月のない夜に

 

 

 黒い壁が見えた。幾度かまばたきをし、ぼんやりとしている頭を起こす。何度まばたきをしても周囲の暗さは変わらなくて、今は夜なのではないかという錯覚に飲み込まれなければならなかった。
「早く起きろ」
 俺に向かって呼びかける声があった。それは数分前からずっと続いていたもののような気がする。声の主を探すと相手はすぐ傍にいた。暗い部屋の中で座っている俺の身体を支えているのは、かつてアニスの部屋で出会った淋しげな父親のケキだった。
「あんたは――」
「やっと気が付いたか。ここは組織の中。お前はエダに連れられてここに来たんだ。今はあいつは別の場所にいる、あいつが帰ってくる前に逃げるんだ」
 ふっと背中を支えていた手が消え、俺は自分の力で自身を保たねばならなくなった。ぐっと力を入れて立ち上がり、黒い部屋を観察する。天井の低い部屋の中には何もなく、ただ隅の方にはたくさんの物が無造作に散らばっていた。その中にきらりと光る銀の手錠が見つかって、俺はなんだか気分が悪くなった。
「こっちに来い」
 アニスの父親が、真の兄が、俺を扉の方へと誘導する。なぜ彼は俺を逃がそうとしているのだろう。彼はエダのことが嫌いなのだろうか、エダの行動が気に入らないから、小さな嫌がらせをしようと企んでいるのだろうか? 彼らの考えていることなど俺に理解できるはずがなかった。俺と彼らじゃ生きている世界が違いすぎて、だからこそ俺は自分で立たねばならなくなったのだろう。
 真っ黒の扉を開くと、その先にエダが立っていた。俺の顔を見ても表情を変えなかったが、俺の後ろにいるケキを見ると憎悪を剥き出しにした仮面を瞬時に作り上げていた。
「何をしているんだ、ケキさん。そいつは俺が連れてきた奴だ、勝手なことをしないで欲しい!」
「勝手なことをしているのはお前の方だろう。もうロイの坊主にちょっかいを出すなと言ったはずなのに、お前は自分の欲望に忠実に動いた。それは罰せられるべきだ……サクのように、警察にその首を差し出すつもりか」
「警察だって――誰があんな連中なんかに!」
「ならば大人しくしていることだ。もうロイの坊主に会いに行ってはならない。彼は……解放されるべきだ」
 ぽんと背中を押され、部屋の外へと追い出される。振り返ると微笑を浮かべた大人がいた。その微笑みは偽りではないことが分かった。だけどどうしようもなく悲しげで、俺は手を伸ばして彼の腕を掴もうとしてしまった。
「やめるんだ、君は触ってはならない」
 彼が声を出さなければ、俺はきっと組織から抜け出せなくなっただろう。俺に忠告をぶつけたケキは真面目そうな目でこっちを見ていた。その中に宿る光は妹である真とよく似ており、それに感づいた俺はすっかり相手を信用する体制を作り上げていた。
「なんだそれ……もうロイに会うな、だって?」
 ゆっくりとした動作でケキは扉を閉めた。ただ部屋の中で喚くエダの声は、きっちりと閉められた扉の奥からもはっきりと聞き分けられるほど鮮明に響いていた。
「解放されるべきだって? 解放って、この組織から解放するって意味か? ははっ、まるで意味が分からないな! あいつをあんなふうに追い詰めたのはあんたじゃないか。あんたが自分の愛をあいつに植え付けたから、あんたがあいつの精神と身体をすり減らして弄んだから、あいつはいつになっても自分の名前すら捨てられない臆病者になったんじゃないか! 可笑しなことを言わないでくれよ、ケキさん。あんたは頭がどうかしてるな――」
 耳を塞ぐ。声が聞こえなくなる。無音が何よりも心地よくて、そのままの格好で俺は歩き出した。自分がどこにいるかなんて分からない。目を下にやると暗闇だけが見えた。目を凝らしてよく見てみると、どうやら俺は黒い服を着ているようだった。これは夢なのではないかという意見が頭をよぎったが、落ち着いて過去を振り返ってみると、俺が着ていた服は薫の家で脱がされたことを思い出した。
 あれから何時間が経過したのだろう。俺はいつまで気を失い、あのなまめかしい夢を見ていたのだろうか。薫は驚いただろうか、俺がいなくなったことを不審に思って、リヴァや姉貴に連絡をしただろうか。そうだとしても構わないと思った。俺が行方不明になったとしても、もう二度とあの家に帰れなくなったとしても、それで彼から離れる口実が出来上がったのならば、この光の見えない組織の中で生きることだって嫌じゃないと思えるはずだったから。
 適当に歩いていると、たくさんの扉の前を通らねばならなかった。どの扉の奥もしんと静まり返っており、そればかりかこの建物の中からは生きている生命が一つも感じられなかった。黒い廊下を歩いていると誰かとすれ違った。俺は気になったから相手の姿を確認したが、組織の中で生きる人間は前だけを見つめ、無言のままで通り過ぎていくだけだった。
 やがて廊下は果て、一つの扉が行く道を遮っていた。この先にある部屋が組織の先端のようだった。吸い込まれるように扉に手を伸ばし、部屋の中へと足を踏み入れる。中には誰もいなくて、ただ驚くほど整頓された机や椅子が几帳面に並べられていた。四角い空間を最大限に利用した部屋の使い方で、そこに一粒の隙間さえ見えず、ただ緊張した雰囲気がこの中に押し込められているようだった。俺は直感的にここには入るべきではないと思った。
 そうやって振り返り、再びあの黒い廊下へと足を踏み出そうと考えると、なんだか強引な圧力がそこにあるように感じられた。閉められた扉は大きく胸を張っており、足元でうずくまる俺はそれに触れることすら適わない。無理に雑な魂を追い出そうと努めたところで、虚栄だと罵られ、ますます縮こまった精神が俺の手を氷らせてしまった。俺はこの部屋から出られなくなってしまい、だけどどうにかして出なければ夜に襲われてしまいそうで怖かった。
