月のない夜に

 

 

 腰に吊るした黒い鞭の重量感を意識しながら、俺はエダに連れられて空の上の世界に足を踏み入れていた。神様が住んでいる天と呼ばれるこの場所は、大きな門によって隠されているとても静かな空間であり、正面から馬鹿正直に乗り込んだ俺たちは門番によって足止めを食らっていた。しかし一体何の因果か、その門番は俺にとって非常に懐かしい人物であった。
「久しいな、主よ」
「……オセ?」
「なんだ、樹君の知り合い? だったら話が早くて済むな」
 俺とエダの前に立ち塞がったのは、かつて光の精霊として契約をしたことのあるオセだった。昔と変わらず堂々とした態度で俺たちを迎え、威圧感を与えつつ見下したように話しかけてくる。破棄された契約と共に行方をくらましていた相手だが、こんな所で働いていたなんて全く知らなかった。
「して、天に何用か」
「あ、うん……ラザーのことで、ちょっと神様に会いたいんだけど」
「あの者は今、ここにはいない。用件を話してみよ」
 相変わらずの高慢さに懐かしさが襲いかかる。以前は怖いとさえ思っていた相手だけど、いざ離れてみるとどこか淋しくて空虚を味わってしまうものだ。それに相手は本当はとてもいい人なんだってことも分かっているから、俺はオセになら何を話しても平気でいられると思ったのだろう。
「俺はラザーの生まれについて調べてるんだけど、ラザーがエンネア神に会った時、『あいつの作品』って言われたらしいんだ。それで、そのことについて聞きに来たんだけど……」
「なるほど。それはエンネア神、即ちアスター殿が言った言葉で間違いないのか」
「え、それは――」
 ちらりとエダの顔を見る。俺の視線に気付いた相手は咄嗟にやわらかな微笑を浮かべ、首を縦に振って肯定を示した。その自信がどこから出てきたものかは分からないが、俺には彼の回答を疑う要素もなかったので、今は彼を信じる他に道はないと前を向いた。オセはエダの顔をじっと見つめていたようだが、やがてこちらに視線を戻して厳格な表情を俺に見せてきた。
「アスター殿の言う『あいつ』とは、恐らくあの者のことだろう。主よ、お主が事実を知りたいと願うならば、らいという名の研究者を訪ねると良い。それから――」
 伸びてきた手が俺の腕を掴み、オセに引きずられて俺はエダから離れた場所に連れられた。なんだか察するものがあって黙っていると、相手は腰をかがめて俺の耳元でひそひそと何やら囁いてきた。
「あの者は主の知り合いか」
「エダのことか? 知り合いだけど、仲は良くないよ」
「ならばあの者には気を付けるべきだ。稀に人間の内に潜む負の感情を目で見ることのできる者が存在するが、彼もその一人であるようだ。見えるだけならさして害はないが、他者の負の感情を巧みに利用する者もいるらしい。そして、主よ。お主は以前に比べ、光よりも闇が大きくなっている。闇に惑わされてはならぬぞ、わたくしを失望させるようなことにならぬよう祈っている」
 珍しく早口に語ったオセは再び俺の腕を掴み、引っ張られつつ俺はエダの所まで戻された。オセが言うにはエダは負の感情が見えるらしいが、そんな話をされたところで俺には関係のないことだから、それがいいものなのか悪いものなのかさえ判断ができなかった。オセの話し振りからは警戒すべき相手なのだろうけど、これ以上相手の何を警戒すれば平穏に生きられるというのだろうか。
 一つの確かな情報を得た俺は、エダと共にオセによって小さな村に飛ばされた。どうやらここにらいという名の研究者が住んでいるようで、その人に会えばラザーの何かが分かるはずだった。俺はもうエダの協力を必要としなかったが、組織の男はにこにこと笑うだけで俺から離れようとしなかった。彼から解放されるには早く目的の人を見つけなければならなかった。
 飛ばされた村はとてものどかな場所で、レンガ造りの家の隙間から見える草原には広々とした畑があり、足元では敷石の合間から草が伸び、川の隣には大きな水車がのんびりと回っている。村で生活する人々は井戸の周りで世間話をしていたり、藁を担いで畑に向かって歩いていたりと、裕福とは程遠く見えたがゆったりとした暮らしを享受しているようだった。頭上からは太陽の光が降り注ぎ、空を舞う鳥が声を高々にして鳴いている。田舎の景色は時の流れを遅く感じさせ、何かひどく大きな郷愁を漂わせていた。
「本当にこんな村に研究者なんかいるのかね」
 適当に村の中を歩きながらエダの呟きを聞く。村はとても面積が狭いらしく、すぐに入口と思われる門の前に辿り着いてしまった。仕方がないので引き返して歩いていると、ぐるりと一周して再び門の前に戻ってきた。
「なあ樹君、本気であの門番の言葉を信じる気?」
「うるさいな、あんたは黙ってろよ。まだいないって決まったわけじゃないだろ」
「らいさんならこっちだよ」
 飄々とした態度のエダに苛立っていると、後ろから若干冷めたような高い声が聞こえてきた。それが聞き覚えのあるものだったから振り返ると、村の景色に溶け込んで藍色の髪の少年がひっそりと佇んでいた。彼の大きな瞳がまっすぐこちらを見上げている。
「ジェラー、こんな所で何を――いや、お前はらいって研究者のことを知ってるのか」
「そう。僕はらいさんに頼まれて君の様子を見に行っていたんだよ。そして君があの人を訪ねることも分かっていた」
 すらすらと答える相手は俺の隣を通り過ぎ、敷石の上を悠々と歩き出した。どうやら案内してくれるらしいので、俺は黙って彼について行くことにした。俺から離れないエダもまた歩調を合わせてついて来ていた。
「僕は君たちと別れた後、ずっとここで暮らしてたんだ。……入っていいよ」
