月のない夜に

 

 

 悲鳴がある。俺の前に迫る苦痛。肌に直接触れた痺れが、今は別の人間によって演じられていた。
「やめろ、やめ――」
 鞭の音が彼の声をかき消す。
 俺の身体は震えて動かない。目の前の光景が恐ろしくて仕方がなかった。鞭を振り下ろすケキの姿が自分自身と重なっている。そうして苛まれているのはエダだけど、俺の目に映る彼はラザーのようにしか見えなかった。
「嘘つきめ、この、嘘つきが! 悪いのはお前だ、嘘をついたお前が悪い!」
 怒りに支配されて乱暴に鞭を振り回す男がいる。その表情は憤りと哀しみに彩られ、目の中の光は異様なほどぎらぎらしていた。彼が腕を振り下ろすたびにエダの身体に傷が作られる。赤いはずの血が飛び散り、時々こちらまで届いていた。
 幾度も痛々しい音が響き、床が血で埋め尽くされた頃、エダは床に寝転がって動かなくなった。俺は彼が死んだのだと思った。でも彼は不老不死だから死なないはずだった。微動だにしないエダに近付き、ケキは彼の身体を動かした。あお向けに寝かせ、彼の血で赤く染まったシャツをまくり上げる。そこから見えた肌は生々しい傷で埋め尽くされていた。ラザーの背に見えたあの傷と同じだった。
「ま、待てよ! 何をする気なんだ、やめろよ!」
 胸の辺りを押さえながら叫ぶと声が出た。でもそれ以外の俺の全てが動かなくなっていた。ケキは俺の声を聞いて動作を止めた。ゆっくりとこちらを振り返り、そして少し驚いたような表情を作る。
「君は……なぜこんな場所にいるんだ」
 彼は立ち上がって俺に近付き、限界まで距離を詰めて唇を重ねてきた。
「う――」
 相手の濡れた唇が俺のそれを湿らせ、入り込んでくる舌が艶めかしく欲望を再現する。これはラザーのキスとよく似ていた。いや、ラザーよりもずっと吸い込まれる、一度味わうと忘れられないキスだった。ラザーは彼にキスを教わったのだと分かった。知りたくもない情報を知らされた気がした。
「君はさっき、エダに襲われていたな。あいつは誰にでも見境がない。軽い気持ちで近付いたら、薬を覚えさせられて堕落するぞ」
「さっきのは――違うんだよ、あれは確かにエダが誘ってきたけど、でも俺は襲われてるつもりはなかった」
 ケキの黒い髪を見つめながら、俺はエダのことが気になって仕方がなかった。あんなに酷い扱いを受けて、彼の身体だけじゃなく精神が心配だ。早く彼の元へと駆け寄りたかった。でもその為には目の前にいる男をどうにかしなければならないんだ。
「嘘を……言うな」
 ふと見上げると、ケキの表情が変わっていた。目を大きく見開き、何か信じられないものを見るような顔になっている。突然肩を掴まれた。手に強い力を込められ、壁に背中を打ちつけられる。
「嘘を言うな! お前がそんなことをするはずがない、俺が誰だか分かっているのか! 俺はお前の親だぞ、子供は親の言うことを聞くべきだ!」
「俺はあんたの子供じゃないよ。俺はアニスとは違うんだ」
「違わない、お前はアニスだ。アニスの生まれ変わりだ! だってこの黒い髪、艶のある綺麗な髪、さらさらして気持ちのいい、アニスの髪と同じじゃないか! なぜそんな嘘を言うんだ、俺から逃げようとしているのか! なぜだよ、なぜ俺から離れようとする? お前は――そうか、お前もロイに誑かされたんだな」
 彼の唇が動いたなら、予想もしていなかった言葉が次々と飛び出してくる。俺はその意味を追うことで必死で、だから何も言えずに口を開いているだけだった。ケキは片手を俺の肩から離し、そっと自身の腰へとそれを伸ばす。
 口の中に銃口を突っ込まれた。相手は少し息が荒くなっている。全身が麻痺したみたいに動かなくなっていた。何も分からないはずなのに、俺の命は彼の手の中にあることだけはよく理解できていた。彼が少し動けば俺の命は消し飛ぶ。ただちょっと指先に力を入れるだけだ。それから何秒が必要だろう、一秒より短い時間で事は終わるかもしれない。俺は彼の機嫌によって生かされている。
「嘘つきは――嫌いだ」
 何か物が触れた音が耳に入った。続いて誰かの声が響く。それを認識した頃には目の前の世界が回っていて、身体の一部を引っ張られて俺は床の上を走っていた。
 俺の前を走る人に連れられ、いつしか組織の外へと飛び出していた。夜空が頭上に広がり、俺ともう一人の身体を森の木々が隠してくれている。俺を引っ張っていたのはエダだった。ぼろぼろの身体を引きずるように動かしながら、それでも俺をケキから逃がしてくれたんだ。
「エダ、もういいよ、誰も追いかけてきてないから」
 声を掛けるとエダは立ち止まった。握っていた彼の手の力が無くなってするりと抜け落ちる。同じように身体の力も無くなったのか、彼は俺の前で崩れるように倒れてしまった。
 高い空が俺を見下ろしている。俺はエダの身体を抱き起こし、彼を助けようと考えた。美しい月が俺と彼に光を与えてくれているが、それだけで救われるほど人間は簡単にできてはいなかった。目を閉じてラザーの待つ小屋を思い浮かべる。再び目を開けた時には望み通りの場所に来ていて、俺は傷だらけのエダの身体を引きずって小屋の扉を開けた。
