月のない夜に

 

 

 強い呼び声が聞こえた気がして目を開けた。だから周囲の静寂があまりにも大きすぎて、どうして驚いているのかも分からない仕草で辺りを見回す必要があった。
 真っ先に視界に飛び込んできたのは空の青色だった。それを取り囲むのは緑の葉っぱで、風に吹かれて優雅に揺れている。空の中に雲の姿は見えなかった。身体を起こそうと手を動かしたら、手のひらがずっと土を触り続けていたことに気が付いた。
「おはよう」
 上半身を持ち上げると同時に聞き覚えのある声が聞こえてくる。意識的にそちらへ顔を向けると、二つの大きな藍色の瞳が俺の姿をじっと見ていた。
「お前――」
「こんな所で何してたの」
 打ち落とされた俺の言葉は相手の足元にさえ届かない。
「ねえ」
「……エダって奴に攫われて、クトダムの組織から逃げ出してきたんだよ。お前だって知ってるだろ、ラザーが昔に住んでた場所のこと」
 相手の深い藍色の目の前では嘘など通用しなかった。いや、嘘を言ってもすぐに見抜かれてしまうから、正直にならない限り彼と向き合うことができなかったのだろう。俺の前にいる藍色の髪の少年はまだ幼げな顔をしていて、過去に失った感情を取り戻せないまま隣にいた。
「お前こそ、こんな場所で何をしてたんだ。散歩で通りがかるには、あまりにも……」
 組織から抜け出してどれくらい歩いたかは分からないけど、辺りを包むのは草や木々だけで人の気配は微塵もない。こんな場所を子供が一人で出歩くなんて無防備すぎる気がしたけれど、彼が知っている人だったから何か理由があるんじゃないかと探りを入れずにはいられなかった。
「君の様子を見に来たんだよ。頼まれたから」
「頼まれたって、誰に?」
「それは言えない」
 どうにも納得できない答えだけが返ってくる。頭痛を感じて頭を掻いた。
 だけど今はそんなことに苛立っている場合じゃなかった。俺はまず何よりも先に家に帰らなければならないんじゃないだろうか。姉貴もリヴァも心配してるだろうし、薫には必要以上に迷惑をかけてしまった。そうだ、あいつには家に入れてもらって、一緒にゲームをして、電話がかかってきて――そして襲われた。あの男に、組織の暗闇しか知らない男に、ラザーがいない代わりに俺が襲われた。何の挨拶もせずに家から消えてしまったし、俺の服だってきっと放置されているんだろう。心配してるかもしれない。いや、そうじゃない、そうじゃなくて、俺は早く家に帰らなければならないんだ。
「何を焦っているの」
「うるさい」
 頭がずきずきする。手で押さえても痛みはやわらがない。こんな時にどうしてこいつに会ってしまったのか。人の心の奥底まで潜り込んでくるこいつに会ったなら、また精神をかき乱されて苦しくなるだけなのに。
「樹、僕は考えていることが聞こえてくるだけで、心の奥底までは分からないよ」
「うるさいって言ってるだろ! 少し黙っててくれ――」
 何も隠すことができない。本音は全て彼に届き、それを感情のない目で見つめられる。以前はそれが自分を支えてくれる要因になっていたのに、今は彼に本音を読まれることが堪えられなかった。彼に非はないことだって分かってる、誰かに意図的に挿入された能力だと知っているけど、それでも今は会いたくなかった。隠したいことが多すぎて、何も知らないままでいて欲しかったんだ!
 壊れていく。何もかもが順調に、嘲笑うかのように崩れては消えていく。ばらばらになった欠片はあっという間に行方をくらまし、一度手放した信頼は簡単には取り戻せない。それは嗜好も感情も価値さえ同等で、あの頃のようには戻れないと思うと悲しくて仕方がなかった。問題なんてないはずだった。普段と変わらない生活、繰り返される日常をぼんやりと過ごしていれば、誰もに与えられる幸福を享受して生きていられるはずだった。それが変わったのはラザーのせい。あいつが俺に助けを求めたから、いや俺があいつの苦しみに気が付いたから――。
「違う……」
 違う。そうじゃない。そうじゃないだろ。どうして同じことを何度も考えてしまうんだ。過去のことをいくら責めたって、永遠の一部となったものを変えることなどできはしない。後悔が心に染みついている。見つけるべきは未来にあるもので、変わってしまったものに嘆いている時間なんてない。でも、あいつさえいなければ、あいつがもっと強く自我を保てる奴だったなら、俺は巻き込まれずに済んだんだ。巻き込まれなければロスリュに嫌われることもなかったし、エダに目を付けられて闇に沈むこともなかった。全ての元凶を憎むほどに心が締め付けられる思いがして、でもこのまま彼を見殺しにする勇気も出てこなかったから、どうしていいか分からない。一緒に消えてしまえば楽になったはず。でも消えるって、一体どこに?
