月のない夜に

 

 

「あれ、樹……」
 リヴァに連れられて家に戻ると、玄関でばったりと姉貴に出くわした。両手にはネギの飛び出しているスーパーの袋が握られており、つばの長い帽子が慣れた様子で頭に乗っている。ズボンのポケットからは自転車の鍵に付けた星型のキーホルダーが顔を見せ、長くなった髪は後ろで一つに束ねられていた。その姿は自転車で買い物に行ってきた事実を必要以上に俺に知らせてきた。非常に庶民的な、安定した、偽りの知らぬ日常の一端だった。
「あんた、帰ってくるなら連絡くらいしなさいよ。晩御飯のおかず、二人分しか買ってないわよ」
「姉貴、今日は仕事……休みなのか?」
「お昼に終わったの。その代わり明日は泊り込み」
 相手の声が懐かしい。ほんの数日間離れただけだったのに、もう何もかもが過去に押し流されてセピア色に染められているみたいだった。
「お姉さん、樹は疲れてるんだ。今日も学校で保健室にこもってたし」
「おい、言わなくていいって」
「保健室? なあに、あんた、それが原因で今日帰ってきたの?」
「そういうわけじゃない――」
 事実を説明するのが怖い。真相を知られるのが恐ろしい。
 あの時と同じ。スーリに自分の正体を突き付けられた時と同じように、親しい者が離れていく虚無感を味わいたくなかったから、本当のことを知らせる勇気がどうしたって湧いてこなかった。でも、きっと知れ渡る。俺だけの秘密じゃなくなった瞬間から、それは誰の耳にも届く破片として機能し始めたのだから。
「んー、熱でもある?」
「やめろって」
 姉貴は俺の額に手を伸ばしてくる。どうか触らないで欲しかった。でもそれを願った少女の身体を無理に触った俺なんかが、相手の要求を破壊できるわけがなかったのだろう。
「熱はない、かな? でも疲れてるんなら部屋で寝てなさい。明日は祝日でお休みだし、ちょうどいいじゃない」
「……祝日?」
 休みだって。そんなこと、全然気付かなかった。俺は今日が何曜日なのかも分かっていない。今が何月なのか、何日なのか、それら全てが俺の中から消え失せたみたいだった。残っているのはラザーのことだけ。彼が口から発した叫びと、俺が救わねばならないという義務だけが頭の中を支配し続けていた。他のものなど必要なかった。俺にはラザーだけがいれば、それ以上に望むものなんか一つだってなかったんだ。
 自分の部屋に行くとリヴァが後ろからついてきていた。俺がベッドの上に腰を下ろすと、相手はドアをぱたりと閉める。何か言いたげな顔で前まで歩いてきて、床の上にさっとしゃがみ込んだ。
「ねえ、詳しく話して欲しいんだ」
 深い銀色の目が俺を捉えている。
「詳しくって何だよ。お前は何を知りたいんだ」
「全部だよ。君を悩ませている要因、全部」
「それを知ってどうするんだよ。今までのんきに学校に行って、ラザーの悲鳴に気付かなかったお前が、今更あいつの苦しみを知って何になるっていうんだよ」
「それは君も同じことでしょ」
 底が見えてこなかった。かつて彼の瞳にこれほどまでの深みを感じたことがあっただろうか。それは或いは俺を救う物差しだったかもしれない。ただ自分は逃げてはならないと、そう宣言した自分の口がある限り、俺は彼につまらない話をする意欲さえ抱いてはならなかった。
 顔をそらすと見慣れた壁が俺を見ていた。ざらざらした肌触りの、幼い頃から親しんできた空間を切り離すもの。ベッドに寝転がると天井が俺を見下ろしていた。そこに取りつけられた照明は、光である自分に人工的な光明を浴びせてくる鏡のような存在だった。
「樹、ぼくの顔を見て。目を見てよ」
 腕を引っ張ってくる相手がいる。それは同じ家で暮らす一人の友人。
「出ていけよ」
「君が話してくれたら出ていくよ」
「出ていけって! ここは俺の部屋なんだ、お前の部屋じゃない! 俺は疲れてるって言っただろ、もう休ませてくれよ!」
 俺は何を言っているのだろう。優しくしてくれる彼をはねつけて、その先に待つ何を期待しているのだろうか。相手はすぐに部屋を出た。閉じられた扉の音が消えた頃、はっとして起き上がると、あの頃の自分が遠くの方から頷いている姿が見えた。
 家になんか帰ってくるんじゃなかった。ここで俺にできることなんて、心配してくれる人たちを困らせることだけだから。俺は誰かを困らせたくて頑張っていたわけじゃない。誰も巻き込みたくなくて、全ての人に光を与えたくて、だから一人きりになっても苦痛を受け入れようって覚悟したんじゃなかったのか。誰もが発し続ける永遠を求める記号に似た煌めきを、まばたきもせずに待ち構え、掴み取っては深い湖の底に投げ入れることこそが、自分自身が望んだ俺の生涯の在り方だった。それに対し、妥協なんかしてはならない。俺が否定すれば価値は崩れ、また同じ色の景色に怯える日々が戻ってくると感じ取っていたのだから。
 目を閉じるとあらゆる痛みが囁いていた。俺はまたそれらに耳を澄まし、一つ一つの主張を親身になって聞いてやらねばならなかったんだ。

