月のない夜に

 

 

「あ、おはよう、樹君!」
 振り返って笑顔を見せたのは青い髪の少年だった。両手に料理が盛られた皿を乗せ、子供らしい無邪気な表情を寝起きの俺に見せてくる。俺は台所の入り口で声を掛けられて立ち止まってしまった。昨日のことをはっきりと覚えていたから、相手の顔をまっすぐ見ることができなかった。
 ただこの場所には俺の顔を見る人は二人いた。台所の椅子には目を覚ましたラザーが座っている。彼は非常に大人しく俺を迎え入れ、なくした声を思わせるような視線を投げかけてきた。俺は彼の姿を見て少し怖気づいてしまったが、その視線が怯えではないことに気付くとほっと胸を撫で下ろした。
「さあ、樹君も座ってよ」
「え、あの」
 ヨウトに後ろから背中を押されて椅子の前まで誘導される。仕方がないので席に着くと、机の上にはたくさんの皿が綺麗に並べられていた。そのどれもに大量の野菜が盛られている。
「どうしたんだ、この野菜」
「町で買ってきたんだよ。君が知ってるかどうかは知らないけどさ、この小屋の近くには小さい町があるんだよ。そこで買ってきたの」
 泥棒の言う売買ほど怪しいものはない。疑うような目つきを作って相手を見ると、ヨウトはにこにことした表情を変えずに俺の隣まで近付いてきた。そうして懐から札束を出してくる。
「ちゃんとお金を払って買ったんだ」
「どうせその金は人から奪ったものなんだろ」
「えええ、酷いなぁ。君の為に買ってきたっていうのに、どうしてそんなに意地悪言うかなぁ」
 心が傷ついたような仕草を見せ、ヨウトは札束を隠してしまった。俺の意見を否定しないところを見ると、やはりそれは他人から奪い取ったものらしい。俺は本当にこんな奴を救おうと考えていたのだろうか。馬鹿らしい、反省の色さえ見せないわがままな連中じゃないか。こんな奴らを救って何になる? ほとぼりが冷めれば同じことを繰り返し、再び悪人として生きるようになるんじゃないのか。
「樹君、今日は学校だっけ? ロイも行くの?」
「いや――今日は休むよ」
「どうして? 勉強分からなくなっちゃうよ」
「うるさいな、別にあんたには関係ないことだろ」
 ヨウトが来たことにより混ぜられていた。昨日の涙も、彼さえいなければ出てくることのなかった悲しみだったんだ。早く消えて欲しかった。既に死んだはずの魂が、どうして今を生きている俺たちに影響を与えなければならないのだろう。
「家にいたって暇でしょ? ロイには僕が付いてるから、君は学校に行ってきなよ」
 幽霊の少年は優しげに心配してくれる。だけど俺にとってはそれが煩かったし、何より彼とラザーが二人きりになることを最も恐れていた。ヨウトは昔、ロイに頼まれて一緒に寝ていたと言っていた。それが事実なのか作り話なのかは分からないけど、昨夜のあの無自覚な純粋さを思い返すと、彼はラザーに手を出す為に俺を遠ざけようとしているような気がして不安になったんだ。そうだ、きっと――彼をラザーに近付けさせてはならないんだ。
「家にいても、することはたくさんあるさ」
「することって? ロイを慰めるの? 同じベッドの中で?」
 わざと音を立てて立ち上がる。ヨウトは驚きさえしなかった。
「冗談だよ。そんなに睨まないでったら」
「お前らさ、口を開けばそればっかりだよな。頭ん中おかしいんじゃないか」
「酷いこと言うね。ここにはロイもいることを忘れないでよ」
「……」
 ラザーの顔を見てから椅子に座る。そうやって無言になり、目の前のフォークに手を伸ばした。銀の煌めきを操って野菜を口の中へと運ぶ。
「エダが来たら終わりだな」
 身体の中に自分とは異なるものが入ってくる。その感触を覚えたのはいつだっただろう。
「何が?」
「この生活。組織を抜け出すとか言ってたけど、あんたの居場所もなくなるな」
 ヨウトは何も言い返してこなかった。彼の中に初めて不安を見た気がした。俺が野菜を食べ終えるまで一言も喋ろうとせず、片付けようと席を立つと慌てて机の皿を回収していた。
 片付けは全て自分がすると言い、ヨウトは俺とラザーを台所から追い出した。ラザーはちょっと俺の顔を覗き込み、一人でいつもの部屋に引っ込んでしまった。俺はふらふらと家の中を歩き回り、何かできることはないかと自分の仕事を探していた。そうやって見つけたのは風呂掃除で、古くなったスポンジを使って風呂場の壁を一心に磨いていた。
 ぎくしゃくしていた。外部から挿入された原石の欠片は、俺とラザーの関係をより深く変化させてしまったようだった。俺が彼を愛していると叫びそうになった時、その気持ちのどこに嘘があっただろう。彼を愛することは苦痛に他ならない。ただ一時的な幸福なら得られる。何もせず、傍にいるだけでも幸せを感じられる。闇の中で繋がっている時は肉体的な快楽も得られる。危険だと分かっているのに求めてしまうことがある――その浅はかさがあったからヨウトの存在が大きくなったのなら、俺が彼を責める権利なんかないはずだった。なぜなら全ての責任は俺にあって、このどうしたって満たされない思いは俺の中から生まれたものなのだから。彼に苛立つのは俺のわがままだった。だって彼が俺を誘惑した時、きちんと断らずに任せてしまったのは他でもない俺自身だったんだから。
