月のない夜に

 

 

 昼の暖かな陽光に包まれながら、俺はヨウトを連れて自分の家のドアを開いた。その重さも家の中の匂いも懐かしく感じられることはなく、ただしんと静まり返った寂しさが俺の中に違和感だけを残していく。
「お邪魔しまぁす」
「ただいま」
 ヨウトと二人、誰に向けるでもなく中へ向かって声をかけた。しかし家は何の反応も示してくれない。代わりに動きを見せたのは中にいる人間だった。慌ただしく階段を下りる音が聞こえ、今や家族の一員となっている青年が出迎えに来る。
「樹! それに……ええと、その子は?」
「はじめまして、サクの弟君。僕はヨウトっていうんだ。樹君やロイの知り合いだよ」
 相手の表情が目に見えて分かるほど動揺に彩られる。俺とヨウトの前に立つリヴァは面食らったように目を大きく開き、ヨウトを疑っているのか何も言わなくなってしまった。彼の疑い癖が可笑しく感じられる。リヴァは警察なのにクトダムの組織の一員であるヨウトを知らないのだろうか。
「悪い奴じゃないから安心してくれよ。それより姉貴は今日も仕事?」
「あ、うん、そうだけど――」
 玄関で靴を脱ぎ、絨毯の上に足を乗せる。ふと床に目をやると隅の方に埃が溜まっていた。きょろきょろと辺りを見回しながら階段へと向かい、二階に上がって自分の部屋へと歩いていく。俺の後ろはヨウトとリヴァがついてきていた。ドアを開けて自分の部屋に入ると、机の上に見慣れない物が置かれていることに気付いた。
 それに手を伸ばして確認すると、いつか俺が勝手に持ち出したラザーの携帯電話であることが分かった。こんな所にあったなんて少しも気付かなかった。いや、ラザーは携帯がなくなっていることに対し何も言ってこなかったから、これの存在自体が俺の頭の中から消えていたんだ。
「それ、ラザーの携帯。君が突然いなくなったから返せなかったんだ」
「帰ったらラザーに渡しておくよ」
「うん。……ところで今日は何をしに来たの?」
 後ろでドアが閉まる音がした。俺はラザーの携帯をポケットにねじ込み、部屋の中の様子を確認する。そこは以前と変わらない生活感の溢れる場所だった。この中に自分の姿が溶け込んでいても何ら違和感はない。ベッドの上に腰を下ろし、俺を見下ろすリヴァの姿を目視する。足のないヨウトは飛ぶように俺の隣にくっついてきた。
「特別に何か用事があって来たわけじゃないんだけど、ラザーが俺に内緒で出かけちゃったから、家の様子を見てこようかなって思って」
「そしてそんな樹君に付き合ってるのが僕ってわけ。単純でしょ?」
「た、単純って――」
 リヴァはどうしてだか頭を抱えているようだった。額に片手を当て、納得できないと言わんばかりにため息を吐く。ヨウトの不可思議な言動がそれほど心地いいのだろうか。
「ねえ樹。最近全然学校に来なくなったよね。その……大丈夫なの? この前会った時も変なこと言ってたけど、ラザーとのことも、誰かに相談した?」
「相談なんかする必要ないよ。あれは俺がどうにかすべき問題だから。それに、普段はうまくいってるんだ。ラザーも俺のこと愛してくれてるし、俺だって大人しくしてれば一緒に気持ち良くなれる」
「気持ち良くって――あの、それって」
 相手は顔を真っ赤に染めていた。いかにも恥ずかしいと主張しているような表情でこちらを見てくる。想像はできているが事実を知りたくないというところだろうか。彼に全てを教えたなら、相手は俺を軽蔑するだろうか?
「初めてやられた時はびっくりしたよ。だってラザーの奴、すごく慣れてるし上手いんだ。だから俺はすぐ気持ち良くなって、簡単にあいつのものになってしまった」
「ロイに教え込んだのはケキさんだよ。ロイはあの人の真似をして他人を気持ち良くさせるんだ。もっともケキさんは特定の人にしか手を出さなくて、ロイは好みとか関係なしに誰でも襲ってたみたいだけど」
「何言ってるんだ、俺のことは愛してるから誘ってくるんだろ」
「君の場合はそうみたいだね。でも組織にいた頃はその対象がアニスだったから、どうしたって手は出せなかったみたい」
「愛のない行為を繰り返してたってことか。だとしたら、俺はやっぱりあいつを救えるような気がするよ」
「君が変な気を起こさない限りはね。あんまり彼を困らせるようなことはしないでやってよね」
「あ、あの――」
 いつの間にやら俺とヨウトだけでの会話になっていた。リヴァは彼には似合わずおろおろとした顔でこちらを見ている。まだ顔の赤さも消えていないようで、そんな相手を目の前にするともっとからかいたくなる衝動が湧き上がってきた。
「えっ?」
 ぐいと相手の腕を引っ張り、俺の胸元に引き寄せる。そのままぎゅっと身体を抱き締め、いつかの光景と同じことを繰り返そうとベッドの上に寝転んだ。
「な、何する――」
 彼の言葉を遮るように唇を奪う。相手の頭に片手を回し、逃げようとする彼を無理矢理自分の元へと引き寄せた。彼の中に舌を滑り込ませると相手の驚きがより伝わってくる。それがなんだか面白くて、俺は彼とのキスを長く楽しむことにした。
「ばっ、馬鹿野郎!」
「照れるなって」
 唇が離れると身体を回転させ、耳まで真っ赤になった相手をベッドの上にあお向けに寝かせた。体重を掛けて彼が暴れても逃げられないようにし、手首を掴んで相手の頭上へと誘導する。
「ヨウト、リヴァの手を押さえててくれ」
「おっけー。ほいっと」
 両方の手首をヨウトに預け、俺は彼のシャツを捲り上げる。黒い服の下から覗くのはラザーよりも白い肌だった。紙のように白いそれはまだ幼さが残っており、きめが細かくてとても美しい。こんなものを見せられると壊したくなってしまう。
「や、やめろ! 何する気だよ、樹!」
「何って、お前が興味ありげにこっちを見てたから。俺がラザーとどんなことをしてたのか、身体で教えてやろうと思って」
「そんなの、いらない――ひっ!」
 直接手で肌に触れただけなのに相手は悲鳴を上げた。彼の腹と胸に指先を押し当てて愛撫し、顔を近付けてゆっくりと舌を這わせる。徐々に白い肌がほんのりと赤に染まっていき、彼の綺麗な乳首に舌で触れると身体全体がぴくりと跳ね上がった。相手の反応が非常に可愛らしく感じられ、俺はだんだんと自制心を失っていく。
 ヨウトに手伝ってもらって彼のシャツを脱がせ、俺もまた自分のシャツを床の上に放り投げた。まだ誰にも触られていない身体が目の前にある。それはまるで俺に食われることを待っているようにも見え、口の中から自然と唾液が溢れ出していた。相手の顔は驚きと怯えとに彩られているようだ。だけど彼は俺を信頼しているから、多少の無理なら笑って許してくれると思っていたんだ。
 片方の手を相手の太ももに乗せる。ラザーやエダよりも小さいそれは簡単に折れてしまいそうだ。舐めるように手を上へと滑らせていき、やがてズボンの中へと進入していった。
「な――ちょっと、どこ触って――」
 紅潮した顔が起き上がっている。ふと気が付くと肌に触れていた手が彼のズボンに引っ掛かっていた。それを離そうとすると結果的にズボンを下ろしてしまっていた。完全には脱がせずに、床に投げ出された相手の足が黒い足枷を付けられているように見える。
「お前……白いな」
「悪い冗談はやめてよ! ぼくはこんなことしたくない、どうしてもやりたいんならラザーとすればいいじゃないか!」
「ラザーよりもっと白い。いいな、その肌。墨でもぶちまけたくなるよ」
 相手の白い肌に触れようと腕を持ち上げると手が震えた。そのまま一気に指先の感覚が消えていく。俺ははっとして口元を手で隠した。視界から靄がなくなって黒がはっきりと見えるようになる。
 また悪い癖が出そうになっていた。暴走する前に気付くことができてよかったが、どうして突然分かったのだろう。いつも誰かに止められるまで自我を取り戻すことなんてなかったのに――いや、今はそんなことはどうでもいい。俺は彼の服を床から拾う。下ろしたズボンを元に戻し、ヨウトに頼んで彼の手の拘束を解いてもらった。
「ごめん。ちょっと悪ふざけが過ぎた」
「……最低」
 自由になった相手は壁に背中をくっつけている。自身の身体を手で抱え込むようにベッドの上で座っており、俺と彼との間にとても大きな距離ができていた。
「そんなに怖がらないでくれよ。こんなのただの遊びなんだから」
「遊び? 遊びで君は、ラザーとそういうことをしてるの? だったら余計に最低じゃないか! 君がそんな奴だとは思わなかったよ、今ならサドだって言ってたことも納得できる」
「そうだな、分かってくれて嬉しいよ」
 花びらのように柔らかいものが頬に触れた。それはヨウトの手で、大きな瞳が心配そうに俺の顔を見上げている。俺は彼の肌触りの良い髪に手を乗せた。機械のように決められた速度で手を動かし、撫でる仕草を与えてやる。
「帰れよ」
 ヨウトに欲望のないキスを贈る。
「帰れったら! 君なんか大嫌いだ、そんなことばかりする君なんか、ラザーと一緒に地獄の底にでも堕ちてしまえ!」
「姉貴のこと、よろしくな」
 はっと息を呑んだ音が聞こえた。それに気付かないふりをして立ち上がり、ヨウトと共に部屋の外に出る。
 階段を下りて玄関へ行き、底のすり減った靴に足を突っ込んだ。外の空気を吸おうと足を動かすと靴が異様に重かった。そればかりか扉まで石のように動かなくなっており、ヨウトに手伝ってもらってやっと外に出ることに成功した。
 まだ明るい空を見上げると眩しかった。青すぎる鏡が自分の姿を映すことはなく、疲れ果てた身体ではそこを自由に泳ぐことさえ許されない。俺は彼の信頼を失ったはずなのに、何一つとして思うこともなく自分の安らぎの場を壊したのだと思っていた。

