月のない夜に

 

 

 薄暗い茶色の中、規則正しく並べられた本棚が彩りを豊かにしている。主を失った部屋は無言で客人を招き入れ、外のものを否定せず、新しい考えを進んで取り入れているようだった。ぼんやりと光るランプが歓迎を示している。壊れた時計が再び動き出しそうな気配があった。
 水竜の少女と共に俺はアニスの部屋を訪ねていた。いつかリヴァと一緒にここに来た時は、組織の人に邪魔されて何一つ知ることができなかった。今度はロスリュが話してくれると言う。最初から全てを知っていた水竜の少女が、俺に事実の欠片を見せてくれると言ったんだ。
「ほら、その椅子――」
 ロスリュは机に寄り沿う椅子を指差す。同じことをいつかリヴァもやっていた。
「あそこがアニスの席だった。そしていつだって、向かい合っていたのはロイだったのよ」
 アニスの席の真正面に、同じ型の椅子が置いてある。俺はそれに近寄ってみた。しかしいくら注意して見てみても、誰かがそこに座っていた面影は残っていなかった。当たり前だ、もう何年が経過したと思ってる。俺は彼らにとっては新しすぎる存在で、また一瞬間のうちに忘れ去られる儚い泡沫の末路なんだ。旧いものを探したって、記録の中にしか入り込めない。
「ねえ、座る?」
「うん」
 俺はかつてラザーがロイとして生きていた頃に座った椅子に腰かけた。視界が異常なほど低くなった気がした。天井があまりに高すぎて、落ちてくるものを受け止めきれないと思うと寒気がした。ロスリュはアニスの席に座った。
 二人の間を挟む机のことが忌々しくなる。
「さて、何から話せばいいかしらね……」
「知っていることを全て話して欲しい。ラザーがここで何をしていたのか」
「あなたには少々刺激が強すぎる気がするけれど……大丈夫かしらね?」
「構わない」
 それが彼を救う道に繋がるなら、俺が破滅したって構わない。しかしこの感情はあの時とよく似ていた。初めて故郷の世界へ行った時のこと、兄であるスーリから自分のことを聞かされた時のこと。あの時と違うのは、知りたい内容が他人の為のものだってことだけだ。他者の秘密に土足で入り込む姿勢を保っているということだけだったんだ。
「私が話すのは、ルノスの記憶になるわ。私が直接見たわけじゃないから細かい事情は分からないけれど、それでもよくって?」
「いいから早く話してくれよ」
「あら、それが人にものを頼む態度?」
 話している相手もよく似ている。聞いている自分は何も変わってない。世界は逆走を始めたようだ。もう一回しかない終わりは見たんだろう。
「アニスはロイとよく似た子だったのよ。大人たちの都合によって精霊になり、大人の暴力によって死に追いやられた。確かに彼女を殺したのはロイだったけれど、絶望の淵へ彼女を突き落としたのは彼女の両親――特に父親だったわね」
「父親……」
「そう。その人はケキと名乗っているわ。母親はティナア。二人ともクトダムの組織の人間で、ケキは河野真の実兄よ」
 聞き覚えのある名前が二つ並ぶ。誰もを嘲笑う名前がようやく俺の前に姿を現した。それは倒すべき敵であり、排除すべき障害であり、焼き尽くすべきゴミだった。俺は二度と彼らを許せないと思った。
 そして導き出されたもう一つの名前は、何度か話した記憶のある現実味の濃いものだった。
「真の兄が、なんで組織なんかで暮らしてるんだ」
「彼は真と同じ使命を背負っていた。でも彼はその仕事に失敗した。神から見放されたケキは心をえぐり取られ、そのまま堕落していったとロイが話していたそうよ」
 みっともない人だった。救われるべきじゃない奴だと思った。そんな人が誰かの幸福を蝕んで生きている。何もかもを傷つけながら、破壊衝動を止めることもできないままで。
「アニスを精霊に仕立て上げたのはケキだったわ。ティナアはアニスを産んだけど、彼女を娘として認めなかったそうよ。彼女には大昔に二人の子供がいて、その子たちはロイに殺されたらしいわ。それが彼女を組織に引き込んだ原因だったから、彼女の子供は殺された二人だけだったのね。そうやってティナアはアニスを見てもいなかったけど、ケキは彼女を愛していたらしいわね。彼は父親としての自覚もあり、子育てもちゃんとして、親らしく子供を守っていたわ。だけどアニスが成長していくと、彼女が子供じゃなくなると、ケキは彼女を手駒として利用し始めたわ。本来の治癒属性の精霊を封印し、娘を精霊として認めさせ、この部屋に放置して彼女を閉じ込めた。そうして何事もなかったかのように普段の生活を続けていったのね」
