月のない夜に

 

 

 何もかもを忘れて快楽に沈もうとした青年は、夕日に染まる部屋の中で俺の身体をむさぼろうとした。しかしその時はまだ夜には届かない明るい時間だったので、それを理由に俺は彼から逃れ、相手と共に簡単な夕食を作って食べた。
 空が暗くなり、何も用事がなくなって部屋に戻ると、ラザーは立ち尽くす俺をベッドの中に引きずり込んだ。俺は自分で並べた願いを自ら破棄することもできず、彼の欲望のままに遊ばれることを快諾せねばならなかった。しかしラザーはエダとは違い、俺にも気を遣っているようで、優しげな手つきであらゆる個所を愛撫された。時には気分を訊ねられたり、何をして欲しいかと問うこともあった。俺は相手の好きなようにすればいいと答えたが、ラザーは俺自身の考えを執拗に求めてきた。だから俺は彼に見せる要望を作らなければならなかった。
 彼はまず俺を絶頂に至らせ、その後で自身の快楽を得たようだった。気が付くと暗闇の中で全てが終わっており、俺の隣ではラザーが静かな寝息を立てて眠っていた。不思議と疲れは感じられず、体を起こして床の上に立ち、周囲に散らばっている自分の服を着た。何の目的もなくふらふらと台所に行き、石鹸をつけて両手を綺麗に洗う。俺はどうやら安心しているようだった。彼を鞭で打ったことに対し、身体を捧げることで許されたような気がしたんだろう。そしてそれが本当であればいいと思っていた。明日になったら全てが白紙に戻り、俺の中の狂気など消えて無くなっていればいいと思っていたんだ。
 ポケットに入れられたままの携帯電話を取り出し、暗くなった部屋の中で明るく光る画面を見つめる。幼い頃から頭に押し込めた番号のボタンを押し、ラザーラスが眠る隣で実家に電話を掛けた。夜だからか呼び出し音は普段より長く続き、俺はカーテンを開けて窓の外の月を眺めていた。
 空で輝く月を見上げ、俺はふと昔のことを思い出していた。俺が初めてラザーと話した日、師匠の家のベランダで二人並んで空を見ていた。あの時は両者ともお互いのことをよく知らなくて、俺はどこか相手を避けながら付き合っていたのだろう。彼は初めて会った時から厳しくて、いつも苛々しているように見えていたから、怒らせてしまっているんじゃないかと心配になったりもした。それでも仲間として信じていたし、友達として仲良くして、一定の距離を保ちながらうまくやっていたつもりだった。いつから俺は、こんなにも彼との距離を縮めてしまったのだろう――あの頃の無邪気な二人は遠すぎて、美しいはずの記憶さえぼやけてしまっている気がした。
『もしもし……』
 まどろみに沈んだような声が耳元で囁いた。子供のような高めの声は、警察のリヴァセールの声のようだった。
「俺だよ、リヴァ。こんな真夜中にごめんな」
『樹? 何か用?』
 ラザーを起こさないよう気をつけながら、小声でひそひそと電話に向かって語りかける。電話の相手は相当眠そうで、彼の顔が頭の中で生きているように想像できた。
「あのさ、俺の部屋に学校の鞄が置いてあると思うんだけど、明日学校に持ってきてくれないかな」
『いいよ。……それだけ?』
「え、うん――」
『じゃあ、おやすみ』
「おやすみ」
 ぷつりと小さな音を立て、相手は電話を切った。
 取り残されていた。いや、俺は一人だけ道をそれているのかもしれない。頑張れば頑張るほど間違っているような気がして、だから自分の意見が正しいと思い込まねばやっていけなかったのかもしれない。それが彼を打った原因だとすれば、なんと自分勝手な独断だったのだろう。罪の意識が頭を埋め尽くす。いつだってこんなふうに、視野を広く持てていればあんなことにはならなかったのに。
 ラザーが眠るベッドの下には、俺が彼を打った鞭がまだ隠されていた。それは二人には必要のない物で、今すぐにでも燃やしてしまうべき恐怖の象徴だった。そっとベッドの下に手を伸ばし、硬い鞭を手で掴む。引っ張り出すと闇に紛れて血の色が消えていた。どんなものでもよく似たものに溶け込めたなら、まるで無くなったように見えるから皮肉なものだった。
 鞭を床の上に置き、窓のカーテンをきちんと閉める。月の光が届かなくなった部屋の中で、俺に愛を求めた青年の横顔を眺めながら眠りにつくことにした。

 

 