 

 

 ふと目を開けると夜になっていた。薄いオレンジの照明が弱々しく光っている。ベッドの上に転がっている身体には布団が被せられており、隣には椅子に座ったまま眠っているリヴァの姿があった。
 彼を起こさないようそっと立ち上がり、ベッドの傍に並べられていたスリッパを履く。音を立てないように気をつけて部屋の扉を開け、昼のまま変わらない服装で一階まで下りていった。玄関まで歩いて行くと暗闇に身が震えた。突然家の中が真っ暗であることが怖くなり、どうしても外に出ることができなくなり、仕方なしに引き返すことにした。ただ俺はどうして外へ行こうと思ったのか、自分でも理解できない理由が心にぽっかりと浮かんだまま行動していたことに気付いていなかった。
 ふらふらと家の中を彷徨っていると、姉貴の部屋の前でぴたりと足が止まった。そっとドアを開け、姉貴の寝顔を遠くから眺める。もう久しく見たことのない横顔だった。最後に見たのはいつだっただろう――あれは確か、両親の命日の夜、俺が孤独に震えていた日だったか。俺にとっての最後の家族だと思っていた。他の地に家族と呼ぶべき者がいることも知らず、ただこの人だけが最後の繋がりなんだとずっと意識していたように思える。
 思い返せば、俺はいつもこの人に守られていた。昼も夜も仕事に出かけ、子供の頃から家事を押し付けられ、共に食事をする機会も減っていくばかりだったけど、金銭面や精神面で常に守られ続けていた。姉貴は俺の姉だけど、母親でもあった。だからこそ彼女とその家族を巻き込んだことに対する後ろめたさを消すことができない。俺が生まれなければこんなにも貧乏で、こんなにも仕事に追われることもなかったのにと思ってしまう。でも、その話をしたらきっと、姉貴は笑って怒るだろう。それも一つの運命だったんだろうって楽観的に断言するだろう。俺は彼女のそんな一面に救われていた。そこにあることが当たり前で、本当は脆く崩れやすい、天秤のような存在――。
「こんばんは」
 闇の中から声が響く。それは背面から聞こえたみたいだった。驚くこともなく振り返ると、夜に紛れて黒くなった赤い髪がふわりと微笑んでいた。
 何か歪なものが視界に入っている。
「だ、誰……」
「なんだ、もう忘れたのか? 俺だよ、エダだよ」
 スイネ。リヴァが追いかけていた人。かつて家の中に転がり込み、おかげでラザーに窓ガラスを壊されてしまった。いや、違う……そうだけど、違う! 彼はスイネだけど、本当の名前はエダだってラザーが言ってた。彼が来たせいでラザーが苦しんだ。彼のおかしな欲望のせいで、ラザーがあんなになるまで負の感情に支配されねばならなかった!
 胸の内から何かが込み上げてくる。これは怒りだろうか、恐怖だろうか。俺は一つだって理解できないけど、相手をこの家に招き入れることだけは何があっても阻止せねばならないと分かっていた。
「そう睨まないでくれよ。今日は君に聞きたいことがあって来たんだ。ラザーラスはどこに行ったんだ? 君ならあいつの居場所を知ってるはずだろ?」
 ずうずうしい奴。そんなこと、俺が教えるとでも思っているのか。いや、きっと俺は教えないって分かってるんだ。それを分かったうえで俺を試そうと、こんな馬鹿みたいな質問を投げかけてきたんだろう。だったら俺はその罠にはまってやる。あんたの思惑どおり、綺麗にまとめられたシナリオを自ら演じてやろうじゃないか。
「誰がお前なんかに教えるかよ。それを教えたら、お前はまたラザーを苦しめるんだろ」
「苦しめるだなんてとんでもない。俺はあいつを愛してたんだ。そしてあいつも俺を愛してた。その証拠としてあいつは俺から逃げなかったじゃないか。逃げようと思えばいつでも逃げられたのに、俺の足にしがみつき、頭を擦りつけて、自分を愛してくれって俺に懇願したんだ。たとえそれが君たちの純潔を守る為のものだとしても、そう何日も耐えられないことを繰り返すことができるだろうか? できないね、普通の人間なら、他人より自分の幸福を優先するからさ。それをあいつは幾日も自身を犠牲にした――何もおかしいことはない、あいつは俺を否定しておきながら、本当は俺を愛してたってことさ。でなきゃ奴は狂ってるんだ。もう元に戻ることもできないくらい、頭の中のネジがばらばらになって、君たちと同じ世界を別なように感じ取るくらいに壊れてるってことさ! なあ、樹君。君はラザーラスを守ろうと思っているんだろうけど、そんな奴を守る必要がどこにあるんだろう? 君がラザーラスを守ったとしても、奴はそれ以上のことを要求してくるかもしれない。君に必要以上のことを、狂信的な暗闇を、壊滅的な深淵を、嫌がる君に押し付けてくるかもしれない。君はそれに耐えられるだろうか? 君はそれを受け入れながら、それでも彼を愛し続けることができるんだろうか? ええっ、どうなんだよ、お前はそれでもあいつを道具のように扱わない自信があるって言い切れるのか、あいつを殺したいほど恨むことがあっても、救いの為のサクリファイスなら満足できるって言えるのか?」
