月のない夜に

 

 

「いってらっしゃーい」
「あ、ああ」
 なぜか玄関で見送られ、学校へと向かっていく。前を向くとヨウトの姿は視界から消え、俺はコントロールできるようになった力を使ってその場から逃げ出した。
 学校に着くとたくさんの人と出会った。言葉を交わす機会がない人もいれば、何度もつまらない話をして笑い合う仲間もいる。そんな人々に囲まれながらも心は虚空に包まれていた。誰と一緒にいても淋しさを拭い去ることができない。
 なぜこんなことになっているのか、俺は自分でも分からなかった。ヨウトの誘いを断った時からずっと淋しさが続いているように思われる。この淋しさは本当に俺が知っている淋しさなのだろうか。何か別の、誰も見たことのない異界の侵略者なのではないだろうか。名前の付いていない感情、新たに生まれた未来の心。負の感情だけはどんどんと成長していく。正義感が失われていく一方で、なぜそれは減速することを知らないのか。忘却に沈んだ船を救うのは一体どんな瞳なんだろう。
 全ての授業が終わると、俺はリヴァに連れられてアニスのいた場所まで案内された。アニスは異世界にある小さな図書館の中に住んでいたらしい。古ぼけた館は森の木々に囲まれており、深い森には人が通る道など存在していなかった。まるで世間から忘れられた場所に佇む館はとても小さく、道に迷った通行人は美しい泉に気を取られて見過ごしてしまいそうだった。
 館の中に入ると薄暗かった。レンガの壁にはぽつぽつとランプが吊り下げられているが、そのどれもが明りを失って既に殺されてしまっている。リヴァは明りをつけることもなく廊下を歩いていき、俺は彼の後を不思議な気持ちで追いかけた。なんだか誰かが後ろからついてきているような気配がした。
「アニスはいつもこの部屋にいるんだよ」
 一つの扉の前で立ち止まり、相手は普通の顔で振り返ってくる。
 この扉の先にアニスはいない。なぜならラザーによって殺されたから。しかし、それは本当の話なのだろうか。ラザーは俺を騙そうと嘘を言ったんじゃないのだろうか。
 リヴァは扉を開けた。古びた扉はなかなか開かず、嫌な音を立てながら埃を落としていった。部屋の様子が俺の視界に姿をさらす。
 たくさんの本棚が壁いっぱいに並べられていた。その中に足を踏み入れると、広い空間が俺を迎えてくれる。規則正しく並べられた本棚の向こう側には机が置いてあり、外で吹く風の音は厚い壁によって遮断されていた。ここも廊下と同じで薄ぼんやりとしており、壁のランプは全て光を失っている。まるで生きていた生活が唐突に止められたような、そんな印象を受ける部屋だった。
「あれ、アニスはどこにいるんだろ。いつもはあの椅子に座ってるのに」
 俺の横でリヴァが指をさす。そこには机に添えられた小さな木の椅子が置かれてあった。誰も座ることのなくなった椅子だった。その椅子を慰めるかのように机が寄り添っているように見える。
 すぐ傍まで近寄ってみると、何もかもが死んだように眠っていた。壊された時計のようにもう長いこと時を刻んでいないようだった。全てがガラクタになったように捨てられている。それを大事そうに抱えていたのは誰だったのだろう。
「出かけてるのかな……」
 俺の横にいる青年は知らない。この部屋に住んでいた人が既に殺されているなんて、一体誰に聞けば納得できるというのか。
「なあ、リヴァ。アニスってさ、幸せそうだった?」
「ううん。幸せなんて知らないような顔をしていたよ、いつだって」
 だけどラザーはアニスを愛してたんだ。守ってたんだ。それなのに彼はアニスを殺したと言った。守りたかったのに守れなかったと、そう言って嘆いていた。
「その不幸の原因って何なんだ?」
「原因かどうかは分からないけど――彼女はとても優しい人だったから、争いを好まない人だった。君も知ってると思うけど、精霊って契約する時に相手の力を見なきゃならないでしょ。それってつまり腕試しするってことだけど、アニスは戦いを知らない人だったから、一方的にやられるしかなかったんだよ。確かに彼女は回復呪文をたくさん使えるけれど、ただ黙って殴られるしか方法がなくって、それってとっても痛いことだと思うんだ。だからいつでも悲しげに笑っていたのかもしれない。……でもね、彼女を守ってる子がいたから、きっとアニスはいつか幸福になれると思うよ。もしかしたら既にその子に連れられてここを出ていったのかもね」
「……」
