月のない夜に

 

 

 朝が来ると光が部屋に差し込んだ。いろんなものに遮られながら、多くのものを諦めた姿がそこに見える。かろうじてここに届いたものはきらきらと美しく、俺の内側にある燃え切らないものも連れ去ってくれればいいのにと願わずにはいられなかった。
 ぼんやりと窓の外を眺めているとノックの音が聞こえた。続いて部屋に入ってきたのは銀の目を持つ青年で、朝食の時間だと教えてくれた。そこへ行く気にはなれなかったものの、相手があまりにしつこく誘ってくるから、重い身体を持ち上げて下の階に下りることにした。
 机の前には姉貴がきちんと座っており、朝食のサンドイッチが人数分並べられていた。俺はいつもの慣れた席に座り、光のない目をした姉と向き合う形になる。隣の席に居候のリヴァセールが座ると何やら声をかけてきたが、何をどんなふうに言っていたかさえ認識することができなかった。そっと白いパンに手を伸ばし、無造作にそれを口に運ぶ。ふわりとした柔らかさは感じられたけど、なんだかあまり美味しくなかった。
「あたし、今日は仕事休むわ」
 するりと耳の中に入ってきた音はそれだけだった。それ以外のものは通り過ぎていくだけで、俺には何も見せてくれない。ただ目の前の光景があまりに穏やかすぎて眩しくて、気が付かないうちに両目から涙が零れ落ちていた。ここには誰が否定しようとも、俺だけが知る愛があることも分かっていた。
 たとえば全ての愛情の終着点が家族で、故郷と呼ぶべき家の存在そのものが目に見える形としての愛だと言うのならば、その中で過ごす時間は安心に満ち溢れ、何も恐れることのない、他のどんな場所よりも穏やかに眠ることができなければならないはずだった。そこで流す涙は美しく、零れ落ちる笑顔は本物で、騙し合いをする心が芽生えることなどない、普通の自分でいられる唯一の空間であるべきではなかったのか。互いの腹の底が見えなくて悲しむことは、いくら走って手を伸ばしても掴めないあの人の後ろ姿は、そういった最後の愛情を破壊しているようにしか思えないことで、それでいてそこから生まれるべき新しいものもない、理不尽で不完全な踏み潰されたお守りのようだった。
 隅々まで張り巡らされた沈黙の糸がクモの巣のような罠を仕掛けている。誰の目にも映らぬほど細く洗練された両刃の剣に、やがて迷い込んだ赤と青のチョウが羽を失う時を黙り込んで待っている。そうやって息をひそめて待ち続け、やっとの思いで獲物を捕らえ、穴のあいたチョウに勢いよく飛びついたのははたして誰だったのだろう。それは自分であり、ラザーラスであり、またはアニスの父親だったり、あるいはヨウトだったかもしれない。たくさんの人たちが同じ渦の中に吸い込まれ、誰もかもが精巧な罠を造り、どうにかして自分の元へ引きずり込もうと考えていたのだろう。そしてそれがきっと救いを求める素直な行動で――ああ、そんなことはもう、ずっと前から分かっていたことなのに。
 何もする気が起きなくて、朝食を食べ終えると自分の部屋に閉じこもっていた。外に出る気にもなれず、明るい光を見たら逃げ出したくなりそうで、いつまでもこの終わりのない悩みに浸っていたいと考えていた。電源を入れたまま放置されているテレビがぴかぴかと光っている。その中にある世界だけは活力が満ちていて、まるで夢のような瞬間が花びらのようにひらひらと舞い上がっていた。真面目な顔をした男性がニュースを読み、おどけた顔の芸人が多くの人を笑わせ、役者が別人になりきってある一つの人生を描いている。そこにある各々の光明と暗闇が交互に瞬間を彩り合う。そうした全てが雪のように冷たく積もり、どれもが非自己を打ち消そうと努め、彼らの放つ装飾された言葉が高く高く重なっていた。それは偽りと誠意が混合した氷結で、いくら祈ったとしても永遠の一部になることは避けられないことだったのだろう。否定は目を閉ざしてはくれない。視界に映っている全てが奥の方まで入り込んできて、何か煩い寂寞が赤色の結晶を創造し始めていた。
「……樹?」
 遠慮がちに開いたのは扉だった。その裏側から居候の青年が姿を現す。彼の幼げな顔に不安が漂っている。目の前まで近寄ってきて、相手は座り込んだままの俺の顔をぐっと覗き込んできた。
「なんだ、どうかしたのか」
「どうかしたのかって、それはこっちの台詞だよ……ねえ、もうお昼だよ。お昼ご飯食べないの」
「いらない」
 素直に答えると相手は表情を歪めた。
「ご飯食べないとお腹すくでしょ。朝もあんまり食べてなかったし、ちゃんと食べた方がいいって」
「いらないって言ってるだろ。どうせ何も食べなくたって生きていけるんだから」
「何それ……君はもう兵器じゃないんだよ。分かってる? 兵器じゃないから、普通の人間として、必要なものはどんどん吸収していかなきゃならないんだよ。ねえ、もしかしてまだ自分は特別だって考えてる? もしそう思ってるなら――」
「そんなこと考えてない。俺はもう、一般人になっちまったんだから」
「そう……ならいいけど」
 相手はふっと視線をそらした。そうしてくれる方がずっと楽になるはずなのに、どうしてだか頭がずきずきと痛んだ。
