月のない夜に

 

 

 誰かを幸福に導く為には、誰かが犠牲にならねばならない。
 自らの幸福が誰かから奪い取ったものだというのなら、その誰かは俺が笑っている時に悲しみに追いかけられているかもしれない。俺が苦しくて絶望に沈みそうになっている時は、他の誰かがこの上ない幸福に満たされている瞬間かもしれない。俺は今、そのどちらに属しているのだろう。幸福であるのか、それとも誰かの為に泣いているのか。
 窓から見上げる空は美しい。悩み事なんか何もなく、ただ広大に広がる空には汚れなど一つもない。
「……」
 分からない。
 俺はどうすればいいのか分からない。空に問いかけても答えは返ってこない。誰に尋ねても最後には自分で決めなければならないように。
 部屋の中には静かに眠っている青年がいる。ついさっきまでは怯えたように震えていたけれど、今はとても落ち着いているようだ。彼の銀髪が蝋燭に照らされて輝いている。だけどいつか見た太陽の下での姿の方が、今よりもうんと輝いて見えていたはずだった。
 不老不死の青年。とても大事な俺の友達。毎日学校で顔を会わせ、何気ない話で盛り上がっていた相手。ラザーラス・デスターニス。彼のことなら分かっているつもりだった。過去の話を聞いて、俺は彼の全てを理解したと思っていた。悩み事を相談されたら、親身になって答えてあげるつもりでいたんだ。
 だけど、俺は彼のことなど何も知っちゃいなかった。彼の事実のひと欠片すら見えていなかった。俺は分かっているつもりだった、彼が教えてくれた相手の深淵を、世界から見放された数々の魂の軌跡を、彼の吐き出す言葉の群れから共に経験しているつもりでいた――なのに、今。ここではっきりと示されたのは、情けなささえ通り越すくらいの無知だった。幻滅だった。俺は何も知らない、体の中で渦巻く知識は、どれも中途半端な感情のない紙の上の言葉だった。俺は何も見えていなかったんだ。
 もう目をそらさないでいようと思っても、彼の深淵が計り知れなくて怖くなる。何か俺が触れてはならないものを持っているようで、垣間見る彼の瞳に潜む絶望が俺を食らい尽くしそうで恐ろしい。逃げちゃ駄目だと、そう言い聞かせても、どうしても足が震えて踏み出せなかった。そんな俺を叱るように彼は俺の身体を求めたんだろうか。
 からかうような相手の手の感触が今でも残っている。肩も首も胸も足も、全て同じものであるかのように撫でた手が温もりを落としていた。それを拾い集めて思い出している。あれは何だったのだろう、夢だったのだろうか、だけど翌日に聞いた彼の言葉は、その事実を強調しているように思われた。
 彼は怒っていたんだ。情けない俺を奮い立たせたくて、言葉にはしなかったけど叱っていたんだろう。だからあんな行動に出たんだ。
 俺は、もっとしっかりしなければいけない。今のまま、彼のわがままに付き合って、家の中に二人きりで孤独に蝕まれているようじゃいけない。立ち上がらなければ、声を上げなければ、何も始まったりはしない。突き動かすには俺がどうにかしなければならないんだ!
 冷たい空気が身体を包む。
 もう二度と泣いたりしない。泣く時は、彼が泣きたくても泣けない時だ。俺は彼の為に犠牲になろう。自分を守る時は、彼が俺を求めた時だけだ。
 痛みを繰り返さないで済むように――。

 

 +++++

 

