月のない夜に

 

 

 リヴァに連れられてカイの家を訪れた時、ラザーは身体を起こしてベッドの上に座っていた。その瞳が俺を捉えた時に少しだけ怯えの色が確認されたが、何事もなかったかのように平気そうな顔をしていた。ラザーの部屋には喧嘩をしたはずのカイがいて、相手と充分に話し合う前に俺はカイに部屋から連れ出されてしまった。リヴァはラザーの顔を見てからすぐに俺の家へと引き返していった。
 台所に行って椅子に座り、差し出された温かいコーヒーを口の中に流し込む。相手は神妙そうな顔つきで俺の前の席に座り、ちょっと前かがみになって腕を組み、大声を抑えたような声色で細々と話を始めた。
「川君、俺はラザーに嫌われたのかもしれない」
「喧嘩したから? 謝れば許してくれるだろ、あいつだって」
「そうかな――だって、さっきから全然口をきいてくれないんだ。何度も話しかけてるのに無視されて」
 俺の前にいる大人はどうやら凹んでいるらしい。喧嘩なんて日常茶飯事だっただろうに、何を今更嘆いているのだろう。むしろ嫌われたのは俺の方かもしれない。はずみでもあんなことを言うんじゃなかったって、時間が経つほどに後悔が押し寄せてきていた。
「じゃあ、喧嘩の原因って何だったんだ? またラザーが勝手に怒っただけのことだったんじゃないのか」
「それは――確かに怒ってたのはラザーの方だったけど、でも俺もちょっと苛々しちゃって」
「なんで」
 カップに口をつけてコーヒーを飲む。その熱さが全身で感じられる。
「焦ってたんだと思う。どうにかしてあいつの口から事情を話して欲しくてさ。……あいつが家に帰ってこなくなるちょっと前に、例の組織の連中が家に押しかけてきたことがあったんだ。ラザーは連中と密会してるようで、彼らはラザーを仕事に誘っていた。たぶんラザーを組織に連れ戻したかったんだろうと思う。でも俺は、そのことであいつを責めたりしたくなかった。分かるだろ、俺はいつもあいつを叱るから、そのせいで喧嘩になってしまうんだ。俺だってあいつを怒らせたくはないんだよ。だからあいつの方から話してくれるのを待ってたんだ。待ってたんだけど、あいつは学校から帰ってこなくなってしまった。やっとのことで帰ってきたら、気を失って倒れている。目覚めた彼に話して欲しかったんだ、何について悩んでいるのか、どんな問題が発生したのかってことを。推測ならできていたけど、それを正直にぶつけたら、あいつは俺を警戒して話してくれなくなるんじゃないかと思った。だからあえて何も知らないように振る舞って、彼の心を受け止めてやろうって考えてた。それが、どうして――結局いつものように喧嘩になってしまって。今でもラザーが腹を立てた原因が分からない。俺はどうしたらいいか、すっかり道を見失ってしまったんだよ」
 話を聞きながら俺は立ち上がっていた。立ち上がって自身の悩みを打ち明ける大人の姿を見下ろしていた。何かよくない感情が胸の内でくすぶっている。爆発しそうで破裂しない、理性が感情を抑えつけている。
「組織の連中が家に来ていたって、いつの話――」
「え、ずいぶん前のことだよ……ほら、君たちが泊まりに来たことがあっただろ。あの日の夜と、その翌日」
 覚えている。平和だったあの頃だ。俺たちが何も知らずに眠っている間に、彼は一人で奴らと会っていたんだ。
「じゃ、ラザーはそいつらと何を話してたんだ」
「いろいろ話してたみたいだけど、仕事に誘おうとしてたよ。でもラザーは断ってて」
 断ったのに、奴らに喰われた。遠ざかったはずなのに、戻ってきて捕まえられた。それを彼は知っていた? 知っていたのに黙って見過ごしたのだろうか?
「あんたさ、ラザーが学校から帰ってこなくて、不思議だと思わなかったのか?」
「それは思ったよ。学校で連中と会う約束もしていたし、きっと何か良くないことが起こったんじゃないかと思った」
「だったらなんで様子を見に行かなかった?」
「それは――だって、あいつにもいろいろ事情があるだろ。俺の独断で行動したら、あいつを困らせてしまう可能性だってあったから、だから」
 あの時最も必要だったのは、あんたの助けじゃなかったのか。
 心の中で言葉が飛び交う。それを表に出すのはやめておこう。今更彼を責めたって仕方がない、もう起こってしまったことは変えられないのだから。
 なんだかため息が出てきた。椅子に座る気にもなれない。幾度か首を横に振り、相手の不安そうな眼差しを眺めた。
「あんた、ラザーの親代わりだろ。親が子供を守らなくて誰が子供を守るんだ」
「でもそれは――」
「言い訳なんか聞きたくない。……遅いんだよ、戸惑ってる時間なんて残されていない。嫌われるのが怖いなら、最初から関わらなければよかったんじゃないか。俺はぶつかるよ。本音をぶちまける。その方がいい。あんたみたいに自分を守って逃げながら彼を守るなんて、そんな器用なことはできないからな」
 彼をその場に残し、俺は廊下へと足を向けた。後ろから声を掛けられた気がしたが、そんなものはもう誰にも聞こえない声になっていた。廊下を歩いて狭い家を支配していく。一つの扉の前で足を止め、その向こう側にある世界を想う。