 気が付くとこの部屋には二つの扉があった。一つは先程開けた扉で、鳥のように素直に佇んでいる。また部屋の片隅に沈むもう一つの扉には赤い模様が描かれており、この世界に――それこそ世間から隔絶された刹那の重なりさえ見つからない、この組織という名の一つの世界に残された、湿り気のある独特の存在感を示す高貴な扉のように見えた。その先に何があるかなんて分からないけれど、そこ以外に逃げ場はないような気がした。かつて一族の少年が俺の前に現れた時と同じように、理由のない驚愕と共に安定した精神のままで扉に手を伸ばす。少しの力も必要とせずにそれは開き、全てをはねつける暗闇を眼前に誇示してきた。
 誰かに背を押されたように、何の抵抗もなく部屋の中へと足を踏み入れる。見えるものは黒だけで、窓のない部屋は窮屈なのに何故だかひどく広大だった。
 後ろで扉が閉まる音が響く。
「何か用かい」
 操られたように振り返ると、誰かが俺の姿を見下ろしていた。それは大人だった。闇の中でも金の髪を持っているということだけが分かり、俺はなんとなくその人の名を理解したような気がした。
「あんたが、クトダム?」
「そうだよ、アユラツの兵器さん」
 顔に微笑が貼り付いている。それは皆を騙す凶器の一種。一歩下がって距離を作った。でなきゃ二度とここから帰れないと俺の中の兵器が囁いていた。
「ここは君のような者が来るべき場所じゃない。何か用事があって来たのかな、もしそうならそれを聞こうじゃないか。さあ、話してくれ」
「用事だって――あんたの部下が俺をここに連れてきたんだ、俺はエダに攫われたんだ」
「そうか。それはすまなかった。だが彼だって悪気があって君を攫ったわけじゃない、どうか許してくれないかな」
 相手は俺に許しを請う。こんな滑稽なことが世の中にあるなんて思いもしなかった。ただ可笑しさの裏に潜むのは確かな狂気で、彼の微笑は隠し切れないそれが滲み出ているものなのだろうと感じられた。
「俺のことはいいんだよ。それより、あんたには聞きたいことがあったんだ。ラザーの――いや、ロイのことで」
 俺が彼の昔の名を口にしたら、相手はさっと表情に蓋をした。その刹那を俺は見逃せなかった。伸ばしかけていた手を一度戻し、改めて掴むべき目的を認識し直して手を出した。
「君はあの子の知り合いかい」
「ラザーは俺の友達で、仲間だ。だからこそ知りたいんだ。ラザーは俺に話してくれた――あんたはロイの命を助け、共に暮らしていたって。そこに流れていたのは穏やかな時間だけで、幸福という言葉がすぐ傍で見守っていたはずだ。なのに、どうしてあんたはロイを苦しめたんだ? なんで彼を犯罪者に仕立て上げてしまったんだよ!」
「その答えなら、君だって既に分かっているんじゃないかな」
 感情を隠した目線がまっすぐ俺の胸を貫いている。どうしようもなく息苦しく、相手の言葉に含まれる棘が身体じゅうにまとわりついて離れなかった。俺はまた戸惑って、怯えなければならなかった。何か見落としていることがあって、相手に指摘される避けられぬ未来が崩壊を導くことなど、もうすっかり分かっているはずの事実だったのだから。
「幸福を得る為には、その裏で犠牲になるものが必要だからね。あの子はそれに選ばれてしまっただけのこと。何もおかしなことじゃないんだよ、樹君、君だって幸福が皆に平等に与えられたものじゃないって考えているんだろう?」
「そんなことは……答えになってないだろ! ラザーは言ってたんだ、昔のあんたは、とてもいい人で、尊敬すべき人なんだって――だから今でもまだその頃のあんたのことを忘れられなくて、あんたのことを敬っていて――」
「私は何も変わっていないよ。あの頃も今も、同じように生きている。もしあの子が私の中に変化を見出したのなら、それはあの子が変わってしまったというだけだ。ああ、そうだとすれば、確かにあの子には申し訳ないことをしてしまったね。でもあの子は外の世界に興味を持ち、新しい生命に心を奪われ、自らの意志で私の隣から遠ざかった。そんな出来損ないはこの組織に必要ない。だから私はあの子を手放したんだよ――本当はずっと手元に置いておきたかったけれど、あの子の愛が別のものに向いてしまったから、汚れを捧げられるなら私はそれを蹂躙したくなるからね」
 漏れ出す狂気が目に宿る。それゆえ恐ろしい言葉を口にしても、相手はそれに気付けないのだろう。だが一般人である俺には偽りなく届いてしまった。平静で波のない見た目とは裏腹に、光の影で破壊を続ける精神は大きな音を生み出していた。
「君はこの組織にいる人間のことを知っているかい」
 たくさんの音が重なったような声が俺を揺らし始めていた。
「知ってるかって聞かれたって、そんなに多くの人のことを知ってるわけじゃない」
「難しいことじゃないよ、ただここで生きる人間が、何を望んでこの場所に集まったのかということを知っているかと聞いているんだ」
 揺れる。彼の髪が、瞳の中の光が、心臓の鼓動が永遠を揺らしている。その先で出現した誘惑が絡みつく。囚われて動けなくなったのは俺の身体ではないはずで、遠い昔に捕まったのは幼いロイの心だったんだろう。誰も彼を救えなかった。間違いに気付かせることも、光へと導くことも、強い精神が相手では、生半可な覚悟をへし折られるだけだった。俺はそんな子供を相手に戦っている。どうにかして彼を更生させ、闇に怯える日々から解放し、単なる一つの生命として恥じないくらいの毎日を届けてやろうと走っていた。それが俺の望みだったなら、他の全てを投げ出しても叶えたい最後の願いであったとしたら、もっと強くいられただろうか――どんな痛みをこの身に受けても、傷ついたことなどないように振舞えただろうか。揺れていたのは本当に相手? ただ俺の全てが定まらずにぐらついているから、他の見えるものが揺れていると感じたのではないだろうか。
「分からないのかい。分からず君は我々を裁こうというのか」
「裁くって、そんなこと――」
「隠す必要などない。君はサクを法の下へいざなった。そうだろう?」
「それは俺の知り合いがやったことだ、それをしたのは俺じゃない!」
「しかし君は助けなかったじゃないか。静かな傍観者の如く、一人の人間の罰を無言の中に受け入れたじゃないか」
