月のない夜に

 

 

 救われると思っていたのだろうか。何かが変わると待っていたのだろうか。揺るがぬ気持ちを支えていれば、誰かが俺を闇の底から掬い上げてくれると思っていたのだろうか。俺の苦しみも悲しみも全て漏れることなく汲み取ってくれると、そう考えてずっとじっとしていたのだろうか。
 朝が来ると樹は俺に挨拶した。短い一言だけを言い、余分なことは何も喋らない。俺は椅子に座ったまま眠っていて、目の前の机には溶けた蝋燭の跡が生々しく残っていた。俺の席の前に座った樹は学校の制服を着ていたが、そのボタンはみっともないくらいにほとんどが外れたままだった。
「ラザー、学校には行かないのか」
「行かない」
「俺は行っていい?」
「構わない。けど、授業が終わったらさっさと帰るんだ。寄り道なんかするな、まっすぐここまで飛んでくるんだ」
 樹は文句を言わなかった。ただ黙って一つ頷いただけ。
「ちょっと待て」
 家を出ようとする相手に声をかける。相手は振り返ってこちらを見た。
「その上着じゃ恥をかくぞ。今日は俺のを着て行け。代わりに屋上でちぎれたボタンを集めて来い」
「うん」
 相手に上着を手渡す。ボタンの外れた上着を脱ぎ、相手は俺の上着を羽織った。ちょっとサイズが大きくてだぶだぶだった。
「行ってくるよ」
 去っていく相手を家の中から見送り、姿が消える前に扉を閉めた。
 誰もいなくなった家の中、俺は一人だけ取り残された。活気のない室内は未知なる世界ではなく、かつて訪れたことのある懐かしい地であった。記憶を頼りに家の中を歩き回ってみる。部屋の数はそれほど多くはないが、台所や風呂などは一通り揃っていて、生活するには困らないくらいの設備だった。元の持ち主は一人暮らしだったからベッドは一つしかないが、使われていない部屋の中にはたくさんの絵とキャンバスが無造作に置かれてあった。
 エダの兄――名はアートといい、彼は芸術家だった。周囲の人間からは変わり者扱いされていたが、俺にとってはどこが変わっているのかさっぱり分からなかった。絵を描くのが好きな青年で、どんな時でもスケッチブックを持ち歩いていた。彼の描く色彩が世界を作る様はいつだって、クトダム様が語る物語と同じように輝いていた。
 暗いカーテンの閉まった部屋の中に、多くの未完成の絵がごろごろと転がっている。そのどれを眺めても人物は描かれていなかった。美しい自然が多少の美化を受けて存在し、熱い炎の中でぐらぐらと揺れている。彼の息遣いが感じられそうな絵ばかりだった。
 棚の中にもたくさん絵がしまわれてあったが、それをわざわざ引っ張り出すのはやめておいた。元々俺は絵になんか興味はないし、故人の遺品をあさる趣味だってない。暗い部屋から出て扉を閉め、廊下を歩いて別の部屋に入った。そこはバスルームらしく、長い間使われていなかった風呂が質素に存在していた。
 思えば俺はもう一週間以上風呂に入っていなかった。以前の生活では考えられないことだ。こんなに髪が汚れるまで放置するなんて、何があろうと我慢できることじゃなかったはずなのに。