 ノックをする。返事はない。鍵の掛かっていない扉を開けた。死人のように静かになっている青年は、身体を起こしてベッドの上に腰かけていた。先程まで見せていた姿勢と少しも変わっていなかった。足は布団の中に入れられたままで、少しだけ髪が乱れていた。
 彼の瞳が俺の顔を捉えている。
「もう起きても平気?」
 相手は頷いた。ごく自然な返事だった。俺はベッドの傍にあった椅子に腰を下ろす。彼との距離が近くなり、でも遠い場所から見ているようだ。
「とりあえず、さっきはごめん――酷いこと言っちゃったな。でも、あれは嘘じゃなかったんだ。俺は本当にああいったことを考えていたんだから」
 彼は黙っている。その視線も黙っていた。お喋りになっているのは俺だけかもしれない。親が子供を見捨てたなら、誰かが拾い上げてやらねばならなかった。
「なあ、ラザー。俺はあんたのことが好きだよ。あんたの苦しみを知っているし、いつかは救ってやりたいって思ってる。そうだな、俺はあんたを愛してるんだ。でも、知ってる? 愛は暴力にも成り得るし、憎しみにだって変容する。以前、俺はあんたを鞭で打ったよな。あれだって愛の一種だったんだ。愛しているから、分かって欲しいから、伝えたいから、憎らしくて鞭で打つんだ。嫌いな奴を打っても苦しみは伴わないし、どうでもいい奴に対しては打つこと自体が面倒臭い。ああ、でも、反省はしてるよ。やっぱり自分の意見が伝わらなくたって、あんなふうに暴力で解決するのは良くないことだからな。でも、だからと言って、愛が謙虚でなければならない理由はない。愛は積極的であり消極的であり、暴力的で献身的なんだ。いろんな姿に形を変える――常識なんて通用しない。自由に、規範外の、想像もできないような悲愴を生み出すこともある。それでいて単純なんだ。……ラザー、あんたもいろんな愛を知ってる。あんたはアニスを大切にしていた。彼女の魂の解放を願い、最後の頼みを自ら引き受けた。あんたはカイと一緒に暮らし、犯罪から遠ざかった日々を送っていた。小さな喧嘩を繰り返しながらも、互いに寄り添って生活を共にした。学校では俺や薫、リヴァや上野さんと同じ時間を共有した。少し前まではアレートやロスリュやジェラー、他にもラスやスーリなんかといろんなことを話し合った。もっと前には、真とも。最近になってエダが来た。屋上であいつに脅され、あんたはあいつを恐れていたな。エダの兄の小屋に逃げ込んでからも、ヨウトと他愛ない話で盛り上がっていた。あんたは昔のことを思い出したんだろう? 俺が持っている鞭を見て、ケキに打たれていたことを思い出した。他にも、組織で経験した様々な悲劇、組織の外でも呼び起こされた悲劇、ヤウラに見守られながらもひっそりと進行していた精神の崩壊。愛の姿を見失い、罪人たちの貢ぎ物になり、心も身体も貪られてボロボロになっていくばかりだった。それでも世界は壊されなかった――どうしてか? 簡単だ、なぜならあんたは、愛することを知っていたからだ。アニスに向けられた慈愛の感情だけを言ってるんじゃない。クトダムに対する恩返しに似た忠誠心に限られたことでもない。ケキに対して抱いた、エダに対して抱いた、ヨウトに対して抱いていた、様々な感情の全てが愛情に起因するものだったんだ。愛って、違うんだよ、俺たちが考えているような、限定された狭い箱なんかじゃない。相手を大切に思う心だけが愛というわけじゃない。身を投げ出しても守りたいと思う心だけが愛というものじゃない。興味を持って、惹かれたり、憎んだり、キスしたり、殴ったり――正の側面と負の側面を持っているのが愛なんだ。単純なんだよ、愛って。だって人間らしく生きることこそが、愛することと等しいんだから」
 いつかクトダムを訪ねた時、彼はラザーのことを組織内で唯一生きていた人間と言っていた。人間らしく、周囲の人々に好意と嫌悪を抱き、感情を稼働させながら日々を消化し続けていた。エダやヨウトにも欲望があった。二人はラザーのことを必要とし、組織に戻るように彼を脅していた。エダは淋しいと言っていたが、同じことをケキも口にしていたことを覚えている。彼らの中に人を恋しがる気持ちがあった。誰かを見つめる瞳があった。クトダムは分かっていなかった。エダもヨウトもケキもティナアさえ、あの深淵のような組織の中で人間らしく生きているってことを。淋しさを恐れるのは愛がある証拠だ。快楽を求めるのは愛が導く渇望だ。廊下で一人、おもちゃやリンゴに紛れて死人のように座っている人間は、何一つとして欲しがらず、何一つとして得ようとしない、自分に対しても他のものに対しても一切の興味を持たない人、そんな愛を失った人が真に堕落した人間と呼ばれるべきじゃないだろうか。ラザーには希望がある。エダもヨウトもケキも更生できる。ティナアもサクもクトダムだって、まだ理性と感情が残っているじゃないか。そう、彼らは生きている。人間らしく生きている! 諦めるのは早すぎるんだ、誰もそのことに気付いていないだけ!
