月のない夜に

 

 

「おかえりなさい」
「うるさい」
 出迎えてくれた少年の言葉が俺を苛立たせた。相手の顔を見るのも億劫だったので、俯いたまま彼の前を通り過ぎ、奥の部屋へと歩いていく。たくさんの絵が転がっている部屋に入るとドアを閉めた。そして俺にはそこでしばらく立っている必要があった。
 頭痛がする。酷い痛みが常に襲う。頭が割れそうで苛々する。床の上に寝転がり、壁に顔を向け、ぐっと目を閉じると少し楽になった。だけど頭を支配する痛みはわずかながらに継続していた。
「樹君」
「うるさいって言ってるだろ」
「どうしたの、そんなに疲れて。楽になる方法を教えてあげようか?」
 目を開けてはならなかった。光を見てはならなかった。
「そんな方法、いらない」
「そう? だったら僕は干渉しないけど」
「分かったら早くあっちへ行ってくれ。俺を一人にしてくれよ」
「……」
 少しの間だけ、相手が背後に立っている気配があった。だけど俺がずっと黙っていると諦めたのか、すっと幽霊のように彼の気配は跡形もなく消えた。それでようやく俺は平穏を手にしたと思い込んだ。誰に怯えることもない、誰も傷つけることのない平穏を、この手にしっかりと掴むことに成功したと思ったんだ。
 もう空を見上げる気力もなかった。俺は一つの信頼を失った。それがただ一つの変わらない事実、夢じゃない現実の一頁だった。逃げ場が欲しかった。押し潰されるのは耐えられないと分かっていたから。
 なぜだか突然立ち上がって、自分で閉めたドアを勢いよく開けて廊下に出た。普段より幾らか足早に道を進み、見慣れた扉の前で急ブレーキをかけたように立ち止まった。そうして何の戸惑いもなく扉を開ける。中には深淵が詰まっていると知っていた。
「樹君! どうしたの――」
「あんたに用はない」
 真っ先に目の前に飛んできたヨウトを押しのける。どこかから出てきた目的はベッドの中で眠る人だった。数日間覗かなかった赤い目が欲しかった。弱い俺を殴り飛ばす乱暴な腕を持つ身体を求めていたんだろう。その人は想像通りの格好をしていた。短く切られた髪を枕の上に乗せ、起きている時より穏やかな表情で、夢に囚われて動けなくなっていた。俺はそっと手を伸ばしたつもりだったが、彼に届いた手は必要以上の力が込められていた。闇の中でも静かに光る銀髪を手元に引き寄せた。それで彼を自分のものにしたつもりだったのか?
「起きろ」
 呼びかけても返事はない。俺は布団を引きはがした。
「起きろよ!」
「樹君、やめてよ」
「うるさいな、あんたに用事はないんだよ!」
 後ろから腕を掴まれる。それを振りほどくと今度は身体ごと後ろに引っ張られた。両手を腹に回し、俺を彼から離そうとしている。そんなことで俺を止められると思っているのか。
「ロイは起きないよ」
 力ずくで相手の手から逃れると、光のない目がじっとこちらを見ていた。
「ロイは眠ったんだ。ここで、僕の傍で暮らす為に。君にはあげないよ――ロイは僕のものだ」
 おかしなことを言う相手だった。生きている人間を支配できるわけがない。いや、それ以前に、嫌っている人の為に眠るなんて、そんなことができるはずがないだろう。彼は俺を混乱させようとしてるんだ。俺が道に迷って、頭を抱えて、最初から存在しない出口を執拗に探し回る様を見物し、それを面白がって指先で操作しようって魂胆なんだろう。
「組織の奴は嘘つきなんだな。ラザーも、あんたも、つまらない嘘ばかりを言う」
「嘘? 僕はそんなものを喋ってるんじゃない。僕が伝えたかったのは真に起こったこと、どこまで行っても追いかけてくる、否定できない大きな幻想だけ。それを君が嘘と呼ぶなら、僕は何も口出ししないけど、君はきっと知らなきゃ怒り出すよ。だからこうやって知らせてあげたんじゃないか」