 木造建築の小さな家に案内され、ジェラーは扉を開けて俺たちを中へと誘導した。そこは水車小屋で、入り口の傍に地下へ伸びている梯子がある。ジェラーは黙ってそこを指差し、俺は狭い穴に潜って地下へと下りていかねばならなかった。
 辿り着いた先はランプの光が周囲を照らす地下室で、床には大量の紙が散らばり、壁いっぱいに本棚が並べられて窮屈な印象を受ける場所だった。奥の方には本棚の代わりにパソコンのような機械が何台も設置され、それに向かって手を動かしている人の後ろ姿が見えている。俺の目の前には木造の質素な机が空間を占領しており、その上には紙に混ざって色とりどりの飴玉が転がっていた。
「らいさん、樹が来たよ」
「んーちょっと待ってて、そこの飴あげるから……」
 相手は作業に没頭しているらしく、ジェラーの言葉は聞こえているようで聞こえていないようだった。藍色の髪の少年は机の上の飴玉を一つ手に取り、それを口の中に放り込んだ。彼の律儀な行動に少し驚く。
「座って」
 床に倒れていた椅子を起こし、ジェラーは俺とエダを並べて座らせた。エダは机の上に散らばっている紙をじろじろと見つめ、そこに書かれている文字を頭の中に入れているようだった。またよくないことに利用しようとしているんじゃないかと警戒したが、俺に彼の行動を縛る権利などなく、声もかけられずに相手の行為を見ることしかできなかった。ジェラーは奥にいる黒髪の研究者に話しかけ、来客のことを知らせているようだった。
 しばらくしてから研究者は俺たちの存在に気付いた。何やら申し訳なさそうな笑顔を見せられ、裸足のままこちらに歩いてくる。
「いやぁ、ごめんごめん。ちょっと夢中になっててさ。それで、君が川崎樹君だよね? それから――」
 黒い髪を後ろで束ねたらいという研究者は、俺のことなどもうすっかり知っている様子だった。相手は俺の目をじっと覗き込んできたが、隣にいるエダに視線を移した刹那、大きく開かれていた黒い瞳をすっと細くした。
「お前、ラザー君を虐めてた奴……だよね。今日は何? 謝りに来たの?」
「ラザーラスは俺から逃げ出した。今はこの樹君に付き合って、ラザーラスの親兄弟を探してるのさ」
 らいに睨まれる中で、エダは落ち着きながら俺の目的を話してくれた。相手は腕を組んでエダの様子を観察し、それからこっちに視線を戻してきた。俺は一つ頷いた。
「そう。ラザー君は逃げ出せたんだ。でも、見たところ今度は樹君が捕まっているようだけど?」
「俺は……大丈夫です。それより、あなたはラザーのことを知ってるんですか? いや、あなたはラザーとどんな関係があるんですか?」
「親だよ」
 飛んできた短い声に言葉が続かなくなる。
「俺はあの子の親。俺がラザー君を創ったんだ。でも本人はそのことを知らないし、俺が直接それを伝えることはできない。あの子は人間じゃない。俺が創った人型の作品だから、君と同じように生粋の人間じゃないんだ。あの子はそれだって知らないはず。俺はあの子を守ってやりたいけど、この前会いに行ったら思いっ切り嫌われちゃってね……だから樹君、君に頼もうと思っていたんだ。君はラザー君と仲がいいみたいだし」
 いろんな色の事実が目の前を通過していく。俺はそれを一つ一つ捕まえることで必死で、普通なら信じられないものでも無理に信じなければ追いつくことができなかった。だから言われた通りを胸に打ち込み、更なる情報を待ち構える姿勢を作る。
「でもね、どうか俺が親だってことはラザー君には内緒にしてくれないかな。あの子には自分の力で辿り着いて欲しいんだ。それから、あの子はどうやらとても繊細みたいだから、傷つけないよう優しく接してあげて欲しい。でも間違ったことをしたなら叱ってくれて構わないから。それで――」
「あ、あの!」
「うん? どうしたの」
「その、なんで……ラザーを捨てたんですか?」
 言ってしまってからはっとした。直接聞くにはあまりに大胆な質問で、相手を困らせてしまうんじゃないかと怖くなってしまった。しかし相手は机の上の飴玉に手を伸ばし、それをこっちに差し出してきた。わけが分からないまま飴を受け取ると、満足そうに頷いて椅子の上に腰を下ろした。
「俺は元々、別の世界の者でね――どうしてだかこっちの世界の神様と仲良くなって、自分の仕事も忘れてぶらぶらと遊んでたんだ。それがひょんなことでアスター君――神様と喧嘩してね、彼は天を飛び出してどっか行っちゃうし、俺は正体がばれて天から追い出されるし。その時にラザー君とは離れ離れになっちゃったんだ。彼、まだ小さい子供だったから、もう生きていないと思っていたよ。だから彼が生きてるって分かった時はすごく嬉しかったなぁ」
「神とか天とか、ずいぶんスケールの大きい話だな。あいつはきっと信じないぞ、変なところで現実主義だからな」
「……俺もそう思う」
 妙なところでエダと意気投合したが、らいはエダの発言に苛立ちを示しているようだった。相手はラザーがエダに虐められていたことを知っているようで、彼を見る目だけが鋭く棘のあるものになっていた。これが親心というものなのだろうか。俺も親父に会った時や、姉貴と話している時なんかは、こんな愛情に溢れた視線を受けていたのだろうか。
「それで、ラザー君は今どうしてるの?」
 家族の繋がりが何者にも断ち切れないものだとすれば、精神の管理者が言っていた人物とはこの人のことを指しているのだろう。俺には相手をラザーの元へ導く義務があった。
 そっと飴玉を机の上に戻し、相手の深くて黒い目を覗き込んだ。
「俺について来て欲しい。あんたの力が必要だから」

