月のない夜に

 

 

 人の心の中に幾つもの部屋が存在して、それぞれの内部で忘れられない出来事が繰り返されて生きているなら、人は死を迎えるその瞬間まで苦しみから解放されることはないのだろう。一つの悩みが終われば別の悩みが押し寄せて、それを乗り越えたと思っても次の苦痛が目の前に迫ってくる。染み一つない幸福を得る為には二つきりの道しかなくて、一方は怠惰を象徴し、もう片方はこの世のものとは思えないほど残酷で、且つ破壊的だ。人々は結末を知っているのにそれを求めようと日々足掻く。足掻いて、心が空洞になり、虚の自分に食われたなら――やがて世界は変わるだろう。
 分からなくてため息ばかりが出る。恐怖があるわけではない、ただ分からないというだけ。見失った道は草に隠されてしまったままだし、光の方向だって見当さえ付かなくなっている。俺は片手に黒い鞭を握りながら、空いている手ではラザーラスの髪を撫でていた。彼が俺の中に何かを見出した。男でもなく、子供でもなく、光でもないし愛でもない何かを。だけど俺は何も見えていなかった。今だって同じ、彼の中に潜むものは苦痛だけだと思い込み、相手の明るい感情の一つだって見つけたことがなかった。彼は俺という存在を求める。俺は彼を見下し、軽蔑する。そのすぐ後に彼を愛する。身体を重ねることによって愛を演じようとする。
「……」
 それは甘えなのか。母を知らない者同士が、本能的に愛を他者の中に見出そうとするエゴイズム。根元が異なる二人の意見が一致したことにより、ぴたりと当てはまる空間がより必要性を主張していた。しかしそれが瞬間的なものであり、花のように散りゆくものだと気付いてしまったら、祈る前に空虚が世界を染め上げる。そうやって永続的な平穏を探し求め、それが時として暴力や絶望を呼び覚ます。輪廻のように回っている。中毒になり、やめられなくなる。
 戻る場所がなかった。戻る方法すら見失ってしまった。深い淵は今でも傍にある。そこに落ち込んだなら、容易には這い上がれないから。
 夜が明けて朝を迎える瞬間を家の中から眺めていた。窓の外には光が溢れ、空を飛び交う鳥が踊る。自然の中に逃げ場を求めれば自由になれると思ったのだろうか。ラザーは早い時間帯に目を覚ました。俺は彼が身体を起こしたことに気が付くと、床に散らばっていた彼の服を放り投げて相手に渡した。
「何か見えるのか?」
 着替え終えた相手は俺の斜め後ろに座り、耳に口を近付けて囁いてきた。相手のやわらかい銀髪が首筋に当たっている。
「鳥が見える」
「ほお、鳥を見ていたのか?」
「鳥ってよく自由の対象にされるよな。鳥のように空を飛んで行けたらって。でも俺が思ったのは、空は自由じゃない。鳥は生きている限り、空から抜け出すことはできないんじゃないか」
「よく分からんことを言うな、お前は。空が自由じゃないって言うなら、いっそ空じゃなく地面に降り立てばいいんじゃないか」
「そんな勇気があると思う? 鳥は臆病だから人間を怖がるんだ。地面では人間が我が物顔で歩いてる。降りてきた鳥を容赦なく銃で撃ち抜く。鳥は空に帰るしかない。そしてまた空に縛られるんだ。人間だって同じ。自由や幸福に憧れて探すけど、生きていること自体が自由ではなく不幸であるから、瞬間的なものに追い出されたら同じ場所に戻ってくる。そこは自由かもしれない、でも責任のある自由だ。それは自由じゃないし、苦痛を伴う自由にすぎない。皆何らかのものに縛られてる。本当の自由は幻想で、手に入れても一瞬で崩れ去るもので、でもその一瞬のことが忘れられなくてまた探そうとしてしまう。俺たちは可哀想な生き物だ。そう、俺たちは……可哀想なんだ」
 頭を下に垂れる。虚しさが込み上げてくる。いつかラスが言っていた人間は可哀想だという考えが、今になって俺の頭を支配し始めていた。彼は俺より先に分かっていたらしかった。だからあんな手紙を俺によこして、その先の結末さえ予測しながら生命を天に差し出したんだ。
 ラザーは俺の肩を抱いた。彼にしては優しい抱き方だった。ゆっくりと背中をさすり、慰めようとしているのだろう。お互いにこんなことばかりを繰り返している。見つけては失って、探しては絶望して、迷い込んだ場所が深ければ深いほど、二人の眼差しは近くなるようだ。信頼のない会話では物足りなくなり、やがて過剰な淋しさが愛情を欲する。幼い二人は見えないものに戸惑いを隠せずに、拙い方法で満たされたいが為に肉体関係で済ませようとする。その後で訪れる反動は単純で面白味もない。ああ、鳥は空に帰るだけだ。
 これほど閉鎖的で失望に追いやられている気分なのに、不思議と涙は出てこなかった。俺の背をさするラザーの手がとても優しい。彼は痛みを知る人で、同時に淋しい人だった。彼の見る世界は狭苦しくて息もできない。俺の見ていた世界は広々としていて、平和を謳う幸福に満たされた表側の空間だった。