 夜が明けて朝が来る。何度も繰り返された通常を演じ、俺は朝の光を浴びて目を覚ました。身体を起こしてベッドの中を確認すると、銀髪の青年はまだ夢の中にいるようだった。そっと音を立てないよう立ち上がり、台所へと足を向ける。
 顔を洗って制服に着替えようとし、俺はふと制服を家に置いてきてしまったことに気が付いた。どうしようかと困っているとラザーが起きたらしく、廊下をゆっくりと歩く足音が耳に入ってくる。俺はとにかく彼に挨拶をしなければならないと思った。
「おはよう、ラザー」
 廊下で彼を捕まえ、いつものように笑顔を作る。相手は眠そうな目で俺の顔をじっと見つめ、一つだけ首を振って頷いてくれた。
 制服のことをラザーに話し、俺は携帯電話でリヴァに連絡して制服を持ってきてくれるよう頼んだ。その間にラザーは朝食を作っていたようで、台所に向かうと既に出来上がった目玉焼きがパンと並んで皿に盛られていた。素っ気なくも彼の心が感じられる朝食を二人で食べ、鞄を抱える彼と並んで学校へと向かう。
 早い時間に学校に着いたため、教室の中には誰もいなかった。ラザーラスは自分の席に腰を下ろし、ぼんやりとした表情で窓の外を眺めていた。俺は彼の前の席に座ってリヴァを待っていた。他の生徒が来る前にリヴァは登校し、鞄と制服を渡されて俺はすっかり安心してしまった。
「なんだか久しぶりにラザーの顔を見た気がするよ。もう大丈夫なの?」
 制服に着替え終え、自分の席で鞄の中身を確認していると無防備な声が聞こえてきた。他の生徒が教室に入ってくる中で、リヴァはラザーと向き合って座っていた。思えばラザーが学校に来るのは久しぶりなことであって、それ以前にラザーが俺以外の人と話すこと自体が久しいことでもある。この外からの刺激により彼の心が何か変わればと思って学校に誘ったけど、ラザーは平穏に酔いしれている人々を一体どんな目で見るのだろうか。
「大丈夫って、何が」
「樹から聞いたんだけど、いろいろ大変だったんでしょ? でも見たところ元気そうだし、その問題ももう終わったのかなって」
 席を立ってふらふらと二人に近付く。リヴァの前にいるラザーは非常に落ち着いているように見えた。その顔はいつも学校で見せていた控えめな態度であり、俺はこの姿勢のせいで彼の苦痛に気付くことができなかったんだ。彼の見せる上っ面に騙されてはいけない。
「問題か。そうだな、その問題はもう終わった。お前が気を遣う必要はない。気を遣うのは、樹だけで充分だ」
「あはは、なるほどね!」
 ずいぶんと勝手なことをラザーは言っていたが、俺も彼の意見には賛成したい気持ちになっていた。あんな暗闇を知るのは自分だけでよくて、美しい世界を信じている彼らに見せるべき苦痛ではない。ラザーの隣に立つと銀髪の青年はこちらを見上げ、何も言わずに目だけで合図を送ってきた。そこに込められている意味などどうでもよくて、俺は彼の背中に手を伸ばして優しげにそっと触れた。
 黒い制服の下から彼の脈が感じられた気がした。でも実際に伝わってきたのは自分の脈が動いている感触だった。彼の背中に体温があり、俺はそれに触れることで彼の生命を感じていたかった。人が徐々に増えていく教室の中で、俺は彼と二人だけの世界に浸り、彼の中で疼く傷跡を涙で濡らしてやりたいと思った。そして歯止めの効かない願望が走る一方で、どうしてこんな感情が芽生えたのかさえ自分でも一つとして理解できずにいた。
「あれ、ラザーじゃん。久しぶりだなぁ、元気にしてた?」
 俺の思考をほぼ強制的に遮断したのは薫の明るい声だった。聞き慣れた幼馴染の声は俺に安定をもたらしてくれる。鞄を肩に掛けて薫は三人の元へと近寄り、席に座ってぼんやりとしているラザーの顔を物珍しそうにまじまじと観察した。
「どれくらい休んでたっけ? 一週間くらい? もしかして最近流行りのインフルにでもかかってた?」
「お前には関係ないことだろ」
「関係ないけどさ、気になっちゃうじゃんか。あ、そういえば今日は男にとって素晴らしい日なんだぜ。おい樹、お前ちゃんと覚えてるか?」
 一人でぺらぺらとよく喋り、最後にはなぜかこっちに話題を振ってくる。彼の軽率さなど今に始まったことではないが、そんな相手でも俺の隠したかった経験を知ってしまっているのだから、この態度が俺への答えのように思えてならなかった。俺は彼に感謝し、最大限の敬意を払わねばならないと感じられた。
「ああ、その様子じゃ覚えてないんだな。いいか、今日は二月十四日、即ちバレンタインデー! 俺の予想ではきっとラザーはモテるぞ、覚悟しておいた方がいいかもな」
「バレンタイン……もうそんな時期だったのか」
 日常の変化にさえ追いつけず、俺はもう長いあいだ苦悩と願望との振れ幅に支配されていたような心持ちがしていた。薫が言ったバレンタインという言葉が異質に聞こえ、俺は違う世界にでも迷い込んでしまったのかと疑わねばならなかった。無意識のうちに手が動き、それは椅子に座るラザーの肩に置かれる。昔に比べて短くなった髪に触れ、その刺々しさが手を突き刺す感覚を陶酔に似た気持ちで味わう瞬間が静かに通り過ぎていった。
 彼らと他愛ない会話を交わし、やがてチャイムが鳴って授業が始まる。すっかり慣れたはずの日常が戻ってきていた。だけど俺の中で変わったことが多すぎて、これがあの頃と同じ状況と言われたとしても、俺にとってそれは俄かには信じられない出来事のようにしか思えなかった。