 

 +++++

 

 小屋に戻っても目が覚めることはなかった。たくさんのものが頭の中を素通りする。ヨウトが作ったサラダの味が感じられなくて吐き気がした。だけど実際に行動に変化を起こすこともなく、俺は何もせずに虚空の中を彷徨っていた。
「ロイがいないと元気がないね」
 ベッドにもたれかかって空中に視線を泳がせていると、俺の前に座っているヨウトが小さく口を開いていた。彼の存在はどうやら俺を生かしているようだ。それでも相手は完全ではなくて、だから俺は眠ることも目覚めることもできずに昨日の傷を忘れていられたのだろう。
「ラザーがいないと何もかもがつまらないんだ。何もする気が起きないし、だからってあいつに会いたいって思うわけでもない」
「ロイに会いたくないの? 恋する乙女はどんな時でも相手のことを考えてるってエダさんが言ってたけど、君は乙女とはちょっと違うんだね。やっぱり男の子だからかな?」
「どうだろうな。でもヨウトだってラザーに惹かれてたんだろ、あんたの場合はどうだったんだ」
 彼がわずかでも動くと物音が発生する。それがとても煩い。
「……僕がロイに惹かれてたって気付いたのは、彼が組織を出ていってからのことだよ。一緒にいた頃は特別意識することもなかったし、話し相手として便利な奴ってくらいにしか思ってなかったからね。ほら、よく言うでしょ、失くしてから気付いたって言葉。人間なんていつだって自身の幸福に気付くことができないんだから」
「ふうん」
「あれ、反応薄いなぁ。樹君、本当に大丈夫?」
 ちらと舌を出して乾いていた唇を濡らした。ただ口の中もカラカラに渇いていたから、それは意味のない行為として嘲笑われたのかもしれない。
「ロイ……早く帰ってこないかなぁ」
 ふいに彼の姿が視界から消滅した。代わりに物音が大きく響いている。耳を塞ぐと周囲の音は聞こえなくなったが、乱れている俺の音だけが不穏と脅威を俺に突き付けていた。
 そうしてゆっくりと目を閉じる。