 それは幻想の。
「ジェラー」
 相手の名を呼ぶと少年はまばたきをした。ただ一度だけ、頷きの代わりのように見えたそれは、無垢な魂の色を俺に教えてくれた気がした。
「一緒に来てくれ。そして、頼みたいことがあるんだ」
 もう逃げている場合じゃないと思った。それが強さなのかどうかは分からないけど、このままここでうずくまっていても変わるものは何もなく、だったらこの手で自ら壊してしまおうと思ったんだ。そうやって積み上げることが世に広まる創造というものだとして、或いはそれは生と死の関係にも似ているのではないかと感じられた。

 

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 記憶の合間に引っ掛かった足掻きは確かに立ち続けていて、それが今の自分を形成する重要な構造の一部となっていた。その足掻きを諦めて失ったなら、彼の赤い目は二度と開くことはなく、無情な時の流れに押し殺されてしまうだろう。俺が彼を救う方法は遠い場所にしかなかったが、彼に愛を与える手段ならもっと身近に存在していたことに気が付かねばならなかった。
「こっち」
 藍色の髪の少年を誘導し、固く閉ざされていた扉を開く。そうして見えてくる光景は懐かしさすら超越するもので、暗闇と泥と悲劇とがごちゃ混ぜになって蠢いていた。
 幸福そうに眠る青年の前で足を止める。見下ろすのは美しい銀髪を持つラザーラスの顔で、最後に見た姿と少しも変わっていなかった。彼が横たわるベッドの隣でしゃがみ込み、手でそっと彼の頬を撫でる。同時に触れた刺々しい銀髪も欲しくなって、前かがみになり彼の唇に軽くキスをした。
「頼みたいことって何?」
 俺の行為をじっと眺めていた少年が普段と変わらぬ口調で急かしてくる。彼は驚いていないようだった。その感情すら置き忘れてきたというのなら、やはり彼には扉を開けておくべきかもしれないと思い始めていた。だって何も感じない相手なら、何を知られたって平気でいられるはずだから。
「ラザーの精神に連れていって欲しい」
 要望を伝えると相手はちょっと顔をしかめた。
「それくらい簡単だろ。アレートだって俺の精神に入り込んできてたじゃないか。それと同じことをしたいんだ。だから」
「そして何をするつもり? 君がラザーの精神に踏み入って、彼の精神が崩壊しないとも限らないのに」
「崩壊って、なんで」
「だって見たところ君はラザーに多大な影響を与えてる。そんな人間が心にそのまま入り込んだなら、彼は君を追い出そうとするかもしれないし、逆に君を取り込んで帰さなくなってしまうかもしれない。心の中では何も隠せないからね、今まで君に隠していたあらゆるものが目の前に迫ってきて、それでも戸惑わずに全てを受け入れる覚悟が君にはあるの?」
 目の前の可能性についてあれこれと考えている余裕なんてない。分かっているのはできることとできないことの境界線だけで、理想だとか覚悟なんかはどこか深い池にでも放り投げてしまうべきだろう。もはや彼を救えるのは自分しかいない。誰よりも彼を心配し、愛するようになった自分にしか彼の手は握れなくて、縛られて動けなくなっている青年の鎖を解いてやれるのは自分一人しかいない。他の皆は気が付いても知らん顔をする。地の底まで追いかけたのは俺だけで、だから俺が始めなければならなかったんだ。
「……その考え方こそが危険だと思うけど、まあいいよ。そんなに望むなら連れていってあげる。ただ、僕は奥には行かないから」
「いいさ、一人で行ってやる」
 俺の隣に立ったジェラーはラザーの顔を見た。そうして俺の手を取り、ラザーの額に手を当てる。
 目の奥から様々な色が失せ、背後にある何かに吸い込まれるような感覚が襲ってきた。見えている全てが再生と停止とを無作為に繰り返し、それが終わった頃には真っ暗になっていて、ふと目に入った明りによって藍色の髪の少年の姿が認められた。
「じゃあ、さよなら」
「ちゃんと着いたんだな」
「疑うなら確認すれば? 君が何をしようと、僕はもう知らない」
 なんだか相手は冷たかった。俺はそれほどまでにみっともなくなっているのだろうか。相手に背を向けて歩き出す。直接非難されることが怖かったから、先に逃げ出してしまおうとしたんだろう。
 少し歩いただけで周囲は真っ暗になった。ここはラザーラスの精神で、他人の心に干渉できるジェラーがいたから入り込むことができた。過去に自分の心に閉じこもっていた頃、俺の心に入り込んだアレートはそこにアユラツの景色を見たと言っていた。人の精神なんて様々な形をしていて、一つとして同じものはないと思っていたけれど、彼の心には何もないというのだろうか。差し込む光もない暗闇は不安を煽るだけで何も生み出さず、だからこそ壊すべきものも見えてこない。祈るように歩いていると、やっとのことできらりと光るものが目に入った。それは四角い棒状の物体で、幾つか重なってふわふわと宙に浮かんでいた。
 再び歩き出そうと足を動かすと、何か硬いものにぶつかったような気がした。下を見ても何があるのかよく見えなくて、しゃがみ込むとそれが可愛らしい人形であることが分かった。金色の髪を三つ編みにした女の子の人形で、真新しいまま床の上に転がっている。小ぎれいで気品も感じられる人形だったが、そこに埋め込まれた赤い目がなんだか全く似合っていなかった。
 立ち上がると扉が見えた。その両隣には青い光を放つランプが吊るされており、近付くと奥の方から何かの音がしきりに響いていることが分かった。なんだか気になったので扉を開けた。
 そこは広い草原で、遠くの方に小さな家が見えた。赤い屋根をした質素な家だった。遠慮がちに広がった庭に白いテーブルと椅子が並べられており、草原に溶け込んでいる畑の中では二人の男の子が駆け回っていた。背の高い方の子がもう一人を追いかけ、笑い声がここまで届いてきている。扉の前で聞いたのは彼らの声だったんだろう、高くて大きな声は自然の中に吸い込まれて皆に幸福を与えているようだった。