 ロスリュの話を聞いているとなんだか苛々してきた。早く話して欲しかったのに、今は早く話し終えて欲しかった。突き付けられる事実が煩くて仕方がない。俺は足を踏み出す方向を間違えた旅人のような心地になっていた。
「ケキは幾度もアニスの所へ行ったわ。アニスから精霊の力を受け取ったり、仕事を手伝わせたり、組織の人間に対して契約の話を持ちかけたり。そして彼は彼女を愛していたから、過剰な愛情が暴力に変わっていた。それは単なる物理的なものだけじゃなく、むしろ性的なものの方が多かったみたいね。アニスは父親に逆らわなかったわ。普通の人間なら死ぬはずの傷を負っても、どんなに汚らしい凌辱を受けても、彼女は彼に逆らえなかったんだわ。だって彼女はケキの娘で、ケキはアニスの父親だったんですもの」
 ちらちらと光るランプが騒がしかった。大きくなったり小さくなったり、一つの形に留まらない光が俺の集中力を奪っていく。俺はアニスの事情が知りたかったはずだった。またラザーを救う方法を見つけたかったはずだった。
「その回転を謀らずとも止めたのがロイ・ラトズだった。最初はアニスに何の関心も示さなかったけど、彼女に言い寄る契約を望む人たちと、彼らに襲われている彼女の姿を見て彼の心は大きく動いたみたいね。彼はアニスを守ろうと躍起になってたわ。契約をしにやって来た人々を追い返し、アニスを虐めようとするケキに逆らい、ぐらぐらしたままの姿勢でその場限りの平穏を作ろうと走っていた。ロイはよく頑張っていたわ……それこそ目に見える状況では、彼とアニスは小さいながらも美しい桃源郷を見出してたんだから。それでも彼は組織に戻らなければならなかった。彼はやはりクトダムに背くことができなかったから。そうやってロイが組織に帰っている隙に、ケキはアニスで遊んでいたらしいわ。また怒りの矛先をロイに向けることもあったみたい。二人揃ってケキに踏み躙られていた。ただロイにはヤウラ・アシュレーという逃げ場があったけれど、アニスには逃げ道なんて存在しなかった。だから彼女は絶望を募らせることしかできなかったのね」
 耳を塞ぎたくなってきた。相手の口が開かないよう、どうにかして閉めることはできないかと考えた。これ以上先を聞くのが怖い。何を今更、そんなことを怖がったって、過去に起こったことは変えられないじゃないか。俺は何を考えているんだ? 理想を語るくらいなら、現実を食い散らかす方がずっと実用的で祈りに似ている。今はまだ黙っていよう。そうだ、だって、そのうち永遠が連れ去ってくれるんだから。
「アニスは父親の暴力に耐えられなくて、ロイに自分を殺して欲しいと頼んだそうよ。ロイは彼女を愛していたから、自分の幻影としてではなく一人の人として愛していたから、彼女を守ろうと自分を犠牲にしていたわ。だけどいくら諭しても彼女は意見を変えなくて、これ以上あの暴力には耐えられないから、せめて信頼できるロイに殺して欲しいと頼んだのね。そしてロイはそれを実行した――その夜、彼の心の一部は崩壊し、弱い彼はヤウラの元へ逃げ込んだわ。でも数日経てば彼はまた組織に戻った。アニスがいなくなった後でもケキからの暴力は続いたそうよ。皮肉にもそれはアニスが存在したという事実を物語っている……ロイがアニスから受け取った十字架と同じように、ケキからの暴力がロイとアニスの接点となっていたのね」
「もういい……分かったから、もうやめてくれ」
 聞かなければよかったと後悔した。でも知らなきゃ納得できなかった。俺はわがままな子供だ。何も考えずに突っ走って、都合が悪くなったら振り返って許しを請う。
 両親による虐待。それに巻き込まれたラザーラス。アニスという少女がラザーの記憶に深く刻まれていた理由がよく分かった。彼女ほどの存在なら、彼をクトダムの呪縛から解放できたのではないかと惜しくなった。しかし誰も彼女を取り戻すことはできなかった。彼女の母親は娘を認めず、父親は娘を自分と同化し、ラザーは彼女の絶望の中を突き進むことができなかった。アニスが望んだ最後の願いは、おそらくラザーには理解できなかったものなのだろう。今も昔も本当の意味を感じ取ることができず、ただ彼女を殺したという責任だけを意識し続け、だからこそ彼女から受け取った十字架を手放すことができずにいる。彼は非常に繊細なんだ――少し触れれば何色にも染まってしまうような、白に似た色合いの精神の持ち主なんだってことが俺にはよく分かっているはずだった。だからこそ俺は彼を守ろうと思ったんじゃなかったのか。それを知っていたから俺は彼と友達になれたんじゃなかったのか。それだけは確かだったのに、あの頃の無邪気さが失われた今となっては、彼の弱さを卑怯な術だと認識する他にはない臆病者に成り下がっているような気がしていた。