 俺はその理想を否定しなければならないのか。眩しすぎるくらいの夢を破壊しなければならないのか。言えない。とても言えない。相手にラザーの話を聞かせられない。ヤウラさんの言った短い言葉を教えてやることができなかった。
「ああ、でも、そうだった。アニスには父親がいたんだった」
「……父親?」
 なんだかなまめかしい響きにどきりとする。
「そう。彼女のお父さんは泥棒でね、幼いアニスを無理に精霊に仕立て上げちゃったんだ。詳しいことは分からないんだけど、アニスはそいつにとても怯えていたみたいだよ」
「それって、血の繋がった?」
「さあ。そこまでは知らない」
 また分からなくなってくる。多くの事情が頭上をぐるぐる回っている。ここにある本には載っていない真実。目に見えるわけでもない、手で触れられるわけでもない、そんな空想が俺を上から眺めて笑っているような気がした。
「虐待されてたんじゃ――ないのか」
「そうかもしれない。けど、そうじゃないかもしれない。ぼくはそれを彼女に聞こうとは思わないけどね。君だってそうでしょ?」
「あ、ああ」
 相手に聞かれてなんとなく頷いた。でも、俺は本当に肯定したかったのだろうか。そんなことすら分からない。
「アニスは虐待されていたのよ。それを知らないで、一体何をしようっていうの、あなたたちは」
 部屋の奥の方から声が響く。
 声の主を探して辺りを確認してみると、本棚の後ろから知らない子供が姿を見せた。桜のように薄いピンク色の髪を持つ、ヨウトと同じくらいの年の少女が俺たちを大きな目で見つめていた。
「君、アニスの知り合い?」
「ううん、私はアニスなんて知らない。でもアニスの両親ならよく知ってるの。それに彼女を守っていた少年のことも」
 はきはきと答える様は清々しい。だけど、俺はなんだか安心できなかった。彼女の言った少年とはラザーのことなんだろう。だとすれば、よく知っていると言ったアニスの両親とは――。
「ねえ、それより分からない? 私がどうしてここにいるのか、どうしてあなたたちに声をかけたのか」
 不可解なことを言ってくる子供だった。ちらりとリヴァの顔を見ると、相手もまた訝しげな顔をこちらに向けてくる。彼もこの少女のことを知らないようだった。知り合いでもない相手にそんな理由を問われても、俺たちに答えられるはずがないはずだったんだろう。
「分からないの、分からないの? 酷い人! 私は全部覚えているのに、あなたはもうすっかり忘れてしまったのね。あの懐かしい小さな家も、多すぎる人に溢れ返った食卓も、一人ずつ消えていった空虚な家族も、全て忘れてしまえばなくなると思っているのね。ああ、そんなこと、不可能なことなのに。それさえ可能だって信じてるのね、リヴァセール、夢を見過ぎちゃいけないっていつも言っていたのに!」
 彼女はリヴァの名を呼んだ。なぜこの青年の名を知っているのか。俺は反射的にリヴァの方へ顔を向けた。相手は大きく目を開けて、今にも開きそうな口をぐっと抑えつけているようだった。
「呼んでよ、ねえ、私の名前を! 愛しいひと、愛しい子! ずっと会いたかった、あなたを探し続けていたんだから!」
「サ――サク、姉さん?」
「ああ!」
 勢いよく少女は青年に抱きつく。だけどリヴァは何だか信じられないような目で、彼女の薄い桜色の髪を見ていた。
 ゆっくりと記憶が語りかけてくる。そう、確かリヴァにはたくさんの家族がいた。血の繋がった人たちではなかったけど、多くの年が離れた兄や姉たちがいたと言っていた。そして最も仲が良かった姉が唐突に行方不明になったということも。
「本当に姉さん? でも、どうしてこんな、子供の姿になってるの? それにアニスの両親のことを知ってるって話は……」
「私あなたの為に自分を殺したのよ。あなたを狙っている人がいて、その人を満足させる為にあなたの元から離れなければならなかったの。でもその人は私をどうにかする前に、ある組織に押し込められてしまったの。私も一緒に押し込められたわ、使えそうだからって。そして、ねえ、私ね、黒いガラスが割れたのを見たの。そしたら世界が反転して、身体が小さくなってたのよ。分かる? 子供の姿になってしまっていたんだ。私は組織から抜け出せなくなって、そこで得た自由を使ってあなたを守ろうと思ったの。だから私ね、あなたが嫌ってた兄さんや姉さんを殺したのよ。お父さんとお母さんも殺そうと思ったけど、先に誰か知らない人にやられちゃって、あなたはその人について行ってしまったのね。そして今は、あなたは警察として人々を裁いている……あなたに近付きたくても近付けなかった。だってあなたに姿を見せたら、私は法によって殺される他に道がないから」
