月のない夜に

 

 

 誰一人として彼を愛せなかったのなら、俺が一人目になっても不思議ではなかったのかもしれない。愛を示す方法なんて単純なもので、小さな身体を優しく抱き締めてやればいいだけなのに、自分勝手な感情があるせいでそれをより困難なものへと変えてしまっていた。ただ本当の気持ちは言葉でも行動でも偽りなく伝えることはできなくて、懐疑が生じて信頼を求め、結果として様々な歪みを形成する手助けとなる。そして誰もがそれに気付いていた。知っていて、理解もしているはずなのに、人間は臆病だから決して頷こうとしない。認めてしまえば楽なのに、認めることが怖いから否定する。楽になりたくないのか、彼らは、いつだって否認することで自我を保ち続けているんだ。その一歩を踏み出すことができれば、どれほど――でも生まれついての消極的な側面は、完全に破壊するまで影の中に生き続ける。
 全てが赤に染まっていた。彼の髪も、目も、肌も、周囲の景色だって燃えるような赤で彩られ、視覚だけでなく聴覚までおかしくなったのか、彼の声以外のものが何一つとして聞こえなくなっていた。彼の一部に触れると炎のように熱くなっていた。そればかりか自分の身体まで燃えているような錯覚に陥る。まとわりつく蒸気ももはや色を無くし、彼が望んだようにこの場にある全てが溶けてしまうのではないかと思った。そう、俺は彼の願いを叶えるんだ。初めての願いを、彼も俺も求めていた結末を、やっと彼に与えることができるんだ。もう中途半端な愛に嘆くこともなく、ただひたすらに彼の願望だけを再現できる。余計な制約があるわけでもない、俺を踏みとどまらせる愛しいものもない。ああ、これで彼を救えるなら、俺はラザーラスのことさえ見捨てられただろうか。いいや! 仮定の話なんて無意味だ、俺はもう知っている、このままじゃ彼を救うことなどできはしないと! だって、崩壊してる――ここにある全ての「赤」がばらばらになり、うねる炎に包まれて、灰と化す瞬間を黙って待ち構えているんだ。それが彼の全てだ、あの鞭と共にこの世界が消えようとしている!
「行くな!」
 腕を掴まれている。燃えている木材が天井から落下した。彼が持っていた黒い鞭が床の上で火に包まれている。
「俺だけを見ろ、他のことなんて考えるな」
「でも家が!」
「構わない! 壊れるというのなら壊れてしまえばいい、燃えるというのなら灰になってしまえばいい! あんな鞭は必要なかったんだ、この家と共に消えてしまうべきなんだ! そしてここにある想いも――消滅すればいい。叶わぬ願いなど誰が救ってくれるんだ?」
 炎が踊り、空気が歌う。これが彼の選択? それとも勇気? 彼の精神が灰になる。やっとのことで甦った魂が、炎に飲み込まれて殺されようとしているんだ。誰がそれを止められる? ああ一体誰が彼の精神の奥底まで足を踏み入れ、そこにある満たされぬ思いを浄化できるというのだろう!
 汗で滑って思い通りに動けなくなっていた。早く逃げなければ自分の身が危ないのに、俺の下で腕を掴んでいる彼を放っておくこともできなくて、悲しい感情だけが湧くように溢れてくる。
「エダ、この火はあんたの仕業なのか」
「そうさ。この小屋ごと燃えてしまえばいいんだ。君に夢なんか抱くんじゃなかった。裏切られるくらいなら、自分で消してしまった方が納得できる」
「夢? あんたは俺に夢を見ていた? それはどういうことだよ、どうして夢なんて言葉を使うんだ」
 木造の家具は瞬時に赤に包まれていた。息苦しさは感じられず、それでも胸の奥が熱さと痛さとで締め付けられている。エダは俺を離そうとしなかった。このまま二人で火の海に呑まれることを望んでいるようだった。
「ど、どうかしてる――どうかしてるよ、あんた! こんなの、ただ自分を傷つけてるだけじゃないか! あんたはそんなことをする人間じゃなかっただろ、自分のことは大事に守って、他者をいたぶって楽しんでいたじゃないか! それが、どうして大切な家を燃やしたりするんだ! 絵だってあるんだろ、あんたの兄が残した絵が、こんなことしたらそれだって燃えてしまうじゃないか! それに、夢って、俺は夢じゃない、現実だよ。目が覚めたって消えることもない、実際に存在している人間だ。エダ、なぜこんな理解できないことをするんだ。俺に――構って欲しいのか」
「ふふ、あはは!」
「ええっ! なんだよ、どうして笑うんだ!」
 渦を作るのは炎だけなのか。彼の声さえこの場では燃えていた。誰も存在できないようになっている。なぜならこれが要望だからだ、こうなることを彼が望んだのだから! でもあらゆる全てが燃えたとしても、それらが完全に消えてしまうことはなかったのだろう。だって物が燃えれば灰になる。風に飛ばされ、土に混じり、やがては生命の一端として息を吹き返すだろう。それを待つべきなのか、彼らは、夢が叶わないから最初からやり直そうと考えているのだろうか!
「樹君、何やってんの!」
 どこか遠くの方から響いて来たのはヨウトの高い声だった。熱を必要としない幽霊の少年が飛び散る火の粉をくぐり抜け、慌てた様子で俺の傍までやってくる。彼が俺の身体を後ろから引っ張ると、それまで決して離そうとしなかったエダの手がするりと滑るように抜け落ちてしまった。それは二人だけしかいなかった世界に第三者が紛れ込んできたからだった。
「外に出て、早く! ぼんやりしてたら君まで黒こげになっちゃうよ」
 立ち上がると逃げようとする意欲が出現してくる。二人より先に玄関へと走り、外に出ると太陽の光が眩しかった。思わず手でそれを遮ると、何か恐ろしいものが背後で笑っている気がして、なんだかびっくりして振り返ったけれど俺が想像していたものなど何もなかった。立ち竦むように息をひそめて黙っていると、エダを背負ったヨウトが燃えている小屋から出てくる様子がよく見えた。
「樹君、ロイのところに行ってあげて」
 エダを地面に寝転がせ、ヨウトは黒服を俺に手渡してくる。ちょっと下に視線をやると、エダは全身をぐったりとさせ、死人のように目を閉じて動かなくなっていた。流されるがままに服を着て、用意されていた靴を履き、準備が整うとヨウトの顔をじっと見た。だけど目と目が合ってもお互いの考えが見えることはなく、だから俺はさらに踏み込まねばならなかった。
「ラザーはどこにいるんだ」
「分からない。でも彼には君が必要なんだ。分かってるんでしょ、君以外の人じゃ駄目だってことくらい。君の一言が彼を助けるし、君の姿だけでも彼を安心させることができる。エダさんが言ってたんだ、ちょっと脅してやったら、簡単に元の生活に戻りそうだって。ロイは――人殺しをしてる。また組織にいた頃みたいに人殺しの仕事を繰り返そうとしてるんだ。だから、樹君、どうかロイを止めてあげて! 君じゃなきゃ駄目なんだ、もう君の声しか彼には届かないから!」
「でもエダは? エダは無事なのか、まるで死んでるみたいだぞ――」
 何を思っていいのか分からない。青い空に炎の赤が揺れていた。
「エダさんなら心配いらないよ。でもどうしてここで迷う必要があるの?」
「迷うって、だって俺は、ラザーも大事だけどエダのことも助けてやりたいんだ!」
「その甘い考えがエダさんを傷つけたってどうして分からないの? 君は選ばなければならないんだよ、ラザーラスかエダさんか、そして答えはもう出ているはずだ。君はラザーラスを選ぶ。エダさんを見捨てて彼の元へと走っていくんだ」
 見捨てるだって。俺が彼を甦らせたのに。表面だけを優しく撫でて、奥に潜む鏡を壊すことはできないのか。彼の内面を深い愛で包み込み、沼に入っている足が抜ける瞬間を共に迎えたいと願っていたのに!
