪んだ。じっと相手の顔を見つめる中、彼は慌てて手を引っ込めた。
「お、起きてたのか。ごめん」
 ちょっとだけ赤面し、戻した手を不思議そうに触る相手。きっと肩に触れた時におかしな感触がしたのだろう。当然だ、だって俺の身体は、どこも奴に食われたのだから。肩にだって奴の体液が浸み込んでいるはずだ。
「じゃあ俺、歯磨きするから、ラザーも早く起きて――」
 気まずそうに微笑みながら彼は俯く。そうして床を見たのだろう、その顔からさっと笑みが消えた。
「ラザー、これ!」
 先ほどとは打って変わって真っ青になる相手。床に散らばる俺の髪を見て、彼は事実のひと欠片を見つけてしまったんだ。
 ばっと布団をめくられ、上半身があらわになる。
「あっ……」
 彼の目に黒ずんだ血が映ったはずだった。蒼白な顔で目を見開き、短い悲鳴が出た口を手でさっと隠してしまう。
 震えているようだった。あまりに衝撃的な光景を見て、何もできなくなっているようだった。彼はこれをどう解釈するだろう。俺を汚い人間だと思うには、まだ情報が足りないはずだった。
「樹」
 かすれた声で名を呼ぶと、相手は俺の赤い目を見た。
「今日はもう……学校には行けない」
「あ……そ、そう、だな。うん、分か――」
 ふらりと後ろによろめき、彼は自分のベッドの上に倒れるように座った。そして何も言わなくなる。
 俺は身体を起こした。頭がすっかり軽くなっていた。ちょっと手で触ってみると、腰の辺りまであった髪が肩まで短くなっていた。横に置いてある十字架とピアスを手に取り、いつものように装着する。樹はずっと俯いていて、俺のことなど見ていないようだった。
 床の上に捨てられていた衣服を拾い上げ、上下ともに着用する。腹の出血はすでに凝固し尽くしていた。床にばらまかれた自分の髪を手で集め、ベッドの下に残っていたエダのナイフを発見した。それを手に取り、机の上に置く。
「ラザー」
 ぐっと下に俯いたまま、樹は小さく俺の名を呼んだ。
「ラザー。これ、どういうこと」
 手で頭を押さえている。相当混乱しているようだ。
「……学校、行くんだろ。送っていってやるよ」
「えっ――」
 顔を上げた相手に微笑みかける。上手くできているかは分からないけど、これが今の俺の精いっぱいの笑顔だった。
 樹はもう何も言わなかった。本心では俺の事情を知りたいと思っているのだろうけど、彼のお人好しな性格が俺の笑顔の意味を必要以上に感じ取ってしまったのだろう。樹は一人でアレートに別れの挨拶を済ませ、俺がすぐに元の世界へと送っていった。俺は彼が学校へ向かうのを後ろから眺めながら、誰にも頼ることができないままで、風に吹かれて心を落ち着かせる場所をひたすらに探し続けるしかなかった。
 彼に事実を知られたことに対しては、どういうわけか少しも後ろめたさが湧いてこなかった。俺は誰にも事実を知られたくなかったけど、彼にだけは知られてもいいと思っていたのかもしれない。あいつなら俺の堕落を抱きとめて、限りのない優しさで包み込んでくれると思っていたのかもしれなかった。それこそ確かじゃないはずなのに――世界を救った少年なら、どんな濁った水でも清らかに浄化できると思ったのだろうか。
 多くの人が行き交う駅の隅っこで、俺は一人きりで立ち尽くしていた。師匠の家に帰る気にはなれなかったし、学校にも顔を出したいとは思えなかった。駅では誰も俺を知らないから心地よかった。少し振り返ってくる人も見受けられたが、誰もが顔をそむけて通り過ぎてゆく。彼らの笑い声が幻のように聞こえた。輝く笑顔があまりに眩しすぎて、どうしようもなくなって空を見上げた。