 夜が明けて朝が来る。今や見知らぬ人の家で迎える朝にもすっかり慣れてしまいそうだった。
 床に寝そべっていた体を起こし、ベッドの中を確認する。ラザーはぐっすりと眠っていた。学生ならもうそろそろ起きてもいい時刻なのに、本当に彼は朝に弱いんだな。
 パンとジュースで簡単な朝食をとる。全て食べ終えてもラザーは起きてこなかった。部屋に戻ってベッドを覗いても、死んだように眠り続けている相手の姿が見える。無理に起こしたらまた怒られそうだし、とりあえず置き手紙でも残して出かけようか。
「ええと……」
 今日は日曜で学校が休みだ。ラザーがそれを知っているかどうかは分からないけど、とりあえずの口実は作っておいた方がいいかもしれない。
『久しぶりに家に帰ってきます。夕方には帰るつもりです。――川崎樹』
 嘘をつくことは躊躇われる。でも、彼を安心させるにはこう書くしかないような気がしたんだ。
 ほんの少しの言葉を紙に書き、それを机の上に置いておく。俺は部屋を出て扉を閉めた。そして少し目を閉じる。
 次に目を開けた時、俺は自分の家の前に立っていた。世界が安定し、ジェラーの魔法によって欠陥品じゃなくなってから、俺は師匠から移動術を教えてもらっていた。最初はさっぱり成功しなかった魔法だけど、ここ最近では自在に操れるようにまでなってしまった。それが何かの暗示のような気がしていたけど、今から考えると、それはラザーの為に習得できた力のような気がする。この生活に困らないよう、誰かが意図的に俺の魔力を操っているような、そんな感じの。
「やっと来たね、樹」
 後ろから声をかけられる。振り返るとそこにはリヴァが不満そうな顔で立っていた。
「上官は忙しいんだからさ、あんまり迷惑かけちゃ許さないよ?」
「分かってるって」
「本当に?」
 家の裏に回り込み、誰もいないことを確認してからリヴァが呪文を唱え始める。
 俺は昨日から彼の上官に会うことを決めていた。リヴァにその話をしたらやたらと理由を聞かれたが、それだけはどうしても言うことができなかった。俺がラザーと一緒に住んでいることはまだ誰も知らない事実だった。姉貴には友達の家に泊まると言ってあるし、薫やリヴァにはちょっと事情があるとしか言っていない。俺は何より彼らに迷惑をかけたくなかったし、心配されて詮索されてもラザーを苛々させるだけだと分かっていたから、事が収まるまでは誰にも話さないでいようと思った。その選択が正解なのか誤りなのかは分からない。だけど、今はこのままでいいと思った。全てが終わった後なら、どんな痛みでも懐かしく感じられるものだろうから。
 異世界にある警察の本部に着くと、リヴァの上官であるヤウラさんが出迎えてくれた。綺麗な金髪を持つ厳格そうな顔をした男の人。その風貌には警官の証である青い服がよく似合っている。
 ヤウラさんは俺たちを自分の部屋まで案内してくれた。彼の部屋は本部の隅の方に隠れたように存在しており、他の部屋と比べても明らかに小さいことが分かるくらいに狭い部屋だった。小さな空間の中に机と本棚が窮屈そうに並べられており、それ以外のものは何も見当たらない。俺が部屋に入るとリヴァはすぐに呪文で別の場所へ飛んだ。なんでも今日はアレートと会う約束があるそうで、なんだかそわそわした様子で呪文を唱えていた。
「それで、話とは?」
 改めてヤウラさんと向き合う。彼の底のない瞳に吸い込まれそうだ。
「ラザーのことで、ちょっと……」
「ラザーラス? あいつが君に迷惑をかけたのか」
「いや、そういうことじゃなくって」
 思わず目をそらしてしまう。なかなか言いたい言葉が出てこない。聞きたいことは山ほどあるのに。知らなきゃならないことばかりなのに。
「あの、アニスって……誰ですか?」
