月のない夜に

 

 

 いつもの時間帯に目が覚めた。どうにもこの癖はどこに行っても直らないらしい。周囲は暗黒に包まれてはおらず、照明の小さなオレンジ色が世界を彩っていた。
 俺は樹のベッドを占領していた。対するこの部屋の持ち主は、床に敷いた布団の中に転がっている。彼が言うには隣の部屋から持ってきたらしく、自分のことは気にしなくていいからゆっくり休め、と俺をベッドから出さなかったのだ。
 身体を起こして深呼吸する。今日はとても静かな夜だ。虫の声も聞こえないし、星が眩しく瞬いているわけでもない。それなのに真っ暗じゃないなんて、なんだか少しおかしな感じがするな。
 こんな夜は奴の恐怖さえ忘れられそうで、すぐに油断をしそうになってしまう。それで何度も痛い思いをしたのに馬鹿な話だ。まさかここまで侵入してくることはないとは思うが、それでも確認せずにはいられなかった。ざっと枕の周辺を見回してみても、あの見慣れた紫色の石はなかった。さすがにこれだけ他人との距離が小さければ、奴だって入り込んでくる隙がないということか。それだけでなんだかちょっと安心した。
 いや、まだ安心するには早い。ガルダーニアにいた時だって、石はなかったけどあいつは来ていたじゃないか。あの時は確か後ろから手が伸びてきたんだ。今だってもしかしたら、既に後ろで待ち構えているのかもしれない。
 ぎゅっと手を握り締め、後ろに顔を向けてみた。それは恐ろしい瞬間だった。心臓の鼓動が速くなるのが手に取るように分かって、全てがスローに再生されているように感じられた。何もなければいいと思った。ただ無地の壁が広がっていて、あの獣のような赤い目が見えないことをひたすらに祈っていた。
「よお」
 だけど現実は上手くいかなくて。
「あっ――」
「騒ぐなよ、一緒に沈もうぜぇ」
 赤い目があった。赤い髪があった。俺を突き倒す手があった、俺を踏みつける足があった。
 相手は手で口を塞いできた。もう片方の手には手錠が握られている。またそれで俺を縛る気か。何度も何度も同じ方法で、そんなものが通用すると思っているのか。
 身体は倒されたが、手足は自由だった。だから思いっきり相手の顔を殴った。確かな感触が手に伝わってくる。それと同時に、床で寝ていた樹が驚いたように飛び起きた。
「ラザー!」
「おおっと」
 一瞬で状況を把握した樹は鋭い声を出した。それに気付いた相手――エダは俺から手を離し、一歩離れた位置へと後退する。
 身体を起こすと樹が俺の前に立った。エダと向き合い、俺を庇うように片手を広げる。
「スイネ……なのか?」
「ああ、あんたとはそっちの姿で会ってたか。確かに俺はスイネだが、今は違う。なあ、ヴェインは元気にしているか?」
「ヴェインは俺だ」
「へえ」
 二人の会話が俺の前で飛び交う。どうしてだかそこに簡素な狂気が感じられた。
「アユラツの兵器さん。俺はあんたにゃ用はないんだぜ。用があるのはあんたの後ろの、俺の大事な仕事道具だけなんだ。だからそこをどいてくれないかなぁ」
「道具だって? ラザーは俺の友達だ、誰があんたなんかに渡すかよ」
「お前にとって友達でも、仲間でも、俺には単なる道具でしかないのさ。だけど勘違いするなよ、俺があいつを道具として扱おうって決めたわけじゃない、あいつから道具に成り下がっていったのさ。大事な大事なお友達を守るために体を張ってね……泣き喚くから虐めがいがあるんだよ、まったく!」
 エダは笑っている。あの笑顔にいつも殺されていた。気色の悪い表情。俺の全てを飲み込んでしまいそうだ。
「なあ、兵器さんよ。仲間だとか友達だとか、そんなくだらない友達ごっこ、さっさとやめた方が身のためだぜ。お前はあいつの汚れを知らないんだ。何も知らなかったら何だって言えるもんな、綺麗事で済ませることができるもんなぁ! 教えてやろうか、あいつの秘密を。あいつが暗闇の中で、俺の手の中で、何を見つめ、何を舐め回し、何を口から漏らし、何を触っていたか、今から一つ一つ語って聞かせてやろうか、ええっ、俺と何をしていたか全て話してやろうか!」
「そんなこと、知らなくたっていいだろ。それに俺はもう知ってるんだ、あんたがラザーに何をしていたか、ラザーは全部話してくれたから!」
