月のない夜に

 

 

 形を保たない物が顔にぶつかり、ばらばらになって滑り落ちていく。取り戻そうと手で掬っても指の合間から零れるだけで、残るのはそこに確かに存在していたという事実と、それが持っていた熱の色と香りだけだった。
 顔を持ち上げると窓越しに空が見えた。濡れた顔を拭くこともせず、廊下を引き返して玄関の前に立つ。扉を開くと外の清々しさが俺を包み込み、自由な楔を身体じゅうに突き刺されたように感じられた。
「……どこへ行くの」
 小屋の壁にもたれかかり、藍色の髪の少年が立っていた。棘の含まれた口調での問いかけは健全なものであり、俺は彼に対し素直にならねばならなかった。
「家に帰るんだよ。姉貴やリヴァに顔を見せに行こうと思って。あと、薫にも謝らなきゃ」
「ふうん」
 感情を映さない瞳がこちらを見上げている。それは普段と変わらない光景。ずっと前から繰り返してきた、何の変哲もない当たり前の時間だった。
「……一緒に来る?」
 試しに訊ねてみると、相手はこくんと頷いた。
「じゃ、行こうか」
 師匠から教わった力を使って家の前まで移動した。周囲には誰の姿も見えず、だけど遠くの方からは人の声や車の音が響いてきている。太陽はちょうど真上に位置しており、この季節にしては珍しく暖かな空気が広がっていた。
 玄関の扉を開くと懐かしい景色が目に入ってくる。靴を脱いで家の中へと入り、廊下を歩いて台所へ向かった。そこには誰の姿もなく、机の上はいつものように綺麗に片付けられていた。引き返して廊下を歩き、階段を上って二階に向かう。俺の部屋の扉は閉められていた。その前を通り過ぎ、リヴァの部屋の前で立ち止まる。そうして一呼吸置いてからゆっくりとノックをした。
 警戒した様子で扉が少しだけ開き、その隙間から銀色の目がこちらを覗いてくる。
「よお」
「い、樹?」
 勢いよく扉を開け、リヴァはびっくりした顔で俺の姿をまじまじと観察してきた。まるで幽霊でも見ているような態度であり、俺の後ろにいるジェラーの姿を見てますます驚いているようだった。
「ジェラーまで一緒って、どういうこと? 今まで一体どこに行ってたのさ? ぼく急に薫が呼びに来たからびっくりして――そうだ、薫には連絡したの?」
「これから行くさ」
「ちょ、ちょっと待ってて。今、電話するから」
 相手はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、慌てて部屋の奥へと引っ込んでいった。一人で誰かと会話する声が聞こえ、それが終わるとまたこちらに戻ってきた。
「すぐ来るって」
「そっか」
 なんだか安心して、思わず顔から笑みがこぼれた。
「ねえ樹、どこに行ってたか教えて欲しいんだけど……」
「エダに――スイネに攫われて、クトダムの組織に行ってた。そこから逃げ出して、今朝はずっとラザーがいる小屋にいたよ」
「クトダムの組織って……君、よく無事に帰って来られたね。あ、もしかしてそこでジェラーに助けられたの?」
「いや、ジェラーに会ったのは組織の外にある森の中だよ」
「……ということは、自力で逃げ出したの?」
「逃げ出したっていうか、組織の人に外まで案内されたんだよな」
 正直に話すと相手は疑いの眼差しでこっちを見てきた。でも信じられなくても無理もない話だった。あんな真っ暗でおかしな世界から抜け出すことができただなんて、なんだか今でも実感が湧かない出来事だったから。
 そうやってリヴァと話していると玄関のチャイムが鳴った。それと同時に扉が開いた音が聞こえ、勢いよく階段を駆け上がる足音がここまで響いてきていた。
「樹! お前、お前!」
 風のように飛んできたのは幼馴染の薫で、俺の目の前に立って手をぎゅっと握り締めてきた。心なしか涙目になっているようにも見える。
「悪かったな、勝手に帰っちゃって」
「そんなことはどうでもいいんだよ、お前が無事でよかったぁ! 俺、これでも心配してたんだぞ、お前が誘拐されたんじゃないかって――」
 実際に誘拐されていたわけだけど、今はそれを言うのはやめておこうと思った。本気で心配していたらしく、握っている手に力が入っているのを感じる。
「心配かけてごめん。でももう大丈夫だから」
「帰ってきたのはよかったけど、でも樹さ、本当に大丈夫か? だってあの時……」
 薫は何かに気付いたようにはっとして、俺の手を引っ張って階段の下へと連れていった。そのまま台所まで連れ込まれ、そこで俺と向き合ってまっすぐ瞳を覗き込まれる。