 何を言っている、こいつは何を言っているんだ。俺がラザーを救うのは義務だ、一つの明確な責任にすぎない。そこに余計な感情なんか含まれていないんだ、それなのになぜそんな質問を投げかける? 彼は俺を揺さぶって何を企んでいるのだろう。俺が崩れていく様を楽しみたいだけなんだ、たったそれだけ、その為にこんな場所まで来たっていうのか!
 そして俺はこの最低な人間に怯えている。彼が発する言葉の一つ一つに逐一反応し、高まる心臓の鼓動を嘘だと思い込みながら、それでも自分だけは明け渡さない意志で彼のひっそりした姿を見つめていた。すぐにでも追い出さねばならなかった。もしこのまま彼の声を聞き続けていたら、ラザーの他に彼もまた俺の頭の中に住み着きそうな気がしたんだ。
「帰れよ、ここにはラザーはいない。あいつに会いたいんなら、一人で勝手に探せばいいだろ!」
「――樹?」
 平穏の為の声を響かせたら、何か予期せぬものが返ってきた。
 俯いていた顔をぐっと上げると、遠くにあるベッドの中で姉貴が身体を起こしていた。とても不思議そうな目でこちらを見ている。俺の前にはエダがいて、彼はゆっくりとした動作で姉貴の姿を確認した。いや、それはただゆっくりとしているように見えただけで、本当はとても素早い動作だったかもしれない。
「どうもこんばんは、樹君のお姉さん」
 丸くなっている姉貴の目に夢中になっている隙に、俺の首筋に鈍く光るナイフが突きつけられていた。
「ちょっと長話をしすぎたかな? 俺はこの樹君にとても大事なことを聞きに来たんだが、この子が顔に似合わずやたら強情でね……知っていることを少しも教えてくれなくて困ってたんだよ。なあ、樹君のお姉さん。あなたならこの坊主の弱味を知っているはず。そいつを巧いこと利用して、彼から必要な情報を抜き取ってもらえないだろうか?」
 何やら気色の悪いことを喋りながら、相手はそろそろと俺の方に近寄ってきた。首に当てたナイフはそのままに、俺の背後に回って空いている手で両腕を縛られる。これは脅迫だ、俺を人質にして、姉貴を従わせようと目論んでるんだ。馬鹿な奴、俺がそう簡単に人質になるなんて思うなよ。
「姉貴、こんな奴の言うことを聞く必要はない。俺なら平気だから、すぐに逃げてくれ!」
「で、でも――」
「大丈夫だから!」
 彼女の前では兵器の力も精霊の力も使えない。それらを知らない相手にとって、俺は非力で情けない少年でしかないのかもしれない。でも俺だって男なんだ、俺が守らなければ誰がこの人を守る? たった一人の家族を、いつも見守ってくれていた最愛の家族を、俺はどうあっても守らなければならなかったんだよ、たとえ兵器や精霊の力が使えなくたって!
「おっと、勝手に話を進めてもらっちゃ困るんだよ」
 首にナイフの冷たさを感じる。異世界の連中と知り合ってから、もう何度この冷たさを感じたことだろう。ただあの頃は冷たくても痛くはなかったが、今日は針で刺されたような痛みが首から全身に広がっていた。
「ちょっとあんた、樹を放しなさいよ!」
「それは無理な相談だ、俺はこいつに用があるんだから」
「あんたの事情なんか知ったことか!」
 ベッドから立ち上がった姉貴はまっすぐこちらへ向かってきた。その勢いのままエダの腕を掴む。俺はさっと血の気が引いた気がした。それは許されない行為で、決して敵わない相手に挑む滑稽な、それでいて過剰に勇敢な動作に間違いなかった。そうだけど、それは駄目だった! この得体の知れない男に歯向かってはいけなかったんだ!
「なんだ、よく見れば可愛いお嬢さんじゃないか」
「え――」
 息が詰まる。
 心臓が止まるかと思った。時が動いていないみたいに見えた。全ての怒りが俺の中に流れ込んできていた。なぜなら俺の腕を縛った男が、姉貴の唇に自身のそれを重ね合わせたから。
 突然頭を殴られたような錯覚に陥った。実際は殴られたのは姉貴の方で、俺は目の前で起こった悲劇に立ち竦んでいただけ。手も足も動かすことができなかった。床に倒れた姉貴は頭を押さえ、姉貴を殴った男は俺を壁に押しやり、手錠のようなものを無理に壁に打ち付け、出来上がった小さな牢屋に俺を縛りつけた。身動きできなくなった俺の姿を見て相手は笑った。そうしてふいと俺に背を向け、立ち上がった姉貴の首に慣れた手つきでナイフを突き付ける。
