月のない夜に

 

 

 エダが探し求めていた小屋に戻り、三人で小さな食卓を囲んで何気ない話をしていると、巨大な袋を頭の上に乗せたヨウトがふらふらとした足取りで部屋の中に入ってきた。俺とラザーは彼を手伝って袋の中の布団を取り出し、今は使われていないたくさんの絵が置かれている部屋にそれを敷いた。そこは倉庫のような部屋だったが、エダが気に入ったらしく彼とヨウトとで使うことに決定した。俺とラザーはこれまで使い続けてきた部屋を引き続き使うことになった。
 いつもの部屋に新しい布団が敷かれ、ますます狭くなった空間で俺はラザーと同じ時間を共有していた。相変わらず彼はベッドの上に腰を下ろし、仕方がないので俺は床に敷かれた布団の上に正座する。ラザーは俺がエダ達の部屋を掃除している間に風呂に入ったようで、今は手鏡を持って片手で髪を梳いていた。何度も違う角度から髪型を確認し、だからこそきちんと揃っていない髪の長さが気になっているようだった。
「ラザー、俺が髪の長さ揃えてあげようか?」
「ん……いい。下手に頼んで変な髪型にされたら困るからな」
 ばらばらの長さになっている髪を一房手に取りながら、彼は素っ気ない態度で返事をする。こんな姿を見せられたなら、俺は本当に彼に愛されているかどうか分からなくなってしまいそうだった。
「なあ、ラザーに一つ聞きたいことがあるんだけどさ」
「何だ」
「ラザーって……真のことが好きなのか?」
 俺の言葉を聞いた相手は手の動きを止め、訝しげな顔をこちらに向けてきた。
「いきなり何を聞いているんだ、お前は」
「だって、ラザーは真に言われたから組織を抜け出したんだろ? だから真のことが好きなのかと思って」
「おい、お前は勘違いしてるぞ。俺はあいつに言われたから組織を抜け出したわけじゃない。あの人に要らないって言われたから、あの場所に居場所がなくなってカイのところに転がり込んだんだ。確かにそれまでに何度も真と一緒に行動していたが――でもそれだって、別にあいつが好きだったから離れなかったわけじゃないんだ」
 ラザーは手鏡を小さな机の上に置き、俺はそこにまだ教科書が開かれたままだったことに気が付いた。思えばもう何日も学校を休んでしまっている。もうすぐ試験があるはずなのに、俺は一体何をしているんだろう。
「それでも今も連絡を取り合ってるんだよな? 師匠の修行にも一緒に付き合ってたそうだし、好意がなかったらそんなにずっと一緒にはいられないと思うけど」
「……お前、まさかあいつに嫉妬してんのか?」
「――だったら悪いかよ」
「可愛い奴だな。乙女みたいだ」
 顔にうっすらと微笑を浮かべた相手はベッドから立ち上がり、俺の布団の上に座り込んだ。いつものように俺のすぐ隣に身体を寄せ、腰に腕を回されてそのまま唇にキスをされる。
「それで、実際どうなんだ。ラザーは俺より真の方がいいのか」
「だからお前は勘違いしてるんだって。俺はあいつをそういう目で見たことはないんだ。あいつのことが気になってる理由は、ただアニスと似た面影を感じるからなんだ。お前だって知ってるだろ、アニスは真の兄のケキの血を引いている。だから必然的に二人は似ることになったんだろうが――真に初めて会った時はそんなことを知っているわけがなくて、ただなんとなく気になる奴だと思っただけだった。真がアニスと似ていると感じ始めてからは二人を比べるようになって、俺はアニスの方が大事だったから真のことが嫌いになっていた。はっきりとそう言ったこともあるんだぜ、『僕は君のことがとてつもなく嫌いだ』ってな」
 話しながらラザーは楽しそうに笑っていた。口の中に漏れ出しそうな笑いを必死になって押さえ込み、だけどそれが表に出てきて彼のはっきりとした感情が露わになっている。しかし俺にとっては何がそんなに楽しいのか分からなくて、彼の「嫌いだ」と言った声が頭の片隅に蓄積されてしまっていた。
「真がアニスと同じ血を持っていると知ってからは、あいつだけは死なせてはならないと考えるようになったな。アニスは真の存在自体を知らないようだったが、それでもアニスに頼まれたような気がしたんだ。アニスが死ぬことによってその気持ちはより強く大きくなってしまった。俺が真のことを気にかけているのは、そういう理由があるからなのさ。お前とあいつとじゃ比べる基準が違うんだ。だから、嫉妬なんかするな」
 そっと顔を近付けられ、彼は俺の額の辺りで小声になって囁いてきた。それがなんだか秘密の合図のような気がして、俺はわけもなく嬉しくなってしまう。
 彼の長いまつ毛がまばたきをするたびに美しさを主張している。手で優しく触れるとさらりとしていて、指先に細かな心地よさがほとばしった。ラザーはちょっと戸惑ったように俺の手を握った。彼のその表情が俺の全てを癒してくれる。
「ラザー、キスしていいかな」
「お前はいちいち断らなくていい」
 俺の方から贈るつもりだったのに、気が付けば彼にキスされていた。その甘さを味わいながらケキのキスを思い出してしまう。
 まるで恋人のようだった。俺たちは男同士でありながら、恋人の男女と違わぬことを繰り返している。そこに対する後ろめたさは世間から遠ざかることによってかき消すことに成功していた。彼との生活を望むのならば、俺はもう二度と学校には戻れないのかもしれない。