「樹」
 再び彼の視線が突き刺さってくる。それを払い除けることはできない。
「やっぱり最近の君はおかしいよ。そりゃ確かにさ、いろいろと大変なことがあって疲れてるのは分かってるよ。だけど、君が今やってるたくさんの対応はどれも君らしくない。変にラスの言葉を責任に変えたり、一人で抱え込んでうずくまったり、病人みたいに黙り込んでじっとしてるなんてさ、以前の君じゃ考えられないことだよ。君はどんなに辛いことが目の前に迫ってきても、いつもそれに立ち向かっていっていたじゃない。それが、今はどうしたの? 何もかもに背を向けてしまってる。ぼくはそんな方法じゃ何も解決しないと思うよ。いや、あの闇から逃げてたぼくがこんなこと言っても、少しも説得力がないかもしれないけど……でも、ぼくは以前の君がいたからこそ、こんなに他人の心配ができるようになったんだ。君はたくさんの人たちを変えてきたよ。ぼくもアレートもジェラーも変わった。君と出会って君と歩くことで、ぼくらは各々の価値観だとか存在理由だとかを感じ取ることができたんだ」
「存在理由?」
「そうだよ、ぼくらがこの世に生まれてきた理由だよ。明確な答えを見つけられたわけじゃないけどね、なんとなくそれが分かったような気がしているんだ」
 分かるはずがなかった。俺にはそれを理解する能力なんてない。大人が事情を説明して、自分の機能を解説して、一族の為に戦った少年がモクレンの贈り物を書いたことにより、俺の中の理由と価値は決められてしまったのだろう。見つかった答えなど必要としない。欲しいのは、他者の為に捧げられる心理だけ。
「じゃお前は何の為に存在してるって思ったんだ」
「うん、ぼくはきっと、君やアレートと会う為に生まれてきたんだと思うんだ」
「何だそれ。どっかの歌詞みたいだな」
「君たちに会って、君たちの事情に協力して、その過程で自分も変わって――互いに影響を与え合ったと思わない? それだけで多くの価値があるって思うんだけどな」
 無邪気に煌めく心が見える。眩しいとは感じない、自分も同じものを持っているから。ただ今は蓋をしてしまった。そして鍵を見失い、まだ探し続けていて、自ら踏みつけていることに気付こうとしていない。
「君は? 君は、何か分かったことがある?」
 いつかの兄を思わせるような台詞を相手は言った。喉の奥から出てきそうな悲鳴を抑え、兵器の顔を作り上げることは少しばかり難しかった。
「俺は別に、ラザーの為に生きてるわけじゃない。でもあいつの苦痛に気付いてしまって、彼が話した経験を知ってしまって、そのおかげで戻れなくなってしまったんだ。俺だけが逃げたりしちゃいけない。そういう人が現れたら救ってやって欲しいってラスにも頼まれたし、自分でもそうしたいって考えてるから、あいつのわがままに付き合ったり、あいつの望む安心を作ってやろうって考えてたんだと……思う」
「うん。それで?」
「それで? それでって――何?」
 はっとして彼の顔を見る。罪のない純粋な子供の顔が、いきなり好奇にまみれた欲深い人間の仮面に思えた。彼は何かを知りたがっている。でも知りたがってるって、一体何を話せば満足するんだろうか?
「あ、いや、それだけならいいんだけど……」
「何が知りたいんだ」
「だからもういいってば」
「何が知りたいんだよ! 何を言えば満足する? お前まで俺を縛る気か?」
「樹、ちょっと――」
 言葉より先に腕が動いていて、相手に伸びたそれが彼の胸ぐらをぎゅっと掴んで離さなかった。
 相手の考えていることが分からない。相手が知りたいことが何なのか分かればいいのに。藍色の髪の少年のように、ただ傍にいるだけで、その人の考えが直接頭の中に偽りなく伝わってくればどんなに救われたことだろうか! もしそうだったなら、何も分からないと言って悩むことなんてなかったし、全ての事実に対し最も効率のいい答えを用意することもできる。いや、むしろ自分が相手と同じ存在だったなら、この世に充満するあらゆる問題が瞬時に解決するんじゃないか。俺が全ての生命と同じものだったなら、俺が彼らの輪廻からはみ出した存在でなかったなら、一体どれくらいのことを理解できたというのだろう――それだけで、理解できることが増えただろうか?
「もういいよ」
 手にも力が入らなかった。出てこない力を出し続けるのは疲れることだと分かっていたから、俺はもう頑張らないように相手から手を放した。相手の顔を見るのが怖かった。あの頃とは違う、敬虔な目つきの錆びた呆れを知るのが嫌だったから、今もまだ同じ呼吸が続いているのだと信じていたかったんだろう。それでも相手から感じられるかすかな吐息は嘘を一つも言わなかった。相手から離れた手の中に、掴み取った栄光が塵のように舞い散っていた。
「樹、どこ行くの――」
 彼の心配を閉じ込める。見慣れた家の廊下は安心への道標であり、色の違う階段は一段ごとに深みを主張しているかのように見えた。そうやって夢の中を歩いていると答えに辿り着けそうな気がした。俺が見失った自分の欠片を、いつか取り戻したはずの自身の影を、この足が向かう場所で静かに眠っているんだと期待していた。やわらかな風が優しく頬を撫でる。開かれた扉は重々しくて、だけど視界に映った空は初めて見る景色のようだった。