 俺は眠り続けている青年の――ラザーラスの顔を見下ろした。そこから感じられるのは、起きている時よりも幸せそうだということだけ。俺たちと一緒に生活する時間より、学校でつまらない話をする時間より、終わりのない夢に沈む方が幸福だというのだろうか。だったらどうしてあんなにも、悲痛な声を出して助けを求めたのだろうか。それを本気で受け止めて、彼の為に自分を犠牲にし、あらゆる暗闇に気付かなければならなくなった俺は滑稽だと言うのだろうか。彼は俺の困った姿を間近で眺めながら、いつも声をひそめて笑っていたとでも言うのだろうか! いいや! それは違う、違うはずだった。俺は確かに彼じゃなかったが、それだけははっきりとした答えを導き出せる簡単な問題だったんだ! 彼は確かに俺を求めた。永遠を持たない刹那の光を、少し力を込めればすぐに壊れる脆いガラスの塊を、あんなに眩しそうな瞳で羨ましげに見つめていたじゃないか。あれは嘘じゃない――嘘じゃなかった、そうだ、だって、いつか彼は俺に、一つも嘘を言わなかったって告白したんじゃないか。
「だけど安心したよ」
 相手が何を言おうと、混ぜられた液体は元に戻るはずだった。
「僕は君がそうなのかと思ったから。君が彼を目覚めさせる人間なのかと思っていた。だけど、彼はこのとおり。僕が呼びかけた時と全く同じように、一つの反応も示さないまま眠り続けるだけだったね」
「いつかは起きるさ……起きなきゃならないって分かってるから」
「分かってないよ。いや、たとえ分かっていても、彼一人の努力じゃ起きられない。誰かが力を貸してあげなければ。でもそれができるのは君じゃないし、僕でもない。この世で生きているたった一人の人、その誰かにしか彼を起こすことはできないからね。ああ、君じゃなくてよかった。君がそのたった一人の誰かじゃなくてよかったよ、本当に、君が彼を奪ったような気がしていたから。でもそれは僕の錯覚だったね。彼はまだ誰にも奪われていないようだ。だから僕にとっては都合がいい。眠って動けない相手なら、簡単に独占できてしまうからね」
「独占?」
 ラザーは目を開けていなかった。呼吸さえしていないように見える。
「そう。彼を眠らせたのは僕。そして彼にはほんのちょっと面白いおまじないをかけたんだ。彼自身が最も必要としている相手にしか、彼を目覚めさせることはできないようにってね」
 ぐっと視界が低くなった。俺はラザーの前でしゃがんだようだ。
 見慣れた横顔が眠っていた。
「最も必要としている?」
「そしてそれは僕じゃないし、君でもなかった。彼がここにいることを知っているのは僕と君しかいない。つまり僕は成功したのさ、命綱のない綱渡りを、一か八かの危ない賭けを、僕は何不自由なく成功させることができた。彼は動かない、動けないからね。そして君も動かない――だって君も、動けないんでしょう?」
「嘘ばかりを言うな」
 口から出てくるのは否定の言葉ばかりだった。誰と向き合った時も同じだった。俺はまた過ちを繰り返そうと準備を整えていた。丁寧に装飾された素朴な正義感は、負の感情のぶつけ合いによって許すことを忘れたようだ。
 立ち上がって振り返る。水色の髪を持つ少年が俺の顔を見て笑っていた。ふと彼の下にあるもう一つの顔が鮮明に色づいたように見えた。俺の右腕は持ち上げられ、精霊の力が内側から滅びを叫んでいた。
 白い光と共にヨウトは消えた。それは俺が願った結末だった。彼は要らないと思ったんだ、俺とラザーを困らせて楽しむような奴、まともな考えができない奴はここにいる必要がないと感じたから。同じ空気を吸うことさえ腹立たしい。違う空間で、異なる時間で、決して交わらない直線の上で生活していればそれでいいと思った。平行な時空が俺の存在を証明してくれればよかったんだ。
 ラザーのベッドに身体を向け、しゃがみ込む。同じ顔がそこにある。寝顔はヨウトやケキとよく似ていた。また俺自身の横顔ともそっくりだったに違いなかった。
「ラザー」
 呼びかけた声が森の中に消える。
「いつまで寝てるんだよ。もう起きてるんだろ?」
 電気の音も聞こえない。風の歌声も届かない。
 そっと相手の頬に手を当てた。
「なあ、騙し合いはここまでだ。本当のことを白状しよう。俺はあんたを」
 動いた手が彼の銀髪に触れた。ちくりとした痛さがあった。俺の手は反応して、そのまま銀の髪をぎゅっと握った。そして上から降ってくる鋭い言葉を待ち構えていた。
「ラザー」
 待ち構えて。
「ラザーラス」
 待ちくたびれて。
「この、嘘つき!」
 嘘つき。嘘つきだ。こいつは悪人だ、救われるべき生命じゃない!