「俺が電話に出てた間に何があったんだ?」
 飛んできた質問は答えにくいものだった。それでも相手の真摯な表情が俺の傷跡に沁み込んできて、ちゃんと答えなければこの関係さえ崩れてしまいそうで怖くなった。なんだか気まずくて相手から目をそらしてしまう。
「それは……えっと」
「お前が望んだことじゃないよな」
 必要以上に早口な、あまり聞いたことのない声色に驚いて視線を元に戻した。
「なあ、あれは、お前が望んだことじゃなかったんだよな!」
 両手で肩を掴まれ、力を込めて揺さぶられた。ふざけて冗談を言っている時でもこんなことをされたことはなかった。この正直で深刻な相手の行動を目の当たりにして、俺は彼が何を知っているかを理解したような気がした。落ち着かせる為に彼の手に自分のそれを重ね、今にも泣き出しそうな相手の瞳を真正面から見つめ返す。
「見たんだな、お前」
「見たよ! 電話が終わって部屋に戻ったら、頭ん中真っ白になったさ! パニクってどうしていいか分かんなくて、とにかく助けを呼ぼうってお前の家まで走ったんだ! それでリヴァを連れて帰ったら、もうお前どっか行っちゃってて……」
「ごめん」
「ごめんじゃねーよ! なんであんなことしてたんだ、最初からあれが目的で俺の家に来たのかよ!」
「違うよ……俺はお前が襲われるんじゃないかって心配で――」
 薫の手からすっと力が抜けた。相手はぐっと目を大きくし、それから一つまばたきをする。
「……そっか。なんか、分かったよ」
 俺の肩から手を下ろし、相手は下に俯いた。
「お前、あの兄ちゃんに会った時、やたら警戒しまくってたもんな。最初から分かってたんだな、あの兄ちゃんが危険な奴だってこと。でも俺は……何も知らなかった」
「知らなくて当然だよ」
「それでも俺のせいだ、俺が考えなしにあの兄ちゃんについて行っちまったから、だから結局あんなことに!」
「いいよ、もう。終わったことだから」
「でも――」
「薫」
 そっと相手の手を握る。幼馴染の握り慣れたはずの手は、いつの間にか忘れていた温かさを思い出させてくれた。
「いいんだ。今は、あいつに襲われた悔しさよりも、お前が俺を心配して、信じてくれた嬉しさの方が大きいから」
 あの現場を見て、俺を汚い人間だと罵ることもできたはずだった。俺を見下して軽蔑して、縁を断ち切って知らんふりをすることだって簡単にできることだった。それでも彼は俺を信じ、心配までしてくれていた。幼馴染といっても他人であることに変わりはないのに、こんなたった一人の人間さえ救えない俺のことを大切に思ってくれていたことがとても嬉しかった。
「信じるって……当たり前だろ! 俺はお前のことなら誰よりも知ってるんだぞ。そりゃ、確かに最初はびびったけど、でもお前があんな変な趣味持ってるわけないって分かってたからな」
「変な趣味、か」
 薫にラザーとのことを教えたらどんな反応をするだろう。前言撤回して俺のことを馬鹿にするだろうか。でもそうされたとしても仕方のないことだった。俺はラザーの『変な趣味』に付き合うことを承諾してしまったんだから。
「けどお前、本当に平気そうだな。もしかしてちょっとその気だったとか?」
 俺が普段通りの態度を見せたからか、相手はすっかり元に戻ってしまっていた。相変わらず切り替えの早い奴だ。
「あんな痛いのはもう勘弁して欲しいって」
「へえ、痛かったのか。そりゃ災難だったな」
「あんまりからかわないでくれよ……」
「えー、からかってなんかないだろ! まあとにかくさ、このことは俺の胸の中にしまっておくから。お前は安心して勉強に精を出してくれや」
「……ありがと」
 薫は歯を見せてにっと笑った。彼の輝かしい無邪気さを見て、この笑顔を守ることができて本当によかったと思った。

 

 

 二階にあるリヴァの部屋の前に戻ると、取り残されていた二人は俺たちが帰ってくるのを待ち構えていたようだった。部屋の中に入ることもなく、のんびりと廊下を歩く俺たちの姿をじっと見て歓迎してきた。
「樹、今お姉さんにも電話したから」
「ああ。……姉貴は仕事なのか」
「昨日休んだでしょ。だから昨日の分を今日やるんだって」
 携帯電話を片手に話すリヴァはもう驚いていないみたいだった。俺が帰ってきたから安心したのか、今ではすっかり落ち着いている。この冷静さを俺にも分けて欲しかった。ずっと落ち着いたままで対応できたなら、こんなに苦しむほど悩む必要もなかったのに。
「……あのさ」