 俺が探し続けていた景色はこれだっただろうか。雲の一つも浮かばない青空が、今まで生きてきた中で最も美しいと思えるようになったのなら、この十五年の年月は無駄にならなかったと断言してもよさそうなものだった。その一方で鏡の中の空はオレンジに染まっている。なぜなら俺の中の「空」の景色は、ラスと話したあの瞬間から一つの時も刻まぬまま止まり続けているのだから。
「あれ、樹じゃん」
 家の前の道路に出ると、幼馴染の薫がこちらを見ていた。とても不思議そうな顔で目の前まで歩いてくる。
「お前なんで昨日保健室にこもってたんだよ。おかげでずーっと暇すぎて死にそうだったんだからな! つーか、保健室でへばってたくせにずいぶん元気そうじゃんか。ラザーのサボり癖がうつったのか?」
「別に、そんなんじゃ……」
「あれ、もしかして元気ない?」
 相手の口から軽々しく放たれた「元気」という単語の意味が掴めずに、俺は少しのあいだ悩む必要があった。今や別の世界に放り込まれている心持ちだけが生き、何でも知っていると自惚れていた幼馴染との明るい日々は、誰の目にも映らない場所に安っぽく捨てられていた。薫の不思議そうな瞳が時間と共にその色を増していく。俺は何かを言わなければならないんだと気付いた。
「ちょっと疲れてるだけさ。昨日も、朝から疲れてて……でももう大丈夫だ。心配しなくていい」
「いやぁ、俺は別にお前の心配なんかしてなかったけどな。それより俺はラザーの方が心配なんだよなぁ。あいつってかなり真面目人間だろ? どっかの悪い奴に変な勧誘されてんじゃないかって心配してんだよ。樹、お前ラザーが今どこで何してるかとか知らねぇの?」
「え、し、知らない……」
「そうかぁ。うーむ、ますます心配だ。ラザーってお前のこと一番信用してるっぽいし、樹にも話してないんじゃ、本当にやばいことになってんのかもしれないぞ」
 俺はなんだかはっとして、その拍子に自分の手で口を塞いだ。手に冷たくなった唇が触れる。ついさっき出てきたのは焦燥の嘘だったけど、相手は腕組みをして地面に顔を向けてしまった。
「そういや、腹減ったな。どっか飯食いに行かね?」
 俯いていたのは数秒のことで、薫はすぐに顔を上げた。あまりの切り替えの速さにちょっと笑ってしまった。
「まだ食べてなかったのか」
「今日は母さんも父さんも出かけててさぁ、今から店に食いに行くとこだったんだよ。あ、そうだ、せっかくだからお前の家でなんか食わしてくれよ。お姉さんは仕事だろうけど、リヴァは家にいるんだろ?」
「ずうずうしい奴だな」
「そんなこと言うなって、我が親愛なる幼馴染よ!」
 自然と笑みが零れる。彼には気を遣わなくていいから、のびのびとした気持ちのままで接することができるんだ。これが俺の「ありのまま」だとすれば、ラザーやリヴァに見せていた「普段の自分」は、どんな鎧を着せられた異形の塊だったのだろう。どんな相手に対しても、この態度を守り続けることができたなら。
「なあ薫、俺さ、家出しようと思ってるんだ」
「……は?」
「喧嘩したんだ。リヴァや姉貴と。だからしばらく家から離れていたいんだ。よかったら、お前の家で泊まらせてくれないかな」
「おいおい……サボり癖だけじゃなく、ラザーの反抗期までうつったか?」
「そんなんじゃないってば」
 息が詰まる場所にいたくない。気を遣う相手と暮らしたくない。それだけでは理由にならないだろうか。彼ならきっと受け入れてくれるって、そんな淡い期待を持つことさえ許されないはずはないだろうから。
「いや、俺は別にいいんだけどさ、俺の家に泊まるんじゃ家出にならないんじゃないか? お姉さんやリヴァがお前の家出に気付いたら、まず最初に俺の家を調べに来ると思うしさ」
「そう、かな……」
「絶対そうだって! だからラザーの家とか、もっと遠いとこにするべきだって!」
「ラザーの家――」
 あの小屋じゃなくてラザーの家。そこでは今は師匠が一人で暮らしているはず。師匠はラザーを探したりしないんだろうか。確か数日前、俺がまだラザーの事情を知らない頃だったか、彼はラザーと喧嘩をしたらしいことを言っていた。俺はいつものことだと思ってそれほど気に留めなかったけれど、あれも一つの明確なサインだったんだ。
 過去を振り返るとたくさんの綻びが現れる。俺はそのどれもに気付いていたのに、深く踏み込もうとはしなかった。心のどこかで時が解決してくれるだろうと、俺が出しゃばる必要のないことだと思い込んでいたのだろう。彼の心の崩壊は水面下で進んでいた。光の届かない深海の中で、人々から忘れ去られた雪の降る地面の上で、長い前髪に隠れた眼が犠牲の中に身を沈め、伸ばすことすらできない手が、かろうじて俺の服の袖を掴むことに成功した。彼は泣いていただろうか――初めて俺に見せた涙は、どんな色をしていたのだろう。そっと目を閉じて真っ先に浮かび上がってくる姿は、大勢の無表情な人々に踏みつけられ、泥だらけになって倒れている友人の身体だった。