 とん、と背中を押され、一歩前に踏み出した。振り返る前に誰かが隣を通り過ぎ、そちらに視線を向けると見慣れた銀髪が夕日に照らされていた。彼はしっかりした足取りで二人の子供に近付き、手に握っていたナイフで子供たちを刺し殺した。走って彼に近寄ると幼げな顔が見えた。それはラザーではなくロイの顔で、大きく目を見開いて歯を食いしばり、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。家の扉が開いて誰かが外に出た。よく見るとそれはティナアだった。二人の子供の姿を見ると顔が真っ青になり、痛々しい悲鳴がここにある世界を震撼させた。そうして俺が動けなくなっていると、ロイはナイフを握り締めたままどこかへ向かって走り出した。ティナアはその場で泣き崩れていた。
 ロイの背を求めて走っていると元の場所に戻っており、また誰かに背を押されて部屋の中から追い出されてしまった。振り返ると扉は既に閉まっており、もう一度開けようとしても鍵がかかっていて開かなかった。仕方がないので真っ暗な道を歩き、他のものを探すことにした。
 少し進んだところに銀色に光る塊が落ちていた。それはどうやらラザーの髪のようだった。その場にしゃがんで手で触れてみると、髪に紛れていたナイフが顔を出し、俺の手に小さな傷を作った。はっとすると銀色の植物に囲まれていた。しかしそれは有り得ない形をしている木で――幹が大きく歪み、根から葉が生え、花は蕾のまましおれている。それらの植物は全て銀の光沢を放つ金属のようなもので、でもその上で滑るものは流水のような波を作っていた。
 立ち上がると頭上から何かが降ってきた。それは足元に落ちると床に転がり、さらに下の方へと吸い込まれて消えていった。白い塊のように見えたが、よく見ると赤い罵声だった。正体が分かった途端に降ってくる量が増え、形も大きくなり、ぶつかった個所がひどく痛んだ。その場から逃げ出すと罵声は止んだ。代わりに目の前に新たな扉が迫っており、迷う間もなく扉はひとりでに開いていた。
 どこかの街があった。レンガの壁が高くそびえ、路地裏のような場所に三人の人間が集まっている。一人はロイで、地面の上に大人しくしゃがみ込んでいた。その隣でまだ若い警察のヤウラが腕を組んで立っており、彼の視線の先には両手を広げて何かを語っているケキの姿があった。身振り手振りを交えて黙っている二人に訴えかけ、アニスの父親は何かを伝えようと必死だった。ただ彼は楽しそうだった。夢に向かって走る若者のようで、苦しいことを乗り越え、その先にあるはずの希望を手にしようと生きているように見えた。一方でロイの目には光が宿っていなかった。ぼんやりとした表情で地面をじっと見つめており、ケキの話など全く聞いていない様子だった。それに気が付いたのか、ヤウラはロイを立ち上がらせ、三人は揃って路地裏から移動した。彼らを追いかけてレンガの壁を通り過ぎると、その先は黒い部屋になっており、そこではロイがケキに抱き締められていた。
 反射的に引き返して部屋から飛び出し、扉を閉めると悲鳴が聞こえた。耳を塞いでもそれは頭の中に入り込んできた。俺はまた前に進まねばならなかった。締め付けられる胸を手で押さえながら走っていると、誰かに足を引っ張られてその場に転んでしまった。後ろを確認すると先程の人形が落ちていた。でもそれは半分に切られていて、赤い目がえぐられたような跡を残して消えていた。
 ぞっとして人形から遠ざかり、立ち上がろうとすると壁から誰かが飛び出してきた。それは開いた扉から放り出されたロイだった。いつも綺麗だった髪は乱れ、黒い服は切り刻まれてところどころ肌が見え、その視線は扉のある方へと向けられている。表情は恐怖で彩られ、口からは言葉にならない声が漏れ、額からは血が流れていた。彼が見つめる扉の中からケキが現れた。彼は震えあがるロイの髪を掴み、乱暴に口の中へ銃を押し込んだ。引き金を引くのに多くの時間は必要じゃなかった。彼に与えられた生命が飛び散った瞬間だったが、それはすぐに元の場所に集まってロイを生かし続けていた。ケキはロイの髪を引っ張り、二人は部屋の中へ消えていった。扉が閉まった音は聞こえなかったが、その部屋を覗き込もうという気持ちにはなれなかった。
 過剰に震える足に力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。ただ支えがなければ崩れてしまいそうで、壁に手を添えなければ歩くことができなかった。破れた本や壊れた鐘が床に落ちていたが、もう立ち止まらずに前へ向かって歩いて行った。そうして辿り着いたのは金色の縁がある扉の前だった。今まで見てきた扉とは感じるものが違っていて、ただそれだけで心がすっと楽になった。心なしか軽くなった手で扉を開けると、朝日の眩しさが部屋の全てを明るく変えていた。
 豪邸のような建物の中で、二人の人間が語り合っていた。一人は金髪の若い青年で、彼の話し相手はロイだった。二人とも始終笑顔を見せ、とても穏やかな空間のように見えたが、ロイの笑顔は偽りだと分かった。ただその偽物があまりに完璧すぎたのでぎこちなく見えた。青年の方はそれに気付いていないのか、ロイの肩を叩きながら輝く表情で夢を語っている。彼に対しにこりと笑うロイの顔はとても幼くて、そこに見える景色は光に溢れた絵本のように思われた。
 青年が話している最中にロイは立ち上がり、窓とカーテンをきちんと閉めた。差し込んでいた朝日が遮断され、部屋が暗くなったことを確認しているその間に、青年の身体が血を流して床に落ちていた。動かなくなった人間を見下ろすロイはナイフを手に持ったままで、その表情も全く変わっていなかった。抑え切れなくなった感情を口に出し、彼は声を上げて笑い始めた。まるで可笑しくて仕方がないと言わんばかりの笑みだったが、唐突にそれがぴたりと止まり、力が抜けたようにロイは床に崩れ落ちた。顔に張り付いた感情は悦びではなかった。血で汚れた手で頭を抱え、長い髪に血が浸み込んだ。それでも吐き出すのは笑い声で、地面に寝転んでいる青年は二度と生き返ることはなかった。