 

 +++++

 

 授業に参加することにより、俺の心は落ち着きを取り戻したようだった。何より俺の中で現実に帰ってきたという認識が強く突出し、その事実が心地よくて嫌なことなど忘れてしまえる時間へと化していたのだろう。昼休みになるといつものように薫が近寄り、二人でパンを買いに教室の外へと向かった。リヴァが届けてくれた鞄には財布も詰め込まれており、俺は普段と違わない行動を意識せずとも繰り返すことができていた。
 教室に戻るとラザーの姿が消えていた。いつも昼食の時間は席から動かなかったのに、どこへ行ったのか気になってじわじわと不安が募ってくる。どうしてこんな気持ちになるのか理解できないまま、自分の席でパンを頬張るリヴァに訊ねてみることにした。
「上野さんに連れられて教室を出ていったけど、どこに行ったかまでは知らないよ」
「上野さんって――」
 徐々に今朝の薫の台詞を思い出す。今日はバレンタインデーで、女の子が好きな男性にチョコレートを渡す日と認識されている。上野さんは以前ラザーのことが好きだと言い、彼に容赦なくはねつけられてしまっていた。それでも彼につきまとうことをやめず、今日まで自分をラザーにアピールし続けてきたわけだが、そんな彼女が今日という日を見逃すはずがない。どこか人気のない場所に彼を連れ込み、そこで二人の世界でも作ろうと画策しているのだろう。それはしかし健全なことであって、世の闇しか知らないラザーにとって新しい刺激になることのようにも思えた。俺が彼を学校に連れ出した理由はそこにあった。彼に外の世界を見せ、たくさんの美しいものを知って欲しかったから無理に学校へ連れてきたんだ。
 彼の失踪の原因は分かった。それでも胸の内に不安は積み上げられ、どうしてだかますます大きくなる一方だった。これこそまさに俺が望んだ結果であったはずなのに、なぜこんな気持ちにならなければならないのだろう。まさかまだあのくだらない嫉妬が続いているのだろうか。俺は彼から逃れたいと望みながら、腹の底では彼を束縛し独占したいと思い続けているとでもいうのだろうか?
「おう樹、お前なんか顔色悪いぞ。気分転換にラザーでも探しに行こうぜ」
「気分転換って、単に二人の様子が気になるだけだろ……」
「だってなんか面白そうじゃん! リヴァも気になるだろ? 一緒に行こうぜ!」
 行動派の幼馴染に腕を引っ張られ、俺はリヴァと共に教室を出ていかねばならなくなった。確かにラザーの様子が気になっているのは事実であり、彼が上野さんに酷いことをしないとも限らないから、俺の目の届くところで過ごして欲しいというわがままな欲望さえ存在していた。でも彼だって同級生には彼なりの優しさを見せているし、自分に好意を寄せている相手に乱暴なことをすることもないだろう。それでも心配なのはどうしてなのか。俺はラザーの心配をしているようで、本当は自分の心配をしているのではないだろうか。
 俺も薫もラザーの行動はよく知っていたから、彼を探し当てることはとても容易なことだった。彼の逃げ場とも言える屋上にラザーラスはいた。隅の方で座り込み、上野さんと何やら話している。俺たち野次馬は彼らに気付かれないよう物陰に隠れ、彼らの話をどうにかして聞こうと黙り込んで耳を澄ませた。