 皆に声をかけつつも、今朝の体験を静かに思い出す。思い出そうとしなくても、それは俺の記憶から次々と溢れ出してきていた。
「たとえ自分が知らなくても、強い繋がりを持ってる人って、どんな人だと思う?」
「は? 何言ってんのお前」
 俺の問いかけに真っ先に答えたのは薫だった。さっとそちらに顔を向けると、全く意味を理解していないような顔がそこにあった。
「だから、たとえば一度も会ったことのない奴だったり、全く知らない奴だったとしても、その人と自分とに何らかの繋がりがある場合、二人の関係はどんなものがあるかなって思って」
「なんでいきなりそんなこと聞くの、君」
 鋭く突き刺してくるのは疑いの視線で、それを発しているのはリヴァセールだった。彼の対応があまりにも日常的すぎて、俺はまだここにいるのだと改めて教えられることになった。
「ちょっと……ラザーにとってのその人を探さなきゃならなくてさ」
「何だって、それは大変だ! うーん一体誰のことだろうなぁ。何かヒントとかねぇの、ヒントとか!」
 ラザーの名前を出したことにより突然悩み出したのは薫だった。さっきまでの相手はどこへやら。俺のことよりラザーの方が大事だって言いたいんだろうか、まったく。
「何だかよく分からないけど、つまりその人は、ラザーにとって顔も名前も知らないけど大事な人ってことだよね?」
「たぶんそうだと思う」
 若干疑いが抜け切っていないようだが、リヴァも協力してくれるらしかった。腕を組んで視線を横に泳がせ、何やら考えている仕草を見せてくる。
「運命の相手……だったりして」
「それだ!」
「いや有り得ないって!」
 リヴァの呟きと薫の悪乗りのせいで思わず叫んでしまった。でもなんだかこの空気に触れることで心が軽くなり、普段の自分を取り戻していることにもなんとなく気付き始めていた。今朝はあんなに苦しかったのに、他人に怒られても何も感じないくらい疲れ果てていたのに、友達と話をするだけで俺の精神は確実に息を吹き返していた。これこそが友達なんだって、仲間なんだって、ラザーにも知ってもらいたかった――彼が目を覚ましたら、真っ先に教えてあげたいと思ったんだ。
 彼が守りたかったもの。彼が自身を犠牲にし、守ろうと必死になっていた存在。それが俺たちであり、友達と呼ぶべきものだった。でも彼の精神の中には悲しい記憶しか根付いていなくて、俺たちと暮らしていた平和な情景は何一つとして見えてこなかった。彼はあまりにもつらい経験を重ねすぎていて、楽しかったことや嬉しかったことがそれらに押し潰されているのではないかと思われた。そんな真っ暗な精神世界の中で会った彼は「愛がなければ不安」と言っていたけれど、だとすれば誰が彼に愛を与えられるのだろう。瞬間的なものじゃなく、どれほど時間が流れても決して変わらない愛なんて、はたしてこの世に存在し得るものなのだろうか。そしてその正体は俺の理解が届くものなのだろうか。
「家族じゃないの?」
 ふと聞こえた声にはっとする。それを発したのは今まで黙り込んでいたジェラーで、大きな瞳を閉じて壁にもたれかかっていた。
「確かに家族なら、たとえ知らなくても強い繋がりは残ってるよね。でもラザーに家族なんているのかな?」
「そう、だよな……」
 答えが見つかったかと思われたが、ラザーは不老不死だから今も家族が生きているとは思えなかった。血の繋がりのある子孫なら生きているかもしれないけれど、その人が本当に彼にとって大事な人なのかどうかは分からない。本来なら親や兄弟を探すべきところなのに、彼は長く生きすぎた。だからたくさんの人と関わりを持ち、その中で誰が最も強い繋がりを持っているかなんて、簡単に見つけられるわけがなかったんだ。
「そういやラザーの奴、自分は親に捨てられたとか言ってたな。その親を探せばいいんじゃねぇの?」
「そうは言うけど、薫、ラザーは不老不死で……」
「ん?」
 幼馴染の不思議そうな顔が目に入った。それを見て慌てて口を塞いだが、一度外に出てしまったものを元に戻すことはできない。横からリヴァの辛辣な視線を感じた。俺にはそれを飛び越える言い訳すら見つけられなかった。
「お前、今さ、不老不死とか言わなかった?」
「き、気のせいだろ」
「本当にそうなの? ラザーって超人?」