「冗談じゃない、いい加減にしろよ! なんで目を覚まさないんだ、いつも夜遅くまで起きてるくせに、俺に寝顔なんか見せなかったくせに、なんで今日に限って寝てるんだ! 起きろ、起きろよ! 目を開けろ、俺の顔を見ろ! そして俺を叱れよ、思いのまま罵れよ!」
 俺の息が相手の顔にかかる。唾が飛んだかもしれない。半分だけ綺麗な顔は何色も受け付けず、もう片方の汚れ切った顔面は脆弱な紙面を被せられていた。閉じられた目のまつ毛が美しさを装飾している。ただ俺にとってそれは誘惑以外の何者にも見えなかった。
「なんだよ、それ」
 再び頭痛が襲ってくる。俺はそれから逃れるすべを知らないままだった。
「あんたが最も必要としてる人? その人じゃなきゃあんたを起こすことはできないって? それは俺じゃない? 確かに俺を頼ってきたのに、俺は必要じゃないって言いたいのか? だってラザー、あんたは、俺を愛してるって言ったじゃないか……それは俺を必要としてたから、あんな馬鹿正直な単純さを見せてきたんじゃなかったのか?」
 彼が俺を必要としてないのなら、今までの俺の行動は一体何だったのだろう? 余計なお世話、誰も褒めないお節介、自分を安心させる為の利益にまみれた俗っぽい行動――俺が悩む理由はなかった? 俺が苦しむ根拠は違った? だけど、だって! ラザーは俺を頼ったんだ、俺を必要としてきたじゃないか!
 それがどうして、今になって突き放されなければならない? 彼が求めた愛の形は、ずっと変わらないたった一つのものじゃなかったのか? 俺は彼にとって重荷にしかならなかったのか、彼の傷跡を癒すふりをして、古傷をえぐり尽くして去っていく通り魔に過ぎなかったのか! いや、そうじゃない、そんなはずはなかった! 彼が向き合ってきた瞬間は、彼の赤くて鋭い目を覗いた刹那は、相手の中から滲み出る誠実さが俺を捉えて離さなかった。それこそそのまま飲み込まれてしまいそうなくらい! 彼は嘘など言ってなかった――嘘なんて一つも言ってなかったのに、どうして! 俺はまた騙されたとでも言いたいのか!
「なんで、なんでだよ! 一緒に生活したのに、心が通じたと思ったのに! なんでこんなにも簡単に、あんたは俺から離れていくんだ! あんたを繋ぎ止める鎖が欲しい……決して遠くへ行かないように、俺だけが制限する自由の中で、同じものを分け合っていけたらいいのに――」
 感情が口の中から溢れてくる。それは彼を許せないと言っている。また俺は騙されていたんだと、単純な自分は騙されることしかできないんだと笑ってる。
「だ、騙すって……どうして。だって、ラザー、愛してるって、そう言っていたのに?」
 その愛は利用? その愛は利益? その愛は同情? 俺は彼に、どんな愛の対象とされていたんだろう? そして俺は彼に対し、どんな色の愛を押しつけていたんだろう?
 分からない。分かる方がおかしかった。愛なんて目に見えないもの、少し思い出しただけで分かるわけがなかったんだから。聞こえてくる全てが俺を笑ってるように感じられる。馬鹿な奴だと、騙されてることも知らないで、何を必死に救いを探していたんだって。俺はそれから逃げなければならない――追いかけてくるものに食われる前に、耳を塞いで反対側に走っていかねばならなかった。だけど、追いつかれてしまう。今の俺のままじゃ、騙されたことに嘆いている俺なんかじゃ、すぐに追いつかれて闇の中に引きずり込まれてしまうだけだった。それが怖くて仕方がないのに!