「樹君! どうしたの――それ、エダさん? どういうこと?」
「詳しいことは後で話すよ、とにかく今は、手を貸して欲しいんだ」
 出迎えてくれたのはヨウトだった。ラザーの姿はどこにもない。俺はヨウトの手を借りながらエダの身体を運んだ。いつもラザーが使っていた部屋に辿り着くと、誰もいないベッドの上に目を閉じたままのエダを寝かせた。
「ヨウト、ラザーはどうしたんだ」
「ついさっき小屋を出たんだよ。散歩するとか言って。それよりそっちこそどうしたのさ、君がなかなか帰ってこないから、昨日はロイを落ち着かせるのに大変だったんだよ! しかも帰ってきたら今度はエダさんを連れてるし……もうわけ分かんないよ」
「エダは……そんなに悪い奴じゃないよ。ラザーを襲ったことは許せないけど、俺はこの人のこと、嫌いじゃない」
 誰に言うでもなく呟きが口から漏れていた。ヨウトはそれを聞いても大きな反応を示さない。もし隣にいるのがラザーラスだったなら、きっと俺を大声で叱っていただろうな。こんな奴なんか信用するなって、裏切られるだけだからさっさと見捨てろって言ってくるだろう。だけど俺はエダの涙を見てしまった。彼の感情の一部を知ってしまった。だからだろうか、深くのめり込み、彼の全てを知りたいと思ってしまう。気を失っている彼の横顔を俺は黙って見つめていた。その上に降り注ぐものが泥と血の雨だけだなんて一体誰が決めただろう。
 後ろで物音が聞こえた気がして振り返ると、ラザーが驚いた表情でドアのところで立っていた。その視線は俺とエダの中間あたりを彷徨し、何に驚けばいいか分からないとでも言いたげだった。俺は立ち上がって彼の前へ行く。
「樹、お前――」
「あいつ、怪我してるんだ。ケキから酷い暴力を受けたんだ。俺はその場にいたのに、怖くて助けられなかった。でもあいつは俺をケキから逃がしてくれた。……嫌なのは分かってる。あいつがラザーに何をしたか忘れたわけじゃない。それでも俺はあいつを助けてやりたいし、彼のことを嫌うことさえできなくなってしまったんだ。だから」
 ラザーは何も言わずに、ただ唇をぎゅっと噛み締めた。そうして背を向けて部屋を出ていってしまう。
「ヨウト、エダを見ててくれ」
 短く頼むとヨウトは頷いた。彼は誰かの為に何かをすることが好きらしい。人との関わりを重視する少年は、やはりあの組織には似つかわしくないと感じた。俺は彼を置き去りにして部屋を出ていく。
 廊下を歩き、食卓として使用している広間へ行くとラザーの後ろ姿が見えた。短くなった銀髪が彼の顔を隠している。床を踏みしめるたびに足音が彼の元へ届き、俺は相手がよく見えるよう彼の真正面に立った。
「なんだお前、あいつについていなくていいのか」
 ラザーは明らかに機嫌が悪そうだった。もう声が出ない症状は回復したらしい。俺が彼を襲ったから治ったんだ。つらい思いをさせて、叫ばなければ痛みを和らげることができなかったのだろう。
「エダはヨウトが見てくれてるよ。俺は、ラザーのことが心配で」
「お前が俺を襲ったくせに心配だって? おかしな奴だな、また懲りもせず俺を襲いに来たのか?」
「違うよ! あれは――反省してる。俺が悪かったんだ。でも、どうか聞かせてくれ。どうしてあの時、俺のことを突き飛ばしたりしたんだ? 俺はラザーに突き放された気がして、怖くって――だから……」
 だって俺は彼を愛しているから。そして彼も俺を愛していると言った。相思相愛であるはずなのに、お互いの考えが幾重ものベールによって隠されている。彼に嫌われることが、拒まれることが、何より大きな恐怖として成り立っている。だから鎖で繋ぎ止めておきたくなるんだ。
「……俺はお前に愛されたくないんだよ」
 ぽつりと吐き出されたのは、一体誰の計らいだっただろう。
「愛されると傷つくし、重荷になる。だから誰にも愛されなくていいんだ。ましてやお前に愛されたなら――俺はどうしても、お前を手放したくなくなってしまうから」
「またその話か」
 俺の声に相手は表情を鋭くした。目を細めてこちらを睨みつけてくる。
「犠牲のない幸福なんてないんだよ。愛されたいと願うなら、傷つけられても笑ってなければならない。欲しいものを苦しみもなしに手に入れられるなんて考えるな。重荷になったって構わないじゃないか、それを守ることができたなら、それらはきっとあんたに苦痛以上のものを返してくれるはずだ。たとえば――こんなふうに」
 すっかり慣れた様子で俺は彼にキスをする。軽く唇を触れ合わせるだけのものだったが、相手は驚いたような顔でこちらを見てきた。近い位置にラザーの赤い目がある。その奥に潜む怯えを俺は既に知っていた。そう、これはエダと同じだ。彼らは愛されたいと願っているのに、愛されることに慣れていないから、或いは愛されることを怖がっているから、だから必死になって誰にも愛されないよう小細工をするんだろう。器用な人たちだ。でもその器用さが通用するのは一般人だけであり、本気で向き合おうとする人にとっては単なる嘘でしかない。
