月のない夜に

 

 

 誰かの吐息が聞こえた気がして、真夜中のベッドの中で俺は一人で目を覚ました。夢を見ていた記憶もなく、何かの間違いだと思い込もうとした矢先、すぐ隣から物音が聞こえたのでそちらに顔を動かしてみた。視線の先には疲れ果てて眠りに落ちたラザーラスの姿がある。彼は目を閉じてあお向けに寝転がり、手を伸ばせば抱き締めることも可能な場所で静かに眠っていた。
 相手の顔は何かの光によって照らされていた。確認するように身体を起こし、部屋の中を見回すと、カーテンの開いた窓から月の光が差し込んでいた。それが面白いくらいまっすぐにラザーラスの顔を照らしている。廃墟に残された芸術品の如く、偶然の産物はより一層輝きを増したのだろう。
 彼の姿を見ていると心が騒いだ。白い額は前髪で隠され、長いまつ毛は濡れている。声を出さず、息をひそめて相手の顔を見ていると、ふと彼の表情が小さく歪んだ。それが引き金となったのか、彼は幾度か否定するように首を横に動かし、呻き声のような寝言を吐き出しながらベッドの中で身体を動かし始めた。
 俺は何もせず彼の様子を眺めていた。むやみに触れても傷つけるだけならば、少し離れた場所から見守っている方がこの関係も壊れずに済むのだろう。そうやって自分に都合のいい解釈を言い聞かせながら、俺は彼に恐れられることを最も避けたいと強く感じていた。数時間前の自分の行為と、それに対する彼の反応が頭の中で生き残っている。彼はいつもあんなふうに対処していたんだ、怖いことやつらいことには気付かないふりをして、相手の要望を叶えて早く終わらせるように誘導し、無関心を貫くことで自分の心と体の両方を守っていた。その方法はどんな手段で見つけたのだろう。そんな対処法を実践しながら、彼はいつも何を考えて何を見つめていたのだろう。
 深く考えたつもりはなかったのに、唐突に目頭が熱くなってきた。彼の気持ちを思うと胸が締め付けられた。嫌なことを押しつけられて、精神的にも肉体的にも虐待を受け続けていた彼は、この世界に来てやっとのことで平穏を手に入れられたはずだった。だけどいくら今が幸福に近い位置にあるとしても、彼の中に根付く暗闇は銀縁の扉の鍵を必要としないものだった。楽しいことや嬉しいことが、彼の中では負の感情に居場所を奪われている。いつか見た彼の精神の淋しげな光景は、生も死もない痛みだけの空間だったのかもしれない。
 そうやって救うべき相手のことを誰にも言わずに考えていると、荒くなった息と大きくなってきた呻き声に俺の注意が向けられた。
 悪い夢でも見ているのだろうか、ラザーラスはうなされているように顔を歪めて目を閉じている。白い布団の下では両手と両足を動かしているらしく、ちょっと布団を持ち上げて確認すると彼の両手がシーツを握り締めていた。なんだか感じるものがあって彼の頬に手を伸ばした。俺の指先が相手の肌に触れたなら、彼はぱっと目を開いて勢いよく身体を起き上がらせた。
「あ……あっ、ああ!」
 空中に手を彷徨わせながら、彼は奇声とも思われる叫びを俺の隣で発していた。目は開いているから起きているのかもしれないが、尋常じゃない行動は彼の覚醒を否定しているように見える。俺は彼を背中から抱き締めた。どこにも向かわないで済むように、俺の元に戻ってきてくれるようにと、そんな無垢な願いを込めながら彼を自分のものにしてしまいたかった。夢で誰に踏みつけられていても関係ない。だって結局重要なのは現実で、俺はそこに生きる一人の人間なんだから。
「あ――嫌、いや――」
 優しく力を込めながら、彼をベッドに横たわらせる。相手は素早く首を横に振り、ぎゅっと目を閉じて再び夢の世界へと足を踏み入れたようだった。それでも息の乱れが整うことはなく、背中をベッドに擦りつけるようにして何度も寝返りを打っている。見下ろすだけで何もできない俺は無力感に苛まれる他に存在意義などなかった。
 眠ることもできないまま、同じことが何度か繰り返されることとなった。ラザーの口から漏れる声が大きくなると、それが悲鳴に変わると同時に彼は大きく目を見開いた。身体を起き上がらせることも度々あり、俺はそんな彼の身体を飽きもせずベッドの上へと戻していく。なかなか悲鳴が止まらない時もあった。頭をかきむしって指先に血が付いた時もあった。俺はどうにかして彼を落ち着かせ、指の血も破られたシーツも気にしないようにして、彼が夢から解放されるまで付き合うつもりで一晩中起きていた。明け方になると彼の息の乱れも消え、呻き声を出すことも身体を動かすこともなくなった。夜の数時間は彼にとってあらゆる意味を持つ刹那なのかもしれなかった。
 心底ほっとして少しの間だけ眠りにつこうとベッドに寝転がると、すぐ隣で横たわる彼の身体がわずかに動いたような気がした。身体を彼の方へと向け、静かになったラザーの様子を視界の中に入れ込んでおく。彼は目も口も閉じてじっとしていたが、しばらくすると何かに驚いたようにびくりと身体を反応させた。どうやら彼の中ではまだ悪夢が続いているらしい。
 小さな反応を繰り返しながら、ラザーラスは押し殺したような声を出すようになった。それは女性みたいに高い声で、気持ちが高ぶった時に聞こえていた声に違いないと感じられる。夢の中の相手は誰だろう。またケキだろうか、それともエダか、もしかしたら俺かもしれない――。
「……んっ!」