「いや……違う。ラザーは俺を騙してたわけじゃない。言ってたじゃないか、嘘なんか一つも言わなかったって。俺は彼を信用してたんじゃなかったのか。彼を信じるなら、あの言葉も信じなければならない。嘘を言っていたのは、ヨウトだ。あの組織の一員の――幽霊のような、一度死んだ子供――あんな不安定な奴なら、汚い言葉を平気で口にできる子供なら、幾らでも嘘をつけるはずだ。そうだ嘘をついたのは彼だったんだ、最も信頼してる人じゃなきゃ目覚めさせられないって、そんな馬鹿なことがあるはずがないじゃないか。ラザーはただ眠っているだけ。疲れたから眠ってるだけなんだ。少し深い眠りで、俺がここにいることにも気付いてなくて、もうじきすれば目を覚ますんだ。だから彼が裏切ったわけじゃない。ラスやシンみたいに、俺を騙そうって思ってたわけじゃないんだよ、絶対に!」
 そうでなきゃ彼が俺に愛してるって言った意味が成り立たない。そうじゃなきゃ、彼が俺の呼びかけでも目覚めない理由が説明できない! あれは本物だった、同じ空間で過ごした日々は、同じ空気を吸い込んだ時間は、幻でも夢でもなかった――確かにこの肌で感じ、この目で見つめ、この口で味わったことじゃないか! 誰がそれを否定できる? 誰がそれを破壊できる! 俺が今まで頑張った理由、俺が彼を救いたいと思ってしてきたことは、彼が俺に助けを求めたからじゃないか。彼が俺を愛してるって言って、俺に頼ってきて、俺の手を引っ張って、わがままを言って困らせて、この小さな小屋に閉じ込めて、彼が俺を所有していたその理由は、たった一つの愛の形、彼が欲しくても手にできなかったそれを、俺が与えられるかもしれないからだったんじゃなかったのか! だから俺は彼を救おうって、彼を襲う全ての怖いものを取り除こうって、彼を震えさせるあらゆるつらいことから守ってやろうって、そうやって自分を捨てて走り続けていたんじゃなかったのか! そう、それは義務だった。俺は彼を救わねばならない、他の誰でもなく俺が! 彼が俺を求めた以上、俺が彼を救わなければならないんだ。
 俺が、彼を救わなければ――。
「う――」
 酷い頭痛が襲う。本当に頭が割れそうだ。髪を握り締めると勢い余って抜いてしまった。それでも痛みは止まることを知らない。
 歯を食いしばって我慢する。我慢して、激情が治まるまで黙って耐えよう。ラザーのベッドに顔をうずめる。息ができなくなって苦しくなった。
 でも、どうしてだか安心できた。このままベッドに殺されても満足できただろう。このやわらかさが心地いい。このまま永遠に迷い込んでしまいたかった。
 そして目を閉じたなら、紙の裏に潜む素顔が見える夢があるような気がしていた。

 

 +++++

 

 誰かに呼ばれたような気がして目を開けた。顔を持ち上げると、俺はラザーの眠っているベッドにもたれかかっていることに気付いた。窓に目をやると眩しい光が差し込んでいる。どうやら夜は飛び越えてしまったらしい。
 ラザーはまだ起きていない。昨日と変わらない姿で静かに目を閉じていた。もう久しく彼の声を聞いていない。少し低くて鋭い、俺を叱りつけて優しげに微笑むあの声が恋しかった。
 立ち上がろうとしたけど、身体に力が入らなかった。疲れが溜まっているんだろうか、何もしていないのに? いや、昨日は確か、ロスリュに会いに行ったんだっけ。そしてアニスの部屋に行って、真のお兄さんに会って、それから俺はロスリュを――。
「ロスリュ……水竜? 少女?」
 頭の中で何かが構築されようとしている。だけど針のように尖った物が邪魔をして、なかなか欠片が綺麗に繋がらない。何だっただろう、これは、とても重要なものが計画的に欠けている気がする。見落としてはならないもの、誰かがつい最近口にしていた、最も近しい原因の呼び声が。
 ああ、駄目だ。何も思い浮かばない。俺は何に気付こうとしたんだろう。ここにいたら、この閉鎖された空間にいたら、頭が正常に働かない気がした。俺は外に出なければならないんだ。
 ヨウトはもういない。戻ってきたなら追い出してやる。可能なら永遠に消してやってもいい。嫌いだ、あんな奴、純粋そうな顔をして、欲望の交差した道に立ち尽くしているんだから。彼を追い出すことに成功して良かった。もう二度とラザーに近付けさせるものか。