「愛の為に苦痛を受け入れろと言うのか」
「そうだよ。誰も傷つけたくないなら、全ての感覚を閉ざさなければならない。人であることを捨てなければならない。空っぽになったあんたを愛する人はいなくなるだろう。その存在自体が誰の目にも映らなくなるだろう」
「たとえそうなったとしても――誰も傷つかずに済むのなら、それでも構わない」
「傷つくよ! 俺が、傷つくんだ。俺はあんたを愛しているから。あまりにも深いところまで踏み込んでしまったから!」
「樹、そんなことを言わないでくれ。もう嫌なんだよ、自分のせいで誰かが傷つくのは、どうしても助けられない人を生み出すのは、自分の情けなさが浮き彫りになっていくようで嫌なんだ! 俺は、アニスを助けられなくて――それを今でも引きずっていて、だからもう誰にも愛されないようにしようと思ったんだ。俺に近付いてくる奴を見つけたなら、一定の距離を置いて壁を作るようにした。真もカイも俺に近寄ろうとしてきたけど、あいつらには見せていない領域がある。それなのにお前は、お前だけが知ってしまった。俺の汚い部分まで知ってしまった! 俺は、ああ、お前に全てを知られた時、なぜお前を殺さなかったんだろう! 最も知られたくない相手だったのに、どうして必要以上に自分の姿を見せてしまったのか――助けて欲しかったからだ! お前に助けて欲しかったから、カイでもなくヤウラでもなく、他でもないお前に助けて欲しかったから、だからお前にすがりついたんだ! どうしてかって? そんなの、決まっているだろう、お前を愛していたからだよ――お前に愛されたかったから無理にでも引き込もうと考えたんだ!」
 俺は彼の腕に触れた。相手の手を握った。不安定な彼の瞳が水面のように揺れている。もう一度彼にキスをした。顔を離すと泣いていた。肩を掴まれ、今度は彼からキスをされた。相手の涙が俺の頬に落ちていた。
 人を愛するということは、苦痛を受け止める覚悟を要することだった。周囲からの嫉妬だけじゃない、互いの心が見えない不安感、制御がきかなくなる恐怖心、独占欲が招く虚無の苦しみ。幸福と不幸とが背中合わせになっている。希望と絶望とが頭上で言い争っているんだ。
 身体を押され、壁に背中をくっつけてしまう。相手は俺の両手を握ってきた。何か物欲しそうな顔でこちらを見てくる。それがなんだか儚げで、俺は何もできなくなっていた。
「お前は……俺のことを愛しているのか」
 さっきから何度も言っていることをラザーは聞いてきた。だけど初めて認められたようで、俺は素直に頷くことができたんだ。
「同じように、エダのことも愛している?」
 彼の顔にさっと影がよぎる。俺は相手を抱き締めた。
「同じじゃないよ。俺がエダを好きなのは、友達になりたいって思ったからだ。それに、彼が泣いているところを見てしまったから」
「泣いていた? あいつが、涙を流したのか?」
「そうだよ。悲しそうだった。俺がいなければ出てこなかった感情だったみたい。ケキに打たれて、昔のことを思い出したとか言ってたよ」
 ラザーは少し黙った。俺は彼を抱き締め続ける。彼もまた俺の背に手を回してきた。俺の心は受け入れてもらえたようだった。
「それで、お前は、あいつを慰めたのか」
 先程よりトーンの落ちた声が耳元で鳴った。彼の喉仏が目の前にある。頭に手を乗せられ、くしゃりと髪を撫でてきた。
「……慰めたよ。何でも好きなことをしてやろうって思った。でもあいつは俺のことを疑ってて、だから俺は手と口でしてあげたんだ」
 彼は俺の髪を掴み、胸にうずめていた顔を離してきた。その表情は怒っているように見えなくもない。
「初めてだったから上手くできなかったよ。ヨウトもラザーも上手だよな」
「そんなことは聞きたくない」
「でもエダは悦んでくれた。そして俺に全部飲ませようとしたんだ」
「聞きたくないって言ってるだろ!」
 なぜだろう、彼を困らせたくなる自分がいた。度が過ぎればまた喧嘩になるのに、彼に嫌われることを恐れていないのだろうか。ラザーは俺の顔を引き寄せた。そのまま彼に抱き締められることを期待していた。
 俺が期待した通りに、ラザーは俺の身体をぎゅっと抱き締めた。誰にも奪われたくないと言っているような抱き締め方だった。とても力は強いのに、その両手が震えて今にも離れてしまいそうだ。だから俺は体勢を変え、ぐっと顔を上げて幾度目かのキスを送る。ラザーはさして驚きもせず、俺の愛を貪るように唇に吸い付いてきた。
 しばしの時を彼は目を閉じて過ごした。俺は唇を重ねたまま相手の髪をそっと撫でた。顔を離すと彼の壊れそうな表情がある。俺は飽きもせずにキスを贈り、彼を安心させてやろうと思った。
「キスだけじゃ……足りないんだよ」
 ラザーは俺の肩に手を置き、何かを求めているように赤い瞳を潤ませていた。彼はこれ以上先の事を望んでいるらしい。本心では俺だって彼と同じ願いを隠しているんだろう。ただ、こんなふうに、欲望の赴くままに身体を重ねていても救われるのだろうか? 一時的な快楽が全神経を興奮させ、それで放出されるものは本当に愛なのか?