 俺はそれを救いたい……手を伸ばせないのなら、代わりに俺の腕を捧げて、光を見ることができないのなら、俺の生命そのものを捧げても構わないと思えるほどだった。彼を救いたいという感情は嘘なんかじゃない。でも、彼と関わることによって失われたものが多すぎるから、俺はまだ交差点で立ち尽くして先の見えない道を眺めているだけだった。誰か背中を押してくれる人が必要だった。でも俺はその人のことを信用できるかどうか、そんなことについて悩んでいる時間さえ惜しいと思ってまともに考えようともしなかったんだ。
「薫、あのさ」
 目を開けて相手の顔を見る。そうやって彼の目だけを見ていればよかったのに、俺の視界は相手の後ろにある景色まで一緒に押し込んでしまった。
「あ――」
「え、何?」
 身体が勝手に反応し、俺は薫の背後に回り込んでいた。恐怖よりも憤りの混じった感情が溢れ出してくる。薫の背中越しに見えた景色に溶け込んでいたその相手を、俺はおそらく殺したいほどに憎んでいたのだろう。そういった負の感情は押さえ込むことに意義があった。
「何の用だ、こんな昼間に」
「ごあいさつ」
 赤い瞳がこちらを見ている。まだ相手との距離はあるが、それだってほんの五歩程度の距離だった。風は冷たいのに身体が熱く火照ってくる。俺は突然現れたエダという名の男をここから追い出さねばならなかった。
「ええと、どちら様? また外国人の知り合い?」
「薫、お前は引っ込んでろ――」
「いいじゃないか、樹君。その子を俺にも紹介してくれよ。ラザーラスだってその子のことを知っているんだろ?」
「知らない!」
 紹介だって、気味の悪い男だ! そうやってやわらかい言葉で俺たちを騙そうとしているのは分かり切ったことなんだ、そんな見覚えのある罠にはもう二度と引っ掛からない。ただ火照った身体が震え始めていた。守るべき存在がすぐ後ろで息づいているからこそ、余計に精練された緊張が俺の自由を奪っていた。
 この男が、この化け物のような男が! こいつがいたからラザーが苦しんだ、こいつがいたから全てが狂い始めたんだ! こいつさえいなければ、こんな世界の恥のような男が存在してなどいなければ、今だってあの頃と同じような平和があったはずだった。皆で笑い合える瞬間を共有できたはずだったんだ!
「ああ、樹君、そんな目で俺を見ないでくれ。そんなに憎らしそうな目で睨まれたら、君の負の感情が黒い霧となって周囲に充満してしまうじゃないか」
「黙れ、さっさと帰れ! お前なんかと話すことは何もない!」
「おいおい、少しは俺の話も聞いてくれよ。俺は別にラザーラスを探しに来たわけじゃないんだぞ」
 相手の顔からなまめかしい微笑が消え、ちょっと呆れたような人間らしい表情が現れた。騙されてはいけない、それは俺の弱みに付け込んで、内側から崩壊させる下準備の一種かもしれないじゃないか。俺は相手にほんの一瞬間でも正の感情を見せてはならないと自己に言い聞かせた。
「君の所にケキさんが来なかったか?」
「……な」
「聞けば君はケキさんに気に入られたらしいじゃないか。あの人、ちょっと前から行方不明でさ。もしかしたら君の所かなーと思って訪ねてみたんだけど、はずれ?」
 疑問を語る瞳が俺の前にある。それはエダという名の男のものではなく、むしろ懐かしいスイネのものだと言った方がよかっただろう。待ち構えていた汚い言葉は一つもなくて、俺は何か邪なものを期待していたのではないかと恥ずかしくなってしまった。
「なあ、どうなんだよ。ケキさんは来てるのか? 来てないのか?」
「来てない、けど……」
「ああ、やっぱりはずれか」
 そう言って相手はため息を吐いた。
「ケキって人が行方不明って――どういうこと?」
 これは何なのだろう。俺の口から親しみのある台詞が飛び出した。俺は相手を嫌っていたんじゃなかったのか。さっきまであれほどの怒りを剥き出しにしていたのに。
「そんなこと、俺が知るかよ。俺はケキさんじゃないんだから、あの人の考えてることなんか分からない。そもそも俺はケキさんがどこで何をしていようとどうでもいいんだよ、ただティナアさんがそれを許さなくて、俺たちにケキさんを探せ探せってうるさくて」
「ティナアって……」
「知らない? アニスの母親さ」
 異様な光景だった。闇の中では見えなかった彼の素の部分が光に照らされ、ありのままの姿で俺の眼にまっすぐ焼き付けられていた。これ以上相手を知ってはいけない気がする。このまま彼の綺麗な部分を見続けていたら、俺はまた光の魂として彼に同情し始めてしまいそうで怖かった。
 がっかりした表情のエダは俺の目の前まで歩いてきた。そうやって彼の顔を見上げたなら、俺は今までろくに彼の姿を見ていなかったんだとようやく気付いた。
「君たち、腹減ってない? 俺が何かおごってやるよ」
 彼はズボンのポケットから財布を取り出し、俺たちに向かって軽くウインクする。その奥で笑う光はどんな色よりも濃い白で、俺は相手を見上げる他に彼と平等な立場を得ることができなくなってしまっていた。

