月のない夜に

 

 

 自分のベルトを地面に打ち付け、エダは大きな音を出して俺を脅迫しようとしていた。顔には悪人の微笑みが滲み出ていて、左手で俺の腕を掴む力は徐々に大きくなっていく。相手に切られたシャツを脱がされ上半身だけ裸になった。夜空に剥き出しになった肌には月光さえ届かない。腕を掴んでいた手は上部へと移動していき、肩を通り過ぎて首の位置でぴたりと止まった。彼の親指と人差し指とが肉の中へ食い込んでくる。
「打つのはやめよう。前にも言った通り、君は黙って打たれるべき人じゃない。だから今日は縛ってあげよう――なに、痛くはないさ。ちょっと身動きできなくなるだけだから」
 両手を頭上に持ち上げられ、彼のベルトで手首を縛られた。痛くないと言っていたのに、硬いベルトが直接肌に触れていてじわじわとした痛みを感じる。続いてエダは自分のシャツを脱ぎ、俺の頭の下にそれを広げて丁寧に敷いていた。
「え、な、何――」
 不安を覚えて声を出してしまう。相手は表情を変えなかった。
「タオルがないから、代わりさ」
 相手は袖の部分を手に取り、俺の目の辺りで結び目を作った。顔の上に降りてきたそれは俺の視界を奪ってしまう。
 真っ暗になった真ん中で相手に身体を触られた。首も胸も腹も触れられ、俺は相手のものになっていく。何かやわらかいものを押し当てられ、それが舌だと気付くことがなかなかできなかった。何一つ見えない世界の中では相手の腕が何本もあるみたいだ。目で見えないから次に触れられる部位が分からなくて、愛撫を受ける準備もできずに身体が必要以上に反応してしまう。声が出そうになると唇を塞がれた。息が詰まってもがいていると、彼の手が俺の下半身を触り始めていた。
「どう、目隠しされた気分は。……怖い?」
 耳元で彼の息遣いが感じられる。肌に食い込む指が至る所に存在していた。
「別に怖いなんて思ってない」
「君は嘘つきだな。その口は平気で嘘を吐き出す。ただ、身体の方はどうだろうな?」
 ぐい、と肌を捻られた痛みが脇腹の中を通過する。気付かないうちに俺は手をぎゅっと握り締めていた。何かが紛れ込んで指が一つずつ解かれていく。同時にズボンの上から太ももをさすられ、乳首にはやわらかい舌の動きが闇の中で感じられた。彼に身体を触られるたびに反応を抑制することができなくなる。まるで触られて喜んでいるみたいに大きく身体全体を弾ませて、彼の追撃が来ることを待ち望んでいるかの如く感覚を痙攣させていた。
「綺麗な身体だな。素直に、可愛らしく、従順に反応を示してくれる。そんな身体がこれほど細くて、ちょっと力を込めただけで折れてしまいそうなガラスの彫像だなんてね……月の光が更に美しさを増強させている。ただ、君はとても冷たい身体をしていることに気付いているか? 夜だから冷えているわけじゃない、君の心が凍えているから、体まで冷たくなってしまっているんだ。君の負の感情が君自身の身体を蝕んでいる。そうやって体温を奪い、精神を損傷させ、君の全てを破壊しようと企んでいる。俺は利用されているな……君の計画の表情も知らずに、危うく騙されてしまうところだった」
 俺の身体で遊びながら、相手はよく分からないことを言っていた。言葉の意味が見えてこずに困惑している間にも、彼の手が俺の身体から離れることは決してない。相手の体温を直に味わい、襲われているはずなのに、俺はそこから安堵感を覚えずにはいられなかった。このような罠に誰もが安易に引っ掛かってしまう。ラザーがエダに頭を下げてまで懇願したことは、この淋しさの埋め合わせの色を知ってしまった事実を物語っているのだろうか? 自分と同じ「人間」の体温が、俺にも同等の価値を与えてくれる。もしもラザーが劣等感に苛まれていた最中、この見え透いた罠の存在を知ってしまったとしたら――。
「おや、息が上がってきたな。俺に触られて嬉しいのか?」
「そんなこと――」
「……」
 自分の階級を守る為の台詞を口にしてみたものの、返ってきた手応えはあまりに淡白なものだった。相手はぴたりと動作を止め、何も言わなくなってしまう。一体どうしたことだろう、いつもなら俺を煽る言葉を吐き出しそうなものなのに、ちょっかいも出さずに手の動きを止めてしまうなんて。視界が真っ暗なので状況を呑み込むこともできず、心の中にむずむずとした不安感が押し寄せてくる。
「ああ、悪かった、急に黙ったりして。そうだな、今日は――時期が悪い。やめておこう」
「え?」
 まるで俺の胸中を知っているような言葉を見せた後、目の裏に焼きついた黒が刹那の中に消え失せた。ぱっと明るい景色が目の前に甦り、ようやく相手の姿を見ることができるようになる。そこで見たエダは自分のシャツを頭から被り、腕を袖に通してきちんと着ているという不可思議なものだった。彼の内部で何が起ったのか、混乱する頭ではいくら考えても答えに到達することはできない。
「何だよ、途中でやめて不満なのか? お前、まさか俺に惚れてんの?」
「な――馬鹿野郎、そんなわけあるかよ! 俺はただ、あんたが変な行動するから」
「変な行動って? 君の命令に従うこと?」
 ああ、なるほど。だから続きを拒んだのか。彼からもたらされた薬は俺の傷を癒してくれる。
「それだけで納得するのかよ、ちっ……俺は単純な奴に見えるか? あのラザーラスを巧妙に捕まえてたんだぞ」
「……どういうこと?」
 きちんと服を着たエダは俺の身体を起こし、地面の上に座らせた。それから俺の服を乱暴な手つきで放り投げてくる。とりあえずそれを受け取ると、相手の顔が少しだけ離れた位置にあった。
「どういうことか聞きたいのはこっちの方だ。お前、自分が俺に何を頼んだか分かってるのか?」
 彼は俺に探りを入れてくる。この人は、俺のことを知りたがっているのか? でも一体何の為に?