「今日も……学校に行く?」
「ああ、行くよ」
 ラザーは素直だった。昨日の生活で安心を得られたのか、あれほど嫌がっていた学校にも心から関心を寄せているようだ。彼の手が肩に乗っていた。俺はその上に自身の手を重ね、その重さを相手に教え込ませる。
 二人で簡単な朝食を済ませ、その後すぐに学校に向かった。昨日と同じで教室には誰も来ていなかった。俺は自分の席に座り、ラザーは俺の机の上に座っていた。誰かが来る前に頭を撫でられ、秘密のような接吻を黙って額で受け取った。
 授業が始まると俺は集中力を取り戻しており、彼が途中からいなくなっていることになかなか気付くことができなかった。休み時間に屋上に行っても誰の姿も見つけられず、昼休みになってパンを買った帰りに保健室に立ち寄ってみた。部屋に入って少し目を横にそらすと、白いベッドの上で堂々と寝転がる銀髪の青年の姿が見えた。俺はすっかり呆れ返り、相手が声を掛けてくるまで何も言えずに立ち尽くしてしまった。
「こんな所で何してるんだよ。朝からずっとここにいたのか」
 ベッドの隣に椅子を置き、彼と向き合って話そうと思った。しかし相手は身体を起こすこともなく、どこかふざけた調子で天井をじっと見上げていた。
「教室にいると視線を感じるんだ。あいつの――あかりの視線を」
「上野さん? それって、昨日のことがあったから?」
 保健の先生は部屋にいなかった。だから落ち着いて話ができるのだろうか。俺は彼女に嫉妬しているらしい。まだ彼の苦痛を知らなかった頃、彼はあの先生に何らかの話をしたようだったから。
「それくらい我慢すればいいじゃないか。別に、傷つけられてるわけでもないんだから」
「あとついでに、授業がつまらん。しばらく休んでたから内容もさっぱりだ」
「だったら余計に勉強しなきゃならないだろ――」
 扉が開いて誰かが部屋に入ってきた。白衣を着た女性が小さな袋を持って入ってきたようだった。前に見た時とは違って眼鏡を掛けておらず、髪は後ろで一つに束ねられている。俺は彼女の顔を見て軽く会釈しておいた。相手は微笑み、こっちに向かって歩いてくる。
「ラザーラス君のことが心配で来てくれたの?」
「え、まあ、そんなとこです」
 ラザーは身体を起こしてベッドの下に足を下ろした。やっと正面から向き合ってくれたのに、俺の隣には保健の先生がいる。彼女が来なければ彼は起き上がらなかっただろう。先生は小さな袋をラザーに向かって差し出した。
「昼食のパン。お昼に何も食べないなんて、許しませんからね。川崎君も、昼食はもう終わったのかしら?」
「……ここで食べてもいいですか?」
「ええ。ごゆっくりどうぞ」
 差し出された袋をラザーラスは受け取った。ちょっと浮かない表情だったが、相手に心配を掛けるのが躊躇われたのだろう。先生は机のある奥の方へと引っ込み、俺はベッドに座るラザーと向き合ってパンをかじった。ラザーもまた学校で売られていたパンを食べていたが、元々あまり食べない彼は半分だけ食べて残りを俺に押し付けてきた。俺は一個と半分のパンを無理矢理胃の中に押し込んだ。
「これ、どうぞ。川崎君にも」
 話をすることもなく黙り込んでいると、保健の先生はカップを二つ持って俺とラザーに手渡してきた。中からは湯気が出てきており、何だか分からないまま口をつけると爽やかなレモンの味がした。それは美味しかった。喉を通って身体に温かさを与え、どこか懐かしさすら感じられる素朴な贈り物だった。ラザーも少し口をつけているようだったが、何か気が付いたような表情ですぐにカップから口を離してしまった。そればかりか下に俯いた彼の手がわずかに震えているようにも見える。
「ラザー、どうかしたのか」
 心が動かされて声を掛けると、ラザーはさっと顔を上げて驚いたような感情を見せた。その拍子に相手はカップを床に落としてしまった。
「……え?」
 何が起こったのか理解できない。相手は急に前かがみになり、両手で頭を抱えた。床に零れたレモネードが靴を濡らしている。俺はびっくりして、目の前で苦しむ人をどこか他人のような瞳で見守っていた。
「どうしたの、大丈夫?」
 ラザーの異変に気付いた先生が駆け寄ってくる。彼の隣に腰を下ろし、声を掛けながら背中をさすっていた。その様子を見て俺は徐々に落ち着きを取り戻したようで、床に落ちていたカップを拾い上げて傍にあった小さな机の上に置いた。
 彼は一体どうしたというのだろう。このレモネードを飲んで思い出したことがあるのだろうか。ラザーがエダに捕まって生活していた頃、一日を保健室で過ごしていた時があった。あの時も同じ物を飲んでいたのだろうか? そしてその記憶がレモネードと共に甦り、急速に彼を締め付けてしまったのだろうか?