 そっと扉を閉め、暗闇に戻って歩き出した。頭を殴られたように彼の笑い声が俺の中で響いていた。少し歩いただけで扉に辿り着いた。しかしよく周囲を見回してみると、壁には隙間なく扉が埋め込まれていることが分かった。
 右側にある扉がひとりでに開き、中の様子が目に入り込んできた。そこはアニスの部屋で、黒い髪の少女の目の前でロイがケキに踏み潰されていた。目を大きくして涙を流している少女はただただ震えるだけで、きっと彼女がアニスなのだろうと推測できた。よく見てみるとロイもアニスも手錠をかけられており、ケキは二人に向かって何かを怒鳴りつけていた。
 開いた扉を閉めると別の扉が開いた。もう中なんて覗かないようにしようと思ったが、閉める際に奥が見えたので、閉めようとした手が勝手に止まってしまっていた。そこには鉄格子があって、足枷が床に放置されていて、部屋の片隅にたくさんの人々が集まっていた。壁に背をつけ彼らの中心にいるのはロイで、下半身だけ服を脱がされ、生気のない目で男の陰茎を口に押し込められていた。その場に警官が現れ、周囲の人々は連れ去られていったが、ロイは表情を変えぬまま倒れ込み床に横たわった。彼の元に駆け寄ったのはヤウラで、幾度も彼の名を呼んで身体を揺さぶっていた。
 扉を閉めて目をそらすと、また別の扉が開いて俺を中へと誘導していた。そこは夕日に照らされた小さな村で、質素な建物が炎に包まれてたくさんの人々が地面の上に倒れていた。死んだ彼らの上を歩き、ロイは横たわる人の服から財布や金品を抜き出していた。片手にはいつか見た大きな鎌を持っており、生き残っていた人間を見つけると無言で相手を殺していた。彼の目に映るのは命の燃えかすだけだったが、その瞳には感情も理性も存在せず、ただ一方的な何かが彼の全てを支配しているようだった。多くの金品を手に持ったまま、彼は滅んだ村を捨てて去った。
 隣の扉からは一定の間隔で音が響いており、見えたのは鞭のようなものを振りかざすケキの姿と、彼の玩具として縄で縛られているロイだけだった。両手と両足を縄で拘束され、口にはさるぐつわを噛まされ、床の上に転がってケキの鞭を受け続けていた。彼のすぐ傍にはアニスの十字架が光っており、鞭を振り下ろすケキの顔には醜い憎悪が貼りつけられていた。
 一歩進むとまた違った扉が開いていた。部屋の中に見えるのはロイが人を殺す光景や、組織の誰かによって虐待されている景色ばかりだった。はっきりとした声が聞こえることはなく、その代わりに物音だけが鮮明に響いていた。彼の精神にはたくさんの事実があり、それらは全て悲しみや苦しみに彩られていた。そしてそれは永遠に繰り返され、終焉を迎えることはなく、消えない苦痛として巻き戻されているようだった。下に俯くと床が鏡になっていた。そこに映る自分の顔がなんだか情けなくて、でも彼の痛みを知った人間が与えるべき光を見失った顔ではなかった。俺はまた顔を上げ、前へ進もうと思った。一歩踏み出すごとに両隣の扉が開き、誰かの悲鳴が耳を貫き、様々なものが飛び出し、より深い暗闇へと歩んでいかねばならなかった。
 ふと気が付くと扉の代わりに人が立っていた。置物のようにじっと立ち尽くし、目の前に行っても何の反応も示さなかった。それは黒い髪をした少女で、胸のあたりにナイフが突き刺さって血を流していた。黒い目は真正面だけを見つめ、感情を映さない口は固く閉ざされていた。この少女はおそらくアニスだった。彼女の背後には扉があり、それが開いて白い手がアニスの身体を掴んでいた。そうして彼女を抱き締めるのはケキで、でも彼の身体の半分は赤い目をしたロイだった。
 アニスの前を通り過ぎると一つの扉に行き着いた。それ以外には何もなく、ただ黒い空間が広がるだけだった。彼の心の先端に辿り着いたのだと思った。最後の扉を開こうと手を伸ばしたが、それは鍵がかかっていて簡単には見せてくれないようだった。だけどその先にあるものを知ったなら、俺はラザーの全てを知ることができると思った。彼が今まで隠そうとしていたもの、誰にも言えずにいた真実が、この先にある部屋に封印されているのだとすれば、俺はそれを知らねばならなかった。だからノックをし、声を上げ、激しく扉を叩いた。それで開くとは思わなかったが、他の方法が分からなかったからそうするしかなかった。
 すると一体どういうわけか、扉の奥から何かの音が聞こえ、ゆっくりとした動作でそれは開いた。そしてそこから誰かが顔を覗かせた。その相手が想像していた人と違いすぎたので俺は驚いてしまった。大きな瞳で俺の顔を睨むように見つめるのは、ラザーラスの昔の姿のロイではなく、全く知らない金髪の子供だった。
「あなたはそこの精神の主ではありませんね。どのようにして入り込んだかは聞きませんが、この先はその者の精神とは別の場所。この先に何の用です?」
「だ、誰だよあんた。この先はラザーの精神じゃないって、じゃ一体何なんだ?」
「そのままの意味ですよ」
 性別を感じさせない声の相手は俺の前に立ち、後ろの扉をぱたりと閉めた。肩まで伸びた金髪は美しく、でもその表情に彩りはなかった。
「私は精神を管理する者。この扉の先は全ての精神が繋がる空間です。そこでは正も負も混ざり合い、あなたの感情も確かに住み着いていますよ、川崎樹さん」
 名前を呼ばれて動揺せずにはいられなかった。ただ相手の正体がなんだか興味深くて、どうにかして相手を利用できないかと考え始めてしまったのだろう。俺はもう自分を大切にしないようにしようと思った。
「だったらあんたはこの精神の主――ラザーラスの考えていることや望んでいることが分かるっていうのか」
「ええ。その場所へ向かえば分かります。あなたはそれを探りにここへ来たのですか」