「どうなんだよ、呆けてないで答えろ」
「どうって――自分で頼んだことくらい分かってるよ。なんでそんなことを聞くんだ、あんただって納得してたじゃないか」
「納得なんかしてないだろ、俺は君があんまり大人しくしてるから、都合のいいおもちゃを見つけたと思っただけだ。でも……ええと、いちいち説明すんのって面倒臭いな。なあ樹君、俺は負の感情が目で見えるって話、誰かから聞いたことあったりする?」
 頭をぼりぼりと掻きながらエダは表情を幾つも変化させていた。それを眺めながら入ってきた情報は俺の中にも眠っていたものだったので、なんだか俺は戸惑いを別の方向へ捨ててしまった心地がした。
「その話なら、聞いたことあるよ。どういうことなのかよく分かってないけど」
「ああ、くそ! 分かってないなら意味がないだろ! あのな――どう言えばいいかな。自分の感情もそうなんだけど、俺の目に映ってる人間が怒ったり悲しんだり、とにかく負の感情を持った時、俺にはそれが黒い靄みたいなものとして見えるんだ。見えるだけで直接そいつに干渉することはできないんだけど、相手を虐めてる時なんかは、スポンジを握った時みたいに黒い靄が出てくるから面白がってたんだけどさ……まあ限度ってもんもあるよな。目の前の景色が真っ黒になるほど出てこられちゃ、こっちとしても気色悪くなってくるんだ。もう分かってると思うけど、さっき君に触れてた時、俺の視界には真っ黒な背景と黒に染まった君の身体しか映ってなかった。そして俺の言葉に対し、君が強がりを言った直後、君の身体は一瞬だけ黒に掻き消されたんだ。すぐに元に戻ったんだけど、さすがに俺もびびっちまって……ま、今の君には何もしない方がいいかなって」
 俺の前で喋るエダはすらすらと言葉を紡いでいるわけではなく、ところどころ言いよどみながら優しげな口調で話していた。彼が言っている過去の詳細はよく分からないけれど、大雑把にまとめると、つまり俺がおかしくなっているということだった。それを理解した俺の頭は身体の動作を停止させてしまう。
「まったく、こんなことになるなんてよっぽどだぞ。ラザーラスでさえここまで酷くなかったんだから。樹君、あいつと一緒に暮らしてんだろ? 仲良くやってたんじゃなかったのかよ?」
「……あ、あ――」
 身体が震えてうまく声が出ない。どうして俺は震えているんだろう。エダが怖いのか、それとも事実を言い当てられて慌てている?
「俺、エダ、俺、あいつを……」
「――おい?」
 誰かを心配している表情が目の前に迫ってくる。
「俺、あいつを――ラザーを今日、襲ったんだ」
 言い放った。俺の中にある秘密をぶちまけた。リヴァに教えた時とは明らかに違う、この感覚を俺はまだ知らない。
 相手は俺の言ったことがよく分からなかったらしく、口を開くもののなかなか言葉が出てこないようだった。まばたきはするけど新しい景色は見つけられず、息を吸い込むけど古いものを吐き出すこともできない、そんな宙に吊るされたような半端な過程に放り込まれているのだろう。ふとそこに憐みを感じ、彼を助けてやりたいと思った。だから目をそらさないまま自分の秘密を壊していく。
「嘘なんかじゃないんだ、ラザーが俺を拒んだから、本当に突然拒まれて、突き放されたような気がして怖くなって――だから無理に押し付けようとした。あいつは何度も首を振って拒否してたのに、俺は自分のことしか考えてなくて」
 話すことで許されるとでも思っているのだろうか? これは懺悔でも何でもない、たった今俺を騙して襲おうとしていた男に、どうして自らの醜態を晒すような真似をしているんだろう? ううん、本当は分かっていた。俺は可哀想な人として、彼からの同情を期待し、助けてほしいと願っているんだろう。だけど相手が悪すぎやしないか? ともすれば地獄の底にでも突き落とされそうな男を選び、俺は一体何を満足しているんだろう?
「それとさっきの君の願いと、一体どう関係しているんだ。君はあいつと寝て楽しんだんだろ?」
 明らかに狼狽したエダの声が夜空に吸い込まれていく。無数の星はそれをじっと見つめるだけで、決して癒そうとはしない。
「楽しんだ……確かにそうかもしれない。あいつの身体は慣れてるみたいで、きっと無自覚のうちに俺を楽しませてたんだろう。でもだからこそ後悔してるんだ。ラザーは俺の友達なのに、単なる友達でしかないのに、俺はあいつを心の底から愛するようになってしまって、後戻りできない感情を抱いてしまったんだ。その意志が暴走して、俺は欲望を抑え切れなかった。彼と一つになりたいって願望が、自制心を踏み倒して独り歩きしてしまったんだ。俺は、悪い子なんだよ――同情を抱くだけなら綺麗でいられたのに、それが愛情になった時点で世界は壊れ始めてたんだ。俺はそれに気付いていたのに、何も知らないふりをして嘘をついていた。それを続けたことによって悲劇は静かに芽吹いていた。あいつと同じ苦しみを知らなきゃならない。逃げたいのに逃げられない絶望感を、他人の支配下で服従する悔しさを、この身に刻み込んでくれなきゃあいつと同じところには立てない。同じ目線で世界を見ることすら叶わないんだから! だから、あんたに頼んだんだ。あんたなら臆病なリヴァセールと違って、俺を情けもなしに刺し殺してくれると思ったから。でも……違った。余計な力のせいで踏みとどまって、俺のことを叱ってくれない。どうして俺に優しくするんだよ、ちゃんと怒ってくれないと、俺はまたラザーを襲ってしまう! あいつの苦しむ顔を知った俺は、あいつの口から恐怖が漏れ出すことを待ち望んでしまうし、あの黒い鞭だって俺の望みに当てはまってしまうから! エダ、お願いだ、後生だから俺を苦しませてくれよ! なんなら殺してくれても構わない――どうせいつかは死ぬ命なんだ、その時をずるずると先延ばしにするよりも、ここで消えちまった方がラザーだって悲しまないだろ! だから、早く! 早く俺を――壊してくれ!」
 相手の身体にしがみついて目の前で訴えたのに、彼は俺の意見を肯定したりしなかった。ただ冷めた目つきで俺の顔を見つめ続け、だけどその表情の裏には静かな炎が燃えている。
「やばいな……相当やばい。巻き込むつもりはなかったんだが、これは明らかに俺のせいってことか?」
 暗い顔をした相手はまばたきをして目線をそらす。そうやって吐き出したのは独り言だったのだろうけど、それははっきりとした色合いで俺の元まで届けられていた。