 リヴァは黙っていた。黙って相手の話を聞いていた。不安げな眼差しが少女の瞳を捉えている。
「私あなたの為なら何だってできるのよ。もう組織に戻るつもりもないから。さあ、あなたは早く義務を果たしなさい。私をあの冷たい鉄格子の中へあなたの力で導いて」
 少女は身体を離して青年の顔を見上げていた。強い決意が見える台詞なのに、その口から放たれた声が嘘だと叫んでいるように聞こえる。この少女の真意がまるで分からない。何かとんでもないことを企んでいるような、そんな不安が胸の奥から絶えず警鐘を鳴らしていた。
 なぜ? そんなことは知らない。俺の知らないものが相手を止めようと突き動かす。でもその要因が目に見えないものだったから、気色が悪くて伸ばしかけた手を無理に引っ込めることしかできなかった。
「姉さん、あなたの言う組織ってのがクトダムの組織なら、ぼくはあなたを永久に牢獄から出すことができなくなる」
「そう、私はクトダム様のところで働いてたの。知ってるでしょ、あなたのお友達のラザーラスも、クトダム様のことを尊敬していたのだから。私はロイが嫌いだったよ……彼、あの組織の中でも生きているように振舞ってたから。もう永遠に食い殺されたはずなのにね、まだ息が残っているように演じるなんて、本当に感じの悪い子だったのよ。それにあなたを狙ってたルノスに情けをかけていたから、彼のことが嫌いで嫌いで仕方がなかったの」
「……」
 じっと少女の顔を見つめた後、リヴァは懐から手錠を取り出した。それをゆっくりとした動作で相手の腕に掛ける。瞳には後悔の色が映っていなかった。振り返ることさえ奪われたような、そんな精神のままで手を動かしていたのだろうか。
「ようやく、ようやく――あなたの手で救われたのね、リヴァセール! ああ、これでやっと逃げられた! もうあの暗闇に戻らなくていい、もう欲望の渦巻く地の果てで怯えなくてもいい! でも、そんなことはどうでもいいの。私が本当に望んでいたことは、あなたと一つきりになって孤独を味わうことだったから。私は長い時を経て、あなたを殺す夢を幾度も見てきたわ。大きく立派に成長したあなたと手を繋ぎ、一つの手錠に縛られて絶望の淵まで二人三脚するの。それは心地いい快感だった、他のどんな快楽よりも幸福を感じられる、あなたを一人占めする支配欲――。さあ、私たちは向かわなければ。いつか辿り着くと決められていた場所へ、一歩ずつの歩みを同じ間隔で起こさなきゃならないんだわ。それにはどんな技術だって必要ない、あなたと私の心がある限り、私たちは同じ生命として崖の底へと堕ちていけるんだわ」
「樹、ぼくはこの人を警察まで連れて行かなきゃならない。君はもう自由にしてていいよ。帰りたいなら帰ってもいい」
「そう、これからは誰にも邪魔されないんだから。私はあなたのもの、あなたは私のもの――」
「また明日、学校でね」
 二人の姿が目の前から消えてなくなる。
 リヴァは最後まで笑わなかった。懐かしい人に会ったけれど、その人はすっかり変わってしまっていた。俺はクトダムの組織がどんな所だったのか、そんなことは誰にも聞いてないから分からない。だけど、ラザーもヨウトもさっきの子も、一般では考えないようなことを平気で口にする人たちだった。彼らの世界だった組織とは、普通の考え方ができなくなるくらいに苛まれて生きる場所だということが分かったような気がした。
 はっきり言って、得体が知れなくて気色悪かった。彼らの言葉、特にリヴァの姉らしき人の言葉は、どれも理解ができない気持ち悪い考え方の塊だった。何を言っているのか一つも分からなかった、でもなんだか本当は分かっているような心持ちになった。俺は彼らのことを深く知りたくない。それでもラザーのことを知りたいと思うのは、どういう皮肉が込められた矛盾なのだろうか。怖いものに手を伸ばそうとしている。逃げ出したくて仕方がない相手なのに、俺はその人のことを見捨てることができないから、こんなに必死になって事実を探し回っているんだ。
 そうして掴む空は美しいだろうか。いつかラスと見た夕焼け空のように儚くて、ガラス細工のようにきらきら光りながら壊れていく空だったなら、俺は全ての苦痛を無言のままに許せるような気がしたんだ。