「それとも君はラザーラスを見捨てるの? このままここに残ってエダさんが目覚める時を待って、そうしてラザーラスが人を殺す行為を知っていながら放置するの? 壊れやすい彼のことだから、きっと明日か明後日には気持ちが沈んで、さらに君が知っていながら見逃したんだと気付いたら彼の精神は確実に犯されるよ。だって彼は君を愛してるんだもの。君に一番に理解して欲しくて、他の誰でもない君に救って欲しいと望んでるんだから。君は彼を裏切るの? ラザーラスを見捨ててエダさんに乗り替えるの? できないでしょ、そんなの、お願いだから彼を救ってよ! どうして迷ってるんだよ、早くロイを探しに走ってよ!」
 身体の芯から頭に向かうものがあった。ヨウトの叫びを聞いて走り出す。悩みが解決したわけじゃない、むしろ鮮明だったものが全てぼやけてしまって、何も考えないで済むように走り出したんだ。別のことに夢中になって忘れようと考えていたのかもしれない。
 俺はラザーを探さなければならない。この広すぎる世界の中でどうやって見つければいい? たった一人の人間を、風のように通り過ぎることもなく、手を真っ赤に染めた人殺しを優しく抱き締めてやらなければならなかった。簡単に元に戻るだって。誘導するものがあったとしても、なぜ彼はそれを受け入れてしまったのか。アニスとの約束はどうなったんだ、あんなに何度も繰り返し教えてくれたのに、彼女の願いは彼にとってそれほど薄っぺらいものになってしまったのか? 或いはそれより大事なものができたのか。身を呈して庇ったアニスよりも大事な存在が、彼が生きていく指標のような生命が、光みたいに眩しく彼の中に息づくようになったのか――それが自分だ、俺の為に犠牲になったんだ、彼は! なんだって! それは以前と同じじゃないか、俺を守りたかったから彼は黙ってエダに食われていた、そして今度は人殺しか! 俺の為に無邪気な瞳を殺すのか、残された未来を否定するのか! ナイフを握るのは彼だけど、人を殺すのは俺だった。心を置き去りにした器だけの彼が機械的に殺人を犯す。それを知った俺は彼を目覚めさせなければならない。ちょうど反対側にいるエダを見捨てながら、俺は自己犠牲を繰り返すラザーラスの手を握る為に走っていた。
 目に見える景色が風より速く流れていた。暗い森を抜けて草原に至り、青空が広がる下を怯えたように走り抜ける。この見慣れぬ世界で彼を探すことは心細くて挫折してしまいそうだった。だからなのか、足が疲れた頃には家の近所の空き地に座り込んでいて、前にある道を通りがかる人を恨めしそうに眺めていた。
 誰も声を掛けてこなかった。目が合ってもすぐに視線をそらされてしまう。加えて俺は声も出なくなっていたから、誰かに助けを呼ぶことも協力を要請することもできずにいた。疲れ果てた足は力を入れても動いてくれることはなく、価値のない時間が俺の前を幾度も行き来することに苛立ちを覚え始めていた。

 

 

「樹、樹ってば」
 頭上から降ってきた声で目を覚ますと、見上げた先に懐かしい顔が煌めいていた。どうしてだか傘をさし、そのおかげで太陽の暖かい光が失われている。
「どうしてそんなことをするんだ、俺から光を奪うのがそんなに楽しいか!」
「いきなり何を言ってるの? ちゃんと説明して」
「だって、傘――」
 ふと気が付くと雨が降っていた。相手の傘に当たった水滴が煩い音を立てている。それでも身体に冷たさが感じられなくて、俺はようやく相手の傘に自分も入っていることを理解した。
 しゃがみ込んでいる相手は俺と同じ目線になっていた。彼の深い銀色の目が何度か綺麗なまばたきを演じる。
「ラザーを探してるんだ。あいつ、また人を殺す気だから、俺が止めなきゃならなくなった。リヴァはあいつがどこにいるか知らないか」
「知らないよ。この近辺じゃ見かけてない。君が動く理由はいつもラザーなんだね。ここ最近で自分の為に動いたことってあるの」
「……雨、いつから降ってるんだ」
「お昼頃から、ずっと」
 よかった。雨が降っているなら、ラザーの手についた汚いものも全て流されてしまうだろう。俺があいつに会う時は、汚い手に触らずに済むんだ。いつもの綺麗な手のままで会いに行くことができるんだ。ところでこの雨はどこまで降っているのだろう。あの世界にも雨雲は届いているだろうか、彼の黒くなった家も燃える必要がなくなっただろうか。そうだ、あれは燃やす必要なんてなかったんだ。なのにエダが勝手に判断して、行動して、俺に愛されながらその姿を壊そうとした。どうしてあんなことを、俺に愛されたかったくせに、なぜ俺を困らせるようなことをするんだよ! いや、そうじゃない! そうじゃないんだ――悪いのは俺だ、俺が彼を愛したからいけなかったんだ!
「やめろ、火を消せ! その火を燃やしちゃ駄目だ、早く消さないと灰になる!」
 目の奥に赤が残っている。彼が放った炎の赤。感情の息遣いが紛れ込み、それを死滅させる無慈悲な赤。
「樹、どうしたの、火なんてどこにもないじゃないか」
「ある! まだ残ってるはずだ、今のうちに消さなきゃいけないんだ! そうしないとあいつが死ぬ、また死ぬんだ、二度目だ! 俺が殺すことになる! 生き返らせたのに、やっとのことで甦ってくれたのに、どうして俺が甦らせた相手を殺さなければならないんだ! ああ、リヴァ、あの火を消して! こんな雨だけじゃ足りないんだよ、あいつの心が焼け焦げるのは嫌だ!」
 救ったと思っていた。神に感謝して喜んだ。長い時間を必要とせず、俺の言葉で「愛」を取り戻してくれた彼の姿を見て、俺は心から彼を祝福することができたんだろう。それなのに彼は自殺を図った。俺に愛されなかったから精神を殺そうと大事なものを燃やしたんだ! 彼を救うだって? どうかしてるのは俺の方だ! ヨウトの言った通りだったんだ、エダを一番に傷つけていたのは俺だ! 中途半端な愛を振り撒き、彼を愛していると言いながらラザーラスのことしか見ていなかった。そしてこんなことになった今でもエダではなくラザーの為に俺は走っている。彼が欲しがっていた言葉を探す努力さえしないで、燃え始めた彼を見て気が付いても背を向けたままで、俺は卑怯な人間だ。二人を同時に抱き締めることはできないのに!