「そうさ、こいつが本当のことを何も言わないから、無理矢理心に土足で踏み入って調べてやろうって思ったんだ。でも、何なんだ? 見えてくるのは痛々しいものばっかりだ。こいつは何も望んでいないのか? 幸せになりたくないと思っているのか?」
「……」
 相手は上を見た。それにつられて顔を上に向けると、半分に割れた歯車や時計やガラス細工が宙に際限なく浮かんでいた。天井の付近には白や黄色の線が伸びており、それは何かの模様を描いているようだったが、きちんとした形になっているものは一つとして存在しなかった。
「この精神の主とは、もう長い付き合いになります。そうですね、彼は独特の思考の持ち主。徐々に正の感情が負に侵食され、今や正義や希望を抱く心は闇の裏側に隠されてしまっています。……あなたが歩いてきた道のりは、負の感情に彩られていたでしょう? あれは彼の中に残る、決して消すことのできない痛みの記憶の結晶。心に受けた強い衝撃は一つの空間を作り出し、そこで命が終えるまで永遠に繰り返されるのです。あなたは扉を開きましたね、開けっ放しにしてはいませんか? 彼を苦痛から救いたいと願うならば、私と共に来なさい。今の彼に会わせてあげましょう――」
 すらすらと喋った相手は俺の返事を待つこともなく歩き出した。隣を通り過ぎてゆったりと歩くので、俺は相手の背を追いかけることにした。
 精神の管理者は扉の前に着くと足を止めた。それは先程通り過ぎた扉で、アニスが立っていた部屋の扉だった。今はアニスの姿はなく、管理者は懐から銀色に光る鍵を取り出し、そこに鍵を掛けた。そして再び前を向いて歩き出した。
 同じことを扉の前に着くたびに繰り返した。開いていた扉は閉めてから鍵を掛け、俺が閉めた扉にも同様に鍵を掛けていった。管理者の持つ鍵束には二つの鍵があったが、使うのは銀色の鍵だけであり、もう一方の金色に光るものは一度も使わぬまま、俺たちは元の場所に帰ってきてしまった。そこはジェラーと別れた場所で、藍色の髪の少年は俺の姿を見ても声をかけてくることはなかった。
 壁のように見えていた黒い空間へ足を踏み入れ、狭い通路に案内された。ひたすら前に進むと広い空間に出た。そこには何もなく、ここで道は終わっているようだった。この場所こそがラザーラスの精神の先端だと思った。
「歌が聞こえますね」
「え?」
 相手の声が聞こえた刹那、周囲の景色が一気に変化した。そうして耳を澄ませると、確かにどこからか歌が聞こえてきていた。
 吹き付ける風が冷たかった。目の前にあるのは白い雪が降る光景で、どうやらここは高校の屋上のようだった。何かを見つけねばならないと思い、心のままに足を動かしていると、手すりの方に誰かがいることに気が付いた。まさかと思って近寄ると、そこにはラザーが倒れていた。
 彼の黒い服が刃物で切られたようにぼろぼろになっていた。横たわっている隣にはアニスの十字架と黒いガラスのピアスが並べられており、うつ伏せになった相手の顔は長い髪に隠れて見えなくなっていた。長い息を吐き、それが終わると吸い込んでいた。髪の隙間から見えた口からはだらしなく唾液が漏れており、周囲の床には精液のような白い液体が浸み込んでいるようだった。
 俺は彼の前でしゃがみ、手を伸ばそうとしたがやめた。彼の姿は汚かった。男によって凌辱された直後であり、快楽の道具として扱われ、そして捨てられた哀れな人間の抜け殻だった。こんな男とは関わりたくないと感じた。心のどこかで彼を軽蔑し、知らん顔をして立ち去ってしまいたかった。彼は俺が見下ろす前で咳をした。それが誰かに助けを求める声のように聞こえて、無性に腹が立って彼の髪を引っ張った。
 赤い目がこちらを見ていた。敵を見るような目で鋭く睨んでいる。いつもそうだった。彼は俺に助けを求めるくせに、助けて欲しくて仕方がないくせに、自分の気持ちを素直に伝えることはしなくって、乱暴な方法で無理に他者を引き込もうとするんだ。他人は彼の為に存在しているわけじゃない。俺だってラザーの為に生きているわけじゃない、それなのに彼は、俺の全てを支配しようとしてきたし、それでいて俺に向かって刃を向け続けていた。一方で甘い愛を押し付けようとし、反対側では俺の身体を踏み躙ってきていた。彼はわがままだ、友達に対する態度さえ知らない、組織の中でおかしくなってしまった人の姿をした化け物だった。こんな奴を救う必要があるだろうか? どうせ俺とは違う時間を持っているんだ、俺がどうにかしなければならない問題じゃないはずだった。
 一瞬間だけ暗くなり、景色が戻るとラザーの姿が消えていた。立ち上がると別の場所に彼がいた。彼はエダと向き合っていた。エダに腕を掴まれ、顔を近付けられ、何やら話しているようだった。そこに違和感を感じると思ったら、ラザーは黒服ではなく白衣を着ていた。それがどこかで見たことのある格好だと気が付いた頃、ラザーはエダによって踏みつけられていた。エダは何かを怒鳴った後、ラザーの身体から足を下ろしてこちらへ向かって歩き出した。ラザーはすぐに身体を起こし、でも立ち上がることはなく、床を這ってエダの足に手を伸ばした。そうやってエダの足首に頭を擦りつけた。ちょっと間をあけてからエダはラザーの姿を見下ろし、ラザーを座らせてから白衣を脱がせ、体を触った。ラザーはもう逆らっていないようだった。彼の行動はまるでエダに喰われることを自ら懇願したように見えた。
 俺はこの場で立ち尽くし、彼らの快楽の一部始終を眺めねばならなかった。それはやはり汚かった、不潔であり歪な欲望が渦巻く淫らな行為に他ならなかった。そうやって彼らの行いを蔑んでおきながら、俺は自分もラザーと同じ経験を持ったことを苦痛に感じていた。ただエダとラザーの間には愛がなかった。仲がよさそうに交わり合っているが、ラザーがエダを愛しているなどと信じたくはなかったんだ! でも俺は、俺とラザーは互いに想い合っていた。だってラザーは俺を愛していると言ったじゃないか!