 

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 どういう風の吹き回しか、エダは何もせず組織に帰っていった。彼が言うにはラザーに事実を教えられないなら面白くないとのことで、結果としてその行動によってラザーの居場所を知られずに済んだので良かったのかもしれない。もし彼が強引について来ようとしたのなら、俺は相手を追い返す自信がなかった。だから彼の気まぐれに救われることとなってしまったんだ。
 ただ別れる間際にエダは俺に贈り物を与えてくれた。それは黒い携帯電話で、彼の兄の家が分かったら連絡をして欲しいとのことだった。そんな高価な物は受け取れないと一度は断ったけれど、組織で捨てられていたものだから貰っておけと無理に押し付けられてしまった。そうやって俺に繋がりを残すことに成功したエダは、らいに睨まれる中で比較的陽気そうにスイネの顔のまま帰っていった。
 ジェラーに留守番を頼み、らいは靴も履かずにラザーの小屋までついて来た。俺は相手を家の中に案内し、はやる気持ちを抑えながら長い廊下を歩いていく。この人が精神の管理者の言った人物で間違いないのなら、今のラザーに最も必要なのは家族ということになるのだろう。だとすれば俺じゃないことにも納得できる。もし家族でもない他人が「その人」であったなら、たとえどんな人であったとしても俺はその人をラザーに会わせたくなかった。奪われたくなかったんだ、俺の方に向いている彼の気持ちを、光である俺が幸福に導くと誓ったのだから。矮小な嫉妬だってことも分かっているけれど、理屈だけではどうにもならない感情が胸の内で育っていた。
 ラザーが眠る部屋の前に立ち、深呼吸をする。彼が目を覚ましたなら、まず何を話せばいいだろう。ラザーは自分がずっと眠っていたことを理解しているんだろうか、俺が彼の精神に入り込んだことも知っているんだろうか。様々な可能性が頭の中をぐるぐると回る。結局彼の求めるものは分からないままで、他人に頼ることになってしまったけど、彼は俺の努力を認めてくれるはずだと思い込んでいた。意を決して扉に手を伸ばす。
 だけど強い力を感じ、俺の手を止めるものがあった。
「行かせない。行かせないよ」
 俺の手首を掴む白い手。横から見えるのは、青い髪に包まれた子供の顔。
 ヨウトだった。今まで姿を消していた相手が、何を察したのか都合よく戻ってきていたんだ。彼もまたラザーを独占しようとしていた。自分だけのものにしたくて、簡単には意識を取り戻せないまじないを施して、眠り続けるラザーを黙って見下ろしていた少年。渡したくなかった。彼にだけはラザーを渡したくなくて、どうしてもラザーを奪い取られたくなかった。
「そこをどけ、ヨウト」
 相手は扉の前に立っていた。彼を退去させねばラザーの元には辿り着けないようだった。これが最後の砦というのなら、俺はそれを乗り越えていかねばならないのだろう。
「ここは通さないよ」
「いいからどけよ! でなきゃ――」
「待って、樹君」
 背後からの小さな声により、無意識のうちに鞭に触れていた自分の手の存在に気が付いた。声を発したらいは俺の隣に立ち、ヨウトの怒ったような顔を冷静な瞳で見つめていた。
「君も、ラザー君のことが好きなんだね」
 ふわりと微笑み、不思議なことを相手は言う。
「な、何だよそれ」
「樹君とは違う感じだけど、でも確かにこの子はラザー君のことを好いている。どちらかというと、好いてるんじゃなくて、ラザー君を必要としているってところかな」
 表情を変えないまま語る研究者は堂々としていた。その話を聞いたヨウトはちょっと顔を歪ませた。
「そうだよ、僕はロイに組織に戻って欲しいんだ……ロイがいなくなってから気が付いたんだけど、あの組織の中で生きている人間なんていない。誰も僕の話を聞いてくれないし、求めるのは仕事の出来と快楽を与える動作だけ。それだって僕は不十分だから、いつも組織では役立たずみたいに扱われてるんだ。だから、エダさんがロイを連れ戻す計画を立てているのを知った時、僕は迷わず乗ったよ。ロイが戻ってくるなら他に何もいらない、クトダム様に逆らってでも成功させたい計画だった。それなのに、そこにいる樹君のせいで計画は失敗した。ロイはすっかりラザーラスとして生き、もうロイの名前なんて捨てているみたいだった。僕はどうしようかって考えて、誰にもロイを奪われない方法を探した。それだって成功していたはずなのに、君は――君はまた、僕の邪魔をしようっていうんだね」
 ヨウトは泣いていた。彼の涙が床に落ちた。俺はそれを拭ってやろうと手を伸ばしたけれど、相手に強い力ではじき返されてしまった。
「樹君。君の幸せは、僕やエダさんの幸せを踏み躙ったものだ。それを忘れないで――忘れたなら、君を殺しに行くから」
 幽霊の少年は目を閉じ、色を消した。彼の最後の言葉が記憶の中に刻まれた。それはとても痛かった、反論できないくらい賛同できるもので、自分と共通する判断の基準だったから、自己と共鳴する無色の心が俺の思考を揺るがせていた。一度だけぎゅっと手を握り締め、扉に向かって手を伸ばした。そうしてゆっくりと最後の扉を開く。

 

 