 簡素な湯船に水を入れ、魔法を使って瞬時に温めた。着ていた服を上下ともに脱ぎ、アニスの十字架をその上に置く。これを外すのは風呂に入る時だけだったが、最近じゃエダにしょっちゅう外されていたから悲しくなってくる。俺がこの十字架を外せないのはアニスを救えなかったからであり、また彼女が死後も安心して眠れるよう祈り続けている証拠でもあった。
 ヨウトから電話がかかり、エダに仕事を押し付けられて。屋上で朝を迎える日が続き、家にもろくに帰れなくなってしまった一週間。湯の中に身体を入れると感覚がなくてぞっとした。でも数日前から俺の細胞に浸み込んでいた奴の全てが洗い流されていくようで、頭から湯をかぶって髪の汚れも一緒に落としてやろうと思った。ここにはシャワーがないから自分で湯を頭からかけるしかなかった。上から落ちてくる湯が汚いもののように見える。そればかりか自分が浸かっている湯も汚い泥水のように思えて、気分が悪くなって胃の中のものを吐き出してしまった。
 もうずっと何も食べてなかったから、吐き出したものは全て胃液だった。不老不死だから空腹は感じない。不老不死だから睡眠は必要ない。不老不死だから傷はすぐに癒え、身体が成長することもあり得ない。樹はそれを気色悪いと言った――お人好しだったあいつが俺に初めて言った、俺を根本から否定する言葉だった。振り返ればそれは皆を遠ざける為にわざと言ったことだったらしいが、それでもどこかでその感情があったからこそあんな言葉が出てきたのだろう。俺はそれを否定しなかった。それに怒ることも、嘆くこともしなかった。そう言われることに慣れていたから、あいつの言葉を信用してなかったから、何一つとして感じることなどなかったのだろう。俺はあの時はあいつを見ていなかった。そして今だって同じように、あいつを認めようとしていないんだろう。
 風呂から出ると湯は全て捨てておいた。身体をタオルで拭き、いつもの黒服に着替える。濡れた髪を櫛で梳いてみると長さが揃っていないことに気付いた。でも鏡もハサミも見当たらなかったから、俺にはどうすることもできなかった。
 何もせずにぼんやりと過ごしていると、何時間か過ぎた後に玄関のドアが開いて樹が入ってきた。俺は相手が持っている鞄を奪い取り、逆さにして中身を全て床の上に落とした。何冊かの本とノートがばさばさと開いて落ちていき、ペンケースが開いて中のシャープペンシルや消しゴムがばらばらに飛び散った。落ちた物の中には数個の制服のボタンも含まれていた。
 相手は何も言わずに床にしゃがみ、本やペンを無視して制服のボタンだけを拾い上げ、立ち上がって俺に差し出してきた。俺は腕を組んで相手の黒い目をじっと見る。その最奥に潜む謀をこの手で掴んでやろうと思った。そうやって見つめ続けていたら、相手は目をそらし、また床の上にしゃがみ込んだ。散らばっていた荷物を鞄の中に押し込み、掃除が済んだら立ち上がって廊下の奥へと消えていく。俺に差し出していた制服のボタンも残らず持っていったようだった。痛くなった頭を手で押さえると、また彼に苛々し始めてしまった。