「あのな……どう言えばいいのか分からないが、君だけが罰を受けるのはおかしいんじゃないか? 君の話を聞いてると、そもそもの原因はラザーラスが君を拒んだからなんだろ? だったらあいつの方が悪いんじゃないのか? いや、あいつだけが悪いわけでもないか……ええと、とにかく君はラザーラスとうまくいってたんだろ?」
 俺の肩に両手を乗せ、落ち着かせるようにゆったりとした口調でエダは言う。
「うまくって何」
「君はラザーラスを好きなんだろ? あいつに友達以上の感情を抱いてるんだろ?」
 彼の言葉に俺は頷く。
「そしてラザーラスも君を愛している。違うか?」
「ラザーは俺を愛してるって言ったんだ」
「そうだな、ラザーラスは君を確かに愛している。それで……そう、今回の喧嘩の原因は、あいつが君を拒んだことだ。君はあいつを愛しているし、あいつも君を愛してるってことを君は知っていたから、ラザーラスが君を拒んだことが理解できなくて、それで衝動的にあいつを襲っちまったんだろう。でもな、樹君。あいつにだって言い分があるだろうし、気分が乗らないことだってあるだろう。それを一方的な感情で押し通そうとするのは危険なことだと思わないか?」
「俺はただキスして抱き締めただけだ、それ以上のことをしようとは思ってなかった! それなのにあいつが、俺の身体を突き飛ばしたりするから――」
「おい、落ち着けって」
 また苛々してくる。あいつが俺を怖がる理由が分からない。お互いに全部見せ合ったと思ったのに、一つ壁を隔てた場所から付き合われてるような気がして嫌だ。
「ラザーは俺のことを認めてないんだ。あいつにとって俺なんか、長い時間の中に埋もれてしまう瞬間的な存在であって、あいつは俺と本気で付き合うことを恐れてる臆病者だ! 俺と別れる時が来ても悲しまなくて済むようにって、俺に深く入り込もうとせず、表面上だけの愛を振り撒いて、自分の気持ちに正直になることもできない自己犠牲を生業とした操り人形じゃないか! ずっと一緒にいられないからって、それだけの理由で立ち止まってるんだ、あいつ。それは仕方のないことだし、そのままでもいいことなのに、俺の考えとラザーの考えは根本的な部分から異なってるんだ。だったら俺は、彼に合わせなきゃならないのか? あいつの価値観に同調して、俺もあいつと同じように不老不死にならなきゃならないのか? いや……そうだ、そうだったじゃないか。エダもケキもサクもティナアも、俺の力を使ってそうなったんだろ? 黒いガラスを使って不老不死になったんだろう? だったら簡単じゃないか、そんなこと――俺は今すぐにでもラザーの希望通りの姿になることができる」
「待て、待て。早まるなよ、せっかく普通の人間になれたってのに、あいつなんかの為だけに命を投げ出すもんじゃないって。あのさ、ええと、恋をしたら周りのことが見えなくなるってよく言うだろ。君は今、そういう状態なんだよ。相手に気に入られようと思ったり、相手を独占しなきゃ気がすまなかったり。君はさ、君自身の望みを忘れてるんじゃないのか? 君が本当に願ってることは、あいつの為に自分の時を止めることなのか?」
 違った。それは明らかに違っていた。喉の奥に蓋をされ、声を出すことができなくなる。
「そう、違うだろ? 君はあいつの為のおもちゃじゃない。君は君だ。君の望むことをすればいい。……なあ、君は何を望んでる?」
「望み――」
 そんなものがあっただろうか。ラザーの為に頑張って、愛するたびに傷ついて。それは俺の望みだった? それはラザーの願いだった?
「分からない」
「……そうか。だけど、まあ……今は負の感情が強すぎて、ちょっと見失っちまってるだけさ」
「俺、まだ黒い?」
「そうだな」
 俺は心の病でも患ってるんだろうか。そしていつかは生きる気力を失って、あいつに殺されることを望むようになるのだろうか。なんだかそれはアニスみたいだ。ラザーはそういう人種に惹かれるんだろうか。
「ああ、おい、そんな落ち込むなよ……まいったな、全然消えないじゃないか。くそ、こういう時ってどうすりゃいいんだ?」
「エダ、俺だってどうすればいいか分からないんだ。早くこの迷宮から抜け出したいのに、どんどん奥へ進んでる気がする。俺を助けたいんならここから連れ出してくれよ。空でも飛んで、何者にも邪魔されない力で、この黒い苛々を吹き飛ばしてくれよ」
「吹き飛ばすって言っても、そればっかりは君の心の問題だからなあ……君が嫌ってる俺が介入したって、ますます負の感情で埋まっていくだけだと思うんだが」
「じゃ、何かないのか――強制的に負の感情を消す物とか」
 ないものねだりをする俺の顔を見て、エダは困ったように息を吐き出す。どうやら本気で心配してくれているらしい。俺はいつの間に彼と仲良くなってしまったのだろう。元はといえば、彼がラザーを狙ったことがいけなかったのに。
「嫌なことやつらいことを忘れさせるものならあるが、それは君が手を出すべきものじゃないと思うな」
「え? な、何それ」
「何って、分からないか? 薬だよ」
 ほんの少しだけ期待して、次の一秒では諦めていた。誰に言われるまでもなく、エダの言う「薬」に手を伸ばすべきではないと分かっていた。
「……あんたもそれ、使ってんの?」
「まあ、たまには。でも最近は使いすぎたせいか、効果が出なくなってきてるんだよな。切れても欲しくならないし。とにかく君はやめとけよ。一度手を出したら、安易に戻れなくなっちまうぞ」
「分かってるよ――」
 ため息ばかりが出る。誰も俺を救ってくれない。でも薬には頼りたくなかった。それがもたらす快楽がどんなものなのかは知らないけど、どう考えても危ないものだってことだけは分かってるから。
「あの、樹君……そんなに思い詰めてるならさ、毒性の弱いやつでも試してみるか? 依存性もない睡眠薬みたいなもんだから、頭がやられることもないだろうし――」
「うん……それ、ちょうだい」
 自分でも驚くほど素早い返事を口にしていた。さっきは否定していたのに、睡眠薬なら問題ないと思ったのだろうか。エダは親切心から言ってくれてるんだし、もし危なくなったら助けてくれるだろう。それに、一度だけなら大丈夫。後から欲しくなっても我慢すればいいんだから。
 ――我慢? 我慢だって? 馬鹿な、俺は、それができなくて苦しんでるんじゃないか!