 真相は分からないが、俺が彼の為に出来ることを探さなくてはならない。俺はカウンセラーじゃないから相手の心を癒す手段は知らない。俺は親でも恋人でもないから安心を与えてやることもできない。友達が友達の為に出来ることは何だろう? それだっていろいろあるはずだった、元気付けること、悩みを聞くこと、気分転換だって一つの方法で――。
「ラザー、ちょっと屋上まで行ってみないか? 風に当たって気分転換しよう。きっと気持ちいいよ。さ、立って」
 俺の声にラザーは顔を上げたが、彼の顔は血の気が引いたように真っ青だった。病人のように脆弱な彼の手を取り、そのまま立ち上がらせて身体を支えてやる。彼は深い息をしていた。それでも歩くことは困難ではないらしく、部屋の入口までは支えを必要としながらも容易に辿り着くことができていた。
「二人とも、気を付けて」
 先生の心配そうな声が背中を押した。俺はちょっと振り返り、一つだけ頷いた。
 保健室を出てからはゆっくりと歩き、階段は一歩ずつ気を配りながら上っていった。ラザーは歩く時もふらふらとして危なげで、呼吸のリズムこそ一定ではあるが瞳は目の前のものを見ていないようだった。屋上に着くまで何も喋ることはなく、階段を上る時に手を掴もうとすると、その時だけは素早く俺の手を振り払ってきた。彼は手や腕を掴まれることが嫌なのだと察し、俺は隣にくっついて彼の背中を手で押しながら階段を上っていった。
 やっとのことで屋上に辿り着くと、昼休みの終了を告げるチャイムの音が耳の中に飛び込んできた。授業が始まり、校内のざわめきが徐々にしおれて枯れていく。俺はラザーと共に手すりの方まで歩いていった。そこに立つと顔面に冷たい冬の風が吹き付け、だけど遥か彼方まで見渡せる清々しい解放感があった。
「ふう。やっぱり屋上は気持ちいいなぁ。世界がすごく小さく見えるよ」
 空は限りを知らないし、見下ろす街は米粒のように微少だ。だけどそのどれもに目に見える大きさがあり、たくさんのものに影響を与えながらこの瞬間に存在している。世界はばらばらのようで既に一つになっているみたいだ。この散在する点の一つとして、俺たちは悩みを抱え幸せを願いながら毎日を懸命に生きている。
「……来る」
 隣から何かが聞こえた。それは声のようだった。俺の横ではラザーが世界を見つめている。遠くまで見渡せるガラス玉のような瞳で、壊れることを知らない青を憎んでいるかのように。
「来るんだ。今夜もあいつが来る」
「ラザー、何を言って……」
「あいつが来るのは嫌だ。また脅される。レイプされる。でも逃げちゃいけない。守らなきゃならない」
 彼の銀髪がさらさらと風になびいていた。いつの間にこんなに短くなったのか。つい最近までは腰のあたりまで伸びていて、男なのによく手入れをする変わった奴だと思って見ていた。その美しい銀髪が床の上に散らばっていた。ベッドの下に、血の滲んだナイフと共に、持ち主の元から離れて死んでいた。殺されたものは地面の下に埋められなければならなかったのか。
「皆を危険にさらしたくない。皆の純潔を奪いたくない。俺が我慢してれば上手くいく。誰にも知られなかったら丸く収まる。助けを求めてはならない。アニスの気持ちが分かった。暴力は愛と同じだ。銃弾はキスの代わりだ。綺麗な人たちを守っていたい――もう愛はいらない、セックスもしたくない」
 ラザーは幾度も殺されていた。昔はケキによって、今はエダによって。この屋上で何度死に追いやられたのだろう。俺が静かに眠っている時、犠牲者はものも言わずに棺に入った。
「来る。今夜も来る。あいつが俺を待っている。反論できない言霊を用意して、銀の手錠を隠し持って、俺を縛る時を楽しみに待っている。あ、手が赤い。どうしてだろう、誰も殺していないのに」
 彼の手は赤くなかった。でもラザーは手を見つめていた。自分の手のひらを不思議そうに眺め、ぶつぶつと止まらぬ言葉を吐き出し続けている。