 俺には分からない。だから、今はただ、彼とのひとときを全身で感じようと思った。相手の服を脱がせると金の十字架が胸で光っていた。自分のシャツも脱ぎ捨てて、お互いの裸の上半身を見せ合う。そっと彼の胸に手を当て、乳首に舌を這わせて初めの快楽を彼に与える。小さく声を漏らした相手はとても可愛らしく思えた。
 彼を椅子の上に座らせ、俺は相手の両膝の間に座り込む。彼の黒いズボンを引っ張り、いつかのヨウトと同じ姿勢で手と口での奉仕をした。ラザーは最初から最後まで文句ばかりを言ってきたが、見上げた先にある顔は恍惚に浸って艶やかだった。その表情が俺を欲情させることを彼は知らないのか。
 シャツもズボンも脱ぎ捨てて一糸纏わぬ姿となった二人は、ベッドも何もない床の上でお互いの中に溶け込んでいた。俺が彼の中を犯そうとすると、相手は怯えたような顔で両手を使って俺の動作を止めてきた。結局以前と変わらない関係になり、俺は身体の中心まで彼に支配されてしまった。うつ伏せになって息を吐き出していると、俺の手に彼の手が重ねられ、指が絡んで二人の汗が床の上で一つになっていた。それを眺めている瞬間にも、彼は俺の身体を楽しんでいる。
「あ……ラザー。俺、やっぱりあんたが一番だ。あんたが一番……俺の心を揺さぶってくれるんだ。だから、もう、喧嘩はしないようにしよう」
「だったら、お前が全部我慢しろよ。俺は……もうこれ以上、我慢なんかしたくない。我慢、なんか――」
 言葉が現実に変わったかのように、彼の先端から熱いものが飛び出してきた。それは俺の身体に染み込んで、やがて俺の細胞の一部となる。背中がぞくぞくして俺もまた床に放出した。力を失って倒れた身体をラザーは優しく抱き起こしてくれた。
「どうだ、もう一回できそうか?」
「そんなの、無理だよ。最近すごく疲れてるんだから」
「俺はまだ足りない。まだお前の愛を充分に受け取っていない」
 キスされる。舌が入り込んでくる濃厚な接吻。頭がぼんやりと鈍くなり、急激な眠気が舞い降りてきた。
「あっ、ちょっと――」
 滑りのよくなった挿入口に彼の硬さをはっきりと感じた。ぐいぐいと奥まで押し込まれ、重くなる目蓋とは裏腹に身体は興奮に目覚めていく。
「ラザー、もう駄目だって」
「ん、平気だ。気持ち良くしてやるから」
 身体の中心部に届くかと思う場所まで彼の一部が入り込み、執拗に押し付けるように相手は俺の奥を犯し始めた。彼は慣れた様子で肉の間に自分自身を滑り込ませ、反応を示してしまう箇所を狙ったように刺激してくる。それでも強烈な睡眠作用が残っているらしく、俺は彼に抱かれながら夢の中へと意識を手放していた。

 

 

 夢を見ていた。誰かの夢を、いつのまにか自分のものにしてしまったらしい。
 見える景色は日本の断片かもしれない。空には電線が張り巡らされ、周囲は夕日に染まった畑が広がっている。どこかにありそうな田舎の風景だった。頭上には薄い雲が漂っており、通り抜けていく風は冷たくて掴むことができなかった。
 畑に囲まれた小道の上を二人の子供が歩いていた。一人は中学生だろうか、黒い制服を着た男の子で、彼よりも一回り小さい女の子の手を引いて歩いている。二人の間には年の差が大きいようだった。女の子は小さな声で機嫌よく歌を歌いながら、時々男の子の顔を眩しそうに見上げていた。
 男の子は女の子に歩幅を合わせてゆっくりと歩き、沈みつつある夕日を睨むように見つめていた。その目に映るのは憎悪に似た感情であり、だけど彼の幼さがその意味を充分に発揮していないようだった。女の子に声を掛けられると優しい表情を作り出し、彼女の小さな頭をぽんぽんと撫でている。二人は兄妹のようにしか見えないが、それにしては歳が離れすぎており、顔つきが似ているかどうかの判断さえできなかった。
『勝手に産んで、勝手に育てて、そして勝手に死んでいくのか。あの人は臆病者だ』
 頭の中に声が響く。これは男の子の本音だろうか。
『残された子供のことも考えないで、自分だけで父さんのところに行って。捨てるくらいならいっそ共に連れていって欲しかった。まだ何も知らないこの子を押し付けて、一体ぼくにどうして欲しいんだ』
 孤独に沈んだ二人の姿が、田舎の道の先へと消えてゆく。
 やがて全ての生命が時を止めたなら、誰かの夢は静かに終わりを迎えた。

 

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「よお」
 短い声が俺に向けられる。目を開けて最初に見えたものは、天井の味気ない模様ではなく、愛しい人が俺の顔を覗き込んでいる様だった。
「えっ、あれっ、なんで俺、ベッドに……」
「エダの奴はさっさと起きちまったぞ。今は広間の方にいる。……会いに行くか?」
「あ、うん」
 慌ててベッドから這い出て立ち上がると、俺は黒い服を着せられていた。ただそれは以前ケキに着せられたものではなく、サイズもぶかぶかで肌触りもなかなか良い。
「あの、この服は」
「俺の私服だ。お前にはちょっと大きいな。ま、それなりに愉しんでくれ」
 彼の一言を聞いて一気に体温が上がった気がした。長すぎる袖で隠れた手を引き出し、服の上から撫でるように心臓の辺りを触ってみた。ラザーの心臓はこの位置にあるのだろうか、それとももっと高い場所にあるのだろうか。――全て同じであればいいと思った。彼と俺との共通点が、想像するよりずっと多ければいいと望んでいた。
 ラザーに連れられて広間へ向かうと、赤い髪の男が元気そうにヨウトと話し込んでいた。あの時の傷が嘘のように回復していて、何を思えばいいのか分からなくなってくる。ただ俺の身体だけはラザーの香りに包まれていて、不安になっても慰めてくれるものが俺の身体に隙間もなく密着していた。
「ああ、起きたのか」
 先に声を掛けてきたのはエダだった。振り返った彼の表情は晴れやかなのにどこか憂いが残っている。それはこの場所の意味を知っているからなのか、或いは何の意味もなく、もともとの顔がそういった陰を潜めているものだったのか。
「あの……もう大丈夫なのか」
「平気さ。俺たちの身体は君らのものとは根本的な部分から異なっているからね。ところで樹君、俺をこの家まで連れてきてくれたのは――君なんだよな?」
「そうだよ。だって約束したじゃないか。あんたをここまで案内するって」
「それはそうだが……」
 元気になったはずのエダは、やはりどこか迷いを抱いているようだった。彼は何が納得いかないのだろう。俺は何もおかしなことはしていないはずなのに。
「それよりエダ、あんたはこれからどうするんだ? ここがあんたの探していた最後の場所だ。ここ以外に組織にしか居場所がないのなら、この家でずっと暮らしてもいいと思うんだ」
「おい、樹、お前一体何を考えてるんだ!」
「ラザーは黙ってて。決めるのは俺たちじゃなくてエダだよ」
 エダは黙っていた。どうすべきか決めかねているようだった。もし彼が組織を抜け出し、この家でひっそりと暮らす道を選んだなら、彼の中に眠るサディストの魂は永遠に封印せねばならないのだろう。或いは誰か手頃な供物を探し出し、それが逃げないよう見張っていなければならない。彼の幸福の為に犠牲者が必要ならそれは仕方のないことだった。平坦な方法じゃうまく生きていけなくて、だからこそ人は悩んで悩んで苦しみ抜かねばならないというのだろうか。その先にあるのが本当の幸福じゃないと知っていても?