 はっきりとした大きな声が彼の口から放たれる。顔面に嫌悪感を浮き彫りにし、足で布団を蹴ってベッドから床の上に容赦なく落としてしまった。おかげで俺の身体は寒くなり、また隠されていた相手の身体の全てが目で見えるようになった。何気なく彼の下半身に目をやると、ラザーは夢の中の相手に欲情し、眠りながら精液まで出してしまったようだった。ただ彼の境遇から考えると、おそらく夢の中では犯されているのだろう。乱暴な男に強要されて承諾したのか、或いは手足を縛られておもちゃのように扱われているのか。あまり身体を動かさずにじっとしているところを見ると、相手に脅されて我慢しているようにも見える。ああ、それはまるであの頃のようだ。
 床に落ちた布団を元に戻し、再び同じベッドの中に並んで寝転がった。ただいくら目を閉じて眠ろうと試みても、静かになったラザーラスのことが気になって朝が来るまで一睡もできなかった。彼の苦痛は俺には分からない。理解しようと努力することは可能だが、彼と同じ体験をこの身に刻んだりしない限り、彼の深い悲しみを受け取り共感することは決してできないのだろう。
 朝日が眩しくて目を閉じていられなくなり、俺はまだ夢の中にいるラザーラスを残してベッドの上から身体を離した。裸のままだった自分の身体に適当な服を着せ、靴下を履いてから部屋を出て廊下を歩く。階段を下りて台所に行くとあくびをしている姉貴の姿が見えた。相手と簡単な挨拶を交わし、準備してくれていたサンドイッチを一人分だけお盆の上に乗せた。
「あんた、今日は学校でしょ? ちゃんと行きなさいよ」
 台所を出ようとすると後ろから声を掛けられた。席についてパンを頬張っている姉貴は今にも眠ってしまいそうな目をしている。
「姉貴、もしかして寝不足? そんなに大変なのか、仕事――」
「え? 別に寝不足なんかじゃないってば」
「でも眠そうじゃないか。それに、目の下に隈ができてる」
 口を動かしながら昨夜のことを思い出した。あれだけ騒いでいたんだ、もしかしたらラザーの声が他の部屋にまで響いてよく眠れなかったのかもしれない。やはりこの家でラザーと共に暮らすことはできなかった。エダの兄の家こそ都合のいい場所だったのに、ないものをあてにしたってもうどうにもならない。
「ラザーを泊めるのは昨日だけのつもりだよ。どうにか説得して、家に帰ってもらうつもりだから」
「――あのさ、あんたがいいなら、あの子とずっと一緒に暮らしたって構わないのよ。なんだかんだで言いそびれたんだけどさ、あたし近いうちに結婚しようと思ってるし」
「結婚? 初耳だ」
 俺の知らない場所で姉貴がどこかの男に惚れ込んでいたらしい。それが一時的な情熱でも、永遠に続く安堵でも、当人たちはその正体に気付かずに、長々と延びていく時間を一人きりで歩いていくのだろう。俺も同じ道を進むと思い込んでいた。普通に恋愛して、守りたいと思う女性に出会って、一家の主となって家族を養っていくものと思っていた。だけど今は、若さに任せて同級生の青年を愛している。気持ちからではなく身体的な関係から始まり、今では身体も精神も手に入れなければ満足できなくなってしまった。それはいけないことだ、俺が彼を支配したなら、彼はますます怖がって過去の足枷を外すことができなくなる。彼を不幸に陥れているのは自分なんだ。俺が彼の前から消えてしまえば、彼の重荷も幾らか軽くなるはずだった。
「俺はラザーから離れるべきなんだ。あいつが幸せになる為には、俺のわがままであいつを振り回してちゃいけない。そしてあいつのわがままを俺が大人しく聞いてても駄目なんだ。お互いに関係を見直すべきで、その為にも一度ちゃんとした距離を作らなきゃならないんだ」
 逃げ場となっていた小屋が灰になった今、俺もラザーも本来いるべき場所に戻らねばならないのだろう。何も難しいことじゃない、普通の生活に戻り、普通の関係に戻るだけだった。それなのに、一体いつからこんなに複雑な模様が描かれるようになったのだろう。俺はそれを焼き払う者に変わらなければならなかった。
 朝食を乗せたお盆を片手に持ち、階段を上がって自分の部屋の中へと戻る。扉を開けると明るい光が部屋いっぱいに溢れていた。それでも朝の清々しさは感じられず、目を覚ましていないラザーラスの横顔を眺められる位置にゆっくりと腰を下ろした。
 黙り込む空間でサンドイッチを口に運ぶ。ラザーは昨夜に比べると落ち着いている様子で、世間じゃ有りがちな光景の如く胸を上下に動かしていた。夜中の混乱は昨夜の俺の行為が原因なのだろうか。俺が彼に無関心を装わせるまでしつこく迫ったから、彼は夢の中で誰かに襲われていたのだろうか。それとも俺が今まで気付かなかっただけで、本当はいつもあんなふうに悪い夢にうなされていたのだろうか。カイはそれを知っていただろうか? 同じ家で暮らしながら、認められなくても彼の師匠として見守っていたなら、ラザーが深い傷跡を隠していることに感づいていたのだろうか。
 いや、おそらく悪夢は昨夜だけだった。何度も同じベッドで眠ったけれど、あれほど大きな声を出したり、息を乱したり、寝返りを打ったりしていれば誰だって気付かないわけがなかった。彼が悪夢を呼び寄せた原因は、当時のつらい気持ちを思い出したからだろう。これまではずっと忘れていられた閉ざされた記憶の扉が開き、ひとりでに暴走して彼の中を自由に駆け巡っている。ではなぜ彼はそれを思い出してしまったのか? エダに襲われたり、俺が鞭で打っても思い出さなかったのに、どうして彼は今になって無関心と共にそれを甦らせてしまったのか?