 

 +++++

 

「よかったな、樹。昼飯代浮いて」
「それはお前もだろ……」
「ははっ。いきなり押しかけちまったお詫びさ。気にしないでくれ」
 エダに連れられて俺と薫は近所のラーメン店を訪れていた。半信半疑で赤い髪の男について行ったが、彼はとても誠実な態度で、俺と薫にラーメンをおごってくれた。どこで日本のお金を手に入れたのか知らないが、俺が見張っている間にも不審な行為をすることもなく、どこにでもいる一般のお兄さんのような爽やかさを見せながら俺たちと接していた。薫は持ち前の気楽さですっかり相手を信用し、今では笑いながら冗談を言い合う仲にまで発展してしまっていた。俺はそんな二人を眺めながら、それでも消し去ってはならない疑心を大事に抱え込んでいなければならなかった。
「それじゃ、樹。これからどうしよっか」
 ラーメン店から出て適当にぶらぶらと道を歩く。俺の横にいる薫はとても機嫌のよさそうな顔をしていた。
「どうって、俺もう帰りたいんだけど」
「えー、なんだよそれ、せっかくの休みなんだし遊びに行こうぜ!」
「い、いいよ、俺は。お前らだけで行ってこいよ」
「よくない! お前がいなきゃつまらん!」
 無茶苦茶な理由で腕を引っ張られる。危うく転びそうになったが、咄嗟に目覚めた兵器の力がそれを未然に防いでくれた。
「二人はずいぶん仲がいいんだな。本当の兄弟みたいだ」
「へへっ、そう見える?」
 後ろから聞こえるのは闇の組織の人間の声。その企みは何だ。どこに罠が仕掛けられている?
「俺にも兄がいたんだけどさ、兄貴はたくさんの人に追い詰められて自殺しちまったんだ。俺はそれまで兄貴と一緒に暮らしてなくて、死んだと聞かされてから兄貴が何をしていたか知ったくらいなんだ」
「む……そうか。それはご愁傷様でした。ほら、樹も!」
「え? ご、ご愁傷――」
 エダの兄は確か、ラザーに連れられて訪れた小屋の持ち主だった。彼はあの小屋の存在を知っているのだろうか? もしそうなら用心しなければならない。ひょいと感づかれてしまっては、上手くいきかけている全てが崩壊してしまうに違いないから。
「あのさ。俺もう疲れたから早く帰りたいんだ。休みの日くらいゆっくりさせてくれよ」
「……まったく、仕方ない幼馴染だなぁ。分かったよ、それじゃ俺の家に行こうぜ」
 薫は何かを察したのか、あまり他人に見せない優しげな表情を俺に見せてくれた。多少のわがままでも押し通すことができて良かった。これ以上エダと一緒に行動していたら、彼の謎めいた言動全てに取り込まれてしまいそうだったから。彼に対し、特別な感情を抱いてはいけない。彼は敵なんだ、俺やラザーを苦しめた最大の原因であり、夜になるとどんな魔物よりも恐ろしい姿に変化する、狡猾で乱暴な石像のような人間なんだ。どんな弱みを見せられても同情などしないと腹に決めても、俺はそれを貫き通す自信がなかったから、せめて何も知らないままで遠ざかってしまえば平気でいられると考えたんだ。
「じゃあエダの兄ちゃん、ラーメンありがとな」
 軽く手を上げて薫はエダに合図をする。俺は相手の目を覗くことはしなかった。そのまま何も言わず背を向けて歩き出そうとすると、後ろから強い力で腕を引っ張られ、これ以上進むことができなくなってしまった。
「淋しいんだ」
 振り返ると、いつかの誰かと同じ目がそこにあった。
「淋しさに押し潰されてしまいそうなんだ。淋しさが頭の中を支配して、夜も昼も分からなくなるほど世界中が泣いている。だけどせめてもう少し――夜が訪れるその前まで、彼らの嗚咽を忘れていたいんだ。どうか、許して」
 掴まれた腕がぎりぎりと締め付けられる。おかげで相手の本音がどこに隠れているか分からなくなってしまった。この暴力は何を表したものなのか、淋しさを打ち消す為の仮面か、或いは同情を煽る際の抑えつけられぬ激情なのか。
「んー、なんだかよく分かんねーけど、エダの兄ちゃんも俺の家に来る?」
 事情を知らない薫は楽観的なことを言う。彼の声を聞くとエダは力を緩め、俺の腕も解放されることとなった。それにほっとする自分が恨めしい。
「俺の家、樹の家のすぐ近くなんだ」
 仲のよさそうな二人は歩き出した。俺は彼らについて行かねばならなかった。でも本当は逃げ出したかった。なんだかエダの思うように事が運んでいるようで、裏に潜む深淵より深い闇が目を覚ましてじっとこちらを見ている気がした。警戒を怠ってはならない。常に彼から目を離さずに、彼の一挙一動を執拗に疑い尽くさねば相手に食われると本能的に覚った。
 薫の家まではそれほど遠くなく、エダの姿をじろじろと監視しているといつの間にか辿り着いていた。エダは薫や俺に対し、気のいいお兄さんのように明るく振る舞っていた。夜の姿とはまるで別人だった。それで騙されてはならないはずなのに、俺の心は再び揺れ始めていた。