「消して! 早く消して、でなきゃ間に合わなくなる、もう後悔なんかしたくないんだ!」
 俺は相手にすがりつく。大声で嘘を叫びながら、相手が解決してくれると期待していた。だけど彼は何もしなかった。驚いた顔で俺の姿を見下ろすだけで、用意されていない答えを探している様子でもない。彼まで俺を見捨てるのだろうか、誰か一人を愛したなら、どうして一度に大勢を平等に愛することができなくなるのだろう!
「い、嫌だ――助けたかったのに、どうしてこんな、何もかもが裏切っていくんだ」
「樹、落ち着いて。炎なんてないよ、君は……悪い夢を見ていただけだ」
 夢だって。あれが夢であるわけがない。以前から兆候はあったんだ、エダは俺に目を向けていて、俺もそれが心地良かったから彼に必要以上に近付いた。そしたら彼は生き返って、俺のわがままの為に死を選んだ。彼は俺を夢だと言った。夢とはつまり選択であり、一方を手にするには他方を容赦なく切り捨てねばならないことだった。見えている部分では不充分なんだ、彼らの求める夢だけじゃ、切り捨てに耐えられる精神なんて存在しない!
 独り歩きしている。人間の思い描いた理想が、暗い影を置き去りにして独り歩きしていた。そうやって明と暗が切り離され、負を見ることさえ恐れる人間は綺麗な断片しか見ようとせず、それが否定された途端に破壊衝動に駆られるんだ。そして燃えた。本人の手によって火がつけられた。消滅してゆく愛すべきものを眺めながら、その火を消すこともできず呆然としたままで、最後に彼が絞り出した感情は「嘲笑」だった。俺はそれを理解できなくて彼を罵った。どうしてあの時抱き締めてやれなかったのか!
「諦めたくない」
 誰のことも救ってやりたい。無駄だと笑われても、希望を抱いていたい。
「諦めたら、自分を見失いそうで怖い」
「樹」
「でも諦めなきゃならないんだ。俺がラザーを選ぶなら、あいつは本当に死んでしまうんだ」
 そして二度と甦ることはなくなるだろう。生き返っても裏切られるだけだと認識した彼が、それでも人として生きようと試みる機会は訪れることはないんだろう。そう仕向けたのは俺だ。いくら後悔しても、もう遅い。
「傘、貸して」
 半ば強引に青年から傘を奪い取った。彼を残して歩き出し、どことも知れぬその場所へと向かう。泣いて許されるなら土下座をしただろう。嘘の涙で流されるなら、人々を騙すことすら厭わない。
 片手に傘を持って空き地を出ると、雨に濡れた道が俺の前にまっすぐ伸びていた。何も感じなくなった心は夢など追いかけてはならない。虚無の鏡からはみ出した自分自身がすぐ傍を通り過ぎ、小さな角を曲がって独りぼっちで糸を切った。後ろから次々と自分が走り去り、彼らの器である俺は傘をさしながらゆっくりと歩くだけ。割れた破片は傷つける要因にはならなくて、ナイフより鋭い切っ先が天の光を受け取って煌めきを生んだ。それは誰の息の根を止めることもできないもので、むしろ切り刻むことにより新たな生命を創造するものだった。
 ああ、追従がある。この音を聞いて駆けつける者がいた。何を望んでも縛られてしまうのなら、刃は別の過去を破壊するのだろう。それを人は干渉と言った。溢れてしまったたくさんの自我が、他の誰かを救うことができるのだと気が付いた。しかしそれは正の側面だけであり、当然のことながら他者を壊滅させる力も持ち合わせている。そして恐ろしいことにそれらは同一のものだった。だから責任と後悔がつきまとい、嫌だと首を横に振っても決して逃れることができないのであった。
 泣き虫の空はまばたきをすることもなく、徐々に失っていく青色を恨めしそうに見つめていた。俺は彼女の抱擁を肌で感じ、夕や夜を彩る羽根を羨望の先に見出してしまう。焦げ付いた心の奥が雨に濡れてぶれていた。たゆたうように揺れる花弁が許されぬ川を悠々と流れ、俺に向かって真意を惜しげもなく差し出そうとしていた。
 いくら歩いてもそこには辿り着けないのだろう。だって俺は今、誰の手も握っていない。一人は闇の中に沈み、もう一人は炎の渦に呑まれて焼け焦げた。
 逃げ場を求めるように空を見上げる。広大な世界はちっぽけな人間など助けてはくれない。だから人は誰かの力を期待して、また誰かの為に頑張ろうと自身を犠牲にしてしまうのだろう。手を伸ばすと降ってくる雨が冷たかった。たとえばこの感覚さえ閉じてしまった人がいるとして、俺はその人に何の躊躇いもなく自分の半分を手渡すことができるのだろうか。
 俺はどうしてだか夜の闇に染まった街に紛れ込み、人気のない場所へと足を向かわせていた。雨が降っているから余計に人通りの少ない道を歩き、明々と光る店舗から離れて狭い路地へと入り込んでいく。まるで迷路のような壁の隙間を長々と歩いていた。濡れて重くなった身体など、もはや何の問題でもなくなっていた。
 稲光が街を照らす。それは暗がりに潜んでいた物を一瞬間だけ縁取り、俺はふと足を止めて振り返った。何の表示もない看板の奥の方、人の目を避けるように隠れている誰かの姿が見えた気がした。その人は深く帽子を被り、真っ黒の服で身を包み、顔は大きな丸い眼鏡で隠していた。そっと傘を相手の頭上へと移動させる。眼鏡の下から見えた赤い目に、見覚えがないわけがなかったんだ。
 相手と目が合った。何か言わなければならない。でも唇が震えて声が出なかった。彼の足元に赤い血が溜まっているような気がした。
「迎えに、来たよ」
 手を差し出すと握り返してくれた。彼はラザーラスだ、とても綺麗な手がここにある。俺は彼を連れて歩き出した。二人で一つの傘に入り、何の目的もなく夜の街をゆっくりと歩く。
 彼の気配が隣から消えると、振り返った先に彼が俯いて立ち止まっている姿が見えた。俺はそこまで戻って再び傘の中へと誘導する。そっと手を握ると相手は素早く振り払ってきた。そして怖い顔をして視線を向こう側へと投げてしまう。
 同じことを幾度か繰り返し、疲れてきた頃にエダのことを思い出した。狭い箱に閉じ込められた彼らは動くことすらままならなくて、自由に空を羽ばたくことのできる翼を欲しているように見えた。それさえあれば何かに恐れることも、強要されることも、服従することもないはずで、好きなところへ向かうことができるはずだった。だとすれば、その翼はどこにあるのか? 彼らを自由にする翼は誰から得られるものなのか?