「ラザー、あの組織を救おう」
 生きている、今まさに俺の目の前で生きているラザーラスの肩に手を乗せた。
「エダを、ヨウトを、ケキを、ティナアを――そしてクトダムを、救ってやろう。俺たちの力で救ってやろう!」
 ラザーは泣いた。俺の手の中で泣いた。ちょっと戸惑った様子で涙をぬぐい、濡れた眼差しでこちらを見てくる。
 彼は静かに口を開いた。でもその奥から放たれるべき言葉は俺の望むうちには出てこなかった。開いていた口を閉じ、ラザーは涙が溢れている目を別の方向に向けた。
「また俺が馬鹿なことを――どう考えても不可能なことを言っていると思ってるのか? 確かにあの組織の連中は、どいつもこいつも常識じゃ計れない考え方をしてる奴らばかりだ。クトダムは自分の考えに酔いしれてるし、エダやヨウトは自身の欲望に忠実に動いてる。ケキは何を考えてるのかよく分からないし――あのサクって人も、結局はリヴァのことを愛していたのかどうか俺にはさっぱり分からなかった。でもさ、彼らのそれぞれに独特の個性があるんだ。組織で闇に沈んでる死人とは違った、ある特定のことに直面した時、彼らは突然活き活きとして生まれ変わる。俺は彼らを見捨てたくないと思ったんだ。あんなふうに堕落に身を任せてしまったのは、きっと何か理由があってのことだと思ってる。彼らを救うにはその理由を知らなきゃならない――俺はあんたを目覚めさせようとした時、同じようにあんたの情報をいろんなところから集めてきたんだ。それでようやくあんたに何が必要なのか分かって、現実から逃げ出していたあんたは俺の前で目を覚ましてくれた。なあ、きっと、何か抱え切れない問題が起こった時、その解決法は何が最も強い要因なのかを知ることだと思うんだ。一番の原因を知ることによって見えてくるものが、人にとって重大な瞳を提示してくれるだろうから」
 思いを口にしてもラザーはこちらを見てくれなかった。彼の心は既に更生を諦めているのか、俺の意見をまともに聞いてさえくれないらしい。ちょっと負の感情が視界の隅にちらついたが、俺はそれに飲み込まれないよう相手の白い手を両手で握った。
 さっと顔を動かし、ラザーは俺の目を覗き込んでくる。それはまるで睨みつけているような、妥協を許さず同情を跳ね返すような刺々しい光だった。彼は少し口を開いたが、先程と同じように何かを言う前に口を閉ざしてしまった。
「何か言いたいことがあるのか」
 もう隠し事には会いたくなかった。彼には正直に全てを話して欲しかった。ただ俺自身は何もかもを伝えられる自信がなくて、自分勝手な望みを相手に突き刺すことは避けておきたいと思っていたのだろう。
「言いたいことがあるなら言えよ。遠慮なんかいらないし、俺ももう遠慮はせずに付き合うから」
 同じ誓約の元で生きようと考えた。しかしラザーラスは目を閉じて首を横に振った。そうやって否定が終わって目を開けた時、彼の後ろ側に何か言葉が潜んでいるように感じられた。俺はそれをどこかで見たことがあったような気がした。それほど昔に見たものではない、いつか今の彼と同じくらい他人が近付いてきていた頃、その合間に見せられた閉じた窓を見失った悲しみ。どことなく淋しげで、何度目かの諦めを目の当たりにしているような嘆かわしい光の追求者の声。かつてそれを発していたのは藍色の髪の少年であり、今ここで叫んでいるのは汚れ切った無垢な魂の所有者であった。
「……」
 また頭が痛くなる。相手は何も言わないのではなく、何一つとして言えなくなってしまったんだ。その直接的な原因なら安易に想像することができる。無理に呼び起こされたトラウマも、俺の過剰な感情の振れ幅も、彼の中に眠る極端な善意の欠片も、その全てが彼を苛み続けていたんだとして、相手の精神を守る為に必要だったことこそが、一時的な障害として彼に降りかかってきたのだろう。一言で片付ければストレスということになる。このまま放っておいたなら、彼の精神は間違いなく崩壊してしまうだろう。
「まいったな……あんたが喋れないんじゃあ、あいつらを更生させるのは骨が折れそうだ」
 ただでさえ俺には太刀打ちできそうにない人々なのに、ラザーの力もなく立ち向かうなんて無謀にも程があることだと分かっていた。まさかこんなことになるなんて思ってもいなかったから、過去の自分が憎らしくて仕方なくなってくる。
 ため息を隠せずにいると相手に手首を掴まれた。顔を上げて彼の表情を確かめると、どこか不安そうな気配が目の中に揺れていた。俺はちょっと立ち上がり、彼が使っているベッドの上にゆっくりと腰を下ろした。そうして相手の背中に腕を回す。
「何が一番つらかった?」
 彼の肩に頭をうずめる。目を閉じると鼓動が聞こえた。それは誰の命の音? 俺と彼と、もうぐちゃぐちゃになって区別さえつかなくなっていた。
「酷いこと言って、ごめん。一緒に帰ろう……あの小屋へ」
 離れるなんてとんでもなかった。俺はもう、俺の一部となった彼を、恐ろしげなものから守らなければ生きていけないような気がしていた。