「へえ! 話したって! あいつがお前に! それはまた……くくくっ、いい話だっただろうなぁ。お前はあいつを抱き締めたんだろう? あいつの為に泣いたんだろう? こんな地の果てで汚れ切ってしまった話を、どうにかして美しいものにして終わらせたかったんだよなぁ? ははっ、いいじゃないか! 美しい友情だって? 信頼できる仲間だって? 似合わない姿だな、ラザーラス! お前はすっかり騙されているよ! この兵器はお前を利用したいだけさ、お前の純粋な心を優しさで支配して、お前の精神を食らおうとしているのさ! 分かるだろう、お前にだって。こいつはお前を見ているが、その目に溢れているのは愛情じゃない。お前は可哀想な人間として映っている――こいつはお前の最も嫌う同情の目で見ているのさ、ロイ・ラトズ!」
「黙れ!」
 ばっと眩しい光が視界を包み込んだ。それは樹によってもたらされたものらしかった。白い光が一瞬間だけ空間を支配し、それが消える頃には、もうエダの姿はなくなっていた。彼はどこかへ去ってしまったんだ。
 肩で息をしている樹の後ろ姿が見える。白い光を放つ前に、彼にしては珍しく強い言葉で叫んでいた。それは何の為の強さだったのだろう。何か後ろめたいことがあったから、事実を消し去ろうと思ったのだろうか?
「ラザー」
 振り返ってきた相手の顔はいつもと少しも変わっていなかった。ただ一つ、額に流れる一筋の汗を除いては。
「ラザー、俺はラザーのこと――」
「何も言うな」
「でも」
「さっさと寝ろ!」
 相手の顔など見ていられなかった。さっと顔を背け、布団の中に潜り込む。そうやって俺が背を向けたから、相手もまた布団に入ったようだった。しばらくすると完全に音が消え、再び静寂の中に放り込まれてしまう。
 同情されても仕方なかった。俺は傍から見れば、とても可哀想な人間なんだろうから。それで同情するなという方が無理な話だった。ましてや樹のような人の好い奴なら、尚更。
 彼が俺に同情していることなど、きっともう分かっていることだった。今更それを告げられたって驚きはしなかったけど、どうしてもやるせない気持ちもある。同情から来る好意など安いもので、ほとぼりが冷めればすぐに離れていってしまうものだ。俺が欲しいのはそんなものじゃない――どれほど時が流れても変わらない、たった一つの愛情の形だったのに。
 身体は何も感じないはずなのに、布団の中がとても冷たかった。肌に何が触れても感覚がなかったから、涙が流れていることにもなかなか気付かなかった。そしてどうして俺が泣かなければならないのか、その理由だけははっきりと分かっていた。分かっていたからこそ余計に悲しくて止められなかったんだ。
 ロイ。やはり俺を愛してくれる人なんて、こっちの世界には一人もいないような気がするんだ。優しい人は同情するし、嫌な奴は笑うんだ。俺の中の光も闇も、全てひっくるめて愛してくれる人なんて、表の世界にはきっと存在しない。だって組織を抜け出してから、表の人たちに会ってから、俺は誰からもキスをされてないじゃないか。刹那の口づけを、永遠の接吻を、額にも頬にも唇にも感じたことがない、誰も俺を愛そうとなんてしなかったから。
『ああ、そうかもね。こっちの世界じゃ、誰も僕を愛してくれないかもしれない。だったらもう希望は持たない方がいいんじゃないかな。冷めた目で人々を眺めて、同情を向けてくる奴を笑ってやったらいいんだよ、きっと。だけどそれほど悲観することじゃないよ、ラザーラス。誰にも愛されてなくたって、僕にはまだ彼がいる。彼なら、いつも守ってくれていた彼ならば、僕を裏切ることはしないはずさ、そしていつでも愛を以て受け止めてくれるはずだよ』
 そう。俺にはあいつがいる、あいつがいたんだ。どんな時でも逃げないで向き合ってくれた人。急いでいても待っていてくれる人。そうだよあいつがいることで、俺はここでも生きていけたんじゃないか。馬鹿みたいだ、俺は、樹なんかに何を期待していたのだろう。あんな子供に愛されたところで、どんな利益があるというのだろうか。
 愛されてないなら利用し尽くしてしまえ。同情で見られるなら突き落としてしまえ。
 だったら引きずり込んでやる。もう戻れぬ深淵の中へ、這い上がれない場所まで落とし込んでやる。泣き喚く声が誰にも届かないように。
 何も見えないなら苦労はしないさ。光なんてまやかしだと思えば気が楽になる。惨めな生命を食らい尽くす幻影は、彼を利用して近付けぬようにしてしまおう。……