 薫は分かっているようで全く分かっていないようだった。興味深げにこちらを覗き込む瞳はきらきらと輝いており、好奇が剥き出しになって俺の心を揺らし始めていた。薫はラザーの正体を知らないし、異世界の存在だって知らない一般人であるから、彼を巻き込んだりすることのないよう俺が気をつけていなければならないはずだった。ここで隠し通してきたものを安易にばらまいてしまったなら、また一つ完成された関係が崩れてしまうのではないかと怖くなってきた。
「ごめん、ちょっと――行かなきゃならない所があるんだ」
「あ、おい!」
 逃げるように階段を下り、家を飛び出す。もう彼らには迷惑をかけたくなかった。本当は姉貴にも直接会って安心させてやりたかったけど、俺の心配事が片付かない限り本物の安心は得られないんだと気が付いた。暖かい陽の光が身体を包み込んでくれたけど、冷たいベッドの中で眠り続ける青年のことを考えたなら、俺はまた彼を慈愛で慰めてやらねばならなくなるんだ。彼が俺を求めていることだけは本当で、何を言われようとそれだけは信じて走らねばやっていけなかった。
 再びラザーが眠る小屋に戻り、彼のベッドの前に立つ。見下ろす視線を感じない青年は夢の中でさまよい続けている。彼は何を見つけようとしているのだろう、俺が精神に入り込んだ時、彼の瞳には何が映っていたのだろうか。それは美しいものだっただろうか、彼を救ってくれるもの、正義に彩られた偽善の刃ではなかっただろうか。俺は彼の心の中でそれをへし折った。何もかもを諦めてしまっている彼の情けなさを知った時、何とも言い様のない憤りと苛立ちが俺の全てを支配し、何かとても強い言葉で彼を傷つけてしまったような気がしたけれど、今になって考え直しても自分が彼に何を言ったか全く思い出せなかった。記憶の中で虐められ、現実でも道具のように扱われていた彼を見て、俺はその姿がとても似合っていると感じたのではないだろうか。遠い過去で泥棒として過ごし、今でもポケットにナイフを忍ばせている彼であるからこそ、人殺しのレッテルこそが最も相応しい呼び名であると思ったのではないだろうか。彼を殴り飛ばした感触がこの手に残っている。あの瞬間に自分の中に駆け巡った電光は、彼を服従させ優位に立った快楽という感覚に他ならなかった。否定したくて仕方がない過去だったけれど、あの時の俺はまるでエダやかつてのケキのように、彼を傷つけて楽しむサディストに近付いていたのではないだろうか。
 悪いのは自分だった。彼の心の中で、最も傷つきやすい部分を針で突き刺し、表面から感情のままに破壊していったのは自分の方だった。彼の弱さは理由になどならなくて、弱い俺が起こした癇癪が彼を傷つけてしまったんだ。でも、もうその傷跡は隠されてしまった。精神から追い出された俺には彼を癒すことはできない。だから目覚めさせてやろうと思った。俺には彼の気持ちが分からないから、目覚めることを望んでいないかもしれないけど、このまま眠って黙ったままでは何も変わらない。変わらなければならない時はすぐそこまで近付いてきていた。それが通り過ぎてしまうその前に、俺は彼が最も必要としている人を見つける必要があったんだ。
「家族……」
 ラザーはクトダムに拾われたせいで不老不死になった。彼の家族が一般の人間だったなら、今でも生きていると考えることは不可能だった。考えられる候補としては子孫ということになるけれど、その人を探すにしてもあまりにも手掛かりが少なすぎる。
 彼の事情に詳しい人は誰だっただろう。師匠はあまり知らないらしいし、真に聞いても答えてくれるとは思えなかった。リヴァの上官のヤウラさんは詳しそうに思えるけれど、どうしても彼にだけは頼りたくなかった。彼に聞いたなら、そのままラザーを取られてしまいそうで――醜い嫉妬の塊が心に浮かんでいる。ぎゅっと手を握り締め、小屋の外に出た。そうして自然の中で目を閉じて、誘拐されて押し込められていた狭い部屋のことを思い出していた。真っ暗な部屋の片隅に何かがたくさん落ちていた。その景色はラザーの精神とよく似ているもので、彼の世界は組織だけで構成されているのだと理解できたような気がした。

 

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「聞きたいこと?」
「うん。教えて欲しいことがあるんだ」
 思い浮かべた場所には目的の人物がいた。師匠に教わった移動術は大変便利なものであって、どんな無茶でも可能にしてしまう。それが恐ろしくて使うことを躊躇っていた時期もあったけれど、今は戸惑いなど必要のないものだった。俺はエダの部屋を訪れており、そこの主はスイネの顔で俺の前に立っていた。