 

 +++++

 

 エダの兄の小屋に着いた頃には、もう辺りは暗くなってしまっていた。徐々に見え始めた星の光が空を彩り、続いて他からの恩恵を受けた月が天を支配しようとする。誰もいない小屋にラザーを連れ込み、声を失った相手と共に質素な夕食を作って食べた。彼が何も喋れなくなったのは俺の思い込みなんかじゃないようで、相手は始終何か言いたげな表情で俺の顔を不安そうに眺めていた。
 夕食を食べ終えるといつもの部屋に引っ込んだが、明日の勉強の為の予習も、途中で抜け出した授業の内容も、提出期限が迫った宿題も全くやる気が起きず、机の上に並べてみた教科書を恨めしそうに見つめることしかできなかった。ラザーはベッドの上に座っていたが、俺がいつまでたってもペンを握らないことが気になったのか、わざわざベッドから下りて俺の前の席を陣取ってしまった。そうして心配そうな目でこちらを見てくる。
「ああ、ごめん……なんか集中できなくてさ」
 言葉のない彼の態度は普段よりも優しげだった。ロイのように目を大きく開き、ちょっと首を傾げて疑問を表しているようだった。その仕草が非常にあたたかい。
「ラザーさ、やっぱり声、出なくなったんだよな」
 相手は少し悲しげな顔をした。そうやって一つだけ大きく頷いた。
「それって俺のせいだよな。俺が負の感情に任せて酷いこと言っちゃったから――それに、今までだって、感情のままにあんたを傷つけるようなことを言ったり、昔の鞭で打ったりしたこともあったから、そのストレスが一気に押しかけてきちゃったんだ、きっと。俺なんかがあんたを救えるなんて思っちゃいけなかったんだ、結局あんたを傷つけることしかできなかったのに、俺は自惚れてたんだ。あんたに愛してるって言われたから――」
 幾度も彼を軽蔑し、そのたびに後悔が胸に押し寄せた。その悪循環はそろそろ終わりにしなければならない。そうしなければいつか滅ぶ。いや、既に滅びは始まっているんだ。誰が屍を拾い上げてくれるだろう? 聖人なんて一人もいない。
 暗くなった部屋の中でふと明るさを身近に感じた。その正体を追ってみると、俺の隣でラザーラスの銀髪が光っているようだった。彼は俺のすぐ傍に座り、おどおどした様子で俺の手にそっと触れた。俺を慰めようとしてくれているのだろうか。彼の考えていることは分からないけれど、今の相手はとても正直であるようだった。いつもこれくらい分かりやすい態度でいてくれれば、あんなに悩むこともなかったはずだと感じられる。
「ラザー、学校はどうする? 行きたくないなら休んでも……いいよ」
 俺は必要以上に優しくならねばならなかった。彼をこれ以上傷つけない為には、俺が自らを犠牲にせねば到達できないんだ。俺の声を聞いたラザーは顔色を変え、再び不安に包まれた色を俺の前に示してくる。でも俺だって彼と同じくらい不安を感じ続けているんだ。
「けど、この小屋に一人でいたら淋しいよな。もしかしたらヨウトやエダが来るかもしれないし……なあ、もしラザーが休みたいって言うんなら、俺も一緒に学校を休むよ。一緒に、ここで一緒に二人で過ごそう」
 そう言って相手の動かない唇に軽くキスする。顔を離して彼の驚いた表情を見た後で、初めて俺は自分がどうかしてることに気付いたほどだった。急に自分の行為が恥ずかしくなって下に俯いた。戻れないところまで来ているとは思っていたけれど、それがこんなにも深く無意識的なものだなんて一体誰が想像していただろう?
「ごめん、突然変なことして。これじゃ俺、エダたちと何も変わらないじゃないか」
 同情が愛情に変わりつつあった。いいや、きっと完全に変化してしまっていた。変わり果てた同情の末路は暗に悲劇的な愛憎だった。俺は相手を本気で意識し、愛と憎しみとで支配しようと疼いていたのだろう。彼を救うには本気で向き合うべきだ、それは間違っていないけれど、どうしてここまでのめり込んでしまったのか。ああ俺は一体どこで道を間違えてしまったのだろう?
「馬鹿だよ、くそ……余計に苦しくなるだけじゃんか」
 俺が彼を愛したなら、彼を鞭で打ってしまいそうで怖かった。エダが俺の本性を見抜いていたのなら、俺の中に流れるサディストの血がラザーを恐怖で染め上げてしまうのだろう。彼の記憶に残るケキの姿が、今度は俺の形に変わることを許してはならないはずだった。そんなことは分かっている、だけど俺は、自分を抑え切る自信がなかった。なぜなら俺は、自分の感情のコントロールができなくなっていたから。