 

 +++++

 

 耳の中にしきりに雑音が紛れ込んでくる。それが煩くて目を覚ますと、辺りはもうすっかり明るくなっていた。
「おはよう、ラザー」
 身体を起こすと誰かの声がした。俺の名を親しげに呼ぶ声。そちらに顔を向けると、学校の制服に着替えている樹の姿が見えた。上着を羽織ってボタンをつけている。
「ほら、早く起きないと遅刻するぞ」
 そう言って布団の中から引きずり出される。
 なんて強引な奴。これじゃまるでカイじゃないか。彼は昨日のことなど忘れてしまったのだろうか。いや、きっと覚えているからこそこんなことをしてくるんだ。遠慮をしないことが愛情を表す方法だと思っているのか? そんなもの、浅はかな嘘の見え透いた陳腐な方法じゃないか。
「はい、制服」
 相手は俺に黒の制服を手渡してきた。それを受け取らずに睨み返すと、それでも平然とした顔がそこにある。
「お前、俺を愛するって言ったよな」
 忘れたなんて言わせない。彼は確かにそう言ってきた。
「言ったよ」
「愛してるんなら、俺のわがままを聞け」
「……は?」
 気の抜けたような表情になる相手。それが無性に腹が立って、相手の胸ぐらを掴んでやった。
「お前の優しさは同情じゃないんだろう? お前の気遣いは愛情の表現なんだろう? だったら俺のわがままを聞け。俺から決して離れるな、俺の意見を尊重しろ、俺以外のものを愛するな。それができないなら、お前は俺を愛していないということになる」
 利用してやる。俺の空虚さを埋める役として、彼が死ぬまで利用し尽くしてやる。それが嘘をついた責任だ、俺を裏切った代償だ。こんな奴に情けなどかけてやるものか。見せかけだけの優しさで、俺を支配できると思うなよ。
「……分かったよ」
 樹は反論しなかった。ただ少しだけ不満そうな顔をした。俺は相手から制服を奪い取り、彼の目の前で着替え始めた。俺が着替え終えるまで彼は床に座り込んでいた。
「一階に行こう」
 相手に促され、部屋を出て階段を下りていく。食卓ではリヴァセールと樹の姉が席についており、俺と樹の姿を見つけるとすぐに挨拶の言葉を投げてきた。
 簡単な朝食をとり、家を出ていく。樹は自転車を車庫から出し、リヴァセールは樹の自転車の後部座席に座った。仕方がないから俺は自力で移動することにした。どうせ学校では同じ部屋の中にいるんだ、少しくらい離れていたって平気さ。
 二人を見送って、田舎の道を歩いてみることにした。この周辺にはよく来たことがある。真の家もこの辺りにあるし、近くの空き地には誰もいないから魔法が使いやすい。右を見れば誰かの家の白い壁が見え、左を見れば緑の植木に囲まれた家が見える。空を見上げても電線によって黒く染められていて、足元は全てコンクリートで固められていた。異世界では決して見られない風景。情報化した社会による、現実味のない四角い世界。