「殺したのは俺か。俺が殺したんだ。ナイフを握ったのはあいつで、血を流したのは俺だ。これは自分の血か。あいつは俺を殺さなかった。自分で殺したんだろ、好きなようにしてくださいって、惨めに頭を擦りつけて懇願したのは自分だったじゃないか。え、可笑しな話だ。死ねたら幾らか楽になるのになぁ」
 胸が締め付けられる。俺は相手の手を握った。それに対する反応を彼は少しも示さない。ちょっと力を込めて握ってみても、彼は俺の手など見ていないようだった。ただ顔は笑っていた。口だけで笑っていた。その瞳の破片はガラスよりもよく切れる。彼は俺にもたれかかってきた。
 相手の体重が感じられる。開かれた目は何も見ていない。死人のようにただ開いているだけ。口も閉ざされたまま、音の一つだって作ろうとしなかった。後ろから彼の身体を抱き、引きずるように座り込んだ。彼の存在は大きくて、街の景色が半分になる。彼と一緒に地面に倒れた。視界の先には太陽の支配する空が悠々と広がっていた。
 ラザーラスは俺の方に顔を向け、その手で俺の服を掴んだ。胸の辺りを掴まれて弱い力で引き寄せられる。彼は服に顔を擦りつけ、そのまま目を閉じて動かなくなった。殺された身体を哀れむように、古い自分を捨て去るように。
 チャイムが鳴るまで黙っていた。夢の中に置き去りにされたようだ。人々のざわめきが甦った頃に、彼はまた目を開けて俺の顔を眩しそうに見上げた。
「起きた?」
「……誰」
「樹だよ。ラザーの友達の、川崎樹」
 何度かまばたきをした後で、彼は一つ返事をした。
 俺は彼と自分の身体を起こした。ラザーは乱れた髪を手で整え、深く大きな息を吐いた。どうやら彼は目が覚めたらしい。閉じられた記憶への強引な逆流は、ようやくあるべき場所へと戻されたようだった。
「ごめん。また迷惑かけちまったな」
「このくらい平気だよ。保健室に帰ろう」
「ん……ちょっと待てよ。聞いてくれないか、話したいことがあるから」
 子供のように純粋な声だった。俺はそれを撫でるように包み込む返事をする。
「思い出してたんだ、エダのことを。あいつ、毎日ここで俺を襲ったんだ。抵抗しようにも身体がちゃんと動いてくれなくて、頭が変になるかと思ったけど、お前たちのことを考えたらずっと正常でいられたんだ。俺はお前たちを守りたかったんだ。お前たちは何も知らないし、すごく幸せそうに暮らしてるから、それを俺が邪魔しちゃいけないって思ってさ。でも、結局それが重荷になっていた。俺はお前たちのことを知らなかったら、友達でも何でもないただの他人だったなら、あいつの手から逃げられたんだろうかって考えた。いっそお前たちとの繋がりを断ち切ってしまえばいいんじゃないかって。だけどそんなことはできなくてさ――お前たちを失いたくなかったから、俺は自分が犠牲になり続ける道を選んだんだ。苦痛も恥辱も全部受け止めようって思った。今、それらを思い出して、分からないことが出てきた。俺は何の為にお前たちを失いたくなかったんだろう? エダはなぜ俺を襲ったんだろう? そして、もっと昔の話になるけれど、俺を組織で打ち続けていたケキも、なんで俺やアニスを苦しめていたんだろう?」
 俺はその答えを知っていた。人々の目に映るたくさんの感情のうち、最も遠くて見失いそうな全てに根差しているものこそが、彼の問いに対する共通の答えだった。でも彼にそれを言っても理解できるだろうか? どことなく俺は、それを知らないんじゃないかと気付き始めていたのだろう。
 だから俺は言葉を隠す。
「それは、きっと淋しいからだよ」
「淋しいから? 淋しいから、他人を苦しめるのか?」
「そうだよ。誰も自分を見てくれないから、無理に目を向けさせようって暴力をふるうんだ。そしたら嫌でも相手のことが気になるだろ? でもそれはその場限りのものだったり、時が過ぎれば忘れられる即席の興味なんだ。そんなものでは淋しさは満たされなくて、だから毎日続けて習慣にしてしまう。そうやって作られた日常に慣れ始めたら、無理に引きずらなくても自ずと向こうから求めてくるようになるからね」