 

「よっ、今日は大人しくしてたか?」
「あ……おかえり!」
 再び時間が動き出した頃には闇が静かに迫っていた。部屋に入ってきた銀髪の彼の姿を確認すると、身体が勝手に動いて彼に抱きついてしまう。俺の髪を撫でる相手はちょっと困ったように小さく微笑み、挨拶代わりにと熱のあるキスを与えてくれた。
「ラザー」
 彼は羽織っていた黒の上着をハンガーに掛け、乱れていた髪を手で梳いて整え始めた。俺はその様子をベッドの上に座って眺める。彼が戻ったことによって自分が生き返ったことがよく理解できていた。俺はもう彼なしでは生きることもできなくなったのかもしれない。
「ん、何か用か?」
「ううん。呼んでみただけ」
「おい――」
 振り返った相手は俺の傍まで威圧的に歩き、ごつりと額を俺のそれに当ててくる。
「どうでもいいことで話しかけるな。度が過ぎるようであれば、お前を嫌いになっちまうぞ」
「へへ、ごめん。じゃ一つ聞いてもいいかな。今日はどこに行ってたのか、俺には教えてくれないのか」
「内緒だ」
 二度目のキスを受け取る。それを唇で深く味わいながら、頭の隅に現れたケキの影を追い出した。彼を手放したくなくて相手の背中に腕を回し、力を込めて自分の元へと引き寄せる。近寄りすぎたラザーラスは俺をベッドに押し倒した。
「まだ風呂に入ってないんだが、今すぐがいいか?」
「ん……どっちでも」
「だったらちょっと待ってろ」
 素直に頷くと彼は俺から離れていった。ぱたりと扉が閉まる音が聞こえ、色のない静寂が生まれかけた熱情を冷ましていく。
 彼の存在が俺の世界になっていた。いや、この場合は神と言った方が安易に全てを説明できるだろう。神のない世界には死しか待ち構えておらず、廃墟と化した紫の空は神が訪れるまで黙り込んでいるしかない。迷い込む勇者は一時的な快楽で、悪の根源が排除されたなら遠い地へと旅立ってしまうのだろう。そこには支配されることの快感がない。服従する相手がいなければ、世界は簡単に壊れてしまう。
 彼を待つ時間は苦ではなかった。時計の針は幾度も同じ数字を通り越えたが、俺の中に流れる時間に同じものは一つとして存在しなかった。ラザーが部屋に戻ると寝転がせていた身体を起こした。彼は服を片手に持ち、腰にタオルを巻いただけの楽な格好になっていた。黒服を床の上に放り投げ、ラザーは隣に座って俺の身体を抱き締める。相手の濡れた髪が額や頬に直接触れていた。
「ラザーの髪、いい匂いがする」
「そうか? ヨウトの奴が勝手にシャンプーを変えてたんだ。以前はあまり匂いのないものを使ってたんだが」
「俺はこっちの方が好きだな」
 手を伸ばすと湿った髪の感触が伝わってくる。美しい白銀が俺の手中にある気がした。それを引き寄せてそっと口づけすると、ラザーは驚いたように小さく声を漏らしていた。
「なあ、やっぱり俺、ラザーは長い髪の方が似合ってると思う。また伸ばして欲しいな」
「そうは言っても、あれだけ伸ばすにはかなり時間がかかるんだぞ。お前とずっと一緒に暮らすとすれば尚更だ」
 彼の口から飛び出した言葉が俺の心を激しく揺さぶる。それはたとえば普通の人間なら何より喜ばしい言葉かもしれないが、俺とラザーの間で交わされるものは悲観的な要因しか持ち合わせていなかった。
「ずっとなんて言っても――俺はあんたの要望には応えられないよ」
「……樹、今はそういうことを言うな。忘れろ」
「ん――」
 唇を塞がれて声が出せなくなる。彼にしては荒っぽいキスだった。相手の手が俺の背中に回され、身体が壊れるほど強く抱き締められる。
 顔が離れると相手は熱っぽくなっていた。白い肌がうっすらとピンクを帯びており、息も荒れて乱暴に身体を押し倒される。まばたきをしているうちに服を脱がされ、腰のタオルを床に投げ捨てた相手は噛みつくように俺を触り始めた。俺は焦る彼の背に手を回し、足でも身体を捕まえて俺から逃れられないようにしようとした。冷たくなった相手の髪が火照る頬に零れ落ちている。
 苦しかった。彼が不老不死であることを意識するたびに苦しくなる。その痛みを快楽によって掻き消そうと彼を求めていた。永続的なものが欲しいのに、なぜ俺たちは瞬間的なもので満足してしまうのか。
 いいや、そこに満足など存在しなかった。互いの愛に依存して中毒になっているだけだった。生まれた時から与えられるはずだった愛を喪失し、長い時間を孤独に過ごし、真に分かり合える人と出会っても踏み出すことのできなかった「欲望」の形――それが今の二人を繋ぎ止める鎖なのではないだろうか。決して他者には見せられないような欲望、つまり性欲を愛の表現として利用し、自分の中に根付く本能的な部分を理解してもらおうと体を重ねている。男女間では子作りとしか認識されない行為が、同性間では哀しいくらいに純粋な愛を示すものとなっていた。お互いの愛情を確かめ合い、深く繋がることで依存性を生み、痺れるほどの快感に酔いしれ、離れたくないという感情が喉の奥から顔を見せる。それは薬よりも恐ろしい中毒だ、俺もラザーもそこから抜け出せなくなっている。自分と異なる時を持つことが苦痛になり、同じ速度で歩くことができないなら単純な方法で片付けようとしてしまう。その結果がセックスという行為であって、頭では分かっているのに即座に頷けない話になっていた。
「樹、樹――!」
 幾度も名を呼ばれる。彼もまた苦しそうだった。俺は何度も彼に犯される。そしてその瞬間を快楽として認識する。だから俺も彼の名を呼び、離れないよう手を伸ばしていた。
 解決策なら身近にある。俺が不老不死になればいいんだ。だけどラザーは何も言わなかった。彼ならナイフを使って脅すことも、頭を床に擦りつけて懇願することも、涙を見せながら頼むことだってできるはずなのに、ラザーラスは俺を困らせたくないから何も言わずにいる。そして俺はそれを知っているのに黙っていた。彼を喜ばせる言葉を知っているのに黙っているんだ。黙り込み、静寂を貫き通し、彼の苦痛を全身で感じ取っている。相手の息が普段よりずっと荒れている。俺の意識も月より高く飛んでいるようだ。部屋の中なのに雨が降っていて、時々口で息ができなくなった。どうしてなのか分からないほどベッドのシーツが濡れているんだ。
「言って……」
 胸が苦しい。ぐいぐいと締め付けられる。口から唾液が線を作っていた。それを知っている青年は、だけど涙のように拭ったりはしない。
「言って、ラザー! 俺を愛してるって――クトダムよりも愛してるって言って!」
「愛している!」
 即座に声が降ってきた。ただ俺は知っていた。それは嘘だ、彼は今でもクトダムを神格化している。兵器が神に敵うはずがない。
「壊して、お願い、その世界を……あんたの世界を壊してよ、お願いだから!」
「あ――あああっ!」
 ぎゅっと目を閉じた相手は苦しそうに顔を歪めた。肩を掴まれている手に力が込められ、俺の内側に彼の生命が目一杯放たれる。
 彼は俺の上に倒れてきた。乱れた息を整えようと何度も息を吐き出し、胸の上に相手の呼気がぶつかってくる。俺はまた彼を救えなかった。繋がっている間は忘れさせることができるのに、終わると全てを思い出させてしまう。溢れそうな涙を堪えて彼の身体を抱き締めた。現実に戻った彼を案内する人間が必要だったんだ。
 最後のキスを受け取り、俺は彼から身を離した。それでも必要以上に離れたくなくて、今夜は彼と同じベッドで眠りにつくことにした。相手もそれを望んでいるようで、俺が身体を離した刹那にさっと腕を掴まれた。優しげな手つきで背に手を回され、遠慮がちに身体を近付けられる。
 相手はすぐに眠りに落ちた。俺は彼の眠りが羨ましかった。彼の世界は組織ではなくクトダムだ。あの男がラザーラスを陥れた犯人なのに、無垢なラザーは決してそれを認めようとしない。ふと「調教」という言葉が降りてきた。ぞっとする響きを持ったそれは俺の脳裏に強く焼き付き、唐突に甦ったあの男の声が夜じゅう俺を嘲笑っていた。