 ラザーはそっと俺の背中をさすってくれた。それは普段と逆の役回りだった。だけどその手つきが際限なく心地よくって、俺は彼の優しさに溶け込んでしまいたいと思っていた。静かに目を閉じて彼の体温を全身で感じた。身体から力を抜き、相手の存在にもたれかかる。俺と同じ心臓が背中越しに感じられた。どうしようもなく苦しくて、閉ざしていた目から涙が溢れてきてしまう。
 彼は俺の涙をぬぐい、俺の身体を両腕で大きく抱擁した。締め付けるようなことはせず、ただ全身で俺を包み込んでいる感覚だった。今までのどの抱き締め方よりも静的で、且つあたたかく、消極的でありながらその意志は強かった。俺は彼になら全てを差し出しても構わないと、そんなふうに思うようになっていたのかもしれない。彼の唇を黙って受け止めた。入り込んでくる舌を快く歓迎した。服の下に潜った手を、肌を舐めるように触れた指を、快楽の頂点よりも遥かに高い場所にあるものに辿り着く標として認識していた。彼は俺の身体で楽しんでいるわけではなく、俺の身体を通して伝わる愛を感じ取りたかっただけなのだと、今になって理解することができたような気がした。俺は彼を理解できるほど、彼を愛するようになってしまったんだ。
 しかしそれは危険なことだった。俺は普通の人間で、彼は時を狂わされた者だった。それに俺は男だし、相手は俺の中に光ではないものを見たと言う。もし俺が彼にそれを与えてしまったなら、いつか俺が彼の前から消える時、彼に降りかかる悲しみは言葉では説明できない悲愴に違いなかった。お互いに近付けば近付くほど傷つく関係でありながら、なぜ惹かれ合って愛するようになってしまったのか。相手は俺のシャツをまくり上げ、背中から腕を回し、宝物でも守るようにぎゅっと抱き締める。彼の手が俺の肌に触れ、そこから体温と脈拍とを感じ取る。目を閉じていると世界が見えなくて視界が広がっていた。俺はまるで海の底で眠っているように、忘れられた母の鼓動を一人耳にしていた。
 誰かに呼ばれたような気がして目を開く。すごく近い位置にラザーラスの顔があった。彼の心配そうな赤い瞳も、今にも言葉を発しそうな唇も、髪の下から覗く少し広い額も、染まると美しいコントラストを奏でる頬も――見ていれば見ているほどに引き込まれ、自分のものにしてしまいたくなる。手を伸ばして彼の頬に触れた。やわらかい弾力が伝わってくる。その全てがただひたすらに愛おしくて、なぜケキやエダはこの人を苦しめようとしていたのか、その理由が分からなくて泣き出しそうになっていた。彼は美しく、儚げな人だった。どれほど汚れたものに侵食されようとも、彼の魂は常に光を求め続け、故に今になってもこれほどまでに無垢でいられる。俺は彼の一部になりたかった。俺の生命と精神とを彼の為だけに捧げたかった。
 身体を起こして彼と向き合い、前のめりになって相手の胸に顔をうずめる。
「ラザー、どうしてあんたは生まれてきてしまったのだろう。生まれなければ、俺と会うこともなかったのに。どうしてあんたは男なんだろう。もしあんたが女だったなら、俺はもっと堂々と近くにいられたかもしれないのに。どうしてあんたは不老不死になったんだろう。もし永遠を持っていなければ、俺と一緒に死の世界へ向かうことができるのに。どうしてあんたはクトダムに――あの男に助けられてしまったのだろう。あの男があんたを無視し、見殺しにしていれば、あんたは生きることも許されず、親の顔も知らず、俺たちと会うこともなかったはずだ。そして、彼を取り巻く人々から虐待を受けることもなかったはず。ああ、どうしてあんたは、そんなにも純粋な心を持ってしまったのか。その純粋さが人々を酔いしれさせている。あんたをおもちゃにしようと多くの人が狙っているんだ。あんたはそれに気付いている? いいや、知らなくてもいい、悲しいことは知らずにいよう。たとえ見えてしまったとしても、何も見えないふりを演じていればいい。だから俺は壁になるよ。あんたが何も見えなくなるほど大きな壁に、怖いものや悲しいものに出会わなくて済むように、俺がそれら全てを飲み込んでいくから。ただ、今は……あんたと一緒にいたい。あんたの一部になりたいと思ってしまう――」