「だからね、私は、あなたのことが好きで好きで仕方がないのよ」
 風に乗って声がここまで届く。とても遠い場所からの声だったが、どうしてだか届く全ての音がはっきりとしていた。
「ラザーラス君、私と付き合って欲しいの」
「付き合うって、お前は俺に何を求めているんだ? あまり近寄りすぎると巻き込まれるぞ……」
「あなたがここ最近、とても苦しんでたことは薄々感づいてたの。それで、保健室の先生に聞いて、あなたが誰かに酷いことをされてることも知った。私はあなたをその誰かから守れるほど強くはないけど、でもあなたの苦痛を和らげてあげられる時間を捧げることならできると思うの。きっと幸せな時間を与えられるわ、努力するから。だからどうか、私と付き合ってください」
 それは献身的と呼ぶべきだろうか、上野さんは落ち着いた声色でラザーに話しかけていた。彼女の中の優しさが俺の方まで伝わってきて、彼女に敵わない自分が惨めな人間のように思えてきた。俺はラザーにあんなことを言えるだろうか、彼を救うと公言しておいて、彼に痛みを植え付けた奴がどうして彼を癒せるだろう! 混乱が矛盾を肯定させていたんだ。
「俺のことが心配なら、これ以上近付かないでくれ。きっとあいつはお前のことを知ったら、今度はお前を標的に変えるだろうから、結果としてお前が傷つくことになるんだぞ。俺はもうそんな場面を見たくないんだよ、誰にも傷ついて欲しくないんだ」
「それでも……それでもいいから、あなたと共有する時間を作りたい。そしてその中で一緒に考えましょう? きっと道はあるはずよ、私は諦めたりなんかしないから。私はいつだってあなたの味方でいられる。だって私は本当に、あなたのことを愛してるんだから」
「愛なんてまやかしだろ」
「そんなことないわ! これが、証拠よ」
 何か感じるものがあったのだろう、俺ははっとして物陰から顔を出し、二人の姿を確認した。すぐにリヴァと薫に引っ張られて彼らの様子は見えなくなってしまったが、上野さんがラザーにキスをしている場面が目に焼き付いてしまった。
 余計なものを見た気がして、俺はその場から逃げるように去っていった。後ろからリヴァと薫もくっついてきたが、彼らは俺の行動に不満そうな表情でひそかに非難しているようだった。教室に戻ってパンにかぶりつき、頭の中を整理する。俺の前に座った薫が何やら一人で喋っていたが、彼の声などもう一言もはっきりと聞き取ることができなくなっていた。
 先程の出来事を理解しようと頑張っても、頭の中が白くなったり黒くなったりするだけで落ち着かなかった。自分で考えている言葉すら分からなくて、俺は言語すら分からなくなってしまったのではないかと言葉ではない不安に怯え始めていた。自分を納得させる上手い言い訳も見つからないし、誰かを憎んで幸福を得る器用さもどこかに置いてきてしまっている。そうやって時間だけが平等に過ぎていき、授業開始を告げるチャイムが必要以上に無情に感じられてしまった。
 教室に戻ってきたラザーは普段と変わらない表情をしていた。あの後相手に何を言ったかなんて、俺には関係ないことだと割り切らねばならなかった。

 

 