「……ねえ、樹。あなたは非常に不安定だわ」
「何が」
「あなたの心が。あなた少し追い詰められてるんじゃなくって? 彼の為に自らを押し殺しているように見えるわ。でも、分かっていて? それは彼の為になるかもしれないけど、あなたの為にはならないわ。それに表面では救うことが可能だとして、根底から全てに光を与えることなんて誰にもできないことなのよ。たとえば彼が――ラザーラスが過去の因縁と決別しようと戦っていても、その怒りや罪に結論を下せるのは彼しかいないはず。いくらあなたが頑張っても、それらは全て時に流されてしまうだけよ。ねえ、それはちゃんと分かっていて? 分かっている上での答えが、あなたのその表情だというの?」
「分かってるさ、そんなことは。俺はラザーじゃない。ラザーじゃないから、だからこそこうやって、ラザーのことを知ろうと調べてるんじゃないか。この行動が無意味に終わったって構いやしない。それで俺が満足できるなら、俺はこうする他に自分を守ることができないんだから」
 そう。そうだった。俺はラザーを守るということを口走っておきながら、結局は自分を守る資料が欲しかっただけ。何度同じことを繰り返せば抜け出せるのだろう。シンと向き合った時も、スーリと話し合った時も、ラスを止めようとした時だって、相手を救うと口先だけで宣言し、内心では自分の弱い心が壊れない方法を必死になって探していただけだった。もう幾度も反省したはずなのに、再び変わらぬことを演じ始めている。俺は彼を救いたかったんじゃなかったのか――裏のない感情のまま、彼を光の溢れる世界へ導きたかったんじゃなかったのか。それでも見えてくるのは自分の願望ばかりで、本当に自分が欲しているものが何なのか、それすら見失ってしまいそうで怖かった。
「……ごめん。少し、考えさせてくれないかな」
「ええ」
 ロスリュは優しい人だった。それは充分すぎるくらいに分かっていた。俺は彼女のように優しくなれただろうか。お人好しと呼ばれていたのは嘘だったのか。俺がそう思いたいだけで、誰もが勘違いしていただけで、他者を利用することも厭わない無機質な兵器だったんじゃないだろうか。螺旋を描く道を進めば進むほど、後戻りできないことが苦痛に感じられ、歪な渦を形成していった。負の感情も正の感情も悩みの前では無力だった。ゆらゆら揺れるランプの光の方が、俺の感情をしっかりと映しているような気がして、なんだかどうしようもなく羨ましかった。なぜ俺はここに来てしまったのだろう。
 ここにいるべきなのは俺じゃなくて良かったはずだ。むしろ俺より真や師匠の方がラザーのことをよく分かってるんじゃなかったのか。ラザーはなぜ俺に助けを求めたのだろう。そして俺は、その理由を理解しようと努力したことがあっただろうか。いや、それは、確かにあったはずだった。ラザーは真たちに相談できなかったから、俺が偶然にも気付いてしまったから、俺に頼らざるを得なくなっただけだった。たとえ俺に彼を救う力がなかったとしても、そんなことは関係ないことだった。彼には誰か支えてくれる人がいればそれで充分だったんだ。
 だとすれば、俺は彼の傍にいるべきだった。こうやって勝手に自分一人で行動して、どうにかして彼に明るい世界を教えようと走るより、彼が流した涙をそっと手で拭ってやることが何よりも求められていることだったのだろう。それじゃ俺は何をしているのか? そもそも何をしたかったのか? アニスのことを調べて、ラザーとアニスの接点を知って、それで何をしようとしていたのだろう……俺はアニスの事情を知ったなら、彼女に嫉妬することも分かっていたはずなのに。