 それは他者の中にある。自分のものと他人のもの、その二つが揃って初めて人は「自由」を手にすることができるんだ。俺はそれを作り始めていた。半分までは完成していた。でも最後の仕上げで失敗したんだ。彼が人間らしく欲深くなっていたことに気付かずに、人形を相手に話しかけるように彼の頭を撫でていた。だから失敗した。そう、それは当り前のことだった。
 不意に俺が足を止めると、隣を歩く黒服の彼も立ち止まった。耳の奥で雨の音が鳴り響いている。周囲には誰もいなかった。俺と彼がここで何をしようと、それを知る者は誰一人として存在しないんだ。
 身震いがした。世界から切り離されていると感じた。多くの人間から除け者にされ、陰から観察され笑われている気がした。二人でいるはずなのにおかしい程の孤独を味わう。手が震えて力が入らなくなり、するりと地に落ちた傘が俺の目を覚まさせることはなかった。
「殺したの?」
 口から何かが飛び出す。俺はその正体を知らなかった。
「誰を?」
「知らない」
「酷い奴! 人殺しなんて――救えない」
 焦げた匂いがする。鉄の味がする。
 風が吹くと雨が全身に打ちつけてきた。稲光によって相手の顔が瞬間的に照らされる。隠された彼の表情は死んではいないようだった。たった一本の糸だけで保たれているんだ、それを切ることは簡単すぎて面白くない。
「帰ろう。ヨウトが心配してたから」
 理由が蔓のように伸びていた。相手は頷かなかったが、動けなくなっていたようだった。そうさせたのは俺なのに罪悪感さえ見つけられない。愛は心配には成り得ないのか、それとも愛が心配を産出しているのか――。

 

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 星の光に照らされて、エダの兄の小屋は全焼していた。夜に染まった草に囲まれて真っ黒の何かが存在しており、思い出などないと言わんばかりの決断のようにも思われた。自らの宝物を破壊した青年はヨウトの傍で目を閉じている。決して幸福とは言い難い表情で夢の中に沈んでおり、彼を抱くように見つめている幽霊の少年は憐れんだ瞳を静かに彼に注いでいた。
「やっと見つかったと思ったのにな、エダさんの居場所」
 ヨウトの声が風に乗って俺の元に届いてくる。俺はそれに賛同することも反論することもできなかった。
「この近くに街があるってことは話したよね? 僕はエダさんを連れてそこに行くから、樹君とロイは別のところで泊まってよ」
「でも、ヨウト」
「分からないかな? 君が近くにいると、エダさんは目を覚まさない気がするんだ」
「――俺のせいだって言いたいのか」
 ヨウトは頷いた。大きく、はっきりと頷いた。
 仕方がなかったんだとは言えなかった。言い訳なんてみっともなくてできなかった。俺は大人しく少年の命令に従った。何も言わないラザーラスの手を握り、住み慣れた自分の家へと案内する。
 日本の夜の道を少し歩き、家の前に着くとラザーラスの身体から帽子と眼鏡を取り外した。それはなんだか粘っこくて気色が悪い。玄関のドアに手を伸ばすと鍵が掛かっていて開かなかった。チャイムを鳴らしてしばらく待つと、内側の電気がついて重い扉が控え目に開く。
「ただいま」
「あ、あんた……」
 出迎えたのは姉貴だった。彼女の姿を見るのは何日ぶりだろう。相手は目を丸くして唇を震わせている。うっすらと頬が紅潮しており、そこから醸し出される違和感が尋常じゃなかった。
「今日は家で寝るよ。ラザーも一緒に。ご飯はいらない、風呂はシャワーだけでいいから。姉貴はもう寝ててくれ、明日も仕事なんだろ」
「ちょっと樹、あんたねえ、いきなり帰ってきてその態度は……」
 俺は立ち尽くすラザーの腕を引っ張って家の中に入った。扉を閉めて鍵を掛け、靴を脱いで二階へと進んでいく。自分の部屋に入ると服が濡れていることに気が付いた。部屋の中でラザーと向き合い、彼の様子を確認する。
 ラザーラスは視線をふわふわさせていた。どうにも焦点が定まらないらしく、瞳が不安げにきょろきょろと動いている。俺はまず何よりも先に彼を安心させてやらねばならなかった。相手は小屋の火事のことを知らなくて、更に人を殺したショックで心が不安定になっているのだろう。こんな時にキスはできなかった。そっと手を握ってみたが、相手はそれにも気付いていないようだった。
「ラザー、シャワー浴びてくる? とりあえず着替えなきゃな」
 彼の背を手で押して一階へ誘導した。相手は反抗せず従ってくれたが、風呂場で服を脱がせようとすると強い力で突き飛ばされた。俺を部屋から追い出し、相手は一人でシャワーを浴びているようだった。それを音だけで確認しつつ彼が出てくる時を黙って待つ。
「あんた、濡れたままで家の中うろうろしないでよ」
 風呂場の前で座り込んでいると姉貴が近寄ってきた。片手には雑巾を持ち、口を尖らせている様は家庭的で理想に近いものがあった。
「後で掃除しておくよ」
「そういう問題じゃないでしょ。それで――ラザーラス君だっけ? あの子はどうして家に帰らないの」
「あいつは家がないんだ。保護者はろくな奴じゃないし、保護者気取りの男は臆病者だし、最近まで隠れるように住んでた家は火事で全焼しちゃったんだ。だから俺が家に連れてきた。それだけだよ」
 姉貴は黙った。ただ俺の説明に納得はできていないらしい。一つまばたきをして彼女は手に持っていた雑巾をこちらに投げてきた。
「あんたが夢中になってるのはあの子ってことでいいの?」
 俺がラザーに夢中になってるんじゃない。ラザーが俺に夢中になってるんだ。
「そう考えてくれていいよ。普通の恋愛じゃなくて、ごめん」
「ああ、もう――本当にあんたって昔から、突拍子もないことばっかりするんだから。でも、勘違いしないでよね。あたしはあんたのこと、分かってるつもりだから」
「うん」
 姉貴は優しい。リヴァも優しかった。俺は優しい人に囲まれている。だから自分も優しくなれたのかもしれない。それが偽りの優しさだとしても、人間は親しみに弱いからすぐに騙せるんだ。
「それじゃ、あたしはもう寝るから。ちゃんと掃除しておきなさいよ」
「分かってるって。おやすみ、姉貴」
「おやすみ」
 小さな足音が廊下の先へ消えていく。ぼんやりと彼女の背を見送りながら、俺はラザーのことをまぶたの裏に思い浮かべていた。
 少し待っているとラザーは風呂場から出てきた。雨で濡れた服を片手に抱え、腰にタオルを巻いただけの格好で俺の隣を通り過ぎる。彼の足取りがしっかりしていたから俺もまたシャワーを浴びることにした。身体にぴったりとくっついていた服を脱ぎ捨て、短時間の簡単な洗浄を全身に張り巡らせていく。
 風呂から出て自分の部屋に戻ると、入り口付近の床に濡れた服が捨てられていた。それを拾って一階に戻り、洗濯物を押し込んでいるバケツに上から重ねて入れておいた。再び部屋に戻るとラザーが俺のベッドを占領していた。寝転がって布団を頭から被り、生まれる前の赤ん坊のように小さく身体を丸めている。
「ラザー、起きて」