 

 +++++

 

「おはよう、樹」
「ああ」
 翌日、リヴァは普段通り学校に来ていた。
 今朝はまたラザーの顔を見ないまま小屋を出てきてしまった。ヨウトが自分に任せておけと自信満々に言ったからそうしたんだけど、今になって急に不安が押し寄せてくる。俺はここ最近、ずっとラザーの目を見ていないんだ。あの赤くて鋭い瞳が俺の奥にあるものを突き刺す痛みが、過去の光の中で淋しげに疼いていることがふと感じられたような気がした。
「昨日のことだけどさ、あれからどうしたんだ?」
 俺はすぐに小屋に帰ったから、リヴァがお姉さんをどうしたのかは何も知らないままだった。結果を聞くことは義務ではないんだけど、なんだか俺はそれを知らなきゃならないような焦りに追い込まれていた。
「上官に会ったよ。それで、牢屋に入れた」
「いきなり? 裁判とかないのか」
「あることはあるけど、意味がないからね。あの人はもう救われない」
 本当にただの一つも後悔してない様子だった。
 あのサクって人はリヴァの姉だったらしい。血は繋がってない関係だけど、育ての親や年の離れた兄弟たちに仕事を強いられていた時、彼女だけが彼のことを気遣ってくれていたんだと昔に聞かされた記憶がある。確かにそれから長い時が経ち、別の人生を歩むようになったんだろうけど、これほどまで簡単に吹っ切れるものだろうか。悲しさとか悔しさとか、そういった自分では処理できないような感情の渦が彼の中には現れないのだろうか。
「ぼくが動揺してなくて驚いてる? でもね、警察ってそういうものなんだよ。上官がよく言っていたんだけど、自分の感情を加害者や被害者に上乗せするのは愚かなことだって――それで真実を見分ける目が腐っていくから、いつも冷静に腕を組んで一歩離れたとこから物事を見なきゃいけないんだって」
「けど、姉だったんだろ。いつも心配してくれてた……」
「そういうの、やめてくれない? なるべく考えないようにしてるんだから」
「あ――」
 言葉が続かなくなった。
 そうだよな、いくら警察だからって、心が法に奪われたわけじゃない。俺は余計なことを言ったんだ。俺の心配や危惧は、結果として相手を追い詰めることしかできない。
 俺がラザーに対して取っていた態度も、これと同じ効果をもたらしたのだろうか。俺の過剰な心配が彼を追い詰め、顔を会わせてくれなくなったんだろうか。いや、俺が彼を友達だとか仲間だとか、そういった安っぽい代名詞で何度も呼ぶたびに、彼は逃げ場のない世の果てに追いやられていたのかもしれない。そして俺は何をしたんだ? 俺は何をしようとして、何を待ち続けているのだろう。
「ところで、樹」
 ぼんやりとした相手の声によって現実に呼び戻される。
「ぼくちょっとロスリュに会いたくなったんだけど、付き合ってくれないかな」
「ロスリュに? なんでまた、そんなことを頼むんだよ。一人で行けばいいじゃんか」
 意外な人物の名前が出てきたものだ。ロスリュはかつての仲間であり、世界にとって重要な水竜という存在だった。彼女は今はアユラツのワノルロ湖に住んでおり、俺も暇な時に様子を見に会いに行ったりしていた。冷淡な性格で容赦のないことを言ってくることもあるが、だからって一人で会いに行くのが怖いと思う相手ではないはずだけど。
「うーん、なんだかね。引っ掛かるんだよ。ほら、サク姉さんが言ってたじゃない、ぼくを狙ってたルノスって人のこと。その人の名前とロスリュの名前がなんだかシンクロしてて……」
「はあ」
「だからね、何か大昔から知ってるような、生まれる前からある記憶が呼んでいるような、そんな気がするんだよ。君だって分かるんじゃない、君には兵器としてのヴェイグの記憶があるんでしょ。それと似たようなものだと思うんだ、深い深い水の底から、風と共に吹き上げてくる誰かの叫びが――」
 ごめん、さっぱり分からない。
「なっ、なんだよその顔は。ぼくがおかしなことを言ってるって思ってるんだろ! もういいよ、どうせ君にはぼくの気持ちなんか分かりっこないんだ」
「いや待てって。とにかくロスリュに会いに行くんだろ? 俺も行くよ」
「本当に?」
「ああ」
 大きく頷くと相手はむっとした表情を少しだけ崩した。
 リヴァの気がかりがどんなものなのか、俺にはまるで見当もつかない。確かに俺の心には消されたヴェイグの記憶はあったが、それだって生まれる前からあると感じることはなかったんだ。だから彼の不安がどんな方向へ進んでいるものなのか、心配しようにも何も見えてこないからどうすればいいのかよく分からなかった。
 それでも彼を見捨てることはできなかった。俺に相談してくる相手を突き飛ばし、一人だけ無知の花園へと逃げるなんてことをしたくはなかったんだ。分からないなら共に落ちればいい。そこから天へと這い上がっていけるなら、地獄なんかまだまだ生易しいものだろうから。
「じゃあ今日の放課後に行こうか。でも、いいの? 君って最近すぐに帰らなきゃって急いでたのに」
「大丈夫さ……たぶん」
 ちょっと前まではラザーの為に寄り道せずに小屋へ帰っていた。今なら小屋ではヨウトがいるし、ラザーに文句を言われることもないから少しくらい遅くなっても平気だろう。ただ一つ気がかりなことがあるとすれば、どうしてそうなってしまったのかということだけだった。
 俺はラザーのことをヨウトに任せ切っている。しかしそれは本当にラザーや俺が望んでいたことだっただろうか。また俺の知らないところでラザーが苦しんでいるかもしれない。また彼が声にならない声で助けを求めているかもしれない。それに気付かなかったことをあれほど後悔したはずなのに、どうして今はこんなにも、彼と言葉を交わすことが怖ろしく感じられるのだろう? 守らなきゃならないのに。助けなきゃならないのに。片時も傍を離れず、まばたきさえしない瞳で、ずっと彼のことを見張っていたいと思ったはずなのに、こうやって無理に理由を作って彼から逃げようとしているのは一体どういうことなんだろう。
 考えと行動が矛盾している。俺は理由が欲しかったわけじゃない。
 俺はラザーを追い詰めることを恐れるあまり、自分が追い詰められていることに気付いていないのだろうか。