 風呂場が綺麗に見えるようになると、そのままの勢いで床掃除をすることにした。雑巾を水で濡らして床を拭き、長い間こびりついていた染みを一つ一つ抹殺していく。俺の心もこの床のように汚れているのに、誰一人気付かないから汚れが積み重なっていくばかりだった。俺は掃除をすることによって自身を洗い流す真似事をしているのだろうか。家が綺麗になるほど自分が惨めに思えてきて、心を正常に戻さない限り元の生活には戻れないと理解してしまった。
 掃除が終わる頃には昼になっていて、ヨウトが俺の為にとサラダを作ってくれていた。朝とは違って野菜だけではなく卵もつけられており、サラダにはドレッシングがかけられている。憎んでいたはずの少年に見られながら、俺は彼の手料理を全て胃の中に押し込んでいた。その場にラザーは顔を見せず、なんだか心配になったので、食事を終えるとすぐにラザーの部屋へと足を向けた。
 部屋の扉の前で足を止め、軽く二回ほどノックをする。待っていても声が返ってくることはなく、彼の承認もなしに俺は部屋へ入り込んでいった。そこで見えた光景はいつもと変わらない。窓の外から差し込む光と、机の上に置いてある開かれたままの教科書、そしてベッドの上に座ってぼんやりとしているラザーラス。彼はその下にあの鞭があることを忘れているのかもしれない。俺もそのまま忘れられてしまえば救われたかもしれなかった。
「どう? 気分は」
 彼の隣に腰を下ろし、近い位置から話しかける。相手は俺の顔を見たが、その口が開かれることは決してない。
「何か欲しいものはある?」
 相手は首を横に振った。まるで人形のようだ。
「ずっと家の中にいても退屈だろ。外に――散歩でもする?」
 立ち上がろうとすると服を掴まれた。ちょっと細くなった目が何かを訴えようとしている。机の上にあった教科書とペンを取り、それを相手に手渡した。俺の意思を察した相手は教科書の隅の方に小さく文字を書き、こちらからよく見えるように本を逆さにして返してくれた。
『昨夜、どうしてヨウトに頼んだ?』
 自信のなさそうな字面を見て、言い逃れのできない悪寒が全身を貫いた。
「あれは――俺が頼んだんじゃない! あいつが勝手にやるって言い出して……いや、待てよ、なんで知ってるんだよ? 覗き見でもしてたのか」
 ラザーは頷いた。その潔さが卑怯だった。俺の身体は後ろめたさでいっぱいになる。
「だ、だって、あんたが途中でやめるから――あんな中途半端に遊ばれて、自分だけで満足して、俺はどうなってもいいみたいな扱いされたら、こっちはもう傷つくしかないじゃないか! 俺はあんたのおもちゃじゃないんだよ、少しは俺のことも考えてくれよ!」
 いけない。また始まってしまった。ラザーは怒っているような顔でこっちを見てくる。何か言いたげな様子で俺を睨んでいる。心の奥の方から黒い塊が漏れ出しそうだ。それが表に出ることがないように、両手で胸の辺りを力任せに押さえ込んだ。
「う――」
 前かがみになって全身で感情を止める。少しでも気を抜けば精神を持っていかれそうだ。あまりに強く押さえつけるもんだから、額から汗が流れて身体じゅうが火照っていた。だけどそれは成功した。それほど多くの時間を必要とせず、俺の中の負の感情は静かに水底へと帰っていったようだった。
「ごめん」
 謝ってから身体を起こす。ラザーは少し戸惑った様子で俺の姿を見ていた。こんなに敏感で壊れやすい彼に何を言えば守ってあげられるだろう。俺は彼をどんな人間に変えたいのだろうか。
「もうヨウトとはしないし、エダとも連絡は取り合わない。でも昨日みたいなことはやめてくれ。途中で気が変わったからって、俺のことを怖がらないでくれ――」
 どれほど俺が相手を大事に想っても、どんなに守りたいと夜空に願っていたとしても、その気持ちが些細な理由で揺れ動くほど不確かなものであるのなら、それを持っている自分が上手く操らねばならないと分かっていた。俺はラザーにキスをした。この愛が偽りじゃないと分かって欲しかった。相手を包み込むように抱き締めた。見返りを求めるのではなく、彼の盾として全ての怖いものをはじき返せるようにと。
 胸に衝撃を受けて身体が離れる。反動で少しだけ後ろに飛ばされ、俺の前で目を大きくしているラザーラスの姿が見えた。他には誰もいない、俺を突き飛ばしたのは彼だった。頭がぐらぐらしてうまく声が出てこない。
「な、なんで……」
 喉の奥から絞り出せたのは悲鳴にも似た声だった。ラザーは顔を窓の方へ向け、こちらからは綺麗な銀髪しか見えなくなる。彼から突き放された気がして俺は焦った。考える前に身体を動かし、彼の肩に手を置いて無理矢理こちらへ身体を向かせた。
「なんで? どうして? 俺はあんたのことが好きなんだよ、あんたを守りたいと思ってるんだよ!」
 いつの間にか必死になっていた。俺は彼を失いたくなかったんだ。彼の気持ちを常に俺に向けさせていたかった。彼が遠ざかることが他の何よりも耐えがたいことだったんだ!