 

 これが絶望ではないのなら、一体何がそう呼ばれるのだろう。
 愛は瞬間的なもの。愛は暴力的なもの。愛は消極的で、決して欲望であってはならない。
 彼の優しさが絶望に繋がる。俺の恐怖が絶望に繋がる。彼の淋しさが絶望に繋がる。俺の愛情が絶望を形作っている。
 その場限りの愛じゃ納得できない。求めるのはいつだって「永遠」だ。
 だけどそれを永久に信じられないなら、そこにどんな意味があるというのだろう。
 このままじゃいけなかった。でも納得なんかできなかった。
 俺が彼を救うには、何を犠牲にすれば全てがうまくいくのだろうか。
 それはあなたの心で――。

 

 +++++

 

 翌日もラザーはどこかに出かけた。俺が目を覚ます前に家を出たらしく、彼の行く先を直接訊ねることさえできなかった。昨夜もうまいこと避けられて、彼は何か俺に隠しているということしか分からない。それが危険なものではないかと疑うけれど、かつて彼を怯えさせていたエダがこの小屋にいることを知っていたから、あまり深く踏み込まずとも解決してしまうのではと考えていたのかもしれない。
 昼間は部屋でぼんやりと過ごし、夕方になると気持ちがそわそわした。部屋の扉が開いてラザーが顔を見せる瞬間を見逃すまいと気がかりで仕方がなかった。そうやって彼の姿を待ち構えていたのに、夕刻に彼が俺の心を満たしてくれることはなく、夕飯を食べて蝋燭に火を灯す時間になるまで孤独を持て余さねばならなかった。
「おかえり」
 彼が部屋に入ってくると世界が色づき始める。ラザーラスは上着を脱ぐ前に俺の身体を抱き締めた。
「樹」
「ん、何?」
 相手の腕に抱かれながら名を呼ばれた。だけどその後に続くはずの声が聞こえない。彼は俺の言葉を待っているのだろうか。頭を持ち上げて相手の表情を確認してみると、ラザーラスは目を閉じて黙り込んでいた。
「ラザー?」
 俺の声を聞いた相手は身体を離した。彼の手が遠ざかり、そのまま消えてしまいそうな繊細さがそこにあった。心なしか相手の身体が透けているように見える。そんなことはあり得ないと分かっているのに、なぜ彼から生気が感じられないのか?
 俺は相手の声を待った。待たねば聞こえないと思っていた。彼からどんな言葉が放たれても受け止められる自信があった。だって俺は彼を一番に愛し、彼もまた俺のことを一番と言ってくれたのだから。他の誰よりも彼を理解していると感じられる。共に見上げた月のことを、俺はまだはっきりと覚えているはずだ。
 今の彼はとても悲しい目をしている。その感情が芽生えた地点はどこだっただろう?
「あい、してる?」
 震えた声だった。
「愛してるよ」
「でも僕は――」
 彼の声が途絶える。どうすればいいか迷っているのか、相手の赤い瞳が宝石のようにきらりと光った。
 ラザーラスが何を言わんとしているのかは分からない。ただ俺の前にいる青年は愛しい人であり、どこかの何かに怯えているようだったから、俺は彼を安心させてやらねばならなかったんだ。いいや、そうじゃない、俺が言ったことは恐ろしいまでに強い真実だ。彼が見失った正の感情を持っているのは俺で、彼に思い出させる案内人がいなくなった今、その役を挙手して志願したのもまた自分だった。以前は自由を奪われたのだと恨んでいたが、もうそんな稚拙な嫉妬は消え去って、彼に対する想いだけが残っている。彼の手にそっと触れた。相手は目を大きく開いて俺の顔を見た。両手に力を込めて彼を白いベッドに誘導し、壊れないよう気を付けながらシーツの上に横たわらせた。
「愛は怖い」
「怖くなんかないよ」
 俺はラザーの服を脱がせる。上着とシャツを身体から引き剥がすと、闇に染まった肌の上に金の十字架が光っていた。俺はそれも外してしまい、ラザーを自由にしてやろうと思った。もう彼を縛るものがあってはいけないんだ。
「だって裏切るもの。愛は簡単に離れていく」
「だけど永遠でもある。そうだろ?」
「永遠なんてない! そんなもの、信用なんかできない――存在したって恐ろしいだけだ、何があろうと必ず僕を裏切るんだ!」
「ラザー」
「違う!」
 彼の強い否定に思わず目を見張る。何を否定したんだ、一体何が違うんだ? 俺の手から相手の服がするりと滑り落ちてしまった。床にぶつかった刹那に轟音のような金属音が耳を貫く。
「ラザー、どうしたんだ。昼間に何かあったのか」
「違うって言ってるだろ、僕は――違うんだよ、そんな人間じゃない!」
「どういうことだよ、そんな人間じゃないって、だったらあんたはどんな人なんだ! あんたはラザーラスだろ、俺の友達の、ラザーラス・デスターニスって名前の人間じゃなかったのか!」
「やめろ! やめてくれ――僕を彼と一緒にしないでくれ、お願いだから」
 そう言ってラザーラスは両手で顔を覆ってしまう。
 彼は今、自分がラザーラスであることを否認しているようだった。どういう理由がそれを裏付けているのかは分からないが、ラザーラスを悪い人間にしたくなくてロイであることを演じようとしているようにも見える。彼をここまで追い詰めたのはどんなものだっただろう? それは過去の因縁だ、でも直接的な原因が見えてこない。だってエダとヨウトはこの小屋にいるし、クトダムやティナアは組織から出るとも思えなくて、ケキはロイよりも俺にすがっているようにしか見えなかった。だったら誰が彼を追い詰めたのか? 考えられる可能性としては、俺と彼自身とが浮かび上がってくる。
 相手の震える手首を掴み、手を移動させて彼の顔が見えるようにした。ラザーラスはぎゅっと閉じていた目を開き、自分を覗き込む俺の顔をまっすぐ見つめる。俺もまた彼から目をそらさないでいようと思った。現実から逃げようとする彼をここへ呼び戻さねばならなかった。でも、それは乱暴であっちゃいけない。相手の話を受容するように、彼の苦しみや悲しみを絶対的に認めてやらなければならないんだ。
「俺のこと、誰だか分かる?」
 今にも涙が零れ落ちそうな目で相手は一つ頷いた。
「じゃあ、知ってるよな。俺が……ロイのことを愛してるってこと」
「愛なんてまやかしだ」
 まただ。また同じことを言っている。
「そうかもな。目に映らないものなんて、全てまやかしなのかもしれない。だとしたら、ロイが今感じてるその怖いって気持ちだって、本当は存在しないまやかしなのかもしれないな」
 彼は一つまばたきをした。俺の言葉は相手の中に踏み込んだらしい。相手の頬に手を当てると、まだ未熟な子供が大人の声を待っているように見えた。俺は身体を彼の上に重ね、小さい背に手を回して包み込むように抱き締める。二人の鼓動が一つになった。彼の口から息が吐き出されていた。
「怖いのはまやかし?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でもこれだけははっきりとしてるよ、俺はロイのことを愛している。ロイを守りたいと思っているし、悲しみや苦しみのない世界に導いて、どうかずっと笑っていて欲しいと思う。そしていつか幸せだって言ってくれると嬉しいな」