 ラザーはさっと顔を赤く染めた。口元を手で隠し、自分の靴を気まずそうに見つめている。思い当たる節でもあったのだろう。それは俺が干渉すべきものではなかった。
「ラザー、分かった? 分かったら保健室に帰ろう。先生もきっと心配してるよ」
「帰る前に、樹――」
 相手は身体をこちらに向け、両手を肩の上に乗せてくる。その後に続く言葉は容易に想像することができた。こんな昼間から、彼は自分勝手に行動する。そしてそんな彼のわがままに俺は逆らう気持ちになれない。
「なあ、キスしていいか」
「ラザーは何の為にキスするんだ?」
「お前を愛してるんだよ」
「俺は恋人じゃないのに? 俺は愛じゃないのに?」
 彼の唇が息を奪う。身体を強く抱き締められ、俺は彼の所有物として大人しくしているしかない。
「俺はラザーの親じゃないよ」
「そんなことは分かっている」
「分かってないよ。ラザーは何も分かってない。ラザーは俺を愛する必要はない。俺も、あんたを愛する義務を持たない」
 もう一度キスされる。さっきより長く、別の方向から。彼の舌が俺の内部まで忍び込んでくる。押し付けられた胸板はたくましく、そのまま押し潰されてしまいそうだった。
「樹、なぜそんな意地悪を言う。俺が誰を愛したって、そんなの俺の勝手じゃないか」
「違うよ、ラザーの言う愛は愛じゃない。いや、それが愛だとしても、ラザーはそこに区切りをつけている。切り取られたページの隅の、小さく粉々になった砂状の一粒、それこそがあんたの言いふらしてる愛なんだ。愛はもっと大きな姿をしてるのに、あんたはそれを知らずに育ったから、俺の言っていることが理解できない。そうだな、こう言ったらあんたは怒るかな――あんたの嫌う同情だって愛の一種なんだから」
 ラザーは黙っていた。俺から身体を離し、制服の上着を脱がしてくる。慣れた手つきで服のボタンを外し、空の下に俺の素肌を恥ずかしげもなくさらしてしまった。
「やめろよ、まだ昼だ」
「誰も見ていないさ」
「そうやって押し付けようとする愛こそが、あんたの中で唯一育った愛の形なんだ。分かる?」
「……つまり、セックスってことか? でも、それの何がいけない? お前だって好きな女ができたら、セックスで愛を示そうとするだろ」
「だから、悪いなんて言ってない――」
 彼の舌が首筋を這う。手首を掴む彼の手が徐々に力を増していく。片方の手は俺の乳首に触れ、静かな刺激を穏やかに送られた。やがてその手は肌から離れ、俺のベルトをゆっくりと外す。
「ストップ。それ以上は駄目だ」
 相手の手をがっちりと掴んだ。ラザーはちょっと面食らったような顔をした。外されたベルトを元に戻し、隣に捨てられていた制服をきちんと着る。相手は俺の行動を呆気にとられたように見ていた。何をそんなに驚いているのか俺にはさっぱり理解できない。
「ほら、もう帰るぞ」
 立ち上がって相手に手を差し伸べる。ラザーは素直に俺の手を取った。彼を連れて階段を下りていき、長い廊下を黙々と歩く。保健室に着くとその扉が巨大な石の壁のように見えた。
 扉を開けてもラザーは中に入るのを渋っていた。仕方がないので腕を引っ張り、強引に中へと誘導する。彼は俺を睨んでいた。どうにも屋上で止められたことが気に食わないらしかった。
「お帰りなさい、二人とも。ラザーラス君、もう大丈夫?」
 出迎えてくれた保健の先生が優しげにラザーに声を掛ける。しかしラザーはふいと顔を背け、靴も脱がずにベッドの上に寝転がった。彼の連れとして俺は寝転がる青年の靴を脱がした。機嫌の悪くなったラザーラスの世話は、ちょっと奇妙で愉快なものだと今更になってから感じられた。
「彼、どうかしたの? なんだか怒っているようだけど」
「わがままを押し通そうとしてたのを、俺が止めたんです。いつものことだから気にしないでください」
 ラザーに聞こえないよう部屋の奥でこそこそと会話する。ずいぶんと抽象的な表現になってしまったが、とてもじゃないが彼に性交渉を迫られたなんてことは言えなかった。もし先生がそれを知ったらどんな顔をするだろう。俺たちを白い目で見るだろうか、それとも哀れんで涙を流すだろうか?