 

 

 樹はベッドのある部屋で座り込み、器用そうに制服にボタンを取りつけていた。紺色の糸を針に通し、ボタンを一つ一つ丁寧に固定していく。姉との二人暮らしが長いせいか、彼は身の回りのことは全て自分で行っていると言っていた。料理や掃除なんかはよく見聞きしていたことだったが、裁縫までできるとは知らなかった。
 俺が部屋に入っても相手は作業に没頭して顔を上げなかった。背中でちょっと音を立てながら扉を閉めるとこちらを振り返ったが、それでもその重い口が開くことは決してなかった。俺が許さなければ喋ることさえできないと思っているのだろうか。いいや、きっと彼は、自分が吐き出す言葉は全て綺麗事だと分かっているから、俺に対して何も言えなくなってしまったんだろう。俺は相手の隣に座った。そして彼の作業が終わる時を黙って待っていた。
 全てのボタンをつけ終えると、樹は制服を前に掲げて満足げに頷いた。
「終わったのか」
 相手はこっちを見た。そしてちょっと微笑んで見せた。
「今日は制服貸してくれてありがとう」
 既に脱いでいた俺の制服を手渡し、お礼の言葉を投げかけてくる。とても和やかそうな表情だった。嘘など見えない開けっぴろげの窓のようだった。
 彼が考えていることが分からない。
 なぜ彼は俺に文句を言わないのだろう。なぜ俺のわがままな行為を叱らないのだろう。他の奴ならとっくにそうしている、カイとか真とかだったなら、自分勝手なことをして他人を困らせるなと言って怒ってくるだろう。頬を紅潮させ、大声を張り上げながら、俺の誤りを頭から終いまで切々と訴えてくるだろう。それなのに彼は何も言わない。それなのに彼はただ笑っている。何事もなかったかのように、普段と少しも変わらない様子で、俺に気を遣っているようにも見えないままに。それは彼の優しさだろうか、彼の同情なのだろうか。いや違う、もしそうだったなら、俺を慰めの言葉で無理に包もうとしてくるはずだ。
 何を考えているのか見えてこない。普段通りの彼であればあるほど、何も見えなくなって混乱してしまう。彼は俺に優しくしていないのだろうか。俺を同情の目で見ていないのだろうか。だとすれば、彼はなぜここにいるのだろう。なぜ俺の言葉に反対せず、俺のわがままに黙って従い、それでいてこんなに穏やかに微笑んでいられるのだろう。これは幻だろうか――俺の弱い心が切望している、自分にとって都合のいい幻想なのだろうか。
 夜になると樹は夕食を食べ、一つしかないベッドに入って静かに眠った。俺は眠くなかったから彼にベッドを貸し与えた。そして彼が眠っている部屋で座り込み、平和そうに寝ている彼の横顔を眺めている。スーリが可愛がっていた少年の寝顔はとても愛らしく、だけどどこか空虚な精神が顔の上に見え隠れしているように感じられた。
 ずっと起きていても誰も部屋に入ってこなかった。もうエダの手からはすっかり逃れられたようだった。あまりに簡単に逃げられて拍子抜けしたが、それだってこの気色の悪いもやもやした気持ちに比べたら大した問題じゃない。今の俺にとっての強敵とは、目の前で無防備に眠っている兵器の少年だけだった。いっそ殺せば楽になると思った。けどそれだけはアニスとの約束でできなかった。
 翌日になると、樹は昨日と同じように学校へ向かった。俺は家に残って暇を持て余した。なんとなく椅子から立ち上がると眩暈がして床に倒れた。そのまま意識を失って、気が付けば俺はベッドの中に押し込まれていた。