 変わらぬ景色が前にあった。白い色の小さな机も、ぼろぼろになった木の椅子も、窓から差し込む夕日によってオレンジ色に照らされている。その空間に音はなく、時から切り離されたように静の中に身を寄せていた。まるで思い出の中の情景のような、だけど近い未来の縮小のようにも思え、動かぬままたった一人を待ち続けるラザーラスの姿だけが異端なものとして紛れ込んでいるようだった。
 部屋の中へ一歩踏み出すだけで自らの足音が響き、洗練された脆弱さにヒビが入った音が聞こえた。かつて一族の少年と共に眺めた夕日を思い出す。あの時も今と同じように、あたたかなオレンジ色に染まった部屋で、俺は一人途方に暮れていた。弱くなった心を両手で抱え込み、誰かが救ってくれないかと助けを求めてうずくまっていた。待ち続けるだけでは誰も救ってくれないことも、自分で動かさねば何も動かないことも分かっているはずなのに、その先にある反動を恐れて立ちすくみ、青ざめていた。内側に向いた心は蓋をして、俺は自ら殻を破らねばならなかったんだ。
 青年の眠るベッドの傍に立つ。誰も彼に触れていないのか、数日前に見た姿と変わっている部分が存在しなかった。ただ、少しだけ髪が伸びたように見える。隣にしゃがみ、そっと彼の髪を撫でると、さらさらして細かな線が手に絡みついてきた。以前のような刺々しさは感じられず、とてもやわらかで、それでも触れるだけで壊れてしまいそうな儚さがあった。
 俺の隣にらいが立ち、ラザーラスの姿を見下ろした。相手は彼に手を伸ばしたが、彼に触れる直前で動作を止め、そのまま手を自分の元へと引っ込めた。自身の胸の上に手を当て、彼の親は目を閉じる。その姿から光を感じた。高貴でありながら、深い地の底からここに届く、美しくも破壊された光だった。眩しくて苦しくて、泣き出したい気持ちをぐっと抑えた。俺は彼の横顔を眺めた。それはもうずいぶん前から変わっていない横顔で、彼が目を開いて生きていた姿など、自分一人の導きじゃ取り戻すこともできず、忘れられるはずの人だった。
 そう、単なる一人の友達なら、時が過ぎれば思い出と化しただろう。それなのに戻ってきた。彼は俺に助けを求め、俺の心を縛りつけた。戻ってきたのは彼の意志じゃない。偶然的な要因と、ある種の必然性が彼と俺とを結びつけたのだろう。彼は俺の中で、或いは俺は彼の中で、互いに忘れられぬ人となった。これを何と呼べばいいのだろう。この時間も空間も超越するものを、振り返っても決して見ることのできない真実を、人は一つの言葉で表そうとしていた。ただ今の俺にとってその言葉は遠すぎて、理解を超えた場所に漂う手の届かないものとなっていた。
「ん……」
 小さな、とても小さな声が聞こえた。はっとしてラザーラスの顔を覗く。彼の顔の上に時間が戻り、重そうに目蓋を持ち上げている姿が目に映った。幾度かまばたきをし、ぼんやりとしている赤い瞳をこちらに動かしてくる。
「――樹?」
 彼の声が――もう久しく聞くことのできなかった彼の声が、俺の名を呼んだ。他の誰でもなく俺の名前を呼んでいた。内から込み上げるものがあり、体じゅうがぶるぶると震えた。うまく身体が動かなくなって、彼に声をかけることも、手を伸ばすことも、抱き締めることもできなくなってしまった。ずっと待ち続けていたもの、求めて探しながら、取り戻そうと必死になっていたものが、ようやく自分の前に君臨した。これが欲しかったんだ、俺は、これだけがあればもう他には何も要らなかったんだ!
「それじゃ、俺は帰るね。気が向いたらまた家に遊びに来てね」
 ふっと隣から影が消え、扉が閉まる音が背後から響いてきた。自分のことを話せない異界の科学者が帰った証だった。でも、そんなことはどうでもよかった。他の誰が何をしようと、俺にとっては全てどうでもいいことだったんだ。
「……今、誰がそこにいたんだ? よく見えなかったんだが」
「気にしなくていいよ。つまらないこと、だから」
 手放したくなくて声が出た。ラザーはゆっくりと身体を起こした。短く切られた髪が肩の上に垂れていた。彼の身体を包む黒い服の中央には、アニスから受け取った金色の十字架がきらりと淋しげに光っていた。
「もう夕方なのか? ずいぶん眠っていたんだな……」
「ずいぶんって、そんな短いもんじゃなかったよ」
 状況を理解していない彼の言葉が、今までの俺の中にすっと入り込んでくる。締め付けられる胸を手で押さえながら、夕日に照らされた相手の顔を見上げた。それは美しく、整っていて、汚れを知らぬ新しいもののようだった。そう思えた原因はきっと、彼が生きているからなのだろう。
「一週間も――眠ってたんだぞ」
「え?」
「一週間も! たったそれだけでも、俺にとっては、数ヶ月や数年のような恐ろしい長さだった!」
 ベッドの上に身を投げ出し、彼の身体を抱き締める。
「馬鹿野郎……」
 相手の胸に顔をうずめ、力いっぱい抱き締めて泣いた。
 感情が止まらなかった。離れていた自分の一部を取り戻したかのように、失ったはずの宝物を思いがけず拾ったように、突然の幸福に戸惑って自身の生命が涙となった。相手にどう思われていようと構わなくって、この腕の中にある光の輝きを二度となくさないようにしたいと願った。その一方で、申し訳なさが俺を襲っていた。俺の幸福の裏にはヨウトやエダの怒りや悲しみが隠されていた。俺は彼らの気持ちを踏み躙り、自身の幸福の為に彼らを突き飛ばしてしまった。幸せの裏にある怒りや悲しみを、どんなふうに受け止めればいいのかは分からない。ただ俺は――いや、俺たちは、それを許さなければならなかった。戦うよりも、愛するよりも、最も難しい『許す』という行為を、人は何より初めに知らねばならなかったんだ。
「樹」
 彼の手が肩に触れた。俺は顔を上げた。涙は止まらず、相手の顔をまともに見ることができなかった。彼は微笑むでもなく、怒るでもなく、ぼんやりとした表情をしているようだった。その顔が愛おしかった。
「心配かけちまったな、悪かったよ」
「……もう、いいよ」
 彼から離れたくなくて、夜になるまでずっと抱きついていた。ラザーは俺を叱ったりしなかった。ちょっと窮屈そうに身体を動かそうとしていたが、俺の肩に手を置いたり、背中をさすったりしてくれていた。彼の鼓動が耳まで届いていた。生命の音はとても力強くって、それだけに壊れそうに思えて、俺の全てを捧げてこれを守り続けたいと感じた。彼を怖がらせる何もかもから守りたいと思ったんだ。
 深い夜が俺たちを包んだ後、俺の意識は遠くなった。疲れが身体にのしかかり、ラザーの胸の中で眠ってしまったようだった。その中で俺は夢を見ていた。大人になったラザーラスが黒い帽子を被り、泥棒を追いかけて走っている姿が見えた。ただ彼の片方の腕には手錠が掛けられたままであり、もう片方の手には拳銃が握られていた。逃げる泥棒を銃で撃ち抜くと、俺は彼を鞭で打たなければならなくなった。黒い鞭が手の中にあり、俺はそれを軽々と振り下ろした。ラザーは苦痛に顔を歪めたが、俺は鞭で打つことをやめることができなかった。
 最後に迎えるべき永続性は長続きはせず、深い闇の中に沈められていった。深海の如く新月の光が届かない空間で、俺はまだ足掻きをやめず、途切れそうな呼吸を続けている。天に向かって伸ばした手は空気さえ掴めなくて、瞳に映る悲劇は楽しさの裏で笑う狂気だった。
 ああ、きっと永遠など、この世に存在しないと思った。でもそれさえ生まれる前から知っていたみたいで、俺は今までに何一つとして理解できていないことが分かっただけだった。