 俺が彼を守るのならば、彼の一部になってはならないはずだった。彼から離れた場所でじっと見守り、彼の前に姿を現してはならなかった。でも俺には欲望があって、それを抑えられるほどできた人間ではなかった。二つの望みが交互にやってくる。俺はそのどちらを選べばいいのか分からずに、暗闇の中で彼のぬくもりを求めていた。
 どうしようもない感情を抱えたまま、俺は彼のベッドの上に寝転んだ。それでも涙が止まらなくて、相手は心配そうに俺の涙をぬぐってくれる。子供のように思いっ切り泣きたかった。俺の陳腐なプライドがそれを許さなかった。そうやって我慢しようと声を押し殺していたのに、どれほどあたたかなキスを受け取っても、俺の心が満たされることは決してなかった。相手は俺の服を脱がせ、自分の服も全て床に放り投げた。裸のまま抱き締められて彼の温度を感じ、俺はますます涙を止められなくなった。こんなに近くにいるのに距離を感じた。人間に添えられた性別が邪魔をしているのではないかと考えた。魂が触れ合う為に壁となる障害は、誰が主張しようとも必要じゃないはずだった。空を突き抜ける衝動が欲しかった。俺はうつ伏せになって枕に顔を埋め、彼の身体が中へ入り込んでくる時を黙って待っていた。
 肉体的な快楽が二人を繋げているのなら、俺はそれを悲しいとは思わなかった。彼が俺の内部に流し込む快さは、溢れていた涙を止めて意識をここから遠ざけてくれた。息をすることさえ苦しくなり、大声で叫びたくなった。でも声は出さないようにと理由のない制約を設けていた。目を開けると俺の手はベッドのシーツを握り締めていた。その手は前にあるものを目指すこともなく、ここで留まって天の底か、或いは地の果てへと導いて欲しいと願っていた。いつかエダに犯された時とは違う、相手の汗ばんだ手に掴まれた肩が嬉しさのあまり悲鳴を上げ、暗闇の中でちらつく俺の黒い髪と彼の銀髪が混じり合う様が綺麗で、徐々に上がっていく自分の情熱が炎よりも赤く見えていた。彼は体勢を変え、俺はあお向けに寝かされた。相手の顔がよく見えるようになり、一気に頭が天に近付いた気がした。そこでは星が見えた気がして――夜空のように真っ暗な空間の中、無数の星が強い光を放出し、その全てを月が吸収している場面が俺の脳裏に描かれた。月はあまりに大きすぎて、やがて世界の暗闇を覆い隠し、彼の内部でまたたく星が新しい空を造っていた。彼らが最も輝くことのできる空、月のない夜を創造し、旧い月の世界は少しずつ忘れ去られていく。それこそが全てだった。俺も彼も求めていた、探しても見つからなかった『それ』が、その中に隠されていたんだ――俺は彼の中にそれを見出すことができたんだ!
「ラザー、愛し――あい、してる! あんたは、俺の――」
 目が覚める。続かなくなった言葉が喉の奥に引っ込んでしまった。相手は驚いたように俺の顔を見ていた。そうやってじっとしていたら、耳に電話の音が入り込んでいることに気が付いた。
 ラザーは俺から身体を離し、ベッドの下に落ちていた俺のズボンを拾い上げた。そのポケットから黒い携帯電話を取り出す。けたたましい音はそこから放たれているようで、俺は彼から携帯を受け取って電話に出ることにした。
「もしもし……」
『よお、樹君。俺だよ』
 聞こえてきたのはエダの声で、俺は遠い昔の約束をふと思い出した。
『君さ、俺との約束忘れてるんじゃない? 本当に俺の兄貴の家を探してるのか? まさか知っていて黙ってるんじゃないだろうな?』
「もうちょっと待っててよ――まだ時間が必要だから」
『おや、どうしたんだ。ずいぶん息が上がってるじゃないか』
 自分では分からなかったことを告げられ、俺は冷静さを失い始めていた。このままじゃ駄目だと自分に言い聞かせ、余計なことを言わないように相手の話を聞いていようと考えた。
『こんな時間にマラソンでもしてたのか? それとも風呂にでも入ってるのか? いや、さすがに風呂で携帯を弄るってことはないか。じゃ何だ、誰かとお楽しみの最中だったってか? 俺とやるのはあんなに嫌がってたのに、相手が好きな奴ならそれだけで許せるっていうのか。ふん、大層な御身分だな! 俺たちを蔑んでいたくせに、結局は俺たちと同じことを興としてるんじゃないか!』
「うるさいな、勝手な推測で話を進めるな」
『推測じゃなくて事実なんだろ? そうやって隠そうとしてるってことは、誰にも知られたくない秘密の逢引ってところかな? くくっ、どうせ相手はラザーラスなんだろう? ラザーラスが君に頼った時点から、俺にはこうなることが分かっていたさ。ああ、でも、もう一つ可能性は残っていたな。君と俺が交わっていた時に、その現場を目撃した君の幼馴染――君の相手はあの子かい? 何も知らなかったあの子を君は、泥で塗り尽くされた汚らしい世界へ引き込んでしまったのかい?』