 もう一度唇を重ねる。味わい慣れた感触が俺のものになる。彼の心臓の音が俺の鼓動と重なっている。そこから見える深淵は光を隠そうと動き始めていた。
 声にならない声を発し、ラザーは俺の腕から逃れようとした。失いたくない一心で彼をベッドに押し倒し、逃れられないよう相手の両方の手首をしっかりと掴んだ。ラザーは何度も首を横に振った。以前は彼から求めてきたというのに、なぜ俺が求めることを許そうとしないのか。
 彼が俺に押し付けたことを今度は俺が演じてやろうと思った。首筋に舌を這わせ、浮き出た鎖骨の硬さを味わう。片手を離して相手のシャツをまくり上げ、指先を動かして乳首を刺激した。ラザーは俺の背中に腕を回し、俺を遠ざけようとして服を引っ張っているようだった。彼の肩に噛みついた。相手の悲鳴が聞こえた気がした。そのまま噛み殺してやろうかと考えたが、俺の手は彼のズボンの中へと伸ばされていた。
 体勢を変えて彼の身体を横に向けさせた。後ろから抱き締めて相手の身体を指で弄った。顔も感情も見えなかったから何も思うことがなかった。強引にズボンを脱がせ、己の欲望を現実に変える。
 俺はラザーを襲っていた。この立場は初めてだった。いつも相手が俺を慰め、俺の内部に入り込み、俺の身体で欲望を発散していた。それなのに、今日は役者が間違えたらしい。初めての体験に興奮しているのだろうか、頭のネジが一つか二つか、もしかすると十個くらい外れているのかもしれない。彼の中へ入り込んでいく。知らなかった感触が目を覚まさせてくれる。相手の体温が抵抗もなく伝えられてきて、驚きと快感とが理性の首を絞めていた。どうしてだか彼がこれに慣れているのだと気付いた自分がそこにいた。相手をうつ伏せに押し倒し、両腕を掴んで服従させていた。
 何か声が聞こえた。誰の声なのか分からなかったが、部屋の中で生まれたものらしかった。俺は聞く耳を持たずに無視していた。そんなものより今の快楽が大事だった。身体を動かしているとまた声が聞こえた。どうやらラザーラスの声らしかった。彼は言葉を失っていたはずなのに、どうして声を出しているのだろうか。彼は俺に嘘をついていたんだ、声が出なくなったなんて気まぐれのような嘘だったんだ。彼が嘘つきだなんて昔から分かっていたことじゃないか。今だって俺を愛していると言いながら俺の愛を拒んで、結局強引な手段で伝えるしか方法がなくなってしまった。そう、これは仕方のないことなんだ。あんたが愛を否定するから、あんたが正直にならないから――。
「や、めて……」
 妙にはっきりした声が耳の中を通り過ぎた。
「やめて、それは、嫌――こんな愛、欲しくなんかない!」
 よく観察してみると、彼の顔がある辺りのシーツが濡れていた。試しに確認したならば、ラザーが涙を流していることに気が付いた。同時に俺がラザーをレイプしていた現実を知った。体が震え、彼から離れた。顔に手を当てても過去は消えなかった。
 歯を食いしばって泣いている彼の姿を見て、俺はどうしていいか分からなかった。容易く感情に踊らされる自分が嫌いになっていた。数分前に反省し、出てこようとするものを抑え込んだはずなのに、結局それが自由を手にする場面を傍観することしかできなかったのか。それはもう情けないなんてものじゃない、病的な類のものなんじゃないかと思えるほどだった。いつもは真っ先に出てくるはずの「ごめん」の一言さえ上手く声に出せなかった。目の前の景色が黒くなったり白くなったりして、全身から抜けていく生命力を追いかける勇気さえ見つけられなかった。
「だから、嫌だったんだ」
 聞こえた声にはっとする。ラザーラスは自分を守るように身体を丸めていた。
「愛されたって傷つけられるんだ。繋がりは、もういらない……ロイ、君の愛だけでいい。だってアニスはもういない」
 俺は部屋を飛び出した。裸のまま廊下を走り、風呂場に行って鍵を掛けた。浴槽にお湯を入れて頭を突っ込んだ。その温度が俺の行為を叱ってくれると期待していた。
「何してるのさ!」
 俺を引っ張り出す人がいた。頭の熱さが瞬時に消えていく。浴槽から溢れたお湯が足を濡らした。冷たくなっていた指先が生を求めていたことに気が付いた。
「邪魔するな……」
「邪魔って、何だよそれ! お風呂に頭突っ込んで、それで自殺でもするつもり? そんなに死にたいの、ロイを困らせたからって、たったそれだけで君の人生を終えようって言うの? 馬鹿だよ、そんなの、大馬鹿野郎の考えることだ! 君はそんな自暴自棄になるような人じゃなかったでしょ――」
 何やら切羽詰まった様子で説教をするのはヨウトだった。俺にはどうして彼がそんなに慌てているのか理解できない。
「自殺って何だよ。俺は自殺なんかしたくない」
「えっ? だって、だって、お風呂に頭を入れてたじゃないか」
「それがどうして自殺に繋がるんだ」
「どうしてって――息ができなくなるでしょ。お湯だって水だって同じだよ、人間は水の中じゃ生きられないんだから」
 ヨウトの説明を聞き、やっと俺は水の中に頭を突っ込むことが危険なのだと思い出した。そんなことは今の今まで忘れていた。混乱は俺を正常から遠ざけるんだ。
 涙が出た。最近泣いてばかりだ。俺の中の常識が崩れていた。当たり前と思っていたことが当たり前じゃなくなっていた。そしてそれが壊れたことにすら気付くことができない。俺はもう元の自分に戻れないんだと思った。このままラザーに引きずられて破壊されるか、それが不可能なら自ら気付かずにこの命を崩壊させているんだろう。そして俺がいなくなったことに誰も気付かない。
「……う、うっ……」
 押し寄せるのは悲しみか。その言葉の意味は知っていたのに、向き合ったのは初めてかもしれない。支えがなければ立てなかった。自分一人で走っているわけじゃないことに気付いたから。
 ヨウトは俺を抱き締めてくれた。彼の胸の中で子供みたいに泣いた。何をしてもうまくいかなくて、自殺願望があってもおかしくないと思うようになっていた。怖かった、知らないうちに刃を舐めるなんて、そんなことを自分が経験するなんて想像したこともなかったから。誰でもいいから助けて欲しかった――そんなふうに助けを求めることしかできない自分が情けなくて嫌になっているというのに!