 

 +++++

 

 夢から目覚めると朝になっていた。寝ぼけた頭を起き上がらせ、身体を持ち上げると俺はベッドの中に押し込められていた。部屋の中に視線を泳がせてもラザーの姿はなく、床に足を下ろしてぼんやりとベッドに座っていた。
 部屋の外から物音が聞こえ、重い身体を引きずって壁にある扉を開いた。ちょっと視線を下に落としてみると黒い服が見え、俺はまだ組織で着せられた服のままなのだと気が付いた。だけど着替える気にはなれなくて、黒い格好で廊下を歩く。なんだか腰に重みを感じると思ったら、エダに渡された黒の鞭がベルトに吊るされていた。
「やっと起きたか、ねぼすけめ」
 台所に着くとラザーが立っていた。片手にフライパンを持ち、じっとこちらを見てくる。全く似合わない組み合わせがなかなか理解できず、俺はぼんやりと相手を眺めてしまった。俺があまりにも動かないので相手は痺れを切らせ、腕を掴んで引っ張られ、椅子に座らせられてしまう。
 目の前の机からいい匂いが漂っていた。そちらに目をやると、フレンチトーストがお皿に乗せられている。その隣には水の入ったコップが置かれてあり、俺にとって真新しい朝食が用意されているみたいだった。
「これ……ラザーが作ったの?」
「食ってみろよ」
 俺の前の席に座り、ラザーは白い食パンにかぶりついた。言われた通りにフレンチトーストを口に運ぶ。
「おいしい」
「だろ?」
 急激に空腹を感じ、俺はフレンチトーストを一気にたいらげてしまった。水を飲んで喉の奥に押し込み、一つ大きな息を吐き出す。俺の前でラザーは食パンを頬張っていた。ふとその姿に疑問を感じ、でも何がおかしいのかよく分からないままコップの水を全て飲んでしまった。
「ラザーって料理なんかできたんだな」
「俺はそんなに不器用そうに見えるか?」
「いや……なんか、意外だなって思って」
 ラザーは食パンを半分だけ食べ、残りはゴミ箱に捨ててしまった。勿体ないと思ったけど口出しすることができなかった。ふと太ももに硬い物がぶつかった気がした。ぎゅっと手を握り締め、その存在に気付かないふりをする。
「今日は学校に行かなくていいのか」
「あ、ええと……昨日は確か土曜だったから、今日は日曜で休みなんだ。だから、何もしなくていいから――」
「ふうん」
 昨日はたくさんのことがあった。ラザーの親を探してエダに会ったり、天でオセと再会したり、ジェラーと一緒に研究者の話を聞いたり。今日が休みで良かったと思った。だってきっと今のままの状態じゃ、学校に行っても倒れるだけだと分かっていたから。
「あのさ、ラザー、明日は一緒に学校に行ってみない?」
「行かない」
「でももうずいぶん休んでるし、気分転換にもなると思うしさ、一日くらい行ってみてもいいんじゃ」
「嫌だ」
 誘いが無残にはねつけられていく。俺の言葉なんて、一つだって聞いてくれない。
「皆だって心配してるんだぞ、薫とか上野さんとか、早くラザーに会いたいって思ってるはずだ。だから――」
「うるさいな、俺はお前に行動を縛られる覚えはない、俺が何をしようと俺の勝手だろ! お前は少し黙っていろ!」
 苛立ちが顔面にぶつかってきた。ラザーは席を立ち、廊下の奥に消えていく。俺は自分を落ち着かせる為に立ち上がり、机の上の食器を片付けた。洗剤をつけて水洗いし、布巾で水を拭いて棚に戻す。誰もいなくなった席をちょっとだけ眺め、ラザーが戻ったであろう部屋へと足を運んだ。
 扉を開けるとラザーはベッドの上に座っていた。もはやそこは彼の特等席のようになっていた。部屋に入った俺を睨み、閉ざされた口からは何も言葉が出てこない。俺は吸い込まれるように彼の隣に立ち、そのままベッドの上に腰を下ろした。
「何か用か」
 相手の鋭い言葉が飛んでくる。俺にはそれがまるで嫌がらせのように聞こえた。
「ラザーってさ、なんでそんなに怒りっぽくて、しかも頑固なんだ? すんごい迷惑だし、苛々するよ、そういうの」
「お前――」
「俺の言うことを聞いてくれ。それがラザーの為にもなるし、悪いようにはしないから。だから、お願いだ。明日一緒に学校に行こう」
 傷つけることを恐れていては、この暗闇からは抜け出せない。相手に話を聞かせる為には過剰な言葉が必要で、俺の暴言の後の望みを聞いて相手はちょっと戸惑っていた。それでも納得できないみたいで、ラザーは口を閉ざして顔を窓の方へと向けてしまった。
「なあラザー、俺はこのままじゃ駄目だと思うんだ。こうやってエダから逃げ続けて、外にも出ないでこんな家に閉じこもってたら、いつになっても組織の脅威は消え去らないし、クトダムの呪縛からも解放されない。逃げるんじゃなくて立ち向かわなきゃ何も変わらないんだぞ、それはちゃんと分かってるよな?」