 邪な考えが充満していく。頭痛がする。やがて来る未来が恐ろしい。どうしてこんなにも悩まなければならないのだろう。これは俺には関係ないことなのに。ラザーが勝手に悩んでればいい問題なのに! なんで俺を巻き込んだんだ、いつも俺は他人だと言っていたのに、なぜ今になってからこんなに頼ってくるんだよ! 俺には何もできないのに、ああ、本当に、何もできないのに、そんなに頼らないでくれ。俺が住む世界は救えても、彼が生きる世界を救える自信なんて少しもないんだから。……

 

 

 誰かの足音にはっとした。俺は机に突っ伏して居眠りしていたらしい。頭を持ち上げると普段の何倍も重く感じた。どうやら疲れは眠っても消えていないようだった。
 目の前にロスリュの姿はない。茶色の奥に小さく光るランプがちらついている。足音は後方から近付いているみたいだった。このままの姿勢で見える景色には、誰の姿も映っていない。
 規則正しい綺麗な足音が消えた頃、身体をひねって斜め後ろに顔を向けてみる。そこには背の高い男の人が立っていた。
 誰だろう。知らない人だ。黒い髪に黒い目を持っている。日本人だろうか。だけど、ここは異世界だから、日本の人が簡単に入り込めるような場所じゃない。だったらなぜこの人は――ああ、なんだかもうどうでもいいや。きっとこの人は本を探しに来たんだろう。この建物にはたくさんの本がきっちりと並べられているから。
 ぼんやりと相手を見上げていると、肩に手を置かれた気がした。相手は俺の目を覗くこともなく、黒い髪がゆっくりと近寄ってきた。
 首筋に何かが触れる。
「またここに来たのか? それとも、帰ってきてくれたのか?」
 囁きのように小さな声が耳の奥に響いてきた。それはどこか震えているように聞こえなくもなかった。
「いや、この髪は知っている。この髪は、俺やあいつと同じ綺麗な黒髪は、お前のものに他ならない。帰ってきてくれたんだな、アニス。帰ってきてくれたんだな……」
 座ったまま抱き締められる。スーリより優しい抱き締め方だった。
「俺はアニスじゃない」
「だったらアニスの生まれ変わりだ。だってアニスと同じ髪の色をしてるんだ、生まれ変わりに決まってる」
 俺がアニスの生まれ変わり? だからラザーは俺を愛していると言った?
「そう……だろうか」
「そうさ。そうに違いない。君はアニスの生まれ変わりなんだ。だから君は俺を愛してくれるね。アニスは俺を愛してくれなかったけど、君なら俺を愛してくれるんだよね」
「だ、誰だよ……あんたは誰なんだ」
「俺はケキだよ。アニスの父親のケキ。え、そうだろう、君はアニスじゃないから、俺を避けることなんてしないだろう? ティナアさんのような一時的な愛情じゃなく、ロイと同じ憐みの愛情でもなく、俺だけに向ける純粋さで愛し尽くしてくれるんだろう? そう言っていたんだよな?」
 相手はアニスの父親。彼は俺が許せないと思った人。相手は最低の人間。存在しない方がよかったと思える、生まれるべきではなかった男。
「な、愛してくれよ。俺は淋しいんだ。アニスに置いていかれて、ティナアさんに捨てられて、ロイの居場所も見失って、俺は淋しくて仕方がないんだ。だからずっと君を探していた。君さえいれば、俺はもう悲しくて涙を流すこともないはずだ」
 そんなことは知らない。俺は何も言っていない。アニスを玩具のように扱った人を愛せだって。ラザーに汚らしいものを植え付けた人間を救えだって。そんなことが俺に出来るだろうか。一度憎んだ人間を、何の利益もないまま愛すことなどできるはずがなかった。だけど、ああ、どうしてだろう、今はうまく頭が働いてくれない。全てがぼんやりしていて、ふわふわしていて、足元がおぼつかない夢の中の出来事のようだ。そしてそう考える方がずっと自然だった。だってアニスを追い詰めたような人間が、こんなにも穏やかに微笑んでいるはずがない。娘を虐待するような人が、こんなに温かな抱擁をするはずがない。
 夢なら何も恐れることなどなかった。
「君の名前を聞かせて欲しいな」
「川崎樹」
「ああ、君は……日本から来たのか。じゃ真を知ってるか。俺の妹なんだ。大事な妹なんだ。だけど俺はアニスの方が大事だったんだ。だって真には姉がいた。その子は俺に真を守るって約束してくれたから」
「真は知ってるけど、姉の話は聞いたことがない……」