 いろんなものが徐々に回り始めていた。わずかな記憶も、鈍くなった感情も、閉ざされた瞳も、混沌の中に沈んでゆく。しかしそれは恐ろしいことではなかった。だっていくら明確な矛盾を問いかけたところで、それで誰かが困るわけではなかったのだから。
「よく言うよ……他人の幸福を踏み躙るような奴が、助けを求めるなんて可笑しいことじゃないか。じゃ聞くけど、あんた達は一度だって、あんた達の足の下で助けを求めた人の声を聞いたことがあったのか。その人の身体から足をどけて、泥だらけの手を握り、目の中に光を取り戻す手伝いをしたことがあったのか。ないだろ、そんなこと、いつも他人の頑張りを嘲笑って、自分のことばかりを優先してきたあんた達なんかが、誰かの本当の声を聞けるはずがない!」
「面白いことを言う子だ、君は」
 すっと白い手が伸びてくる。俺は反射的にそれから逃れた。
「私たちが他人の幸福を踏み躙り、自分のことばかりを優先してきたその理由は、他でもない君たちの中にあるというのに、君はそれに気付いていないし気付こうともしていない。怖れているのかい、我々を――理由を知ったら同情してしまい、戻れなくなるのではないかと考えているんだね。ああ、それは、確かに些細なことではあるが適切な判断であったかもしれない。ただ私から言わせてもらえば、それは君の弱い部分をわざわざ敵の前に提示した愚かな行為のようにしか見えないよ。君は知るべきだ、我々を憎むなら、憎むべき対象のことをよりよく知らねば他者に笑われてしまうからね。その為に私は話そう。君が厚かましく我々を非難するその正義を彩る為に、君の中にある曇りのないガラス玉を綺麗なままで保つ為に、私が犠牲となって身を滅ぼそうじゃないか、何より君自身が君をちゃんと守れるように!」
 はっとした。でも驚いている場合じゃなかった。彼は俺の肩を手で掴んだ。逃げ出したかったけど身体は動かなかった、まるで俺の中の全ての魂が、今から始まる虚偽に染められた大層な話を聞かねばならないと命令しているかのように。
「さ、触るな」
「君が我々の姿をどんなふうに見ているか、それはすっかり分かってしまったよ。君は我々をどうしようもない人間の集まりだと、この世に生まれるべきではなかった精神だと、早々に立ち去って普通の人々の邪魔をしてはならない生命だと、そんなふうに見ているんだね。それは私が知っている限りでは普遍的で、誰もが一度は考えるありふれた意見の一端にすぎない。ただ我々からその意見の輪郭を眺めたなら、君たちのような満たされた者が我々をいたぶって楽しんでいるようにしか見えないのだよ。え、どうしてかって――分からないのかい、おかしな子だ、本当は分かっているのに、何をぼんやりとしているんだい。ならば問おうか、一つずつ答えを明瞭にしてゆく為に、土台から頂上までの全てをはっきりとさせてしまおう。君は先程自分が言った言葉を覚えているかい、我々の本分を分かり切ったような口調で言っていたが、そう、我々に踏みつけられた一般の人間が助けを求めるその声を、一度でもいいから聞いたことがあるのかと言っていたね。それに対する答えは私の口から発することができないが、しかしそんなことはどうだっていいことではないだろうか。なぜなら君たちだって、私たちを見下し軽蔑する君たち自身こそが、我々の声を無視し、助けを求める瞳に背を向け、泥の中へ、深淵の底へと、這い上がることすら許さないと言わんばかりの態度で我々を虐げ続けてきたのだから。おや、君は、どうしてそんな顔をしているのか。まるで分からないと言い出しそうな、大きな化け物に怯える動物のような顔をしているね! 君が分かっていようと分からぬままで終わらせようと、我々の中に生きる事実なら一つきりだと言い得るだろう。なぜなら我々がそれを認めたなら、たちまち他の価値を押し潰して本物になってしまうのだからね。そう、君たちが蔑む私たちの汚い姿は、美しさを追い求める儚げな君たちの目から見れば、よほど滑稽で恐ろしい近寄り難い存在なのだろう。ただそうさせたのは自分たちなのだと分かっていない……綺麗なものに囲まれたあなた方は、我々の幸福の犠牲の上に成り立っていることを知らねばならないはずなのに。一度限り、道を踏み外して牢獄に入れられた人間は、その手錠も足枷も一生外れることはないだろう。罪の程度など関係なく罪人と呼ばれ、あらゆる生活の行為を制限され、常に黄色い札を隠し続けねば家の中へ入ることすら敵わない。ああ一般人はそれを罰と呼ぶ、罪を犯した者は戒めを与えられ、法の下で裁かれた後は自身の過ちを深く見つめろと脅している。そうやって殺された生命が一体いくらあっただろう――人間が全て幸福を得る権利を有して生まれたのなら、罰に苛まれ幸福という言葉が遠ざかり、許しを請う手を踏み潰されてしまい、表面上正しい人々より隔離されることは有り得ない……そう、そんなことは、決してあってはならぬはずだった! それなのに、それなのに君たちは、我々を見る目を変えようとせず、一つの事実だけをえらく大切そうに抱え込み、悪人は大人しく地の底で埋まっていろと言う。言葉にしなくとも態度でそれを示している! そうなったらもう我々の声など届きはしない、どんな事情があったかも知ろうとせず、ただ目に映るものだけが正しい情報なのだと信じている。たとえば一人が本当のことを言っても、他の大勢が間違ったことを信じていたなら、君も間違いこそが正しいことだと思い込むだろう? それと同じさ、君たちは我々と同じ生きている生命なのだから。分かっただろう、君にだって、私がこの組織を創った理由も、いくら純粋で美しい全てを愛する君にだって理解できただろう! 私は彼らを救いたかったのだよ――罰によって人として生きることを否定された、可哀想な木偶の坊たちを甦らせてやりたかったんだ!」
 理解とか同情とか、そんなことはもう問題じゃなかった。苦しむ人が自分の前で倒れ、光を失った目で世界に押し潰されている。その人に対し自分ができることは何だったか?