 ラザーに必要なのはヨウトじゃない。彼が必要としてるのは、俺なんだ。
 無理矢理身体を起こして立ち上がる。それだけで眩暈がしたけど、そんなものは忘れようと思って、ふわふわした足取りで部屋の外に出た。玄関の近くの机に置いてあった鞄を手に取り、鍵の掛かっていない扉を開く。太陽の光が俺を照らしていたが、自分の中で煌めく光は途切れ途切れに揺れるだけだった。
 俺が望んだのは学校に行くことだった。昨日も行ったはずなのに、今日になって見上げる校舎は全くの別物のようにしか見えなかった。あまりに大きすぎて圧倒されてしまうのに、それは小さいものなんだと分かっていて気色が悪い。俯いて校内に入り込み、教室にある自分の机に座って頭を抱えなければならなかった。
「ちょっと、樹」
 どれくらいじっとしていたか分からないけど、俺の目を覚まさせたのは不満そうなリヴァの声だった。
「君、一体どういうつもりなの? 学校に制服も着ずに来たりしてさ」
「制服?」
 視線を落とし、自分の姿を確認してみる。俺は昨日の私服のまま学校に来ていた。
「どうしたのさ、そんなに驚いて」
「俺は……疲れてるんだ」
「うん、そうだろうね。保健室にでも行く? なんなら送っていこうか?」
「保健室……」
 嫌な響きだ。でもどうして嫌なのか、自分でも面白いくらい分からない。いいや、そうだった。確か保健室は、以前ラザーが過ごしていた部屋だった。あれはラザーが苦しんでた日々のこと。俺が全く気付かずに、ラザーに守られていた時間の一片。
 あの部屋には保健の先生がいるはずだった。ラザーはあの人と会話をしたんだろうか。あの人に何かを喋ったんだろうか。あの人と話をすれば、ラザーが何を考えていたか分かるだろうか? そんなことはあり得ないと思う、だけど、今は些細な異色も見逃したくなかった。俺はもっと敏感に周囲を見回さなければならないんだから。
「ごめん、連れて行ってくれないかな」
「あれ、本当に行くんだ。仕方ないね、今度何かおごってよ」
「ごめん。ごめんな」
「なんでそんなに謝るの」
「え――」
 言葉が喉に詰まる。そのまま息ができなくなるかと思った。
「樹、本当に大丈夫? 保健室に行くより、家に帰った方がいいんじゃない?」
「大丈夫だってば……」
 顔を覗き込んでくる相手は、とても優しい人だった。俺はそれをよく知っている。知っているからこそ、頼りたくなってしまう。でも俺が経験したラザーとの暗闇を説明するのが怖かった。純粋で罪のない謙虚な青年を、大きな口を開けて待っている深淵に差し出すことができなかった。それでも心のどこかで頼りたいと願っている。全てを投げ出して、光の溢れる美しい世界へ逃げたいと、何も知らなかったあの頃に戻りたいと叫んでる。そんなこと、できるわけがないのに。
 授業が始まる前にリヴァに連れられて保健室に向かった。保健の先生には調子が悪いと言っておいた。リヴァは俺を保健室に入れると、一人で教室に戻っていった。俺は二つしかないベッドの一つに寝転がり、汚れた白い天井を見上げることにした。
「川崎君」
 授業開始のチャイムが鳴ってしばらくした後、保健の先生の優しげな声が聞こえた。身体を起こし、彼女と向き合う。肩より下まで伸びた髪はウェーブがかかっており、銀色の縁の眼鏡がよく似合う女性だった。相手はベッドの傍に椅子を寄せ、その上にちょこんと座り込んでいた。
「君はラザーラス君のお友達だったわよね? 彼、最近学校に来てないって聞いたけど、どうしてるか知ってる?」
 この人が心配しているのはラザー。そして俺はラザーの状態をよく知っているはずだった。
「ラザーは……俺が救わなきゃならないんだ」
「救うって、彼、やっぱり――」
 やっぱり? やっぱり何だって言うんだ? この人は何を知っている? 俺の知らないラザーの姿を知っているとでもいうのだろうか? 俺はラザーの友達だ、仲間だ。そして彼は俺を愛してると言った――彼のことを最もよく知っているのは俺だ、俺以上に彼を理解できる人なんていない!