「な、何よ……あんた、何が目的なの!」
「威勢のいいお嬢さんは嫌いじゃないが、俺は何でも聞いてくれる従順な人間が好きなんだ。あんたにもそんな奴隷になってもらおうか」
 何かが壊れ始めていた。身体が震えて声が出ない。なのに、全てがはっきりと分かっていた。聞こえてくる何もかもが俺の奥に沈んでいる感情を次々と叩き起こしていったんだ。
「樹君のお姉さん。可愛い弟の命の為に、あなたは薄汚い犠牲者になれるかな?」
 彼はナイフを振りかざし、姉貴の身体を隠していた服を切り裂いた。そこから現れるのは闇に染められた肌色だけ。
「どうなんだ? あなたは自分の身体と弟の命、どちらが大事だって考えてるんだ? 自分を守る為に弟を見殺しにするか、それとも弟を守る為に自身を俺に捧げるか? いいや、あなたが彼を見殺しにしても、あなたを薄情な奴だと責める人は誰もいないだろう。だってあいつはあなたの本当の弟じゃない――どこの子供かも分からない、突然現れた迷子の少年、血も繋がっていない家族の為に自身を捧げるなど、そんなことができる人間などいないだろうから! それともあなたは知っているのか、既に彼の正体を掴んでいるのか? ええっ、それを知っていてあの無機質な出来損ないを守るのか、親にも見捨てられた不幸を振り撒く欠陥品の兵器を、あなたの幸福を犠牲にしてまで守ろうって思えるのか! どうなんだ、どうなんだ? あなたは死ぬのか、彼を生かす為に死ぬことも厭わないと言えるのか?」
「そうよ! 樹を守る為なら何だってする――さあ、何でも好きなことをしなさいよ!」
 聞こえた姉貴の声が震えていた。俺ははっと気がついて、そこへ走ろうと身体を動かした。だけど金属の輪が邪魔をして身動きが取れなかった。代わりに大声で叫ぼうと思ったけど、喉の奥に粘ついたものがくっついていて声も出なかった。
 二人の姿が遠ざかっていく。姉貴は相手に腕を掴まれ、部屋の奥にあるベッドへ引っ張られていった。これは常闇だった。今から始まる悲劇を演出する、非情なメロディの重なる舞台裏だったんだ。
 俺は息を吐き出して、同時に声も吐き出した。無理に外へ出したからそれは言葉になっていなかった。だけど少し落ち着くことができても、まるで言葉を忘れたかのように、叫ぶべき内容が自分の中から奪い取られてしまっていた。それを取り戻すことはできなかった、だって相手の懐まで行って取り戻して、またここに戻ってくるほどの余裕なんかなかったから!
 何か姉貴に怒鳴っているようだったけど、彼が発する言葉の全てがぐらぐらしてはっきりしておらず、何を言っているのか一言も聞き取ることができなかった。ただ声以外の物音は何の修正もなくまっすぐ耳に入り込んできた。目を閉じても何が起こっているか想像できてしまい、俺は自分がどうかしているとしか思えなかった。少し前までは知らなかったのに、まるでこの世界に住んでいた人と頭がすり替わったかのように、鮮明な理解が俺を置き去りにして進んでいく。姉貴は何を言われても黙っていた。目は閉じられても耳を塞げない俺にとって、その最低限の堅く堅い抵抗は、俺を良い子にする最後の砦であり、また割れた黒いガラスの卑しい情けの裏返しでもあった。
 俺の身体を縛るのはちっぽけな手錠だけ。足は自由だし、口も精神も自由に動かすことができる。こんなもの、あの地なら自力で壊せるのに、誰もいなければ兵器の力を覚醒できるのに! なぜここにいるのが姉貴なのか、どうして最も知って欲しくない人が、こんな出来損ないの兵器の為に低俗な男に襲われなければならないのか! 今すぐにでも精霊の力であの男を追い出してやりたかった。だけどどうしても姉貴には知られたくなかったから、今にも溢れ出しそうな精霊の魔力を押さえ込むことで必死になり、俺は簡単な罠ですら抜け出せられない欠陥品のようになってしまっていた。
 彼の声にはエコーがかかり、俺の頭の中をぐるぐると回っている。目を閉じて聞こえてくる物音は嫌なものばかりで、時々姉貴の声みたいなものが混じっているような気がした。俺はそれを頭を振って否定するけど、続いて響くのは決まって男の怒声であり、また重圧な錯乱が繰り返されていく。もう何も分からないと自分に言い聞かせたけど、そう思えば思うほど自分は無力だということが分かった気がした。
 そうやって動けなくなってから、どれくらいの時間が必要だったのか。