 体中から汗が流れていた。思うように身体が動かせない。わけもなく全身がだるくなる朝と同じような感覚だったが、実際には何も感じられなかったからどんなことが起こっているかも分からなかった。
「調子が悪いんなら休んでた方がいいって」
 そう言って樹は俺をベッドから出さなかった。水の入ったコップを手渡してきて、心配そうに顔を覗いてくる。渡された水を飲んでも冷たいのか熱いのかさえ分からなくて、なんだか夢の中の出来事のように思われた。
「何か欲しいものある?」
「いや」
 黙り込んでいた昨日とは打って変わり、今日の相手はよく喋った。それでも必要以上のことは何も言わず、俺が黙ってじっとしていれば相手も同じように座っていた。樹は夜になるまで俺のベッドの傍で座り込み、一人で学校の宿題をしているようだった。途中で風呂や便所に行く為に何度か立ち上がったが、それ以外はずっと俺の傍にいた。
「晩飯だけど、ラザーも食う?」
 樹は夕食にパンとスープを用意していた。俺のベッドの隣に小さな机を置き、その上に夕食を広げている。パンは市販のものだったが、スープはどうやら手作りらしい。温かそうな湯気が絶えず皿の上に溢れていた。
「そのスープをくれ」
「これ、俺が作ったんだ。結構上手くできたと思うんだけど」
 身体を起こしてスープの皿を受け取り、スプーンで一口だけ口に運んでみた。
 何の味も感じられない。
「どう? ちょっと薄かったかな」
 もう一度口に運んでみる。スプーンが食器に触れて小さな音を立てていた。
 結果はやはり変わらなくって。
「もういい」
「えっ、でも」
「味が分からないんだ、これ以上飲んだって無駄さ」
 押し付けるようにして相手にスープの皿を返した。
 熱さも感じない、味も分からない。俺の神経は眠っているように機能しない。全身の感覚が麻痺しているようだ。何にぶつかっても気が付かなくて、心が変動することもない。
 このまま放置しておけば、いつかは聴力や視力までもがなくなりそうで怖い。それらが失われれば俺は死んだも同然だ。真っ暗闇の中で、自分がどういう状況かも分からずに、何に触れているかも、誰に見られているかも知ることができず、永遠に孤独な心を抱えて生き続けなければならなくなる。肉体は死んだのに精神だけが生きているような、そういった状態になってしまうんだろうか。だけどそれでは、もう生きていると言うことは不可能だろう。
 そう考えると、今ここで視力や聴力があってすごく救われていると感じることができる。今や俺を支えているのはその二つだけのような気がした。目が見えるから状況が理解でき、耳が聞こえるから誰かの思いを知ることができる。もし光を奪われたらどんな心持ちになるか――それが今更分かったような気がした。俺は過去にあいつから、ロスリュから光を奪ったことを今になって後悔しているのだろうか。
 壁に背中を押し付け、天井を見上げる。腕も足も自由に動けるけど、どこか空虚さを感じずにはいられない。感覚がなくなったことが突然悲しく思えてきた。今まで当たり前のように感じられてきた様々なものが、俺から手を離して姿をくらましてしまったんだ。