 早く時間が経って欲しかった。すぐにでも樹に会いたかった。俺は彼に事実を見せることにより、彼の全てを取り込むことに成功したような気がしたんだ。学校が終わる頃に通学路へ足を運んだ。家へ帰る生徒たちが笑い合いながら俺の横を走り抜けていった。知っている顔もちらほらと見られたが、誰一人として俺に声をかけてくる者はなかった。
「ラザー?」
 学校から出てきた樹は不思議そうな顔をしていた。朝のことなどすっかり忘れたような、そんなお気楽な表情をしている。今はその程度の記憶でしかなくとも、今後は一時だって忘れられないような記憶にしてやるさ。こうなったらもう、こいつをとことん利用し尽くしてやる。
「お前が悪いんだ、勝手にあの傷に気付いたから」
「……俺の家、来る?」
 さっと表情を改めた樹は俺を誘ってきた。
「ああ」
「じゃあ、乗って」
 俺は樹の自転車の後部座席に座った。彼は足にぐっと力を入れ、自転車をこぎ始める。彼がいることによって風の大半が遮断されていた。それでも後ろになびく髪が短すぎて、なんだか心の中がもやもやとしてきた。
 たくさんの景色が吸い込まれるように移動し、多くの人々がそれぞれの生涯を演じている。それらを眺めてぼんやりとしていると、約四十分間の時間を費やして樹の家に到着した。樹は自転車を家の横の車庫に入れ、鞄を肩に掛けて家の鍵を開けた。質素な家の扉が俺に向けて開けられていた。
「今日も姉貴は夜遅いって言ってたから、俺が晩飯作らなきゃならないんだ。料理しながらでもいいなら、話を聞くことはできるけど」
 靴を脱ぎながら彼は言う。俺も真似て靴を脱ぎ、玄関の端の方へと寄せておいた。
 彼の家に入るのは久しぶりだ。二階建ての小さな家。いつかは窓ガラスを割ったことがあったな。俺にとってはあまりいい思い出のない家だ。
 台所へ案内され、そこにある机に座っているように言われた。狭い部屋の中に真っ白なテーブルクロスが掛かった机があり、その周囲に四つの木の椅子が並べて置いてある。最初に目についた一つに腰を下ろし、鞄を置きに部屋へ行った樹が帰ってくるのを黙って待っていた。相手はすぐに制服のままで戻ってきた。
「今日はチャーハンだからすぐに終わるかな」
 冷蔵庫を開けながら独り言のように呟く。彼の後ろ姿はとても小さい。
「いつもお前が作っているのか」
「うん、大体は。でも最近じゃリヴァにも手伝ってもらってるんだ」
「ふうん」
 俺は机に肘をつき、相手の働く様をぼんやりと見つめた。
「……なあ、朝のことって」
「あれを見て分からないのか?」
 まな板と包丁を水で軽く洗い、材料を切りながら彼は聞いてくる。
「それって――誰かに襲われたってこと?」
「お前がぐーすかと寝てる間にな」
 ふと包丁で材料を切る音のリズムが乱れた。しかしそれはほんの一瞬のみの油断であり、すぐに規則正しい音が取り戻される。
「じゃあ、一体誰に?」
「スイネに。お前も覚えているだろう」
「スイネ?」
 何やら驚いた様子で樹は振り返ってきた。包丁を片手に持ったまま、こちらに一歩近付いてくる。
「襲われたって、あいつに? だってあいつはラザーのこと、仲間だと思ってたじゃないか」