「もし――」
 小さく口を開いたエダが声を吐き出したのは、数分間の沈黙を耐えかねた為だったかもしれない。
「もし俺がここで暮らすとして、君は一緒にいてくれるのか」
 それは俺に向けられた言葉だった。告白のようにも聞こえる言葉。彼に何を返せばいいだろう。俺は確かに彼を嫌ってはいないし、できれば誰にも迷惑をかけないで幸せになってほしい。ただ俺が着ているのはラザーの服だった。大きくてサイズの合わないラザーの服を着て、そしてエダに何を与えられるのだろう?
 そうだ、これが、知らなかった領域だった。
「いいよ。俺もしばらくここにいる。ただしラザーが家に帰れるようになるまでだ。もし俺とラザーがここからいなくなったら……その時は、ヨウト、あんたに任せるよ」
「ええっ、僕ってエダさんのお守り役? やだよ、そんなの、僕もロイと一緒がいい!」
「お願いだ。エダの傍にいてやってくれ」
 いくら俺がエダと共にいたいと望んでも、彼とは違う時間を生きている限りそれは不可能なことだった。そしてそれはラザーにも当てはまってしまう事実であり、だから俺たちはこんなにも脆く崩れやすい関係になったのか?
 この場に静かな空気が流れていた。エダは笑みも浮かべずに不安げに佇み、ヨウトは少しだけ不満そうに口を尖らせている。俺の横に立っているラザーラスは腕を組んでエダを睨み付けていて、何があろうと彼を許すことはないと暗に示そうと考えているのかもしれなかった。三人とも全く違う表情を見せていたが、彼らの顔はよく似ていた。誰もが幸福を追い求め、与えられない愛に飢えて、息を切らしながらも懸命に光に向かって手を伸ばしている。時には闇さえ見失うこともあっただろうけど、彼らの夢にどんな希望があっただろう? 常識のない、雲を突き抜けるほど高くて、時間も空間も逸した稀有な存在を、彼らは一体いつの頃から探し求めていたんだろう!
「外……まだ明るいんだな」
 窓から差し込んでいるのは美しい透明な光だった。既に昼か夜か分からない身体になっていたが、目に見える事実が俺を形作ってくれている。
「なあ、みんなで外に出て、ちょっとぶらっと散歩でもしないか? せっかくいい天気なんだから――つまんない話でもしながら、一緒に外の景色を眺めに行こう」
 俺の提案に誰もが変な顔をした。彼らは揃いも揃って太陽の光が嫌いらしい。そのくせ無意識のうちに眩しい光を追い求めるなんて、やっぱり彼らは面白い人たちだった。
 皆を促すように玄関のドアを開けると、仕方がないと言わんばかりの顔でラザーが先に外へ出ていった。残った二人に軽く目配せをし、ラザーの背を追って俺も外へ向かうと、複雑そうな表情をあからさまに見せつけながらヨウトとエダが小屋の外へ出た。
 外は思った通りの快晴で、吹き付ける風は春の香りを漂わせてあたたかい。空を見上げると木の葉の隙間から変わらない太陽が顔を覗かせていた。誰がこの景色を創ったのだろう。俺が知っているのは故郷の陽の光だけだ。
 四人で森の中を歩いた。最初は乗り気じゃなかった三人も、俺が先陣を切って歩いていくと素直についてきてくれていた。
「静かな森だな」
 俺の隣はラザーが歩き、後ろにはエダとヨウトが並んでいる。後ろの二人に話しかけると少しだけ風がざわついた。
「兄貴の好きそうな森だ」
 返ってきたエダの声は落ち着いている。この世の全てを静寂に捧げたような声色だった。
「エダの兄貴ってどんな奴だったんだ? あんたはその人のことを愛してるって言ってたけど」
「どんなって――俺が知ってるのはガキの頃のことだけさ。大人になる前に離れ離れになっちまったから」
 足元に茂る草が靴の裏にまとわりついてくる。木々の間に細い蜘蛛の糸が張り巡らされ、美しい色合いの蝶が頭上をふわりと通過した。
「子供の頃に何かあったのか?」
「まあ、いろいろと」
「エダさんの昔話、聞きたいなぁ。ねえ、ちょっと話してみてよ」
 無垢なヨウトの声が森の中をころころと転がった。振り返ると無邪気な瞳がエダを好奇の光で捉えている。エダは森の景色をぼんやりと眺めながら、それでも立ち止まることはせずに感情を隠していた。
「俺の昔話なんか聞いてどうするんだよ。面白くもないし、嫌な気分になるだけだと思うぜ」
「そんなに苦労したんだ? だからエダさんはこんなサドになったってことかな?」
「ヨウト、お前、いちいち喋りすぎなんだよっ」
 エダはぎゅっとヨウトの頬をつねる。それは何やら微笑ましい光景だった。
「俺もエダの昔のこと、聞いてみたいな。もっとあんたのことを知っておきたいって思うんだ。よかったら話してくれないかな」
「だから、俺の昔話なんて聞いても面白くないって……生まれは小さな村の村長の家だったけど、それだって妙な事件のせいで家を追い出されたんだし」
「あれぇ、結局喋っちゃうんだ。エダさんってもしかして樹君に弱い?」
 森の中に鈍い音が大きく響いた。驚いた鳥たちが一斉に飛び立っていく様が見える。
「樹君、エダさんが虐めるんだ。助けてよぉ」
 エダに頭を殴られたヨウトは涙目になりながら俺の身体に抱きついてきた。彼の青い髪から甘い香りが鼻に届いた。それをもっと味わいたくなって俺は彼の髪をそっと撫でる。
「エダ、家を追い出されたってのはどうして? 妙な事件って何だったんだ?」
「それは――村に賊が侵入したんだ。俺はその時は十歳にも満たないガキで、大人の言っていることはよく分からなかったんだが、俺の命とただの石ころが同じ天秤の上に乗せられ、そして村の連中が石ころを選んだってことだけは理解できたんだ。後から思い返せば、その石ころってのは黒いガラスだった。俺は村長という立場を重んじるクソ親父に見捨てられ、二人組の賊に連れ去られることになって、兄貴と離れ離れになっちまったのさ」