 布団をめくると彼の顔が見えるようになった。心なしか唇が紫色になっている気がする。
「気分……悪いのか?」
 野暮な質問を投げかける。相手は何も答えない。
 彼を隠していた布団を床の上に落とし、俺は白い身体の上に覆い被さった。
「キスするよ。いい?」
「嫌、だ」
 途切れそうな声が拒否している。俺は聞こえないふりをしてラザーにキスをした。
「嫌だって言っただろ!」
「ラザー」
 俺の下で喚く彼を大人しくさせようと思った。だからもう一度キスをして、彼の肩に両手を置く。
「は、離せ――」
「ラザー、俺を見て。俺の目を見てくれ」
 相手は怯えている。びくびくとして表情がくるくる変わり、手首を掴むと身体が震えていることが分かった。動かずに待っているとラザーの目が俺を見た。視線が交わったことを感じると、彼の意識がまだここにあるという安堵を見つけられてほっとした。
「俺が誰だか分かる?」
「樹」
「そう、樹だよ。じゃ、あんたの名前は?」
「ラザーラス」
 彼の目が丸くなっている。宝石みたいに赤い目を大きく開き、びっくりしたような表情をずっと崩さずに俺の顔を見ていた。
「あのさ。俺、エダを振ったんだ。いや、あいつが自分から消えようとして、だから家に火を放ったらしくて」
「ええっ――火なんてなかったじゃないか」
「ああ、ええと、火があったのは昼だよ。まだ空が明るい時に家が燃えてたんだ。真っ赤だったよ」
「赤?」
 ぴんと張られていた糸が震えた。余計なことを言ってしまったと後悔したが、一度出てしまったものはもう元には戻せない。
「ち、違うよ。赤じゃなかった」
 ラザーは俺の声を聞いていない。彼の視線が自らの手に向けられていた。全身から焦りが滲み出て、俺は彼の意識をこちらに向けさせようとキスをした。強引なキスだったからなのか、相手はもがいて俺を突き飛ばそうと肩を掴んできた。それでも唇を押し付け続けていると支配欲が頭をかすめる。ぐっと体重を掛けて相手を押し潰し、彼の呼吸を俺の内で産生させようとなかなか身体を離さなかった。息をする為に一度だけ唇を離し、再び相手に噛みつくようなキスをする。彼の手が俺の肩の上で強く握られ、途中で相手の口から言葉にならない叫びが飛び出した。
「えっ……」
 太もものあたりに熱いものを感じ、思わず彼から身体を離した。視線を下に落とすとその正体がはっきりと分かった。確認するように相手の顔を見ると、彼は手で目の周辺を隠そうとしている。胸を上下にさせて息を整える様子は、俺にとっては異常だとしか考えられなかった。
「なんで? まだ何もしてないじゃないか。今のキス、そんなに良かったの?」
「襲われた気がして……」
 彼は言葉を途切れさせる。俺は彼の目を隠している腕を掴んだが、相手の反応が信じられなかった。
「汚いだろ、俺なんか、愛される時よりも愛する時よりも、無理矢理犯される時の方が身体が反応するんだ! 畜生、お前は知らなくていいことばかり知っていく! どうして汚い部分にわざわざ気付くんだよ!」
 目を合わせようとしない相手は体全体を震わせていた。彼の恐怖が俺の目の前にあるらしい。それを目の当たりにしてやるせなさが心を埋め尽くそうとしていた。彼の傷跡は想像以上に深すぎて、俺の手でどこまで癒せるかなんて考えている余裕さえ残されていなかった。
 手を相手の腕の上で滑らせる。白い腕はとても美しく見えたが、彼は自分を汚い人間だと思い込んでいるようだった。確かに彼はすっかり汚されてしまったのかもしれない。だけど汚れたものは洗えば綺麗になるんだ、漆喰みたいな感情に囚われている場合じゃない。
「ラザーの腕、すごく綺麗だよ」
「え――な、何」
「ほら、こんなに白くて、まっさらの紙みたいだ」
「触るな! お前まで汚れてしまう、だから触るな、触らないでくれよ、お願いだから!」
 涙に濡れた懇願が痛々しかった。それでも彼の腕に手を這わせ、やがては相手の手のひらに辿り着く。俺が触れているのは右手だった。この手がナイフを握り締め、無実の人間の命を奪ったのだろう。その時は赤く染まっていただろうか。相手の血が手のひらいっぱいに広がって、呪いのように彼の細胞の中へ染み込んでしまったのだろうか。
「赤い――手が赤い!」
「赤くないよ。ラザーの手は白い」
「赤いじゃないか! こんなに血で汚れて、汚れて、洗ってもおちないんだ、汚れがおちないんだ、どうして? こんな赤なんて大嫌いなのに!」
「ラザー、よく見るんだ。ラザーの手は赤くない。俺の手と同じ色をしてる。そうだろ?」
 ラザーラスは目を大きくしたり小さくしたりして自分の手を見た。彼の思考を正常に戻すにはかなりの時間が必要だと覚悟しなければならないらしい。今夜は一睡もできないかもしれないが、俺はゆっくりとでもいいから彼を生き返らせてやりたいと思っていた。
「赤くない……赤く、ない?」
「そうだよ。赤くなんてない。ラザーの手は綺麗だ。俺よりも綺麗な白色をしてて、羨ましいくらい綺麗な手だ」
「やめ――やめろ、やめてくれ、やめてくれ! ああ!」
 彼は腕を持ち上げて耳を塞ぎ、目を閉じて身体を丸くした。俺は彼の身体を後ろから抱き締める。彼はまだ震えていた。極寒の地に裸で放り込まれたように、がたがたと全身を大きく震わせている。彼をここまで怯えさせているものは何だろう。俺はそれを壊すことができるだろうか、彼の中からそれを追い出し、二度と戻ってこないよう跡も残らない程に粉砕できるのだろうか。
「ラザー、怖いの? 一体何が怖い? あんたが今まで生きてきた中で、最も失いたくなかったものって何なんだ?」
「あ――嫌、触るな……触るな」
 できる限りの優しさを送る愛撫を止め、彼をあお向けに寝かせて相手の顔をまっすぐ見る。ラザーラスは普段と全く異なる表情をしていた。それを一言で「怯え」と表現することは可能だが、裏に潜むものだとかそこに導いた要因だとかを詮索するなら、この目に映る光景は彼が新しく見せた、俺が真に知るべき彼の姿と言っても過言ではなかったのだろう。そっと手を伸ばして相手の足に触れた。それは腕と同じで白く美しい。舐めるように手を滑らせ、ちょっと力を込めて足首を両手で掴んだ。彼を自分だけのものにしてしまいたかった。
「え……あ、嫌! 嫌だ、離せ! 手を離せ!」
「何もしないよ。ラザーの足、綺麗だから触ってみただけだ」
「嫌! お願いだから離して、大人しくするから、それは嫌なんだ! 前にも――言っただろ、どうしてあんたはそうやって、嫌がることばかりしてくるんだよ!」
 ただ足首を掴んだだけなのに、彼は記憶の中で何を見つけたのだろう。身体を持ち上げて彼の顔に目を近付けると、先程より濃くなった怯えの色が顔の上に浮かび上がっていた。
「何だよ、じろじろと、早くその手を離して――何でも言うこと聞くから、だから離して……」
 彼の鼓動の音が聞こえた気がした。俺は相手の足首から手を離す。彼は誰に足首を掴まれていたのだろう? 彼を触っていたのは罪人ばかりだ、低俗な連中が綺麗だった彼を汚してしまった。そう誘導したのは誰だ? それが、あの男だったんじゃなかったのか?