「外、すっかり暗くなったな」
「ああ。冬は夜の訪れが早い。だが俺にとっては好都合だ。今も昔も、昼より夜の方が安心を得られるから」
 俺はちょっと立ち上がり、部屋の窓を開けて外の景色を眺めてみた。夜の闇に染められた木々が周囲を埋め尽くし、その頭上には星が煌めく夜空が広がっている。日本で見るよりも美しい空だった。俺は彼と肩を並べながら、どんなに望んでも届かない星の海を見上げている。
「エダの奴、もう寝ちまったかな」
「……気になるの?」
「そりゃ、同じ家の中にいるんだからな。またあいつに襲われるような気がして不安なんだ」
「エダはもうラザーを襲うことはないと思うよ。あいつ、ラザーより俺のことを気にしてるみたいだし」
「そう……なのか?」
「そうだよ。そしてあいつは俺には逆らえないんだ。だからもう大丈夫、怖がることなんてないんだよ」
 ラザーは目線をそらして少し俯いた。俺は開けていた窓を閉め、カーテンも閉めて部屋の中を暗くする。先程までラザーが陣取っていたベッドに腰を下ろし、靴下を脱いで裸足になった。ラザーもまたベッドの上に座り込み、何も言わずに自分のシャツを脱ぎ捨てた。
「じゃあさ、俺とアニスとではどっちが好きなんだ」
「おいおい、俺はどうあっても一番を決めなきゃならないのか? お前のことを愛してるって事実だけじゃ満足してくれないのか」
「それでもいいんだけど……やっぱり一番じゃないと嬉しくない」
「だからって死人と比べるのはナンセンスだ。アニスはもう生きていないんだから、お前とは比べようがないじゃないか。……今はお前が一番さ。他の誰よりも愛している」
 どうしてだか今日のラザーは穏やかで、俺の欲しい言葉をすぐに見つけ出してくれた。俺はなんだか泣き出しそうになってしまい、それを隠す為に彼の身体に抱きついた。彼が俺の背に手を回した感触が伝わってくる。
「これじゃ、何の為に布団を買ったのか分からないな」
 ラザーの呆れたような声が俺の隣を通り過ぎた。彼は俺の身体を離し、シャツを捲って脱がせてくる。裸の胸や腹に舌と指を這わせ、彼は俺の身体を静かに貪り始めた。俺は相手の肩に手を置いて、彼に触れられるだけで反応する身体に快感を覚えていた。
「ラザー、俺、あんたの中に入りたい」
 座ったまま互いの身体を愛撫し合い、二人だけの空間が世界から切り離されようとしていた。ラザーは俺の股間に手を押し当て、ズボンの上から強い刺激を与えてくる。俺は彼の首に唇を当てながらかねてからの要望を口にした。だけど相手は複雑そうな表情しか俺に見せてくれなかった。
「それは、嫌だ。我慢しろ」
「昨日もそう言ってたよな。どうしてなんだ? そんなに抱かれるのは嫌いなのか? 昔はずっとケキに抱かれてたんだろ?」
「だからなんだよ、分からないのか」
 ラザーは動作を止めて俺の目を覗き込んでくる。俺は彼の目の中から何かを感じ取らねばならなかった。彼が言いたいことを瞬時に読み取り、それを理解して納得しなければ彼と繋がることはできなかったんだ。
「どうしても思い出してしまうんだ。あいつに――ケキに無理矢理やらされてたことを。だから、入れられるのだけは嫌だ。俺はお前を抱きたいんだ」
 ベッドに押し倒され、ズボンを脱がされて身体を弄られた。彼のわがままが俺を不満で染めていく。だけどどうしても怒ってはならなくて、俺は黙って彼の心を満たしてやらねばならなかった。彼の指が俺の中に入ってくる。アニスの十字架が胸の上に落ちてきて、その冷たさが冬の氷柱の如き痛みを伴ったもののように思えた。
「ごめん、ラザー。俺もあんたのこと抱きたいって思っちまうんだ。俺はやっぱりエダの言った通りサディストで、誰かを支配する愛が欲しいんだと思う。あんたの中に俺の楔を打ち込んで、心も身体も俺のものにしたいって願ってるんだ。だから俺はラザーを襲いたくなる。受け止めるだけの愛じゃ満足できない」
「でも、お前――」
「ラザー」
 ちょっと力を入れるだけで形勢は逆転した。俺がラザーをベッドに押し倒し、彼の上に覆い被さっている。ズボンの中に手を突っ込んで彼のものに触れると、相手は小さく声を漏らして身体全体をぴくりと反応させた。そのまま手を下方に滑らせ、彼の入口を探し当てて指を一本だけ進入させる。
「お前、本気で俺を襲う気か」
「……どうしても嫌だって言うならやめるよ」
 邪魔になったズボンを片手で引っ張り、隠されていた彼の白い身体が全て目に見えるものとなった。相手は俺の腕を掴み、重そうに身体を持ち上げて起こした。そして床に捨てられていた自分の上着を拾い上げる。
「本当なら何があろうと許さないんだが、お前だけは特別になっちまったからな。仕方がないから許してやるよ。ただし、そう頻繁にやられちゃ俺の身がもたない。それから――お前は俺たちと違って普通の人間なんだから、病気の予防もちゃんとしておけ」
 上着の裏に手を突っ込み、彼は小さな箱を取り出した。その中から何かを一つだけ手で掴み、上着と箱を床の上に放り投げる。彼が持っているものは薬を包んでいるような小さな袋状のもので、中には何やら丸いリングのようなものが入っているみたいだった。
「……それ、何?」
「なんだ、知らないのか? 確かお前は十六歳だったよな、今まで生きてきた中で女やセックスに興味はなかったのか」