 森の道の上を大きな黒い虫が這っていた。それは素早く道を横切り、木の根元へと消えていく。俺はその軌跡を目で追いながら、エダの吐き出した石ころの名前に耳を傾けていた。
「エダさん、お父さんに見捨てられたの? 可哀想」
「本当に不憫だったのは兄貴の方さ。兄貴は長男だったから家に残ったんだ。でも俺が村から連れ去られる際に、兄貴だけが大人たちの決定に反対していたんだ。他の連中は誰一人として俺を助けてくれなかった。だけど兄貴だけは俺の居場所を探し当てて、もうちょっとで手が届く場所まで来てくれたんだ。それなのに、あの賊のゲス野郎が、兄貴をナイフで脅して犯しやがった。まだ十歳にも届かない子供に酷いことをしやがって、でも当時の俺には何をしているのか分からなくて、兄貴が犯されているところを目を丸くして見物していたのさ。それが終わったら兄貴は家に追い返されていた。俺は奴隷として売り飛ばされ、食事も睡眠も満足に得られない生活を続けることになったな」
「ふうん、最初からハードな人生送ってたんだね、エダさんって。それで、それからどうなったの?」
 俺の背中に腕を回したままヨウトは瞳を輝かせている。彼は本当に話すことが好きらしく、その内容については良いものでも悪いものでも関係ないようだ。エダは一つ息を吐き出し、それでも思い出を止めることなく俺たちの前に示してくれた。
「奴隷としていろんな所に飛ばされたけど、俺の姿が痛々しいって泣いた女がいたんだ。そいつは名家のお嬢様で、大金を出して当時の雇い主から俺を買い取り、使用人として働かせてもらえることになった。それからはしばらく落ち着いた生活をしていたな。お嬢様は俺に優しくしてくれたし、毎日三食きっちりと食わしてくれたし、睡眠時間だって一時間とか二時間なんて無茶苦茶なものじゃなかった。でもな、お嬢様と仲良くなりすぎたせいで、お嬢様の親父に目をつけられたんだ。俺と彼女が恋仲になったんじゃないかって疑われて、そのまま俺を屋敷から追い出しやがった。俺とお嬢様じゃ年が違いすぎるってのに、あのクソ親父は誰の意見も聞かない奴で、お嬢様が何を言っても少しも意見を変えなかった。それで、俺は居場所をなくして街をふらふらすることになったんだけど――通行人から財布を奪ったり、パン屋からその日の夕食を盗ってみたり、まあいろいろやりながらどうにか生きていたな」
 白い雲が陽光を遮り、さっと辺りが暗闇に染まっていく。しかし一歩進むと闇は晴れた。丸い円の中には情熱だけが残っている。溶けた氷は俺の腕にまとわりついたまま離れようとはしなかった。
「街の浮浪児になっていた俺は、同じような生活をしていたガキどもと仲が良くなっていた。そのうちの一人とよくつるむようになり、そいつに連れられてある男に会いに行った。どうにもその男は人手を探していたようで、俺の連れがいい仕事を見つけたと言って俺を無理矢理引っ張っていったんだ。でも、それが駄目だった。俺と連れは見事に騙されたよ。あの男――今では眼鏡を掛けてたってことくらいしか覚えてないが、あいつは典型的なサドだった。俺と連れは気が付けば部屋に監禁されてて、手錠は掛けられるし足枷は付けられるしで、毎日夜になると順番に鞭で打たれたんだ。あの親父はどうやら俺の連れのことが気に入ったらしく、俺より彼の方が長時間打たれて――打たれすぎたんだろうな、俺の目の前であいつは死んじまった。俺たちを監禁した親父はさすがにびびったのか、彼の死体を埋めるから手伝えって要求してきて、何年かぶりに外の世界に出してもらえたんだが、死体を運んでいる最中に警察に捕まったんだ。それで、俺が奴にどんな扱いを受けていたか全部ばれて、結局俺は警察に保護されることになった」
「エダさんが警察に? 信じられない! あんなに警察は嫌いだって言いふらしてたのに」
 いくら歩いても森の道は続いている。出口のない森は方向感覚だけでなくあらゆる神経を麻痺させてくれる。俺はエダの声を聞きながら、横から響いたヨウトの声に頭をくらくらさせていた。足がもつれて転びそうになったが、俺のことをよく見てくれているラザーが素早く身体を支えてくれた。
「若い警察の旦那が俺の面倒を見てくれたんだ。俺はその人に恩返ししたくなって、彼の仕事の手伝いを始めた。将来は自分も警察になるんだって信じて疑わなかったな。そうやって旦那の後についてうろうろしている時、旦那はガラの悪い奴を取り締まる仕事をしていて、俺も力になろうと考えて彼について行っちまったんだ。そしたら俺は簡単に人質にされちまってさ――旦那は男女二人組の悪党に殺されちまった。俺はまだガキで使えそうだからって生かされて、それからは以前の生活に逆戻りさ。どういうわけか、俺はサドに縁があるらしくて、その悪党二人組も質の悪いサディストだったんだ。あいつら、二人がかりで好き勝手しやがって、初めの夜から男の方に犯された。あの時のあいつの顔は今でも忘れられない。いやにニヤニヤして、暴言の雨を降らして、女の方に見せながら俺を犯すんだ。そもそも誰かに犯されたのはその時が初めてだったから、俺は頭の中が変になりそうだった。自分を慰める為に警察の旦那はまだ生きていると思い込んで、いつか彼が迎えに来てくれるはずだと自分に言い聞かせながら毎日を過ごしていた。そんな生活が五年くらい続いたかな――きっかけは些細なことで、男が俺を犯して終わった後、部屋の中に鞭を置いたまま外に出ていったんだ。俺はそいつに手を伸ばして、握り締めた途端に何かが目覚めた気がした。足音を立てないよう気をつけながら廊下を歩いて、男が眠っている部屋に侵入し、手に持っていた鞭を使って奴の首を絞めて殺した。続いて女が眠っている部屋に行くと、相手はまだ起きていて、だから俺はあいつに鞭を振り下ろしたのさ。それは快感だった。立場が逆転して、俺が女を支配した瞬間だった。女は暴言を吐いていたが、俺が男を殺したと告げるとすぐに大人しくなった。怒りと快感に任せて鞭を振り下ろし続けたら、いつの間にか女が動かなくなっていた。そうやって二人を殺して家から脱出した俺は、もうすっかりサドに目覚めて戻れなくなってしまっていたのさ」