「ねえ、川崎君。ラザーラス君は、誰かに虐待されているんじゃない?」
「虐待? なにそれ……」
「何って、だって、この保健室に初めて来たとき、彼の服はぼろぼろだったわ。まるで刃物で切り刻まれたかのように」
 切り刻まれた? ラザーの服が? 俺はそれを知らなかった。はっとして目の前の女性から視線をそらし、その奥に置かれてある質素な椅子を見た。そこには白衣に身を包んだラザーが座っているように見えた。服を切り刻まれたラザーに向かって、俺は何を言っていただろう。綺麗事が嫌いだと吐き出した相手に、俺は一体どんな安っぽい台詞を無理に聞かせたんだろうか!
 もっと早く、彼が不思議な行動をとるようになってから、疑問に思う言葉を繰り返していた頃から、俺が気付いていればよかったんだ。組織の連中に襲われてるって、夜の狂気に巻き込まれてるって、彼が出し続けてきた繊細な信号に気付かなければならなかったんだ。それなのに俺は、なんにも見えていなかった! 彼の見慣れた仕草に安心して、音のない声に振り返ることすらできなかったんだ! それは俺の罪だった。全ての人間から罰せられるべきの、孤独に沈んだ者に捧げられる罪だった。ラザーはアニスの十字架を背負い、俺はラザーの冠を作らねばならないんだ。慣れた手つきで、笑いながら、光を一つずつ丁寧にこしらえていかねばならなかったんだ。
 それができなかったのは何故。ひたすらに逃げ出そうと頭を抱えているのは、どうして?
「頭が痛いんです」
「え?」
「彼の事情を知ってから、彼の怒った顔を目の当たりにしてから、ずっと頭痛が続いているんです。先生、俺はどうかしちゃったんだ」
 相手は戸惑っている様子だった。どうして戸惑う必要があるのか、俺にはきっと理解できない。理解できる方がおかしかった。だって俺は相手じゃなかったから。
「川崎君――」
「それとも彼がどうかしてるんですか? 俺じゃなくて、ラザーがどうかしてたんですか? ああ、そういえば……そんな気がする。俺はずっと正常だったんだよな?」
 静かに目を閉じると昔の情景が甦ってくる。まだ何も知らずに笑い合っていた日々。勉強を教えてもらって呆れられた時間。いつものメンバーで馬鹿みたいに騒いでいた刹那。このまま夢の中に沈んでしまいたかった。決して目覚めることのない眠りに、永遠とも知れぬ時の中へ、頑丈に閉ざされた扉を開く鍵を見失ったふりをして、記憶喪失者のように振る舞っていたかった。そこでは自分が自分として描かれていると分かっていたから。
 ふっと身体から力を抜くと、頭を支える必要がなくなった。ふわふわした感触が背中を心地よく刺激する。そうして思い出したのは両親の顔だった。その中に俺と姉貴は混じっていなくて、代わりに兵器の兄と姉が手を繋いで向き合っていた。

 

 +++++

 

  起きたくないのに目覚めてしまった。夢の内容は覚えていない、全て白と黒に飲み込まれてしまったから。目を開けると白い天井はオレンジに染まっていた。そのおかげで昼間より天井の汚れが目立たなくなっており、不快感も知らぬまま身体を起こすことに成功したのだろう。
「おはよう」
 何故だか聞き慣れた声が聞こえてきた。重い頭を動かして隣を見ると、しゃんとした青年の幼げな瞳がこっちを向いて二つ並んでいた。
「リヴァ?」
「そーだよ。君が起きるのを待ってたんだ。さ、家に帰ろう。そう何日もお姉さんを心配させるもんじゃないよ」
「……帰る?」
 彼が何を言っているのか分からない。帰るって、俺はどこへ帰ればいいのだろう。俺が帰っても許される場所はどこ? それはラザーの眠るあの家なのか、それとも白黒の世界の無機質な建物なのか――。
「ぼんやりしてないでさ、とにかく立ってよ」
 ぐいと腕を掴んでくる。
「やめろ」
「じゃ自力で立ちなよ」
 相手はすんなりと手を放した。どうしてそんなことができるんだろう。一度でも身体を掴まれたなら、ラザーはなかなか手を離してくれなかったのに。