 剥き出しになった感情をヨウトは何も言わず受け止めてくれた。彼に抱かれながら俺は母のことを考えていた。もし母が生きていたならば、こうして俺の心を撫でてくれただろうかと考え、でも母は本当の母じゃなかったから、やはり俺の気持ちは分からないままなのだろうかと怖くなった。
 愛が欲しかった。どれほど時が流れても変わらない愛、何もかもが変わっても一貫して感じられる愛を、誰か親しい人の内側から感じていたかった。それこそがラザーの求めているものなのではないかと想像するけれど、俺が探しても見つからないものをどうやって与えればいいかなんて、俺は彼と同じ罠にはまった鳥だった。
 生きる為には空に帰るしかない。だけど、今はまだ、このままでいさせて欲しい。だから目を閉じる。記憶がここで途切れてしまうように――。

 

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 俺が落ち着きを取り戻すまで、ヨウトはじっとしたまま俺の傍にいてくれた。幼い顔をした泥棒の少年は俺より多くのことを知っていて、だけどある時を境に止まった時間は彼を少年から成長させなかったのだろう。特に親しい間柄でもないのに俺を見捨てることもなく、彼は幽霊の身体を支えとして俺に差し出していた。そこにあった感情は愛だった。他者に向けられた同情に似た愛、ラザーラスが嫌っていた瞬間的な無常の愛、それこそが彼から生まれ出た魂の鼓動だった。
 溢れていた涙が引っ込み、頭が夢から覚めたなら、ヨウトは俺から離れて服を持ってきてくれた。それを受け取って素直に着ると、相手はラザーの様子を見てくると言って風呂場から出ていった。一人だけ取り残され、まだ軸が分からない身体のまま立ち上がると、窓の外に見えた世界が暗くなっていることに気が付いた。もっとよく見ようと窓に近付くと外の音が聞こえてきた。雨が小屋の屋根を叩いている音だと分かった。黒い雲が太陽の光を完全に遮断し、打ちつける雨は大粒で激しい。俺は風呂場を後にした。
 廊下を歩いているとヨウトとラザーに出くわした。ヨウトはラザーにシャワーを浴びせる為に風呂場へ行くと言った。ヨウトに手を引かれているラザーラスは意識のない目で立っていて、俺は彼に何一つとして声も掛けられず、二人の遠ざかっていく後ろ姿だけを見つめていた。
 ラザーがいた部屋に戻るとドアが開いていた。床の上にはラザーが着ていた黒服が捨てられていた。シャツもズボンも乱雑に放り投げられている。俺はベッドの傍に座り込み、息を吐いた。部屋の中に嫌な匂いが留まっていた。
 何も考えたくなかった。考えれば考えるほど分からなくなるし、いくら考えたってそれが現実になるわけじゃないことを知っていたから、なるべく考えずに済むよう自分を操作していたかったのだろう。だから口を閉じていた。知らないふりをしようとした。彼の顔を見なかった。見なかったから、相手の感情が分からなかった。
 俺の中には後悔があったが、もはや後悔がどんなものなのかさえ分からなくなっていた。あの時の自分がどんな自分だったなら、何事もなく幸せに暮らしていられたのだろうか。何も望まなければ良かったのか、何も与えなければ良かったのか――組織で生きる人のように、体裁を気にせず自らの欲望に忠実に行動できたなら、自己の幸福だけを考えて生きることができたなら、幸せでいられたのだろうか。他者を傷つけて踏み躙り、這い上がろうとする人の背を踏み台にして駆け上がり、そうやって高いところにある幸福を掴むべきだったのだろうか。たった一人の幸福、孤独の中に隠された、崖の先端に生まれた一輪の花を摘み取ることこそが、人間にとっての正しい選択だというのだろうか。犠牲のうえに成り立つ世界は、だからこそ俺たちを人間として生かしているのだろうか。
 だけど、矛盾が笑う。一人では生きていけないくせにと俺を罵る。献身的な愛が誰かを救うことができるのなら、俺はそちら側に傾きたいと思っていた。それでも分からなくなって苦しくなる。他人の為に自分を犠牲にすることは、一体この世の中にとって何なのだろう。いつか俺が彼を否定した時と同じように、単なる自己満足の材料だと言い返されるのだろうか。俺はそれに抵抗できない。自分の口から出た言葉を、自分の考えで殺すようなことはできないんだ。