「正直言って、あんまり興味はなかったよ。前にも言ったと思うけど、俺ってそういうこと考えてる余裕がなかったからさ。それに、友達も薫とばかり付き合ってたから、ずっと子供みたいにゲームばっかりしてたんだ。他の奴らは俺と違ってそういうこと考えてたのかな……」
 ラザーは小さく「ふうん」と呟いた。彼の瞳は物珍しそうに輝いているわけでもなく、それほど気にせずに俺の顔をただ眺めているだけのようだ。自分から聞いてきたのにそれはおかしな反応だった。彼の思いが掴めなくて心の内がざわめき始める。
「男同士での遊びはいろいろと危険があるってことさ。世間から変な目で見られるってだけじゃない、汚い部分に突っ込むんだから病気になる危険性もある。俺の身体は命の水竜のおかげで病原体はすぐに殺されるようになってるんだが、お前はただ兵器ってだけの一般人に他ならないだろ。病気になりたくなかったらこいつを付けておけ。あと……あんまり多くの奴とするなよ。知らない間に変な病気に感染する可能性だってあるんだから」
「あ、えと、ラザー」
 話しながら彼は俺のものにゴムみたいな物を付けてきた。恥ずかしくなって顔が真っ赤になったことが自分でもよく分かる。それでもラザーは真面目そうに話していて、今まで軽い気持ちで行為を繰り返してきたことが恐ろしいことのように思えてしまった。
「お前、今まで誰とやったんだっけ?」
 中身を失った袋を投げ捨て、相手は俺に背中からもたれ掛かってきた。それを抱き止めて彼と視線を交じらせたなら、彼の質問の意図が鮮明に見えてきたような気がした。
「そんなにたくさんの人とはやってないよ。ラザーとエダと、ヨウトには口でやられただけだし」
「ケキは? あいつにも会ったんだろ?」
「あの人にはキスされただけだ。ラザーとよく似たキスを」
「ん? それだけなのか? あいつがキスだけで満足するわけがないだろ。本当にそれ以上のことはされなかったのか?」
「エダに助けられたんだ。あの人、俺の口の中に銃口を入れてきたから。いつかはケキがエダから助けてくれたのに、あの人たちってよく分からないよ」
「そうだな。俺だってあいつらの考えていることは分からない」
 エダやヨウトと共に森の中を散歩していた時は、ケキの名前を聞くだけでラザーは顔を蒼くしていた。それほど彼にとってケキという男の存在は大きくなりすぎていたんだろう。彼の精神で見た虐待の数々も、ほとんどがあの男によってもたらされたものだった。ラザーはケキによって心も身体も歪められてしまったのだろう。クトダムが間接的な原因を作ったとするならば、ケキは直接的な原因ということだろうか。ただラザーはクトダムのことを尊敬していたから、悪は全てケキに偏って全体像が見えなくなっているようだった。俺は彼をただ愛そうと思って、相手の日に焼けていない肌を背中越しに優しく撫でた。胸にも腹にも脚にも手を滑らせ、彼の敏感な部分には触れないよう気を付けながら愛撫した。胸を触っているとアニスの十字架が邪魔に感じられた。いつまでも死んだ精霊に縛られている彼を解放するには、まずこの十字架を粉々に砕いて忘れさせねばならないはずだった。
「なあラザー、知ってる? ケキは俺のこと、アニスの生まれ変わりだって信じてるんだ」
「何だそれ。意味が分からないな」
「俺がアニスと同じ黒い髪をしてるからなんだってさ。日本人はほとんど黒髪なのに、あの人って一体何を考えてるんだろ。真の兄なら日本人の特色だって知ってるはずなのにさ……」
 彼の身体をうつ伏せに寝かせ、指で相手の入口をほぐしていく。以前彼を襲った時にはこんなことをしている余裕がなくて、彼にはずいぶんと痛い思いをさせてしまったようだった。だから今日は彼の真似事をして愛そうと考えた。俺が彼を愛していることは真実であると伝えなければ捨てられそうな気がしたのかもしれない。
「なあ。アニスがケキに愛されてたって……本当なのか?」
「どうしてそんなことを聞くんだ? お前には関係ないことじゃないか」
「関係ないけど、もしケキがアニスを愛してたなら、どうしてアニスを虐待していたんだろうって思って。だってアニスはあの人の娘なんだろ? 愛してる娘を苦しめるなんて、そんなの親のすることじゃないよ」
 俺の問いにラザーは何も答えなかった。俺は彼の中から指を抜き、彼の身体をあお向けに寝かせた。ラザーは少し戸惑っているようだった。そんな相手のことが我慢できないほど愛おしくて、俺は今すぐにでも彼を壊してしまいたくなる。
 震える手で彼の足を持ち上げ、彼の身体を深く貫いた。慣れている彼の身体は安易に俺のものを受け入れてしまう。だけど単純な身体とは裏腹に、彼の表情は大きく歪んで苦しげにベッドのシーツを握り締めた。
「ラザー、大丈夫……なのか」
「う――」
 彼はぎゅっと目を閉じてしまう。ひどく怯えているようだった。彼と繋がっているから相手の震えが直接伝わってくるようで、俺は彼を安心させる為に何かをしなければならなかった。だけど一体どうすればいいのか? これが俺の望みであり、彼の反対を押し切って行なった結果だというのだろうか。俺だけが楽しんで彼が苦しまねばならないのなら、それはケキやエダの凌辱と全く変わらないんじゃないだろうか?