「俺の部屋に行こう。そこに薬を置いてるから。君はあの部屋は嫌いかもしれないが、気にしないようにしてれば平気でいられるだろ」
 エダは俺の手を取り、立ち上がらせた。彼はラザーより背が高いことに気が付いた。ラザーはエダの前では子供みたいに扱われたのだろうか。ロイのような幼い顔で、自分を殺して身を捧げたのだろうか。そしてエダはラザーを抱いた? あの腕で、力を込めて、骨を折る覚悟で抱き締めたのかな? ラザーのこともエダのことも分からなくて嫌になる。俺はどこまでも嫉妬深い、どうしようもないクズ野郎だった。
 ふと肩に重力を感じ、身体が引っ張られて傾いてしまう。俺はエダに腕を回され身を寄せる形になっていた。その仕草がまるで恋人のようで、まさか俺はエダまで愛するようになってしまったんじゃないかと考えずにはいられなかった。

 

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 暗い部屋の中に連れ込まれ、俺は白いベッドの上に座らされていた。それは元は紙や本が積み上げられてベッドとして機能していなかったものだが、部屋に入るや否やエダが邪魔な物を全て片付けたので使えるようになったのだ。ナイフで破られたシャツの代わりに黒い服を渡され、俺が着替えているうちに彼はアルコールランプをガラクタの中から引っ張り出していた。古風なやり方でお湯を沸かし、大きめのカップにそれを入れて手渡してくる。上からカップを覗くと液体はクリーム色をしていた。湯気が顔に絡みつき、手のひらに温かさが伝わってくる。
「……これは?」
「ホットミルクに薬を入れたんだ。変な色をしてるだろうが、コーンポタージュだと思って飲んでくれ」
 彼に言われた通りにホットミルクを口につける。色は別物だが味はよく知っているものだった。
「おいしい」
「ん、よかった。それじゃ適当にくつろいでてくれ。そのうち眠くなるだろうから、部屋の外には出るんじゃねえぞ」
 部屋の入口へと歩きながら彼は言った。置いていかれる気がして不安になる。
「待てよ、どこに行くんだ」
 反射的に呼び止めるとエダは驚いたように振り返った。その表情は俺に後悔を押し付けそうだ。
「ちょっと外をふらつくだけだよ。まだ何か聞きたいのか?」
「そう……だよ」
 何も考えずに発したはずなのに、俺の言葉は正直なものだった。聞きたいことはたくさんある。たくさんありすぎて困ってしまうほど、一生かけても全部聞くことができないくらい、とにかくたくさんあってそれを言いたかったんだ。
「おい、そうなのか? 俺のことは嫌いなんじゃなかったのかよ?」
 エダは俺に近付き、目の前に立った。その姿は威圧的だが、以前のような恐怖は感じない。俺は彼のことを信頼しているのだろうか。ラザーに酷いことをした相手なのに、その罪さえ許そうとしているのだろうか?
「あんた……俺があんたを嫌ってるから、自分から消えようって思ってたのか?」
 試すようなことを聞くと、相手は自然な笑顔を作る。
「……当たり。よく分かったな」
「変な奴。ラザーのことも俺のことも虐めてたくせに」
「ま、俺の中にも良心くらいはあるってことだろ」
 良心だけでここまで親切になるだろうか? しかし俺は相手を疑ったりはしなかった。どうしたって疑うことができなくなっていたんだから、それ以上のことを俺に求められてもどうしようもない。
「不満そうだな」
「あんたが急に態度を変えるからだよ」
「へえ」
 エダは俺の横に腰を下ろす。肩に腕を回し、身体をぴったりとくっつけてきた。
「それで、聞きたいことってのは?」
 彼の顔が耳元にある。喋るたびに息が頬にぶつかって、また逃げ出したくなってきた。
「……あんた、さっき言ってたよな。俺の一方的な感情だけで行動するべきじゃないって。でもそれってあんたにも言えることなんじゃないのか? あんただって自分の欲望だけを優先して、ラザーの気持ちなんか少しも考えてなかったじゃないか」
「まあ、そうだな。でも俺はいいんだよ」
「どうして!」
「だって俺は典型的なサディストなんだぜ? そいつは性癖みたいなもんだし、抑えようと思っても抑え切れないところがある。それに、俺はラザーラスを襲っても、君みたいに後悔したり思い詰めたりするようなことはなかったからな。俺はサディストの自分を認めてるし、それを変えるつもりもなければ、嫌ってるわけでもない。他人を苦しめることを楽しむことができるからな。君も苦しかったら俺みたいになればいい。ラザーラスを愛してるんなら、君なりの方法で愛を示せばいい。彼を小部屋に監禁し、両手に手錠を、両足に足枷をつけて、口にはさるぐつわを噛ませ、服は着せないで、首には首輪でもつけてやればいいんだ。毎日あいつに鞭を振り下ろし、泣きじゃくるまで痛めつけて、許しを請ったらキスしてやるんだ。優しく、癒すように、ひとときの安心を与えてやれ。そうやって奴を油断させておいて、彼が心を許した隙に地の底へと引きずり込んでやるんだ。ああ、考えただけでもぞくぞくする! あいつの顔が恐怖に歪み、崩れ落ちていく刹那は何とも言えぬほど素晴らしいものだ! なあ、君もそう思うだろう? あいつを襲って楽しめたのなら、いっそ自分の欲望に忠実になった方が身の為だと思うぜ」
 彼が言わんとしていることは、一見俺を仲間に引き込もうと企んでいるようにも見えるが、その裏にある心情は俺を心配しているものだと気付いていた。この真っ暗な組織の中でも生きていられる人だから、少しスパイスを加えてやれば赤にも黄色にも染まりやすいのだろう。何より自分以外のもの、或いは自分自身だけでもいいが、何かしら興味を抱いている人は何色にも染まることができる可能性を持っている。それが今、エダの中にある心の動きなんだろう。