 もう冬の肌寒さを感じられないのか。もうナイフの痛さを感じられないのか。二度と服の肌触りを知ることができず、料理の味を楽しむこともできないのか。樹が作ったスープの味も、いつものカイの無駄に美味しい料理の数々も、もう俺には理解できないものになってしまったのか。口に入れても何の味も感じられず、何か異質なものが溶けていく様子しか分からないのか。人々が笑い合う理由を知ることができず、多くの人たちの幸福を垣間見る夢だって叶わない。こうなったなら、身体なんてなくなったようなものだった――奇しくも俺が望んでいた結末が、ここにきてはっきりと俺に姿を見せたんじゃないか。
 笑おうと思ったら咳が出た。何度も繰り返して苦しくなってくる。樹が心配して背中をさすってくれた。でも俺はその手の感触を分かることがなかった。
「ラザー、熱があるんじゃ……」
 咳が治まると樹は俺の額に手を当ててきた。熱だって。風邪をひいたとでもいうのだろうか。今日は家から出ていないのに、どうして風邪にかかるなんてことがあるんだよ。
「明日は俺、学校休むよ。家にいるから」
 そう言って樹は俺をベッドに寝かせた。こいつは俺を心配しているのだろうか。馬鹿な奴だ。俺の正体を忘れたのか。
「お前、俺は不老不死なんだぞ。不死身なんだぞ。俺なんかの身体を心配してどうする」
「でも咳が出るのはつらいし、熱が出たら苦しいだろ。それに身体だってだるくなるだろうし」
「だるくなんかないさ。もう俺には感覚などなくなったんだから」
 俺の言葉を聞いて樹は動揺したようだった。ますます不安げな瞳でこっちを見てくる。
「感覚がないって、それ、まだ続いてたの――」
「お前のスープの味も分からなかったし、さっき背中をさすっていた手だって感じられなかったからな」
「な、なん……なんでそういうことを平然と言うんだよ」
 平然と、だって? これでも結構困惑してるんだぞ。当たり前のことが当たり前じゃなくなったんだから、状況を理解しようとしてもなかなか納得できない部分がある。
 もう目を閉じて相手を無視しようと思った矢先、樹は急に立ち上がってベッドの掛け布団をばっと床に落とした。ちょっと驚いて黙っていると片手をぎゅっと握ってくる。
「俺の手、感じるだろ?」
「感じない」
 樹はさらに身を乗り出してきた。今度は反対側の手を握ってくる。
「こっちは感じるんだろ?」
「そんなわけあるか」
 手を離すと彼は俺の頬に手を当ててきた。そのままぐっと顔を近付けてくる。
「何も感じないって思ってるから感じられないんだ。本当はずっと感じてるんだろ?」
「馬鹿なことを言う奴だな」
「だって、こんなこと!」
 目の前で大声を出すな、うるさいんだから。
 手で適当に樹を追い払い、寝返りを打って壁に顔を向けた。もう樹なんかに付き合っていられない。あいつは納得できない事実を否定することによって消そうとしているんだ。そんな方法はただの現実逃避だ、夢の見過ぎだ。世の中綺麗事ばかりじゃ片付かないことだってある。
 樹は俺に布団をかぶせた。その行為は同情から来たものだろう。可哀想なラザーラスという人間の為に彼は明日学校を休むと言う。馬鹿馬鹿しい、熱があるからって看病なんか必要ないのに。
 夜が過ぎて朝が来ても少しも眠れなかった。ここ最近ずっと眠っていない気がする。気を失ったことを除くとすれば、俺は感覚だけじゃなく睡眠まで失ってしまった気がした。
 こんな不安定な生活を続けて、俺は何を得ようとしているのだろう。