「怖くないよ、俺はあんたを傷つけたいわけじゃないから。あんたを愛してるから、あんたと一つになりたいからこういうことをしてるんだ。これは怖いことでも、汚いことでもない。俺にとっての愛を示す方法に他ならないんだから」
 俺は彼の耳元で囁いた。甘い誘いを持ち掛けたわけじゃない。ただ腹の底ではこれだけじゃ何の解決にもならないことも分かっていて、頭の中には絶望の灯がぽつりぽつりと現れ始めていた。ラザーラスは何かを言いたげに唇を震えさせていた。思わずその唇に吸いつくと、それは乾いてかさかさになった何の味もしないものになっていた。
「ラザー、動いてもいいかな」
「嫌! やっぱり嫌だ、もうやめろ!」
「そんなに嫌? 俺はそんなに怖いかな? なあ、ラザー、俺はケキやエダとは違うんだ。あいつらみたいに自分の為だけにここにいるんじゃない、ラザーと一緒に気持ち良くなりたいって思ってるから――」
「言い訳じゃないか、そんなもの、誰が信用なんかするか! 最初は皆そう言うんだよ、自分はあいつらとは違うって、そうやって俺を騙して受け入れさせたなら、後は勝手に楽しんで最後には俺を捨てて帰るんだ! お前だって同じだろ、今は俺の方を向いているけど、いつかは別の奴が好きになって遠ざかっていくんだろ! 愛なんて、お前の言う愛なんて単なる性欲じゃないか! 俺は、嫌なんだよ、そんな汚いもの、これ以上俺に近付けないでくれ!」
 相手は目を開いていた。彼の赤い目が鋭く尖っているが、そこに見えるのは怒りではなく怯えだった。彼は愛を求めているのに、愛し愛されることを理想と考えているはずなのに、愛というものに対して深い疑惑と怖れを抱いているようだった。どうすれば彼の中からそれを消すことができるだろう? 俺が愛を教え、愛を信じさせることができるのか? それは、しかし不可能に近いことだった。だって俺は、自分自身でもまだ愛というものを理解していないんだから。
 それでもここで止まっている時間は残されていなかった。俺は彼の意思を踏みつけるように、相手の身体を両手で押さえて自分の身体を動かした。ラザーラスは再びぎゅっと目を閉じて、先程よりも大きな歪みを顔の上に浮かび上がらせる。彼の口から悲鳴に似た声が漏れ出していた。言葉にさえならないそれは俺の耳を通り抜け、だけど部屋の外に出ることは決してなかった。窓も扉も全て閉ざされた空間でラザーの悲痛な叫びが走る。俺は彼の姿を見下ろしながら、徐々に湧き上がってくる快感に飲み込まれないよう自我を保ちながら彼を貫いていた。
 相手があまりに強くシーツを握り締めるから、整えられていたベッドの布団がしわだらけになっていた。ともすれば破れてしまうんじゃないかという不安さえ押し寄せて、俺は彼を落ち着かせてやろうと繋がったままキスを与えた。だけど相手は俺の唇に吸いつくこともせず、だらしなく口から唾液を零してしまっていた。唇が離れた途端に大きな悲鳴が放出される。このままじゃ彼は傷つく一方で、俺が相手を満足させる方法なんて存在しないんじゃないかと急に恐ろしくなってきた。
「ラザー、俺が下手なのは分かってる、でもそんなに痛いのか? 痛いのは身体? それとも心?」
「早く――」
 苦痛に歪んだ口がはっきりとした言葉を吐き出す。
「早く殺せ、あいつみたいに、俺の意識を消してしまえ、頭の中にある一部分を――殺せ!」
 彼の両腕が伸びてくる。それは俺の背中に回され、乱暴に身体を引き寄せられた。俺の胸が彼の上に密着する。そこから心臓の鼓動が感じられた。そのありえないほどの速さと大きさに何もできなくなってしまう。
「殺せよ、殺してしまえ! お前はケキと同じなんだろう、あいつと同じサディストで、俺を愛しているから襲うんだろ! その愛は支配なんだろ、服従を、束縛を強要する愛なんだろ! 同じだ、ケキと同じだ、お前は! ああ! 早く、言ってしまえ、さっさと死ねって、そう叫んで俺を殴れよ! あいつみたいに――あいつと同じように、頭の中の一部をぶっ飛ばしてくれよ、いい子にするから!」
「ラザー……ラザーラス!」
「あ――ああ、もう、嫌だ――」
 頭では混乱ばかりが渦巻いているのに、俺の身体は快楽を得て相手の中にたくさんのものを放出した。びっくりして彼から身体を離すと、ラザーに付けられたゴムの中に俺の欲望が詰まっていた。彼の身体は綺麗なままだ。それを確認してほっと胸を撫で下ろす自分がいた。
 ラザーは両手で顔を隠していた。泣いているのかと思ってどきりとした。そっと彼の腕を持ち上げると、ラザーは目を閉じているだけで涙は流れていなかった。ただおかしいくらいに痛々しい表情をしていた。彼が組織でケキに襲われていた時も、今と同じような顔で犯されていたのだろうか。
「ごめん……やっぱりやめた方が良かったな」
「……」
「でも、これだけは分かってくれ。俺はケキやエダとは違う。ラザーを愛しているからこそ――」
「お前の愛は暴力だ。それがよく分かった」
「ラザー! 違うよ、そんなはずはない!」
「違うなら、お前の愛は欲望だ。俺のことなんか少しも考えちゃいない、ただセックスができればいいだけの愛なんだろ」
「ラザー、俺は」
「もう寝る。これ以上喋るな」
「俺は――」