『そうやって、また――縛るんだ、あんたは』
 そう。彼はそんなことを言っていた。彼の口から出た「あんた」という代名詞は、俺の黒髪を通して見たケキのことを指していたのだろう。ケキは組織でロイを虐めていた。武器を振り回したり、手や足を縄で縛ったり、服を脱がせて性行為を強要したり――それが周りにも広がって組織全体でロイを虐めていた。毎日だったか一週間ごとだったか、そんな細かいことは分からないけど、彼らの暴力がロイの精神を痩せ細らせ、卑屈に育てたことだけは間違いないのだろう。ただラザーラスはこっちの世界に逃げてきたことにより、古い記憶は置き去りにしてすっかり忘れることに成功していたはずだった。この土地では誰も彼を殴らないし、縄で縛られることも鞭で打たれることもなく、もちろん肉体関係を迫られることもない。エダやヨウトが淋しさからラザーラスを組織に連れ戻そうと現れたのなら、ラザーラスもまた懐かしさを感じて彼らの言葉に耳を傾けていたのかもしれない。直接的な原因はエダによる凌辱だったが、地面の裏に潜む片方の原因は彼自身に存在していたことにも留意せねばならなかった。
 それが分かったところで、では俺は何をすれば彼を救うことができるだろうか。懐かしさという感情を彼から剥ぐことはできないし、このまま俺との愛に依存して生きることが救いになるとも思えない。近くには彼の綺麗な横顔が眠っていて、それをいくら注意深く眺めたとしても最良の答えなど教えてはくれなかった。
 キスしたい衝動に駆られてそっと顔を近付け、彼の頬に手を当てると、部屋の扉が開いて誰かが中へと入ってきた。仕方なくキスを断念してそちらに顔を向けて確認する。相手は隣の部屋で眠っていたはずのリヴァセールで、何か言いたげな表情で立ったままじっとこちらを見つめていた。
「おはよう、リヴァ」
「あ……おは、よう」
 どうしてだか相手は少しだけ顔を赤くしている。彼が何を考えているのかは分からないが、俺のベッドで横たわるラザーを見て嫉妬でもしたのなら、それは面白いことだと考えようとする俺は頭がおかしくなっているのかもしれなかった。目を覚まさせる為に自分の頬に平手打ちする。思いのほか大きな音が部屋の中に響いて、俺だけでなくリヴァもまた驚いた表情を作っていた。
「ラザーが目を覚ましたら、師匠の家に連れて行こうと思ってる。だから今日は学校には行かない」
「……彼、もう大丈夫なの?」
 無責任なことは言わないようにしようと思った。誰が相手でも本当のことしか口にせず、これ以上騙すことのないように自分自身が気を付けていなければならない。
「大丈夫ってことはないと思う。昨日の夜も、悪い夢にうなされてたみたいだし」
「夢? 昨晩騒いでたのはその夢のせいなの?」
「ああ、やっぱり聞こえてたか。ごめんな、うるさくして」
「……」
 どうやら相手は不機嫌であるらしい。出てきそうな声が口の外に放たれることがなく、もやもやした気持ちだけが雪のように降り積もっているように見えた。彼は少し俯いてぎゅっと唇を噛み締めている。行き場を無くした俺の視線は再びラザーの上に注がれようとしていた。
「樹、目をそらさないで! 最近の君はどうかしてるよ!」
 相手の強い声に反応して俺は彼の顔を見る。
「君は――ラザーに騙されてるんだ」
「どうして? ラザーが俺を騙す理由なんてない」
「ラザーは君を騙して自分のものにしようとしてるんだ。ただの友達じゃなくて、ラザーにとって都合のいい道具にしようとしてるんだ」
「なんでそんなこと言うかな、お前は」
 何かを訴えているような表情を見上げながら、俺はリヴァの顔にエダの面影を感じた気がした。
「リヴァがどう思っていようと、俺はこれからもラザーの為の努力は惜しまないつもりだよ。ラザーがあの男から完全に離れてしまうまで……俺はずっと彼を支え続けようと思う」
「だから身体を捧げるの? 彼は男だよ、分かってるの? それに君だって男じゃないか。どうして男同士でそんなことをするんだよ?」
「どうしてって言われても……ラザーはきっと、それしか知らなかったんだ。だけど俺との交わりに慣れてきた今だって、彼の中に入ろうとしたら拒否されたり、大丈夫って言い聞かせながら入れたり突いたりしたらあからさまな嫌悪感を示されたりして、俺が彼を抱こうとした途端に彼の中から愛が消えてしまうんだ。そればかりか普段の生活の中でも、あいつは愛されることに対して異常なまでの恐怖を感じてるし、実際誰かを愛そうとしてもなかなか身体が反応してくれないとも言っていた。それなのにラザーは愛を示す行為はセックスしかないと思い込んでいるんだ。俺は今まで彼のやり方に合わせてきたんだけど、もしそれが彼らしく生きる為に必要なことだったなら、これからも彼に身体を捧げていようと思ってる。でも逆にそれが彼自身を追い詰めてただ腐敗させていくだけの行為になるのなら、俺は彼から遠ざかって彼の視界から消えてしまわなければならないのかもしれない。そう考えているんだけど、どうしてかな、やっぱり彼はまず心と体を繋げる必要があると思うんだ。今はばらばらになって浮いている心身をたった一つにできたなら、もしかしたら愛の認識も変わってくるかもしれないし、そうなったら恐怖感だって薄れて怯えることもなくなるだろう。それを期待してるのかな、俺は、だから彼を抱いて大丈夫だって言い続けてるのかもしれない。愛って、そんなに怖いものじゃないはずなのに――ラザーはケキやクトダムに「愛された」せいで、俺や皆が言っていることが分からなくなっているだけなんだ」