「……あの、ちょっと前のことなんですけど、ラザーが保健室に来た時に、彼は先生に何か話してたんですか」
「ええ――ほんの少しだけどね、彼が苦しんでることはすごく伝わってきたわ。具体的にどんな問題があるのかは教えてくれなかったけど」
「俺は……俺が、聞きました」
 乾燥した空気が俺の頭を起こしてくれた。保健の先生ははっとした表情で顔を上げ、何かを知りたがっている瞳でこちらを見てくる。
「俺、彼の悩みの原因を知ってます。だから彼が心配で、いつもいつも気になってしまうんです」
「そ、そう……あなたは友達想いなのね」
「友達じゃない」
 彼女の瞳が揺れていた。いや、俺の身体が揺れているのかもしれない。或いはこの部屋が揺れているのか、世界全体が揺れ続けていて今になって止まったのかもしれなかった。
「ラザーは友達じゃない」
「どうして? だって彼のことが心配なんでしょう?」
「心配したら友達じゃなきゃならないのか。世話をしたら友達にならなきゃならないのか? 俺は彼と一緒に住んでるんだ、それってもう恋人みたいなものじゃないか!」
 頭がくらくらする。自分が何を言っているのか分からない。まばたきをすると目の前にラザーがいた。見慣れた彼の整った顔が怒っていた。彼は俺の腕を掴む。そうやって俺を縛りつけ、自由を奪った相手はぐっと顔を近付けてきた。
「さっきは否定した奴が、よく言うな」
「黙れよ、マゾヒストのくせに」
 世界が回る。ラザーは俺の頬を殴った。それは痛くはなかった。床に座り込んだ俺を相手は凶暴な目つきで見下ろしてくる。彼の怒っている顔が俺を強情にしてくれた。そのまま怒りで満たされてしまえばいいと思った。
「もう一回言ってみろ」
「あんたはただのマゾヒストじゃないか。一週間も犯され続けて、結局は相手に自分から近付いて。昔だって、アニスの父親に打たれていたんだろ? 逃げることもなく、自分を犠牲にして、それで皆を守ってるっていう快楽を得ていたんだ! 楽しかっただろ、自分から身体を捧げて、一人だけで皆を守ることができてるって、そんな恍惚を感じていたんだろ! 誰もあんたの助けなんて必要としてない、誰もあんたに助けられたいなんて思ってない! 俺たちは、自分の身は自分で守るんだ――あんたはいい気になってたな、自意識過剰の木偶の坊が!」
 ばらばらになる。意識が離れ、光が薄れ、四角くくり抜かれた心だけが辛うじて残っている。砂よりも小さく砕かれる。空よりも高く突き抜けていく。崖の下に海はなく、待ち構えるのは深淵だけ。
「な、何を……言っているんだ、樹」
 震える歌が世界に響く。誰もその声を聞こうとしない。救うだって? 俺が、こいつを? 自分から求めたくせに。俺に隠し続けていたくせに!
「うるさいんだよ」
「――え」
「うるさいんだよ! 俺の周りでぎゃあぎゃあと……喚きたいならよそでやれ! 俺を巻き込んでそんなに楽しいか! いかれてる、あんた頭いかれてんだ、虐められるしか価値のない、人殺しの能無しが!」
 何かが落ちた。俺の手元に落ちてきた。悲鳴が部屋じゅうを支配する。目で見えるものが一つとして理解できない。
 ただ唯一分かったことは、綺麗な銀髪が胸の辺りに覆い被さっているということだけ。……

 

 

 俺の中に二つの鏡がある。一方は微笑み、一方は怒りを表している。
 それは彼に対する感情だった。彼を助けたいと願う気持ち、彼の苦痛を受け止めて、優しく浄化するように和らげてやろうとする正の感情と、その裏側で彼を酷く憎む負の感情が鏡の中に映し出されていた。彼のせいで巻き込まれた、彼の事情を知った為に苦痛を味わい、大切な人が傷つかねばならなくなったという憤りが、彼を恨んで憎む心へと変わっていた。正と負とが天秤に乗せられ、表と裏とをぐるぐる回る。右手で愛を抱えながら、左手で憎悪を隠し持つ。鏡は割れない。俺が考えることをやめない限り、興味を失わない限り、愛も憎悪も生き続ける。
 俺はラザーを愛している。友達として愛している。親でも兄弟でもないけれど、恋人になることもできないし、家族になったわけでもないが、一人の友人として彼をずっと愛していた。彼を助けたいと思っている。彼の痛みから、悲しみから、不運な過去から救ってやりたいと願っている。その為に出来ることなら何だってするだろう。光の元まで案内し、彼の微笑みを見届けるのだろう。
 でも、俺はラザーを憎んでいる。些細なことで機嫌を悪くし、思い通りにならなければすぐに怒る彼と、いつもつまらないことで喧嘩をする。他人の気持ちを理解できず、迷惑を掛けても謝らず、頑固で乱暴な彼のことを初めて会った時からずっと憎んでいた。過去の犯罪に対する意識も薄く、罪悪感さえ覚えない彼は、同じ空気を吸いたくないと思う相手だった。そして巻き込まれた。彼の問題に、俺とは全く関係ない問題に、友達だからという理由だけで彼は俺を引きずり込んだ。屋上で話をしていた時、本当は彼を突き落としたかったのかもしれない。同じベッドで寝ている時、首を絞めたかったのかもしれない。目と目が合って話している時、胸にナイフを突き刺したかったのかもしれない。俺は彼を憎んでいる。憎みながら、俺は彼を心の底から愛している。
 愛と憎しみは同じだった。表と裏、正と負、様々な言葉により分類された感情のほとんどは、正反対のようで実は等しい。それゆえ迷宮に入りやすく、出口がないものだから抜け出すことができなくなる。