 鍵のかかった扉を開け、玄関に入って靴を脱ぐ。誰もいない小さな家の階段を上っていき、薫の趣味の詰まった部屋に入ると幼い頃の思い出がふと甦ってきた。
「よし、ゲームでもするか」
 俺たちの意見も聞かず、薫はせっせとゲーム機を引っ張り出してきた。黒い画面のテレビの電源を入れ、ゲームのコントローラをこちらに放り投げてくる。
 仕方がないので俺はテレビの前に座り、久しく触っていなかったコントローラを握ることにした。中学生の頃はよく暇つぶしにとゲームで遊んでいたけれど、高校生になってからはほとんどゲームをしなくなっていた。それは時間がなくなったとか興味がなくなったとか、そういった現代人特有の言い訳じみた理由ではなく、ただ単に暇つぶしをする必要がなくなったからだったのだろうと推測している。ただそれ以上に考えられる要因として、ラスからの手紙を受け取ったことが挙げられることもまた事実だった。
 三人が横一列に綺麗に並んで座り、たった一つしかないテレビの画面を集中して見つめている。俺はどうしてだか真ん中に座らされ、薫とエダに挟まれる位置で息をしなければならなかった。でもそれは良かったことであるはずだった。なぜならこの配置なら、簡単にエダから薫を守ることができそうだったから。テレビの画面を見ながらも、隣にいる男の様子を確認せずにはいられなかった。俺には彼の不審な行動を一つでも見つけたら、その瞬間にこの家から追い出してやる準備をこっそりと進めておく義務があったんだ。
「おい樹、お前真面目にやれって」
「え? あ」
 気の抜けたようなメロディが流れ、画面にゲームオーバーという文字が描かれる。俺たちがやっているゲームは古いシューティングゲームだった。かなり昔に流行ったもので、俺や薫が生まれる前に発売されたものらしいが、どうやら薫は最近になってこのゲームの虜になってしまったらしい。しかし俺はシューティングだとかパズルだとか、テクニックや頭を使うゲームは昔から苦手だった。薫もそれを知っているはずなのに、なぜわざわざこんなゲームをやらされなければならないのか。
「貸してみて」
 優しげな目をしたエダが俺に向かって手を差し出していた。その底の見えない表情に戸惑いつつコントローラを手渡すと、相手は前を向いて真剣そうな顔を作り上げた。俺はちらりとゲーム画面を見たが、それより彼の顔の裏側を暴いてやろうと必死だった。そうやって睨むようにエダの姿を見つめていたが、一つの画面に向けられた目が他の色に染められることはなく、いくら目を凝らしても見えない汚れに苛立ちさえ覚え始めていた。
「へえ、上手いもんだなぁ」
「遊びは昔から得意なんだ。特に一人でできる遊びが」
 視点をずらさないまま隣の男が声を漏らす。組織の一員が遊びだって。その遊びという概念の中に、他者への虐待が混じっているんじゃないだろうか。虐待が得意だって? おかしな奴だ、そんな自分だけの常識の中に、俺やラザーを巻き込むのはやめてくれ。
「大人になっても、遊んでなきゃやってられない時があるんだ。どうしようもない上司に苛立ったり、どれほど頑張っても認められない悔しさだとか、理想と違う答えが返ってきた時の戸惑いなんかは、真正面からぶつかってしまうと立ち上がれなくなることがある。そういうことにならないよう、適度に遊びを取り入れなきゃならない。全てを忘れて悦に入り、仕事の疲れを癒すことができたなら、同じことの繰り返しをも許せるようになるからな。ほら、よく言うだろ、今はストレス社会なんだって――周りの圧力に潰され、口が重くなろうと世界は周り、言葉を失おうと感覚は研ぎ澄まされる。俺たちが生きていく中で最も大事なのは本能じゃないだろうか。いくら理屈を捏ね上げても、結局は戻ってきてしまう不動の真理とは、大いに単純で快活な人間の根本なのだと俺は思っているんだ」
 電話が鳴った。下の階から呼び出し音がうるさく鳴り響く。おかげで夢に取り込まれずに済んだ。彼の考えについて頭を悩ませる発想が消え、目の前の現実への対処だけに専念できるようになって安心した。
「なんだよ、せっかく人が気持よく遊んでるってのに……」
 文句を言いつつも薫は立ち上がり、部屋を出ていく。階段を下りる足音が聞こえなくなった後に電話の音も消えてなくなり、遠くの方で話す幼馴染の声が静かな部屋まで届いてきていた。
 俺が監視する隣でエダは黙り込んでいた。純粋そうな瞳でテレビの画面だけを見つめ、指をしきりに動かしてゲームに集中しているらしい。それがあまりに長いこと続くから、俺はちょっと気になってゲームの画面へと視線を移した。そこでは迫ってくる敵を破壊し、ひたすらに前へ進む戦闘機の勇猛だけが刹那の中に存在していた。彼は本当にゲームが上手だった。ラザーを殴り、姉貴を脅し、皆を嘲笑った手が勝利を導いている。俺にはそれが許せなくて、でもその手を止める勇気も出てくることはなく、今はただ羨望として彼の才能を眺めることしかできなかった。