「立ち向かうって――そんなこと、できるわけないだろ」
「ラザー!」
「できるわけない! お前は連中の恐ろしさを知らないんだ、だから簡単にそんなことが言えるんだよ!」
 同じ。全く同じだ。精神で見た彼の小ささと、隣で怒るラザーラスの横顔は、やっぱり隠すこともできない臆病者の姿と一致していた。どうしてこんなに情けないのか、どうすれば彼を強くできるのだろうか?
「あの組織になら何度か行ったよ、ラザーが寝てる間にさ。ケキにも会ったし、ティナアやクトダムにも会った。もちろん、エダにも」
「馬鹿を言うな、お前なんかがあの人に会えるわけがない」
 勝手に嘘だと決めつけられる。俺の経験さえ信じてくれない。
「本当だよ、俺はエダに攫われて、そして組織の中で道に迷ってたんだ。そうやって辿り着いたのがどうやらクトダムの部屋だったみたいで――」
「あの人の部屋はティナアの部屋を通らなければ入れないだろ、あのおばさんがお前みたいなガキを見逃すわけがない!」
「その時ティナアはいなかったんだ! だから奥の扉を開けて入ってみたら、真っ暗な部屋にクトダムがいて、そこであの男のおかしな考えを聞かされたんだ。あいつはラザーのことも馬鹿にしてて、自分たちの幸福の為に犠牲になった可哀想な奴だって言ってたんだ」
「だ、黙れ!」
 胸ぐらを掴まれ、大声で怒鳴られる。必死そうな瞳が俺を睨みつけていた。
「怖いの?」
「黙れと言っている!」
「黙らないよ。口をつぐんだって事実は変わらない。ラザーはクトダムに利用されてたんだ、あの組織は全体であんたの精神と身体を食らい尽くしていたんだ」
 頬に鈍い痛みを感じた。ラザーは俺を殴ったんだ。俺の右手が腰に伸び、硬い縄のような物をぎゅっと握り締めた。
「ラザー、大人しく言うことを聞いてくれ。このまま逃げていないで、一度クトダムに会って話をしよう。俺も一緒について行くから。危なくなったらちゃんと守るから」
「なんでお前の言うことを聞かなければならないんだ、俺はお前の所有物じゃない! どうせ他人なんだ、俺のことなんか放っておけばいいじゃないか!」
 彼は分かってくれない。彼には分からない、俺の気持ちなんか分からなくて、分かろうともしていないんだ!
 感情のままに右腕が動いていた。ベルトから離れた鞭が空を切り、勢いよくラザーに向かっていった。相手はそれを瞬時に察知したのか、手のひらで鞭を受け止めて身体にまでは届かなかった。俺は鞭を持ったまま立ち上がった。ラザーは手のひらから血を流し、俺の顔を鋭い瞳で睨みつけていた。
「これ、見覚えあるんじゃないか」
 相手の顔面に鞭を近付ける。赤い瞳が素早く動き、俺の手の中にある黒い鞭に視線を当てた。鞭を目の当たりにした彼の反応は面白いくらいはっきりとしていた。細くなっていた目を大きく見開き、座ったまま後ずさりし、彼の頭を困惑と恐怖とが支配したようだった。
「お前……なんで、それ」
「エダに貰ったんだ。捨てられてて、勿体ないから使えって。これ、元はケキの物だったんだよな。これでお前、いつも打たれてたんだよな」
 ラザーはベッドの上に座ったまま、背中をぴたりと壁につけてしまった。俺の持つ鞭がよっぽど怖いらしかった。この鞭があれば彼を縛るには充分で、行き場のない負の感情も綺麗に浄化してくれるのだと感じられた。
「言うことを聞いてくれ、ラザー。明日は学校に行こう」
「い、嫌だ」
 俺はラザーに向かって鞭を振りかざした。ラザーは手で守ろうとしたが、さっきのように上手くは守れなかったらしく、彼の身体を打ちつけた感触が右手に生々しく伝わってきた。
「ラザー、頼むから俺の言う通りにしてくれ」
「嫌だ、嫌だ!」
 もう一度同じことを繰り返す。黒い鞭は相手の肘や足に当たった。鋭い音が部屋じゅうに響く。
「ラザー! 俺だってこんなことしたくないんだ、ただ約束さえしてくれたら――」
「い、嫌、やめて、やめて!」
 頭を両手で抱えて丸くなり、ラザーは俺に背を見せた。それはあまりにも都合の良すぎる格好であり、俺はもう鞭を振り下ろす自分の手を止めることができなかった。
 背中に黒い一撃をまともに食らい、ラザーラスは苦痛に歪んだ声を上げた。俺の手はその快楽の味を知ってしまい、無意識のうちに鞭を振り上げていた。相手の身体を打つたびに、びりびりとした感触が右手に伝わってくる。それが気持ちよくて止まらなかった――俺は朦朧とする意識の中、息が切れるまで彼を鞭で打ち続けていた。

