月のない夜に

 

 

 朝の光に照らされて目を覚ます。隣に誰かが寝転がっていた跡がくっきりと残っており、ベッドの外で何かがしきりに立てている音が俺の耳に届いた。
「よお」
「ひゃっ」
 声をかけると変な声が返ってきた。背を向けていた相手がこちらに振り返ってくる。
「昨日は疲れたか?」
「う、うるさいなっ」
 靴下を履きながら顔を赤くする樹。なぜこうも彼は、こんなにもからかいがいがあるのだろう。寝起きで頭が働いていないはずなのに、俺の思考は普段以上に鋭く尖っているようだった。
「そういやキスも初めてだったな。これで予習は完璧ってところか?」
「……服、洗濯しといたから。乾いたらちゃんと着ろよ!」
 樹は勢いよく部屋から飛び出した。朝から随分と元気な奴だ。
 起こしかけていた身体をもう一度ベッドの中に沈める。裸のままだから寒いだろうに、そういった感覚はまだ俺の中に戻ってきていないようだった。
 だけど、昨日。ぼんやりとした頭のままで樹の皮膚に触れた時、俺は確かに彼の体温を感じたような気がしていた。それこそ熱が見せた幻覚かもしれないが、今でもこの手に彼の温もりが残っているように感じられる。
 あの長い夜、俺は彼を食った。骨の髄まで食らい尽くそうと時間をかけて彼に触れた。彼は戸惑ったように目を大きくしていたが、残っている記憶の中ではとても素直に従っていた。彼が拒めば俺はすぐにでも止めただろうか。彼の意思を尊重して発言の自由を与えただろうか。でも彼は何も言わなかった。ただ黙って俺の愛を受け止めていた。嫌じゃなかったのだろうか。こんな罪人に綺麗な肌を触れられて、あらゆる身体の秘密を探られることを、彼は嫌悪の目で見たりしなかったのだろうか。俺は拒んだのに。叫んで泣いたのに。絶望して快楽に堕ちて、もう身体なんて要らないと思ったほどだったのに。
 同じ苦しみを与えようとして失敗した。彼は拒まなかったんだ、何の為に? 俺の為にだ。彼は俺と元のように付き合いたいから、ただの友達として仲良くしていたいから、俺の苛々している原因を優しく撫でる必要があったんだ。彼は俺の為に我慢した――いつか俺が彼の為にこの身体を捧げたように。
 綺麗なものを見ると壊したくなる。そうした衝動が俺を突き動かしたのだとしたら、それは何と浅はかな行為だったのか――熱のせいもあるだろうけど、それだけで許されることではないんだろう。
「……熱のせいって、おい」
 身体を起こす。やけに頭がすっきりしている。でもそのおかげで頭痛がした。その原因は間違いなく俺自身の行動だった。
「馬鹿か俺は。帰ったらちゃんと謝ろう……」
 なんだか妙に大きなため息が出た。

 

 +++++

 