 眠気を感じて目を閉じると、俺を起こす音が鳴り響いた。あまり聞いたことのない音だったのでびっくりして、きょろきょろと辺りを見回して音の正体を探ってみた。それは携帯の呼び出し音で、自分のものではなくラザーラスのものらしい。床に捨てられていた黒いズボンのポケットに手を入れてみると、一つのナイフと共に彼の携帯電話が押し込められていた。それを外に出して確認してみる。
 俺は自分でも何を考えているのか分からずに、彼の携帯を耳に当てて電話に出てしまった。そうやって相手の声が聞こえてくる時を静かに待った。
『もしもし、ラザー?』
「ああ、リヴァ……か」
 知っている声だったので安心したのかもしれない。緊張していた身体が前のめりに倒れた。前髪が額に当たって少し邪魔になった。
『あれ、樹? なんで君がラザーの携帯を使ってるのさ。ラザーはどうしたの?』
「シャワー浴びてる」
『ええっ、じゃあ君、勝手にラザーの携帯使ってるんじゃないの? ばれたら怒られるでしょ、やめなよ』
「そんなこと、どうでもいいことじゃないか。それより何の用で電話なんかしたんだ。話すことなんて何もないよ」
 頭がずきずきする。額に手を当てても痛みはやわらがない。日常の頭痛は頭を重くしていた。ただ快楽を感じている時だけは頭痛のことは忘れられるんだ。
『あの、えっとね、君たち二人とも学校を休んだでしょ。どうして休んだのかなって、気になって電話したんだ』
「保護者気取りかよ」
『違うよ! 友達のこと心配したらいけないって言うの? ぼくは君たち二人のことが心配なんだ。本当にどうしたの? 最近二人とも不安定で仕方ないよ。ねえ樹、教えてよ。君はそんな、他人に冷たくできるような奴じゃなかったはずだろ?』
「……うん。俺はお人好しだったから」
『そうだよ、君は馬鹿みたいにお人好しだったじゃないか。それなのにどうして最近は――』
「黙れ」
 お願いだから黙ってくれ。もうこれ以上昔のことを思い出させないでくれ。戻りたくても戻れないものに目を向けてはいけない。まだ自分が光の魂なんだと勘違いしてしまいそうになるから。
『樹、あのね、君は疲れてるんだよ』
「だったら何だよ、疲れてたなら、何をしたって許されるのか? 暴言を吐くことも許されて、同性と寝ることも許されて、友達をレイプすることも許されるっていうのか? 疲れてたなら、頭が正常じゃなかったなら、何をしようとも許されるって――」
 相手の声が聞こえなくなっていた。はっとして顔を上げる。突然弁解しようと口を開けたが、自分が何を言ったのか思い出せない。
『なに、それ。……何の話?』
 電話越しに聞こえてくる相手の声が震えていた。この世に神がいるのなら、俺の過ちを消して欲しいと願ってしまう。
「ええっ、俺、何か言った――何を言ったんだ、余計なことを言ったんじゃないのか」
『同性と寝るとか、友達をレイプする……とか』
「そんなことは言ってない!」
 昨日の景色が甦る。昨日も電話に向かって怒っていた。その怒りがラザーを怖がらせ、今日の俺の行動に繋がった。怒りは平穏を遠ざける。そんなことは分かっているのに、相手の言っていることを肯定してはならない気がした。
『言ってないって、君が言ったんじゃないか、ねえ分かってる? それってどういうことなの、どうしてぼくにそんなことを言うんだよ?』
「どうしてって――そんなの――知らない」
『樹、今から君のところに行くよ。だから君がどこにいるか教えて欲しいんだ。師匠さんの家にはいないんでしょう? ね、怒らせたりしないからさ、君が住んでる場所を教えてくれないかな』
「来たら襲うぞ」
『え?』
 手で口を抑える。その手が震えていた。電話の相手はこの震えを知らない。俺だけが俺の恐怖に気付いている。
『あの、樹……君は本当に樹だよね? そっくりさんのヴェインじゃないよね?』
「う、うん……ヴェインじゃないよ。でも、俺はサディストなんだ」
『またその話をするの? 君がサドだなんて、ただの思い込みなんじゃない?』
「だって俺は鞭で打ったんだ、怖がってるあいつの上に、加減もせずに鞭を振り下ろして――今日なんか、拒まれただけで腹が立って、嫌がるあいつを力ずくで押さえつけて、それで」
 喋っているだけで息が上がる。次の言葉が出てこない。話したいことはたくさんあるのに、伝えるべき要素は山ほど積み上げられているというのに!