 

 

「……ラザー?」
 ふと我に返ると彼がうつ伏せになって倒れていた。白いベッドが血で赤く染まり、黒い服は破れて傷だらけの背中があらわになっている。俺はベッドの上に立ち、黒くて硬い鞭を右手にぎゅっと握り締めていた。
「ラザー……ラザー!」
 鞭を手放し、しゃがんでラザーの肩を揺さぶる。あお向けにして顔を覗くと、相手は気を失って目を閉じていた。彼の頬を叩こうと手を動かすと、右手も左手も血に染まってどす黒くなっていることに気が付いた。驚いて喉の奥から短い悲鳴が出てきた。
「こ、これ……何? 俺が、やったの?」
 胸も頭もずきずきと痛み、体じゅうが震えて何もできなかった。突然びっくりして窓の方に顔を向けた。外はまだ光に溢れ、うららかな陽気が世界を包み込んでいるようだった。
 ラザーは咳をした。生きていると分かってほっとした。彼は不老不死で死なないはずなのに、どうしてだか俺は彼を殺してしまったんじゃないかと恐ろしくなっていたんだ。ラザーはゆっくりと目を開けた。俺は彼の顔を覗き込み、何かを言わなければならなかった。
「ラザー、ごめん、ごめんな、こんなことするつもりじゃなかったんだ、俺はどうかしてたんだ!」
「……いい。慣れてるから」
 彼の発した声により、言葉が続かなくなってしまった。相手は起き上がって部屋を出て行った。俺はどうしても身体を動かすことができなくて、彼が消えた扉の先をじっと見つめることしかできなくなっていた。
 そうやってしばらくじっとしていると、エダに渡された携帯電話から着信音が流れ出した。びっくりしてそれを手に取って確認してみると、どうやら電話がかかってきたらしい。誰からの電話かは分からないけれど、慣れない手つきでボタンを押し、耳に携帯を当ててみた。ふと床に放置されている黒い鞭が目に入った。
『あ、樹君? 元気にしてた?』
 聞こえてきたのはエダの声だった。俺に親しく話しかけてくる。
「何の用だよ」
『用なんて一つに決まってるじゃないか。兄貴の家の件だけど、ちゃんと探してる?』
 ラザーは目覚めた。もしここで彼にこの場所を教えたなら、ラザーは家から出ていくだろうか。家から出れば何かが変わる? またエダに捕まって、あの日々を繰り返すことはないだろうか?
「今はそれどころじゃないんだ、もうちょっと待ってくれ」
『約束だからな、忘れるなよ。もし俺から逃げ出そうと考えているのなら――』
「分かってるって! 近いうちに探して教えるよ。だから……」
『分かってるならいいさ。それじゃ』
 電話が切れ、エダの声は聞こえなくなった。携帯をポケットに押し込み、立ち上がる。振り返ると血で汚れたベッドが見えた。それは酷い光景で――とにかく酷いという言葉しか脳裏に浮かんでこなかった。そしてその景色を作ったのは、自分自身だってことを理解しなければならなかった。
 俺は一体どうなってしまったんだろう。彼を鞭で打った時、何を感じて止まらなくなったんだろうか。俺もエダのように他人を服従させ、苦しめることによって幸福を得る人間に成り下がってしまったのだろうか。それは信じたくなかった、だって俺は彼を救いたくて、だからこそ身元を調べたりしたんじゃなかったのか。彼に笑っていて欲しかったから、自分を犠牲にしてでも彼を目覚めさせたんじゃなかったのか。
 自分の気持ちが分からなくなっていた。あの恐ろしい黒い鞭を握った時、怒りに任せて振り下ろした凶器は、うっすらとした快楽を自分にもたらしていたような記憶さえ残っていた。それは危ないことだった、もうあんな物を触らないようにしようと思ったけど、それを手放すと俺はラザーのわがままに対抗できなくなる気がした。俺の言葉なんか聞いてくれない彼だから、少しの暴力が許される関係であり続けねばならなくて、あの鞭は彼に見せるだけで効果のある非常に便利な物だった。床に落ちていた鞭を拾うとその重さが感じられた。巻いて小さくまとめると、床の絨毯に薄く血が染み込んでいることに気が付いた。再び後悔が俺を責め始める。
 ラザーに鞭を見せない為に、ベッドの下にそれを隠した。そのまま部屋を出て廊下を歩き、台所に辿り着く。そこではラザーが立っていて、彼は朝と同じようにフライパンを握り締めていた。ちらりとこちらを確認し、無言のまま火加減を調節する。俺は椅子に座って彼の動作を眺めることにした。
「ほら、食え」
 調理を終えた相手は俺の前に皿を差し出してきた。その上には綺麗な形をした卵焼きが乗っており、続けて白い食パンを生のまま差し出してくる。俺はそれを受け取ろうとして、自分の手がまだ血で汚れていることに気が付いた。
「ちょっと待って、手、洗わなきゃ……」
 慌てて席を立ち、ラザーの隣で手を洗った。石鹸をつけてもこびりついた血液はなかなか消えなくて、綺麗になるまで少し時間が必要だった。俺が手を洗っている間にラザーは席に着き、何もせず俺を待っている様子だった。再び席に戻るとラザーはじっとこちらを見てきた。
「今はパンと卵と調味料しかない。昼食はそれで我慢するんだな」
「え……」
 何気ないことだけを話し、相手は俺を叱らなかった。よく見ると俺がつけた傷は既に癒えていて、乱れていた髪も整っており、普段と変わらない相手が俺の目を覗き込んでいた。それは俺にとっては甘えにすぎなかった。でもぬるま湯に浸かって目を閉じていたって、それは俺の為にはならないと分かっていたんだ。
「どうした、食わないのか」
「そうじゃない、そうじゃなくて――ラザー、その……ラザーって確か、携帯持ってたよな」
「それがどうかしたのか」
 口から出てきたのは自分を誤魔化す文句だった。一度外に出たものは元に戻せなくて、仕方がないので俺は会話を進めることにした。
「俺も携帯電話、貰ったんだ……だから、番号とか聞いていいかな」
 ポケットから黒い携帯を取り出し、机の上に置いた。ラザーはそれをじっと見つめ、自分の物を懐から取り出す。
「あの、俺まだ携帯の使い方とかよく分かってないから、登録とかやってもらっていい?」
「ああ」
 相手に携帯を渡し、彼の指の動きを見つめていた。どうしてだか申し訳なさだけが心を埋め尽くし、恥ずかしくなって下に俯いてしまう。しばらくすると相手は俺に携帯を返してきた。それをズボンのポケットに押し込み、俺は彼が作った料理に手を伸ばした。
「なんで怒らないの」
 料理を食べていると落ち着いたのだろうか、口から言いたかった言葉が飛び出してきた。手に持っていた箸を皿に置き、ぐっと顔を上げて相手の目を見る。ラザーは普段通りの顔をしていた。何を考えているのか分からない、怒っているように見えなくもない表情で俺の顔を見つめていた。
「怒るって、何を」
「だから――俺がラザーを、その」
「鞭で打ったことか? あれでお前は楽しかったんだろう? 俺は別に、他人の快楽を邪魔する気はないんだ。遊びたいなら勝手に遊んでいればいい」
 頭を殴られた心地がした。俺は無意識のうちに立ち上がっていた。
「快楽って、そんなんじゃない! 俺は楽しくなんかなかった、反省だってしてる。あの時はどうかしてたんだよ、本当にどうかしてたんだ!」
「お前の真意なんかどうでもいい。都合の悪い時だけ発狂を認めるな。その狂気に振り回されるのは誰だと思っている? 悪かったと思うんなら、もうこの家から出て行け」
「な、なん――」
 彼の言葉が痛かった。俺はそれに反論できない。でもここから離れたくはなかった。彼を救いたいという気持ちは今でも変わらなくて、だからこそのあの行動なのだと自分を許そうとしていたのだろう。
「俺は、出て行かないよ。ラザーを一人にして逃げるなんて、そんなことはできないから」
「だったら大人しくしていろ」
 言うべき言葉が見つからず、黙って椅子に座って食事を続けた。
 パンと卵焼きを食べ終えると、ラザーが食器を片付けてくれた。俺は椅子に座ったまま彼の背中を眺め、破れた服の下から見える白い肌を見て、鋭利な後悔に押し潰されそうになっていた。片付けが終わるとラザーは声も掛けずに廊下へ出た。俺は慌てて立ち上がり、彼の背を追っていつもの部屋に入り込んだ。
「酷いな」
 入り口で立っていたラザーは短く言う。彼の目線の先には血が染み込んだ白いベッドがあった。俺は彼の邪魔をしないよう静かに扉を閉める。
「どう、しようか」
「洗えばいいさ」
 ベッドから布団を引き剥がし、それを抱えてラザーは部屋を出た。彼の冷静さが俺を困惑させ、何もできなくなっている自分がいた。力が抜けたように床に座り込み、ラザーが帰ってくるのを待つことにした。ただ心臓の鼓動だけが早く動いているようで、静寂に包まれた刹那が重なり合い、俺を罵っている声が聞こえ続けているような気がしていた。