 

 

 雪で彩られたように真っ白な世界は、俺の深い部分を心地よく刺激してくれる。
 白と黒しか見えない世界には大きな湖があった。そこに秘められた力を身に付けた人々が後に一族と呼ばれることになったわけだが、聞いた話によると彼らはもうそれほど多くは生き残っていないらしい。この世界から逃げ出した人も少なくなかったようだけど、どこへ行っても人間は人間のままで、彼らを見る目は一つとして変わらなかったのだろうと推測できる。この世界に留まった一族は人間に利用され、向上を抑えなかった人間は一族の元で暮らしていた少年に滅ぼされた。その崩壊に巻き込まれた一族の人たちもまた命を燃やし、たった一人だけ生き残った研究者の男により、この世界を守る為の兵器が生み出されることとなったんだ。そしてそういうことを考えながら俺は、広い草原の上で鳥たちと戯れていたラスのことを思っていた。人間の傲慢さに飽き飽きして彼らから離れ、ひとり孤独に微笑んでいた異端者の少年のことを思い出していた。
「ルノスがあなたを狙っていた?」
 ワノルロの湖の傍にあるロスリュの家で、俺とリヴァはすっかりくつろいでいた。狭い部屋の中に一つの机が置かれてあり、傍に四つの椅子が並べられている。俺とリヴァが並んで座っている向かい側にロスリュがすました顔で腰を下ろし、客人の為にといい香りのする紅茶を出してくれた。彼女の家には部屋が二つしかなく、でも一人で暮らすには充分なスペースのある家だった。そこで会った家の主人は昔と少しも変わっておらず、相変わらず長い髪とスカートをずるずると引きずりながら歩いている姿が見えた。
「サクっていう名前のぼくの姉さんが言ってたんだ。でもぼくはそんな人なんか知らないし、ロスリュなら何か知ってるかなって思って」
「確かに私はルノスを知っているけれど、そうね……」
 ロスリュは机に肘をつき、何やら考えているような仕草を見せる。それを眺めながら俺は紅茶を一口飲んだ。
「ねえ、ちょっとあなたに見せたいものがあるの。だから少しだけ待っていてくれるかしら?」
「ぼくに? まあ、別にいいけど」
 リヴァの返事を聞くとロスリュは席を立ち、すっと奥の部屋へ消えていった。
 今の会話でロスリュは何を覚ったのだろう。あまりにも少なすぎる情報だったのに、彼女には何か心当たりでもあるのだろうか。そうした疑問が流れている間に奥の部屋からロスリュが帰ってきて、机の上に何かを置いて俺の横にいる青年の顔をじっと睨むように見つめた。
「な、何?」
 机の上に置かれたものは、綺麗な細工のあるペンダントだった。美しい赤い石がきらりと光っており、どこか歴史を感じさせるような古さが垣間見える。リヴァはちらりとそれに視線を落としたが、すぐに不可解そうな顔で相手の目を見返していた。
「灯台もと暗しとはよく言ったものね。思えばあなたも銀の瞳を持っていた。本当ならすぐに聞かなければならなかったのに、この私がすっかり忘れていたなんてね。……これに見覚えはない?」
 鋭い言葉ではなかったのに、それはまるで脅迫のように聞こえた。数えるほどしか見たことのない、ロスリュの本気になった姿。いや、真剣になった態度と言った方がいいかもしれない。俺が今前にしているのはそんな彼女だったんだ。