「黙れよ、俺をあんたらと一緒にするな!」
 なぜここで薫の存在を引っ張り出されねばならないのか。薫は一つとして関係ない、あいつは俺の気持ちを感じ取って、俺に最大の優しさを与えてくれた。俺はあいつを裏切りたくない。あいつだけは守り抜かなければならないんだから!
『そう怒るなよ、分かってるさ。君の性格じゃあの子には手を出せないんだろう。だけど今はラザーラスに抱かれている。ああ、俺は少し安心したよ。やはり君は俺が思った通りの人間だった』
「もう――喋るな」
『まだ鞭を持っているか? 今日はそれを使ってないのか? でも一回くらいは使ったんだろう? なあ、どうだった? その時に君が感じた全てを語って聞かせておくれよ。俺はそれを聞きながら想像するから。ラザーラスの恐怖に歪んだ顔を想像して楽しむからさぁ!』
「お前なんかに教えることは何もない!」
 遥か遠い場所からエダの声が響いていた。彼の狂ったように笑う声が、俺の頭の中を自由に駆け巡っている。追いかけようにも速すぎて捕まえられない。俺は彼が走って描く輪の真ん中で、頭を抱えながらしゃがみ込んでうずくまってしまっていた。
『まだ自覚していないのか? 君は俺と同じ、他者を傷つけることこそを至高の幸福とするサディストなんだよ。だからラザーラスを手放せずにいるんだろう? 彼は虐めやすいからな、簡単に支配できてしまうから、良いおもちゃに成り得るんだよ――君に奪われたのが勿体ないくらいさ! ああ、まったく、君が羨ましい! こんなことになるって分かってたなら、ラザーラスを監禁でもして動けなくしていればよかった!』
「黙れ、それ以上喋るな――喋ったならあんたを縛ってやる。あんたの望み通りに、俺がサディストになって、誰も来ない部屋の中に監禁して、そこで毎日鞭で打ち続けてやる。耐えられるか? 耐えられないだろ? あんたはサドであってマゾじゃないもんな。あんたの嫌がることを押し付けてやるよ、あんたが今までラザーにそうしてきたように、今度はあんたが死よりも恐ろしいものを感じるべきなんだ、俺があんたの支配者になってやるよ! 嬉しいだろう、ええっ、あんたの直感が当たったんだから! 誰があんたなんかとの約束を守るもんか! 兄の家だって、そんなもの、自分で勝手に探せばいいじゃないか! つまらないことで俺を巻き込むな、俺だけじゃなくて家族も友達も巻き込みやがって、もう耐えられないんだよ、こんなこと、引き受けるんじゃなかった! 何も知らないままでいられたらよかったのに――くそっ! どいつもこいつも好き勝手しやがって! 俺の人生を何だと思ってるんだ、俺に何の恨みがあるってんだよ――ラザーラス!」
『あはは! こりゃいいや!』
 手の中から携帯が落ちる。ラザーはそれを拾い、ボタンを押してエダからの電話を切ってしまった。学校の教科書が乗っている机に携帯を置き、彼は一人でベッドの中に潜り込んでしまった。俺は俯いていた顔を持ち上げ、彼を追ってベッドに入り込もうとした。だけど相手はびっくりしたように目を大きく開け、身体を起こして俺の顔を見上げてきた。
 そこに貼り付けられているのは恐怖でしかなかった。俺が大声を出したから怖がらせてしまった。俺がおかしなことを言ったから怖がらせてしまった。俺がエダと連絡を取り合っていたことを知ってしまったから、彼は俺のことをスパイだと思い込んだのかもしれなかった。ただ俺の身体は不充分だと叫んでいた。まだ刺激を欲しがって、より高いところへ辿り着かねば満足できなくなっていた。俺は彼にキスをしようと身体を寄せた。しかし彼は後ずさりして、俺の肌に触れようとさえしなかった。
「ラザー、あの――さっきの電話は気にしなくていいから。だから、続きをやって欲しい。お願いだから」
 彼は首を横に振った。その目に涙が見えた気がした。俺は彼の肩を掴んだ。相手が逃げないように素早く掴んだもんだから、ラザーラスは目を大きく開けてがたがたと震え出してしまった。
 その反応に対し、俺は彼を諦める他に何もできなかった。大人しく手を離し、ベッドから遠ざかって自分の服を着た。この部屋の中にいては息が詰まりそうだったので、俺は震える手を隠しながらラザーを置いて部屋から出ていった。