 ……言葉が続かなかった。

 

 +++++

 

 悪夢を見ていた。どんな内容だったかは覚えていない。そこにラザーは出ていなくて、見覚えのある黒い髪の男が俺のことを罵っていたように記憶している。
 俺を悪夢から救ったのはエダだった。まだ深い夜に包み込まれている頃、きちんと服を着てラザーとは違う布団に入り込んでいた俺の傍に座り、頬を何度か叩かれて起こされた。俺が声を発する前に手で口を塞がれ、そのまま腕を掴まれて部屋の外に連れ出される。彼に引っ張られて足早に廊下を歩き、エダとヨウトが使っているはずの部屋の中に押し込まれてしまった。
「こんな時間に何の用だよ! あんたの相手ならしないからな」
「黙れよ。そう仕向けたのはお前だ」
 胸ぐらを掴まれて背中を壁に叩きつけられる。俺の足元にある布団ではヨウトがすやすやと眠っていた。強い力で顔を殴られ、俺の身体はその場に崩れ落ちてしまう。立ち上がろうとすると相手に髪を掴まれ、床に叩きつけられて頭を足で踏みつけられた。
「君は俺のことが心配なんだろう」
「な、何を――」
「俺が兄貴の影を求めて、こんな家まで執拗に探してたから、俺の心が壊れたりしないかって心配していたんだろう! 薄っぺらい同情を向けて、俺の性格を忘れた顔をして、そして俺を丸め込もうと企んでいたのか? 確かにそれはうまくいっていたよ、だが途中までだ。君は非常に馬鹿なことをした――さあ、あの時みたいに手と口でするんだ」
 彼は俺の身体を起こして床に座らせ、自分のズボンを下ろして俺の顔に近付けてきた。髪は片手で掴まれたままで、俺はまだ興奮していない彼のものを手に取って口に入れた。
「ん――!」
 頭が壁にぶつかった。彼が無理矢理奥へと押し込んできたんだ。髪を掴む手に力が込められ、頭を乱暴に動かされる。
「お前が悪いんだ、お前が――」
 口の中で大きくなった相手が俺の息を邪魔していた。頭を動かされるだけでなく彼の腰が動いてより奥へと押し込まれ、抵抗しようと手を伸ばしても相手は俺の思い通りにはならなかった。
「意味がないんだよ! こんなの、何の意味もない! そうだろ、お前だって分かっているんだろう、樹! 何の意味もない、ただの暇つぶしにすぎないんだって!」
 やがて頭は壁にくっついて離れなくなり、髪を握る手は動作を止めて彼の腰だけが俺を突いてきた。それは威圧的で乱暴な行為でしかなく、喉の奥を幾度も犯され、次第に涙が溢れてくる。
「くそっ、何が愛だ! 俺を笑いやがって、あいつが帰るまで一緒にいるだって! あんな奴の何がいいんだ! クトダム様も、ケキさんも、ヨウトも樹もあいつばかりを見る! 俺は何なんだよ、お前らにとって俺の価値は何なんだ!」
「う……わっ」
 口の中から彼が消えたと思ったら、どろっとした熱い液体を顔の上にかけられた。髪を引っ張られて床にうつ伏せに転がされ、両手首を何か硬い物で拘束される。すぐにあお向けに変えられて服を引き裂かれた。彼の片手には闇の中でもよく光る鋭いナイフが握られている。
「――壊してやろうか」
 こちらを見ているはずなのに、彼の目は何も見ていなかった。背筋が凍る思いがする。片手で首を掴まれて、ナイフを握った手がゆっくりとこちらに近付いてきた。服の間から覗く肌に銀の刃が押し当てられる。
「あいつの宝物、壊してやろうか」
「やめ……やめてくれ、エダ!」
 赤い血が噴き出した。それは確かに俺の血だった。腹を切られたんだ。痛みが身体じゅうを駆け巡る。
「これを壊せば、あいつは悲しむはず。怒って俺の方を向いてくるはずだ」
「エダ、エダっ!」
 今度は肩から溢れ出た。彼の目には血の色も映らない。銀の刃が赤く染まっていく。そのまま錆びてしまえばいいと願った。
「助け――」
「助けなんて誰も来ない。ラザーラスは眠っている、ヨウトには睡眠薬を飲ませた。誰もこの場所を知らない。教えなかったのは君じゃないか。まだ時間はある――ラザーラスの宝物を壊す時間なら、充分すぎるくらい余っているな」
「エダ! やめてくれ、何でも言うこと聞くから!」
「無理だ! 君は俺の願いを叶えられない、俺は君の本心を知っているから!」
 彼の言葉にはっとした。俺は彼の願いが分かった気がした。そしてそれが決して叶えられない願いなのだと瞬時に理解した。もはや彼から逃れられる方法は残っていなかった。
「あ……い、嫌――」
「もっと鳴け」
「嫌だ、こんなの、誰も望んでなかったのに!」
「鳴け! 鳴いて俺を楽しませろ! そしたら殺さないで許してやるよ、この場だけの許しで甘んじてやるよ!」
「ああっ!」
 彼のナイフが身体を傷つける。俺は腹の奥から声を絞り出した。闇に染まっても鮮明な赤が空中に飛び散り、俺の身体の上に落ちて赤い染みを作っていた。相手はナイフを床に投げ捨て、代わりにズボンからベルトを抜き出した。大きく腕を振り上げて俺の身体をベルトで打ちつける。俺は相手の要望通りに声を張り上げねばならなかった。色のない目で彼は何度もベルトを振り下ろし、そのたびに俺は動物のように声を上げるけど、すぐ傍で眠っているヨウトも奥の部屋にいるはずのラザーも、決して助けに来てくれることはなかった。こんなに騒がしくしているのに、彼らはどうして気付かないのか!