 彼が語った理由と名付けられた過去は、俺が足掻きながら求めていた道とどれほど違っていただろう。俺は悲しげな瞳をした青年を助けたくて、どうしても暗闇から抜け出すことを諦めて欲しくなくて、自分の命が削られることも汚されることも気にせずに、自らその渦中へと飛び込んでいったんだ。だから彼を傷つけて苦しめる人のことが許せなくて、そいつのことが憎くて憎くてどうかしてしまいそうで、それでもほんの一瞬だけ見せる光明に戸惑い、目を閉じ耳を塞いで彼らが消えてくれることを最後の願いとしていた。彼らの事情を知ったら同情してしまいそうで、そしたら意志が揺らいで板挟みになって、自らを奮い立たせることも間違いを指摘することもできずに、過剰になる彼らの暴力をただじっと耐えることしかできなくなりそうで怖かった! だから逃げていたのだろうか、俺は、彼らの中の良心を否定し、彼らの正しい部分を正義ではないと決めつけていたのだろうか。
「だからあんた達は、自分を苦しめた社会に対して仕返しをしているのか? それが自分を傷つけた代償だと言って――」
「いや、それは近いようで異なっているよ。我々はあなた方に復讐をしているわけではない。我々の望みはあなた方の輝かしい幸福を壊すことではないんだよ。それはあなた方と同じで、ただ手の届く範囲での幸せを掴みたいだけなんだ」
「し、幸せって――何だそれ。どいつもこいつも他人の幸せを奪ってるくせに、自分だけが幸せになれたらそれでいいって言うのかよ」
「何を怒っているんだい、それだって君たちと同じじゃあないか。それとも君は、幸福とはどんな人間の元にも、じっと待っているだけで向かってきてくれる都合のいいものだと思っているのかい。そうじゃないだろ、それは自身の手で捕まえなければならなくて、我々はぐっと手を伸ばして目を見開いていなけりゃならない。でなきゃ奪われるからね、とても容易に奪われてしまうから。そう考えると私は、人間はつくづく可哀想な生命だと思うんだ。幸せになるには他のものから奪わなくてはならなくて、やっとの思いで掴んだそれを、今度は奪われないよう守り続けなければならない。奪いながら奪われることが人間の本質だとすれば、そこに犠牲があることは或いは必然と呼べるかもしれない……そうだろう? 君たちが私たちを犠牲にしていることと同じように、我々はあなた方を犠牲にしながら生きているというわけだ」
「それは、エゴだろ……一方的な意見じゃないか、あんたの主観が全てじゃないだろ。そりゃ、確かに俺も、幸福ってのは誰かの犠牲の上に成り立っているとは思うけれど、でもそれを盾に他者を傷つけるのは言い訳にすらならないだろ!」
「傷つけているというわけではない」
 肩に置かれた手がふっと離れ、優しげな仕草で頬へと移動する。
「この組織に集まった者は皆、幸福がどういったものか忘れてしまっているからね。それがいろんな形をしていることも、たくさんの色で多くの種類があることも、彼らには理解できないし理解しようともしない。興味が尽きてしまったからね、知らん顔して通り過ぎていくんだよ。そんな人たちに幸福を教えようとしてもそれは無意味だ。知ろうともしないものを無理に押し付けたって、平気な顔して跳ね返されてしまうだけだからね。ただ彼らも私たちと同じ人間であることを忘れてはならない。彼らが人間なら、その内側に潜み無意識に沈んでいる本能が存在するなら、たった一つ――最後の砦でもある一種類の幸福を与えることができる。その正体なら君も知っているだろう、君だって人間なんだから、知らぬはずがない。興味を失っても感じることのできる幸福――それこそが快楽というものなのだよ」
 相手の目の中に光があった。とても鋭く研ぎ澄まされた、歪な棘をぎらぎらと放っている。見つめていると吸い込まれそうで、見つめられると胸に突き刺さった。痛かった。どうやらそれは、誰かによって砕かれた純粋な希望の破片だったのだろう。
「我々人間が快楽を感じる方法は、個人の感覚により様々ではあるが、どんな人間であろうと共通する一つの手段こそが人の上に立つことなのだよ。他人の――それこそ顔も名も知らぬ自分と全く違う環境で生きていた者でもいい、自分じゃない意志のある存在より高い位に立ち、彼を踏み躙り、服従させ、優越を感じる時、それが快楽となる。しかし刹那の快楽は我々に貧困と不満とを与え、より多くの快楽を欲するようになり、またその完成型を追い求めて新たな暴力を生み出す。力を知った者は乱暴に欲しいものを手に入れようとするからね。そして幾度も繰り返すうちにその輪から抜け出せなくなる。いわば中毒のようなものだ。それはとても苦しくてつらいことのように見えるかもしれないが、私はそれこそが何よりも安定した幸福だと感じるんだよ。なぜなら人間とは、何かに夢中になれる時に最も輝くことができるのだから。君はそれさえ否定するのかい、我々の考えを頭ごなしに破壊して、それで何を得ようというんだい。まあ何だっていい、君たちが我々の人間性を否定するのなら、我々は独自の方法で人間らしく生きるまでだ」
 狂ってる。目の前にいるのは本当に人間か? なぜ彼はこんなことを言う? 自らの過ちを正当化して、その先に何を見出してしまったのか。
「そうやって強い意見を真正面からぶつけて、俺を騙そうと考えているのか」
「騙す? 騙すだなんてとんでもない」