 

 

「樹、ねえ、しっかりしてってば」
 俺を心配そうに呼ぶ声のおかげで、また現実に戻ってくることができたのだろう。痛くなった目をゆっくりと開け、目の前にある二つの銀の瞳をぼんやりと眺めた。
「あ……よかった。ぼく君が心配だったんだよ。ねえ大丈夫だよね? 君はあいつに何もされていないよね?」
「あいつ?」
 出てきた声がかすれている。なぜなら俺はずっと、彼に向かって叫び続けていたのだから。
「スイネだよ。その――お姉さん、今はシャワー浴びてるから」
「……」
 彼が、姉貴を助けてくれたんだろうか。俺は縛られてただけなのに。縛りつけられ、何もできずに、ただ家族が襲われている様を見ることしかできなかったのに。
「ごめんね、気が付くのが遅くなってしまって。ぼくがもっとしっかりしてれば、こんなことには――」
「そうだよ、なんでもっと早くに気付かなかったんだ」
 自由になった手で相手の肩を掴む。
「なんで! なんで俺の悩みには気付いたのに、あいつの気配に気付かなかったんだ! 姉貴が苦しんでたのに、俺は何もできないのに、なんで肝心な時に気が付かないんだよ! この、能無し――後から気付いたって遅いんだよ、そんなことで誰かの傷を癒そうだなんて、こっちとしてはいい迷惑なんだ! お前のせいだ、お前のせいで姉貴が犠牲になった! お前が気付かなかったから! お前が来るのが遅すぎたから! お前が……俺が、なん、なんでだよ!」
 声と同時に涙が溢れた。泣かないって決めたのに、涙が出てきて止まらなかった。ああ、これは一体何の為の涙なのか。姉貴が襲われたことが悲しくて、俺が情けないことが腹立たしくて、リヴァの優しさが俺のどうしようもない負の感情に浸み込んできて、たくさんの堪えていたものが崩れ始めたみたいに爆発して止まらなかった。
「関わらなければよかった」
 どうか今は、吐き出させて。
「ラザーなんかに関わらなければ、あんなおかしな奴を助けようなんて思わなければ、こんなことにはならなかったのに! あいつの問題に首を突っ込むべきじゃなかったんだ、どんな苦しみを見せられようと、どんな痛みを感じ取っても、それらはあんただけの問題だって言って、そのまま離れてしまうべきだったんだ! それを知らずに関わった俺は馬鹿だ! 俺じゃなきゃ彼を救えないって、そんな不確定な理想を義務と思って、自分を捨てながら走り続けるべきじゃなかった! そう、あいつの言葉なんか無視して、あいつの悲鳴なんか耳を塞いで聞かずにいて、いつも俺たちを守る為に犠牲になってたことを知っても、なんにも知らないふりをしていればよかった――よかったんだ、ああ! なのに、どうして! 俺は、嫌なんだよ、もう嫌なんだ! 目の前で見せつけられてようやく分かった! 俺の為に犠牲になるのはやめてくれ――犠牲なんて、もうたくさんだ! ラザーも姉貴も、なんで俺なんかをそんなに必死になって守ったんだよ! 何もできないのに、俺はあんた達に何も返してやれないのに! 俺はラザーを救えない、たった一人の家族さえ守れない! 無力で非力で、卑しい、傲慢な兵器に過ぎないんだよ――誰か早く壊してくれ! この欠陥品を、出来損ないを、いっそひと思いに壊してくれよ、でなきゃ取り返しのつかないことが起こってしまいそうで怖いんだ!」
「樹、そんなことを言わないで」
「だって俺は、俺は――」
 頬がじんと熱くなる。遅れて聞こえてきた音と鈍い痛みによって、俺は平手打ちをされたことに気付いたほどだった。
「私は、そんなことを言って欲しくてあんたを守ったわけじゃない!」
 隣に立っているのは姉貴だった。俺が守ろうとして守れなかった、巻き込んではならない大切な家族の一人だった。
「欠陥品とか兵器とか、そんなわけ分からないこと言ってないで、男なら立ち上がってみせなさいよ! 私はこの程度で負けたりなんかしない。あんなこと、時間が過ぎれば全て忘れられるから! それより大事なのは、これからどうすべきかを考えることじゃないの? ねえ樹、あんた、そんなに何でもかでも一人で抱え込まないでよ。私は何の為にいるの? 家族は何の為にあるの? 知ってるでしょ、あんたなら、幸せも不幸も嫌というほど味わったんだから、その存在の価値だって既に分かっているはずだわ」
 眩しい。
 見慣れた姉の姿が太陽のように見えた。その温かな身体が俺の疲れ切った全てを抱き締めた。目の前に迫ってくるのはシャワーで濡れているやわらかい髪。ラザーのものでもなく、ロスリュのものでもない、そこにあるのが当たり前の憩いを与えてくれる華奢な小川だった。
 これは何だろう。この二度と追い出すことができないと思った怒りを溶かしてくれる抱擁は何? 息を吐き出す度に身体が震えた。あの男に差し出した身体が、今は俺を強く包み込んでいる。震えた、心臓も脳も感情も何もかもが、ぶるぶると震えてここに留まりたがっていた。突き抜けている――ああ俺は今、この世で感じられる最も崇高なものの足元に辿り着いているんだ。
「兵器でも、許される?」
「……話してくれるの?」
 内側にしまい込んでいたものを、自ら開け放つ日が来たのかもしれない。
「きっと信じないよ。姉貴は信じない」
「なに言ってんの、信じるわよ。あんたの嘘ならすぐ見抜けるから」
 ああ、そうだった。いつだってこの人は俺の全てを見続けてきた。
「俺は兵器で――欠陥品で、出来損ないで」
 そっと相手の身体から離れる。そうして彼女の目をじっと見つめた。発見できたのは限りない優しさだけ。あの痛々しい好奇の切っ先はどこにも存在していなかった。
「俺は、過去に一人の人間を救えなくて、彼との約束で皆に光を与えなければならなくなったんだ」