「それは、どうでもいいことだ。俺はあの子が嫌いだった。真を俺から奪ったんだ。酷いだろ、え、酷いと思わないか? 親に見放されて二人で生きてきて、突然仲良くなって真の姉になったんだぞ。血の繋がりなんて少しだってないのに、姉のような顔で真の手を引いたんだ。アニスだって酷い奴だ。アニスは俺の娘なのに、俺が父親としてアニスを育ててきたのに、アニスは俺に感謝もしようとしないで、いつもいつも怯えた目でこっちを見てくるんだ。そこに付け入ったロイも酷い。アニスはロイには笑いかけるのに、俺には微笑むことさえしなかった。アニスはロイを認めたのに、俺のことは一時だって認めようとしなかった!」
 相手は身体を離した。手は肩に置かれたままだった。黒い目には光がない。彼は既に死んでるんじゃないかと感じた。
「アニスはなぜ俺を愛してくれなかったんだ」
 そんなことは、聞かれたって知らない。彼がアニスを虐めてたからじゃないのか。自分を虐める人間を好きになる人がいるだろうか。少なくとも俺は離れようとするだろう。
「でも、それはもう終わったことだ。アニスは死んだ。もう帰ってこない。もうあの目を見ることはない。代わりに君が来た。君が俺の娘になってくれた。そして君は俺を愛してくれるんだな? いや、愛という感情など不要だ。君はそこにいてくれればいい。君がそこに座っていてくれれば、俺はただ淋しくなくなるから大丈夫なんだ」
 ぼんやりとした夢の中で、まどろみは俺を敏感にしていたのかもしれない。呼吸の音が近付いてきた。唇にやわらかいものを感じる。何かが口の中に入り込んできた。生温かくて気色が悪い。
 それは子供の手だった。子供みたいに小さな手が顔に触れていた。床の上に押し倒されて、そこでようやく口が解放された。ああなんだ、この人も、ラザーと同じことをしようとしてる。どうせ今は夢か現実か分かってないんだ、何をされようと俺の知ったことじゃない。それに、こんなものは瞬間的な感情にすぎない。波が通り過ぎれば忘れられるもので、怖くなったら目を閉じればいいだけのこと。俺には彼を否定する要因がなかった。確かじゃないものを信じる気にはなれない。
 相手の好きなようにすればいい。服従することには慣れてるから平気だった。相手はアニスの父親だとか、真の兄だとか、そんなことは関係ないことだった。俺にとっては相手が大人だという事実だけが重要だった。子供は大人に従って大きくなるもの。大人の作った環境が子供を成長させ、大人の気まぐれで子供が殺されてゆく。無力さを子供の罪と呼ぶなら、無知が大人の失敗だっただろう。俺は無力でも構わないと思った。
 静かな吐息を顔に感じ、いつの間にか光のない目から視線をそらしていた。力なく左右に広げた手を見つめていると、そっと相手の手が重ねられた。あたたかかった。体温があった。機械じゃない手だったんだ。俺の兄の手はあんなに冷たかったのに! それでも光は見えなかった。彼の中にあるはずの光は、濃い闇に押し潰されてぺしゃんこになっていたんだ。
 手や足、腹や胸に何かが触れた感触があった。目を天井に向けているからそれが何なのか分からない。こうしてじっとしていれば、俺は誰かを幸せにすることができるのかもしれない。身体を捧げ、心を眠らせ、物のように動くことを諦めたら、それだけで満足する人がこの世にはたくさんいるんだと分かっていた。左右で布が擦れ合う音が響いている。目を閉じれば吸い込まれてしまいそうで、無心になるにはまばたきさえ許されないような気がしていた。
 誰かを幸せにする為。誰かの幸福を作る為。自分を犠牲にするのはいけないことだと、かつて強い意志を持つ少女に言われた。それでも本当のことは変わらずに俺を待っている。アニスやラザーを苦しめた人間にだって、幸せになる権利はあるはずなんだ。俺はそれを安易に奪ったりしちゃいけない。俺たちが考えている以上に、奪ったり壊したりすることは簡単なんだから。
 欲しいなら差し上げればいい。求めるなら黙っていればいい。たとえそれが一時の幸福にすぎなくとも、それが幸福であることに違いはないのだから、人々は理解するべきなのだろう。今もまた彼が求めている。幸福が欲しいと叫んでいる。彼の涙を誰が見ただろう。俺にはそんなもの、ほんの少しだって見えてこない。
 だったら俺には何ができるだろう――淋しいと言って嘆いた彼に、何をすれば幸福を与えられるのだろう? どうしようもない、救われるべきじゃない相手、さっきまで憎んでいた相手なのに、なぜ俺は彼を救いたいと思ってしまったのだろう。いつか後戻りできなくなるほど追い詰められることも分かっているのに。なぜ今更現れたラザーやアニスの敵に、心を痛めなければならなかったのか?