 ふと相手の手が肌から離れた。
「誰かを騙すのは心が痛くなる。だから私はそんなことはしないよ。それでも君の目に私が誰かを騙しているように映ったならば、きっと我々が我々自身を騙しているということなのだろう」
 嘘だった。相手は嘘ばかりを言う。でもどこか永遠に似た瞬間に見える主張は本当で、俺には彼を否定することができなかった。また飲み込まれてしまうのか。巧みな言葉に翻弄されて、もう見えているはずの悪さえ見逃さねばならなくなるのか。
「分かってくれたかい、樹君。我々の思いを」
 分からなかった。分かる方がおかしいんだ。でも本当は分かっていた。彼の言ったことが理由になるのなら、不可解な何もかもが明らかになりそうな気がしたから。それを認めれば楽になるだろう。どうしてと悩む必要もなくなり、今まで我慢してきたことも、許せなかったたくさんのものも、全て過去のものとして優しげな目で見送ることができるだろう。それでも許してはならなかった。他人の幸福を平気な顔して踏み躙るような奴らを、ただ自分の為だけに許すことなど有り得ないことだったから!
 緊張した空気が俺を包み込んでいる。光も闇もない無の空間で、時間を失うことだけを怖れ続けていた。手放すことを恐れるのなら、こんな場所には立てないと思った。見失ったものの欠片が相手の足元に転がっていた。
「クトダム様」
 背後から誰かの声が響いた。驚いて振り返ると閉まっていた扉が開いており、見たことのない女の人がこちらをじっと見つめていた。
「ティナアか」
「例の件、やはりエダの仕業で間違いないようです。彼の私欲の為に石を持ち出したのかと――」
「そうか」
 ティナアと呼ばれた女性は歩いてこちらに近付いてくる。彼女が一歩踏み出すごとにハイヒールが床を踏みつけ、どこか威圧的な大人の音が部屋じゅうに響いた。
「……この子供は?」
「エダに攫われてきたそうだ」
 すぐ傍まで近寄ってきた女性はじろりと俺を見下ろしてくる。彼女の赤い髪は闇に紛れて黒く染まっており、擦り切れるほど着古したことが分かるスーツもまた同様だった。
「それで、どうしますか? あの男、また縛りつけておきましょうか」
「彼には罰を与えなければならないね。この安定した穏やかさを壊した罪を償ってもらわねば。君もそう思うだろう、樹君。君だって彼に対し憎悪の念を抱いているのだろう」
 まっすぐ飛んできた言葉は俺の全身に浸み込んでいく。しかし俺は黙っていた。相手に差し出すべき意見などもう捨てねばならない気がしたので、綺麗に縁取られた台詞を吐き出す勇気も出てこなかったんだ。
「ティナア、彼は私欲の為に石を持ち出したのだと言っていたね。その私欲というのは、ロイのことかい」
「そのようですね。目当ては何であれ、嘘で揺らして騙そうと思っていたのでしょう。あんなガキ一人の為に資源を持ち出すなんて……」
 ロイという名が出てきた途端にティナアは苛々し始めたみたいだった。傍から見ても分かるほど顔を歪ませ、腕を組んで眼前を睨みつける。
「エダはロイを組織に連れ戻そうとしているのか。その気持ちも分からなくはないが、彼はもう要らない存在だからね。これ以上彼を傷つける必要もあるまい」
「そう、ですね」
「何か不満かい、ティナア」
「あんなどうしようもない子供、どこか人の通らない道の上で野垂れ死にでもしてしまえばいいのよ。この組織からだけでなく、この世でのあいつの居場所も壊してしまえばいいんだわ」
「あんなことを言っているよ、樹君。君の大事なお友達をここまで否定されて、一体君は今どんな気分なのかな」
 嫌なことを聞いてくる相手だった。どんな気分なのかと聞かれたって、友達に対し死を促すようなことを聞いていい気分になるわけがない。ただどうしてこのティナアという人がここまでラザーのことを嫌っているのか分からなくて――いや、そうじゃない。そうじゃなくて、分からないのは、どうしてここの人たちは皆、寄ってたかってラザーを連れ戻そうとするのだろう。なぜ組織から抜け出した、いわば裏切り者のラザーのことをこんなにも愛し続けているのだろう。
「エダは、なんで……ロイを連れ戻そうとしてるんだ」
 聞けば答えが返ってくるとでも思ったのだろうか。手を伸ばせば求めるものが手に入ると思っていたのだろうか。組織の頂点の男は少しだけ微笑んだ。そうしてそっと俺の頭を優しげに撫でた。
「彼の存在は、この組織の中でも異端だったからね。そう、たとえば、ここで生きる全員が喜びも悲しみも全て忘れ、ありとあらゆる感情を失っているとすれば、彼はそれらを失ってはいなかった――つまり彼は死人のように生きる者たちの真ん中で、たった一人きりで『人間らしく』生きていたということだよ。我々の望みが幸福を得ることだとすれば、そこには一種の犠牲が必要だ。そしてそれは生きている人間でなければならない……彼はうってつけだった。虐めても泣かない者や、死んだ目で従う者など、快楽の対象にさえなり得ないのだよ、ロイのように生きた人間が我々には必要だったのさ!」
 悪寒がして、言葉にできない感情がじわじわと溢れ出してくる。突然震え始めた手を背に回して隠し、今にも張り裂けそうな負の感情を表に出さないよう努めなければならなかった。
「それは……ラザーを、いやロイを、生贄としてあんた達に捧げていたってことですか」