 俺の下で彼が動いた。身体をねじって胸のあたりを擦り合わせてくる。ほのかに赤みを差した顔が相手の状態を示していた。それは愛を求めようとして間違った解釈を押し付けられた結果だった。
 初めて彼に教えたのは誰だろう。そこから始まり、いつしか支配はエスカレートして、次第に彼から安堵として求めるようにまでなってしまった行為。彼はそれを愛を示す方法と呼んだが、これまで繰り返してきた全ての行為の中で「愛」が存在したことはあったのだろうか。片方が愛と呼ぶものを押し付けて、それを受ける者の中にも相手と同じ愛はあったのか? いや、それ以前に、相手と自分とがお互いのことを真に求め合い、一体化したいとまで思った上での行為はあったのだろうか。俺との関係は彼にとって新しい体験で、だからこんなに不安定になってしまったのではないだろうか。じゃあこの行為は何なのか? 一方的な愛を受け止める手段でもなく、暴力的なまでに自身の感情を植え付けようとするものでもない、双方の一致しそうで異なっている愛を交換し実感する行為――ただこれは危険だ。どうあろうと別れねばならない俺に深い愛を求めすぎたら、それを失った時の絶望は彼を根本的な部分から壊してしまうかもしれない。だから俺は彼から離れなければならなくて、こんなことを要求されてもはねのけて逃げるべきなのかもしれないけど、そう簡単に彼から距離を置くことなんて恐ろしすぎてできずにいた。なんて馬鹿な奴なのだろう、こうなることだって分かっていたのに!
 我慢できずにキスをした。彼の悲しみの原因なんてもうどうでもよくなっていた。彼を愛したかった、悲しみを全て忘れてしまうくらい、彼を愛して愛して愛で殺してしまいたかった。俺の愛で彼をずたずたにし、依存ではなく支配として彼を束縛していたかった。それこそが直すべき性癖だと分かっているくせに、俺は躊躇いもなく自分の幸せを選んでいる。どうして? 彼の幸福を願っているのに、口でもそう言ったはずなのに、なぜ俺は彼を深淵へと引きずり込んでいるのだろう?
「ラザー、ラザー……愛してる、もう一時だって離れたくない」
 俺の口からおかしな願望が漏れていた。初めて会った時には考えられないような関係になり、俺たちは互いに離れられなくなっている。裸になって抱き合うと夏よりも暑い熱が燃え始めた。彼が俺の中に侵入してくると服従する快さが全ての神経を刺激した。頭が白黒に光る景色を求めて、俺にしがみつく相手の表情をじっくりと吟味する。それは、ああ、ただ愛しいという他に何一つとして感じられなかった! 同情なんて陳腐な思いは通り過ぎ、恋と呼ぶにはあまりにも強烈すぎて、彼の為に俺の全てを差し出したくて我慢ができなくなるほどに深く愛してしまっていた。もう彼から離れられない、彼の代わりなんて誰もいない! 俺には彼が必要なんだ、彼の暴力的で優しい手がなければ生きていくことができなくなっていた。
「ラザー、俺、ずっと一緒にいたい。ラザーとずっと一緒に暮らして、あんたと同じ時間で生きていたい」
「あ――くっ!」
 短い悲鳴は驚きのそれと似ていたが、同時に放たれた熱いものが俺の体内を満たしたおかげで真相が分からなくなってしまった。俺の下で彼は果てた。ぎゅっと閉じていた目をゆっくりと開き、赤く光る双眸が俺の姿を探して彷徨う。
「もう大丈夫? ロイじゃなくても平気?」
 相手は一つ頷いた。ただ本音だけは見えなかった。
 彼がどう考えているかは分からないが、こんなふうに互いの身体を求め合い、ひたすら相手に夢中になっているとあらゆることを忘れることができるのだろう。彼の中に根付いていた昼に感じた何らかの悲しみも、たった数十分間での行為により記憶の底へと封じ込めることに成功していた。確かにこれは一時的なもので、時が経過すればふと思い出すこともあるかもしれない。それでもこの便利な方法は何かに使えるのではないかと思われた。彼を救う為に必要な要素として、秘密の手段に上乗せすべきものなのではないだろうか。
「まだ足りない、だからもう一回――」
「いいよ」
 伸びてきた手が震えていた。だけど俺の口から出たのは普段よりずっと素っ気ない声だった。彼はそれに気付かなかったのか、再び手に入れた俺の身体を、子供みたいに独占して一人で遊び始めていた。
 忘れられるなら幸せになれる? 悲しいことやつらいことは、覚えているから苦しくなるのだろうか? もちろん楽しいことだけを経験したとしても、その笑顔が溢れる人生には何の価値も見出せないだろう。苦しみや悲しみがあるからこそ喜びは突き抜けて輝くもので、それを忘れたなら真の幸福は手にできないと決められているのだろうか? でも、それは一般論だ。ラザーラスは特殊なんだ。俺たちよりずっと長い時を過ごしてきた、喜びも知らないような悲しい過去を抱えている人間なんだ。彼の感情が不幸を呼び覚ますなら、その思いそのものを消してしまわねばならないのではないだろうか。
 だとすれば、俺の役目は実体を持ち始める。細かい破片も手元に集まり、俺はそれを壊さないよう気を付けながら完成へと導いてみよう。
 ――奪ってやるんだ。
 彼を奪ってやる。クトダムからだけじゃない、アニスからも、ケキからも、真やカイやヤウラからも奪ってやる。彼に何もかもを忘れさせてやろう。俺のことしか知らなくて、俺だけに夢中になっていればいい。彼の世界を壊す必要なんてなかったんだ、俺が新しく世界を作ればいいだけのことだったから。
「ラザー、今、誰のこと考えてる?」
 相手の腕が俺の背に回されている。指先まで熱く火照っていて、彼が俺だけを見ていることが考えなくても分かっていた。それでも俺は聞かねばならない。彼の本音を聞き出せなくとも、言葉だけでも俺の虜として機能させねばならなかったんだ。
「お前のこと、お前だけだ! ああ、樹、お前はいつも――どうして俺を困らせるんだ、なぜ期待させるようなことを言うんだ!」
「期待って何? ずっと一緒にいたいって言ったこと? あれは嘘じゃないよ、俺はこれから何百年経とうとも、ラザーのすぐ傍で生きていくつもりだから」
「だ――駄目だ、それは」
「駄目じゃないよ」
 相手の開かれた口を閉ざすようにキスをする。彼は俺の唇に吸いついてなかなか離してくれなかった。
「ラザー」
 顔を離して名を呼ぶと、彼の全てがより深く俺の心に入り込んでくる。天に顔を向けている彼の上に覆い被さり、俺は相手がどこにも逃げないように隙間なく囲っているべきだった。
「愛してる。だから、ずっと傍にいるよ」
 そっとラザーの右耳に手を伸ばす。彼のやわらかい耳たぶにぶら下がっている黒いガラスのピアスに触れ、そこに数百年前から潜んでいた自分の分身の気配を爪の先から感じた。俺は自分の言葉を誤魔化すように彼にキスをする。二人の舌が溶けるように混ざり合い、不動の永遠がちらと顔を見せたように思われた。