「悪いけど俺は、あんたみたいなサドにはなれないよ。やっぱりラザーには幸せになって欲しいし、できれば笑っていて欲しいから」
「ふうん、それが君の望みか。ま、いいんじゃねえの? 愛する者の幸せを願うのは、人として当たり前のことだもんなぁ」
 軽い口調でエダは言ったが、俺は彼に言われるまで自分の望みを知らずにいた。彼の言うようにそれは当たり前で、特別気にかけていることでもなかったから、望みを聞かれた時にも瞬時に答えられなかったんだろう。
「エダの望みは何なんだ?」
「俺か? 俺は……そうだなぁ。今は無くなっちまったかな。昔は兄貴の幸福を願ったけど、兄貴は自分から死を選んじまったんだし」
 胸の奥が針で刺される。忘れられない痛みが刻まれ、俺の中でいろんなものがぐるぐると回り始めていた。
「あのさ。俺、あんたに謝らなきゃならないんだ。あんたの兄の家のこと――自分で探せなんて言ってごめん。本当はずっと知ってて、でもそこでラザーと一緒に住んでたから、身を守る為に嘘をついてたんだ。だから、ごめん」
 あっさりとしていた。まるで手元に台本でもあるみたいに、何の躊躇いもなく自らの罪を開け放してしまう。エダは驚きもせずに俺の顔を見ていた。ただしばらく黙り込み、俺の中から何かを引き出そうと目の奥を真剣に探っているようだった。
「……そんな事だろうと思ってたさ。君が「まだ見つかってない」とも言わず、「時間が欲しい」と言っていた時点で、何かあると疑うのが常識だろ? でも、まあ、嘘をつかれるのは構わないさ。俺にとってはそれよりも、兄貴の家が無事だってことの方が嬉しいからな」
 薄い微笑を貼り付けて、エダは穏やかに俺を許した。それはスイネの時の顔でもなく、人を騙そうとするエダの顔でもなく、一人の人間として家族を想う純粋な表情だったのだろう。そんな相手には心を許してしまいそうになる。その場限りの優しさだとしても、腹の底から信じてしまいそうになる。彼を信じても大丈夫だろうか? 信じられないことばかりを見せられた相手だけど、それでも信じたいと思うのはいけないことなんだろうか?
「それじゃ、樹君。そこまで案内してくれるかい?」
 肩に手を置き、相手は耳元で小さく囁いてくる。ただ俺は既に指先の感覚が無くなっていた。次第に重くなる目蓋の存在に気付き、腰に回された腕に引っ張られ、相手の身体にもたれ掛かる形になる。
「――眠くなってきた」
「薬が効いてきたんだな。だったら、兄貴の家の件は君が起きてからにしよう。今日はゆっくりとお休み。ぼろいベッドだけど、いい夢見ろよ」
 指先から身体の芯へと進むように、徐々に意識が無くなっていく。俺の身体は全てエダに預け、何もかもを彼に任せて目を閉じた。俺は信じることも疑うことも忘れてしまっていたのだろう。最後に聞こえた相手の声は頭の中で反響し、俺の中にあった黒いものを否応なしに追い出してくれていた。

 

 

 一体どれくらいの時間を夢の中で過ごしたのだろう。現実から逃げ出したくなって、瞬間的な安心を得て、それを幾度破壊すれば救われるのだろう。目を覚ますと黒い天井が目に入った。どうしてだか頭がすっきりしている。いつもは重くて仕方ない身体も軽く感じられ、起き上がると部屋の中の状況が寝起きの頭でもよく理解できた。
 窓がないので光が差し込むことはなく、暗い地面にはたくさんの紙屑が散在している。本棚には骨董品のような壺が置いてあり、その隣には触っただけで粉々になりそうな本が少しだけ保管されている。俺が座っているベッドの向かい側には赤褐色のソファが設置されていた。そのすぐ傍に小さな棚が置かれていて、近くには机と椅子が綺麗に並べられている。ただこの部屋の持ち主の姿はどこにもなく、俺は一人だけ白いベッドの上で取り残されているようだった。
 身体だけでなく頭も軽くなっているような気がして、そのせいか何も考えられずにいた。何かいろいろと考えなければならないことがあったはずなのに、俺の中の何かが邪魔して考えずに済まそうと目論んでいるのかもしれない。そうやってぼんやりと過ごしていると、扉が開いて長身の男が部屋の中に入ってきた。
 それはどうやらエダらしかった。きちんと扉を閉め、鍵まで掛けてふらふらとした足取りでソファへ向かう。壊れたロボットのように前のめりに倒れ込み、そのまま何も言わず静かになってしまった。
 なるべく音を立てないようそっと近付くと、彼の身体が傷だらけになっていることが分かった。シャツが破れて背中の傷がよく見えるようになっている。その傷跡は見覚えのあるもので、俺は彼が鞭のような物で打たれていたのだと判断することができた。
「エダ」
 小さく呼びかけると相手は身体を転がした。あお向けになって俺の顔を見上げ、長く長い息を吐き出す。
「なんだ、君か。やっと起きたんだな」
「あんたのその傷、一体どうしたんだ? 誰にやられた?」
「ケキさんだよ。あの人、最近荒れてることが多くって」
 何も言えなくなってしまって黙り込む。
「最初は俺があの人を襲う役だったんだぜ? それなのに何を血迷ったのか、突然ひっくり返しやがってさぁ……」
「役って――そんなのあるのか」
「所詮は遊びだからな。金を払われてるわけじゃないから立場としては対等なんだけど、まさかあの人が俺に刃向かうなんて思わなかった。アニスもロイも失って、あの人は変わっちまったな」
 低い天井を高そうに見上げながらエダは呟く。彼の姿がひどく小さく見える。今まで大きすぎて怯えることばかりだったのに、どうしてこんなにも縮んでしまったのだろう。俺にはその理由が分からない。
「君はケキさんと会ったことがあったんだっけ?」