「クトダム? あの組織の頂点の人が、ラザーのことを愛していたの? そんな馬鹿なことがあるか。あの男は誰にも顔を見せないって言われてるんだ」
「そうかな……少なくとも俺は、あの男の顔を知っているけど」
 リヴァの目が少しだけ細められた。また俺がいい加減なことを言っているのではないかと疑っているようだ。ただ今回ばかりは疑われて当然だと感じられる。迷子になっていたとはいえ、俺は有り得ないことを成し遂げてしまったのだから。
「信じてくれなくても構わない。でもラザーの痛みは本物だ。彼はずっとケキやクトダムに虐められてきたんだ。愛してるだなんて言いながら、連中はラザーの心と身体を玩具みたいに弄んできたんだ。ラザーの記憶からあいつらを消してしまいたい。あいつらさえいなければ、彼は悪夢にうなされることもなかったはずだから」
「その為に、君はどうするの……悪夢なんて、心の中にでも入らない限り消すことなんてできないじゃないか」
「悪夢を消すんじゃないよ」
 相手の銀の目が少しだけ不思議そうにまばたきした。それはとても美しく、彼の中に暗闇から脱却する鍵を見つけた気がした。そこから目をそらしてラザーラスの顔を覗き込む。救いを待つ青年の顔面におびただしい程の光が差し込むような、そんな目に見えないくらいの小さな部屋が必要だったのかもしれない。
「何もおかしなことじゃない。何もおかしなことじゃないんだ。男だろうと女だろうと、子供だろうと大人だろうと、庶民だろうと罪人だろうと、俺は彼を愛しているんだから」
 愛している、それ以上に上手くこの感情を表す言葉を俺はまだ探し出せていない。これが一時的な快楽だろうと、思い込みの産物だろうと、偽りの鏡面だろうと、そんなことは誰も知らないなら関係のない繋がりであった。愛しているから幸せになって欲しい。愛しているから悲しみを受け止めたい。彼の内部に巣食う痛みが願望と抑止の間を彷徨っているのなら、俺は明確な答えを彼に手渡す為にぐっと手を伸ばして待つべきなのだろう。
 そしてそこに痛みが残ってはならない。後ろから抱き締めて、それで彼を怯えさせたなら愛そのものが崩壊するだろう。彼が求める永遠と名付けられたものを差し出すにはどうすればいいのか、それだって俺はもう知っているはずだった。
「……君が誰を愛そうと、それは君の勝手だと思うよ。ただぼくは心配なんだ。自分の将来のことも考えないで、このままラザーと一緒になったって、きっとつらいことがたくさん待ってるよ。ぼくは――ぼくだって、君が悲しむ姿を見たくないんだよ、もう君はぼくの家族みたいなものなんだから」
「ありがとう。でも、大丈夫だ。どんなに恐ろしいものが襲ってきたとしても、彼を想うことができれば乗り越えられるはずだから。……心配かけてごめん。だけど、本当にもう、大丈夫だから」
 いつだったか、エダに負の感情で溢れていると言われた頃よりずっと、今は落ち着いていられることが自分でもよく分かっていた。感情が不安定だった時に犯してきた過ちも、ここから眺めるとどうしてだかひどく懐かしく思える。ロスリュを襲おうとしたこと、ラザーに暴言を吐いたこと、リヴァをからかったこと、エダに唆されてラザーを鞭で打ったこと――そのどれもが許されるべきことではなくて、俺は人殺しよりずっと罰せられることをしてきたのだと自覚せねばならなかった。だけど今はそれを許せる気がした。俺の乱暴も、ラザーの怯えや情けなさも、全てがこの宇宙の中では許されるもののような気がして、穏やかに過去を受け入れることができていた。
 波は去った。後にすべきことは分かっている。
「そろそろ行かなきゃ。じゃあ、ね……」
「ああ、行ってらっしゃい」
 一つ頷いた相手は俺に背を向け、そのまま振り返りもせず部屋を出ていった。廊下を歩く足音が消えると目を閉じる。狭い宇宙に二人きりだ。幾千もの星が自由気ままに輝く宇宙の中に、異物として放り込まれた月――それが彼の見る俺の姿なのかもしれない。
 彼の横顔と向き合い、身体を少し持ち上げて顔を覗き込む。手を伸ばして髪を触るとさらさらとして心地よかった。銀河系のように細かい線が集まり、たった一つの美しい造形物となっている。頭を撫でるように手を動かすと指の間に銀の糸が絡まってしまった。それに吸い寄せられるようにそっと口づけする。
「え――?」
 耳元で小さな呟きが聞こえた。顔を離すと赤い目がこちらを見ている。それは昨日の夜とは違い、ちゃんと焦点の合っている起きている人間の目だった。
「もう起きたんだ? 朝は苦手だって言ってたのに、今日は早起きだな」
「誰……」
 彼の質問が胸を突き刺す。それでも相手は取り乱していない様子だったから、俺は平常心を保つことができたのだろう。
「川崎樹」
「あ、ああ――お前か」
 相手は額の汗を手で拭った。いつの間に汗をかいていたのだろう。彼の全てを見ているようで俺は、彼の顔に流れる汗にすら気付いていない。
「暑いの? 冷たい飲み物とか持ってこようか?」
「いや、いい。むしろ寒いくらいだ」