「不思議か? なぜラザーラスもヨウトも自分を助けてくれないのかって、そんな疑問を抱いているのか? 可笑しいな、とんでもなく可笑しなことだ! ラザーラスがお前の隣で犯されていた時、お前は一体何をしていたんだろうな?」
「そ、それは――」
「口答えするな! お前は奴隷みたいに命令だけを聞いていろ!」
 鞭のようなベルトが俺を襲う。金具の部分が使われていないことだけが救いだったが、それでも痛さと惨めさが和らいでくれることはなかった。ベルトが振るわれる度に風が切られる音がした。相手の足が俺の手のひらを踏みつけて、床よりも下へと押し込まれてしまいそうな気がした。
 これは一体何なのか? なぜ俺は彼を怒らせてしまったのか? 原因なら分かっている、俺がエダとラザーと、二人を一度に救おうとしたからだ。彼の言ったように俺は馬鹿なことをしてしまった。安直な考えで二人を同じ場所に押し込めてしまったんだ! こんなやり方じゃ片方が崩れてしまうのに、どうしてそこまで考えなかったのか! エダは俺を奴隷と呼んだ。身体の奥から絞り出す悲鳴を望んだ。胸や手足に傷が増えていく。俺の肌が全て赤に染まったなら、彼はベルトを手放してくれるだろうか。
 わずかな期待を隠しながら彼の心を満たしていると、上から熱いものが降ってきて身体が溶けてしまいそうだった。長い時間の中で何度も同じことを繰り返され、痛みが分からなくなるほど打たれ続けていると、俺の声が出なくなった頃に彼の怒りは終焉を迎え入れた。俺は少し離れた位置から自分の姿を見下ろしていた。闇の中で小さな身体がどす黒い赤に染まり、まだ乾いていない白い液体が赤の中に点々と混じっている。視線は天井に向けられているが焦点は見失っていて、吐き出す息は深く大きな苦痛を存在せしめていた。
 扉が開き、身体を蹴られた。俺は廊下に転がっていく。部屋から追い出されてすぐに扉は閉められた。このまま誰にも気付かれずに死んでしまうのではないかと思った。
 力が全身から失われている。自分で立つことも言葉を発することもできずに、俺はただ天井を見上げていた。早く朝が来て欲しかった。朝が来てラザーが通りかかって、俺の姿を見てエダに仕返しでもして欲しいと思っていた。だけど、夜は恐ろしいくらいに長かった。いくら待っても周囲が明るくなることはなくて、この世の全ての時計が止まってしまったのではないかと感じた。
 次第に重くなる目蓋を閉じて、俺は闇へ心を売り払う。未来への希望も過去の光も信用できないまま、次に見る人間が愛すべき人であればそれだけでいいと思っていた。

 

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 誰が虐げられていても、世界には犠牲が必要だったから、周囲には目をそらす人が大勢いた。それを嘆いても理が改変されることはなく、世界にとって都合のいいサクリファイスが輪廻のように回るだけ。愛についても同じで、誰か特定の人を愛することにより幸福と不幸とがはっきりと分かれてしまっていた。そしてそれは個に対する愛のみに出現することであり、だからこそ天と地とが大きく異なってしまったのだろう。
 堅くなった体を感じ、静かな空間で目を開けた。意識せずに腕を動かすと、昨日の夜に刻みつけられた空想のような痛みが消えていた。一つまばたきをして胸の上に手を置いた。そしてようやく俺は布団の中に寝転がっていることに気が付いた。
「目が覚めたか、樹」
 俺を呼ぶ声がある。それを探し求めるように身体を起き上がらせると、汚れなど知らないと言わんばかりの黒い服を着せられていた。俺の隣に銀髪の青年が座っている。顔に少しの微笑みを浮かばせ、窓から差し込む光に包まれているラザーラスが俺の顔をじっと見ていた。
「とりあえず、身体の傷は治療しておいた。その前にシャワーを浴びせてあいつの精液を流しておいたが、中の方には入れられてなかったんだな」
「あ、あいつって――知ってたのか、ラザー!」
「知ってたも何も、この家でそういうことをする奴なんざ一人しかいないじゃないか。ま、何にせよ……お前が無事でよかった」
 くしゃりと頭を撫でられる。彼の大きな手が感じられて嬉しかったが、それでも納得できないことの方が圧倒的に多かった。
「全然無事じゃないよ。俺、きっとこれから毎晩あいつに襲われるんだ」
「その点なら心配ないさ」
「どうして!」
「俺があいつを脅したからさ。もし今後樹に手を出すようなことがあれば、この家に火をつけて灰にしてやるってな」
 突拍子もない彼の台詞に何も言えなくなってしまう。しかしラザーはいかにも可笑しそうに笑い、どうしてだか上機嫌であるようだった。俺が襲われたのに笑っていられるなんて、彼は本当にこの状況を理解しているのだろうか?