 

 

 戻ってきたラザーは新品のような布団を抱えていた。どうやってあの血を落としたのかは分からないけど、彼になら何だってできる気がして、それほど不思議には思えなかった。ただ時間は掛かっていたようで、彼が帰ってきたのは夕方になってからだった。
 布団を元に戻したラザーはその上に座った。彼が座った下に鞭が隠されていることには気付いていないようだった。俺は床に座り込んだままで、何もする気が起きなかった。このまま平穏な時間が流れてくれればそれでいいと思っていた。
「樹」
「えっ、何――」
 話しかけられて顔を上げる。なんだかちょっと眩暈がした。
「お前、俺のことを怒りっぽくて頑固だって言ってたな。でもお前だって俺と同じくらい情けなくて頑固じゃないか」
 確かにそうかもしれないと、今朝のことを思い起こして感じていた。俺は一方的な意見を相手に押し付けていたのかもしれない。最も優先すべきなのは相手の意志のはずなのに、自分の考えに自信を持っていたから、それに気付くことができていなかったのかもしれなかった。
「……仕方ないから、学校には行ってやるよ」
「え? で、でも」
「行かなきゃお前に打たれるからな。それともやっぱり、あれはお前の快楽を満たす行為だったのか?」
「違う! 違うよ――」
 立ち上がってラザーの隣に腰を下ろす。近くなった相手がとても大きく見えた。
「本当に行ってくれるのか? 嘘じゃないのか?」
「嘘を言ったらまた罰を与えるんだろ。まったく、お前はいつから連中と同族になったんだ? お前がそんなサディストだっただなんて思わなかったぞ」
 ラザーは額に手を当て、深いため息を一つ吐いた。俺だって自分がこんな人間だったなんて知らなかった。俺は本当に彼を救うと言いながら、相手を苦しめて楽しんでいたのだろうか。鞭で打っていた時の記憶はかすれてしまっていて、自分がどんなことをしていたかさえ分からないままだった。
「俺のこと、怖い?」
「お前自体は怖くはないな」
「じゃ、嫌いになった?」
「別に」
「ごめん」
 謝罪の言葉しか出てこない。俺は何かしなければならないと思った。
「ラザー、何かして欲しいことがあったら言ってくれ。俺にできることなら何でもするから」
「だったら大人しく殺されろ」
 素早く片手で肩を掴まれ、相手のもう片方の手に銀色のナイフが光っていた。驚いて逃げようとしても強い力で押さえつけられ、ベッドの上に押し倒されて動けなくなってしまう。ラザーは俺に向かってナイフを振り下ろした。咄嗟に両手を上げて身を守ったが、ナイフは俺の身体に届くことはなかった。
 代わりにキスされた。ナイフが床に落ちた音が聞こえ、唇を離した相手は俺の頬に手を当てた。その行動が俺にとって何よりも疑問に感じられた。
「だ、騙したのか、ラザー」
「騙してなんかいないさ。お前は何でもすると言ったじゃないか。だから俺は自分が最も楽しめることをしようとした。でももう二度と人を殺さないというアニスとの約束があったから、お前を殺すことを諦めて二番目に快楽を感じられることをしようとした。それだけだ」
「快楽って――」
 服の下に相手の手が伸びてくる。俺はなんだかぞっとした。何か嫌なことが分かった気がして、でもすぐにはそれを認めたくなくて、無理に忘れてしまおうと相手の黒服を手で掴んだ。そうしてぎゅっと目を閉じる。
 気付いた推測が当たっていなければいいと願っていた。だけど彼の俺に対する態度がその予想を裏付けているみたいで、不安になる心を隠しながら大人しくしているしかなかった。
 そう、誰でもいいはずがなかった。快楽を感じられるなら誰と沈んでも同じだなんて、彼がそんなことを考えているはずはないと思いたかったんだ。……

 

 

 

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