 息が詰まりそうな光景だった。彼らはこの世界に溶け込み、繰り返す毎日にすっかり満足し切っている。数字の羅列に追われながら、何も壊すことができずに、埋もれていく生命に向かって手を差し出すこともしない。認めたくないものは幻想だと言い、届かないものは憧れと言って諦める。その中で得られるものは何だろう。泥水に映る青い空は、彼らの未来を全て知っているような気がした。
 あてどもなくうろついていると、誰もいない空き地に辿り着いた。かつてここから樹と真を師匠の家へ送ったことがある。地面は雑草で染められており、周囲は灰色の低い壁で囲まれている。朝のさわやかな日差しが草の緑をみずみずしく演出していた。
 風は俺を裏切ることもなく、そっと頬を撫でて通り過ぎていった。それによる冷たさは感じられなくなったけど、それでも俺は風が確かにここに存在していることは知っている。ずっと昔から、それこそ世界にこの命が生まれる前から、俺はこんな愛を永久に求め続けていた気がした。身体が廃れても消えることのない愛を、気付かぬ場所からぐっと背を押してくれる愛を。
「風に当たっても冷たくなくて、悲しくなったんじゃないか?」
 一つまばたきをすると、目の前にエダが立っていた。
 これは俺の心が見せる幻影か。いや、どうやら本物らしい。しかし今は驚くほどに怖くなかった。なぜなら周囲が美しい光に満ちているから。
「感覚がなくなるのはお前にとって辛いことか? たとえそうだとしても、それは今だけの痛みに過ぎない。お前はいつか近いうちに、感覚がなくて良かったと思うようになるだろう。そんな余計なものを感じなくて救われたと、そう考えるようになるだろう。……その為には続けなければ。陶酔を見る為には、休まず続けなければならないことがある」
 相手は俺の頬に手を添え、ゆっくりと顔を近付けてくる。俺はちょっと目を細めた。何だか頭がぼんやりして、視界までもが靄に包まれてしまったようだ。少し口を開けて待っていると、すぐに唇に柔らかいものが触れた。相手の口から入ってきたものは舌だけではない。何か温かい液体が口内に広がり、それは滑るように喉の奥へと沈んでいった。
「お前はとびきりの宝を手にした。だけどそれは三日間の命だ。切れた頃にまた来てやるよ、それまで大人しく待っていな」
 顔と身体を離した相手はそれだけを言い、風に紛れて去っていった。
 口の中に彼の体温が残っている。身体に注入された液体は粘ついていた。示された愛はただひたすらに純粋すぎて、俺はまた彼の元へと戻っていきたくなってしまったんだ。

 

 