「裸だもんな。とりあえず服着ろよ」
 俺が立ち上がると彼もまた身体を起き上がらせた。彼の身を隠していた掛け布団がずり落ち、白い身体がよく見えるようになる。相変わらずそれは美しく、昨夜の彼の否定がどうしようもなく惨めに思えてきた。俺はまた彼に「綺麗だ」と言おうと口を開いたが、その言葉が声として生み出されたなら、俺の言葉の裏に彼はケキの幻を見るのだと分かった気がした。開いた口を閉じ、箪笥の前へと歩いていく。そうやって彼に渡す服を探そうとしたが、俺の服はどれも彼には小さすぎることに気が付き、隣のリヴァの部屋まで行って適当な服を借りることにした。
 俺が渡したリヴァの黒服をラザーは黙って着ていた。彼の白い身体が黒の中に小さく収まる。リヴァの服でも彼にとっては小さいようで、着替え終えた後に窮屈だと文句を垂れていた。
 彼が目を覚ましたなら、俺は眠りにつかねばならなかった。ベッドの上に腕を組んで座っている彼の隣に腰を下ろし、ぴったりと身体をくっつけて相手の呼吸音を確かめる。彼は俺の腰に背中から手を回し、更に身体が近付いて体温までもが大きく伝わってきた。とても心地のいい刹那だけど、この感情を泳がせていては彼を傷つけることになってしまうんだ。
 だけど、もう少し、あと少しだけはこのままでいさせて欲しい。まだ一日は始まったばかりなんだから、せめて夜になるまでは今までの自分でいたかった。
「樹」
 名前を呼ぶ声が安定している。俺は彼の顔を見上げるように見つめた。キスしたくなる唇がそこにある。でもその唇は嘘を吐く喉と繋がっていた。
「どうかした?」
「お前は、俺を――愛しているのか」
「またそれを聞くんだ? 愛してるよ、もちろん愛してる」
 彼の手が俺の頭を撫でる。髪の上を手が滑り、頬を包み込むような大きな手の指先が耳たぶに触れた。彼の手が少しだけ俺の耳を弄ぶ。その隙に身体全体が傾いて俺に近付き、そのまま唇を重ねられた。
「嫌じゃないのか」
「え、何が?」
「キス――嫌じゃないのか、お前は。息ができなくなるだろ」
 身体を抱き締められたまま不思議な質問が降ってきた。今更なぜこんなことを聞いてくるのか、俺は彼じゃないから何一つとして理解できない。
「嫌じゃないよ。だってラザーのこと、愛してるから」
「愛してるなら……相手のことを愛しているのなら、何をされても我慢するべきなのか。心底理解できなくて、すぐに逃げ出したくなるようなことでも?」
 ああ、なんだ。彼はまだ夢を引きずっているんだ。だったら俺が目覚めさせてやらなきゃならない。現実に呼び戻し、夢の中の化け物を退治してやらなきゃならないんだ。
「それは時と場合によると思う。相手の為に我慢することもあるし、相手より自分の身を優先しなきゃならない時だってある。でもさ、ラザー。もしラザーが今クトダムのことを考えているのなら、それは我慢すべきじゃなかったんだよ。クトダムの命令に従うべきじゃなかった、あの男の言葉に騙されて罪を重ねるべきじゃなかったんだ。ラザーはあの男から、あの組織から逃げ出さなきゃならない。彼らの手の届かない場所へ、俺がきっと連れていってあげるから」
「樹、樹――」
 ぎゅっと強い力で抱き締められる。そのくせ彼の声は震えているように響いて、似合っていない。
「どうしたんだ、そんなに弱々しい声出して」
「樹、俺は、お前を信じたい。お前を……信じていたいんだ、信じてもいいのか? お前を信じて、お前の言う通りにしたら、この身体じゅうが締め付けられるような痛みから解放されるのか? お前を信じたなら、俺もお前を愛せたなら、お前の愛を感じられて、お前の言葉の意味も分かるようになるのか? ああ、樹、俺はお前から離れたくない。ずっとお前と一緒にいたい、このままお前の時を止めてしまいたい。お前と一緒に過ごせたら、俺にも愛が分かるかもしれないって、そんなことを考えてしまうんだ。迷惑なのは分かってる、でも俺はお前と別れたくない――お前の傍にいたい、傍にいさせて、お願いだから、俺を……一人にしないで」
「大丈夫だよ」
 小さな身体を優しく抱き締める。彼の素直な気持ちが嬉しかった。俺の優しさで彼を包み込んであげたかったけど、今後のことを考えると目の奥がふっと熱くなる。
「ラザーは今、何が一番怖い?」
「怖い……いろんなことが怖い。お前がある日突然いなくなる気がして怖い。あの小屋が燃えたとか言っていたことが怖い。お前が他の男と寝るのが怖い。相手がヨウトでも嫌だ、あいつに口でされてるお前を見るのが怖い。あの黒い鞭が怖い。エダに襲われる気がして怖い。ポケットの中のナイフが怖い。お前とセックスしても、お前に入れられるとレイプされてる気がして怖い。でもお前の中に入っても全く愛せていない気がして怖い。それなのにお前とセックスしたくなる自分が分からなくて怖い。身体も――意思とは関係なしに反応する身体が怖い。この身体、もうどこも汚れ切ってるのに、お前に綺麗って言われると怖くなる。ケキが言ってたんだ、あいつが俺の肌に触って、綺麗な身体をしてる、だから汚してやるって言ってくるんだ。い、嫌なんだ、あいつの言葉を思い出して――だから綺麗なんて言わないでくれ。それに、愛してるって言葉も、ケキがいつも言ってた。俺の身体をおもちゃみたいにして遊びながら、愛してる、愛してるって、何度も何度も繰り返して言ってくるんだ。愛してるからこうしてるんだって、愛してるから鞭で打って、愛してるから犯してやるんだって言われてた。でもそう言いながらあいつの目は恐ろしく光ってて、俺の意見なんて聞かなくて、自分だけ楽しんで最後には捨てて――お前にもいつか捨てられる気がして怖いんだ! お前と離れるのが怖い、一緒にいられない未来が一番怖い!」