「君は疲れてるんだ」
「そんなことない」
「嘘を言わないでよ、君がそう言ったんじゃないか。君はきっと悩み事でも抱えてるんだね。それがなかなか解決しないから、頭が混乱し続けてるんだよ」
 俺はまばたきした。幾度か繰り返した。相手の顔をじっと見る。奥に何が隠されているか、すぐに見つけることはできなかった。
「な、なにそれ」
「何って、それはこっちの台詞だよ。君は一体何について悩んでるの? 大学受験に悩むにはまだ早すぎるよね。まさかとは思うけど、恋でもしたの?」
「違う! そんなもんじゃない――」
 目の前の顔は笑っていない。それは俺が笑えないから。繰り返す頭の痛みが少しだけ大きくなった。また一つ、小さな光を見失ったと感じた。
「……なんで悩んでるって分かったんだよ」
 ため息が出たので俯いた。額のあたりに手を当て、無意識のうちに髪を掴んでいた。飲み込まれそうな瞳を見るのが怖い。差し出された手を受け取るのは、どうしてもできないことだった。
「なんでって、そんなこと聞く? 君って本当に分かりやすいんだから。前までは何も苦しいことなんか知らないってくらいぼーっとしてたのに、最近になって下に俯くことが多くなって、さらに頭を抱えたり、体調崩したり、挙句は疲れたとか言って授業サボるし。そんな様子見たら誰だって気付くでしょ、何かあったんじゃないかってね」
「気付くって――お前、気付いたのか」
「はあ? あのねー、気付いてなかったらこんなこと言わないでしょ」
「え?」
「あー……うん。そうだよ、ぼくは君の悩みに気付いた。でも君が何について悩んでるのかはまだ知らない。えっと、よかったら話して欲しいんだけどさ、構わない?」
「話すって……何を?」
「いや、話したくないなら話さなくてもいいからさ。だけど覚えてて、前にも言ったとおり、ぼくは君を孤独にはさせないから。できるだけ君の力になりたいって思ってるから」
「……」
 彼は俺に優しくしてくれる。それは同情からじゃない、とても純粋な、友達としての素直な態度。いつも俺が振りまいていた感情と同じの、あまりに美しすぎて恥ずかしくなるくらいの愛情の形だった。
「分かりやすかった?」
「うん。すごく」
「俺は分からなかった」
 だから泣いた。情けなくて泣いた。
「気付かなかった。少しも気付かなかった。ちょっと疑うこともあったけど、いつも何か秘密を抱えてるのがあいつだったから、時が過ぎればいずれ話してくれるって考えてた。でもそれは間違いだった。あれが、あのおかしな行動こそが、彼の出し続けていた悲痛な叫びだったんだ――今ではもう、その全てを忘れることができない。俺は気付かなかった。あいつが、あいつがもっと分かりやすい奴だったなら、気付いていたんだろうか……なあ俺は気付くことができたんだろうか?」
「無理だろうね。君って鈍感だから」
 即座に帰ってきた答えに面食らう。言い返す言葉が見つからず、思わず相手の顔をまじまじと見つめてしまった。
「ラザーのことでしょ? 君の悩みの正体って」
「な、なん――」
「なんで分かったかって? 分からないわけがないじゃない、二人揃っておかしくなるんだから」
 すらすらと言い当ててくるのは確かにリヴァセールだった。こんなに身近に潜んでいた罠に、俺はすっかり騙されていたとでもいうのだろうか。いや、これは確かに逃げ場だった。エスケープが俺を招こうと居場所を生成しているんだ。
 あんなに悩んだのに、あんなに苦しんだのに、それらが次々と壊されていく。あれは無駄な行動だったと笑われていた。過去を顧みぬ愚か者の戯言だと踏みつけられていた。かつて聞いた闇の精霊の言葉が脳裏をよぎる。それは一つの物語、始まりがあって終わりがある、綺麗に整えられたストーリーなのだと宣言した墓標が眼前に迫っていた。
「君さ、ラザーと一緒に住んでるんでしょ」