 それはあいつが俺に――。
「何をしているの!」
 床に落ちていた埃が舞った。すっとあたたかいものが離れていく。誰かが俺の腕を乱暴に掴み、そのまま身体は床から離れてしまった。
「ああ、誰かと思えば、水竜のロスリュ様じゃないか……どうしたんだ、そんなに真っ青な顔をして。何か恐ろしいものでも見たのかい」
「とぼけないで! その子は私の知り合いなのよ、その子に妙なことをしたら許さないから!」
 言い争う一方の声はロスリュだった。彼女にしては珍しく落ち着きのない様子で、何やら早口にケキを怒鳴りつけている。どうしたというのだろう、いつもは何が起きても冷静に眺めていたのに、なぜ彼に対してあんなにも怒っているんだろう?
「妙なことだなんて……そんなことは一つもないじゃないか。あなたまで俺を遠ざけようとするのか。せっかく手に入れた新しい拠り所なのに、あなたは俺からそれを奪おうって言うんだ。酷い人だ。酷い奴だ! そんなに俺の不幸が美味いのか、そんなに他人の苦しみが心地いいのか! 人間なんて、竜なんて、神なんて、みんな同じだ、どうしたって他者の不幸がなけりゃ生きていけない弱虫なんだ!」
「よく言うわ、アニスを死に追いやったくせに! 被害者面をしないで頂戴、あなたの癇癪で何人の人が命を奪われたと思っているの!」
「自分の失敗に触れずに他人を否定? はは、これだから竜様は……あの出来損ないの神とよく似てるな!」
「黙りなさい!!」
 視界に映るのは向き合っている男の人と少女の姿。何を言っているのかまるで分からない。それでもそこに潜む感情だけは伝わってくるようで、居心地が悪くて眩暈がする。
 ぐらぐらする頭を支えてくれるものを探して空中に手を伸ばすと、さらさらした滑らかな布に触れた。思わずそれを掴んで引き寄せると、キンモクセイの甘く懐かしい香りがそこにあった。
 目が開く。
「……樹?」
 見上げると、そこにはロスリュの小さな顔があった。それ以外には何も見えなかった。俺の前にいるのはロスリュだったんだ。
 どこか戸惑ったような、心配そうな表情が浮かんでいる。俺はまた迷惑をかけてしまったのだろうか。何も知らないまま突っ走っていたのだろうか。頭が冴えてくるほど記憶はぼやけていくけれど、ロスリュは何も教えてくれないだろうと決めつけていた。
「樹、あなた、大丈夫? 彼に何かされなかった?」
「平気だよ」
 出てきた声は間違ってなかっただろうか。
「分かってる? 彼はアニスの父親のケキ。こんな奴と話をしたりしたら駄目。触られそうになったら呪文でも何でも使って追い払って逃げ出すべきなのよ」
「……どうして?」
「どうしてって、そうしなきゃあなたが悲しむことになるからよ。あなたもアニスと同じようになりたいの?」
「俺はアニスじゃないよ」
「そんなことは分かっていてよ。私が言いたいのは――」
「そうやって俺が逃げ出したら、この人は淋しさを消化できなくなる。それってすごくつらいことだと思うんだ」
 俺の言葉を聞いたロスリュは大きく顔をしかめた。
「何を言っているの、あなた……彼を庇うつもり?」
 庇うも何も、彼は悪いことなんてしていない。ただ淋しさに怯えていただけ。俺はそう解釈したけど、違うのかな。
「あなた、私が間違っていると言いたいの? 何なのあなた、彼に襲われたかったとでも言いたいわけ? いつもあんなに綺麗な横顔を見せていたのに、あなたは他人の為に泥を頭からかぶることも嫌じゃないって思ってるの?」
「これは泥じゃないさ……そんなに汚いものじゃない」
「いいえ、汚いわ! だって血が混じり合うのよ、そんなの恐ろしいじゃない!」
「恐ろしくなんてない。ラザーがそう教えてくれたから、俺にはそれが分かるんだ」
「あ、あなた……」
 丸い瞳を大きく開き、口元に手を当てて隠してしまう。ロスリュは二、三歩後退した。
 水竜の目は俺を見ている。とても驚くべきことがそこにあるかのように、ひたすらじっと視線をそらさずに立っている。
「ロスリュ、どうしたんだ」
「触らないで!」
 伸ばした手が振り払われる。どうしてそんなに怯えているのか、今の俺のままでは理解できない。