「ラザー、俺が誰だか分かってるよな? 俺はあんたが思ってるような奴じゃないよ。組織にいた奴らでもないし、ケキでもない」
「え――樹?」
 相手の身体がびくりと反応した。それほど驚くべきことだっただろうか。俺が思っている以上に彼の精神は不安定であるようだ。精巧なガラス細工より丁寧に扱わなきゃ、きっとすぐにでも壊れてしまうんだろう。
「足、触ってもいい?」
 頭を持ち上げないまま彼は首を横に振った。その両手がベッドのシーツを強く握り締めている。
「身体を触られるの、嫌いなのか?」
「お前に触られるのが嫌なんだ。俺の身体、綺麗な部分なんて残ってないから、お前の身体を汚してしまうのが嫌なんだ」
「どうして? こんなに綺麗なのに」
 すうっと指を足の上で滑らせると相手は全身で反応を示した。
「どこが綺麗なんだ、こんな足なんて――あいつに足首を掴まれて、縄で縛られたり、足枷を付けられたり、知らない男の体液を何度も浴びせられてきたんだ、綺麗であるはずがない……まだ縄の跡が残ってるじゃないか! こんなに、はっきりと! お前にはこれが見えないのか!」
 縄の跡など残っていなかった。傷跡があるわけでもないし、普通の人間の足があるだけだった。俺は彼の足に舌を這わせる。彼が汚いと思っているなら、俺の力で洗ってやろうと思ったんだ。
「何をしている、よせ! そんなことをしたら、お前が」
「俺は汚れないよ。だってラザーは綺麗だ」
「綺麗じゃない!」
 言葉では否定するくせに、彼は俺の行為を力ずくで止めようとはしなかった。もしもそれが彼の望みに近いことであるのなら、俺はまだ壊れずに済んだのかもしれない。
「綺麗じゃ、ない……」
 足首から膝へ、膝から太ももへ、隙間なく舐め尽す頃にはラザーラスは静かになっていた。嫌がっているのではないと考えていたが、彼の顔を見ると涙で潤んだ目があった。それが頬の上を滑るのは時間の問題だ。
 俺は身体を上へと動かし、今度は彼の腹に手を当てた。そこだけは誰にも汚されていない気がして、あまり気兼ねせず自由に肌の上に手を滑らせる。だけど相手は俺の手首を掴んできた。そうして顔を幾度か横に振り、ぐいぐいと俺の手を離そうと力を込めてくる。
「ここも駄目なの? お腹なんて、大して弄られてないんじゃないのか」
 俺が想像できる範囲では、腹など遊びの対象になるものじゃないと思っていた。もし遊びが存在するとしても、それがどんなものなのか全く予想ができない。弄ったとしても面白味もなさそうで、だから俺は相手の反応が理解できなかった。
「触られるのは、それほど――多くはなかったけど」
 彼の声が震えている。彼の頭の中は今、つらい思い出で溢れ返っているのかもしれない。
「ナイフで切られたり、銃弾を撃ち込まれたり、鞭で打たれたりしたし、それから、それから……あいつら、俺が嫌がるのを知ってて、瓶に溜めた精液を身体じゅうに塗り込んできたんだ。気色の悪い……俺はそれが嫌だったんだ!」
 相手が話す痛みは苦しい。俺は唾を飲み込んだ。彼の話す過去を聞きながら、それでも身体を触ることはやめなかった。腹から胸へと手を移動させ、彼が汚いと思い込んでいる身体を抱き締める。
 そうやって相手の存在を腕の中に感じていると、彼を汚しているのは自分なのだと気付かねばならなかった。彼を洗うと言いながら汚いことを要求している。彼の身体が綺麗と褒めながら、本当は汚れ切って元に戻らない事実さえ分かっていた。未来は無限に変えられるけど、過去だけは人の力じゃどうあっても干渉なんてできない。その柵から解放させる方法としては、もはや崖の上を走り抜けることしか残されていないのだろうか。
「離して――」
 愛に臆病な彼は身体の震えを止められないのかもしれない。ぎゅっと抱き締め、じっとしていると彼の震えが大きくなってしまった。
「離して、お願い! これ以上お前を汚したくないんだ、俺のせいで傷ついて欲しくないんだ。俺は、お前が思っている以上に汚れてて、いつも大人たちの玩具にされていた人間なんだ、あいつらの欲望を全身で処理してやってた奴隷なんだ。そんな奴の身体を触ったら、お前が悲しむだけだ。だからもう、俺からは離れてしまって、ヨウトやエダの心配をしてやってくれ。その方がお前の為になるはずだから!」
「ラザー、それはできないよ。俺はあの二人じゃなくラザーを選んだんだ。今更一番に愛する人を変えることはできない。俺は、ラザーのことを愛してる。ラザーのことだけを愛してるんだ」
「あっ! い、嫌――離せ、離せ!」
 何が彼の中に甦ったのか分からないが、唐突に暴れ出した彼の様子は普通じゃなかった。俺の腕から逃れようと身体を捻じらせて、だから俺は彼が離れないよう力を込めて押さえつける。その判断が良いものなのか悪いものなのかは分からない。それでも汗を流して離れようとする相手は動きを止めることがなく、俺は彼を落ち着かせる為に唇にキスをした。
 塞いだ相手の口からうめき声が溢れ出る。太ももに何か硬いものが当たったのを感じ、また彼が身体を反応させていることが分かった。誰も彼を救えないのだと思った。こんなふうになるまで壊れた彼を、何も知らなかった頃の少年に戻すことなど誰にもできないんじゃないかと考えた。
「愛してるなら、本当に愛してるんなら、どうしてこんなことをするんだよ、あんたは――俺のことが嫌いだって言えよ! 綺麗なんて言うな、愛してるだなんて言うな! 俺は、汚いんだ、あんたに汚されて……愛は要らない、怖い、怖いんだ、いい子にするからもう離して、ケキ!」
「ラザー! 俺はケキじゃない、目を覚ませ!」
「だって、黒い――髪が、ああ! 絡んで、こんなに、動けないのに!」
 ケキを思い起こさせるものがあってはならないらしい。俺は一度彼から身体を離し、相手をうつ伏せに寝かせて白い背中を見下ろした。そのまま放置していると相手は落ち着きを取り戻した。荒かった息が薄くなり、汗にまみれた身体が静かにベッドの上に沈んでいた。
 過去を思い出して彼は苦しんでいる。そんな相手の姿を眺めながら、俺は一体何をしようとしているのだろう。俺の行為は彼を傷つけているだけじゃないのか。こんな方法じゃ彼を救えないことなんて分かってる、だけど彼がこのまま、自分の身体が汚いと思い込んで生きていく姿を見たくなかったんだ。彼は今日、再び罪を犯した。昨日も同じことをしていたかもしれない。もしその経験が他人の血の赤を思い起こさせ、自らの手が赤に染められたと感じ、自分が汚い人間であると意識したならば、それは俺の責任でもあった。この痛みと苦しみを消す為に俺はどんなことでも実行しなければならない。たとえそうだとしても、過去を思い出させることは本当に正解なのか? 深い傷をわざわざ開かせているだけなんじゃないのか?