「ん、どうした。傷が痛むか?」
 よっぽど感情が顔に出ていたのか、相手はさっと表情を改めて俺の目をまっすぐ見てきた。その反応は単純でありながら安心するものだったが、何とも言い様のない懐疑を否定することができない。
「傷なんてもうないのに、なんで痛むようなことがあるんだよ。ラザーってさ、本当に他人の考えが分からないんだな。鈍感にも程がある」
「おい、何を拗ねてるんだ」
「さあ?」
 察するところならあった。彼はあの組織での常識しか知らなかったから、俺が襲われようと殺されかけようと、そんなことは日常茶飯事のように流してしまうのだろう。ただ俺は心配して欲しかった。たった一人の味方になってエダを叱って欲しかった。しかし彼は分からないらしい。俺の密かな願いに気付くこともなく、勝手な方法で事を済ませようと手配する。
「……昨日のこと、ちゃんと謝ろうと思ってたのに、こんなことされたら謝る気も失せちまったな」
「え、昨日? お前何かしたか?」
 目の前にいる男が憎らしくなってくる。なぜ俺はこんな奴に惹かれているんだろうか。
「もういいよ、あっち行け!」
「だから何をそんなに怒ってるんだ、はっきり言わないと分からないだろ」
「知るか、そんなこと、自分で気付け!」
「樹」
 顔を背けようとしたらキスされた。心の中まで踏み入れられそうなキス。彼が俺の中で生きていた。そしてその生活に満足する自分がいた。
「教えてくれ。何がそんなに不満なんだ。俺はまたお前を困らせているのか」
 彼は汚いことを知っている。世間の闇を見ても少しも動じないくせに、根が純情だから余計に質が悪いのかもしれなかった。そんな相手の姿を見ていると綺麗な部分しか目に入らなくなる。彼の繊細なガラス細工のような優しさが、俺の全てを先端から中心まで何もかも支配してしまいそうだった。
 俺は彼に嘘をつけなくなる。
「……エダに酷いことされたのに、全然心配してくれないから気に入らないんだよ。ラザーは俺のことなんかどうでもいいって思ってるんだ」
「え? ああ――そうか。お前はそういうことを望んでいたのか。それなら、悪かったな。既にあいつにぶちかましてやったから、今は怒りも鎮まって落ち着いてるんだ」
 ラザーは俺の頭に手を乗せ、小さく「もう大丈夫だから」と囁いてきた。ふわりとした表情が彼によく似合っている。他の誰でもなく俺にそれを見せてくれることが嬉しくて、だけどどんな時でもその表情を持ち続けていてくれればと願わなければならなかった。だって俺は彼の幸福を願ってる。俺のいない場所での幸福を、遠い未来まで付き合うことになる幸せを掴んで欲しいんだ。
「それじゃ、樹、俺はちょっと出かけてくる。今日は学校はあるんだっけ? もし学校に行かないのなら、俺が帰ってくるまでヨウトの傍にくっついていろ。あいつならエダがお前に手を出そうとしても助けてくれると思うからさ」
「えっ、ちょっと――」
 さっと立ち上がった相手は素早く部屋の外へと出ていってしまった。出かけるって、彼は何の用事があってどこへ行ってしまったんだ? 俺には言えないような理由なんだろうか。また隠し事を積み重ねられ、俺を悲しませようと準備しているんじゃないだろうか。
 彼を追いかけようと廊下に飛び出し、玄関の方へと走っていく。外に繋がる扉を開いてももはや彼の姿はどこにもなくて、零れたため息を踏み殺すように諦めて扉をぱたりと閉じた。
「樹君」
 背後から声が聞こえて心臓が跳ね上がった心地がした。慌てて振り返ると俺より低い位置で二つの目がまばたきをしている。相手は青い髪を持つヨウトだった。ここにいるのがエダじゃないことを認めると一気に心が落ち着いた。
「おはよ、ヨウト」
「んーおはよう。さっきドア開けてたけど、今日はどっかに出かけるの?」
「いや、俺じゃなくてラザーが出かけたみたいなんだ。それなのにあいつ、どこに行くかも教えてくれなくて」
「そうなんだ。ふあ……」
 目の前の少年は眠そうにあくびをする。ふと昨日のエダの言葉が甦り、相手が睡眠薬を飲まされていたらしいことを思い出した。だけどそれは結果だけだ。ヨウトは睡眠薬をエダに無理矢理飲まされたのか、それとも自らそれをエダから受け取ったのか?
「んー。眠い眠い。昨日は夢も見ないでぐっすり眠っちゃってさぁ、久しぶりに快眠ってやつを体験した気がしたよ。でも朝になっても眠いなんて……エダさんの奴、僕を騙したなぁ!」
「騙したって?」
「うん。エダさんがさ、「すっごく気持ちよく眠れるからこれ飲め!」って言って変な薬を渡してきたんだよ。僕はまたあの人の悪い冗談に付き合わされるのかと警戒したけど、君も飲んだことがあるとか言ってきたからさ、だったら少しくらいいいかなーって思って飲んだんだけど、次の日になっても続くなんて聞いてないよぉ。もうエダさんのことなんか信用しないもんね!」
 顔の下でぎゅっと握り拳を二つ作り、ヨウトはエダに対して怒っているようだった。だけどその表情の中に眠気が混じっていてあまり真剣味が感じられない。
「なあヨウト、今日って何曜日だったっけ……」
「ええ、そんなこと僕に聞かないでよ! 何だっけ、ええと、今日が何日かってのは携帯で分かるんじゃないの?」
「あ、そうだった」
 ヨウトに言われて携帯電話の存在を思い出す。しかしズボンのポケットに手を入れても何も見つからなかった。俺はまたラザーの服を着せられているらしく、携帯は部屋にでも放置しているのだろう。部屋に戻って辺りを見回すと机の上に携帯が置かれていた。それを手に取り確認してみると、今日は土曜日と表示されている。
 一日一日がひどく長く感じられる一方で、もうこんなに長い期間をラザーと共に過ごしていたんだと知らされた気がした。俺はラザーの助けになっているのだろうか。彼を愛し、彼からは愛される関係にはなったけれど、俺がラザーの恋人になることが本当に彼の為になることなのだろうか? 時が流れれば俺と彼は別れなければならない。俺が不老不死にでもならない限り、それだけは何があろうと避けられない事実だった。もしかしたら彼も俺も、その事実に甘んじてこんな関係を続けているのではないだろうか? 一時的な逃げ道として、お互いを愛することによって現実逃避を繰り返しているのではないのか? だけど彼が愛を求めていることも事実で、更に言うとすれば、彼は愛されることも愛することも恐れているということも変えられない事実だった。だから相手は簡便な方法で愛を感じようと俺を襲い、何も知らなかった俺は彼の方法にすっかり染められてしまっている。肉体関係は瞬間的なものでしかなく、真実の愛を求める彼はこの不安定なものにしか手を伸ばせなかったのだろう。もし俺を魂ごと愛したなら、それは真実の愛に近いものであり、アニスの絶望を抱えている彼にとって、踏み出そうとしても踏み出せない領域にあるものなのだろう。そう、彼は境界線の上に立っているんだ。あちら側でもなくこちら側でもない、どっちつかずの地点でどうすればいいか分からずに戸惑っている。俺は彼の手を引いてやらねばならない。そうして導く先にあるのは、友情か、それとも愛情か?