 五時が過ぎても樹は帰ってこなかった。苛々する。こんなに遅くなっても帰ってこないなんて、一体どこをほっつき歩いているんだろう。
「ただいま……」
「遅い!」
 俺が怒鳴りつけると、樹は開いていた扉を閉めて外に逃げ出してしまいそうだった。そうさせない為に彼の腕をあらかじめ掴んでおく。
「何をしていたんだ、言え」
「居残りさせられてたんだよ、小テストで合格点に届かなかったから」
 のんきな奴だな。そんなに勉強が好きか。
 彼の顔を見たら真っ先に謝ろうと思っていた。けど、今は苛々していてそんな気分になれない。相手をその場に残して俺はいつもの部屋に引っ込んだ。そうしてしばらく立ち尽くしていると、恐る恐る開いたドアから樹が怯えた顔で部屋の中に入ってきた。
「ごめん、ラザー」
 謝罪の言葉。
 なぜそんなものを聞かなければならない。それを言うべきなのはお前じゃない、俺が先に言うべきだったのに!
 俺はベッドの上に腰を下ろした。樹は小さな机の前に座り込む。彼の茶色の目が闇の中に沈んでいた。俺はそれを黙って見つめるだけ。
 伝えたい言葉は口から出てこない。それを取り繕う言葉なら、いくらでも出てきそうだ。俺の口は開きかけた。だけどそこから出てくるだろう台詞を思うと唐突に嫌な気持ちになって、歯を食いしばるようにぐっと口を力任せに閉ざしてしまった。
 ベッドから立ち上がり、樹の隣に座る。彼との距離はとても近かった。これくらいの距離で真と話したことがある。触れられそうで触れられなかった、あの頃の他愛ない会話の数々を思い出してゆく。
 相手の頬に手を当て、ぐっと顔を近付けて軽く唇にキスした。一度距離を開け、再度相手の唇に吸いつく。今まで信用していなかった人間を相手に、俺は一体何をしているのだろう。本当に頭がどうかしてしまったみたいだ――。
「ラザー、あの」
「黙れよ」
 唇を離し、相手の制服のボタンを外す。一つ一つ丁寧に外す手が震えるなんてことはなく、俺には自分がとても冷静でいられたことがよく分かった。だけどその落ち着きとは裏腹に、脳内では巨大な混乱が渦を巻いている。俺は何をしているのだろう、何を相手に望んでいるのだろう? 今朝に反省したばかりなのに、また昨日と同じことを繰り返そうとしているのだろうか?
 樹が抵抗しないから、上半身はすぐにはだけることに成功した。俺は手を伸ばしてそこにある肌を感じる。既に無くなった感覚を信用せず、目を閉じて彼の鼓動を全身で感じた。生きている生命の音。存在する生命の温もり。俺にはない神秘の魂。憧れて切望した刹那の花びら。……素晴らしいものを前にしている。これを愛するなと言う方が無謀なことだった。
 目を開け、相手の顔を見た。息を吸って吐いている、とても美しい顔があった。俺は彼の肩に顔をうずめた。中途半端に長い髪が、彼の肌に触れながら揺れていた。
「樹、お前には俺の傷が見えるのか? お前には俺の感情が分かるのか? 短い時の中で終える一生の先端で、お前は一体何を導き出すというのか……」
「ラザー?」
「お前は俺の傷跡を癒せるだろうか。お前は俺の負の感情を受け止められるだろうか。かつてロイが言っていた、本来憎むべき相手に、こういったものをぶつけてやればいいって。俺にとって憎むべき相手とは、他でもないお前のことだった、樹……お前を憎むべきだったのに、俺はお前を愛するようになってしまったんだ」
 彼がいなければ、組織に入ることはなかった。彼という存在がなかったなら、ケキやエダに食われることはなかった。彼の為にスーリが作られたというのなら、俺は彼らの事情に巻き込まれて殺された哀れな魂の一つにすぎない。俺が憎むべき相手は彼だった。俺の人生を根底から狂わせていった相手とは、この優しくて人の好い世界を救った幼い少年だったんだ。
 俺は彼を憎めるだろうか。彼に俺の中に溜まっている負の感情を全てぶつけ、彼の身体を業火の餌とし、彼の精神をむさぼり尽くすような真似ができるのだろうか。できないはずだった。昔なら間違いなくできたはずなのに、すっかり仲良くなってしまった今では、そんなことができるはずがなかったんだ。俺は彼を愛しているのだと気付いた。彼に躊躇いなくできる接吻がそれを表している。自分の人生を狂わせた相手である樹を愛し、彼の中に逃げ場を求めているままでは、俺は彼を憎むことができなかった。彼を蹴落とすことができなかったんだ。
「お前を愛したなら、俺はどうすればいいのか分からない。奴らに食われる度に溜まっていった感情を、他者の生命を奪うたびに封印してきた負の思いを、一体何にぶつければ救われるというのだろう。憎むべき対象を失った今、俺に残されている道はどこへ続いているんだろうか。お前はそれを知っている? お前は俺が見失った光を導き、目の前に光明を示してくれる人間だというのだろうか」
 目を閉じる。何も見えなくなる。暗闇が俺を包む。どこか遠くの方から笑い声が聞こえる。
 俺はどこにいるのか分からない。俺は何を信じているのか。どこへ繋がる道の上に立ち、誰が待つ未来へ歩いているのだろう。共に手を取り合う人がいるだろうか。罠を抜けられる知識があるだろうか。永遠に追いかけられ、刹那から追い出され、輪廻を壊そうと企んでいるのではないだろうか。だけど心は安定に満ちている――誰が俺を止めているのだろう。俺を優しく見守ってくれているのは誰だろう。