 掃除の時間になると皆がばらばらになり、俺は自分の分担であるトイレに向かった。教室を出て廊下を歩いていると後ろから呼び止められ、振り返ると厳しい表情をしたラザーラスが立っていた。何の用かと一瞬だけ疑ったが、ふと彼と同じ掃除場所だったことを思い出してほっとした。仕方がないので俺は彼と一緒に建物の隅の方へと向かっていった。
 だいたい予想はしていたが、ラザーは真面目に掃除をしなかった。俺が一人で床を磨いていても彼は鏡を見つめているだけで、スリッパを揃えることすら手伝ってくれなかった。掃除時間なのに鏡の前から一歩も動かず、自分の髪を手で梳いて整えている。彼を注意するのもなんだか馬鹿馬鹿しくて、結局掃除は俺が一人で終わらせてしまった。
「お前、見てただろ」
 掃除用具を片付けていると、ふと彼が口を開いた。何の事だか分からなくて彼の顔を見ると、怒っているように見えなくもない表情がそこに貼り付けられていた。
「見てたって、何を?」
「昼休みのこと。俺が屋上であかりと話をしていたところ」
「ごめん」
 謝罪の言葉が勝手に飛び出してくる。どうして気付かれたのかなんて、そんなことはもう考えている余裕などなかった。俺が謝ってもラザーは表情を変えなかった。じっと目を覗き込み、俺の中の闇を暴こうとしているようにさえ見える。
「そんなに俺の行動が気になるか? お前は俺に首輪をつけて、ペットのように飼い慣らして楽しんでいるんじゃないだろうな」
「そ、そういうわけじゃないよ。俺はただ、なんだか不安で」
 彼は一歩踏み出してくる。それがあまりに威圧的で、俺は後ろに下がってしまった。ただ狭い空間だったので、すぐに壁にぶつかってしまう。
「不安って、一体何が不安なんだ? 俺があかりを殺すとでも思ったのか? 前に言っただろ、アニスとの約束があるから俺はもう人は殺さない。今までずっとそれを守り続けてきたんだ、組織の連中にそそのかされたって守り切る自信だってある」
「違うよ、そんなことは心配してなかった! 俺が不安だったのは――」
 相手の顔がずっと近くにあって驚く。しかしこれは甘い誘いではなく、俺を脅そうとする犯罪者の顔だった。ラザーは俺の肩を手で掴んだ。その手が首に伸び、力を込められたなら、俺は簡単に殺されてしまうと感じ取った。
「何が不安だったって? 言ってみろよ、お前の本音を」
「分からない。分からないけど、でもとにかく不安だったんだ。俺の知らない場所で何かあったら困ると思って、それで――」
「だから後をつけたって? 苦しい言い訳だな、樹。それは結局、俺を支配しておきたい願望の表れなんじゃないのか? 俺を手元に置いて安心していたいから、誰にも奪われないよう目を光らせていただけなんじゃないのかよ、ええっ?」
 彼の赤い瞳が異様な光を湛えている。俺はそれに食い潰される弱小な生命にすぎなかった。こんな乱暴な人間を支配できるわけがない。家に置いてきたあの黒い鞭が恋しい。
「俺が何をしようと勝手だろ。分かったらもう付きまとうな」
 先に引き下がったのは相手の方だった。しかし俺は何も言い返すことができず、彼の意見を全て享受せねばならなくなっていた。俺に背を向け去っていく彼の姿を見つめ、目の奥が熱くなる。そうだ、悪かったのは、俺の方だったんだ。
 馬鹿なことをしてしまった。行動を監視されて怒るのは当然のことじゃないか。彼の怒りの原因は誰にでも理解できるものだった。それが分からなかった俺は、本当におかしくなってしまったのだろうか。
 過剰な不安も、淡い期待も、全てが混ざって渦巻いている。このままではそこから抜け出せなくなって、自分が真に望んでいるものさえ見失ってしまいそうだった。手を伸ばしたって欲しいものは手に入らない。失敗ばかりを繰り返し、後悔が増えて反省が消えていく。
 溢れてきた涙を手で拭い、誰もいなくなったトイレを飛び出した。廊下ですれ違う人々が自分よりも遥かに幸福そうで、それが妬ましくなって焦る自分がどうしようもなく愚かに思え、悔しかった。
 家に帰るのが億劫だった。それでも授業は終わり、やがて皆が教室から出ていく。俺は俯いて自分の席から動けなかった。リヴァや薫が声を掛けてきたが、彼らにはちょっと疲れたと言って誤魔化しておいた。
「おい、帰るぞ」
 腕を引っ張って無理に立たせたのはラザーラスだった。情けない俺の姿を見て苛立っているのか、普段よりも乱暴になっているような気がした。俺はもう彼には逆らえなくて、だから素直に立ち上がってあの小屋に帰らなくてはならなかった。
 鞄を両手で抱え、小屋の扉の前で立ち止まる。この中に入ったなら二度と引き返せない気がした。俺は行くべき方向を間違えているんじゃないだろうか、この道は他の誰かが歩むべきで、俺がそれを横取りしているだけなのではないだろうか? いや、それは単なる口実だ。俺は彼から逃げ出したくて、心が弱くなっているだけなんだ。