 目前にちらつく空気がオレンジに染まりつつあった。周囲にはエダの声と三人の足音だけが充満している。お喋りなヨウトもすっかり黙り込んでいた。誰もが彼の話を中断させることができなかったのかもしれない。
「街に帰った俺は十七歳くらいだったかな、二人を殺した鞭を持ったまま街をうろついて、手頃な女を見つけては小屋に連れ込んで鞭で打っていた。そうでもしなければ気分が落ち着かなかったんだ。だけどそれだけじゃ金は手に入らないし、腹は減って動けなくなるし、俺は飢え死に寸前にまで追い込まれちまった。そんな俺を拾ったのは黒いスーツを着た怪しい男だった。愛想笑いが得意だったからすぐに商売人だと分かった。そいつは俺に飯をおごってくれて、代わりに自分のところで働かないかと条件を出してきやがった。その話を聞いた時にはすでに飯は腹の中に押し込まれていて、俺はそいつの誘いを快諾する他に道がなかったのさ。俺に押し付けられた仕事は、夜の街で身体を売ること――つまり男娼になれってことだった。最初は男に抱かれるなんて嫌でやめたくなったけど、部屋に連れ込んだら何をしてもいいって言われていたから、気弱そうな男を引っ掛けて鞭で打ったりしていた。それは楽しかった。俺じゃない人が苦痛に顔を歪める場面を眺めることは快感だった。だから俺はその仕事から逃げ出せなくなって、今となっては運命的な出会いを果たすことになったってことさ」
 そこまでを語ったエダは胸の辺りを押さえて息を吐き出し、どこか淋しげな微笑を顔に浮かべていた。彼の中ではそこで話が完結しているようだ。だけど何も知らない俺たちにとって、そこで話を止めることは気分が悪くて仕方のないことだった。
「運命的な出会いって、もしかしてクトダムに会ったのか?」
「ん? いや、違うさ。クトダム様に会ったのはもっと後で、その前に俺は変な客に会ったのさ」
「変な客? 何なのそれ、もったいぶらないで教えてよ」
「オーナー……つまり俺に仕事を押し付けたスーツの男のことだけど、そいつに無理矢理連れられて来た客がいたんだ。俺はちょうど前の客の相手が終わったところで、自分の部屋で服を着替えていたんだが、ノックもせずにオーナーが客を連れて入り込んできやがった。そして大した説明もせずに俺に客を押し付けてさっさと帰りやがったんだ。俺は何だかよく分からなかったが、とりあえず普段通り客をもてなしてやろうと思った。そうやって客の要望を聞いたんだが、相手は男を買うのは初めてで、どうすればいいのか分からないとか言いやがる。仕方なしに説明してやると、相手は怯えながらも俺に抱かれることを望んだんだ。俺はそれを聞いてびっくりして、でも客の頼みを断るわけにもいかなかったから、よく分からないままにそいつを抱くことにした」
「よく分からないって……なんで? 男娼って、詳しくは知らないけど、そういう商売なんじゃないのか」
 振り返って話しかけてもエダは俺の目を見てくれない。遠い記憶の中に意識を置いているようで、逆戻りした時間を手の内に抱えている最中であるのだと分かった気がした。
「そっか、君は平和な国で育った子だったもんな。ああいう商売をしてるとさ、大抵は客が上の地位に立ちたがるんだよ。特に俺のところに来る客はそういう傾向が強かったから、俺はいつも抱かれる側だったんだ。そうして俺は久しぶりの快楽を満喫したわけだが、終わってから客に感想を聞こうと顔を覗いたら、どういうわけだか彼は泣いてやがった。俺はまた驚かされて、俺のやり方がまずかったのかとか聞いたりしたけど、相手は大人しく金を払って逃げるように部屋から出ていった。帰り際にまた来たくなったら来いって声を掛けたら、相手は顔を真っ赤にして黙り込んじまった。言動がさっぱり理解できない客だったが、俺にとって損失になることもなかったから、もしまた来た時には丁重にもてなしてやろうと考えたんだ」
「それで、結局誰なのさ、その妙な客ってのは。早く教えてよ」
「そう焦るなよ、ヨウト。推測しながら聞いた方が面白いだろ? その客は翌日には来なかったが、その次の日に外でうろうろしてるところを見かけたんだ。俺から声を掛けたら簡単に誘うことに成功して、相手は金を払って俺に襲われることを望んだ。終わっても泣くことはなかったが、見た感じでは全く楽しんでなさそうで、むしろ自分を傷つけているようにしか思えなかったな。それからは毎日俺の部屋に来るようになって、二週間くらい買われ続け、ある時を境にぱたりと来なくなっちまった。俺の身体に飽きが来たのかと思って大して気にしなかったんだが、忘れた頃に部屋に押し掛けてきて、しかも変な連れまで一緒だったから俺はびびっちまった。その連れは警察の服を着ていてさ――何だか知らないが、部屋に入るや否やいきなり俺に向かって説教し出すんだぜ。もっとちゃんとした仕事をしろとか、こんな生活はいつまでも続かないとか言ってさ。そいつがあまりに口うるさく言ってくるもんで、俺は腹が立って相手と言い争いになった。例の客は困ったみたいにおろおろするだけで喧嘩を止めることもしないで、俺と警察の争いは口論から取っ組み合いに発展したんだ。そうやってうるさく騒いじまったもんだから、結局はオーナーに客と警察の二人組は部屋を追い出され、それ以来二度と俺のところに来なくなった。その後も男娼として気楽な日々を送ってたんだが、二十歳を超えたらもう終わりだと考えていたから、次の仕事を探す必要があったんだ。だから街の外にも足を向けたりして――綺麗な湖がある森の中で彷徨ってたら、俺は一人で佇んでいるあの人に遭遇したんだ」