「生贄だなんて、悪い言葉を使うね、君は。だがそれも間違ってはいないだろう。私が彼を見つけたことは偶然で、そこには計画性など作られてはいなかった。だから彼が私から離れようとしないことに気付いた時は焦ったよ――ああ、私は確かに申し訳ないことをした。当初は彼を巻き込むつもりなどなかったんだ。それが一体どういうわけか、彼は私に好意を示した。これが他人に親切にした返却品だというのなら、私にはそれを無残に捨てることができなくて、結果として彼を私の理想に引きずり込むことになってしまった。だから、樹君。君が私や組織の人々に怒っているその感情は、本来我々に向けられる刃ではないのだよ。君のその負の思いの発端は何だったかよく考えてごらん。君ならそれにだって気付き、間違いのない答えに到達することだってできるはずだ」
「……」
 彼が何を言っているのか分からなければよかったのに、何が違ったのか、相手のすらすらした滑らかな言葉はすっと頭の中に入り込んで沈着し、パズルのように組み合わされた意味の欠片はぴたりと繋ぎ合わされていった。自分を見下す二人の大人の視線を肌で感じ、俺はふとこれが彼の生きていた世界なのだと気が付いた。それで何かが変わればよかったのに、事象に先行して理解だけが独り歩きを始めている。俺は頭がどうかしてるんじゃないかって、そんなことが急に恐ろしくなってきた。
「ところで、樹君。君は何をしにここへ来たんだい?」
「何をって、だから――俺はエダに攫われて来たんだ」
「ああ、そうだったね。すっかり忘れていたよ。じゃそろそろ帰りなさい。あまり長居しすぎると、皆が君を捕らえようと動き出してしまうからね」
 ぐいと腕を引っ張られ、扉の方へと歩いていく。強い力で俺を捕らえているのは厳しい表情をしたティナアで、振り返るとクトダムは立ち尽くしたまま闇の中に紛れていた。そうやって何もない部屋から追い出される。
 無言を貫くティナアに連れられ、組織の長い廊下を歩いた。人気のない路地のように静まり返っている建物だったが、幾つかの扉の前を通ると誰かの叫び声が耳に響いた。それが一体何を言っているのか、苦しみの声なのか悦びの声なのか、この組織の者の声なのかそうじゃない人のものなのか、扉の向こうにあるものは外にいる俺には分からない。よく見ると床にも壁にも扉にも鮮血の跡が飛び散っていて、所々にランプを取り付ける器具が壊れたまま放置されていた。廊下には狭い場所と広い場所とがあって、広々とした空間には様々な物が捨てられたように転がっていた。どこから持ち込んだのか見当もつかない武器や機械が壊れていたり錆びていたり、あるはずの一部が失われていたり、まだ真新しいものも光を無くして紛れていた。他にも服や文具、腐ったリンゴや子供のおもちゃ等がばらばらになって散らかっている。そこに溶け込む二つの目を見つけた時、その目がこちらをじっと見ていることに気付いた時、俺の足はひどく驚いて機械のように止まっていた。ただ腕を引っ張る人がそこにはいたから、立ち止まって死人の声を聞く時間など残されてはいなかった。
「まっすぐ歩いていきなさい。振り返らずに、まっすぐ」
 出口に辿り着いた後、ティナアは冷たい味の言葉を俺に与えた。玄関と呼ばれる扉を開け、外の世界へ放り出されると、もうすっかり夜になってしまっていることが分かった。辺りには整備もされていない草が自由に伸び、たくさんの木々が闇に染まってざわついている。背後から扉が閉まる音が聞こえたなら、俺は靴を履いていないことに気が付いた。ただ靴下は履いていて――誰が履かせたのか分からないけど、きっとアニスの父親がそうしたんだろうと思った。それは夜に入りやすい黒色をしていて、俺の髪が同じ色であることが恨めしく、またそこに不釣合いな白銀を誇る彼の髪が羨ましく思えた。
 組織の人に言われた通り、まっすぐ歩いてみようと思った。一歩だけ足を踏み出すと、思いのほか伝わってきた土と草の感触に戸惑った。それはすんなりとした柔らかさに包まれ、風に騒ぐ木の葉の隙間をくぐり、指先から頭の上へと走る感覚によく似ていた。手放すものがあってはならないと思い始め、何か失ったんじゃないかと空を見上げると、冷たい雫が上の方から落ちてきた。どうやら雨が降っているようだった。でも煌めく星々の光はくっきりとしていて、どこにも見当たらない月の姿を探していると、通り過ぎる雨足の強さが徐々に激しくなっていく過程を見た。俺はまた歩き出した。
 振り返らずにまっすぐと言われたから、素直に従ってゆっくりと歩いていた。雨に濡れた地面が冷たくて、降りかかる雫よりも足に伝わる冷感がより凍える痛さを演出していた。ひとりきり歩く森の道は俺に苦しみしか与えなかった。出口もないこの世界の中で、孤独に苛まれる哀れな出来損ないの姿が誰かの快楽の手伝いになっているのだと分かった。他者を蔑む心が快感を与える。それは自分より不幸な人間がいる事実に対する優越感であって、知恵のある自立した生命を自在にできる支配欲ではない。その心がある限り差別やいじめはなくならないのであって――でもそれをなくすことの方が困難であることは目に見えて分かる主張だった。それはもはや本能に似ている。幸と不幸とが俺たち人間の上に君臨しているのなら、逃れるには二つの道しか存在し得ない。ラスが選んだ方法が全てをなくすことだとすれば、もう一方を選ぶのは誰だろう。またそのどちらの道も選べない俺だったなら、大勢の為の犠牲も認めなければならないのだろうか。