「樹君、今日が何曜日か分かった?」
「あ、うん……土曜日だったよ。だから学校は休みだ」
「そうなんだ。じゃ今日は一緒に遊ぼうよ」
 部屋の中で立ち尽くしているとヨウトが声をかけてきた。彼の無邪気な態度は俺を根本から癒してくれたが、そんな彼にも闇が深く根付いていると考えるとやるせない気持ちが押し寄せてくる。俺は携帯をズボンのポケットに押し込み、俺を見上げるヨウトと向き合って彼の頭に手を乗せた。幼い子供、まだ大人の世界を知らない年齢の、守られるべき存在であるはずの子だった。なのに彼は時々恐ろしいことを口にする。それに、ロイが余計なことを教えたせいで、夜の相手を頼むことだってできるようになってしまったんだ。
「樹君……僕の顔に何かついてる?」
 彼は不思議そうに俺を見上げる。その大きな目が映すのは、どれほど情けない顔だっただろうか。
「ヨウト、エダはどうしてるんだ?」
「部屋にいるよ。でも奥の方に引っ込んじゃってて、話し相手にもなってくれないんだ。何だか知らないけどこの家にあった絵を真剣に眺めててさぁ」
 エダは兄の家を探していた。聞けばずっと昔から探し続けていたらしい。その家で見つけた絵は兄の遺品とも呼べる物で、彼はどんな気持ちでそれを見つめているのだろう。彼の気持ちは気になったが、今はどうしてもエダに会いたいとは思えなかった。だから俺は干渉しないことにする。
「エダが駄目なら、今日は俺がヨウトの話し相手になってやるよ。ラザーもどこかに出かけちゃったことだし、俺も一人は淋しいから」
 そっと彼の身体を抱き締める。ふわりとした髪が頬に触れた。
「え……あの、樹君? こんな朝から、僕にやってほしいの?」
「馬鹿、違うよ。淋しさを紛らわせようと思ったんだ。誰かの身体を抱き締めてたら、一人じゃないって感じることができるからさ」
「君は――淋しいの?」
 俺は彼の問いに答えない。それを知っているのは自分ではなかったから。
 小さな彼の身体をラザーのベッドの上に誘導した。そこに彼を寝転がせ、驚く表情を上から見つめる。彼の身体を隠す衣服はマントのように何の飾り気もなく、ちょっと捲ってしまえば彼の全てが明らかになるような気がした。
「ヨウトってさ、事故のせいでおへそから下がないって言ってたよな。それを見せて欲しいんだ、見るだけで何もしないから」
「ええっ、やだよ、誰にも見せたことないんだもの!」
「ここで見たことは口外しないから。少しだけでいいんだ、もっとヨウトのことを知っておきたいから」
 若干顔を赤くしたヨウトは不安げに何度かまばたきをした。それでも口から拒否の言葉が飛んでくることはなく、俺は彼の服に手を伸ばして下からそっと捲り上げる。
「……」
 彼の下半身は確かに存在していなかった。あるのはおへそから上だけであり、その下は切り取られたように消えてしまっている。ただこれは異様な光景だった。まるで切れ味のいい刃物で腹を横に斬られたように、切り口が綺麗に整いすぎている。これは事故の結果だろうか、人工的な匂いの方が強いけれど、ヨウトは自分の身体をどんな気持ちで眺めているのだろうか?
「なあ、ヨウト――」
「最初に言っておくけどさ、僕は昔のことはほとんど覚えてないからね。だからこの傷の原因を聞かれたって分からない。クトダム様なら知ってるかもしれないけど、君なんかにあの人に聞く勇気があるのかな?」
 俺は彼の服から手を離した。相手の顔から赤みが消えている。ヨウトは身体を起こしてベッドの上に座り込んだ。足なんてないはずなのに、その姿は普通の人間のように座っているようにしか見えない。
「……ごめん。嫌な思いさせちゃったな」
「構わないよ。君は優しい子だって知ってるから。それより今日は何をしようか。楽しいお話でもする?」
「うん――ちょっと家に帰りたいな。ラザーもどっか行っちゃったことだし、家の様子を確認しておきたいんだ。気になるならヨウトも一緒に来ていいけど、どうする?」
「いいの? じゃあ行く!」
 ぱっと顔を輝かせた少年は俺の身体に飛びついてきた。背と腹に相手の腕が感じられ、いい香りのする髪が間近に迫っている。この意味は何なのだろう。この小さな子は俺を愛し、信頼し、頼っていると解釈していいのだろうか。それとも俺をロイと同じ目で見ている? 彼と同じように、退屈な時の話し相手として、同業者の話で盛り上がる相手として、また夜の快楽の手伝いをする相手として俺のことを見ているのだろうか。本音を語らないこの子のことは分からない。だけど俺は、彼を愛そうと思えばいくらでも愛せると思った。地の底から伸ばした手を掴み、彼を光の溢れる大地へと引き上げてやることだってできるはずだと思ったんだ。
「そうだな。一緒に行こう。ヨウトが傍にいてくれたら、俺も喧嘩せずに家族と会えると思うから」
 実体のない身体を抱き締める。ヨウトは幸福そうに俺の胸に顔をうずめた。この子を守っていたいと思った。あんな夢も希望もない深淵の中で、おかしなものに染められていく子供がいてはならないと強く感じた。

 

 

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