「あんた、ラザーの――ロイのことについて詳しいんじゃないかって思って」
「あいつのことなら俺よりクトダム様の方が知ってると思うけど」
「あの人には……聞けないよ」
 エダは突然の来客を丁寧にもてなしてくれた。何もない部屋の奥にある扉へ案内され、古い木の椅子に座らせてくれていた。この部屋には質素な机が置かれてあり、その上にはたくさんの紙が重ねられている。俺はいつかラザーが言っていた、エダは事務を仕事としていたという言葉を思い出していた。
「ま、質問の内容はどうであれ、タダでは答えたくないんだよな」
「……分かってるよ」
 彼はスイネでありエダでもあった。彼が代価を求めることなど安易に想像できることであり、それに対する覚悟だって既に俺の中に出来上がっていた。俺の犠牲だけでラザーを救うことができるのなら安いもので、一時の動的なものを乗り越えられたなら何も怖くはないと思っていた。
「恐れないんだな、俺が怖くないのか」
 肩に手を置き、相手はぐっと顔を近付けてくる。それが必要以上に近かったので思わず目線をそらしてしまった。
「その様子だと、自分を犠牲にして情報を得ようって目論見なんだろうな。さすがはあいつのお友達だ、考え方もそっくりだ」
「あいつって……」
「ラザーラスのことさ。あいつはずっとお前たちを巻き込みたくないって、お前たちに妙なものを植え付けるなって、そればかり言っていたからな。しかしあいつは逃げ出してしまった。俺の手から逃れて、代わりに君を俺に差し出した。そうだな、俺は、彼の望み通りこのまま君を食ってしまっても構わないわけだが……それよりも協力して欲しいことが一つだけあってね」
 相手は俺の肩から手を離し、少しだけ下がって距離をあけた。予想外の返答に混乱して彼を見上げると、どうしてだか相手は微笑の中に淋しげな表情を潜ませていた。
「ほら、以前話しただろ、俺には自殺した兄がいたってこと。兄貴は村を出ていった後、どうやら家を造ったらしくてさ、そこで一人で暮らしてたそうなんだ。協力して欲しいのはそのことで、兄貴が暮らしてた家がどこにあるかを調べて欲しいんだ」
 彼の言葉が頭の中で反響する。調べて欲しいと言われても、俺はもうそれを知っていた。ラザーに連れられた質素な小屋、一人分のベッドしかない狭い空間、あの家が彼の求める場所だった。彼の兄が使っていたという森の中に隠れた逃げ道に他ならなかった。俺は今すぐにでも相手の要望を満たすことができた、だけど、それを達したならば同時にラザーの居場所を彼に教えることになってしまう。ラザーがあの小屋に転がり込んだのは、この目の前にいる男から逃れる為だった。もし俺がここで彼の望みを叶えたならば、今まで保ち続けてきたたくさんのものを失うことなど分かり切ったことだった。妙なところで繋がってしまった断片を、どう対処すれば賢く乗り切れるだろう。
「探してくれるかい?」
「……時間が欲しい。時間さえあれば、ちゃんと教えられると思う。だから、俺の頼みも聞いてくれ」
「ああ、交渉成立だな」
 彼があの小屋の場所を知らないのなら、ラザーが目覚めてから教えてやっても問題はないだろう。俺の目的はラザーの関係者を探すことであり、相手の要望を受け入れることではない。逃げ場ならいくらでもあると思っていた。だって彼に知られていない場所なんて、この世に数え切れないほど存在しているはずなんだから。
「それじゃ、樹君の質問を聞こうか」
「俺の質問は、さっきも言った通りラザーのことなんだけど……ラザーの家族とか兄弟について何か知らないか?」
「家族? あいつは確か、親に捨てられてたとか言ってた気がしたが――ちょっと待ってろ」
 エダは部屋の奥にある机の方へ行き、その引き出しを開けて中からノートを取り出した。暗くてよく見えなかったが、白い表紙の分厚いノートだった。その表紙を開き、一ページだけめくって動作を止める。
「……何してるの?」
「記録を確かめてるんだよ。こういうのが俺の仕事でさ……うん、やっぱり親には捨てられたって書いてある。育ての親の方も、スーリのせいで追い出されたって書いてあるな。親も不明だし、もちろん兄弟も不明。身元も本名も分からない子供だったらしい」
 幾度も同じ答えが返ってくる。俺が知りたいことを教えてくれる人は誰もいない。本人でさえ知らないことを、どうすれば見つけることができるだろうか。だけどここで諦めることだけはしたくなかった。
「他に何か、手掛かりになるようなことは――」