 つい口から出てきた疑問は本当に聞きたかったことだろうか。
 俺の台詞を聞いて相手はちょっと顔色を変えた。その厳格な顔つきがさらに厳しくなる。何か聞いてはいけないことを聞いたのだろうか。でも俺だって知りたかったんだ、ラザーが幾度も口にしていたその人のことを。
 俺はもっとラザーのことを知らなきゃならない。彼を救う為には、もっともっと彼の真実に近付かなければならないんだ。そうしなきゃ傷を癒すこともできないし、苦痛を分け合うことだってできない。俺は彼を救わなければならないから――彼が俺を愛しているのなら、俺もまた、彼を慈愛の感情で包んでやらねばならないんだろう。同情でもなく、恋情でもなく、一人の人間を深い暗闇から掬い上げる光として。
「君は確か、契約者だったな」
「え? あ、はい」
 ヤウラさんの言葉が意味深に響いてきた。どうしてここでその話が出てくるのか分からない。まるで関係のない話のような気がするが、まさかという感覚は心のどこかにはあったのだろう。
「あいつの言うアニスとは、おそらく精霊アニスのことだろう。今はもう彼女は生きていないが――」
「精霊……その精霊が、ラザーと仲が良かったんですか」
「そんなことを聞いてどうするんだ」
 思いがけない答えが胸を突き刺す。俺はびっくりして、言葉が続かなくなってしまう。
「君は彼のことをどんなふうに見ているんだ」
「どんなふうにって――俺はただ、友達を助けたいって、思って」
「たとえ君がそう思っていても、彼にとってはただの迷惑な行為に他ならないかもしれない。君が誠実な人間であることは、幾度もアスラードから聞いて俺はよく知っている。しかしその誠実さが逆に誰かを追い詰める結果になるということも大いに有り得ることなんだ。今の君は急ぎ過ぎているように見える。そのままの状態では、とてもじゃないがアニスのことを教えることはできないな」
 非常に落ち着いた瞳から強い光を感じる。
 帰れと言っている。俺に身を引けって言っているんだ。俺なんかの出る幕じゃないって、出来損ないの兵器なんかじゃ何もできやしないって、彼はそう言っているんだ。でも、このまま引き返せるだろうか? ラザーをあの小屋に一人きりにして、どこか遠くの方に自分だけが逃げられるだろうか?
「あ、あんたは……」
 誰が俺を止めていた? 何が俺を戸惑わせた? それは彼が――。
「あんたはラザーじゃない。なのに、どうしてそんなことが分かるんだ」
「しかし彼は君を認めていなかった。俺にはっきりとそう言ってきた」
「それだって嘘だったかもしれないじゃないか。彼は昔は泥棒で人殺しだったんだろ? だったら嘘なんか躊躇いもなく――」
「川崎殿」
 じっとしたまま動かない何かが、俺の全てに侵食し切っていた。
「確かにあいつは泥棒で人殺しで、嘘つきだった。ただし彼にはどうしても嘘がつけない相手が二人いた。その一人とはつまり彼自身であり、もう一人は私だったんだ」
 恐ろしい光だった。
 自らの光が弱々しいものに感じられる。この壁の前では太刀打ちできるはずもなく、いつの間にか通り過ぎていた道を振り返らねば許してくれないような気がした。
 俺がラザーのことを探るのは良くないことだというのだろうか。だけど、俺だってどうしていいか分からないんだ、それが分からないから彼のことをもっと知ろうと思ったんじゃないか。それ以外にどんな方法がある? どういった手段を使ったなら、彼の瞳に光を取り戻せるというのだろう!
 途方もなく深い穴に落とされた気分だ。尋常じゃない圧力を感じ、普通じゃない方法を探さなければならないなんて。
「……すみません、仕事の邪魔しちゃって。俺、もう帰ります」
 俺には相手に頭を下げることしかできなかった。