 

 +++++

 

 彼が生きた証を掲げられるのは、自分一人だけだった。
 誰もが彼から目をそらしていた。彼の叫びを聞こうとせず、彼の問いかけに答えることもなく、彼の姿を見る前から全てを諦めて遠ざかっていた。だけど俺は知っていたから、彼の見た後悔や悲劇を理解してしまったから、自分から彼に近付いていったのだろう。
 共に歩む仲間ならいた。今でも同じように付き合っている人々。彼らもまた彼の声を聞き、俺と同じように悩み、考え、導き出した結論を固定して彼と対立し、やがては彼を打ち負かして勝者となった。同じ思いを共有し、同じ痛みを経験してきた。ただ一つだけ、俺と彼らでは異なる結果があった。それは彼の本音を聞き逃したということ。彼の呼びかけを知らず、手放した感情の解説を置き去りにしたということだけだった。
 知っているのは俺だけ。この世で生きている全ての生命のうち、彼の腹の底からの願いを知っているのは俺だけだった。だから俺はそれを叶えてやろうと思った。彼の言ったとおりに、自分を光の魂として、どんな人に対しても平等な慈愛を以て接し、俺を求めてくる誰もにこの光を分け与えていこうと考えた。救いを求める人には光を見せなければならない――それが俺の義務であり、彼が生きていたということを証明する、最後に残された唯一の方法でもあった。俺は彼を裏切ることを望まない。彼の理想を打ち砕いた者として、彼の楽園より高いものを作ると約束した人間として、彼を否定することは自分の過去を捨てることだと分かっていたから、俺は彼の頼みをどうしても承らなければならなかった。
 誰も彼の姿を知らぬままで、彼が抱えていた叫びにも気付かないまま。そんな世界にどんな価値があるだろう。彼を仲間外れにした、言葉だけの平等の世界なんて。
「それは、悲しい。俺があいつの声を忘れたら、その時に本当の意味であいつは死を迎えるんだ」
 全て話し終えるとすっきりして、流れた涙の跡も乾いて消えて、すっかりなくなってしまうように願っていた。俺は今まで頑なに守り続けた秘密を姉貴の前に突き出そうとしている。それは俺に何をもたらし、彼女に何を植え付けるだろう。俺がそれを語ったなら、俺の悩みは解消され、ラザーも救われるというのだろうか。
「いいの? 本当に」
 明々とした電気の明かりの下で、俺の隣に座るリヴァが心配そうにこちらを見ていた。目の前には彼が淹れてくれたお茶が湯気を出している。俺と向き合う姉貴は強い眼をこちらに向けて、今にも壊れそうな表情で俺の言葉を待っていた。
 彼女のまつ毛が美しい。
「姉貴がそれを知っていたら、俺は姉貴を守ることができたはずだった。俺が自分の正体を隠さなければ、姉貴があいつに襲われることもなかった。何より俺は、もう自分の為に犠牲になる人を見たくないんだよ――責任と罪悪感で、押し潰されてしまいそうだから」
 だから話す。何もかもを話そう。そしてそれが終わった時、笑ってくれる相手の優しさを信じていよう。
 怖くはないはずだった。このまま相手を騙し続け、その結果として大事なものを失うことの方が何倍も怖かった。また情けない自分の姿を鏡で見ることや、誰にも相談できずに闇に沈んでいく未来も充分に怖い。俺は今まで恐ろしいことを自ら引き寄せていたんだ、それがどんな色の危険なのかということも知らずに、そっちに顔を向けることもなかったから。
「でも……何から話せばいいんだろう」
 あまりに多くの事柄が頭の中を徘徊し、重要なものが上下左右に散在しているので、俺はその中を割れた鏡の破片を踏まぬよう探し求めねばならなかった。ばらばらになったピースを一つ一つ繋ぎ合わせ、大きな絵画の穴を埋めていく。やがて出来上がるはずの作品は完成されたものでなければならなくて、もうずっと前から欠けていた要素も取り戻さなければならなかった。ただ俺は自信がなかった。一度手放したものを発見する前に、深く深い闇に足を引っ張られてしまう気がして、再び黒い海の中で目を閉じてうずくまり、いつか現れるはずの光を黙って待たねばならなくなるんじゃないかと恐れていた。そうなったらもう出られない。上の世界に戻ることができなくなって、誰の声も聞こえない場所で、全てを諦めるまで命が終わらない苦しみを味わわねばならなくなるのだろう。それは嫌だった、でも、どうすればそうならずに済むのかも分からない。
「……」