「そうだなぁ……」
「何でもいいんだ、組織の外の知り合いのこととか、どんな場所に行っていたかとか」
「ケキさんとヤウラって警察と三人で世界各地を廻ってたって書いてある」
 エダは資料から目をそらさず、真剣な眼差しで不思議なことを知らせてくれた。徐々にいつかの光景が目の裏に甦り、俺は暗い路地裏での三人の姿を思い出した。
「ケキさんは異世界から来た人で――ちょうど君と同じ世界の出身なんだな、ロイは彼の目的を手伝っていたらしい。それでいろんな場所へ行っていたようだが、最終的にはケキさんの目的は失敗して、クトダム様に勧誘されたんだとさ。それで……エンネア神? どうやらロイはそいつに『あいつの作品』と言われたらしい」
 なんとなく嫌な響きを持つ単語がエダの口から放たれた。しかしそれは有力な手掛かりで、そこに食い付く他に手段はない。
「エンネア神って?」
「神様だろ、この世界の。それなんだが、いつだったかケキさんが何か漏らしてた気がするんだよなぁ……ああ、何だったか、思い出せそうなんだが……」
 手に持っていたノートを机の上に置き、エダは腕を組んで目を閉じた。そうして黙り込み、しばらく動かなくなる。とても静かな空気がこの場に充満していた。部屋の外から聞こえる物音や悲鳴などはなくて、必要なものだけがここに集まっているのではないかと思った。
「アスター」
「え?」
 エダは目を開けた。ノートを手に取り、こちらに向かって歩いてくる。
「神様の名前。ケキさんが言ってたんだけど、アスターっていうらしい。そいつに聞けばロイの身元も分かるかもしれないな。ま、会ってくれればの話だけど」
「神様って……そんな奴、本当にいるのか」
「君が想像してるような全知全能で完璧な神様ではないみたいだけど、世界を管理してる感じの奴らしい。ケキさんはそいつに会いに天まで行ったと言っていた。その辺のことについては、君って確か水竜のロスリュと知り合いだったろ、あの人に聞けば教えてくれると思うんだが」
 未知の中から親しんだ名前が飛び出してくる。しかし今やその名は手の届かないものであり、目をそらしてまっすぐ向き合うことを恐れていた人の名でもあった。
「ロスリュは、たぶん教えてくれない」
「ん、なんで」
「喧嘩したんだ。俺、あの時はどうかしてて、ロスリュのこと襲いそうになったんだ。それで、ずいぶん怖がらせてしまって」
 また自分を責めたくなってくる。どうしてもっと早くに謝らなかったのだろう。こんなところで彼女の知恵が必要になるのなら、ちゃんと仲直りしておくべきだったんだ。今更後悔したって遅いことだって分かってるし、今からだって未来は変えられることも知っている。それでも後ろめたいことを後回しにするなんて、どうしようもなく惨めで情けない行動だと思えたから、俺は消えない痛みを一つずつ押し潰す勇気を得なければならなかったんだろう。
「君がそんなことするなんて、よっぽど意識がぶっ飛んでたんだな」
「うん、なんか――アニスの事情を聞いた後だったし、ケキにもいろいろ言われた後だったから」
「ふうん」
 相手はそれほど驚いていない様子だった。ノートを元の引き出しの中に戻し、俺の前に立つ。伸びてきた手が優しげに俺の頬に触れ、壊れやすいものを触るような手つきでゆっくりと撫でてくる。
「他に竜の知り合いはいないのか?」
「いないけど、精霊じゃ駄目かな」
「精霊は竜を介して神と接触するから、竜がいなけりゃ意味がない。竜に頼めないんだとしたら、直接殴り込みに行くしかないわけだ」
 片方の手が頬を撫でている間に、もう片方の手が太ももの上に添えられた。彼の手から体温と重力とを感じ、体全体がぴりぴりと痺れてくる。椅子に座っているはずなのに立っているような感覚を味わった。相手の赤い目の奥から優しさと狂気とが交互に見え隠れしていた。
「一人で行くのが怖いなら、一緒について行ってあげようか? 俺はこれでもどこに神様がいるかも知ってるんだ。手っ取り早く終わらせられるぜ」
「い、いいよ。一人で大丈夫だから」
 ぐっと顔を近付けてくる。相手の息遣いがすぐ傍に感じられた。いつの間にかスイネからエダの顔に変わっていたようで、俺は再び自分に覚悟を強いなければならなくなっていた。
「拒むなよ、ラザーラスを助けたいんだろう? あいつの古い傷跡を舐めて、安堵の中へ導いてやりたいから親だの兄弟だのを調べてるんだろ? 俺が神様の所へ連れて行ってやるって言ってるんだ、こんなにいい話はないだろ、深く考えずに乗ってこいよ」