 学校のつまらない授業は少しも変化することがなく、俺の時間を容赦なく引き裂いていった。薫やあかりには髪を切った理由を執拗に訊ねられ、保健室にいた白衣の女性には土日の様子をしつこく訊ねられた。彼らがなぜ俺にそんな目を向けてくるのか分からない。自分達には関係のないことなのに、無視していればいいだけなのに、どうしてつきまとってくるのか俺にはさっぱり理解できなかった。だけど、なぜだろう。彼らは俺に同情しているんだと考えると、それらの全ての答えが綺麗に一致してしまって悲しくなった。
「ラザー、ちゃんと掃除しろよ」
 教室の壁に立って黙り込んでいると、俺の前に現れた樹が箒を手渡してきた。いつか見た光景にそっくりだ。彼は少しも変わっていないように見えるけど、本当はあの頃とはもう何もかもが変わっていたんだろう。
「断る」
「掃除はしなきゃいけないんだってば」
「お前、俺が朝に言ったことをもう忘れたのか?」
 相手は口をつぐんだ。見上げる瞳は鋭い光を秘めている。
 すぐに俺に背を向け、樹は視界の中から消えた。そう、そうやって、俺のわがままに従っていればいい。俺は今、彼の全てを支配している。このまま彼の心を食らい尽くし、彼の身体を盾に組織から逃げてやる。
 掃除が終わると教室は人で溢れ返った。たくさんの人たちが口々に喋り合い、煩わしいほどの騒音を生み出している。本日最後のホームルームが終わると皆が一斉に立ち上がり、教室から出ていく人々の足音が廊下に大きく響いていた。
「おい」
 樹もまた彼らと同じように教室から出ようとしていた。リヴァセールと薫と共に扉をくぐった後を追い、後ろから相手の腕を乱暴に掴む。
「来い、樹」
「え? ちょ――」
 彼らの進行方向とは逆に引っ張っていく。俺は力任せに彼の身体を引きずったが、樹は何も文句を言うことなくついてきた。それがなんだか腹が立って、屋上に着くと手すりの方まで連れていき、いつもの場所で彼を地面に叩きつけるようにして手を離した。
 相手は立ち上がることもせず、俺の顔をぼんやりと見上げてくるだけ。
「な、何か用事?」
「お前は俺の言葉を忘れたのか」
「忘れてないさ」
「俺以外のものを愛するなと言っただろう」
 地面にしゃがみ、相手と目線を合わせる。樹は少し怯えたように俺の顔を見ていた。決して目をそらさずに、俺の目だけを見つめていた。
「お前は俺よりもあいつらの方が好きなんだろう」
「そ、そんなことない。俺はラザーのこと、リヴァや薫と同じくらいに好きだから」
「口では何とでも言えるさ、お前は俺のことなど愛しちゃいないんだ。お前のその感情は同情さ。俺のことが可哀想に見えるから、お前は俺に優しくしているふりをしてるんだ」
「違う、ラザー。確かに昔は同情してたかもしれないけど、でも今は俺はラザーのこと――」
「だったら、お前の愛を俺に示してみろよ」
 誰もいない屋上で、風の音だけが騒ぎ続けている。
 樹は何も言わなかった。困ったように俺の目を見つめ、それでも口を開かずにいたら彼はそっと手を伸ばしてきた。彼の綺麗な手が俺の手を取る。そうして何やら大事そうに、ぎゅっと俺の手を両手で握ってきた。
 これが彼の愛し方? これが彼の接吻? まるで子供だましじゃないか、こんなもの――ただ綺麗事に染められてしまった、汚れも恨みも見えない偽善じゃないか!
 気付けば俺は相手を殴っていた。顔面を一撃、握り拳で加減もせずに。一気に体勢を崩した相手の隙をつき、俺は彼の身体を地面に押し倒した。相手の驚いた顔が一瞬だけ見えた気がした。
 相手の襟元に手を突っ込み、力任せに服をはだける。幾つかのボタンがちぎれて飛び、ばらばらになって周囲に転がった。そのまま下に着込んでいた下着も手で引き裂く。見たこともない彼の胸板が間近に見え、その上に自分の冷たくなった手をぐっと押し当てた。
「ラザー、何を」
「黙れよ!」
 彼の肌に触れている。俺は今、兵器の少年の肌に直接触れているんだ。
 女のように柔らかい肌。きめが細かい、美しい肌だった。まるで体を鍛えてないことがよく分かる。こんな奴が周囲に優しさを振り撒き、世界の為に命を賭けただって。綺麗事しか言えないのはどの口だ? 美しいまま生きていられるなんて思うなよ。