「ラザー」
 名前を呼ぶだけでその存在は消えてしまいそうだ。彼を存続させる為に俺には何ができるだろう。導かれる答えは決まっている、背後から迫ってくるそれは、二人にとって酷な仕打ちしかもたらさないかもしれない。でも今はそれを信じる他に方法がなかった。
「愛してるって言われるの、嫌いなのか?」
「そう言って、何もしないのなら構わないけど――」
「じゃ綺麗って言われるのは? 俺はケキみたいに綺麗だから汚したくなるって思ってるわけじゃない。本当にラザーの身体は綺麗だから、汚いと思い込んでる姿を見るのが嫌だから言ったんだ」
「でも血の跡が――縄で縛られた跡も、背中の傷跡も、細胞に浸み込んだ誰かも知らない男の体液もある! 俺は綺麗じゃないんだ、綺麗なんかじゃ……」
「でもセックスしたいんだよな? 俺と繋がっていたいんだよな?」
「分からない、愛されても愛そうとしても怖くなるだけなのに、どうしてお前の身体を求めるのか分からない! 分からないことだらけで、頭が割れてしまいそうだ――樹、教えてくれ、俺はどうしてお前を求めるんだ? 俺はお前の何を欲しがってるんだ? 身体じゃないだろ? 身体だけが目当てでお前と一緒にいたいんじゃないんだろ? なあそうなんだろ、そうなら何が欲しいんだ、俺は!」
「俺の心、と言うよりも、愛かな。永遠に変わらない愛情。ラザーは俺のそんな愛を欲しがってるんだよ。俺と深く繋がることで、その愛を感じようとしてるんだ。でもその様子じゃ、一度も上手くいってなかったみたいだな」
「あ……」
 相手の身体がびくりと反応した。何か思うことがあったのだろう、それ以来口を閉ざして静かになる。
 俺は彼にずっと優しくしていたかった。今みたいに優しい言葉をかけ、優しい抱擁を与え、優しい心を伝えて彼の傍にい続けたかった。でも、それは終わりにしなきゃならない。俺の優しさが重荷になり、彼の身体を縛りつけている様がここからでもよく見えるようになって、それを知ってしまった俺は自分の欲望に蓋をしなければならなくなっていた。もう悩んでいる時間などない。手遅れになる前に始めなければならない。そしてそれは彼にきちんと説明して、納得してもらい、俺の姿をずっと見ていてもらいたかった。彼の中から金色の光を奪っていたのは俺だったんだ。
「ラザー、師匠の家に帰ろう。俺が送っていってあげるよ。そして師匠と仲直りしてくれ」
 彼の背に回した手が彼を手放したくないと主張している。そのわがままを振り切る為にも俺は彼から身体を離してしまった。よく見えるようになった相手の顔が驚きと不安とで無表情を隠している。ただそれは俺の顔をそのまま映した鏡だったのかもしれない。
「仲直りって――どうして、そんなこと」
「うん、俺も、正直あの人のところにラザーを返すのはすごく嫌だ。知ってる? あの人ってさ、ラザーが家で組織の誰かと電話したり会ったりしてたことにも気付いてたんだ。気付いてたのに、ラザーに嫌われたくないから黙ってて、知らないふりをし続けてたんだ。おかしいよな。大人なら、子供の悩みに踏み込んでやらなきゃならないのに、どうしてそこで踏みとどまっちゃったんだろう。……ラザーさ、本当はあの頃って、師匠のことを頼りにしてたんじゃない? あの人がすぐ傍にいるから平気だって、そう考えてエダたちと会って話をしてたんじゃなかった?」
「そ……そう、だけど、どうして分かった?」
「ん、なんでだろうな。もし俺がラザーと同じ立場だったら、どんなことを考えるだろうって想像したから分かったのかもしれない。そして今も想像できる。ラザーはきっと、師匠のことを許す気にはなれないんじゃないかな」
 相手は口を閉ざして少し目を細めた。視線を斜め下へと落とし、俺の目を見てくれなくなる。
「俺もあの人から話を聞いた時、すごく呆れたしショックだった。あの人がもっとしっかりしてればラザーの苦しみも和らいだだろうし、こんなに複雑なことにならなかったかもしれない。俺だってあの人のこと今まで信頼してたし、困った時は助けてくれるって思ってたから裏切られたような気分だけど、それでもラザーには仲直りして欲しいんだ。だってあの人って、ラザーと同じ時間を共有できる人だから。俺が死んだ後でもラザーの傍にいられる人で、いつか来る終わりの時まで共に生きることのできる人だから。なあ、ラザー。あんたは嫌がるって分かってるんだけど、俺はラザーは師匠と一緒にいた方がいいと思う。俺とはただの友達に戻って、師匠とは家族の関係になって、そうやって数週間前と同じ状態になった方がいいと思うんだ。だから――」
 俺の言葉を遮るようにラザーは横に首を振った。喉に何かが詰まって言葉が出なくなってしまう。俺だって本当はラザーと一緒にいたいんだ。彼と同じように首を横に振り、目を涙で潤ませて今の考えを全て否定してやりたいんだ!