「今だって奴は俺のことを仲間だと思っているんだ、執拗に追いかけ回して、俺を組織に連れ戻そうと考えてやがるのさ! お前は知らないだろうが、奴の本名はエダといって、組織では事務を主な仕事としていた男だ。普段は外に出ないあいつがふらりと俺の前に現れて、唐突に仕事を手伝えと要求してきた。それを断ればお前や皆に手を出すと脅してな!」
「そんな――」
「それだけじゃない、俺が奴の仕事の邪魔をしたら、あいつは怒って俺に罰を与えようとした。お前とアレートとを比べて、どちらの方へ行こうかと聞いてきた。俺は頭が真っ白になったさ、昔のあらゆるものを思い出したから! 奴は俺が何かを捧げなければ満足しなかった。俺には何もなかった、奴に捧げられるほど高価なものなど、何一つとして持っていなかった! だから俺は俺を捧げた」
 止まらなかった。もう誰にも止められなかった。静かに眠っていた自己が覚醒し、自分でもコントロールできない感情が独り歩きをし始めていた。気が付けば俺は椅子から立ち上がっていた。奥の方に沈んでいた思いが溢れ出し、周囲にある全てのものがぐるぐると回り出していた。それらは俺を追い立て、叱咤し、容赦なく踏みつけていく。目の前の光景が一瞬にして真っ暗なものに変わっていた。
「俺は自分を売ったんだ、俺の命を好きにして構わないと言って。そしたら奴は喜んだ。急に笑って身体を押し倒された。それからはもう奴の独壇場さ。あいつは俺に向かって刃物を振り回し、服を引き裂いて、俺の身体をとことん弄んで去っていった! それでも仕事はちゃんとこなした。もうあいつに脅されたくなかったから」
 あの日の出来事が頭の中に甦ってくる。中途半端に身体で遊ばれ、無造作に傷をつけられたあの日。嫌がらせがずっと続くとは思っていなくって、一日だけ我慢すれば救われると思っていたのだろう。
「次の日もあいつはやってきた。仕事で疲れたから癒してくれ、とか言って。俺が断ったらあいつは怒った。怒って、俺はもう逃れられない場所まで来ているんだと言われた。だから俺は彼らに全てを捧げるしかないって、そんなことを言ってきたから、かっとなって反論したら頭を強く殴られた。地面に押し倒されて、背中に両手を回され、手首に警察が使っている手錠を掛けられた。そしてすっかり抵抗するすべを失った俺を奴は鷹揚に食ったんだ」
 絶望するしかなかったあの日。堕ちるところまで堕ちてしまった自分。誰にも会えなくなると言って悲しんだ訳は、今の俺でも充分に理解できることだった。
「その次の日も奴は来た。俺は学校の保健室に泊めてもらっていたが、仕事の為に外へ出てしまった。部屋に帰ったらあいつが待ち構えていて、いつもの屋上へ連れ込まれた。俺はあいつに食われるのが嫌になって、他の奴のところへ行けと言った。だけど相手は落ち着いて、俺のことを臆病者と呼んできた。自分だけが大切な、他人を守ることができない奴だと言ったんだ! 俺は過去の自分とは違うと思っていた。このまま相手を別の人の所へ行かせたら、昔と少しも変わっていない自分になりそうで怖かった。だから俺は懇願したのさ、あいつの足にしがみついて、頭を擦りつけながら、俺の身体をあげるって、好きにして構わないって! あいつは笑った。そうやって素直になってればいいんだって言ってきた。俺は自分が素直になっているのか嘘をついているのか、本当は少しも分かっちゃいなかった。それでももうあいつに従うしかなくて、どんな命令にも反抗せずに服従した。そうして骨の髄まで食らい尽くし、あいつは俺を捨てて帰っていった。だけど俺は皆を守ったんだという感覚によって起き上がることができたんだ」