 

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 目の中にオレンジの景色が焼き付いていた。広い畑が夕日に照らされ、田舎の小道を二人の子供が歩いている。一人は黒い髪の男の子で、彼よりうんと小さな女の子の手を引いて前方をじっと見つめていた。この光景を見るのは二度目であり、俺はすぐにこれは夢なのだと理解できた。
「お兄ちゃん、家に帰るの?」
 小さな女の子の声が静かな空間に響き渡る。話しかけられた少年は目線を動かすこともなく、前にある道だけに集中しているようだった。
「帰るよ。そしたら全部終わりだ。もう大丈夫なんだ、もう大丈夫――」
 彼の口から漏れる呟きは現実味を帯びていない。ふわふわと宙に浮かんでいるみたいに、どこからその言葉が生まれたのか誰も知らなかったんだろう。少年はそれからも何かを口の中だけで話していた。黒い目の中に深い暗闇が息を潜め、敵の喉笛に噛みつく時を待ち構えているように鋭く研ぎ澄まされている。
 これは誰の夢なのか、なんとなくだけど想像はできた。だけど確定すべき要因もなかったから、これについて誰かに知らせるようなことはやめておこう。ただ二人の子供が田舎の道を歩いているだけなのに、そこにある世界はひびだらけで、辛うじて形を保っていることが少年の中にある憎悪の念から感じ取ることができた。彼が憎んでいるものの正体はどうしたって見えてこないけど、少年の声になっていない声が頭の中に届いたような気がした。
『もうすぐあれが手に入る。そうしたら、やっとだ。やっとぼくは力を手中にできる。そしてあいつを殺すんだ』
 いつのまにやら空が赤色に変わっていた。