 

 +++++

 

 その日の夕方、質素な家に客が来た。
 正確に言えば窓の外でうろついている客を見つけた。ただの迷子なら無視しただろうが、そいつは俺の知っている奴だったからつい声をかけてしまったんだ。
 薄い水色の髪を持つ、この世に実体を持たない少年。そいつはつまり、組織の一員であるヨウトだった。
「いやぁ、助かったよ、ロイ。今ちょうどティナアさんとケキさんに追いかけられてるところでさぁ」
「何か失敗でもしたのか? お前にしては珍しいじゃないか」
「失敗じゃなくって、ちょっとした反抗心だよ。最近の組織のあり方について疑問を持ち始めてね――」
「ご立派じゃないか、組織のはしくれが」
「それは君のことでしょ、ロイ。ところでこの子が兵器の樹君? ずいぶんと可愛らしい顔をしてるね」
「お前が言うか、お前が」
「あ、あの……」
 場違いな奴の声が紛れ込んでくる。それによって俺とヨウトの会話は瞬時に殺されてしまった。
「ラザー、この子は」
「さっき言っただろ、ヨウトだ。組織の一員」
「そういうことじゃなくって。大丈夫なのか? その……組織の人と一緒にいても」
 妙なことを聞いてくる奴だった。笑ってやろうと思ったが、樹は何やら真剣そうな顔をしていた。
「大丈夫だよ、樹君。僕はロイをとって食べたりしないから。そうするのはケキさんやティナアさんくらいだよね」
「そしてエダも同類だった」
「あれ、そーなの? そういや君、エダさんに仕事頼まれてたよね。終わったの?」
 嫌なことを聞いてくる。
「あれはもう終わったことだ」
「ふうん? ま、別にどうだっていいんだけどね。それより問題はティナアさんだ。あの人の几帳面な性格は本当に嫌になっちゃうよ」
「なあヨウト」
 せっかくここで会えたんだ、今はこいつを最大限に利用してやろう。俺はこいつの性格を知り尽くしている。お喋り好きな相手のことだ、聞けば何でも答えてくれるはず。それに彼は俺のことを嫌っているわけではないらしいから。
「なあに、ロイ。でもその前に僕の話を聞いてよ。僕は今、どうやらティナアさんのお気に入りになっちゃったみたいなんだ。それで散々追いかけ回されたんだけど、もうしばらくは組織に帰りたくないね! ねえロイ、君はいつもどうやってティナアさんから逃れてたの?」
「どうやってって――あのおばさんに特別何かをしてたわけじゃない。ただ自分の部屋にこもってただけさ」
「ていうかなんで僕がティナアさんに気に入られたのかが理解できない。君の代わりかな?」
「そりゃあれだろ、お前、あのおばさんの死んだ子供に年が似てるからだろ」
「あれ、そーなの? 知らなかった。よく知ってるね、ロイ。さすがは組織のはしくれだ」
「……お前、言葉の使い方間違ってるぞ」
 ヨウトは無邪気そうに笑う。その顔はいつか見たティナアの子供たちにそっくりだった。中でも兄の方に姿が重なる。その場しのぎとはいえ、あんなこと、言わなければよかった。
 後悔が俺を襲ってくる。初めて人を殺した記憶。初めて警察に捕まった刹那。甦るのは泣いていた自分ばかりだ。そしてあのティナアの泣いている姿を見れるのは、俺のかすれて鮮やかな記憶の中だけだった。
「それでロイの話は何? 退屈しのぎに聞いてあげる」
 ふわりと優しげに微笑むヨウト。それを見て一気に現実に呼び戻された気がした。
「あ、ああ。ここ最近、なんか感覚がなくなったんだけど……これって何なのか分かるか?」
「感覚がなくなったって。はぁあ、それはきっとエダさんの悪趣味に付き合わされたね。平然としてられるのはケキさんの拷問を経験したからかな? 他の連中はもっと恐ろしい顔をして聞いてくるよ、なんだかよく分からないことを叫びながらね」
「そんなことはどうでもいい、治るのか?」
「治るっていうか、それ、一時的なものだよ。薬の効果だから」
 ヨウトの口から嫌な言葉が飛び出してきた。
 よりにもよって薬かよ。これは治まるのに苦労しそうだ。まったく、今から疲れてくる。自然とため息が出てきてしまった。
「まあまあ、そう落ち込まないでよロイ。一度くらいなら大したことないって。それに君みたいな図太い精神の持ち主なら――」
「俺の心はガラス細工より繊細なんだ」
「あーあー、そうだったね。でもケキさんの拷問を乗り越えられた君なら、どんな繊細な心でも気合いで守ることができるはずさ」
「ほんの少しの傷でもすぐに全体に広がっちまうんだぞ」