 少し大きく開かれた目がこちらを見ている。エダは口元に悪戯っぽい笑みを浮かべ、友達と話すような感覚で俺に声を掛けてきた。
「あるよ。あんたが組織に俺を連れ込んだ時、あの人が俺をあんたから逃がしてくれたんだけど、覚えてないかな」
「ん? ああ、そんなこともあったかな。よく覚えてないが――君はあの人に気に入られてるんだな。まるでアニスみたいだ」
 わけもなくどきりとする。その少女の名前に俺は弱い。
「アニスみたいって、どういうこと? その子はケキに虐待されてたんだろ、愛されてなかったんじゃないのか」
「ケキさんはアニスを愛していた。そうだな、確かに愛していた――娘として、大事に大事に育てていた。あの人がアニスを虐待していたのは別の要因の為だ。愛していたのに別の要因があったせいで、結果として彼女を傷つけることしかできなかったのさ」
「……何を言ってるのか、よく分からない」
「俺だって全てを知り尽くしてるわけじゃない。本当のところなんてあの人自身にしか分からないだろうけど、俺はその要因ってのはティナアさんだと思うんだよな」
 ふう、と息を吐き出し、エダは俺から目をそらした。胸の辺りに手を当てて呼吸する。よく見ると彼の顔にも刃物で切られたような傷が付いており、胸元から見え隠れしている肌にも背中と同じようなどす黒い線が見える。ソファに寝転がったまま起き上がろうともせず、どこか気だるそうにまばたきをする相手は、普段から見慣れた大きすぎる存在ではなくなっていた。俺は相手の隣でしゃがみ込む。
「傷、痛い?」
「痛いなんて感覚はないさ。でも、君がそんなふうに聞いてくると痛くなっちまう。まったく、なんであんなことをしたのかね――俺をロイの代わりだと勘違いしたのか?」
 喋りながら相手は手のひらで両目を隠してしまった。俺はその隙間から光るものが零れ落ちたのを見逃さなかった。
「泣いてる? 悲しいの?」
「ん……」
 手を動かし、目が見えるようになる。それは少しだけ赤くなっていた。
「どうしてそんなに知りたがるかな。俺が泣いてたって、君には関係ないことだろ。慰めようとしてんなら、それはお節介ってもんだぜ。分かってるか?」
「慰めようなんて思ってないよ。ただ、どうして泣いてるのか気になったから」
「そうか」
 エダは目蓋で目を隠した。押し出された涙が一斉に頬を伝う。俺は手を伸ばしてそれに触れた。人間の体温みたいにあたたかさが感じられた。
「君がいなけりゃ泣かなかったんだぜ。痛みだって忘れられたし、こんな気分になることもなかった。やっぱり傍に誰かがいると駄目だな。自分の感情もコントロールできなくなる」
「つらいの?」
「そうだな、つらいな。大昔のことを思い出しちまった。打たれたりしたのって、あの時以来だったかな……」
 目を開いたエダは天井だけを見上げている。その先に見えるものなんて存在しないかのように、流れ出た涙に気付いていないかのように。俺は胸に置かれていた彼の手に自分のものを重ねた。傷ついた彼の心が見えたような気がしたのかもしれない。
「つらい時は、話してみるといいと思うよ。誰かに話を聞いてもらうだけでも、心が軽くなることってあると思うし」
「……お人好しだな、君って」
 何やら申し訳なさそうな微笑を浮かべ、彼はもう片方の手を俺の手の上に乗せてきた。俺の右手はエダの両手に挟まれ、確かな脈を彼に送る。エダは聞き取れないほど小さな声で何かを呟いた。それは俺の耳に届くことはなかったが、すぐ近くで聞いていた手は彼の息遣いを感じていた。
「君は俺のことを嫌ってると思ってたんだが、それは俺の勘違いだったのか? 俺が今まで君やラザーラスにしてきたことを忘れたわけじゃないだろう? それなのに、どうしてそんなに優しくしようとする? 俺なんかに親切にしたって、何かが返ってくるってわけでもないのに」
「俺は……あんたのことを救いたいんだよ」
 相手の顔から笑みが消える。俺はまっすぐ相手の目を見つめ、交錯した視線を感じ、彼と意識が通じ合った気がした。
「あんたの欲しいものって何? 兄の家? ラザーの身体? それとも――」
「やめてくれ!」
 涙の混じった叫びが響く。両手で頭を抱え、エダは苦しげに歯を食いしばる。息を荒げて取り乱す様は俺を驚かせるには充分だった。それだけに、彼を見捨てられなくなってしまう。
「怖がることなんてないよ。怒らないから、教えて」
「無理なんだよ、今更教えたって、君ではどう頑張っても用意できない。俺はそれを手にできないように運命付けられてるって分かってるから」
 同じ響きがした。ラザーとよく似た諦め方だ。それが単なる思い込みだとどうして気付かないのだろう? 未来は限りなく開けているというのに、彼らは自らその扉を閉じてしまっている。
 身体を持ち上げ、彼の唇に自分のものを重ねる。舌を滑り込ませると血の味がした。それを一滴も残らないよう吸い込んでいく。俺の口の中は真っ赤になったのだろうと思った。
「俺を――襲う気か」
 顔を離すと相手の表情がよく見えるようになる。それは怯えと怒りとでぐちゃぐちゃに描かれた画用紙のよう。
「怪我して動けなくなったのをいいことに、俺に仕返しをしようって算段かよ、畜生! 優しくしたのは貶める為の罠か、最初から俺を騙そうとしていたのか!」
「違うよ」
 もう一度キスをする。それだけで自分の気持ちが伝わるとは思ってない。でも彼を安心させてやるにはどうすればいいのか分からなかった。だから優しさだけで構成されたキスを贈る。
「何して欲しい?」
「――え」
「あんたが望むこと、なんでもしてあげるから。それが俺の望みにも繋がるから」