 声が出なかった。伝えるべき事実はたくさんあるのに、話すべき言葉は溢れてくるのに、喉の奥が震えてうまく声が出せなかった。わけもなく悲しくて、時が過ぎるほどに視界が滲んでいく。このまま何も言わずに相手と向かい合っていれば、俺の言いたいことが偽りなく伝わるんじゃないかと夢見ることさえ許されない気がした。ああ、彼女の眼を覗くだけで、相手の瞳に潜む光を知るだけで、言いたかった全てが包み隠さず伝わったならよかったのに。目を合わせるだけで何もかも解決できればどれほどよかったことか! だけどそれだってちゃんと分かっている。いくら強く望もうとも現実にはならないということ、たとえそれが実現したとして、本当にそれだけで皆に幸福を与える結果になるとは限らないということ。あいつだって言っていたじゃないか、思っている全てが頭に流れ込んでくると言っていた彼だって、それがある為に苦痛を感じていたじゃないか。それを持っていない俺たちは憧れたって仕方がない。無いものをねだるのは子供の役目で、俺たちは持っていないということを認識し、そのままの姿で生きていかなければならない。そう、そのままの、神が与えた運命だとか宿命だとかをまっすぐに受け止め、あるべき姿で生きなければならないんだ、きっと。
 その為に俺は話すのだろうか。どうしても知られたくなくて、全てが終わった後でも言い出す勇気さえ出てこずに、何か問題が起こるまで黙ったまま過ごしていたものを、こんなに簡単に白状しても崩れないだろうか? 事実を見せることによって生まれる綻びを、恐れて逃げ続けていた亀裂を、唐突に現れた支障のせいで向き合わねばならなくなっている。そして俺はそれを許せる?
 恐れているのは、それだけだと言えればいいのに。
「俺、頼まれたんだ」
 やっとのことで出てきた言葉は何を表していただろう。見えるものを手に入れて、俺は安心していたのかもしれない。本当はそうじゃないのに。安堵なんかこの世に存在し得なくて、いつでも追いかけては見失うことの繰り返しだったのに。
「頼まれたって、誰に何を?」
「ラスに、光の道を示してやってって」
 あの人の名がするりと出てくる。喉の奥から、頭の中から、心臓に突き刺さった夢の破片を素通りし、愛すべき者の前に指し示される。
「手紙……」
 徐々に甦ってくるものがある。思い出すのが怖くて自ら封印していたもの。それは確かに手を伸ばせば届くはずの記憶で、俺が俺である所以を物語る大切な資料の一部分だった。
「手紙?」
「そう、それが、机の中にしまってあるんだ」
 笑いかけていた字面が泣いている。白いモクレンは、もう地に落ちた。
「俺はあいつを救えなかった。あいつの手をもっと早くに握っていれば、あんな結末にならずに済んだはずだった。それを誘導したのは他の誰でもない自分だってことも分かってるし、たとえ今からあの時間に戻ったとしても、俺もラスも同じ行動をすることだって充分理解してる。でも、それでも納得できないんだ! どうしてあいつの声が届かなくて、あいつの生涯が世界に押し潰されなければならないのかって考えると、俺はここで生きる人間もあの世界を作った神も許せなくなってくる! 彼が怒ったのは当然のことだった。あの頃はどうしてそんなに必死になってるのかって問いかけたけど、今ではその理由さえはっきりと分かってしまうから。ああ彼が絶望したのは然るべきことで、気が付かなかった俺はおかしな奴だったんだって分かったから。人々は、彼を見ようとしない……見て見ぬふりをするんじゃなくて、彼がそこにいることにも気付かずに、その視界の端にすら認めようとしないんだ。あんなに叫び続けていたのに。あんなにぼろぼろになって、息を切らして、彼の美しい生命を訴えかけていたのに、人々はそれを見ようともしなかった! 確かに最期には微笑んでいたけれど……人々はあの微笑を知らないまま。人々の記憶に彼の存在はなく、彼が認められる日が来ることもない。過去にも未来にも否定され、現在を生きる俺たちだけが彼の生きた日々を知り、いつか必ず消滅する証拠を大事に守っていたって、それはやがて忘却の中に沈んでいくだろう。だから俺は証明したいんだ――彼が確かに生きていた証を、彼の最後の頼みを聞くことにより、それを世の中に生きるあらゆる人々に知ってもらいたい。理解できなくたっていい、勘違いしてもいい。俺を介して彼の存在が確立できるなら、俺は道具として扱われることだって厭わない。彼の望みは限りないもので――人々が彼の存在を認めなければ、きっと何も進まないままに終わってしまうと思うから」
 彼は俺の前に現れた時、何か遠いものを見つめながら「独りぼっち」と繰り返していた。知らねばならないものを知ろうともしない生命に押し流され、影のように彼らを見送った瞳を俺はずっと覚えている。彼が吐き出した儚くも刺々しい言葉はどこかに届く前に墜落し、大きな歪みを通り抜けて地の底を這いずり回っていた。そこに光などなかった、あんな風と草と生命に囲まれた彼の見ていた景色には、救いという名の光などどこにも見えてこなかったんだ。
 それを彼が求め、俺が初めて与えたのだとすれば、光を遮断するわけにはいかなかった。疑惑も憎悪も浄化する光を、脆弱も強靭も超越し、誰も知らぬたった一つの言葉を捧げなければならなかった。分かっていることは、彼はもうここにいないということ、彼を取り戻すことはできないということ。そしてどういう皮肉なのか、彼に向って差し出した手はここにあるということも否定できない事実だった。