 全ての感情を殺さねばならなかった日。相手の言葉に怯えながら従った日。あの日を経由して俺はアニスの感情が分かった気がした。また樹たちを守っているという空想を、どうにかして事実に仕立て上げなければやっていけなかった日でもあった。
「次の日は、あいつは来なかった。代わりに師匠と喧嘩して、変な奴にも会った。それでも久しぶりにゆっくり休めて、俺は余裕を取り戻しかけていた。その翌日、お前に連れられてガルダーニアまで行った。お前がのんきそうに眠っているすぐ傍で、奴がどこからか部屋に侵入してきた。奴は小声で俺に詫びてきた、昨日は逢えなくて悪かったって。だから今日は昨日の分まで愛してやるって、俺をベッドの上に押し倒したんだ。俺は怖かった、お前が起きたりしないかって。すぐに相手は俺の自由を奪い、手には手錠を掛けられた。俺は声を出さないように我慢した。でも相手はぺらぺらとよく喋って、突然大声で怒鳴られて、普段より強い力で顔をぶたれた。ナイフで腹を刺され、乱暴に髪を切られ、あらゆる場所を殴打された。そしてあいつは俺を食い始めた――無理矢理俺に淫らな行為を強要してきたんだ! 俺は声を漏らさないように気をつけていたから、溢れてくる涙をこらえることができなかった。心は深い傷を負っていくのに、身体は快楽に沈んでいった。だから俺はもう身体なんて要らないと思った。心だけ、この心だけが奪われなければ、もうあとのことはどうなろうと構いやしなかった。勝手にしてくれればそれでいいと思ったんだ! だってそうだろ、すっかり汚されてしまった身体なんか、大事に抱えていたって何の意味もないじゃないか! こんなものくれてやると思った、好きに遊んで捨ててしまえばいいと願った! 俺は奴の道具だ、奴隷だ、酷使されることに口出しすることもできない、何の感情も許されない氷でできた木偶の坊だ! 奴らから逃れることのできない、いつになっても成長しない、世の果てで時間を持て余す最低の人間だ! だから、だから――」
「ラザー」
 耳に入ってきた小さな声。口をつぐんでそちらに目をやると、樹が包丁を持ったままで俺の前に立っていた。その表情は大きく歪んでおり、今にも黒い目から涙が流れてきそうに見える。
 この目。黒の中に茶色が滲んでいる、少し大きな眩しい瞳。それはいつだって俺をまっすぐ見ていた。全ての偽りを隠す雲を貫き通す勢いで。
「お前は俺を蔑むだろう?」
「そんなことはしない」
「お前は俺を遠ざけるだろう?」
「しない、そんなこと、絶対に!」
「それでも気色悪いと思ってるんだろ! 何日も男と寝た俺を、綺麗なものとして見ることはできないだろ!」
「そんなこと思ってない、そんなふうに見ていない! 俺は――」
 黒い髪が目の前で揺れる。
 彼の手から包丁が滑り落ち、床に少しの傷を作った。
「ごめん!」
 背中に手を回され、強い力で抱き締められる。
「ごめん、ラザーがこんなに苦しんでること、少しも気付いてあげられなかった! ラザーが一人で頑張ってたこと、全然知らないまま生きていた! 辛かったよな、悲しかったよな。ごめんな、こんな馬鹿な俺で。ずっと助けを求めていたのに、手を差し伸べてあげられなかった……」
 向かってくるのはまっすぐな感情。感じられるのは温かい抱擁。ああ、俺は、これを望んでいたんじゃなかったのか。この光のような生命を――俺を堕落の底から救ってくれる、神のような最後の人を!