「広がる前にガムテープをどうぞ! たとえば、ここにいる樹君とかどう?」
「そいつじゃ話にならんな。むしろ反対側からもう一つの傷を作られそうだ」
「なるほどなるほど。樹君は君を同情の目で見ているのか。それにしたって君、なんでそんな人と一緒に住んでるの? 同情されるのは嫌なんでしょ?」
「あ? そりゃお前……」
 ふと気が付けばよく分からない話になっていた。そして俺とヨウトの間に挟まれている樹がおろおろとした様子でこっちを見ていることが分かった。
 なんでこいつと一緒に住んでるかだって。そんなもの、この馬鹿な兵器を利用する為に決まってるじゃないか。こいつを傍に置いて俺の盾にする。そうしてエダの魔の手から逃れようとここまで走ってきたはずだった。
 だけど、エダがこの家を見つけていない今。もう樹の存在など必要としないんじゃないだろうか。それなのにまだ俺は彼を独占していたいと考えている。この矛盾が示すものは一体何だというのだろう。
「俺はエダが嫌いなんだ」
「分かってるって、そんなことは。ついでにケキさんとティナアさんと警察の連中も嫌いなんでしょ。何回聞かされたと思ってるの、まったく!」
「俺がここに樹と一緒にいるのは、樹を愛しているからなのか?」
「知らないよー、そんなの! 君は彼を嫌ってるようにしか見えないけどなぁ」
「俺だって知らない」
 そう、知らない。俺は俺の心を知らない。声に出して言うことによって初めて何も知らないことを知った。そしてそれを知ることによって俺は知らないことを知ろうと思った。
 俺は樹の顔を見た。樹は緊張したように顔を強張らせている。どこか怯えているように見えなくもない。この幼い兵器の少年を、俺は愛しているとでもいうのだろうか。彼のどこを? 優しい性格を。一体いつから? 親しげに話してくれるようになってから。
 いつの間にか定着していた仲間という意識。初めて知らされた友達という感覚。それらをまっすぐに導いてくれたのが樹だったことは言うまでもない。彼は俺に手を差し伸べ、微笑みかけ、仲間として、友人として、ごく普通に俺と接してくれた。信頼できる人だった。愛すべき存在だった。だけど彼はきっと、俺を同情の目で見ているんだろう。
 同情してくる奴は嫌い。同情はどんな罵声よりも辛く突き刺さってくるから。それなら足で蹴られる方がいい、世間の笑い物になる方がましだ。俺はいつもそう考えながら生きてきた。
「分からないなら確かめてみたら?」
 歌うようなヨウトの声が俺の目を覚まさせた。
「彼にキスしてごらん。それができたら、君は彼を愛してるんだ」
「な、なん――」
 自分でも顔がさっと赤くなったことが分かった。
「あれ、なんで赤くなるの」
 キスができたら、俺は樹を愛してる、だって。
 馬鹿な! だったら俺の悩みは意味を成さなくなってしまう。だって俺は、俺は、もう既に彼にキスをしてしまっていたのだから。それも頬じゃなく、額じゃなく、直接彼の唇に触れてしまっていたんだから!
 俺は彼を愛してるのか。同情を向けてきた相手を愛しているのか! どうしてこんなことになってしまったんだ、なぜこんな子供に心を向けてしまったのだろう! 俺が彼を手放したくなかったのは彼を愛していたからなのか、俺が彼を利用しているのは彼を愛しているからなのか! 彼にわがままを言って困らせているのも、彼を蔑んで相手にしていないのも、彼の中に逃げ場を求めていたからなのか――心のどこかで彼の存在を認めていたからなのか! 馬鹿な、こんな奴、すぐに俺の前から消えていってしまうのに! 一時の快楽に身を任せるのか、刹那の夢に酔い潰されるのか、俺は!
 目の前の景色がかすむ。頭がぼんやりとしてきた。昨日から続いている風邪のせいだろうか。ヨウトと樹の顔がぐるりと世界を回ったように見えた。
 産まれてきたのは一度死んだ精神だった。俺はそれを大事に抱き抱え、誰の攻撃からも守ろうと思っていた。だけど一瞬の油断のせいで壊されてしまった。粉々に砕け散ったそれは元に戻らずに、大勢の通行人たちに踏み潰されてしまったんだ。拾い集めても欠片が足りなかった。すごく小さいから見失ったらもう手に入らなかった。だけど今、俺はそれを抱えている。抱えて誰かからの攻撃に備えているんだ。
 薄れゆく意識の中、俺は樹に大事なものを壊された幻覚を見た。そうして笑う彼の姿は恐ろしく、でも両目から流れる涙は苦しいほどの痛みを俺にまっすぐ伝えてきたんだ。