 彼を憎むほどに優しくなれる。彼を愛するほどに許せなくなる。彼は俺を殴り飛ばす。そして弱々しい声でごめんと言う。彼を傷つけるのは愛しているから? 彼を抱き締めるのは憎んでいるから? ああ、それって、あの組織の連中と同じじゃないか。エダはラザーに戻って欲しかったから彼を犯し続けていた。その行為の裏側にあったのは、彼の兄に対する想いだったのかもしれない。ただ愛と憎しみがあるから俺は普通でいられたんだ。もしも二つのバランスが崩れたら、俺は真っ白で空っぽの存在しない者になってしまうのだろう。
 俺はもう彼に近付かない方がいいのかもしれない。彼と共に暮らしていたら、お互いに傷つけ合うことばかりだ。それじゃ痛みを共有したって意味がない。救えないなら一時の快楽なんか何の価値もないじゃないか。
 そうだ、目を覚ましたら彼に別れを告げよう。まるで愛し合った恋人のように、別れることを惜しみながらも、違ってきた価値観を感じて一歩ずつ離れていき、背中を向けながら痛みから逃れることができるように。

 

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 目覚めた場所は自分の部屋だった。見慣れたはずの懐かしい天井も、今では夕焼けに照らされている。重い身体を起こすとベッドの傍に椅子があった。そこには誰も座っておらず、だけど誰かの気配がまだ残っていた。
 しばらく何もせず待っていると、扉が開いてリヴァセールが入ってきた。彼は俺の顔を見ても特に驚いた様子はなく、またほっとしたようでもなくて、さして問題じゃないと言わんばかりの表情で落ち着いてこちらまで歩いてきた。
「おはよう。知ってるかもしれないけど、君は保健室で倒れたんだ。ラザーと一緒に」
 顔を変えないまま相手は喋る。彼は視線を動かさずに椅子に腰かけた。
「ラザーはどこに?」
「師匠さんの家まで送ったよ。ずいぶん顔色悪かったし、まだ目覚めてないんじゃない」
「ああ、俺、酷いこと言ったからな」
 彼の精神に潜り込んだ時とは違って、俺は自分が何を言ったのかをはっきりと覚えていた。俺は二度も同じことを言ったんだ。彼を傷つける鋭い刃を、弱点を突き止めて切れ味を試すかのように。
「酷いことって、彼の問題は解決したんじゃなかったの? それに酷いことだって分かってることを言うなんて、君らしくないじゃないか」
「俺らしくない?」
 本当にそうだろうか。俺はいつもお人好しだなんて言われていたけれど、ずっと昔から他人を苛める言葉を知っていたんじゃないだろうか。それを容赦なく放つのは自分だ。誰も俺から言葉を奪うことはできない。
「ラザーの問題は、解決したよ。俺が協力できることは全て終わらせた。あとはあいつがやらなきゃならない。俺の力じゃどうしようもないことばかりだ。……なあ、俺はラザーから離れようと思うんだ。近くにいたら苛々して、つい酷い言葉を叫んでしまう。もちろんラザーのことは友達だと思ってるし、彼を救いたいとも思ってる。でもなんだか、最近は――ちょっとしたことで腹が立ったり、苛立ったり、憎しみが拡大してすぐに破裂してしまうんだ。それを止める暇さえない。あいつは俺を殴るけど、俺はあいつを鞭で打つんだ。気絶するまで。満たされるまで。俺は……どうかしちゃったんだ」
 気持ちが不安定で気色が悪い。常時吐き気が襲っているみたいだ。続いている頭痛なら既に慣れていて、それがあることが当たり前のようになっている。心の内を負の感情が徘徊している。湧き出るはずの光が、殺される。
「君は……疲れてるんだよ」
「前も言ってたな、それ」
「最初は君が言ったんじゃないか。ぼくは君を助けてあげたいけど、君たちの事情を知らないからどうすることもできない。でもぼくはもうそれを聞くのはやめようと思うんだ。無理に告白させたって、君にストレスを掛けるだけだと思ったからね。だから、君が言いたくなったら聞くことにするよ。もしかしたらそんな日は一生訪れないのかもしれないけど」
 彼は優しい。俺の中の優しさが彼に移ったかのようだ。優しい人に嫌われるのは避けたい。お互い傷つかないようにする為には、俺が彼に汚いものを隠していればいいだけだった。
「なあ、リヴァ。俺はサディストだって言ったら驚く?」
 試しに一端を開いてみたが、相手は不思議そうな目でこちらを見てきた。どうやら何を言っているのかよく分かっていないらしい。
「じゃあラザーがマゾヒストって言ったら納得する?」
「いや、そういうもので区別するなら、逆なんじゃない」
「ん……そう見える?」
 俺じゃない人の意見を聞くのは面白い。同じ声を聞き続けるのはもう飽きた。そっと相手の手を握る。そのやわらかさを感じたなら、腕を掴み、身体を引っ張る。相手の胸が肩に当たった。逃げないうちに背中に手を回し、しっかりと固定する。
「な、何すんのさ! 離せよ!」
 リヴァは顔を真っ赤に染め、俺から離れようと暴れ出す。その反応は典型的だ。俺はもっといろいろ知りたいと思っていた。
「お前さ、恋とかしてんの」
「君には関係ないだろ!」
「へえ、してるんだ。意外だな、上官以外に好きな奴がいるなんて。じゃキスもしたことあるのか」
「ばっ、馬鹿にして――そのくらい――」
「ああ、そう」
 彼はキスをしたことがないらしい。俺だってつい最近までしたことなんかなかった。ラザーが強引に押し付けてくるから、なんだかもう大昔からの癖になってしまったようだ。
「相手、誰?」
 さして興味はない。ただ彼の反応を見たかった。
「なんでそんなこと教えなくちゃならないんだ」
「言うまで離さない」
「卑怯者!」
 憎んでる。彼は俺を憎んでいる。負の感情が目の中に見える。ああ、それは本当に愛なのか?