「触らないで、あなたがそんな人だなんて思わなかった! あなたもあの人と同じように、あのどうしようもない女と同じように、異形のものを愛そうって言うのね、自分とは違うものを救おうって必死になってるんだわ!」
「自分とは違うものって、自分と同じものなんて存在しないじゃないか。何を言ってるんだ、ロスリュ?」
「触らないでったら!」
 俺の手が拒まれる。俺の身体が拒まれる。俺の全てに対し、彼女は「要らない」と繰り返し叫んでいるんだ。
「ロスリュ」
「いや――」
「ロスリュ!」
「いや! 嫌なの、お願い、やめて! やめて……」
 彼女は両手で耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んでしまった。俺はその前で立ち尽くすだけ。ふと後ろから誰かが肩に手を置いてきた。そちらに顔を向けると、アニスの父親で真の兄と言っていた青年が無表情で立っていた。彼は俺の髪をふわりと撫でた。無機質な兄と同じように、とても優しい撫で方だった。この手が娘をぶったとは思えない。この手がラザーの銀髪を乱暴に引っ張ったなんて想像もできなかった。
「そこで震えてる水竜様は、自分の母親を呪い続けてる。子供が親を恨むなんてどうかしてると思わないか」
「母親……」
 知らない。俺はロスリュの親のことなんて、家族の事情なんて、一度だって聞いた記憶がない。そんなものをいきなり持ち出されてもどうしようもない。俺はどうすればいいって言うんだよ。
「子供は感謝するべきだ。育ててもらった親に感謝して、恩返しをするべきだ。それが子供の義務じゃないなら、他にどうすれば親は納得できるというんだ? 何の為に子供を育てて、何を目的として子供に愛情を注いだ? それは子供の幸福の為? それとも親の幸福の為? 子供は利用されるしかないのか? 親が利用されるしかないのか?」
「でも子供は……いつか自立するよ」
「しない。自立なんてない。親が生きている限り、子供が一人で放り出されることなんてない」
「どうして? 俺の世界じゃ、たくさんの人が子供のうちから自立してる。一人きりで生きている」
「それは子供のわがままだ。アニスもわがままだった。親の苦労を知らないで、自分一人でも生きていけるって思い込んでいるんだ。一人じゃ何もできないくせに、子供の力を無限だと考え込んでいる。それは大きな間違いだ、愚かな勘違いだ、子供は力の前じゃ羽虫以下だ、乱暴な大人に首を絞められて誰も通らない路地の上に転がることしかできない」
 だから子供は大人に従うべきだというのだろうか。しかしそれは支配だった。子供の世界は子供にしか見えなくて、大人が介入すると想像以上に混ぜられる。そうやって変形した子供の世界は、どうやっても二度と元の姿には戻らない。
 俺の前でうずくまっている少女は、自分より遥かに年下のようにしか見えない。いつもは年上のように見えていたのに、耳を塞いで小さく縮こまっていると、ただそれだけで全てのものに押し潰されているように見えてくる。俺はしゃがみ込んだ。そして彼女の震えを止めてやろうって思ったんだ。
「ロスリュ」
 長い髪を掻き分け、ぐっと相手の顎を持ち上げ、顔が見えるようにする。彼女は驚いていなかった。細くて大きな目にたくさんの涙を湛えていた。
 今まで一度だって彼女の声を聞いたことがあっただろうか。彼女が発してきた全てのものに、本気になって耳を澄ませたことがあっただろうか。俺は彼女のことを何も知らないままだった。普段ならそれを悔んで頭を抱えただろうけど、どうしてだか今はそんな気分になれなかった。なんだか相手が可愛らしく見えた。とても綺麗で繊細な、儚い命を前にしていると感じ取った。だけど彼女は水竜と言っていた。他者の命を喰らう、人間じゃない魂なんだと俺たちに知らせてきたんだ。俺はそれをどう解釈しただろう。そして彼女に何を求めているんだろう。
「ロスリュ。触ってもいい?」
「さ、触るって、何を――」
 何を? どうしてそんなことを聞く? いや俺は何を聞いているんだろう。何をしようとしているんだろうか?