 許したくなかった。許せるはずがなかった。見える場所で自らを捧げた姉と、見えない底で耐え忍んでいたラザーラス。二人とも誰かを守りたかったから犠牲になることを望んだ。それに気付いていても気付いていなくとも、守られていたのは俺だった。
 彼らは何の為に俺を守ったのだろう。自分がどんな痛みを受けようとも、誰にも相談せず我慢し続けられたのは一体どうしてだったのか。それほどまでに大事だったのだろうか。自身を闇に葬っても守るべき価値のある、彼らにとっての命や誉よりも大切なもの――それが俺だったというのだろうか。そうだとして俺は、はたして、守られるだけの存在なのか。ああ俺が組織に連れ込まれたのは、エダがラザーの居場所を見失ったからだった。ラザーがあの小屋に隠れたから、あいつが痛みから逃げ出したから、今まで彼一人だけに向けられていたエダの恐ろしげな欲望の矛先が、俺の方に狙いを変えてしっかりと捉えてしまったからだった! 彼はいたぶるべき人間がいなければ満足しない。昔はどうだったか知らないが、つい先日までその役はラザーラスで、今は俺に変わろうとしている。満足がなければ彼は手を引かないだろう。もし俺が逃げ出したなら、ラザーと同じように身を隠したとしたならば、俺の代わりとなる身代わりが選ばれるだけだった。彼の手中にはその選択肢がごまんと溢れているんだから!
 もしも俺が誰かを助けたいと願うなら、エダの欲望を満たす方法を探さねばならなかった。でもクトダムの言葉を信用するのなら、それは俺が犠牲になる他はないという悲劇が待ち受けていた。俺は、もう嫌だった、自分の為に苦痛を受け続ける大事な人の姿を見ることも、自らの心を押し殺して友達の代わりに汚れた世界へ身を沈めることも、堪えられなかったし堪えたくもなかったんだ、だってそのせいで俺はロスリュに嫌われた! このままじゃ――この光さえ見つからない道の上なんかじゃ、今まで構築してきた、ゆっくりと時間をかけて丁寧に積み上げてきたたくさんの信頼が、無残に破壊されて踏み潰されていく……そしてそれを止めるすべすら分からない! あの輝かしい日々、何の問題もなく友達と呼び合っていた仲間たち、彼らの温かい手を握っていた俺のこの手が、殲滅を始めた反動を真正面から受け止めてしまった。そうやってばらばらになることを最も恐れているはずなのに、それを防ぐ何より簡単な方法を『堪えられない』と言って拒否し、そのくせ彼を救いたいと祈るなんて滑稽すぎて笑いも出ない。巻き込まれたことが、つらい――知らなければよかったと、他の奴が先に気付いていればと、行き場のない後悔や嫉妬が胸の中で渦巻いているけれど、俺が彼を救いたいという気持ちは本物だった。ああ俺は本当に、腹の底から、ラザーを救いたいと思っているんだよ、その気持ちだけは嘘なんかじゃない! でも分からないんだ、どうすれば彼を救えるのか、何をすればあの組織の連中から彼を守れるのか、だってあいつらの考えはめちゃくちゃで、人の意見なんて聞いてさえくれないし、堕落の中にしか快楽を見つけられなくて、そのくせ人間らしく生きるだなんてほざいてて――。
「う……」
 力が入らなくてその場にしゃがみ込んでいた。いっそう激しくなった雨が俺の小さな背を容赦なく打ち付ける。地面に膝と手をつき、そのまま頭も重すぎてぶつけてしまった。雨の音だけが俺を叱り続けていた。
 クトダムに会った時、もっとちゃんと言い返したなら良かったのに、何が返ってくるかが分からなかったから、彼の主張に飲み込まれることしかできなかった。あの男の理想によってラザーの世界が壊されたことは明らかで、人間の幸福を知っているのならラザーの幸福だって分かっているはずなのに、それを認めなかったことをもっと徹底的に責めていればよかったんだ。それだけで彼を打ち負かせるとは思えないけど、その一つの行動がきっと俺を強くしてくれるはずだった。俺は動かせるものを前に怖気づき、動かそうともしなかった単なる臆病者にすぎなかった。この情けなさに苛立ちすら覚えるというのに、あと何度繰り返せば克服できるのだろう……願いだけじゃ動かないことも、言葉だけが先走って墜落していくことも、もうずっと昔から気が付いていたことなのに、自分を守ろうとする心がその意識を邪魔していたんだ。皆が自身を犠牲にし、その命を組織の人間に捧げていたけれど、彼らの中にある肉体から分離された精神という鍵は、俺の情けなさに捧げられていた。俺は、その鍵を彼らから受け取って吸収し、そのうちの金色に光る部分を内側に取り込んで隠してしまい、決して取り返されてしまわぬよう警戒して守っていたのだろう。彼らの光を――幸福を、俺が奪っていた。でも俺はそれを奪い取りたいなどとは考えていなかったんだ、それでも自分を守ろうとするこの精神が、結果として彼らに不幸を押し付けてしまった。俺は皆みたいに強くない。全てを手放してでも守りたいと思えるものがないから、強い信念のもとに生きることができないでいたんだ。今まで俺を強く見せかけていたのは大人から与えられた義務であって、そこに本当の感情は含まれていなかった。自分が真に求めるものも見えてこないまま、ただ決められた道を歩くことを自分の意志で決めたのだと思い込み、誰かの為に生きられることを感謝して生き長らえていた。それが今になって分かったことは、自分の中に確固たる意志はなく、中身のない空っぽの兵器だったということだった。