 ふと肌に十字架を感じた。胸に吊るされているアニスの十字架。どうしようもなくそれを見たくなって、目を開けて服を脱ぎ捨てた。胸に光る十字架は美しい。全ての穢れたものを洗い流してくれるようだ。俺はこれに守られているのか。ここに存在するアニスの心が、俺の傷跡を優しく癒しているのだろうか。
「それ、大事なものなの?」
 黒い目がこちらを見ている。俺はそこから視線をそらし、そっと手で十字架に触れた。感覚がないから存在が分からない。だけど、なんだか温かいものに触れたような気がしたんだ。
「これはアニスから貰った物。彼女が最後に残した物。俺が彼女を殺す直前に、アニスは俺に微笑みかけたんだ」
 いつも夢で泣いていた少女。会いに行けば笑ってくれた。だけどその笑顔を見るたびに、そこに潜む大きなヒビに怯えそうになっていた。
「殺したって、どうして――」
「彼女を愛していたから。壊れないように守りたかったから。だけど結局俺は壊してしまった。彼女の心と体、両方を俺の手で壊してしまった。……俺は彼女を守れなかった。彼女を絶望という魔物から守れなかった。彼女が死ぬことなんてなかった、俺が死ねばよかった、いやあいつが死ねばよかったのにって思うけど、でもそれはもう終わったことだ。俺は彼女の十字架を背負って生きなければならないんだ」
 会うたびに大きくなっていったヒビ。見せてくれるのは今にも壊れそうな笑顔。たくさんの本に囲まれ、薄ぼんやりした光の下で、彼女は一人きりで救いを求めていた。俺はそれに気付いた。それに気付いて守ろうと思った。だけど夢に出てくる彼女はいつも泣いている。笑ってくれるのは現実だけ。彼女は何かに耐えていると知っていた。何に耐えているかも知っていた。父親に、組織の連中に、精霊たちに、一般の人間たちに。俺は彼女を抱き締めた。でも直接肌に触れることはできなかった。怖かった、力を抑え切れない自分が触れて、彼女の全てを壊してしまいそうで怖かった。彼女はとても綺麗なものだった――だけど俺はそれを壊したくなかった、ずっと綺麗なままでいて欲しいと願っていた!
 だから、キスなんてできなかった。俺の愛し方を押し付けることなど、汚らしすぎてできなかった。彼女だけには自分の闇を見せたくなかった。でも本当は見つけて欲しかった。彼女はやがて気付いた。彼女は俺の為に泣いた。夢の中で見た光景が現実に重なった。だけど俺は彼女の為に泣くことさえできなかった。
 代わりに叫んでいた。彼女に近寄る人々を徹底的に排除した。でも彼女はそれを否定した。人の命を奪うことをやめて欲しいと言ってきた。俺には理解できなかった。連中を殺さなければ彼女が傷つくのに、なぜ彼らを庇うのか全く分からなかった。
「アニスは誰にも逆らえない人だった。初めて会った時も、俺が無理矢理彼女の部屋に侵入したんだ。だけど彼女は驚いた顔でこちらを見ただけで、俺を部屋から追い出そうとはしなかった。彼女の部屋から目的のものを見つけると、俺はさっさと組織に帰っていった。俺もまた組織の中では誰にも逆らえない人間だった」
 そう考えると、俺はアニスと似ているんだな。大人の事情で使われて、誰の命令にも反抗できなくて。輪廻からはみ出した闇の人間だ、永遠を突き付けられた哀れな魂だ。あの頃の自分なら、そんな人など嫌っていそうなものなのに――。
『そう、嫌わなかった。君はアニスを嫌うことができなかった。だって君は彼女を別の目で見ていたから。彼女を愛しているわけではなく、自分の姿と重ね合わせて彼女に同情していたんだ』
 同情? それは違う。俺は確かに彼女を愛していた、他の誰よりも守りたいと、そう思いながら日々を過ごしていた。それだけは嘘じゃない、偽りの感情ではなかったはずだ。
『いいや、君は彼女に同情していた。或いは彼女を通して見ていた自分に同情していたんだ。自分とよく似た境遇の彼女を同情し、自分とよく似た性格の彼女を守ろうとした。それはつまり自分に同情し、自分を守ろうとしていたことに他ならない。君は彼女を守ることによって自分を守っていたんだ、上から落ちてくるたくさんのものに目を向けないように、確かな逃げ場を作る為に君は彼女を利用していた!』
「違う!」
 俺はアニスを愛していた、彼女を利用するなんてこと、そんなのは全部でたらめだ! 俺はアニスの為なら何だって捨てられた、彼女の望む全てを叶えてやりたかった! 俺は確かに愛していた――一人の人間として彼女を、光の溢れる世界へと連れて行きたかったんだ!
『嘘さ、それこそでたらめに過ぎないことだよ、ラザーラス! だってお前は彼女に何もしていない。お前は彼女に触れることさえ躊躇った。これがどういうことか分かってないんだね、だったら聞くけれど、ラザーラス。君はなぜ、彼女にキスをしなかったんだ?』
「そ、それは……壊れそうだった、から」