 ふと目についた相手の肩に自分の手を置いた。肌はうっすらとピンクを帯びているのに、それは水のように冷たい肩だった。彼女には温度が必要だと思った。こんな冷たい身体のままじゃ、全てをありのまま受け取れないような気がしたんだ。身体を温めなければならなかった。でもどうすれば温かくなるのか、こんなぼんやりした頭じゃいくら考えても解決できない。
「親は、愛し方を忘れたら……」
 ひとりでに出てきた言葉だった。それは俺の中に眠っていた、どこかの誰かから聞いた昔の言葉。
「あ、ちょっと――」
 力いっぱい相手を抱き締めた。ふわりとキンモクセイの匂いが漂ってきた。甘くて心地いい匂いだった。そのまま匂いの中に溶けてしまいそうだ。
 相手の身体はやわらかくて、何にも支えられていなかったらしく、そのまま床の上に押し倒してしまった。俺は彼女の髪に顔を埋めていた。一つ一つの髪が綺麗な色彩を放っている。甘いキンモクセイの香りはここから漂っているようだった。俺はちょっと口に含ませてみた。甘い味がすると思ったけど、相手の髪はとても苦かった。
「あなた……何をするの?」
 消えそうに震える声が隣から聞こえてきた。でも俺が見たかったのは、相手の怯えた顔じゃない。
 ぎゅっと手を握り締めると、意識もしてないのに彼女の髪を掴んでいた。甘い香りのする少女の髪。滑らかで、さらさらしていて、限りないほどの長さを誇る髪だった。手で撫でるとその感触が全身を駆け巡り、女性というものの美しさとしなやかさが感じられる。ただ彼女の髪はそれ以上に、春の川のように透明で、自ら光を放っているかのように煌めいており、そこに乗ればいつかどこかへ運んでくれるような、一心に身を任せたい存在であることがうっすらと主張されていた。ほんの少し前のこと、数日前のことだけど、偶然触れた美しい銀色の髪は刺々しく、厳重に隠された宝の一角だった。彼はそれを触らせてくれなかったけど、直接肌の上に降りかかってきた時、やわらかいはずの髪の束は鋭い刃物のように硬かった。同じ髪なのに両者には差がありすぎた。俺はあの全てを拒む痛々しさより、何者をも無条件に包み込んでくれる甘さの方が心地いいと感じていた。
 欲しい。これが、この髪が欲しい。決して誰かに手渡さぬよう、自分だけのものにしていたい。そしてどんな時でも自分を癒してくれる、都合のいいものにしてしまいたかった。
「ちょっと、あなた」
 目を開けられなかった。事実を見るのが怖かった。このまま夢の中に沈んでいたかった、何も恐れるもののない、誰もが俺を許してくれる世界があって欲しかったんだ。少女の髪の触り心地が俺を夢に案内していた。たった一つ伸びた道を辿るように手を動かしていくと、肩と同じくらいに冷たい手に触れた。手首を確かめ、腕を登り、肩に進入する。その先にあるのは相手の鎖骨、首筋、顎、唇――ふと意識しただけで、全ての感覚が窓を開く。俺は頭を持ち上げて相手の顔を見た。
「ロスリュ」
「さ、触ら……ないで」
 もう我慢なんてしたくない。
「触らないでよ! 触らないで、触らないでったら――」
 相手の肌に触れようとした刹那、俺の下でロスリュは泣き出した。それによって俺は目を覚ました。光が舞い戻ってきたように、全てのはっきりしたものが世界を照らし始めていた。
 これは何だ。何が起きてこうなった? 何故彼女は泣いている? そして俺は、何をしようとしていたんだろう?
 いや、違う。これは、とても単純なことだ。答えはすぐ傍で俺を笑ってる。お前が彼女を泣かせたんだって嗤っている。悪いのはお前だと言っている。お前が彼女を襲おうとしたんだって言ってるんだ。
 襲うだって、俺がロスリュを? 馬鹿な、そんなこと、そんなことがあるはずがない。あるはずがないのに、そうなりかけていた。だけどまだ何も起こっていない。彼女が泣いたおかげで全ては止まった。泣いてくれてよかった。え? 泣いてくれてよかったって、そんなことを喜んでいるのは誰なんだ? 俺じゃないか。自分が他の誰より喜んでるんじゃないか!
「な、なんだ……これ」
 頭がくらくらする。夢の中のように現実がはっきりしない。俺は本当に俺だった? 相手は本当にロスリュだった? 彼女を泣かせたのは俺なのか? 俺が彼女の傷をえぐったのか? そして今、時間が止まっている――過ちに気付いて止まったわけじゃないのに、それがとても正しいことのようにしか見えない。どうして! 俺はこんなに、こんなにも、彼女の嫌がることを強行しようとしていたのに!
 なんということを、なんてことをしてしまったんだろう! 彼女を傷つけたのは俺だ、この水竜の少女を怖がらせたのは、いつかあいつに向かって差し出した綺麗な手を持っている俺だったんだ! なんて馬鹿なことを――ああ、どうしてこんなことをしてしまったんだろう! 俺は何も望んでいなかった、何をしようとしてたかも分からないのに、その先に潜む確かなものが彼女を怖がらせてしまったんだ。それは俺の罪だ、責任だ。俺は彼女に謝らなければならない!
「ロスリュ、俺は」
「嫌い、あなたなんて嫌い! その口で私の名前を呼ばないで、さっさとラザーラスのところにでも行ってしまいなさいよ!」
「違うんだ、俺は、間違ってたんだ――俺が間違ってたんだ、ごめん、ごめんな、怖がらせてしまってごめん!」
「酷い人――」
 ロスリュは両手で顔を覆い隠した。

 

 

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