「樹君」
「え?」
 息ができなくなる。
 俺の口が相手の口によって塞がれていた。即座に手首と肩を手で掴まれ、彼は体重を掛けてくる。
 驚いている暇などなかった。床に押し倒され、服の下に手が忍び込んでくる。口はなかなか解放されず、彼の頭を無理に押し返そうとしたが力が足りずに動かせなかった。服とシャツの下にある手が肌の上を滑り始め、逆らおうとしても逆らえない何かが俺の前に君臨していた。相手が口を離したならば大声を出そうと待ち構えていたが、俺が声を絞り出す前に手首を掴んでいた手で口を塞がれた。
 油断していた。目をそらすんじゃなかった。薫がいなくなる時を待っていたのだろうか。興味があるように見せかけて、狙いはずっと俺一人だったというのだろうか! これが彼の本性だ、やはり同情すべき相手じゃなかった! 相手は無言のまま俺の身体を探ってくる。それでも息だけは荒々しく、まるで我慢の限界だと叫んでいるかのようだった。
 声も出せない状態で、目の前にいる男の胸板を力を込めて手で押した。こんな時は決まって兵器は眠りについており、情けない俺一人の力じゃどうすることもできなかった。それでも抵抗をやめてはならないと誰かに責められているような気がして、俺は彼の下でただただもがき続けていた。それが彼の気に障ったのか、相手は俺の顔を握り拳でぶった。痛みを感じるのと同時に、視界が霞んで頭がぼんやりとし始めてきた。次第に身体から力が抜けていき、息をする事も困難に感じられ、どこか窮屈な箱の中に入れられたように身体がかちかちに固まってしまった。相手が俺の身体で何をしているかも知ることができずに、大きく見開かれた目で友人の家の天井を見つめ、喉の奥から出すべき意見を確認することもないままで、俺は声のない野生の舌により闇の底へと落とされていた。息が途切れ途切れに続いていた。このまま彼に身体を奪われたなら、俺は殺されてしまうのではないかと突然怖くなった。しかしそんなことを考えてはならなかった。恐怖は更なる緊張を示しただけで、俺を助ける要因は揃って知らんふりをして背を向け、人気のない街の隅で誰にも気付かれぬ絶望が俺の上に覆い被さっていた。ぼんやりする頭の中で、振りかざされたナイフの光がやけに美しく煌めいて見えた。それは空中を優雅に泳ぎ、やがては顔の右側に落ちて黒い髪が小さく鋭い悲鳴を上げた。
 視界がぐるりと回ったかと思うと、俺はうつ伏せに転がされていた。見えるものはベッドの下に溜まった埃と、幼馴染と共に遊んだたくさんのゲームソフトの山だった。自分の鼓動と相手の息遣いだけが耳に入り、身体の中に入り込もうとする熱い何かが床の上に零れ落ちていた。俺はあいつの家を汚している――望んでないのに、何も要らないと言える自信だって俺の中にちゃんとあるのに!
 震える手が床を這った。爪を立てながら手を前に伸ばそうと努めた。そこに何かがあるわけでもないのに、消えていく自分の息を逃がさない為に、何かを追いかけなければ相手の思惑に沈んでしまいそうで嫌だった。目の上に前髪がしなびて垂れていた。頭の中に「痛い」という単語だけが隙間なく溢れ返り、それに誘導されて目の奥からは熱くて冷たい涙が滲み出していた。
 相手が何かを言っていた。隣で何かの音が聞こえた。それでも耳に届く音は全て頭を素通りし、動かない視界は涙によってぼやけていくだけで何も分からなかった。でも、分からなくて良かったかもしれない。汚いものを見ないで済むなら、まだ何も知らない赤子のように生きていけるような気がしたから。
 続く相手の欲望は収まることを知らず、それは徐々に俺の思考をも確実に飲み込んでいった。快楽と呼ばれる感覚を知らされるその隣で、俺はどうしてだかラザーのことばかりを考えるようになっていた。彼の受けた痛みはこれと同じだったのだろうか、彼の我慢が成就しなかった苛虐はこれと等しいものだっただろうか。俺はラザーと同じ経験をしているのだと瞬間的に悟った気がした。それは喜ぶべきことで、だけど今の俺にとっては、ラザーの気持ちを理解できることよりも痛みの方が大きくて、彼のせいで巻き込まれたのだと否定する精神を一つずつなだめていかねばならなかった。
 目を閉じれば楽になれるかもしれないと思った。それを信じて目を閉じてみたけど、余計に相手の体温が身体に浸み込んできて、もう心を手放す他に救われる方法は存在しないと思うようになった。ただそれが分かったとしても実行することはできなくて、相手が満足するまでじっと耐え、彼の道具として床に転がっていることでしか自分を守ることができなかった。
 この思いは、どこへ行くのだろう。