 太ももの上に置かれていた手が素早く腕を掴んでくる。頬を撫でていた手は髪を掴み、相手は顔だけでなく身体も近付けてきた。彼の足が膝にぶつかり、濡れた唇を目の下に押し付けられる。それが終わると首筋を舌で舐められ、服の下に手を入れられて胸の辺りを探られた。
「なんだ、抵抗しないんだな」
「……これが神様の所に連れて行く代価だって言いたいんだろ」
「そう、よく分かってるじゃないか。察しのいい子は嫌いじゃない。そうだ、今日はいい物を拾ったんだ、君には特別にそいつを見せてやるよ」
 無理に押し付けられていた温もりが消え、相手は机の方まで歩いていく。椅子に座る俺の前に戻ってきたその手には、何やら硬そうな黒い縄のような物が握られていた。
「俺は組織のゴミの処理も任されてるんだけどさ、今日ケキさんの部屋に行ったら、こいつがゴミ箱の中に捨てられてたんだ。最初は単なる遊び道具かと思ってたんだが、よく見たら見覚えのある物でね……」
 相手は手に持ったままの縄を俺の顔に近付けてきた。おかげでよく見えるようになり、ラザーの精神で見た光景が甦ってくる。ロイはケキによって虐待を受けていた。その時に振り回していた鞭がちょうどこれと同じ黒い色をしていて、とても痛そうな音が部屋の外までよく響いていた。嫌な予感がしたが、そういうものこそ当たるものだ。知らない方がましだと思ったけれど、どうしてだか俺は真相を相手に聞かなきゃ納得できないようになっていた。
「ケキはそれでロイを虐めてたのか」
「おや、君はよく知っているんだな。そうだよ、その通りさ。ケキさんはこの鞭を使ってロイを打ち続けていた。時にはその対象がアニスに変わることもあったが、ほとんどはロイの上に振り下ろされていた。この鞭にはロイの血が染み込んでるってことさ……なあ、素晴らしいと思わないか」
「どうかしてる!」
 エダは鞭を床に垂らし、椅子の脚を蹴ってきた。椅子が倒れたおかげで俺の身体も床に落ちた。起き上がろうと床に手をつくと、腕に痺れるほどの痛さを感じた。上を見上げると相手が俺を見下ろしていて、俺の足を踏み潰しながら大きく鞭を振りかざした。
 黒い線が背中を打ちつける。
「痛いか? 痛いだろ? それがロイの過去さ、それこそがラザーラスの受け続けていた痛みってやつさ! 君はあいつを救いたいんだろう、でも救うと言いながら何をすればいいか分からなくなっているんだろう! 分からないなら教えてやるよ、傷を隠した人間を救うには、まずその傷の正体を知らなければならないんだ。それは単に傷つけた要因を理解することじゃない、どの程度の痛さでどんな形の痣が残るか、それを思い知ることが何よりも重要なのさ! 痛みを分け合うなんて不可能さ、目に見えるものなど信用せず、直に味わって舐め尽くさなければ痛みなど分かりっこない! だから、教えてやるよ、奴に植え付けられた恐怖ってやつを、堕落し切ったあの男に代わって俺が骨の髄まで教え込んでやるよ!」
 相手は大声を上げながら幾度も鞭を振り下ろしてきた。打たれた個所の痛みのせいで言い返すこともできなかった。小さな部屋の中に彼の声と鞭の音だけが響き渡っており、どうして彼に協力を仰いだのかと後悔が俺を埋め尽くし始めていた。
「ああ、ぞくぞくする……でも、そうだな、君は虐められるべき人間じゃない。君にそんな姿は似合わない。やめよう。さあ、立つんだ」
 俺が倒れているすぐ隣から、椅子を立て直した物音が直接耳に聞こえてきた。相手に言われた通り立ち上がろうとしたが、身体に上手く力が入らずに床の上に倒れてしまった。
「仕方のない子だ」
 エダは俺の前でしゃがみ込み、身体に手を伸ばしてくる。そこから温かいものを感じ、身体じゅうの痛みが和らいだ気がしてすぐに立ち上がることができた。そのまま椅子に座らされ、再びエダが俺の前に立ち塞がる。
「な、何のつもりだよ――」
「君は黙って鞭を食らい続けるべき人間じゃないと思ったのさ。その光の中に埋もれている鋭い負の感情は、愛と憎悪を混合して破壊衝動を招くか、或いは単なる嗜好として苦しむ他人を見下して唾を吐くか、そのどちらかの姿が最も似合っていると教えてくれたのさ。そうだな、俺から見れば、君はケキさんと同じ思考の持ち主だと思うな。君がケキさんではなく俺を頼ってきた理由もそこにあるんじゃないのかい? 同族は見ていてつらいからなぁ!」