 頭痛を感じ、ちょっと目を閉じると、また見える世界が変わっていた。今度は学校の屋上ではなく小さな部屋の中にいた。ベッドの上に座るラザーを後ろからエダが抱き締めていた。ふと横に目をやると、隣に似たようなベッドが置かれてあり、その中で黒い髪が見えていた。それを見てはっとした。そこに眠るのは他でもない自分自身であり、ここはガルダーニアの一室なのだと瞬時に理解した。これは俺がラザーの異変に気付かねばならなかった日の前日に起きた出来事だった。エダはラザーを押し倒し、震えあがっている青年にさるぐつわを噛ませ、手首に手錠を掛けていた。何かを耳元で囁いた後、エダはラザーの服を脱がせ始めた。そのままさるぐつわを外し、髪を撫で、体に唇を押し付ける。次第に彼の行動は勢いを増していき、片手にはナイフを握り締め、小さな部屋いっぱいに響く大声でラザーを脅しつけていた。それが終わるとラザーの顔を殴り、ナイフを振り回し、彼の汚れ切った銀髪を乱暴に切り始めた。切られた髪が周囲に散らばる隣で、過去の自分が何も知らないまま眠り続けていた。ラザーはひどく怯えているようだった――声を上げることはなく、でも時々漏れてくる声が痛々しくて、赤い目からは涙が途切れることなく流れていた。エダはラザーの惨めさを見ても笑うことはなく、ただ自らの快楽の玩具としてラザーを使っているようだった。自由を奪われたラザーラスは無慈悲な暴力に耐えるばかりで、何度か隣のベッドを確認しようと身体をねじっている様子が見えてきた。
 胸が締め付けられた。こんなにも激しいことをしていたなんて、俺が眠るすぐ傍で、こんな非道な虐待があっただなんて、そんなことは信じたくなかった――信じられなかった! どうしてあの日、俺はガルダーニアへラザーを誘ったりしたんだろう。誘わなければよかった! 彼を心配して誘ったのに、その軽率さが俺とラザーを大いに傷つけ、一気に二人の関係を変えてしまった。ラザーはただの友達だったのに、彼は俺を愛していると言ったんだ。最初は何を言っているのか分からなかった――分からないままでいられたらよかったのに!
 目の前で繰り広げられる凌辱が、俺の全てを否定しているようだった。もう、嫌だった、やめて欲しかった、でもこれは過去に起こったことであって、やめて欲しいならあの時に気付いていなければならなかった。俺は気付かなかった。一人だけ平和そうに夢の中に沈み、隣で皆を守ろうと必死になっている青年の声に気付くことはなかったんだ! そんなことはもう分かってる、充分すぎるくらい分かっているから、だからもうこの映像を見ていたくなかった。彼の涙を――決して拭えない涙を見るのが堪えられないんだ、だから、ああ! 早く消して、誰でもいいから早く、この悲劇を終わらせてくれ、鍵を掛けて二度と出てこないようにしてくれ!
 ぐいと腕を後ろに引っ張られた。反射的にそちらに目をやると、驚いた表情のラザーラスが俺の腕を力任せに掴んでいた。開かれた口からは今にも何かが飛び出してきそうだったが、言葉を失った知識人のように彼は何も言えない様子だった。彼はどうやら記憶の中の人物ではないようだった。先程の管理者の言葉が頭の中に舞い戻り、きっとこの俺の腕を掴む彼こそが今の彼そのものなのだと理解した。
 赤裸々で、剥き出しになった彼の精神が俺の目の前にあった。俺はこれを探していたんだ、傷つけることも癒すことも簡単な、何にも守られていないそのままの彼の精神。これに問いかければ分かるはずのことが多くって、だから相手の正体に気付いた俺は、決して逃がさないよう彼の腕を掴み返した。
 さっと背後の景色が色を変え、俺はまた学校の屋上の上にいた。しっかりと腕を掴んでいたからラザーは逃げられないようだった。空からは雪が降り、月や星は見えず、聞こえてくる讃美歌のような月の歌が徐々に大きくなっていた。ただその歌詞だけはどうしても聞き取ることができなくて、ちょっと目をそらした隙にラザーの姿が消えていた。慌てて周囲を見回すと、俺の後ろに彼が倒れていた。それはさっき見た光景と同じで、まだ長い髪を顔に垂らし、うつ伏せになって静かに息をしていた。俺は彼の上体を起こし、そのまま包み込むように抱き締めた。もう彼を汚い人間だとは言えなかった――俺には彼を侮蔑する権利などなかったのだから。
「君は」
 胸の方から声が響き、驚いて彼から身体を離す。相手は目を開けていて、でもその瞳の中には光がなかった。
「愛してくれる?」
 震えている声だった。触れたら壊れそうで、でも触れなきゃ伝わらなくて、適切な手段が必要だと感じ取った。俺は頷いた。彼に意思が伝わるように、よく見える位置で大きく頷いた。
「でも僕は……愛せないかもしれない。他人の命を踏み躙って生きてきた僕には、人間を愛する方法が理解できないから」
「いいや、分かってるよ、ラザーは分かってる――でも信じてないんだ。あんたはたくさんの愛に触れてるのに、それが愛だって信じていないから、分からないように感じてるだけなんだ」
「愛なんて信じたくない」
 彼の目から涙が零れた。
「愛はいつも裏切る。愛は必ず傷つける。愛は痛いもの。愛は瞬間的なもので、快楽なんだ。僕が欲しいのは、そんなものじゃない――でも、どうしてだろう、それがなきゃ安心できない。だから愛して欲しいんだ。でも誰も僕を愛そうとしない」
「……俺は?」
 彼は首を横に振る。
「守れば愛してくれると思った。でも事実を知られてから、彼は過剰に意識して、僕の感情を奪っていった。彼と一緒にいたら、僕は正義も幸福も見失ってしまって、彼の中だけにその姿を見出すようになってしまった。彼は危険だ、離れるべきだ、それなのに離れられないのはどうして? なぜ彼を殺せないのか分からない」
 もう一度彼を抱き締めた。さっきよりも身体が小さくなっている気がした。
「俺は……愛してるよ」
「同情の匂いがする」
「違う、同情なんかじゃない」
「でも瞬間的だ、信用なんかできるものか、心が離れればすぐに忘れるじゃないか。僕を騙そうとしているのか。揺らいでるくせに、僕を汚い人間だと思っていたくせに」
「じゃ約束する?」
 沈黙した。俺も彼も何も言わなかった。俺の腕の中で彼は震えていた。いつだってこんなふうに、震える彼を抱き締めることができたはずだった。