「背中――」
「え?」
「骨が浮き上がってて、綺麗な形をしてる。肌も白くて……綺麗だよ」
 骨の形をなぞるように相手の背中の上で指を動かすと、ラザーラスは黙りながらも俺の動作に我慢しているようだった。彼の身体の震えはまだ止まっていない。俺は彼の背に顔を近付け、小さく光る汗に濡れた白い背中を少しだけ舐めた。それに対して彼は身体をびくりと反応させ、口の中で乾き切った途切れ途切れの声を生み始める。
「どうかした? 背中も駄目?」
「痛い――痛いんだ」
 彼の言葉の意味が分かりかねて言葉が続かなくなってしまう。そっと彼の背から手を離すと、相手はちょっとだけ落ち着いたように何も言わなくなった。
「痛いってどういうこと?」
「傷、傷が」
 そう、そうだった。こればかりは自分の目ではっきりと見たはずじゃないか。彼の背にはたくさんの傷がある。今はもう全て癒えているけれど、黒い鞭が刻んだ傷跡はまだ彼の背中で身体を侵食しているんだ。
 もう一度彼の背に手を伸ばした。先程より優しく触れ、撫でるように手を滑らせる。そのたびに相手は小さな声を漏らしていた。些細な動作さえ恐怖の対象となり、彼の不安定な心を揺さぶる悪魔として君臨しているのだろう。背中のラインに沿って舌を移動させ、震えの止まらない身体を浄化しようとした。ただ彼の示す反応は俺の理想とは程遠い。それを知りながらも俺は彼を見捨てることができずに、もうどうなってもいいから相手を見えない暗闇から解放してやりたかったんだ。
「一番汚された部分って、ここかな」
 背に置いていた手を下方へと移動させ、過去に最も男の欲望を受け止めたであろう部分に触れる。表面は背や腹と同じでとても綺麗に見えているが、大人にとってちょうどいい穴の中は決して綺麗とは言えない有り様になっているのだろう。俺はまた唾を飲み込む。手に伝わってくる弾力が破壊衝動を招くのかもしれない。
「や、やめろ!」
「指……入れるよ」
「よせ、そんなところ触ったら――お前が!」
 右手の人差し指を彼の中に侵入させた。ラザーラスはシーツの上に顔を擦りつけ、身体じゅうを強張らせて声を抑えているように見える。もう一本だけ、中指を滑り込ませるように入れると、彼は顔と身体を少しだけ持ち上げて前方にある壁を見た。指先からぬめりが感じられた気がして、俺はすぐに彼の中から指を抜いてしまった。
 自分の指を確認しても、俺が想像したものなど付着しているはずがなかった。当たり前のことを目の当たりにしてほっとして、でもどうすればいいか分からなくなってしまった。身体の中なんてどうやって洗えばいいのだろう。無意味に触ると彼が嫌がるだけだ、それはケキやエダの行為とさして変わらない。
「ラザー。その……入れてもいいかな」
「え? な、何」
「ラザーの中にある汚いもの、俺が全部貰っていくから。だから、ちょっとだけ我慢してて」
「え、あ、何――何を!」
 彼の身体をあお向けに転がし、足を開かせて俺のものをゆっくりとねじ込んだ。それだけで相手の表情がぐるりと変化する。冷静さが全て剥がれ落ち、色濃く塗られた怯えが全身を彩り、直視できないと思わせる顔が目の前に現れていた。この顔を誰が知っているだろう? 一体誰が彼をこんな感情から救い出すことができるのだろうか!
「やめ、やめろ! お願い、こんな、したくない――抜いて! 何でも言うこと聞くから、仕事もちゃんとするから、だから抜いて! 中に入れないで、ああ、お願い、お願いします、だから……」
「ラザー、ごめん、ごめんな、でも俺は!」
「嫌、嫌だ、こんなの――もう死んでしまいたい」
 頭を殴られ、胸の内をえぐり取られた感触があった。彼の口から何か信じられない言葉が聞こえた気がしたんだ。全身に電光が走ったように身体が麻痺し、俺は指を動かすことすらできなくなる。
「そんなに――嫌なの」
 自分でも驚くくらい震えた声が出た。額から流れ落ちた汗が相手の白い肌を汚す。
「こんなことされるくらいなら、いっそ死んだ方がいい。なのに、なぜそれができない? どうして生きることも死ぬことも自由にさせてくれないんだ」
「ラザー、冗談でも死んだ方がいいなんて言うな。そんなに怖いの、俺は、死より恐ろしい存在としてあんたを苦しめてるのか?」
 相手は目線を合わせてくれなかった。壁の方ばかりを見て俺の存在を認めようとしない。俺は彼の頬に手を当てて顔を動かした。まっすぐ俺の顔が見えるように、俺は彼を苦しめるのではなく愛する為にここにいるのだと認識して欲しかったんだ。それなのに彼はぎゅっと目を閉じてしまった。この黒い髪が彼の心を揺さぶるのなら、エダの家と共に全て燃えてしまえばよかったとさえ感じられる。顔を近付けてキスをした。乾いた唇は鉄の味がして、いつかのエダとのキスがふと頭の中を横断した。
「キスも嫌?」
「……」
「ラザー。俺はラザーを愛してる。きっと将来、あんた以上に愛する人は現れないって思う。だから身体を預けたし、この精神だって差し出せる自信があるよ。ラザーは俺を愛してくれてるよな。そう言ってたんだ、俺はずっと覚えてるよ。初めてあんたに教えられた日から覚えてる。あんたの身体は確かに俺を求めてたから。なあ、あんたはその意味を知ってる? あんたはあの時から俺を愛していたことにちゃんと気付いてた? ううん、昔のことなんて今更どうだっていい。ラザー、俺はラザーが欲しい。あんたの心と体、両方が欲しいんだ。だから受け止めて――今は黙って、俺のことを信じていて」
 徐々に彼との距離を縮め、より深く彼の中へと侵入していく。相手は目も口も閉じたままだったが、奥まで入り切ると薄い目蓋が持ち上げられた。
 きっとすぐには信じてくれない。彼が過去を克服するには長い時間が必要だった。俺はそれに最後まで付き合うことができないけれど、せめて一緒にいられる時間だけは彼の恐怖を取り除いてあげたいと思っていた。その感情はいくら言葉にして伝えたところで何の意味もないから、彼の手助けとして単純な行為で示そうとした。目の前で震える彼を優しく包み込みたい。でも何かの力が働いて身体が思うように動いてくれなかった。