『あの……樹。あのね、その、君の言うあいつって誰のこと?』
「そんなもの、ラザー以外に誰がいるんだよ!」
 遂に言った。ばれてしまった。俺は相手を引き込んだんだ、かつてラザーが俺を引き込んだように、今度は俺がリヴァを引き込んでしまった! 悔しくて涙が出る。でも本当は笑っていた。
『じゃ、本当なの……君がラザーに、そういうことをしたっていうのは――』
「そうだよ! 俺は馬鹿だから、自分が何をやってるか気付かないんだ! いつもいつも後から気が付く。誰かに止めてもらわないと自分で止めることすらできないんだ! 俺は、ああ! もう駄目なんだよ、気付かないうちに自殺しようとしてて、ヨウトに止められなきゃきっと死んでいた! ラザーと一緒にいたくない、でもラザーから離れたくない! どうしてかって、そんなこと、自分でも分かっているさ! 彼を愛してるんだよ! 俺は彼を愛しているから、愛しているから、愛されたいと願ってしまうし、支配したいと思ってしまう! 自分の言うことだけを聞く操り人形みたいにしてしまいたいって、そんなことを知らないうちに望んでいたんだ! それはいくら指摘されても抑え切れなくて、良くないことだと分かっているのに感情が止まらないんだ! どうして! 嫌われるのに、打ったら嫌われるのに、怒ったら怯えさせてしまうのに、それでも続けてしまうのはどうして? なあ、どうして? どうしてなんだ? 俺はラザーのことが好きなんだよ、愛してるんだよ、彼には幸せになって欲しいのに、どうして俺が彼を傷つけなくちゃならないんだよ? そんなのおかしいだろ、おかしいよな? おかしいって言ってくれよ、頼むから! 俺はもう、どうしようもない、過ちばっかり繰り返してる! このままじゃ心が壊れる――何も考えられなくなって、誰にも気付かれないまま死んでしまうんじゃないかって、そんな恐ろしいことばかり考えてしまうんだ。どうして! 俺は関係なかったはずなのに、あいつが俺を巻き込んだから――いや、違うだろ! 巻き込まれたことは関係ない、関係なかったのに、俺がそんなふうに考えるからいけないんだ、悪いのは俺なんだ、俺だけなんだよ! ラザーは悪くない、あいつはずっと我慢して、俺たちの為に我慢して、それに俺が気付いてしまって……助けようって手を差し伸べて。ラザーは俺の手を握った。俺はラザーを引っ張っていた。でも俺を引っ張る人は誰もいない。誰か俺を引っ張ってよ。光の元へ案内してよ。助けてよ……誰か。誰でもいいから、俺をここから救ってくれ――」
『樹』
 俺の名を呼ぶ声がする。誰かに支えてもらわなきゃ、俺は一人で歩けない。俺を呼ぶ人は支えてくれるのか? 恐ろしくなって放り出すこともなく、最後まで傍にいてくれるのだろうか?
『今から、行くよ。君の傍に……君の手を握りに行くから。だから君がどこにいるか教えて欲しい。ぼくは知らないんだ。君のこともラザーのこともよく分かってない。それが君を怒らせる原因になるかもしれないけど、君を救う障害にはならないって確信してるよ。ぼくは君を助けてあげたい。君のことが大切だから、このまま見捨てることなんかできない。だから――教えて。君が今いる場所のことを教えて』
「こ、来ないでくれ。家にいてくれ。姉貴を一人にしないでくれよ、頼むから!」
 こんな時まで他人の心配なんて、昔の自分に戻ったみたいだった。だけどそれは本当に心配だっただろうか? 単に彼を遠ざけようとした言い訳だったんじゃないだろうか? だって俺はきっと、美しい彼の目をまともに見ることができない。
『大丈夫だよ、今日はお姉さんは泊まりの仕事なんだ。家にはぼく一人しかいない。明日の夜までには帰るようにするからさ、今は君の傍にいたいんだ。だって君はそんなに怯えているじゃないか』
「怯えてるって、俺が?」
 ラザーじゃなくて俺が怯えているのか。怒っていたのは俺じゃなくてラザーだったのか? どっちがラザーでどっちが俺だ。近付きすぎると心臓の鼓動も同じものみたいに聞こえて、そのうち二人が溶け合って融合するんじゃないかと思えた。
「あの、リヴァ……俺が住んでるのは、エダの兄の家らしくって、辺りは森に囲まれててよく分からないんだ」
『エダっていうのはスイネのことだよね? あいつに兄なんていたかな? ちょっと待ってて、上官に聞いてみるから』
「待てよ! 待って、それなら俺が行くから! 俺がリヴァのとこに行くから。どこにいるんだ?」
『どこって、君の家だよ。今は自分の部屋にいる』
「じゃ、行くよ。今から。勝手に外に出るなよ」
 話しながら立ち上がっていた。繋がりを切りたくなくて電話を耳に当てたまま自分の家を頭に思い浮かべた。まばたきをすると見慣れた玄関に立っていた。裸足のまま階段を上り、リヴァの部屋の前で立ち止まる。
 ドアを開けたのは相手だった。携帯を握り締めたまま出迎えてくれた。リヴァは驚いたような表情をしていた。俺はどんな顔で彼に会ったのだろう。
「ごめん!」
 逃げ出そうと背を向けたが、相手に腕を掴まれていた。その力がとても強く感じられたが、彼の姿があまりに眩しすぎて見ていられなかったんだ。リヴァは俺を引っ張り、自分の元へと引き寄せていた。彼の部屋の中に連れ込まれ、転びそうになった俺の身体を支えてくれた。
「なんで逃げようとしたの? 君からここに来たんでしょ」
「お前が綺麗だからだよ、俺はもう汚れて――汚れすぎてしまって、駄目なんだ。普通にあんたの顔を見ることもできない!」
「駄目って、何が駄目なんだよ。君が勝手に駄目って決めてるだけじゃないか。樹、ぼくの目を見て。昔みたいに目を見て話して」
 相手の声が怒っているように尖っていて、泣きそうになる感情を隠しながら視線を正面へと向けてみた。彼の銀色の目がこちらを見ている。その奥底にある思惑など分かるはずがない。
 何か言わなければならなかった。俺が言わなければ伝わらなかった。だけど何を言えば許されるだろう? 汚れを知らない相手なのに、どうして俺が彼を汚さねばならなかったのか?