 

 

「大丈夫?」
 俺を心配する声があった。暗くなった台所の片隅で、彼は大きな目を開けて俺の顔色を窺っていた。
「なんであんたがここにいるんだ、ヨウト」
「うーん、なんでって聞かれたら答えにくいんだけどさ。一言で言えば、組織に帰りたくなくなったからだよ」
 俺の前から姿を消していた幽霊の少年がここにいた。彼は台所にある椅子に座り、俺も座るように催促してきた。立ったまま話すことがつらく感じられたので、俺も彼と同じように椅子に座ることにした。そうやって相手と向き合って腹の底を探る。
「組織に帰りたくないって、なんで」
「それはロイの生活を見たからだよ。組織の外には居場所がなかったはずなのに、君のおかげで彼は自由に生きられている。そんな彼の姿を見て、僕は羨ましくなったんだ」
「そう……」
 嬉しい変化を目の当たりにしているのに、俺には光が見えてこなかった。身体の不満が溜まっているせいかもしれない。この疼きは自分で処理するしかないのかと考えると悲しくなった。手を出してきたのは彼の方だったのに、どうして俺が中途半端に遊ばれて、最後は一人で果てなければならないのか。どうしてさっきはあんなに傍にいたのに、今になって身体を離して、高く飛ぶ瞬間を共に味わえないのか。彼のことが恨めしくなってくる。また負の感情が俺を締め付け、彼を怯えさせてしまうのかもしれない。
「どうしたの、樹君。すごく悲しそうな顔をしているよ。ロイと喧嘩でもしたの?」
「喧嘩じゃないよ。うまくいってたんだ。それなのに、エダから電話がかかってきて、邪魔されて、いろいろしつこく言われたから怒ったんだ。そしたらラザーが怖がって――」
「ああ、途中でやめちゃったんだね」
 なぜ俺はヨウトに教えているのだろう。あれは俺とラザーだけの秘密であり、口外すべき問題じゃなかったはずだ。それでも話を聞いてくれなければ内にたくさんのものが溜まりそうで、それが爆発しないように蓋をする必要があったんだ。ヨウトは適している気がした。この生きていない少年なら、ラザーの昔の顔を知っている子供なら、あの人の扱い方も熟知していて俺に教えてくれるんじゃないかと期待していたんだ。だから俺はヨウトに話してしまったのだろう。
「途中でやめたってことは、最後までいってないの?」
「え、うん――」
「二人とも?」
「それは分からないけど、多分ラザーも同じだと思う」
 ヨウトは小さく「そっか」と言った。顔を下に向け、何やらもじもじとした態度を見せる。もしかしたらこの子はこういった話に免疫がないのかもしれない。普段は元気よくお喋りをしていたのに、ここで見せている仕草は少女のようにうぶだった。俺はきっと、組織にいる連中は全員ああいったことが好きなんだと思い込んでいたんだ。エダもケキもラザーも求めてきたから、彼らの世界は肉体的な快楽だけが最高の遊びなんだと思っていた。
「ごめんな、こんな話聞かせちゃって。君に言ったって仕方ないのにな」
「あ、ううん! いいよ、僕はお喋りが好きだから、自分で話すのも相手の話を聞くのも好きなんだ。今は部屋に行ってもロイは話してくれないだろうね。エダさんってば二人が何してるか知ってたのかな? わざと邪魔して困らせてるんじゃないのかな――」
「まさか、そんなことは」
 いつも気色悪いと思っていた組織の人の中に、ヨウトのような人が紛れていることは一種の悲劇のようにも思えた。彼は無理に蘇らせられてしまったから、彼の意志でこの世に留まっていたわけじゃない。彼の自由な身体を利用しようとしたのはクトダムだった。あの男がヨウトもラザーも捕らえて離さなかったんだ。
「あの、樹君」
 光を見失った目が闇の中に沈んでいた。相手の大きかった瞳が、今は少しだけ細くなっている。
「よかったら、僕がやってあげようか? 手と口しか使えないけど――」
 俺は相手の言葉にびっくりして立ち上がった。その言葉を迎える体制が整っていなかった。
「い、いいよ! そんなこと、頼めない」
「大丈夫だよ、いつもロイにやってあげてたんだから。慣れてるんだ、こういうこと、みんなが望んでいたことだから」
 机の上に身を乗り出した少年は俺の腕を掴んで椅子に座らせてきた。誘いを振り撒いた彼の表情がなんだか悲しげで、俺は彼を傷つけない為に断らなければならなかった。それでも声が出てこないのはどうしてなのか。やはり俺はエダが言ったように、彼らと同類の人間だったとでもいうのだろうか?
 ヨウトは俺が座る椅子をくるりと回し、何もなくなった目の前に小さく座り込んだ。無言のままで俺のズボンに手を伸ばし、そのまま中へ手を進入させた。なんだか恥ずかしくて耐えられなかった。でも悲しげな目をした彼を押し退けて逃げ出すこともできなくて、俺は彼が表情をなくしていく様を上から見下ろしていなければならなかった。
 ヨウトの手つきが直接頭に届いていた。彼が機械のように操る手が動くたびに、その手が生きていることを俺の頭は認識した。次第に絡み合っていた糸はほつれていき、肉体的な快楽だけが頭を支配しようと幅を利かせていく。
「どうかな、気持ちいい?」
 彼が不安そうにこちらを見上げてくるから、俺は素直に頷くしかなかった。
「じゃあ、次は口でするよ」
「えっ、ちょっと待って!」
「――どうしたの?」
 頭がくらくらしてきた。俺はこんな小さな子になんてことをさせているんだろう。こんなこと、犯罪にもなりかねないじゃないか。俺はまだ高校生なんだ、必要以上のことを知ってはならないんだ。
「やっぱりこんなことは頼めないよ。俺なら大丈夫だから、もうやめよう。君だって本当はしたくないんだろ? 全然楽しそうじゃないじゃないか」
「駄目だよ、我慢するなんて。僕はこれでも上手いんだよ。最初はロイに教えられて、彼にやってあげてるうちに上手くなったんだ。だからロイは僕を手放さなかったよ。彼が愛してたアニスにも内緒で僕を求めてきたんだから」
 舌の感触が伝わってきた。ヨウトは俺の話を聞いてくれない。このままじゃ俺は本当に堕ちてしまう。やはり彼に事情を話すべきじゃなかったんだ。
「やめてくれ、ヨウト! こんなこと必要じゃないから、もっと自分のことを大切にしてくれよ!」
 彼の頭に手を押し当て、そのまま遠ざけようと力を込める。
「君、僕をロイと混合してない?」
 棘のある一言だった。はっとして息を呑む。その隙にヨウトは顔を近付けた。口を開き、俺の陰茎を咥えてしまう。
「や、やめ――本当に、こんなの――」
 ヨウトは何事もなく続けていた。無力な自分が情けなかった。あまりにも悲しすぎる現実に直面しているのに、俺の身体は快楽に喜んでいた。芽生えたばかりの熱情は刺激され、でも相手の青い髪を見るとどうしようもなくやるせなくて、彼の舌に対し反応を示す身体が許せなかった。俺はまた泣いていた。どうしたって涙が止められなかった! 片手で目を隠し、空いている手はヨウトの頭に乗せていた。どうすればいいのか分からない。泣きながら見上げる天井のなんと高いことだろう!
 そうやって俺はその瞬間を迎えた。終わったら自然に涙は止まった。でも心の中には鋭い傷跡が残されていて、俺は別の部屋に逃げ込んで朝まで一人で泣いていた。……

 

 

 

目次  次へ

inserted by FC2 system