「ない、よ」
 どこか怯えた様子でリヴァは首を振る。そこに醜い嘘が潜んでいるとはとても思えなかった。ロスリュは口をつぐんだが、その目はまだリヴァのことを疑い続けているようだった。
「そうね。見覚えがあったとしても、素直にそう言うはずがないんだわ。でもあなたの瞳に動揺は見られない……さて、私は本当にあなたを信じても構わないのかしら?」
「ロスリュ、ぼくを疑ってるの?」
「当然でしょう」
 さらりと出てきた言葉は、やはりロスリュのものであった。
「あなた達には話してなかったかしらね。私たち、つまり水竜と火竜、そして地竜は行方不明になっている風竜を探し続けているのよ。彼は銀の瞳を持つ男で、このペンダントの持ち主だったわ。なんでも家族の形見だとかいうことらしいけれど、くだらないことだと思わなくって?」
 彼女の口から出た刺々しい言葉に驚きを隠せない。相手の苛立ちが眼前に迫ってきたようで、俺ははっと息を呑んで呼吸が止まりそうな心地がした。
「くだらないってことはないでしょ。家族の形見なら、普通の人だったら大事に持っておきたいって思うんじゃない?」
「その甘さが彼にそっくりなのよ」
 大きく開かれていたリヴァの目がすっと細くなる。ぴりっとした空気が鋭さを増したように俺の心を動けなくした。
 ほんの少しの沈黙の後、一つのため息が響いてくる。
「……なんて、分かってるわ。これを見ても動揺しなかったあなたは違う。彼じゃないわ。それで……何だったかしら、ここへ来た目的は? ああ、ルノスのことだったわね。でも彼女、あなたと会ってもちゃんと話してくれるかしら?」
「どういうこと?」
「彼女は人を選ぶのよ……馬鹿馬鹿しいとは思うけれど、それが彼女の防衛方法なのね。どう? 彼女に会ってみる?」
「会ってみるって、今から会えるのか?」
「ええ、そうよ。それじゃ気に入らなくって?」
 気に入るとか気に入らないとか、そういう問題でもないと思うけど。
「じゃあ会ってみようかな……」
 少し戸惑った様子でリヴァは口を動かす。しかしその表情には雲がかかっており、何かしらの不安要素が彼を包み込んでいるようだった。俺だって不安に思うことはある。本当なら今すぐロスリュに問いたいけど、そうして友人の望みを壊すほど俺は落ちぶれていないつもりだった。
「じゃあちょっと待っていて」
 席を立ったロスリュはそれだけを言い残し、落ち着いたままで奥の部屋へと消えていった。木造の扉が閉められると静寂が降りかかってくる。このままこの出口のない怪物に食い殺されてしまえばいいと思った。かつて見た赤い世界のように、不安定で揺れている薄い生命など、二度と光の下へ戻らない方が皆の為になるんじゃないかって思えてきたんだ。
 それを許さないのは誰だろう。俺をあの地に縛りつけるのは、ラザーラスだ。彼が助けを求めるなら、俺はその手を握ってやらなければならないから。動けなくなったっていい。押し潰されたっていい。俺が俺として生きるには、彼の祈りを実現してやらねばならないんだ。
 だから。