「俺の顔を見て。目を見て、そして感じてくれ」
「そうやって、また――縛るんだ、あんたは」
 遠い場所にある赤い目が俺を睨むように見上げている。はっとすると彼はラザーラスではなくなっていた。
「結局は身体が目当てなんだ。愛してるだなんて言いながら、身体さえあれば何だっていいんだろ。心だって、欲しいだなんて言ってるけど、弱味を握って動かしやすいように把握しておきたいだけなんだ。知ってるんだぞ、お前らの考えてることなんて、単純すぎて反吐が出る! そんなにいいのかよ、この身体――女でもないのにそんなに抱きたいのか! 頭おかしいんじゃないか! くそっ、もういい、好きにしろ! あんたの台詞を聞いてたら……吐き気がするんだよ、見下した憐みなんて苛々するだけだ!」
 飛んでくる暴言はロイのものだ。いくら俺が愛していると口にしても、どれほど彼を大事に思っていると伝えようとしても、過去に教えられた歪んだ愛のせいで彼に俺の気持ちは伝わらない。伝わったとしても間違って解釈してしまう。だったらどうすればわだかまりなく真実を共有できるだろう。
 絶望的だ。そんなことは分かってる。彼を知ったあの日から、彼が組織で生きていたことを話してくれた瞬間から、彼に愛されたあの夜から、俺はラザーラスは死人だと気付いていたはずだった。誰もが盲目になっている只中で、俺は一人だけ彼に歩み寄ることができた。そして導き出さねばならないのは何だろう。永遠か、それとも幸福? どちらも手では掴めないものであるはずなのに、どうしてだかすぐ傍まで近寄っているような気がしたんだ。
 身体を折り曲げ、相手の上に覆い被さる。そうしてふっと頬の隣に唇を近付けた。
「ラザー、こわがらないで。平気だよ……大丈夫だから。今は何も考えないで。頭の中を真っ白にして、ただ俺のことだけを目で見てて。大丈夫、大丈夫だよ。こわいものなんて何もない。もしそれがやってきても、俺がすぐにやっつけてあげるから。信じられないなら……まだ俺のことを信じられないのなら、それは悲しいけど仕方がない。そうだよな、簡単に他人を信じられるはずがないもんな。だけどさ、ラザー。せめて自分のことだけは信じていてくれ。自分が思ったことは本当なんだって、自分で決めたことも、自分で選んだものも、それは誰かの介入があったとしても自分自身の反映なんだって信じていて。誰にも代わりはできないものだと感じていて。それがあんたの呼吸を表してる。あんたの心臓が動いてることを証明してるから。俺は、あんたの一部にはなれないけど、こわいものからラザーを守ることならできるよ。近くにいても、遠くに行っても、きっとラザーを守ると誓うから。だから、もう平気だよ。そしてこの行為も――こわいものじゃない、本当は愛しいものなんだって、それを少しでも分かって欲しいと願ってる。……ラザー。何も言わず、俺を感じてみて。何も考えなくていいから、ただ全身で、俺を受け止めてみて」
 彼の背に手を回し、きゅっと優しく抱き締める。彼の目を見たら泣いてしまいそうだったから、俺はシーツに顔をうずめてしばらくじっとしていた。ラザーは強張らせていた身体から力を抜き、少しずつではあるが落ち着いてきたようだった。彼の呼吸が安定し、俺の感情が収まってきた頃、俺は身体を起こして彼の中を突き始めた。彼自身が教えてくれた愛を示す行為を演じ始めただけだった。そこに嘘など存在しない、俺が知っているものだけが静かな空間の中を漂っている。
「あ――」
 小さな声が耳に届く。相手の目に生気が感じられない。俺が言った通りに頭の中を空っぽにしているのだろうか。彼を突くたびに声が漏れていた。それは恐怖でもなく快楽でもない、何だかよく分からない類のものになっていた。
 心が騒いだ。彼の精神はここにあるのだろうか。どこか遠くへ旅立ってしまったなら、これは何の意味もない演技になってしまう。声を掛けようとすると腕を掴まれた。それがあまりに素早く、また強く掴んできたものだから、身体の動きを止めて彼の死人のような顔を覗き込んだ。
「もっと――」
 今度は肩を掴まれ、ぐいと引っ張られる。相手の胸に自分の胸がぶつかり、そのまま強い力で背中に手を回された。
「もっと……強くして。壊すくらいに、激しく」
 これは何だ。彼はなぜこんなことを言う。先程まであんなに嫌がっていたのに、どうしていきなり態度を変えたのか?
「ラザー、ちゃんと起きてる? 自分が何を言ったのか……分かってる?」
「分かっている。もっと突いて。奥の方まで、飽きるまで、何度でも突いて、そして出して。他にも……何でも、好きなことしていいから」
 彼の声が機械のようだ。目に光は感じない、でも腕に力が入りすぎている。俺の力じゃ逃げ出せなくて、だから相手の望みを叶えてやらねばならないと思った。
 再び彼の中を突き始めると同じような声が漏れてくる。欲望に負けないよう気を付けながらも、彼の密着した手が俺の興奮を高めていた。俺が身体を動かすたびに相手の全身が面白いほど揺れている。暗闇の中でも光る銀髪が額の上で暴れ回り、それが綺麗で何度も彼を突き上げたい衝動に駆られた。
 高まる鼓動と不安感に包まれながら、俺は彼を愛そうと必死になっていた。よそ見もせずに彼の顔だけを見つめ、乱れる息を感じながらもそれを整えることさえせず、ただ相手の息が全く乱れていないことに違和感を覚えていた。まるであらかじめ決められた動作を繰り返しているように声を出し、生きていない道具や玩具のようにじっとして、だけど腕の力だけは弱めないで決して俺を逃がそうとしなかった。それでも彼のことが愛しくて相手の中に放出すると、直接受け止めた彼は腕の力を弱めて果てた。
 それを終えて、俺は何を思えばいいのか分からなかった。ラザーラスは生気のない目をして、犯された後のように全身をぐったりとベッドに沈み込ませている。俺は彼にそっとキスをした。そして最後になってようやく気付いたのは、無関心こそが彼が見つけた自分を守る最高の手段なのだということだった。……

 

 

 

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