 先に中に入ったラザーを追い、質素な小屋の中に足を踏み入れる。後ろの扉を閉め、ふとこの家の扉には鍵がないことに気が付いた。こんなこと、日本では考えられないことだった。この世界には泥棒の影さえ見えなかったのだろうか。
「何をしている? こっちへ来い」
 俺を呼び掛ける声がある。泥棒がいないだって? いるじゃないか、俺の目の前に、泥棒として生きていた犯罪者がわがままを言っている。彼なんて所詮犯罪者なんだ、俺のように真面目に生きることを諦めた、この世で最も堕落した存在じゃないか。罪人に幸せなんか必要ない。人を蹴落として嘲笑う人間なんて、牢獄で息絶える姿が何より似合っているはずだ。
「う――」
 いや、何を考えている。ラザーは違う、彼は堕落から抜け出そうと努力し、やっとのことで普通の生活を手に入れたんじゃないか。俺は彼のそんな生活を支えてやるべきで、それを願って今まで頑張ってきたはずだった。彼は幸せになるべき人間だ。これまでの不幸を吹き飛ばすほどの幸せを、これから一生かけて味わうべき人間じゃないか。
 心が簡単に揺れ動く。そのたびに頭痛が襲う。目の前の景色が歪んでいた。もうあと少し遅かったなら、俺は光を見失っていただろう。
 ラザーが俺の手を掴んでいた。そこに込められた力は優しくて、倒れそうな俺を引っ張って立ち直らせてくれていた。いつもの部屋に連れ込まれ、ベッドの上に腰を下ろす。二人で並ぶことが不自然に思えた日々はもう返ってこない。
「これ、食うか?」
 鞄の中から小さな袋を取り出し、ラザーはそれを差し出してきた。訝しく思いつつも中身を取り出すと、どうやらバレンタインのチョコレートのようだった。綺麗に装飾された袋から甘い匂いが漂っている。ラザーは鞄の中からもう一つ同じような袋を取り出し、中に入っていたチョコレートを口に放り込んでしまった。
「あの、ラザーが貰ったんなら自分で食べろよ」
「甘いものはあまり好きじゃないんだ。いいから食えよ」
 相手の誘いを断り切れず、小さなチョコレートを口の中に運ぶ。それは手作りだったのか、店で売っているような完璧に近い味ではなかったが、なかなか上手くできているチョコレートだった。これを作った人は心を込めていただろうに、相変わらず隣の青年は他人の気持ちが分からないらしい。でもなんだか今はそれが面白くて、俺は彼に贈られたチョコレートを全て一人で食べてしまった。
「ラザーが甘いもの嫌いだなんて初めて聞いたよ」
「嫌いじゃなくて、好きじゃないってだけだ」
「似たようなもんだろ。じゃ逆に聞くけどさ、ラザーは何が好きなんだ?」
「好き? 好きなもの――」
 俺の質問を聞いた相手は目を閉じて腕を組み、何やら悩み始めたようだった。その行動がどうにも不思議に思えてならない。自分の好物なんか悩まなくても出てくるものなのに、一体何を悩む必要があるのだろう。
「好きなものは、ない……かもしれない」
 やがて漏れたのは耳を疑うような台詞だった。
「お前は何が好きなんだ」
「え、俺? 俺はミカンとかトマトなんかが好きだけど……ラザーだって一つくらいあるだろ」
「そんなもんあったかな……」
 相手は片手を頭に当て、ため息混じりの声を吐き出した。
 まさか本当に好物がないのだろうか。そんな人に会ったのは初めてだし、そもそもそんな人なんているわけがないと思っていた。やはり彼はどこか常識が欠けているように思われる。それがあの組織によってもたらされたものだとしたら、心のどこかで同情してしまいたい気持ちが目を覚ますはずだった。それを抑えるにはどうすればいいのか。
「ラザー、こっち向いて」
 顔を上げたラザーの頬に手を当て、相手に軽くキスをする。顔を離すと相手は驚いているようだった。ロイのように目を大きく開け、俺の顔を不思議そうに眺めている。
「上野さんと比べて、どっちが上手かった?」
「……お前は下手くそだ」
 再びため息を吐き、相手は横顔を俺に見せる。俺もまた前を向いた。
「ラザー、久々の学校はどうだった?」
「悪くはなかったが、疲れたな。でも気分転換にはなる」
「そっか。よかった」
 掃除時間の喧嘩が嘘のように穏やかだった。彼の心が少しでも軽くなったなら、学校に誘ってよかったと思ってもいいのだろう。
 この穏やかさがずっと続けばいいと願った。それでも背後から近寄る不安要素は俺を脅しつける一方で、この小さな平穏さえいつかは壊されてしまうのだと既に諦めてしまっていることも事実だった。その時俺は何を考えているだろう。他人のせいにして責任逃れをして、またあの鞭を握り締めている自分の姿が胸の内に静かに浮かんできていた。