 俺の言葉が理解できないように、エダはただただ目を丸くしている。恐怖は消えたが怯えは残っているようだ。憤りの姿も見えなくなっている。きっと今までこんな質問を聞いたことがなかったんだろう、俺の顔を見上げるばかりで、彼の口から言葉が出てくるまでに相当な時間が必要だった。
「どうして、そんな――俺は君を苦しめてたのに」
「そんなことは、もう忘れたよ。それに、目の前で泣いてる人を放っておくことなんてできないじゃないか。こんなに悲しげに、淋しそうに、ひたすら愛を求めるあんたを、見捨てることなんかできないじゃないか」
「や、やめろよ! そんな安っぽい言葉で――信用なんかできるか! どうせ自分が楽しむ為だろ、全て自己の利益として動くよう計画してるんだろ!」
「本当にそう思う? 俺はあんたのこと、好きだけどな」
 エダは口をつぐんだ。顔に怯えが色濃く現れる。彼は俺のことを信用していない。俺だって彼の何もかもを信用しているわけじゃない。それでも彼を救いたいという気持ちは本物で、相手が諦めているものの正体も分かっているつもりだった。
 相手の腰にあるベルトを外し、ズボンを少しだけ下に引っ張る。そこから現れたものを手で触り、ラザーやヨウトの手つきを思い出しながらエダに刺激を送った。
 手を動かしていると理性が失われた心地になる。自分が何をしているのか理解したくなくて、目の前で起こっていることを遠くの方から眺めているようだ。あの時のヨウトの表情が脳裏に浮かぶ。もはや生きているとは言い難い瞳で、俺の身体を満足させてくれた少年の姿は、今の俺の全てと重なっているのだろう。途中で手の動きを止め、続きは口でしようと顔を近付けた。しかし実際にどうすればいいのか分からなくて、ヨウトにしてもらった夜を鮮明に思い出さねばならなかった。見よう見まねで舌を動かす。エダは重そうに上半身を持ち上げ、ソファの上に座る形になった。そうして俺の頭に手を置いてくる。
「口で……咥えて」
 頭上から降ってきた呟きに従う。彼の口の中から舐め取った血液が俺の味覚を殺してくれていた。ヨウトの真似をして舌を動かしてみるけれど、息が苦しくて彼のように上手くはできない。それでもエダは徐々に息を荒げていき、最後には俺の口の中に彼の欲望を全てぶちまけてきた。
「飲み込んで、全部」
 気色悪くなって吐き出そうとすると顎を持ち上げられた。無理矢理唾液を作り出し、口の中に溜まったものを喉の奥へと誘導する。改めて相手の顔を見上げると、エダは傷だらけの顔で少しも笑っていなかった。まだ混乱の影は隠れているけど、先程までのような疑惑は薄れているようだ。俺の視線を感じたのか、相手はゆっくりとソファから立ち上がり、下ろされていたズボンを元に戻した。無言のまま部屋の奥へと歩いていき、再び俺の前に来ると水の入ったコップを渡された。
「うがいしろ。口の中、気持ち悪いだろ」
「……うん」
 エダはソファの裏側からバケツを引っ張り出し、それを俺の前に置いてくる。俺は口の中に水を流し込んでうがいをし、いらないものは全てバケツの中に吐き出した。それを三回繰り返し、水の残っているコップをエダに返す。
「何か食う? 腹減ってるだろ」
「あ、うん……」
「じゃ、外に行こうか」
 コップとバケツを部屋の奥の方へと持っていき、エダは黒い上着を羽織って俺を立ち上がらせてきた。彼にしてはやわらかい力で手首を掴まれ、部屋の外へと連れていかれる。部屋の外に出ても周囲は暗いままだった。この組織に朝というものは存在しないのだと覚った気がした。
 エダに手を引かれて廊下を歩く。何人かの人とすれ違ったが、その誰もが俺のことをじろじろと見ているようだった。目は動いていないのに視線を感じ、それが気色悪くてエダに握られている手を更にぎゅっと握ってしまった。
 こんな姿をラザーに見られたら、彼は俺を笑うだろうか。それともエダに嫉妬するだろうか。できれば後者であって欲しかった。そもそも俺は、そうなることを期待していたんだ。だって俺は、彼が俺の為に悩む姿を見てみたいから。
 長い廊下の先端にあった扉を抜けると、狭い物置のような部屋に辿り着いた。幾つかの丸いテーブルが並べられており、見た目は飲食店のように見えなくもない。エダは俺を連れてカウンターらしき場所に近付き、何やら小声で店主のような人に囁いていた。それが終わると隅の方の席に腰かける。
「あの、ここは?」
 俺の前の席に座っている赤い髪の男に話しかける。彼はテーブルの上に置かれていたコップを片手で持ち、面白くなさそうにくるくると回していた。
「見て分からないか? 飯屋だよ」
「飯屋って……あんたらは何も食べないんじゃないのか? 不老不死なんだろ? 腹が減っても死なないはずじゃないか」
「食事は娯楽さ。この組織じゃ、誰もが娯楽しか望まないから」
 エダの言葉には何やら黒い説得力があった。だから俺はすぐに口をつぐんでしまう。その娯楽の為に何人の人が犠牲になったのだろう。彼らは犠牲者に慈悲の心も向けようとしないのか。
 周囲を見回すと人の姿が少しだけ見られた。痩せ細った中年の男が一人と、まだあどけない顔つきの可愛らしい少女が一人、そして店主らしき青年がカウンターの裏で何らかの作業に没頭していた。俺とエダが来たことによってこの店の席は全て埋まったらしい。ほとんど音もなく動いている彼らは、場合によっては息さえしていない気がして突然恐ろしくなってきた。
 そんな矢先に大きな音が部屋いっぱいに響く。びっくりして声が出そうになってしまったが、なんとかそれを抑え込んでほっとしていると痛い程の視線を感じた。ぱっと目線を上げるとその正体が理解できた。隣の席に座っていた少女が俺とエダのテーブルの傍に立ち、微笑みを浮かべながらじっとこちらを見下ろしている。