「樹、お前は」
 肩が震えている。――泣いているのか。
「お前は俺を、愛してくれるのか」
「愛すよ、愛すから! だからこれからは一緒に戦おう。もう一人きりでどうにかしようなんて思わないでくれ。そんなことされたら、何の為の友達なのか、仲間なのか、分からなくなっちまうだろ」
 友達、仲間? まだそうだと信じているのか。俺はもう、お前と同じ世界で生きられなくなったのに。
 相手の身体を引き離す。彼は涙を流していた。彼を泣かせたのは俺だった。俺の弱さが彼の心を突き動かしたんだ。
 守るはずじゃなかったのか。深い闇の中で、誰に知られることもなく、一人で皆を守ろうとしていたんじゃなかったのか。俺はなぜ彼に話したのだろう、なぜ恥を隠さなかったのだろう。――救いを求めていたって、それによって彼を危険な世界に引きずり込むなら、俺はもっと我慢していられるはずだったじゃないか。いつからこんなに弱くなった? 昔の自分に笑われるくらいに、俺の心は不安定になっている。ああ、どうしてそれが、今こんなにも落ち着いて感じられるのだろう。落ち着いていられるなら、彼に話す必要もなかったと、すぐに気付いて止めてもよかったものなのに。
 頭が痛い。胸の中がむかむかして、なぜだか吐き気まで催してきた。目の前の光景が瞬間的にぶれて見え、身体に力が入らなくなってくる。
「ラザー? どうし……」
 聞こえていた相手の声が途中で途切れた。目に光が入ってこなくなる。胸の奥から何か気色の悪いものが這い上がってきた。それを吐き出そうとして前かがみになったら、誰かの身体に触れたような気がした。
 相手の体温が感じられない。俺が触れているのは本当に人間なのか。かつては兵器と呼ばれていたけど、今では人間であることに間違いはないはず。それでもあの温かかったぬくもりが感じられない。これは何がおかしくなったのだろう。相手がおかしくなったのか、俺がおかしくなったのか――。
 誰かに呼ばれたような気がしたけど、もう俺は目を閉じてしまったから、何も分からなくなっていた。

 

 +++++

 

 長い時間を費やして、夢の中を彷徨っていたような気がする。出口のない迷路の中で、同じ道をぐるぐると回っていた。どうしても開かない扉があって、その鍵を道端で拾ったら目が覚めた。最初に視界に飛び込んできたのは、見慣れぬ天井にくっついている照明器具だった。
 俺はベッドの中に寝かされているようだった。身体を起き上がらせると、ここは樹の部屋の中なんだと分かった。肝心の部屋の持ち主の姿は見えない。しばらく何もせずぼんやりしていると、扉が遠慮がちに開いて奥から樹が現れた。
「あ、気がついたのか」
 相手は片手にお盆を持ち、その上に幾つかのお皿とコップが乗っていた。空いている方の手で扉を閉め、ベッドの横まで来て床に座り込む。
「何か食べる?」
「……いや」
 至って落ち着いた様子で相手は聞いてくる。もっと動揺していると思ったけど、目に映る彼の姿は普段のものと変わらない。それはここが彼の部屋だからなのか、それとも話している相手が気を遣うべき人間ではないからなのか。
「下の階では姉貴とリヴァが晩飯食べてるんだ。俺は今からここで食べようと思って」
 お盆の上に乗っているのは彼の晩御飯らしい。大きなお皿に盛られたチャーハンに、玉ねぎと人参のスープが添えられている。俺が倒れた後に完成させたのだろう。まだ温かそうな湯気が両方から出ていた。
 ちらりと窓に目をやると、外はすっかり暗くなっていた。壁に掛けられた時計は八時を指している。まだ眠るには早い時間だが、樹はすでにパジャマに着替えていた。その格好で黙々と晩飯を食べている。俺に対する遠慮など微塵もないようだった。
 ちょっと頭が痛くなって、片手で頭を抱えた。
「あのさ」
 チャーハンとスープを綺麗に平らげ、コップに入った水を飲み、それも終わった後に相手は閉ざしていた口を開いた。
「まだ誰にも知らせてないから。リヴァにも姉貴にも、今日は宿題を教えてもらうって言っといた」
 空になった皿を見つめながら、普段と変わらない声色で話しかけてくる。