「ラザー、ごめん! でも駄目なんだ、俺じゃ駄目なんだ! 俺は不老不死になる勇気が出ない。そのくせあんたの傍から離れたくないなんて、そんな都合のいい話がまかり通るわけがないんだ! ラザー、師匠を許してやってくれ。お願いだ、そしてあの人の家で元のように暮らして。俺はこの家で姉貴やリヴァと一緒に暮らすから。夜になっても、もうセックスはしないようにしよう。セックスしたら怖くなるんだろ? そんな精神のまま繰り返してたら、ラザーは苦しみ続けなきゃならないから。俺はあんたが悲しむ姿を見たくないんだよ。それでも……もし、夜に淋しくなったら、俺の携帯に電話して。会いたいならそう言って、すぐに会いに行くから。それから、週末は師匠の家に泊まりに行くよ。その時だけは、夜を一緒に過ごそう。だけど眠る時は別々のベッドで寝るんだ。傍にいるだけでも愛を伝えることはできるんだから」
「樹、どうして――どうしてそんなことを言う? どうして俺を引き離そうとする!」
「ラザー、どうか分かって! これがラザーの為なんだ、俺は明日から……ううん、今日の夜から、俺の為に生きることはやめようと思ってる。俺の欲望に忠実だったら、ラザーはいつまでたっても幸せにはなれないから!」
「幸せだって、そんなの、そんなもの、お前がいなきゃ意味がない! 俺の為を思うなら、どうしてそんなことを言うんだ、どうしてそんな、そんなことを――」
 我慢できなくなって相手をベッドの上に押し倒した。ただ俺の顔はやわらかい布団の中に埋もれてしまい、相手の顔などひと欠片も見えなくなった。彼は泣いていたような気がした。声も涙声になっていた。ああ、想像した通りの展開だ。俺にもラザーにも酷い仕打ちだけが待っている。
「樹、そのまま、俺を離さないでくれ――」
「俺がラザーを抱いたら、ラザーはレイプされてると感じるんだろ?」
「それは、だって」
「そしてラザーが俺を抱いたなら、今度は俺を愛せてないんじゃないかって考えるんだ」
「樹、でも俺は、お前と……やりたい。お前と離れたくない、お前のことを一番近くに感じていたい。他の奴らは嫌だけど、お前ならいいんだ、お前となら何をしても――」
「抱くのも抱かれるのも駄目なのに、それでどうやってセックスなんかすればいいんだよ!」
 感情が高ぶって思わず上半身を持ち上げて叫んでいた。ラザーは目を大きく開いて俺の顔を見上げている。彼を責めているわけじゃない。この苛立ちの原因は、彼の後ろで可笑しそうに笑っているあの男だったんだ。
 殺したいほど憎い。あの男が憎い! だけどラザーは尊敬している。彼から離れた今でも心を支配され、彼のことを悪く言うとすぐに反論し、自分が利用されていると思わないようにしているんだ。そう教え込んだんだ。あの男は、ラザーをこんなふうに育て上げたんだ。いい作品に仕上がったな、あの男の望み通りの、素晴らしい出来栄えの完璧な作品だ。それを俺が壊してやるよ。壊して、ばらばらにして、もう一度組み立てる。今度は誰にも干渉させない。教育のない環境で彼という人間を見つけ出すんだ。
「い、嫌……一緒に、一緒にいたいのに、離れたくないのに、どうして――」
 綺麗な眉が歪んでいる。透明な涙が花弁みたいにひらひらと舞っていた。俺はそれをそっと拭うけど、相手は駄々をこねる子供のように何度も同じ言葉を吐き出して泣いた。俺は彼の身体をぎゅっと抱き締める。徐々に息ができなくなり、愛の中に身を投げ出したくなってしまう。
「忘れればいいんだよ」
 不可能なことを教えたくはなかった。でも今は頭がまともに働かない。俺は自分が何を言っているのかさえ理解できず、ただ彼の涙を止める方法を深淵の底から手を伸ばして求めていた。それを裏付ける為にも口から言葉が飛び出してくる。
「あの組織でのことも、エダに襲われたことも、俺との関係だって、全て忘れてしまえばいいんだ。だってあんたはこれまでそうして逃げてたんだろ? あの組織から抜け出して、こっちの世界で平和に酔いしれてた時、あんたの精神では悲しい思い出の扉は全て閉ざされていたはずだ。それを開かせたのはエダで、そこからいろんなことがおかしくなった。関係ない人間も巻き込んで、あんたを中心に回る渦が生み出された。クトダムのこと、エダのこと、ケキのこと、そして俺のこと――その全てを忘れてしまうんだ。開いてしまった扉を全て閉じるんだ」
「どうやって? 忘れるなんて、どうやって忘れてしまえばいい?」
「それは……分からないけど。でも忘れることができればきっと大丈夫だ。ラザーは元通りになれるんだ」
「そ、そんなこと、無理だ。元通りになんてならない!」
 彼を抱き締める力を強くする。彼の弱さに苛立っていた自分はすでに通り越えてしまっていた。
「無理じゃないよ。現に俺は、ラザーが話してくれるまで、あんたが汚いことを強要されていたことも知らなかったから。皆きっと気付かない。あんたが口を開かない限り、事実は闇の中であんたの影に隠れてしまってるんだ」
「でも……もしばれたら? 全員がお前みたいにお人好しじゃないんだ! 嫌われる、置いていかれる、蔑まれる、足蹴にされる!」
「ラザー、それは、そんなことは、今は考えないでくれ」
 身体を持ち上げて彼の顔を見た。変わらない表情だ、でも決して死人のものではない。どれほど追い詰められても人らしさを失わなかった彼は、やはりあの組織にとって都合のいい存在だったのだろう。彼をそう誘導したのはアニスがいたから? いいや、おそらくそれは、クトダムによる調教の結果だった。でもラザーはそれを知らない。どうしてあんな男のことを尊敬しているのか!