 悪寒がした。俺がケキではなくエダの所に来た理由が言い当てられたような気がして、本当の訳さえ見失ってそのまま崩れてしまいそうだった。相手は俺の手を掴み、そこに何か硬いものを握らせた。驚いて視線を下に落とすと、俺はエダの手の中で黒い鞭を握らされていた。
「ラザーラスはわがままな奴だろう? あいつは大人しく他人の言うことを聞かないんだ、親しい者の意見だって素直に聞くような奴じゃない。しかもそうでありながら、自分の欲求が通らなければすぐに怒り出し、挙げ句には力ずくで物事を解決しようとする癖がある。そんな出来の悪い子にはお仕置きが必要だ……彼がわがままを言ったなら、これを振るって痛みつけてやればいい。黙り込むのに時間は掛からないぞ、あいつは恐怖に縛られるのが好きだから、君からのお仕置きを甘んじて受け入れるはずさ! そう、あいつを野放しにするのは賢明じゃない――あんな社会のゴミは早々に廃棄するか、それが敵わないなら首輪をつけ、監視しつつ酷使する他に使い道なんかないんだよ!」
 相手の手が離れても、俺の手の中には鞭が残っていた。これをどうすればいいのか今の俺には分からない。ロイの血が染み込んだ鞭を握り締め、俺はラザーとどう向き合うべきかを改めて考えねばならなかった。彼の言うようにラザーには罰が必要なのだろうか、わがままを言って俺を困らせた時には、遠慮せずに容赦なくこの鞭を振り下ろすべきなのだろうか。言葉でラザーを傷つけるくらいなら、体に痛みを覚えさせる方が効果的なのだろうか。でも、それはただの暴力にすぎないんじゃないか? 突き刺されたナイフの跡も、打ちつけられた鞭の痣も、教訓ではなく外傷を残すだけなら何の意味も持たなくなってしまう。それでも精神の中で話したラザーラスは俺の言葉は聞いてくれず、殴り飛ばした瞬間から黙って俺の姿を見てくれた。それが示すのは言葉は通用しないということなのだろうか――彼に自分の意見を伝えるには、一見して暴力的な強引さがなければならないということなのだろうか。
「揺れているな、樹君。だが迷う必要なんてない、あいつのことなら俺の方がよく知っている。あいつは鞭で打たれることに慣れているから、そんなに心配することじゃないんだ。思い切り打ったとしても、君の力じゃ大した傷は残せないさ。提示するのは恐怖だけでいい。まずは試してみろよ、驚くほど素直になるから。今からその鞭は君のものだ。うんと痛みつけて、決して逆らえないようにしてしまえばいい」
 床に垂れていた鞭を巻き、エダは俺に鞭を押し付けてきた。黒い鞭は重量感があり、表面はざらざらしている。何かの革でできているようだが、触ってみてもその正体は少しも分からなかった。
「それじゃ、行こうか」
 遠くの方から聞こえた声に顔を上げると、エダは机の下から黒い上着を取り出し、それをのんびりと羽織っていた。あれが彼の余所行きの格好なのだろうか。どうしてだか急がなければならない気持ちになり、俺は椅子から慌てて立ち上がった。相手は落ち着いた様子でこちらに歩み寄り、俺の手に握られていた鞭をベルトに通して固定してしまった。
「俺はこんな物、いらない――」
「いいから貰っておけよ。どうせ誰も使わないんだ、まだ使えるのに捨てるなんて勿体ないじゃないか。それより神様に会いに行こう。そしてラザーラスの正体を聞き出して、あいつを驚かせてやろうじゃないか」
 彼の誘いを断ることもできずに、掴まれた手を握り返した。彼は移動術を使おうとしていた。目を閉じて暗闇に沈んでしまえば、ラザーの精神で見た光景が鮮明に甦る。そこで鞭を振るうケキの姿が恐ろしくって、俺はどうしてもあの人に頼ることができなくなってしまったんだ。ヨウトの居場所は分からないし、クトダムやティナアには会いたくもなかった。だから組織の人間で知っている奴がエダしか残っていなくて、こうして彼の部屋に押し掛けて無理に協力を求めてしまった。その結果がこれだとすれば、欲しかった情報以上のこの献上品は、俺を不安にさせるばかりの余計な見返りだったかもしれない。それでも手に握った鞭の重みは身体の奥まで刻み込まれ、俺はいよいよ逃げ出せないところまで来てしまったのだと覚った。
 歪み始めた呼吸は溝を大きくするだけで、改造された魂のように直ぐには元に戻らない。俺の光に落とされた一粒の闇もまた、あらゆる全てを混ぜながら、剣呑な世界を創り上げては壊すことをただひたすらに繰り返し続けているのだろうと思った。

 

 

 

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