「あの、樹。一つ聞いてもいい?」
 隣に顔を向ける。丸い目が俺の顔を覗き込んでいる。それは彼の声を聞いた目だった。同じ道を歩いてきた、とても大切な友人の果てしない声だった。
「君がラスのことを想っていることはよく分かったよ……彼を死なせたことに責任を感じてることも、彼の思いを受け継いで守ろうとしてることも、君の話を聞いて充分に伝わってきた。ところで君はラザーのことで悩んでたんだよね。ラザーを救いたいって、そう思い詰めて苦痛を味わってたよね。君は気付いていないのかもしれないけど、それってもしかして、ラスの為にやってることなの? ラザーの為じゃなくて、君自身の為じゃなくて、ラスが生きた証を示す為だけにやってることなの? 君は本当はラザーを心配してるんじゃなくて、故人の願いを叶える為にあんなに必死になっていたの? ねえ、どうなんだよ、君はラザーのことを好いていないまま救おうって走り続けてたの?」
「――うん」
 丸い瞳がさらに大きくなる。俺の頭はここになかったかもしれない。それでも責任はのしかかってくるだけ。それは俺を助けてくれないし、彼を納得させる技術も持っていない。
「な、なんで……だっていつも学校で、すごく仲良くしていたじゃない! それに昔も、あの世界を旅してた頃も、仲間としてずっと一緒に行動していたのに、それなのに君は彼をそんな目で見ていたの? まだ彼を怖い人と思って、上辺だけの友達を演じていたっていうの?」
「そういうわけじゃない――俺はラザーのことを友達と思ってるし、仲間として信頼してる。でも愛してはいない。それ以上の感情を持っているわけじゃないんだ」
「愛してないって、だったら、君のその感情は何? 君が友達と思うその感情も、仲間として信頼してるその感情も、元を辿れば愛情から来た感情なんじゃないの?」
「同情だよ」
 きっとここに彼がいないから言えるんだ。それを伝えると相手は黙り込んだ。彼と同じように幻滅しただろうか。絶望して、俺の為に涙を流してくれるだろうか。その雫は俺に活力を与えてくれる。それがあったから今まで潰されずに生きられたのだから。
「樹、あんた、友達に同情を向けてるの?」
「だってあいつ、構ってやらなきゃ可哀想だから」
 俺の前に座る姉貴がじっとこちらを見つめている。彼女の裏に漂う激動はここまで到達するけれど、瞬時に塵として風に運ばれるだけだった。
「ねえ……あたしはあんたの事情を知らない。あんたがどこで何をしてきたかも分からないし、あの男が言っていたあんたの正体ってのも見当もつかないの。だからあたしの言葉は安っぽく聞こえるかもしれないけどね、友達に対してそんな付き合い方はしちゃいけないって思うのよ」
「俺は兵器なんだよ、姉貴」
「だから、何なのよそれは――」
「アユラツっていう世界の為に作られた人型の兵器。ラスがアユラツを壊そうとしたから、それを阻止する為だけに作られた、いわばラスの為に存在する魂なんだよ。だから俺はラスの影として生きなければならないんだ、決してラザーの為に働いているわけじゃない」
 ぼろぼろの自分が俺を見ている。手放した親切は頷かないまま、俺がここにいることを顕著に表しているようだった。
「人間が真に愛せるものなんて、家族と異性だけなんだろ。それ以外の好意は全て同情か好奇にすぎない」
「それは、友情も? 信頼も? じゃ君はぼくのことも、アレートのことも、ジェラーやロスリュのことさえ今までそんな目で見ていたっていうの?」
 なぜ過去のことを持ち出すんだ。それは卑怯じゃないか、あの頃の無色な感情を掘り起こしてきたところで、今の状況を変えられるわけじゃない。だから俺はもう嘘を言おうとは思えなくなっていたのだろう。
「それは違う、俺は、皆のことを同情や好奇で見ていたわけじゃない。あの想いは確かに愛情が変形したもので、間違った優しさで包み込んでいたはずはなかった。俺は大事なものを守りたかったからあいつを打ち負かした。そこにたくさんの理由なんかなかった、一つだけ、理屈で説明できない作品があっただけなんだ」
「何を……言っているの? 何を言ってるのか全然分かんないよ。ねえ、お姉さん、樹は一体何を言ってるの? ぼくには何も分からないんだ」
 姉貴は黙っていた。失礼な人だった。何を言っているか分からないだって。俺の言葉が理解できないのか。友達なのに、仲間なのに、家族でさえ分からないらしい。だったら誰が理解をするのだろう。血の繋がった人間? 強引に繋がった人間? ここには誰もいない……でも、この安心が溢れているはずの場所にもいないのなら、その人は一体どこにいるのだろう。
 ああ、自分は、誰のことも理解できなくて。
「姉貴」
 教えてくれるなら突き刺して欲しい。二度と忘れることのできない痛みで、この魂に直接荒々しい傷を作って欲しかった。
「愛って……何?」
 相手は何も答えなかった。

 

 

目次  次へ

inserted by FC2 system