「罰を――」
 全て言い終える前に目をそらしてしまう。相手は俺の肩に手を置いた。
「罰をくれ。俺を殴れ。ナイフで突き刺せ。鞭で打て! それが終わったら犯せ――ラザーが受けた苦しみを、俺に全部教え込んでくれ!」
「馬鹿なことを言うな!」
 鋭い音が耳に届く。遅れて痛みが伝わる頬。相手は俺の顔をはたいたんだ。はっきりと痛みが分かるほどの力で、子供みたいなわがままを言わせない為に。
「ぼくはそんなことをする為に君の傍にいるんじゃない。君が苦しんだところで何になるっていうの? ぼくは罰が嫌いなんだよ、今まで警察として人々に罰を与えてきたけどね、罰を与える身がどれほど苦しいか知ってる? 相手の可能性を奪うことがどれほど悲しいか知っている? ぼくは君の死神じゃないんだ、ぼくをそんなふうに使おうとしないでくれ!」
「いいから叱って! 俺を叱ってよ! 駄目な子だって、友達を大事にすることもできない奴だって、せめてそれくらいは言ってくれ! でないとまた繰り返してしまう――俺は、楽しかったから、あいつの苦しむ顔が見たかったから、だから止められなかったんだ! 俺に優しくしないでくれ、その裏に何があるか探ってしまうから!」
 彼の手が背中に回される。俺は相手に抱き締められた。ラザーやヨウトより下手だった。でも体温だけは誰よりも近くに感じられた。
「リヴァ、そのまま――やってくれ。俺を犯して。エダみたいに絶望を与えてくれ。何も見えなくなるくらいに、俺の身体を壊して」
「そんなこと、誰がするもんか」
「お願いだ。俺はお前がいいんだ。お前になら任せられるから。他の奴じゃ駄目なんだ!」
「電話、鳴ってるよ」
「……え?」
 リヴァは身体を離した。少し俯き、俺は手に持っていた携帯電話を眺めてみる。それは鳴っていないようだった。それでも聞こえた音に驚き、ラザーの携帯を床の上に落としてしまった。正面に立つリヴァが俺のズボンのポケットに手を入れてきた。そこから取り出したのは俺の携帯電話だった。音を発しているのはこっちの方で、俺は相手から自分の携帯を受け取った。
「も、もしもし……」
 電話を掛けてくる相手なんて一人しかいないと分かっているのに、俺はどうしても相手の呼び出しを無視することができなかった。窓に目を向けると空が暗くなっている。知らない間に夜が近付いているらしい。
『よお、樹君。今日もラザーラスと仲良くやってるのか?』
「――まだそんな時間じゃないだろ」
 からかうエダの声が頭の中を横切っていく。俺はこの人にだけは弱さを見せてはならないと感じていた。俺を見つめるリヴァに背を向け、開かれているドアの向こうにある廊下の白い壁を見た。
『あれ、そうだったか? じゃあ君は今フリーってことか。でもまあ、俺は君を誘う為に電話したわけじゃない。ちょっと伝えておきたいことがあってね』
「あんたの家は探さないって言っただろ」
『分かってるよ、そんなことは。俺が言いたいのはそのことでもない。もちろんラザーラスの居場所を聞きたいわけでもない。俺の独り言を聞いて欲しくて電話したんだ』
 相手の真相が見えてこない。なんだか悪寒がした。またよくないことが起こっているような気がする。昨日のことがきっかけとなって、物事がおかしな方向に流れ始めたのではないかと怖くなってくる。
「なんで俺が、あんたの独り言なんか聞かなきゃならないんだ」
『俺は今、君の通う学校の屋上にいる。ここはいつ来てもいい眺めだな。空には月がうっすらと見え始めてる。星の光も強くなってきてるが、更に時間が経てば輝きも増すだろう。この学校にはたくさんの生徒が通ってるんだな。今はもう全員が家に帰ってしまったが、お洒落をした女の子は可愛らしいし、自信がありげに騒いでいる男の子もガキっぽくて好きだ。この屋上で毎日ラザーラスと会っていた頃が懐かしいよ。そう思って今日は、あの頃みたいな気持ちになりたくなったんだ。だから俺は、君の友達の薫君に声を掛けた』
 胸をナイフで突き刺された気がした。手で胸を抑えてもナイフなんて存在していなかった。何か言わなければならないのに、喉が詰まったみたいに声が出てこなかった。そうやって俺が足掻いているうちに相手は電話を切ってしまっていた。
 考えている暇なんかなくて、俺は携帯を握り締めたままリヴァの部屋を飛び出した。階段を下りている途中で学校の校舎を頭に思い浮かべた。特殊な力が発動して俺をそこまで飛ばしてくれる。この世界では雨も降っていなくって、晴れた夜空が徐々に黒くなり始めているようだった。
 焦る気持ちを抑えて校舎に向かって走る。ただ鍵が掛かっていたから屋上へ直接移動するしかなかった。下よりも空に近い屋上に飛ぶと、手すりにもたれかかっているエダの姿が見えた。でも今は彼のことなんかどうでもよかった。
「やっぱり来てくれたんだ、樹君」
 相手の甘い声が風に乗って運ばれてくる。
「うるさい、薫はどこだ!」
「さあ、どこだろうねぇ」
 相手との距離はまだ大きい。これが俺だけの問題なら安心することができるけれど、相手が薫の居場所を知っているならもっと近くに寄って聞き出す必要があった。だから俺はゆっくりと彼に近付いた。相手の顔がよく見えるようになったが、周りに視線をやっても薫の姿はどこにもなかった。
「エダ、薫をどうしたんだ、なんでここにいないんだよ?」
「じゃあ君は、俺が薫君をどうしたと思っていたんだ?」
 返ってきた質問の意味が分からなかった。相手の行動全てが分からない。なぜ彼は俺の顔を見て笑っているのか。どうして相手は俺の腕を掴んだのか?