 彼の声の中に今までと違う響きがあった。過去を懐かしんでいるものでもなく、未来に憂いているものでもない。当然今を形作るものでもなくて、どこか別次元の話が唐突に舞い込んできたかのように不自然な声色がそこにあった。
「それがクトダム?」
「そう。あの人から声を掛けてきたんだ。一緒に来ないかって、たったそれだけだったけど」
「へえ、そんな簡単な勧誘だったんだぁ。エダさんのことだからもっとねちっこい方法で誘われたのかと思ってたよ」
「おいヨウト、お前は俺のことをどんな目で見ているんだ」
 二人のささやかな争いを眺めていると、俺の隣の気配が小さな動きを示したことを感じた。ちょっと焦ってそちらに顔を向けてみると、少しだけ顔を蒼くしたラザーが額を手で押さえている。俺は彼の手を握った。それに気が付いたラザーは俺の顔を見て、首を横に振って手を離してしまった。
「クトダム様に組織に連れられて、すぐにティナアさんに事務の仕事を押し付けられた。俺はしばらくは兄貴の行方を捜すことに専念したな。黒いガラスの力で不老不死になって、他の連中に兄貴捜索の命令を下して、手頃な奴を捕まえてサドの魂を落ち着かせて……兄貴の居場所はなかなか見つからなくて、組織の外にも出向いてあちこち飛び回っているうちに驚くことが一つだけあった。それは例の妙な客と組織の中で再会したってことだったんだ。でもあの控え目でおろおろしていたような頃とはすっかり様子が変わっていて、やたらとティナアさんにくっつきたがって、ティナアさんもそいつのことを気に入ってるらしく俺には見せない微笑をその男には見せていた。俺はその人――つまりケキさんなんだけど、彼にわざわざ会いに行ったんだぜ。そしたら相手は俺のことも覚えていて、だけど「お前はもう要らない」とか言いやがったんだ。その声があまりに想像していたものと違ってて、俺は一瞬相手は別人なんじゃないかと疑った程だった。でもどうやら同一人物らしくてさ――あの人に何があったのか知らないが、立場としては俺の上司ってことになるそうだし、まあそれなりに仲良くやっていこうと思ったってわけさ」
「……ということは、何? ケキさんってエダさんに襲われることが趣味なの? ロイのことはいっつも虐めてたくせに、変な人だなぁ」
「おい、ヨウト」
 口の軽い少年は他人に配慮するということを知らないのだろう。ちょっと睨みつけるとヨウトはびっくりしたように目を丸くした。続いてラザーの様子を確認してみると、先程よりも顔を蒼くして片手で口元を押さえている。そのまま崩れてしまいそうに思えて、俺は彼の腕に触れて一度その場で立ち止まらせた。
「ラザー、顔色がよくないけど、気分でも悪くなったのか? 何かあったら無理しないで言ってくれよな」
 ラザーラスは首を横に振る。彼の調子が悪くなった原因なら安易に想像することができた。俺は彼の背中をさすってやり、すぐ傍に寄って彼との距離を縮めていく。
「……もう夕方だし、家に帰らないか? 君たちだって夜は静かに過ごしたいだろ」
 優しい言葉を投げかけたのはエダだった。以前はラザーを怖がらせてばかりだったのに、どうしてこんなにも優しい人になったのだろう。彼の裏に何かが隠されているようにしか思えなくて、でも親切にしてくれた人を疑うことほど嫌なことはなかったから、俺は彼のことをすっかり信用してしまっていたのだろう。
「待って、三人とも。家で暮らす人が増えたんだから、あの家にあるベッドの数じゃ足りないよ。森を抜けてすぐそこに街があるから、そこで僕がお布団買ってきてあげようか?」
「あ、うん。お願いするよ」
「じゃあ行ってくるね。樹君、ロイのことちゃんと見ててあげなよ」
 それだけを言ってヨウトは姿を消してしまった。彼が使う金は他人から奪い取ったものだろうけど、今の俺にはそれに対して説教をする権利がないように思えた。
 エダの昔話を聞いて分かったことは、彼もヨウトもケキも、誰もが最初から堕落していたわけじゃないということだった。それぞれに何らかの原因があり、度重なる不幸が彼らを深淵の餌食にしてしまったんだ。そして同じように、何らかの原因があって今でも自我を保ち続けている――たとえばラザーにはアニスがいて、エダには兄の存在があった。何かを一つでも強く意識していられたなら、人として生きることが可能だと誰かが言っていたことを思い出す。
 ラザーの背に手を当てながら、俺は二人を連れて森の道を引き返していった。小屋からどれくらい離れているかは分からないが、空から零れ落ちるオレンジの陽光に包まれていたなら、俺は遥か彼方まで疲れも知らずに歩いて行くことができるのではないかと感じていた。

 

 

 

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