 薄いピンクの唇に接吻する。それは何の味もしなかった。相手は苦しそうに俺の下でもがき、無理に俺を押しのけようとしてくる。お前なんかのわがままが通ると思うな。俺は相手を力任せに押し潰した。相手に自由を与えたりしたくなかった。
 口を離し、相手の顔を見る。樹は顔を真っ赤に染めていた。そしてさっと口元を拭い、何かを訴えているような目でこちらを見てくる。
「お前、初めてだったのか」
「あ……当たり前だろ! 俺はそんな、恋とは縁遠い生活をしてたんだから」
 恋? これはそんなものとは違う。俺はそんなものの為にキスをしたわけじゃない。
「唇で相手の肌に触れること、それが俺にとっての愛を示す方法だ。自分でも馬鹿げた方法だと思うが、俺はもうケキの呪縛から抜け出せないのさ」
「ケキ? それ、誰……」
 接吻による愛し方はケキ譲りの方法だった。幾度となく繰り返された拷問の中で、俺は彼のやり方に吸い込まれていた。自分の手で相手の肌に触れ、舐め回すように触り続け、最後には自分だけのものにすることもケキの方法だった。長い時間をかけて浸み込んだ概念は、そう簡単に捨てられるほど甘いものではなかったんだ。
 相手の細かな肌に手を這わせる。太陽は次第にオレンジ色の光に変わり、冷たいはずの風はひどく荒れて俺の髪をなびかせた。首から胸へ、胸から腹へと力を込めて触っていく。手に伝わる弾力が若々しくて、俺はその肌に口づけせずにはいられなくなった。
「ラザー、待ってくれよ。本当に何をしようとして――」
 すぐ近くから彼の声が聞こえる。唇で触れた肌もまた柔らかく、そのまま舌でもその弾力を味わうことにした。細かい繊維が俺の舌に絡みつき、日に焼けていない白色が彼の純潔を主張している。全てから守られていた美しいものだけど、それは砂の城のように脆く壊れやすい光だった。
 この純粋さ。何者にも汚されていない、世の闇を知らぬ清らかな身体。
 ――壊したい。これを、跡形もなく粉砕したい。そして塵となった後に飲み込みたい。自分だけのものに、誰にも奪われぬ秘密にしたい。
 心が騒ぐ。彼の肩に噛みついた。彼は俺から逃れようとした。俺の手は相手の腕を掴んでいる。
「やめてくれよ、ラザー、どうか落ち着いてくれ!」
 落ち着けだって。俺は落ち着いているじゃないか。普段の俺とどこが違うというんだ、何も変わっていやしないはずなのに!
 相手は後ろへ身体を引き、立ち上がろうとした。だけどそんなことを許せるものか。地の底へ引きずり込むように彼の腕を引っ張った。相手はまた地面に倒れ、それでもすぐに立ち上がろうとする。
「なぜ……」
 両手で肩を掴み、相手を地面に押し付ける。
「なぜそんなに拒むんだ、お前はそんなに俺が嫌いか!」
「違う! 嫌いなんかじゃない、嫌いじゃないけど、こういうのって違うだろ!」
「違うだって、違うだって! だってお前は知らないだろ、こんなこと、生きる世界が違う奴らしか望まない行為だと思ってるんだろ! お前は俺のことなど分かってないんだ、俺がどれほどの苦しみを、どれくらいの悲しみを味わったか、絶望も、憎悪も妬みも通り過ぎて、全ての感覚を失って喜ぶくらいに壊れていったあの日々を! 俺は、ああ! 壊れていない、壊れてなんかないだろ、まだこの心を抱えているじゃないか、なのに、どうして! 見えないものを、見えるものを、信じられないんだよ――もう世界にあるあらゆる全てを信じられないんだよ、俺の世界は壊されたから!」
 頭が痛い。胸が痛い。手が痛い、足が痛い、全てが痛い。もう感覚なんか残ってないはずなのに、一体どうしてこんなことが! 頭を手で抱えたけど痛みは消えない。うずくまって目を閉じたけど消えるはずがなかった。歯を食いしばって我慢しても痛みは続く。惨めに涙を流しても痛みが俺を笑っていた。
 そうやってうずくまり、どれくらいの時が流れただろう。
 ゆっくりと目を開けた時、俺は夜空の下に存在していた。顔を上げると樹の目が見えた。彼は俺の背に手を回し、優しげにさすってくれていた。制服のボタンはちぎれたままだった。
「ラザー。行きたい場所、ある? そこまで俺も一緒に行くから」
 手放したくなかった。遠ざかりたくなかった。だから頷いた。何も思い浮かばないままに頷いた。