 

 +++++

 

 夜になると質素な夕食を食べた。ラザーが言うには買い物に行くのを忘れていたそうで、今日も昨日に引き続きパンと卵と調味料しかないらしい。そろそろ卵とパンの組み合わせも飽きてきたので、明日は買い物を忘れないようにとラザーはメモ帳に書き込んでいるようだった。
 夕食を食べ終え、台所の片付けも全て終えるといつもの部屋に引っ込んだ。暗くなった部屋の中でランプに火を灯し、明日に備えて宿題を終わらせる。最近は勉強をおろそかにしがちだったので、ラザーが一緒に考えてくれることは非常にありがたかった。数字が得意な彼は難なく数学の問題を解き、俺はすっかり感心してしまった。
「あのさ、ラザー。一つ聞きたいことがあるんだけど」
 寝る前に誘われ、ベッドの中に引きずり込まれた。その誘惑は悪いもののようには思えなくて、俺は相手に服を脱がされ、そのまま身体を触られていた。
「ああ? もう黙れよ」
「いや、その。どうしても聞きたいんだ」
 ラザーは身体を起こし、ベッドの上に座った。服を脱ぎ捨てて上半身だけ裸になり、アニスの十字架が彼の胸の上で静かに煌めく。俺は布団を引き寄せて自身の身体を隠した。
「何を聞きたいって?」
「うん。大したことじゃないんだけどさ、上野さんと付き合うの?」
 相手は俺の顔を見た。あまり聞かれたくなかったのか、少し不満そうな表情をしている。その反応がなんだか不思議に思えた。
「なぜそんなことを聞く」
「なぜってそりゃ、あんなとこ見せられたら誰でも気になるだろ」
「俺はお前らに見せた覚えはないんだが。それに、お前とこんなことをしている奴が、あんな綺麗すぎる子供と釣り合うわけがないだろ」
「……」
 彼の言葉から何かが心に引っかかった。忘れていた大切なことを思い出しそうな、どうしようもなくむずがゆい気持ちになったけれど、結局最後までそれが表に出てくることはなかった。
「聞きたいことはそれだけか?」
 どうしてだかラザーは微笑んでいた。とても優しげに、俺を落ち着かせるかのように。時折見せる彼のその表情がどうしようもなく美しく、同じくらいに今にも壊れそうで、俺は身体を起こして彼の手を握った。温かさが身体じゅうに駆け巡る。
「俺、きっとラザーのこと守るから。どんなことがあったとしても、必ず守り抜いてみせるから」
「どうしたんだ、いきなり」
「だから、安心してて欲しい。もう逃げ出したりしない。ラザーは俺が困ってる時に助けてくれた。今度は俺が、ラザーを助ける番なんだ」
「おい、樹――」
 ぶれていた気持ちが定まっていた。これが今夜限りのものでもいい、一度定まった気持ちは俺を証明してくれるもので、それを得た俺は強くなっていた。彼の手からたくさんのものが感じられた。それは痛みや苦しみが大半だったけれど、その影でひっそりと輝く愛や幸せだって確かに存在しているんだ。彼はおかしな人間じゃない――俺たちと同じ、かけがえのない友達の、不完全で愛おしい一人の人間だったんだ。
 俺は彼を抱き締めた。相手は子供のようにやわらかかった。硬くて刺々しいベールに包まれていた彼が、こんなにも幼く脆いもののように感じられるなんて! 俺は彼の中の秘密を見つけた気がした。そして彼に惹かれていた理由をようやく理解したように思われた。人を愛することを知らない青年が、俺の腕の中で戸惑っていた。
 ふと体重を感じ、彼が俺に身体の支えを求めていることが分かった。少し姿勢を変えると相手は崩れるように前のめりになり、俺はちょっとびっくりして彼を支えた。ラザーは目を閉じていた。俺の胸に顔をうずめ、子供が親に甘えるように身体を押し付けてくる。試しに彼の髪を触ってみたが、相手は反論なんかしなかった。俺は彼に認められているのだと静かに感じた。
「悪かったな、巻き込んでしまって……」
 黙り込んでいた相手がぽつりと漏らしたのは、もう久しく聞いたことのない弱々しい言葉だった。ラザーはうっすらと目を開き、焦点が定まらないまま何かを見ているようだった。
「お前だって、本当は嫌なんだろ? 汚らしい男にこんなことを要求されて」
「俺は……大丈夫だよ」
「それでも、誰にも知られたくないって思ってるんだろ。そう思ってるってことは、嫌だって思ってるってことじゃないか。こんなどうしようもない犯罪者のわがままや癇癪に付き合わせてしまって、ごめん――」
 静かになった闇の中で彼の声がよく響いていた。それは小さすぎて聞き逃してしまいそうな告白だったけれど、俺に身体を預けて零しているこの言葉こそが彼の本音であることは間違いないと思った。