「それで縛る気か」
 先に声を発したのは相手。俺はちょっと驚いてしまった。
「僕はお前の所有物じゃない」
「分かってるよ、そんなことは……ええと。違うんだよ、そういう意味じゃなくって、互いに同じものを共有し合えれば、それが愛になるんじゃないかって思ったんだ」
「だったら要らない。その繋がりのせいで傷ついた。お前たちのことなんか知らなければ、僕はエダに従う必要はなかったんだ」
「でも、淋しいんだろ」
「淋しい? どうして」
「どうしてって、淋しいから愛がなきゃ不安になるんじゃないのか? 人が愛を求める理由って、きっと全て淋しいという感覚に基づいていると思うんだ」
 ラザーラスは少し黙った。俺は気持ちが届いたような気がしてほっとした。でも届いているわけがなかった。俺はまだいろんなものを隠そうとしていたから。
「そうやって自分を慰めて、新しいものを手にしても、結局はそれを手放す日が必ず来る。変わらないものなんてないんだ、愛だって同じ。あっという間に姿を変えるし、気が付いたらなくなっている時もある。手に入れたものも、守り続けたものも、手にできなかったものも、失ったものも……全てが僕を傷つけた。傷つくのは、苦しい――苦しいのは嫌だ、痛いのは嫌だ! 安堵が欲しい、ああ、安堵さえあれば、決して変わることのない安堵さえあれば、僕はもう他に何も望まないから。愛だって欲しがらないから!」
「そうやって、逃げようとする態度が腹が立つんだ」
 隠してはならない。本音だけを伝えよう。たとえそれが彼を傷つける言葉であったとしても、彼なら分かってくれると信じなければならない。
「俺は後悔ばかりしてたんだ。あんたの事情なんか知らなければよかったって。何も知らないままだったらこんなに苦しむこともなかったし、普段と同じのんびりとした時間を過ごすことができたはずだった。それを変えたのはあんたの弱い心だった。そうやって他人のせいにして、俺は責任から逃げていたのかもしれない。だから俺は……約束するよ。いや、約束したいんだ。俺はもう、過去や未来に責任を求めないようにしたい。自ら望んで手にしたものや、偶然にも知ってしまったことに対して、悔んだり原因を探したりしないようにするよ。同じように、これから起こることについて、怖れたり過剰な期待を寄せないようにする。だからラザーも約束して欲しい。俺と一緒に頑張って欲しいんだ、過去や未来について諦めないで、まだ見えない光を探そう……俺も傍にいるから。もう絶対に逃げ出さないから、同じことを繰り返したりしないから! 見つけた光がどんな色をしていても、ラザーがどんな人間になったとしても、俺が生きている限りは見捨てたりしないから。必ず光の元へ案内できる人間になるから!」
「無理だ! そんなこと、できるわけがない! 僕はお前たちが思っているほど強い奴じゃない、いつだって夜に怯えて朝にも慣れられない臆病者なんだ!」
「どうして何もしないままで諦めるんだよ、逃げ出すなんて卑怯だぞ!」
「卑怯だって、それはお前たちの方じゃないか! お前たちはいつも正義を盾にして、僕らを見下してきたじゃないか――綺麗なものに囲まれて、汚い僕を足で蹴り飛ばしたのはお前だった! 忘れてなんかないぞ、お前のあの目を、僕を軽蔑して、人として扱わなかったあの人間の目! お前は僕に何を望むんだ、僕にどんな人間になって欲しいんだ? 僕はお前なんかの理想にはなれないんだよ、あの組織が全てだった僕にとって、刃物で生命を刈り取ることでしか快楽を感じられない僕なんかが、お前の美しい理想の切れ端になれるとでも思っているのか! ええっ、無理だろ、不可能なんだよ、俺とお前らじゃ生きている世界が違いすぎるから、お前は俺の望みを理解できないし、俺だってお前の考えがこれっぽっちだって分からないんだ! ああ! 分からないのがつらいのに、お前は混乱ばかり与えてくる! 近寄るな、もう僕の前から消えてしまえ! 近寄ったって互いに傷つけ合うだけだ、俺とお前はどうしたって釣り合わない存在だったんだよ!」
「ラザーラス!」
 ぎゅっと力を込めて抱き締める。繊細なんてものじゃない、彼の心は少し触れただけで周囲の何もかもを変えてしまうほど、極端に変化に敏感な真っ白な精神だったんだ。これが彼の本音なのか、この臆病で強情な精神が彼の本当の姿だというのだろうか! 無理じゃないか、こんなの、最初から全てを諦めているような奴が、改心して更生することなどできるはずがなかったんだ! 俺が何を言っても聞こうとしないし、光を探す方法を教えても否定される。彼の望みなんて本当に存在するのか――助けを求めていた姿は幻想で、俺は今まで彼の手のひらの上で踊っていたんじゃないだろうか? 馬鹿にしているのか、俺のことを、ありもしない願いに向かって手を伸ばし続ける、滑稽で下卑た兵器だと笑いものにしていたとでもいうのだろうか!
「ふざけるな……ふざけるなよ! 見下して軽蔑してるのはお前じゃないか、俺はあんたを救おうって、あんたの幸せを取り戻してやろうって必死になってたのに、それなのになんでそんなことを言うんだよ! 俺に助けて欲しいんじゃなかったのか、愛して欲しいんじゃなかったのかよ! どうして、どうして――ああ、なんでこうなってしまったんだ!」
 彼を責めることしかできない自分が情けない。彼の精神が普通とは違うことも、彼には通常以上の慈愛が必要だってことも分かってるのに、考えを否定されただけで逆上するなんてまるで子供じゃないか。このままではいけない、でもどうすればいいのか分からない! 彼に必要な言葉さえ分かれば、彼が最も欲しがってるものの正体が分かったなら、こんなふうにぶつかり合うことなどなかったのに、俺の力じゃ精神に入り込んでも見つけることができないなんて! 俺は今までラザーの何を見てきた? 俺は彼の何を知っているんだ? 精神に入り込むまで知らなかったことばかりじゃないか、彼が人を殺す場面も見たことがなかったし、暴力を受けて苦しんでいる姿だって初めて見た光景だった。何も知らない奴に出来ることなどあっただろうか? 俺じゃなく、何でも知っている人に頼った方が良かったんじゃないだろうか?