『いや、或いは君は本当に彼女を愛していたかもしれない。君の愛の示し方は、本当は愛情の表現じゃなかったんだろう。君はキスをすることによって愛情を示していたが、愛すべきアニスにキスをしなかったのならば、それは愛情を示す表現じゃなかったことになる。何もせずに見守ることが本当の愛の示し方だったんだ。だったら、ラザーラス。お前は誰を愛していたことになる? アニス、クトダム、真、リンゴ、ヤウラ、カイ、それに樹……お前はそのうちの二人にキスをした。それが誰だったか、お前ははっきりと覚えているはずだ』
 耳元で囁く声は、ロイじゃない。
「クトダム様と、樹――」
『そう。クトダムと樹にお前はキスをした。即ちお前は彼らを愛していないということだ。お前が彼らをどんな目で見ていたかは知らない、だけど君は、彼らを愛しているようで、本当はこれっぽっちも愛してなんかいないんだよ!』
「違う! 俺は彼らを愛して……」
『だったらお前はアニスを愛してなかったんだ、お前が言っていたことは全て嘘だったんだ!』
「そんなことは、そんなことが!」
 分からない。自分の気持ちが分からない! 俺は何を愛していて、何を愛していないのだろう。昔からケキに植え付けられた方法は、一体俺の何を示しているのだろう!
 俺はアニスを愛していたのか、俺はクトダム様を愛していなかったのか? あの人から受けた接吻は愛情じゃなかったのか、あの人に贈った全ては嘘に彩られた遺物だったのか? 違う、それは違うはずだった。俺は確かにあの人を愛していた、今だって同じように! だったら俺はアニスを愛していなかったのか、彼女にどうしてもできなかったキスは、それを顕著に表しているとでもいうのだろうか! いいや! 自分が彼女に惹かれていたことは分かっている、彼女の涙を見たくなかったから、彼女を守ろうって決めたんじゃないか! 彼女をこの手で壊した時、経験したことのない絶望と恐怖と後悔にひどく苛まれていた。あれは幻じゃなかった、俺の全ての細胞に浸み込み、俺を内側から破壊しているように感じられていた! あの感覚が物語っているのは、彼女を愛していたという事実に他ならない。愛していないなんてことはなかった、だって俺は! 俺は――でも、それだと、どうしてキスができなかったのだろう。ほんの少し、頬に触れるだけでも、額に触れるだけでもよかったのに。それができなかったのはどうしてなのか!
 俺の方法は間違っていたのか? あれは俺の思い込みだったのか? ケキにすっかり毒されてしまったと、そう思っていたのは誤解だったのだろうか? ならばクトダム様に捧げた接吻、あれは一体何だったのだろう――俺はあの人を愛していたから、あの人の唇を静かに受け止めたんじゃなかったのか? それに、樹。今も目の前で困ったようにこちらを見ている樹。俺は彼を愛している。もうその事実を否定したくはない、仲間として、友達として、俺を受け入れてくれた相手を裏切りたくはないんだ。もしアニスを愛していると言ったならば、俺は彼を愛していないと言わねばならないのか。馬鹿な! そんなこと、あってはならないことだった。俺は彼を裏切りたいなんて思っていないんだよ、もうずっと前から、永遠に!
「樹、俺はお前を――」
 相手の肩に手を置き、黒の瞳を覗き込む。
 いや、俺は、本当に彼を愛しているのだろうか。今日になるまでずっと疑っていたじゃないか、自分は彼を利用しているんだって、彼が自分に向けているのは同情だから、相手のことなんか少しも好いちゃいないんだって思っていたじゃないか! だけど、もう否定できない――苦しいくらいに、否定できない! 失いたくない、この信頼を、この平穏を、自分だけのものにしていたい! 誰にも邪魔できないはずだ、誰も奪っていいはずがない、ようやく見つけた光の案内者を、どうか俺から遠ざけないでくれよ! ああ、もう本当に、心が砕かれてしまいそうだ――頭がどうかなってしまいそうだ!
 失いたくない、奪われたくない。
「樹、俺は、俺は、嘘なんかじゃなかった――俺は嘘なんか一つも言わなかったんだよ!」
 眩暈がした。
 力が入らない。俺は樹の胸へ倒れ込んだ。頭痛と吐き気が心を襲う。もう二度と起き上がれない気がした。
 このまま永遠の眠りにつくことができたなら、俺はどれほど救われたことだろう。もうナイフを持つこともできなかった、銃の引き金を引くこともできなかった。俺は永遠に食われている――決して終わることのない命を盾に、永遠という名の巨大なものに全てを捧げていたんだ、俺はずっと!
 救いを求めることなど、無謀なことだったんだ。光を求めることなど、無駄なことだったんだ。この忌まわしい生命がある限り、俺は普通の人間に戻ることはできない。彼らと同じ空の下で生きていても、彼らの残す炎を見つめても、俺は彼らと別の大地に立たねばならないんだ、彼らに憧れても天はそれを許してなどくれないんだ!
 だったら、もう要らない――彼らと共に過ごせないのなら、もう俺は俺なんか欲しがらない。
 雨の下にさらしてしまえ。地の底に埋めてしまえ。
 そして二度と見つからぬよう、扉に鍵をかけてやろう。この手で造った精巧な鍵を、何重にも重ねて封印してしまおう。
 目を覚ましても淋しくならないように、ずっと、永久に――……。

 

 

 

目次  次へ

inserted by FC2 system