 耳を塞ぎたくなる。でもそんなこと、失礼すぎてできなかった。
「だったら何だよ」
「今日もそこに帰るの?」
「分からない」
「たまには家に帰ったら? さっきも言ったけどさ、あんまりお姉さんを心配させちゃいけないよ。それに、体調崩すほど悩むんなら、君は一度ラザーから離れるべきだと思うよ。一つ壁を隔てたところから見ればさ、案外簡単にいろんなものが解決できるって思うんだ」
 綺麗事だ。それは罪のない綺麗事だった。
「帰れない……帰れないんだ。俺はもう、ラザーをあの小屋に一人きりにして、自分だけが光の溢れる世界に逃げ込むような真似をしたくない。だってもし俺が家に帰ったら、ラザーを一人にしたら、ヨウトがラザーを独占しようと戻って来てしまう。それは嫌なんだ、どうしても嫌なんだよ、あいつにだけは奪われたくないんだよ!」
「じゃどうして君は今日、学校に来ようと思ったの?」
 どうしてだって。決まってるじゃないか、そんなこと、理由なんて一つしかない。あの薄汚れた真っ暗闇から脱出したかっただけだった。誰もが俺を快く迎え入れてくれる温かさを感じたかったんだ!
 ちょっと手を伸ばしただけで相手の身体に触れることができた。俺は彼の肩に手を置いた。鋭く突き刺す目を見つめた。そのまま食い殺してやろうかと思った。俺を揺るがそうとする悪い魔物をやっつけて、再び天上まで突き抜けるような爽快を欲していたのだろう。ただそこに永遠はないと分かっていた。もしそれを隣に感じることができたなら、全てを手放してでもそこへ走っていったはずなのに。
「なあ、俺は誰かに頼ってはいけないんだ」
 静かに滑り落ちた呟きは、あの人を想う為の一つの方法を物語っていた。
「どうして? 君に協力しちゃいけないってこと?」
「協力するとかしないとか、誰かを救うことにそんな言葉は似合わない。たった一つ、分かっている事実は、ほんの数か月前に見つけたあいつの願いだけだった。そして俺はそれを守りたいと思ってる。だってそうだろ、そうすることが、あいつが生きた証を示す唯一の手段だから。どうしてそれを蹴り飛ばし、踏み躙って、笑い飛ばすことができるだろう!」
「いや、別にそうしろなんて言わないよ。だけど君――君さ、ねえ、それってどうしても一人でやり遂げなきゃならないことなの? 誰かと一緒に協力して、誰かを救うことは許されないの?」
「し、知らない……俺はそんなこと知らない! でも俺は光なんだ、闇のない光だから、あいつの言った通りに、俺は光を分け与えるべき人なんだよ!」
 きっとそれこそが俺の存在で、そこにある価値だけが俺を俺として保ってくれるものなのだろう。いつだって手を伸ばし、何かを待ち続けている人は世界じゅうに溢れている。救いを求め、砂ぼこりの只中で、渇き切った涙を忘れた瞳が見つめるのは、透明で壊れやすい光を差し出す救世主の閉じられた眼だけだった。だから人々は偶像を崇拝し、夜に向かって祈りを捧げ、心の中に平穏を作ろうと必死になって絵を描いた。その白黒のイラストに色彩を降りかけるのは、彼らが創造した終わりのない存在だけだったのだろう。
 彼にとってのメシアはいても、俺にとってのキリストはいなかった。
「樹?」
 かつてラザーが弱音を吐き出した時、俺は何を見つめていただろう。そんなことはもう遠すぎて思い出すこともできないけど、あの時の相手と同じように、俺は相手の肩に顔をうずめていた。そうしたら彼のぬくもりが近くまでやってきて、滑らかな布で包まれたような安らぎが感じられた。眠ってしまいそうだったけど異様なくらい目は冴えていた。どこかから懐かしすぎるメロディが流れてこの耳に届いていた。
「家に、帰るよね?」
 脆い姿を見せたのに、相手は俺を抱き締めたりしない。
 ただ俺はもう、頷くことしかできなかった。

 

 

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