 

 

 次に目を開いた時、世界は夜に包まれていた。
 蝋燭の光が部屋を照らしている。樹はまだ眠っていないらしく、机に向かってペンをしきりに動かしていた。ヨウトの姿はどこにも見えない。あいつは自在に姿を消すことができる奴だが、気配も感じられないからどこかへ行ってしまったのだろう。
「樹」
 相手の名を呼ぶと素早くこっちを見てきた。俺は起き上がる気になれなかったから、ベッドに寝そべったまま話そうと思った。
「ラザー、あのヨウトって子は帰ったよ」
「だろうな。あいつは一つの所に留まりたがらないんだ」
 樹は笑っていない。俺も笑えなかった。
「お前、寝ないのか」
「もうちょっとしたら寝るよ。あと一問で予習が終わるから」
 また勉強をしていたのか。熱心な奴だな。俺は予習なんて一度もしたことがない。
「けどこれがなかなか難しくってさぁ……ラザーなら分かるかな、数学の問題なんだけど」
「貸してみろよ」
 もう学校になんて行っていないけど、数学なら分かるような気がした。自信があるわけじゃない。でもなんとなく、あの頃の癖で、つい口をついて出てしまった誘いだった。
 樹は俺に参考書を手渡してくる。ちょっと身体を起こし、そこに書かれてある文章をざっと読んでみた。
「……お前これ、授業でやった記憶があるぞ」
「えっ、うそ? わ、忘れたのかな、俺」
 授業の内容が随分昔のことのように甦ってくる。仕方がないから樹にその記憶通りに教え、答えを導くまで幾度も助言を重ねてやった。一つの問題を解くのに三十分以上費やしてしまったらしく、答えに辿り着くとなんだか大きなため息が出てきてしまった。
「ごめんな、風邪ひいてるのに教えてもらっちゃって」
 そうして詫びるように手を合わせてくる相手。ちょっと殴りたくなってきたが、とりあえず抑えておいた。
「じゃあ俺も寝ようかな。おやすみ、ラザー」
「待てよ、どこで眠るつもりだ」
 この家にはベッドが一つしかなく、それを現在占領しているのは俺だ。いつもはなんだかんだで樹がこのベッドを使っていた気がする。いや、でも昨日は俺が使っていたんだった。彼はどこで眠っていたのだろうか?
「俺は床の上で充分だよ。いつも昼寝する時は床の上で寝てるしさ。ラザーは風邪ひいてるんだから、身体温めて寝なきゃ駄目だろ」
 温めてと言われても、悪寒も温かさも感じないんだから、どうすればいいのやら。
「入れよ」
「は?」
 身体を壁の方へ寄せ、かぶされていた布団を大きくめくった。そして力を込めて相手の腕を引っ張る。
「ちょ、ラザー、子供じゃないんだから……」
 何やら文句を言いながらも、若干顔を赤くした樹が素直に俺の横に寝そべった。めくっていた布団を元に戻す。
「つーか、これじゃ風邪うつされそうなんですけど」
「道連れだ」
「酷い……」
 無防備な奴だった。同じ布団の中で転がっているのに、手を伸ばせばすぐに届く距離なのに、少しも警戒した様子が見られない。本当に幸せな家庭で育ったんだろうな。犯罪とかそういうものとは縁遠い生活を送っていたのだろう。
 憧れているのだろうか。彼のことが羨ましいんだろうか、俺は。
「なあ、樹」
「ん?」
 話せば声が返ってくる。いつしかそれが俺の常識になっていた。
 俺は彼の方に身体を向け、相手の肩に両手を置いた。ちょっと手に力を込め、締め付けるようにぎゅっと握ってみる。俺と向き合っている相手は少しだけ痛そうな顔をしたが、それはさっと闇の中に消えてしまった。
「本当のことを言えよ。嘘を言ったら殺してやる。その口を開くまで、この手を離すことはないと思え。……お前は何を考えて今まで生活していた? 俺のわがままに文句も言わず付き合っていたのはなぜなんだ?」
 彼の本音が知りたかった。だから逃げられないように捕まえて聞いた。
 相手はしばらく驚いたように黙っていたが、やがてゆっくりと小さな口を開く。
「分からないんだよ」
「何が」
「どうしたら、以前のようなラザーに戻ってくれるのか分からなくって。ラザーが満足すれば元に戻るのかと思って文句を言わなかったんだけど、優しくしたら優しくするほどラザーは苛々してるように見えたんだ。だから昨日と今日とかさ、本当にどうしようってずっと悩んでたんだ」
 その心はどこから出てきた感情なのか。同情から? 愛情から? どちらか教えてくれよ、俺に優しくしたいんなら、そのどちらなのかをはっきりと教えてくれたら一番安心できるんだから。
「樹、俺はお前を愛しているらしい」
「そんなこと言われても、困る……」
「何が困るんだ、お前は俺を笑うのか」
「笑いはしないけど、なんかそれって違う気がする。何と言うか、こう……友人として愛してるっていうより、恋人として愛してるって感じがする」
「……お前、本物の馬鹿だろ」
 呆れて手を離す。相手はなんだかきょとんとした顔でこっちを見ていた。そんな顔をされても今の言葉は撤回しない。
「そう思いたいならそう思ってろ」
「いや、だって! なんか本当にそんな感じがしたんだってば」
「ふうん。それで? それを聞いてお前はどうしたいんだよ」
「どうって……どうもしないけど」
 からかうとなかなか面白い奴だった。相手は今ではすっかり顔を赤くしている。
「お前、俺と堕ちてみる?」
 熱で頭がやられているようだ。だけどこの時の俺は、とても楽しそうに笑っていたのだろう。
「どういうこと?」
「つまり――こういうことさ!」
 そうして長い夜が始まっていく。

 

 

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