 

 +++++

 

 夢の中でラザーに会った。短く切られたはずの髪が長く伸びていて、それまで一体どこで何をしていたのかと問いただしていた。ラザーは小さく頬笑みながら、牢屋の中で座っていたのだと答えた。俺はどうして脱走しなかったのかと聞いていた。
 彼の腕には手錠がかけられていて、俺の足には足枷が付けられていた。ふと前方から誰かの聞き覚えのない声が響き、ラザーはそちらへ向かって歩き出した。俺は追いかけようと思ったが、しかし足枷が重くて一歩も動けなかった。代わりに声を出して呼びかけたが、背を向けた相手は小さくなっていくばかりで、後には面影も香りも足跡さえ残さなかった。ただ彼は落とし物に気付いていなかった。それは闇の中で光る美しい金色の鍵だった。
 俺はその場でしゃがみ、ラザーの落とし物を拾い上げた。手の中にずしりとした重みを感じた。一度ぎゅっと握ってみると、皮膚に触れた部分が冷たく存在を主張し、片方の目が見えなくなった。まばたきをすると見える目が入れ替わっていて、握った鍵が色を落として銀色になっていた。
 失われた金色は俺の胸の方へと導かれていた。鍵の煌めきが全身に巻きつくように漂い、やがては胸の中へと吸収されていく。それを受け止めるとあたたかい抱擁を感じた。色彩の中には強い意志があり、正しい何もかもが偽善を押し殺そうと戦っていた。
 消えない光は銀だけで、それは長い過去を一様に延ばしている。鍵の中からさざめきの声が溢れていた。聞こえたのは悲しみや嘆き、嫉妬、恨み、そして生に対する異常なほどの執着がパズルのように組み立てられた幼い悲鳴だった。これを人は負の感情と呼んだ。闇の中に捨てられた哀れなマリオネットの言葉だった。
「怖いのなら、逃げてしまえばいいじゃない」
 後ろから誰かに抱き締められていた。肩に重力を感じ、そちらに目をやると、丸く大きな瞳を持つ子供がこちらをじっと見ていた。彼の長い前髪が俺の手まで届き、笑わない目はどろっとした液体を奥の方に潜ませている。後ろから腹に伸びている手がおもむろに動き、ぱらぱらと崩れ始めていた銀の鍵を奪い取って消え去った。
 振り返るとラザーと同じ後ろ姿があった。ただ俺はもう彼を追いかけようとは思えなくて、変えられないものを嘆こうとする精神を破壊せねばならなくなり、初めて表明した告白を思い返しながら見えている目を闇に沈めた。するとどうしてだか歌が聞こえてきた。誰かの為に自身を犠牲にするその歌は、いつか誰かが泣きながら歌っていた月の歌と酷似していた。

 

 

 

目次  次へ

inserted by FC2 system