 

 +++++

 

「嫌、ですって」
「そう……」
 戻ってきたロスリュは厳しい顔をしていた。
「まったくわがままな子ね。誰と話をしようと、そんなもの全て忘れてしまえばいいものなのに」
「ロスリュはルノスって人のこと、嫌いなの?」
 飾り気のない赤裸々な質問が俺の横から飛ぶ。
「ええ、そうよ。私は彼女が嫌い。どうして彼女が地竜になったのか、今だって心底理解できないでいるのよ」
 この小さな少女が好き嫌いを口にする姿は非常に珍しいものだった。ラザーによって光を奪われた水竜の少女。いつかこの地で彼を試したこともあったっけ。あの時は、計り知れない相手の存在に圧倒されてしまっていた。自分たちの誰もが彼女に届くはずがないと決めつけ、見せつけられた巨大な塔に登ることさえ初めから諦め、少しの努力もしないで全てを解決しようとしていたように思われる。俺はあの頃から変わっただろうか。今もまだ、直面した困難からどうやって逃げ出そうかと考えていやしないだろうか。意思だけで制限しようとせず、見通しと信頼とが必要だった。俺は一族の少年の隣を通り越し、彼から何を受け継いだのだろう。
「ルノスは地竜? そんな人が、なんでぼくを狙ってたんだろう?」
「さあね、それは彼女にしか分からないわ。私はそれを知りたいとも思わないけど、機会があれば私から訊ねてあげてもよくってよ?」
「本当? だったらお願いするよ。じゃあ樹、ぼくらはそろそろ帰ろう」
 動きのない話は終結へ向かっていた。だけど俺はここで話を終わらせたくなかった。この静寂の空間は非常に心地いいもので、欲望の渦巻くあの世界へ帰ることがとてつもなく億劫だった。俺はまだここにいたかったんだ。
「俺、ロスリュにちょっと聞きたいことがあるんだ。リヴァは先に帰ってろよ」
「え? でも君、一人で帰れるの?」
「俺はもう欠陥品じゃないんだってば」
 ただそれだけの言葉で納得する相手はちょっと怖い。でも俺の口から出た自分だけの説明は、想像以上に事実をはっきりと物語っているらしかった。リヴァは俺の言葉に従って一人で元の世界へと帰っていった。
「それで、あなたの質問は何なのかしら?」
「精霊アニスについて教えて欲しい」
 もう止まらなかった。俺の感情は熱して蒸発したようだ。いや、昇華される瞬間を待っていた。守るべき人の周囲のものを一つ残らず理解しなければ、消えない安堵は永久に得られないと思い込んでいた。
「アニスのことを訊ねるということは、ラザーラスに何かあったということかしらね」
 やはり知っていた。ロスリュはアニスを知っていたんだ。そしてラザーとアニスの関係も知っている。そう、彼女は何だって知っているんだ。
「今は俺の口からは何も言えない。けど、どうか教えてくれ。アニスはラザーの何だったんだ? なぜラザーがアニスを殺さなければならなかったんだ?」
「……そこまで知っているなら、話しても許されるかしら」
 相手の目の中にすっと躊躇いが横切った。彼女は誰に抑えつけられているのだろう。それは俺が壊せない存在? 祈りより上方に降臨した、新月の見えない光だったかもしれない。
「彼女は耐えられなかったのよ。そして自由を欲し、最も信頼できる相手に自らを殺して欲しいと頼んだの」
 壊れそうな破片が目の前に降ってくる。
 彼と彼女の純粋な心は、夢の中で叫ぶ無言の瞳だった。

 

 

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