「ごめん、樹。嫌なことばかり押し付けて、本当にごめんな。でも、お前と一緒にいるこの時間が、まるでアニスや真と一緒にいる時間みたいに、すごく心地よく感じられるんだ。もしかしたらそれ以上に安心できるのかもしれない――お前の存在が俺にとって救いになってるんだ。樹、お前は、男でもないし、女でもない。大人でもないし、子供でもない。光でもないし、闇でもない。愛でもないし、無でもない。お前の中にあるんだよ、俺がずっと欲しがってたものが、お前の中で笑ってる。だからお前じゃなきゃ駄目なんだ、お前じゃなきゃ……」
 彼の頭が下に落ち、俺の太ももの上に乗せられた。相手は目を閉じていた。しばらく待っていても何の反応もなく、どうやら眠ってしまったらしい。そっと彼の頭を枕の上に乗せてやり、俺はベッドから出て服を着た。彼の身体には布団を掛けておいた。ランプを片手に持ち、部屋を出ていく。
 台所へ歩いていき、そこでコップに水を入れて立ったまま飲み干した。冷たいものが喉の奥を通過していく。少しだけ目を閉じ、彼の言葉を思い出していた。また何かが心に引っかかっていた。彼の言った幾つかの言葉が俺の記憶を刺激して、何か忘れていることを思い出させようとしているみたいだった。それでも思い出すものが何もなくて、俺はまた諦める虚しさを感じなければならなかった。
 部屋に戻るとラザーはよく眠っていた。少しだけ口を開き、胸を上下に動かして落ち着いている。ランプを近付けると彼の顔がよく見えた。いつも細くなっている目も昔は大きくて、二つに分けられた前髪から覗く額は同年代の人たちより少しだけ広い。彼の顔をこんなに間近で見たのは初めてかもしれない。ほくろの一つだって見当たらない色白の彼の顔は、どこか微妙な点において人間っぽくないように感じられた。
 彼の親だと言っていた研究者は、ラザーは人間ではないと断言していた。意図的に創られた生命であり、俺と同じような支配されるべき存在なのだろう。彼を組織に連れ込んだクトダムはそれだって知っていたのだろうか? 人間ではない彼だったから、罪に包まれて堕落した人間たちに容赦なく捧げることができたのだろうか? 忘れかけていた光景が脳裏にちらついて俺を呼び起こす。彼の精神で見たもの、恐ろしいまでに衰弱した彼に俺が言い放った言葉、その全てが俺の中で生きていた。
 俺は彼に何を言っただろう。どうしてもっと早くに相談してくれなかった? なぜ保健の先生には話したのに、友達である俺に一言も話してくれなかった? 結局俺が気が付くまで話してくれることはなかった、気付かなければこんな関係にはならなかったはずだった? ああ、確かに俺は、ずっとそんなことを聞きたかったのかもしれない。自分がなかなか気付けなかった答えが欲しくて、その理由が相手の中にあれば安心できたからだろう。それを聞く時、俺は苛々しているかな。逆に相手は親しげになり、俺をやきもち焼きだと茶化すかもしれない。彼の素直な言葉が胸を貫いて、俺の感情を助長させる気がしていた。
 ただ俺は、そんな質問は全て意味のないものだと分かっていた。彼が俺に相談できなかった理由だって安易に想像できてしまう。誰だって自分が男に犯されているだなんて言いたくないだろう。昔のことだって、人殺しで泥棒であったということだけでも嫌われる危険を孕んでいるのに、組織で暴力を受けていたことなんて言えるわけがなかったんだろう。それを聞くことは彼の古傷をえぐることに他ならない。思い出したくないことを思い出させる、稀有なサディストの願望なのだろう。……本当は怖い。俺は彼にサディストと呼ばれてから、知らなかった自分の側面に気が付いたような心地になっていた。エダが俺に言った台詞が忘れられない。俺は虐められるべき人間ではなくて、鞭を握り締めるべき支配者だと教えられた。誰も望んでいないのに。俺もラザーも必要としない、空虚な幻想が現実に変わりつつあったんだ。
 ランプの灯を消したなら、辺りが暗闇に包まれた。俺は床の上に寝転び、黒い鞭が見つめる隣で目を閉じた。安定しているようで崩れそうな一日だった。見事に定まっているのは見せかけの決意だけであり、俺の中の兵器が知る精神はたくさんのものに圧迫されて動けなくなっていた。

 

 

 

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