 

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 朝が来ると部屋に一人だけ取り残されていた。またラザーは俺に何も言わず出かけてしまったらしい。朝は苦手だなんて言っていたくせに、どうして彼は俺から逃げるように消えてしまうのだろう。俺は彼を縛りつけたいわけじゃないのに、また彼を怖がらせてしまったのだろうか。
 すっかり重くなった身体を持ち上げ、廊下を歩いて広間へと向かう。そこには澱んだ空気が充満しているだけで、人間の姿は影の一つだって存在しなかった。誰もいない席に座り、黒くなった息を吐き出す。昨日の夢が虚無感を増強させていた。
「樹君」
 電話の奥から聞こえるような声が俺に向けられる。振り返ると透明な光に包まれている赤い髪が揺れていた。もう久しく見ていなかった相手が俺の傍に立っている。彼の背があまりに高いもんだから、俺はぐっと顔を上げなければ相手の表情を知ることができなかった。
「おはよう、エダ」
「ああ」
 短い挨拶が夢の中に吸い込まれていく。彼のまつ毛がいつもより長い気がした。
「君、今日は学校に行かないのか」
「どうして? 行く必要なんてない」
「……ラザーラスを待っているのか? あいつは夜にならないと帰ってこないぞ」
 身体がふわりと浮いた。全身から重力が感じられなくなったんだ。
「あんた、ラザーがどこに行ったか知ってるのか」
「さあ?」
 立ち上がっていた自分の手がエダの服を掴んでいる。それでもまだ高い位置にある彼の顔を眩しそうに見上げ、俺は彼の秘密に夢中になりかけていた。
「教えてくれ、ラザーはどこに行って何をしてるんだ? 昨日なんか、自分はロイであってラザーラスじゃないって思い込もうとしてて、本当に見ていていたたまれなかったんだ! なあ、あいつはまた危ないことをしてるんじゃないのか? 組織にいた頃に繰り返していた、意味のない犯罪で手を汚しているんじゃないのか――」
「それを俺に聞くのか、君は」
 表情を変えない相手に手を振り払われ、満たされない気持ちだけが芽吹き始める。
「どこに行くんだ」
 広間から出ようとしたエダを呼び止めた。彼は立ち止まり、身体をこっちに向けて俺の前まで歩いてきたが、目も口も手さえ動かさずに何もかもを止めてしまった。ただ彼の持つ気配がまっすぐ俺の胸を貫いていて、何かをしたいという願望が根付いていることだけは確かだった。
「エダ、ラザーの居場所は――」
 相手はきゅっと唇を噛みしめる。そうして両腕が伸びてきて、俺は彼に抱き締められた。
「え……なんで」
 力を込められていた。だけど相手から負の感情は見えてこない。ちょっと乱暴なやり方がラザーを連想させるが、彼とラザーを同じ列に並べてはならなかったのだろう。
「あいつには渡さない」
「エダ、放して」
「あいつを苦しめる為じゃない。君に――愛されたい、から」
 卒然両目から涙が溢れた。ただどうして泣きたくなったのか分からなかった。エダは泣いていなかった、ちょっとだけ強張ったような表情で、俺の姿を見ないよう壁の方へと視線を向けていた。口を開くと唇が震えた。手を動かすと指先が震えた。身体全体が何かを感じて震えている。それは何だろう、俺は彼から何を見出した?
 いいや、もういい。もう何がどうなっていようと、そんなことは重要じゃないんだ。彼の言葉が全世界に染み渡っていた。ああ、これがどうして神に感謝せずにいられただろう!
「エダ!」
 相手の背に腕を回す。きらきらした感情が彼を甦らせたんだ。もう諦める必要もない、だって彼は息を吹き返したんだから!
「じゃ、愛してくれるのか」
 控え目な声が降ってくる。それが美しく、余計に悲しかった。
「愛するよ。あんたのこと、愛するから」
「それは……誰よりも? ラザーラスよりも愛してくれるのか」
 答えられない。いや、答えは明白になりすぎている。でも伝えなくとも相手は分かっているはずだった。俺の気持ちは変わらないことも、順位を比較することの無意味な絶望も、口にするだけで壊れてしまえば楽になれるはずだった。それを知りながらどうして彼に伝えることができただろう? なぜ誰もが執拗に最高のものを欲しがるのだろうか?
「初めてだったんだ」
「――え」
「ずっと他人を信用しなかったから、どんな奴でも近付いてきたら傷つけていた。そしたら誰もが俺から遠ざかった。だけど君は遠ざかるどころかますます近寄ろうとしてきて、それが初めてのことだったから頭がひどく混乱した。でも君は俺を愛すると言う。ラザーラスや君自身を虐めていた俺を愛せると言い切った。俺は、君から愛されたいんだと気付いた。君みたいな馬鹿でまっすぐなお人好しに会ったことがなかったから、くだらないことで幸福を掴もうとする子供に惹かれてしまったのかもしれない。だけど、君はラザーラスを愛しているんだな。俺よりもあいつの方が大切で、だから俺はあいつが邪魔なんだ。……あいつは俺が君を打ったことに対し怒っていた。いきなり部屋に入って殴りかかってきて、もし今後君に手を出したりしたらこの家を燃やしてやるって怒鳴ってきたんだ。だから俺は言い返してやったのさ、こんな家なんて灰になったって構わない、それより樹君に手を出して欲しくないのなら、またあの頃のようにお前が犠牲になれ、って。そしたら奴は顔を真っ蒼にして、それでもさして反論もせず俺の意見を受け入れたんだ。本当に、馬鹿な奴だよ、大事なものを人質に取られたら、あいつはすぐに自分を壊す道を選ぶんだ。自分のことが大切じゃないんだろうな、あいつにとって何より重要なのは、どうやら自分を想ってくれる人たちらしい。こんなに単純で虐め易い彼のことを、それでも君は愛しているんだな。俺みたいなどうしようもないサディストよりも、ちょっと触れただけで壊れそうなラザーラスのことを愛したいと思っているんだな。あいつは自分を大事にできないのに、そんな奴のことを君はどうやって守るつもりなんだ? 君が必要以上に近付いたなら、彼は今よりずっと自分を傷つける方向へと転がり落ちていくんじゃないのか?」