「何か用か。用がないならじろじろ見るな」
 叱るようなエダの言葉を聞いても少女は何も答えようとせず、ただ綺麗な微笑みをこちらに向けるだけだ。なんだか気まずくなって視線を別の方向へやると、今度は細身の男の姿が目に入った。彼の手の先には皿に盛られた何かがあり、それを無心に口へと運んでいる。
「あれ、何食べてるの?」
 暗くてよく見えなかったのでエダに訊ねてみた。するとどういうわけか、相手は表情を隠してしまう。
「君は自分のことだけを考えていればいい」
 エダの台詞が終わらないうちに、テーブルの上に料理が盛られた皿が運ばれた。俺の隣に立っている少女が面白そうに皿の中を覗いている。
 運ばれた料理は温かそうなスープだった。銀のスプーンですくい上げてみると、どろっとした液体の中に細かな野菜が入っていることが分かった。ちらりとエダの顔を見てからスプーンを口に運ぶ。暗くて色も分からなかったが、ミネストローネのような甘味と酸味のあるスープだった。
 すごく美味しいというわけではないが、腹が減っていたので不味くはなかった。自然とスプーンを口に運ぶ速度が増していく。
「よかった。元に戻ってきたみたいだ」
 エダの呟きに顔を上げる。俺の前に座っている男は、ほっとしたような表情でコップを弄くり回していた。よく見てみるとテーブルの上に細かなガラスの破片が光っている。
「昨日よりうんと減ってるし、さっきと比べてもかなり量が少なくなっている。この調子だとすぐに立ち直れるかもな」
「……そうかな。俺、知らない間に自殺しようとしてたんだぞ。そう簡単に元に戻れるわけがないよ」
「自殺? 君が? おいおい、そりゃ何の冗談だよ」
「冗談なんかじゃない。風呂に頭を突っ込んでたんだ。それをヨウトが止めてくれて」
「え? おい――本気か? いや、あの精神状態だったら、そういうことがあってもおかしくないか。でも、おかしいな。何かおかしいぞ……」
 深みにはまったエダを眺めながら、俺はスープを全て身体の中に流し込んだ。空になった皿を見て隣の少女が拍手をくれた。俺はふっと彼女の目を見た。少女は闇色に染まった瞳で俺のことを嘲笑っていた。
「エダ、あんたの兄の家に案内するよ。スープありがとうな」
「ちょっと待て、まだ行きたくないんだ。部屋に――俺の部屋に寄ってくれないか、樹」
 相手は俺に頼んでいるはずなのに、乱暴な彼は俺の腕を掴んで立ち上がらせ、そのまま引きずるように店から外へ出てしまう。
 廊下を走るように歩いてエダの部屋に戻ってくると、彼は俺を奥の部屋へと連れ込み、誰もいないベッドの上に俺の身体を押し倒してきた。その先に見える未来は決まり切ったものだから、俺はさほど戸惑うことなく彼の身体を待っていた。
 ただ相手の手や足は想像通りのものだったのに、彼の表情は予期せぬほど驚きに彩られていた。何か信じられないものを見ているように、疑いさえ混じった眼差しで俺の身体を隅々まで観察している。服の上から身体を触られたので妙な心地がした。
「どうしたんだよ、やりたいんならさっさとしろよ」
「君はそんなことを言うな! そんな言葉、君には似合わない」
 似合わないのは相手の方だった。でもきっと彼は気付いていない。
「なあエダ、あんたさ、ラザーのこと嫌いだったの?」
「いや……あいつは良かった。ロイの頃より良くなっていた。俺はケキさんと違って子供を襲う趣味はないから、ラザーラスくらいの年代がちょうどいいんだ」
「じゃ俺は? 俺は子供じゃないのか」
「子供にこんな知識はない」
 ようやく服が持ち上げられ、相手の手が直に肌に触れてきた。これこそがいつもの感触で、俺を安心させてくれる。
「背中に手、回してもいいかな」
「え? な、なんで」
「なんとなく」
 エダの動揺が滑稽だった。あんなに自信満々に俺やラザーを襲っていたくせに、彼は迫られると弱いのだろうか。俺は宣言した通りにエダの背に手を回した。彼の広い背中が愛おしく感じられる。
「おい、いいのかよ――君はラザーラスが好きなんだろ」
「誘ってきたのはあんただ」
「確かにそうだが、断ればいいじゃないか! たった一言だぞ、君はそんなに俺が怖いのか? それなのに救おうとしていたのか? ええっ、わけが分からないぞ、君は一体何を考えてるんだよ!」
 混乱するエダをよそに、俺の頭はなぜだかひどくすっきりしていた。自分の考えが手に取るように理解できる。容易いことだ、ただ彼の誘いを受け、ラザーを愛しているというだけ。他にある真実は全て偽りだった。
 エダの背に回した腕に力を込めると、相手は戸惑いながらも俺の唇にキスをした。彼の口づけを味わっていると部屋の扉が開かれた。唇を奪われたままそちらに目をやると、見覚えのある男がじっとこちらを見つめていた。エダは俺から顔を離し、身体を起こして部屋に入ってきた男と向き合う。
「何しに来たんだ、ケキさん」
「お前を――しに来たんだ」
 黒い鞭が空を切る。
 部屋に侵入してきたケキはエダの胸ぐらを掴み、彼に容赦なく鞭を振り下ろした。痛々しい音が俺の脳にトラウマを呼び覚まし、俺は怖くなって両手で耳を塞いでしまう。
 それでも聞こえてくる音が生々しくて――目の前で繰り広げられる光景がかつての記憶と重なり、俺は二度も最愛の人を苦しめる経験をせねばならなくなっていたんだ。
 彼の口から苦痛が漏れ、それを聞いて悦ぶ人がいる。
 耳を塞ぎながらもその刹那を目に焼き付けていた。逃げ出すことも、助けることもせず、俺はひたすら目を見開いて、ここで起きる全てを鮮明に記憶しようと努力を続けていた。……

 

 

 

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