 かつてラザーを救うことは義務感から来た感情だとリヴァに言ったことがあったが、あれはみっともない嘘にすぎなかった。今になってようやく分かった、ラザーを救いたい気持ちは義務なんかじゃない。確かにラスの為に光である道を選んだことも事実だけど、それでも彼を救いたいという気持ちだけは純粋なものであって、そこには一滴の濁りさえ認められなかった。だって俺はラザーのことが好きだから、友達として仲間としてかけがえのない存在だから、彼が苦しむ姿を見たくないと思ったし、力になれることがあったなら喜んで手を貸そうと考えていた。それは俺が光であるからじゃなく、一人の人間として他人を愛する気持ち、見返りのない無償の親切を与えようとする、誰もが心の奥底に潜めている良心というものから現れた本能だった。何もおかしいことじゃない、当たり前のことをしていたはずだったのに、いつからそれが義務にすり替わってしまったのだろう。ただ原因なら感づいていた。俺はラザーの事情に巻き込まれたことが嫌だった。表面では彼に優しく接していたけれど、本当は全て投げ出してどこか遠い場所へ逃げていきたかった。もう何度それを我慢したことだろう……それでもまだこの位置に立ち続けている理由は、逃げろと囁くその隣で信頼を失うことへの恐怖に目を向け、自分の為だけの言い訳を必死になって繕ってきた結果だった。俺の行動は、全て自分の為ばかり。守られていながらまだ守ろうとする、じっとしていれば誰かが救ってくれるんじゃないかって、そんな惨めな期待を抱き続ける哀れな人間の一人だった。いつだってその弱さを否定してきたはずなのに。
 守るべき者も守れずに、救いたい人も助けられない。挙句に手を差し伸べるべき人間の元から逃げようとして失敗し、一人きり放り出された森の中でうずくまる俺は、もはや空に浮かぶ月の姿さえ見つけられない。雨に濡れて重くなる身体はひたすら邪魔に感じられるし、悲しみに叫ぶこともできない臆病な心は死んだように横たわっている。こんな奴が誰かを救うだって。笑わせる――最初から不可能だったんだ、淡い望みを見失うなら、このままここで果ててしまおうか。土に還って新たな生命の糧となり、異なる姿になって彼を遠くから見守っていようか。ああ、それがいいかもしれない。そもそもの間違いは、俺が人間だったことだったんだ。
『人の姿を失って、それで自由になるつもり? 人間としての存在を否定して、それで無限を手に入れようとしているの? それは不可能だよ、君が人間として生きている限りの特権を、自ら手放して組み立てるものなどたかが知れてる。君が人間を失ったなら、彼を守ることもできなくなってしまう』
 たとえそうだとしても、今の状態じゃ俺には何もできない。人の姿のままラザーの前に戻っても、彼を目覚めさせることすらできなかったんだ、そんな俺が彼を守ることなんてできるわけがない。できるわけがなかったのに、それができると信じて頑張っていた。その裏で苦痛を押し殺して、彼の笑顔の為と自分に言い聞かせて我慢して、右往左往する彼の感情を優しげな手つきでなだめていた。だけど、もう限界だ。限界なんだ……守りたいけど傷つきたくない、救いたいけど巻き込まれたくない! わがままだってことも分かってる、だけど他人の不幸をそのまま背負って、それで一体どこへ向かって歩けばいい? 辿り着く場所は本当に綺麗な場所か? そこに行けば何もかもが満たされて、悲しみも苦しみも忘れられる景色が存在するのか? 俺はもう、駄目だと――もうどうすることもできないと、このままあいつが組織に戻って、再び犯罪者として暮らしてくれない限り、俺の前から組織の人々が消えることはないと思っているんだ、そしたら何もかも元通りだ!
『だったら、差し出す? 組織の人たちに、眠ったまま起きないラザーを捧げて、そして君は安全な場所へ逃げ出すの?』
 それは、できない……あんな狂った連中が徘徊する暗い建物の中に、彼を一人だけ放り出して逃げられるわけがない。だってラザーは俺の友達で、大切な仲間の一人であって、決して欠けてはならない宝物の破片なんだ。そんな彼をわざわざ化け物のはらわたに投げ込むなんて、そんなことは、そんなことが!
『なら助けてあげればいいじゃない。彼が君の助けを必要としているなら、君は全力で彼を守ればいい。そんなに難しいことじゃないはずだよ、彼にとっての一番じゃなくても、そんなことを嘆いている暇があったら、彼の涙でも拭ってあげれば良かったんじゃないの?』
「え――」
 はっとして顔を上げると、俺を見下ろす二つの大きな瞳があった。感情の宿っていないその奥に叱咤を感じ、雨の冷たさがそれを深く広げていった。ただ立ち上がろうとしても力が入らなくて、相手が誰なのかを確認する前に身体が倒れてしまっていた。泥が身体じゅうに飛び散って痛かったが、もうそれを払い除ける力すら出てこなかった。
 信じられぬ全てが雨に混ざって降っていた。ぼんやりする視界に消えたのは、赤い色をした透明な液体ではなく、白い斑点を描く修正ペンのような白紙の幻想なのだと気が付いた。

 

 

 

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