 でも、それは嫌だった。助けを求められたのは俺で、他の人に頼るなんて堪えられなかったんだ。どうして? 俺はラザーと付き合いが長いわけじゃない、俺よりも彼のことを知っている人なんてたくさんいるのに、なぜ俺は彼らに頼らず自分一人の力で彼を救おうと思ったのか? それは許せなかったから。彼が俺じゃない人の手によって救われる場面を見たくなかったから。彼が俺から離れ、捨てられることが怖かったから。この腕の中で震える生命を、自分だけのものにしてしまいたかった――何だって! それは嫉妬じゃないか、いつか誰かが言っていた、あの惨めったらしい独占欲に他ならないじゃないか!
「な、何だよそれ……」
 頭が痛くなってラザーラスから離れる。彼はまだ泣き続けていた。その涙で同情を寄せようとしているのか、俺の心を繋ぎ止めようと考えているのか? いや、そうじゃない。彼の弱さは責任にならないじゃないか、俺は何を考えているんだ? まるで出口のない迷路に入り込んでしまった気分だ。俺の目の前で彼が悲しげにめそめそと泣くから、良心が働いて指で涙を拭ってやった。それは熱かった、彼の生命の熱を感じ、再び彼を抱き締めたい衝動に駆られた。でもその気持ちを見せたくなかったから、俺の身体は願望とは逆のことを行なっていた。――俺はラザーラスの顔をぶった。彼は面白いほど簡単に倒れた。ぶたれた頬に手を当て、不思議そうな目でこちらを見てきた。その目はこれまでに幾度も虐められてきた目であって、俺の中の何かを切るには充分すぎる要素だった。俺は立ち上がり、彼を見下した。見上げてくる赤い瞳が疑惑から怯えに変わった気がして、その感情を助長させてやろうと彼の足を踏みつけた。相手は顔を歪め、手で俺の足を押し退けようとしてきた。だから俺は彼の胸のあたりを力任せに蹴り飛ばした。彼は少し声を出した。苦しむ顔が気に入らなくて、今度は頭を足で踏み潰してやった。
「やめなさい、何をしているんですか!」
 俺を止める存在があった。後ろから身体を引っ張られ、ラザーから離されてしまう。誰が邪魔をしたのか確認すると、金の髪が肩越しに見えていた。それはあの精神の管理者と言っていた子供だった。
「あなたは彼を傷つける為にここへ来たんですか? 何にせよ、そこにいるのは彼の精神そのもの。何者にも守られていない剥き出しの精神なんです、乱暴に扱うのはやめなさい!」
「壊れてしまえばいい」
「え?」
「壊れてしまえばいいだろ、こんな分からず屋、ぶっ壊しちまった方が何もかもうまくいくんだ! こいつ、頭いかれてんだよ――虐められるしか存在する価値のない、人を殺すことくらいしか能の無い操り人形なんだよ、こいつは!」
 光が溢れた。眩しくて目を閉じた。しばらくして目を開けると、俺は元の部屋の中に戻ってきていた。隣を見るとラザーがベッドの中にいた。そしてしゃがみ込む俺を見下ろすのは、精神の管理者の少女だった。その表情は恐ろしげだった。俺を軽蔑し、憤り、殺されるのではないかと感じられた。彼女の後ろにはジェラーが座り込んでいた。彼は相変わらず無表情で、壁の方を向いており、でもそれが今の俺にとっては他の何よりも痛手に思えた。
「あなたが彼の心の中で言った言葉は、全て彼の記憶として残りました」
「……それで?」
「あなたが真に彼を救いたいと考えるならば、彼が最も必要としている人物を訪ねなさい。それはあなたではありません。そしてその人は、彼の知るどの人物でもない、彼にとっても未知の存在でありながら、強い繋がりを持つ信頼すべき人物です」
「……」
「怖れるのなら逃げ出しなさい。あなたに責任はありません。しかしあなたの暴言は彼だけでなく、あなた自身も生涯にわたって苛み続けるでしょう。言葉は生きています、いつまでもね。そしてその言葉を最も近くで聞いていたのは、あなた自身の耳だったのだと覚えておくべきでしょう」
 言いたいことを言った相手は闇の中にすっと消えた。狭い部屋の中に三人だけ取り残されていた。ラザーは眠ったままだし、ジェラーは前を向いたまま。俺は何かをする気力も感じられなくて、ぼんやりとラザーラスの幸福そうな寝顔を眺めていた。
 窓から太陽の光が差し込んでいた。朝は過ぎ、もう昼になっているようだった。昨日から何も食べていなかったけど、体の疲れは空腹のせいではないと分かっていた。俺は何か見えない案を思いついて立ち上がり、ラザーにかけられている白い布団をめくり上げた。
 そこには変わらないものがあった。当然だ、彼は眠っていて動けないから、時間の流れから隔離されている。これを永遠と呼ぶにはあまりにも安すぎるから、俺はその観念を否定しなければならなかった。彼の顔を覗き込むと見慣れた表情がそこにあった。俺はいつも彼を怒らせ、皆はいつも彼を怯えさせていた。彼の周囲に彼を傷つける人間しかいなかったのならば、俺も彼らの一部になろうとしていたんだろう。ラザーのズボンのポケットに手を突っ込むと、そこにはたくさんの硬い物が押し込められていた。それを引っ張り出すと俺の手にはナイフが握られていた。銀色に光る刃が美しい。彼に向かってナイフを振り下ろそうとしたけれど、後ろに立ったジェラーによって俺の乱暴は止められた。俺はナイフを床に放り投げた。ジェラーは俺に声を掛けてこなかった。
 死ねばいいと思った。彼が死ねば、全てが救われると思ったんだ。死ねば誰かに虐められることもないし、苦痛を感じたり分からないものに悩む必要もない。だけどその道こそが逃げであることも俺には分かっていたから、本気で彼を殺そうと計画することはできなかった。
 今更になって俺は、理想は理想でしかないことの意味が分かったような気がした。

 

 

 

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