 

 

 家の近所の空き地の中で、一人立ち尽くしている。
 俺はなぜ、ラザーを救わなければならないんだろう。
『だから、ねえ、あなたはどうか、――』
 それは俺じゃなきゃならないのだろうか。真やカイやヤウラさんでは駄目なんだろうか。
『きっといつの日か、そんな人が現れるだろうから。――』
 逃げ出してはいけないのだろうか。投げ出してはならないのだろうか。
『それこそがあなたという命』
 これこそが俺の姿? これこそが俺の理由?
 空がゆっくりとオレンジに染まる。あいつと共に見た、美しい景色はもうどこにもない。
 俺は彼に対して、一体何をしたいのだろうか。

 

 +++++

 

「なあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
 翌日、学校でリヴァを捉まえた。相手はきょとんとした表情でこちらを見てくるだけで、何かを疑っている様子は少しもない。放課後になるまで待ち、皆が帰ると相手を屋上に連れ込んだ。冬の冷たい風が俺の心を焦らせていた。
「あのさ、お前って精霊に詳しかったよな」
「まあね。なに、聞きたいことって精霊の話なの?」
「ああ――」
 誰かの笑い声が奥の方で響いている。それは俺たちの所までは届かない距離だった。
「アニスって精霊、知ってるか?」
「うん」
 軽い返事が返ってくる。それはあまりにも、無防備すぎやしないだろうか。
「アニスは治癒属性の精霊だよ。回復呪文の専門だね。君は契約してないんだっけ? ぼくは精霊の中では彼女が一番好きだったよ」
「好きって――なんで」
「なんでって、そりゃ、すごく優しい人だったし……それに」
 なぜだろう、頭痛がする。知れば知るだけ遠のく気がする。それなのに知りたいと思ってしまう。彼の次の言葉を待ち構えている自分がいる。
「アニスとの契約には上官と一緒に行ったんだよ。ぼくはまだその頃は他人のことなんて信用していなくって、上官にさえ反抗してた時期だったんだ。それで、上官に連れられてアニスに会いに行って、契約しようと話をしてたんだけど、途中で誰だか知らない子供に邪魔されたんだ。そいつがこっちの話も聞かないでさ、ただ帰れ帰れって頑固に言うんだよ。それでぼくは、ちょっと頭にきてちょっかい出しちゃったんだよね、彼に。そしたら倍以上の反撃が飛んできてね――殺されるかと思ったよ。でも上官が身を呈してぼくを守ってくれたんだ。相手の刃物を全部真正面から食らってね。ぼくはびっくりしたよ。そしてやっと、ぼくは上官に守られてるってことに気付いたんだ」
 アニスとの契約を邪魔した子供。帰れと言って話を聞かなかった子供。それがラザーだ、昔の彼だ! 彼がアニスを愛していたのは本当のことだったんだ!
「アニスは怒っている子を落ち着かせて、上官の傷を回復してくれた。そして何もしないままにぼくと契約してくれた。彼女はぼくに笑いかけたよ、そして上官を大切にしてやってと言ってきたんだ。彼女はぼくにとって特別な精霊なんだ。今のぼくがあるのは全て、彼女のおかげと言ってもいいくらいに」
「いい人、だったのか? ……」
「そうだね、いい人だよ。君のようなお人好しってわけではないけど、物静かで儚げで、とても綺麗な子なんだよ。ぼくは何度か彼女に会いに行ったことがあるけど、あんまり長居してると例の少年に追い出されるんだ。ここ最近は様子を見に行ったことがないけど、今も元気にしてるのかな」
「え?」
 今もだって? ラザーの話でも、ヤウラさんの話でも、もうすでにアニスはいないことになっているはず。リヴァはそれを知らないのだろうか、それとも彼らの話が作り物だったのだろうか?
「え、って何? 君はぼくのことを信用してないの?」
「そういうわけじゃないけど――でも」
「いいよ、だったら、アニスのとこに連れていってあげる。ぼくも久しぶりに挨拶したいし、ちょうどいいじゃない」
 連れていってくれる。精霊アニスの住んでいた場所に。ラザーが知っている場所だ、真実に最も近い場所だ。間違いない、そこに落ちているばらばらになった事実の欠片を拾い集めるチャンスじゃないか。これを逃したりしてはいけない。ああ、リヴァに話を聞いてよかった。
「じゃあ明日くらいに連れていってくれよ」
「了解。放課後に飛ばすよ」
 話が終わった頃には太陽が沈みかけていた。

 

 