 

 +++++

 

 俺は今までの生活の中で、幾度となく他人の家に足を踏み入れていた。
 目に映った欲しいものには容赦なく手を伸ばし、家の持ち主に見つかったらその命を奪ったことも数え切れないほどあった。それについて後悔しているというわけではないが、今ではそういった行為が良くないことだということを理解できるくらいにはなっている。他人に迷惑をかけてはいけないということ、他人の幸福を踏み躙ってはいけないということ。そういうことなのだと解釈し、俺は自分を納得させている。
 異世界の森の奥、誰も足を運ばないような場所に、故人の一軒家が建っていた。俺は樹を連れてそこまで飛んだ。訪れるのは久方ぶりだが、質素な木造建築の家は何も変わっておらず、俺と相手に対し戸惑うことなく扉を開いてくれた。
「ここは?」
 家の外から屋根を見上げながら樹は問う。俺は中へ入り、埃の溜まっている机に触れてみた。
「エダの兄の家」
「スイネの? あいつ、兄なんていたんだ」
 樹もまた中へ入ってくる。主人を失って閉まっていた扉が開き、家の中はかつての活気を取り戻した。
「ここがラザーの行きたかった場所?」
 黒い瞳がまっすぐ見ている。
 俺はなぜこんな場所に来たのか分からなかった。もとより行きたい場所なんてなかったから、適当に思い出した場所に向かっただけかもしれない。それでもそこに何か理由がなければならない気がした。そうしないと目の前にいる彼が俺に背を向け、どこか遠い場所へと走っていってしまいそうな気がしたんだ。彼を手放したくない――俺が安全に組織から逃げられるよう、まだまだ使い切っていないんだから。
 相手の後ろに回り、入り口のドアを閉める。風が入ってこなくなると静かになった。辺りは夜なので何も見えないくらいに暗くなり、机の上に置いてあった蝋燭に火を灯した。
「しばらくこの家で生活する」
 何も考えてなかったはずなのに、何やら大きそうなことを俺は言っていた。そんなことは誰も知らないことだった、俺だって知らなかったんだから、相手だって分かっていないはずだった。
「俺も一緒にいた方がいい?」
「忘れたのか、俺から決して離れるなと言っただろう」
「あ、そ、そうだったな」
 わがままで彼を振り回している。それでも何も文句を言ってこない相手。
 自分でも子供みたいだと思っている。でもわがままを止めることができなかった。自分勝手な理由で相手を繋ぎとめておきたかった。もう二度と誰かに怯えることのないように。
「もう寝ろ」
「え?」
 相手を休むように催促したのに、それに対して返ってきたのは疑問の声。不必要なくらいに不思議に思えたので相手の顔を見てみると、何やら間の抜けたような、それでいてちょっと腑に落ちないような、そんな顔をしていた。
「どうした。眠くないのか、お前は」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
 ならばなぜそんなに不満そうな顔をする。お前は俺に何を求めている?
「何もしなくて……いいのか?」
 何も、とはどういうことなのか。彼は俺に何を期待していた?
「お前、屋上での続きを期待しているのか?」
「期待なんてしてないって!」
 さっと顔を赤らめる相手。……分かり易い奴。
「食いたきゃ食えよ。こんな汚い身体、誰に食われたって構いやしない」
「そんなふうに言うなよ、せっかく親に貰った身体なんだから大事にしなきゃ」
「樹。俺は綺麗事が嫌いなんだ。俺の前で綺麗事を言うな」
 ちょっと睨むと相手は口を閉ざした。綺麗事しか言えない彼では、俺に声をかけることすらできないのだろうか。
 樹は黙って廊下の奥へ消えた。家の中など初めて見ただろうが、この家はそれほど大きくないから迷子にはならないだろう。俺はしばらく椅子に座っていた。蝋燭が溶けてなくなるまで揺れる火を見つめ、それが消えた頃にはもう意識を失っていた。

 

 

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