 言い返す言葉が見つからなかった。肯定しようにも、否定しようにも、どんな言葉で返せばいいかまるで見当がつかなかった。
「じゃあ俺、食器とか片付けてくるけど……何か欲しいものある?」
「レモネード」
「あ、いや、それは多分ないと思う。ココアとかコーヒーとかじゃ駄目かな」
「だったらココアでいい」
「分かった。ごめんな」
 お盆を持って相手は部屋を出ていった。
 何を謝る必要があったのだろう。俺は彼に対し、何を言ったのだろうか。
 再び部屋の扉が開くと、樹は片手に大きめのコップを持って現れた。部屋に入るときちんと扉を閉め、更にはなぜだか鍵までかけてしまった。
「はい。熱いから気をつけて」
 湯気の出ているコップを受け取る。
 そっと口をつけても熱くなかった。見た感じではすごく熱そうなのに、相手が気を遣って熱くなりすぎないようにしたのかもしれない。両手でコップを持ち、一口飲む。――可笑しいくらいに味が感じられない。
「ラザーって猫舌じゃないんだ……」
 ふと隣を見ると、何やら驚いている表情の樹がいる。驚きたいのはこっちの方だ。
「そんなに熱くないだろ」
「え、そうかな。ちょっとあったかくしすぎたかと思ったんだけど」
「それに味だって全然じゃないか。こんなもの、水でも飲んでいる気分になる」
「そんなはずないだろ? 味は市販のものを使ったんだし……」
「じゃお前が失敗したんだな」
 飲みかけのココアを相手に返す。樹はそれを受け取って一口飲んだ。そしてちょっと顔を歪める。
「……普通の味がするんだけど」
 彼は俺では感じられない味が分かるというのだろうか。しかし、相手は嘘を言っているわけではないようだった。
「だったら俺は、感覚がおかしくなったとでも言うのか」
「えっ――」
 逆にそう考えた方が納得できる。樹は戸惑っているようだったが、俺は薄々そうじゃないかと感づいていた。エダに身体を弄られるようになってから、風の冷たさだとか、肌の感触だとか、そういった感覚がどこか鈍くなっているような気がしていた。今まではそれに気付かないふりをしていたが、どうやらそれは本当のことらしい。事実が分かったなら逃げている場合じゃなかった。それを受け止め、原因を捕まえてやるまでさ。
「あいつに何かされたのかな……」
「あいつって、スイネ――じゃなくて、エダのことか?」
「他に誰がいる」
「そ、そうだよな」
 言葉を吐き出せばすぐに声が返ってくる。かつては誰にも口出しされず、また誰の意見も聞くことができなかった。今のこの状況は幸せと呼ぶべきなのだろうか。
「なあラザー。しばらくは俺の家に泊まっていけよな。師匠の家には戻りたくないだろ? それに、俺もラザーのこと守りたいし」
「守るってどういうことだよ」
「そのままの意味さ。エダが来ても俺が一緒にいるから、すぐに追い出してやるって言ってるんだ」
「ガルダーニアではのんきに寝てたくせに、よく言うな」
「そ、それは……でも今度は! 今度はきっと気付くから」
 からかうようなことを言っても、樹はとても真面目に対応してくれる。
 信用していないわけじゃなかった。彼のお人好しな性格はもうずっと前から知っているし、困っている人を放っておけない事実も偽りなんかじゃないはずだった。それに彼は今までと同じように付き合ってくれている。確かに今はちょっと気を遣い過ぎているところがあるが、それでも俺を軽蔑したり、遠ざけたりなどはしなかった。彼は彼のままで俺と向き合っているんだろう。
 だけど心が騒いでいる。疑わねば裏切られると忠告している。他人を信用するといつか必ず捨てられると、過去の自分が執拗に繰り返している。その考えだって分からなくはないけど、俺はそれでも目の前の少年を信じていたかった。
 小さな彼の部屋で二人きり、周りの世界から隔絶されている。そんな空間に訪れた夜は静かなもので、誰も二人を闇に連れ去ることを許さない刹那であって欲しいと俺は願っていた。

 

 

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