 それは事実だった。エダはラザーのことをよく分かっていた。お互いそれほど仲が良かったわけでもないのに、彼らは俺に見えない部分にまで精通しているように詳しい。彼が語った事実こそ、ラザーラスがずっと引きずってきた不器用な一面に他ならなかった。だから愛が怖いと言い、愛なんてまやかしだと否定して、それでも誰かからの愛が欲しくていつだって叫び続けていた。俺はそんな彼に手を差し伸べた。彼を救おうと思って彼の世界に引きずり込まれた。双方の心と身体を求め合い、深く繋がることによって幸福の断片を垣間見たはずなのに、少し身体が離れただけで彼は過剰に心配をし始める。俺の為に自分を犠牲にし、そうやって自身を安心させているのだろうか?
「分かってるよ。ラザーを救うには、今のやり方じゃいけないんだ。俺は時が来ればラザーの前から消えてしまう。あいつは不老不死で長生きだから、俺と同じ時間を歩くことはできないんだ。だからこれ以上、あいつは俺に夢中になっちゃいけない。徐々に離れて遠ざかって、やがては俺の存在を彼の記憶から消してしまわなければならないはずなんだ。……でもさ、エダ。そう考えるだけで俺は嫌になるんだ。胸が締め付けられて苦しくなって、逆にラザーを今以上に愛して不安要素を掻き消そうとしてしまうんだ。駄目だって分かってるのに彼を愛してしまう。離れなくちゃならないのに近付いていってしまう。あいつにキスされるとケキを思い出すんだ。二人のやり方が同じだから、ラザーはケキにいろいろ教えられたんだと気が付いた。そう考えたらラザーはどんな気持ちでケキに抱かれて、どんな目でケキの顔を見て、どんな痛みと悦びを蓄積してあの男に触れられていたんだろうかって、そんなつまらないことばかりが気になってくるんだ。ラザーのことが知りたくて、彼の何もかもを理解したくて、離れようと頭で繰り返し決意するのに身体が勝手に動いてしまうんだよ! なあ、俺はどうすればいいんだ? 俺は彼と一緒にはいられない、俺の方が先に死んで、彼が取り残されるのは事実であるはずなのに、俺は彼を一人だけ残して死にたくないんだよ、できることなら彼と同じ存在になって彼の中で生きていたいんだよ! その為に、どうすればいい? なあどうすればいいんだ? あんたなら知ってるんだろ、そっちの事情に詳しいあんたなら、俺が不老不死にならないでラザーと一緒にいられる方法くらい――」
「樹、君は……そこまであいつのことを」
 エダの服にしわができていた。それを作ったのは俺だったけど、相手の赤い目と髪だけがはっきりと視界に映っていて、他の何もかもがぼやけて分からなくなってしまっていた。エダは顔を驚かせていた。俺の肩に手を置いて何かを言おうとしているようだった。口から出る言葉を期待していたのに、それがなかなか放たれないから俺は相手の身体に近寄った。彼を押し倒してでも有用な情報が欲しいと思っていたんだろう。
 ただ倒れたのはエダの身体ではなかった。黒い物が床に落ち、煩わしい音が広間を痺れさせていた。それに気付いたエダは目を丸くして床を見た。俺は彼が動く様を観察することがどうしようもなく好きになっていた。
「なあ、忘れてないか? 俺は嫌な男なんだ――そう簡単に君に利益のあることを教えるはずがないって、そんなふうに考えたりしなかったのか」
「あんたはいい人だよ。だってあんたはケキから助けてくれた。昼飯だっておごってくれた」
「それだけでいい人って決めつけるのか? 君は本当に、平和な世界で暮らしていたんだな。だったら俺を慰めてくれないか? 君に恋して失恋した俺を、最後の情けとして身体ごと溶かしてくれないか」
 涙が止まらない。なぜなら彼も、俺が救えると思っていたから。
「分かった。何も教えてくれなくてもいい。だからあんたに伝えるよ。一番じゃなくても、あんたのことを愛してるってこと」
「……男は独占欲が強い。一番じゃなきゃ納得できないのさ。だけど、君に愛されるなら俺は満足できるかもしれない。ラザーラスじゃなくて俺を愛してくれるなら、もうあの組織に戻らなくても生きていくことができるかもしれない」
 俺は彼にキスをする。唇で繋がり合ったまま身体を床に押し倒し、彼の上に覆い被さると綺麗な目が俺を見ていた。彼の身体に手を伸ばすと面白いほど簡単に涙が出てこなくなった。乾いた頬で相手の胸板に触れ、俺はラザーラスではない男を愛さねばならなくなっていた。
 だけど苦痛ではない。俺を傷つけようとする相手ではなく、俺から愛されたいと願っている相手だから、彼に天より高い幸福を与えてやりたいと思えるようになっていた。俺は相手の力強い腕に抱かれながら彼を一心に愛した。肌に触れ、刺激を送り、キスもして、彼の中に入り込んだ。身体が燃えるように熱くなっていた。ラザーと繋がっていた時よりもずっと熱くて、それでいて心は焦りと悲しみでいっぱいになり、溢れようとする負の感情を愛することで忘れようと彼の奥を幾度も犯した。相手の口から快楽の声が聞こえてくると、俺の視界は奥から赤く染まっていった。
 なぜこんなに熱くなったのか。俺はラザーよりもエダを愛していたというのだろうか。
 大きな音が頭を殴った。俺は聞こえないふりをした。エダにキスをするとラザーみたいに吸い付いてきた。それがなんだか心地よくなって、俺はエダの虜になってしまう。
 長い時間だった。他のどんな夜より長かった。それは終わりがないように思われて、二人の欲望は愛として放出されたけど、何度も繰り返さねば満足できないそれは、やはりどこかおかしいものとして認識されているのだと気付かねばならなかったんだ。……

 

 

 

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