 家に戻ってもラザーはベッドの中だった。朝に起きていた記憶はないし、布団の形が少しも変わってない気がする。もう夕方になるというのに、いつまで寝ているつもりなんだろう。それでも起こす気にはなれなくて、俺はただ音を立てないよう気をつけながら同じ部屋で生活を繰り返した。
 夕食にカレーを作ってみたがあまり食欲が出なかった。自分の為に料理をすることがとても虚しく感じられる。以前なら彼と話しながら食べていたからそれなりに楽しかった。けど、寝ている横で口を頬張ったって、それのどこが楽しいっていうんだろう。
「はあ」
 どこに行っていたのかと追究されないのは嬉しい。全ての行動を彼に支配されないことは、自由を与えられたようで気が楽になってくる。そうやって心地よさを感じていればいいんだろうけど、俺が今ここで向き合っているのは、何とも言い様のない喪失感に他ならなかった。
「淋しい? まさか……」
 どうかしてる。一人きりってわけじゃないのに。学校に行けばリヴァや薫がいるし、小屋に帰ればラザーが待っている。寂寞は気のせいだ、傍にいるのに声が聞こえないからそういう錯覚に陥っているだけだ。家に帰りたいなんて思っていない。早く解放されたいなんて考えたりしていない。
 だって俺は、彼を救わなきゃならないんだから。
「ロイ、いるー?」
 彼を救わなきゃ、いけない――。
「……え?」
「樹君。ロイ、いる?」
 いつの間にか聞こえていた明るい声にはっとした。ドアの方に振り向くと、そこにはいつか見た青い髪の少年が立っていた。
「いる……けど」
「なんだぁ、寝てるのか。じゃ仕方ないね」
 さっと部屋の中に入り込み、ベッドの隣ですとんと座る相手。
「あの」
「僕ね、今ティナアって女の人に追いかけられてるんだ。だからちょっとだけかくまってよ。お願い!」
 どこかで聞いたことのある話だった。信用する根拠はないけど、疑い尽くす理由もない。そして何よりそれは俺には全く関係のない話だった。
「俺は別にいいけど」
「よかったぁ、ありがとう! 助かるよ、ほんとにさ」
 彼は確かヨウトと呼ばれていた。ラザーの話では、クトダムという人の組織の一員らしい。見た目はごく普通の少年だけど、彼もまたラザーと同じような痛みを隠した人なのだろうか。
「ティナアさんってしつこいんだよ、どこまで逃げてもちょっと気を抜いたら待ち伏せされてたり、組織に帰らずうろうろしてたら完璧な情報網を作って僕を脅すんだよ。あの人は嫌いじゃないけどあの人の性格が嫌いなんだ、僕は。あの何でも自分の思い通りにならなきゃ気が済まないって性格。それが達成されなきゃすぐ癇癪起こすんだよ、そうなったらもうケキさんでも手に負えなくなるんだよね。以前はロイがいたからこっちに被害はなかったのに、ロイがいなくなってからは全部僕に矛先が向けられて……嫌になるよ。ところで樹君、君はすごく元気がないように見えるけど、ロイと喧嘩でもしたの」
「え? いや……」
 何か長々と喋っていると思ったら、急にこっちに話題を振ってきた。このヨウトって人、よく喋って一人でも楽しめそうな人なのに、なんだかひどく空虚さを感じる。話している内容が空っぽなのか、喋っている口が理想なのか――そんなことは分からないけれど。
「ああ、ロイが寝ててつまらないんだね。話し相手がいなくて淋しくなったんだ。じゃあ僕がここにいてあげるよ。今夜は僕が君の相手をしてあげる」
 淋しさは気のせいなのに。気のせいだと思わせて欲しいのに。
 追い返せなかった。彼の好意に甘んじようと思ったのか、相手の申し出を断る余裕が俺にはなかった。そして俺は心のどこか端の方で、悪いのはいつになっても起きてこないラザーの方だと決めつけていたんだろう。
 相手は立ち上がり、俺の隣まで来てそこで座った。彼の服装は水色のマントに隠されていて何も見えない。ふわりとした相手の髪が俺の黒髪に混じるほど近い位置にある。その下に埋もれている表情は底のない無邪気さで満たされていて、どうしてもそこから彼の正体が泥棒で人殺しなんだと結び付けられなかった。
「樹君、君はロイに嫌われてないの?」
 俺はラザーに愛していると言われた。
「君はロイが嫌いなの?」
 俺はラザーを救わなければならない。