「言えよ」
「キ、キスはしてない――そんなこと、恐れ多くて、ぼくにはできないから」
「相手の名前を言え」
「ああもう、うるさいな! アレートだよ、これで満足だろ!」
 ぽんと飛び出してきたのは知り合いの名前だった。これは全く想像していなかった。思わず手の力を緩めてしまい、その隙に相手は俺から離れる。
「なんだよ、なんでそんな目でぼくを見るんだ」
 そんな目とはどんな目なのか。俺は何を見ているのか。淋しくなった腕の中を風が通り抜けるが、俺はその声に耳を傾けることができない。
「お前が誰を好きになろうと勝手だけどさ――なんでよりによってアレートなんだ? 相手は一国の主だろ……いずれ捨てられるんじゃないか」
「そんなこと分からないじゃないか! それに、アレートにはちゃんと伝えたんだ、ぼくが彼女を好きだってこと! そりゃ、まだ――両想いってことにはなってないけど」
「伝えたんだ? へえ」
 どんなふうに伝えたのだろう。言葉だろうか、行為だろうか。単なる目配せだったかもしれない。ああ、声に出さずとも気持ちを伝えられれば、何も悩まずとも自分の気持ちが理解できたなら。
「愛して欲しいと思ってる?」
「同情の愛ならいらないよ。仕方のない愛だって受け取りたくない。ぼくは心の底からの愛じゃなきゃ納得できないんだ。だから今は待つんだよ」
 ラザーと同じことを言ってる。男は皆わがままだ。
「キスぐらいすればいいのに」
「駄目だよ、押し付けたりしちゃ。そんな乱暴、彼女を困らせるだけだ。分からないの、彼女は優しいから、そういうことをしたらきっと仕方なしにぼくを愛するようになる。ぼくが悲しまなくて済むようにって。それでいて、彼女は正直な人だから、ある時ふとぼくを殴るよ。手加減もせず、ありったけの力を込めて。そうなったらもうおしまいさ」
「臆病だな」
 人間は傲慢なことばかりを繰り返している。どんな行為が誰の為になるのか、それさえ間違って信じ込む癖がある。相手の本心など見えないのに心配する。犠牲になることで自身を聖人のように扱う。自惚れは危険だ。過ちに気付いた時、何より傷つくのは自分だって気付いていない。
「ぼくのことはいいんだよ、それより君こそどうなのさ」
「俺は恋なんかしてないよ」
「違うよ、そうじゃなくて、ラザーのことだよ。また喧嘩したんでしょ、離れるなんて言ってたけど、仲直りしないの?」
 何をすれば仲直りになるのか。相手は俺を心配そうに見つめている。嫌がることをしてしまったのに、俺に対して愛を向けている。
「仲直りって何、俺に謝れって言いたいのか? 彼に言った言葉を思い出させて? 作られたばかりの傷口を開かせて?」
「ええ、なんでそういうことになるんだよ――悪かったって思ってるなら謝らなきゃならないでしょ。君、もっとしっかりしなよ」
「悪かった? 俺は悪かったって思ってるのかな? そんなことより、そろそろ行くよ。ラザーに会わなきゃ。家まで運んでくれてありがとな、リヴァ」
「ちょっと――」
 床に足をつけて立ち上がる。世界が壊れてしまいそうだ。
「送るよ」
 よろけて転びそうになった俺をリヴァは支えてくれていた。腕を掴み、背中に手を回している。優しい人だった、彼はとても優しい。その優しさを見つけたのは誰だった? その人の好さを導き出したのは、どうしてだろう、俺だった。
 淡い光に包まれながら、俺は何か悲愴めいたものを感じていた。二つの鏡が互いを指差す。どちらが真実であるかを激しく言い争っている。俺の意志は真ん中で佇む。何も見ず、聞こうとせず、白い瞳で『それ』を見つめる。手を伸ばしても触れられそうにない。待っていても動きそうにない。だから俺は諦めて、また夢と現実とを行き来するのだろう。
 水面に揺れるのは愛憎ばかりだ。震える悲劇は、やがて幕を閉じる。

 

 

 

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