「たまたま見かけたんだ――学校の帰り道かな、あそこは。小さな公園に一人でいたから、ちょっと声を掛けてみたんだ。そしたら俺の顔を見るや否や逃げ出しちゃってさぁ、まいったね。俺ってそんなに怖いかな?」
「な、何だそれ――俺を騙したのか!」
「おや、どうしてそうなるんだ? 俺は薫君に声を掛けたとしか言わなかっただろ? 何も間違ったことは言っていないはず。そうだろう?」
「この、卑怯者!」
 両腕を掴まれ、顔を近付けられる。生温かい相手の舌が俺の首筋を舐めた。元からこれが目当てだったんだ、俺は簡単に操られてしまったんだ!
 濡れた唇を押し付けられ、口の中に舌が入り込んでくる。腕を掴む手に力が込められ、痛くなって逃げようともがいた。そうやって抵抗していると腹に重い痛みを感じた。そこにはエダの肘が当てられていて、よろけて床に身体が崩れ落ちてしまった。
「君は昔、言っていたよな」
 相手の楽しげな声が頭上から降ってきていた。腹の痛みが消えなくて立ち上がれない。
「ラザーラスの受けた苦しみを知りたいって」
 エダは片手をポケットに入れ、そこから銀のナイフを取り出した。それは見覚えがある気がした。ガルダーニアのベッドの下に落ちていた、ラザーの美しい銀髪を切り裂いたナイフと酷似している。
「そ、そんなこと、言ってない!」
「おや、そうだったか? でも君はあいつを救いたいんだろう? だったらあいつの痛みを知っておくべきだ。あいつと同じ経験をしておくべきだ」
 聞き覚えのある言葉を吐き出し、エダは俺の前にしゃがみ込んだ。片手を俺の頬に当て、もう片方の手で握っているナイフを目の前まで持ってくる。銀の冷たさを頬に感じ、目の下に鋭い痛みが走っていた。
 熱い血液が流れ出ている。それは赤い色をしているだろうか。ラザーの背から溢れていた、ベッドを赤く染めた色と同じ色彩なのだろうか。
「エダ……俺、あんたに」
 髪を乱暴に掴まれる。相手はナイフを走らせて少しだけ切った。黒い髪が風に乗って飛ばされていく。ラザーと違って長くはない、切る楽しみも少ない自分の髪。
「あんたに頼みがある。お願いが、あるんだ」
「俺の頼みを聞かなかった奴が、お願いだって? へえ!」
 服を掴まれてナイフで切られた。ヨウトに持ってきてもらった、少しだけ汚れていた服。ラザーの服はもっと切り刻まれていた。だからあの時白衣を着ていたんじゃなかったのか。
「あんたはきっと聞いてくれるよ――喜んで引き受けてくれるはずだ」
「そこまで言うなんて、どんな願いなのか気になっちまうなぁ」
 床の上に押し倒される。相手が覆い被さり、空に浮かんでいた月が見えなくなった。ラザーはいつもこんな景色を眺めていた? 相手が邪魔をするせいで、月のない空を見上げていたのだろうか?
「その願いってやつ、言ってみろよ。聞いてやるから」
 目の下の傷を舐め、相手は小さな声で囁いてくる。耳元に息が届いていた。こんなに近い距離で脅されたなら、誰が逆らうことができただろうか。
 あるはずの月が消えていて、星の姿もぼやけている。高すぎる空を見上げながら、俺はエダの目から視線を外すことができなかった。
「俺を犯して。ラザーと同じように、この屋上で、俺をレイプして」
 エダは俺を見下ろしていた。少しだけ驚いているようだった。やがてその驚きは笑みの下に隠され、ナイフを床に置いて俺のズボンの中に手を入れてくる。
「確かにその願いは断れないなぁ……お望み通り、君を犯してやるよ。一人で立てなくなるくらいに、精神的にも肉体的にもボロボロにしてやるよ――」
 エダは俺にキスをした。まるで噛みつかれたみたいに感じられた。そのキスが普段の倍以上も痛くて、俺の腕を掴む手にも大きな力が込められた。俺のズボンの中に入れられていた手は外に出され、彼自身の腰に伸ばされる。そうして彼が掴んだのは茶色の硬そうなベルトだった。
 俺は何をされても我慢しなければならなかった。ただ彼が俺を痛めつけようと見下ろしている姿を目の当たりにすると、早くも逃げたくなって震え出した身体を恨めしく思った。俺の後ろに守るべきものはなかった。これは俺が勝手に望んだことで、だから誰の迷惑にもならないはずだった。それでも感じてしまうこの気持ちは罪悪感なのだろうか。そんなことは分からないけれど、俺はもう彼から逃れることもできず、ラザーと同じ体験ができると喜ばねばならなかったんだ。
 月の見えない夜空の下、身体を売った自分が寝転んでいる。そうして始まる長い夜は、確かに俺が望んだ絶望の再現だった。

 

 

 

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