「君はお節介な人間だ……ただの一度も理解せずに、ロイを救おうって躍起になってるだけなんだ」
「お節介とか、そういうんじゃない。俺は」
「否定するの? だったら聞くけど、君はなぜ、今そんなに淋しそうな顔をしているのさ?」
 俺の顔はどんなふうに映っている? 俺は自分の顔を見ることができない。
「悲しそう……」
 そっと頬に相手の手が触れた。優しげな感触が体全体に伝わってくる。
 なぜだろう、ヨウトは泣いていた。俺の目の前で大粒の涙を零した。それが頬を伝い床に落ちる瞬間を俺はじっと見つめていた。汚い人間なのに、堕落に潜む魂なのに、どうして流れる涙はこれほどまでに綺麗なのだろう。宝石のように煌めきを忘れず、花のように儚さを滲み出している。俺の中にある眠った感情が、一斉に呼び戻されて舞い降りてきたように感じられた。
「ねえ、もしよかったら、僕が君を慰めてあげようか?」
 ラザーは起きない。こんなに近くで話しているのに。いや、近くにいるのはラザーじゃない。すぐ傍にいるのは、ヨウトという名の幼げな少年だけ。
「慰めるって、俺はそんな子供じゃない」
「ごめんね、僕から見れば子供にしか見えないんだよ。これでも僕は不老不死だから。ロイと同じだよ、永遠の命を手に入れちゃったんだ。もっとも僕の場合は彼とは全く異なる方法だったけれど」
 やっぱりそうだ、組織の連中はみんな不老不死なんだ。俺たちの時間を笑いながら舐めてる連中だ。こんな奴らに何が分かるんだ、もうすっかり全ての感覚が麻痺してるんじゃないのか。
「僕は幽霊みたいな存在だから、この身体は実在しない。蘇生呪文を失敗して魂だけの存在になったんだ。分かるでしょ、君の知り合いにも似たような人がいたんだから。名前はヴェインっていったよね、君の片割れの男の子のこと。この身体は出したり消したりできるし、何かに触れることもすり抜けていくことも自由自在だ。だけど僕には足がなくてね……正確に言うと、おへそから下がないんだよ、何も。どうやらそこの怪我が原因で死んじゃったらしいんだけど、詳しくは何も覚えてないから分からないんだ」
 なんだか頭がくらくらしてきた。だったら俺は今、幽霊と話をしてるってことなのか。昔からそういうものには何の関わりもなかったのに、どうして今になってこんなことになっているのだろう。そしてどうして俺はこの信憑性のない話を頭から信じ込んでいるのだろう?
「だからね、樹君。僕は君を慰めると言っても、ロイみたいに上手いことできるとは思わないんだ。だけど手と口があれば充分でしょ? いつもケキさんやティナアさんには無視されていたけれど、僕にだって君を満足させることくらいはできると思うんだ」
「……な、なにそれ。何の話だよ」
「何の話って、君はロイに愛されてるんでしょ? そしてロイと寝たんでしょ?」
 寝た? 寝たって何? 俺がロイに愛されてるだって? 俺がロイと寝ただって? 何の話だ。わけが分からない。俺の頭は正常か? 俺の記憶は夢じゃないのか? ロイって誰だ。俺はロイなんて奴は知らないじゃないか!
「嘘ばかり言うな、そんなことは全部でたらめだ」
「でたらめだって! 君までそんなことを言うんだ、樹! へえ、それは知らなかったよ。さすがはロイが認めた人だ、考え方も言葉の好みもよく似てるや。じゃ僕の慰めはいらないって言うんだね。自分の淋しさに目をつぶって、ロイと暗闇を押し付け合うって言うんだね」
「目をつぶってなんかいない――」
 どうしたんだ。これは一体どういうことなんだ。どうしてこんなに素直になれないんだろう。なぜこんなにも否定ばかりを続けてしまうのだろう、俺は。
「おやすみ、樹君。もう夜が動く時間だ。君のような幼い魂は、目を閉じてうずくまっていなけりゃ、腹を空かせた怪物に狙われて食べられてしまうよ」
「おやすみ」
 明りを消して床に寝転がる。
 何も考えずにいられたら楽なのに、たくさんのことを考え続けてしまう。虚栄を捨てて正直になれば肩の荷が下りるのに、どうして意地を張って否定を繰り返してしまったのだろう。
 そうだ、俺は、淋しかったんだ。

 

 

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