「今日が最後だ。今日だけは、ラザーの言うことを何でも聞いてあげるから。だから夜までに師匠の家に帰ろう。さあ、望みを言ってくれ」
「――帰りたくない」
「それは駄目だ。ラザーはあそこに帰らなきゃならない」
「あんな奴の家に帰るくらいなら、いっそ組織に戻った方がいい」
 体中の体温が上昇する。
 俺は彼の唇を奪った。口の中に舌を滑り込ませ、驚いた彼を乱暴に弄ぶ。相手の肩を両手で掴むと背に腕を回された。二人の身体が密着し、逃れられなくなる。
「……いいの? 俺が襲ったら、あんたは苦しくなるんだろ」
「相手がお前なら、我慢する」
 彼がなぜ苦しみながらこの行為を求めるのかは分からない。幸福に近付く為の行動なのに、どうしてそこに我慢がなければならないのだろう。ただなんとなく思うところはあった。人はどうしてだか自ら痛みを繰り返すことがあって、彼はその罠に引っ掛かって動けなくなっているのではないだろうか。苦しみや悲しみばかりが彼の身体にまとわりついている。ここ最近で楽しんだことなど一つでもあったのだろうか。
 俺は彼の服を剥ぎ取る。裸になった身体は欲望など知らないようだ。同様に痛みも憎悪も知らない顔をしていて、無邪気な子供を思わせる肢体が俺の前に存在していた。言葉で操るより身体に教え込む方が簡単で、一度覚えてしまったことは安易に忘れることもできず、それが習慣となればいよいよ恐ろしくなって、薬の中毒者のように自らを滅ぼしてしまうのだろう。ああ、どうしてあんな男のことを信用してしまったのか。なぜ今になってもあの男の幻を壊すことができないんだ、俺は!
 人差し指を一本だけ、彼の腹の上に押し当てる。ゆっくりと上に滑らせ、心臓の辺りに辿り着くと止めた。このまま中に入り込みそうだった。彼の心臓を指で貫き、血も出ない身体を投げ捨て、死を通知するキスで彼を永遠に眠らせてしまいたかった。だけどそれは母の役目だ。単なる友である自分にできることなど少なくて、せいぜい死の淵にある友人の最後の燃えかすを悲しげに見つめることくらいだったのだろう。
 ちょっと俯いているとラザーラスは上半身を起こしてベッドに座った。俺が何もしないから彼の方から行動を起こしたんだ。そこにはお互いの意思があり、自分の思い通りになるものなど何もない。エダやケキはそれを無視して押し通そうとしたんだ。だからラザーは苦しんで、その味ばかりを覚えてしまった。この病気を治すには何が必要? 特効薬など持ち合わせてない、俺は自分の決断を信じなければならない。
 自分の服を脱ごうとして、まだ昼にもなっていないことに気付いてやめた。ズボンだけを脱いで床の上に放り出す。ラザーはそんな俺の行為全てを不安げな瞳でじっと見つめていた。
「どうかした?」
「あ、いや――」
「そう。じゃ、口で頼むよ」
 彼の顔にさっと陰が差し込む。相手はうつ伏せに寝転がり、俺の要望通りの動きを見せてくれた。彼の慣れて上手なそれは俺の興奮を高めてくれる。その間じゅう俺は相手の綺麗な銀髪を愛でるように撫でていた。
「もういいよ。入れるから」
「え――い、入れるって?」
「何を驚いてるんだ。そのままの意味だよ。今までだってずっとそうしてきただろ」
 相手は自分からあお向けに寝転んだ。俺は彼の両足を持ち上げ、快楽の準備を淡々と進める。制止の声が聞こえた気がしたが、それを知ったのは彼の中に入った後のことだった。見下ろす彼の表情は我慢を強いられている子供の顔だった。
「……どう?」
 ここにあるのは二人の意思。一人が一方的になってはならない。俺が声を掛けても相手はびっくりしたように目を大きくしただけで何も答えなかった。だからもう一度同じ質問を投げかける。
「どう思ってる? 気持ちいい? それとも、やっぱり怖い?」
 彼の口が震えながら開かれた。
「こんなことしたくない――」
「自分から望んだのに? ラザー、俺に愛されてるって感じない? こんなに近くにいるのに、あんたの身体の中に入り込んだのに、それでも愛されてるって感じないのか? ただ犯されてるとしか感じなくて、痛みや悲しみが蓄積されるだけなのか?」
「違う、違うんだ、感じるのは……支配だ!」
 どきりとした。俺が彼の意思を尊重していないと言われたようなものだ。しかし今はそれが狙いだったかもしれない。俺はようやく彼の本音を聞き出すことができたのだから。
「そっか、支配か。確かにそれは傷つくよな。こんなこと、二度とやりたくないって思うようになるよな。じゃあ、ラザー。あんたを愛するにはどうすればいいんだ? 俺は何をすればあんたを満足させられる?」
「何を? 何をすればって、そんなこと――俺に聞かないでくれ、分からないんだよ!」
「うん、そうだと思ったよ。俺だって本当はよく分かってない。でもさ、きっと大人たちの答えは決まってる。キスとか抱擁とかセックスとか、そういうことが愛を伝える行為であって、言葉とか傍にいることとかが愛を感じさせる行為なんだ。それによって満足できるかどうかは共通した答えじゃない。もしラザーが満足したいと願うなら、ラザーは満足するように努力しなきゃならないんだ」
「努力? 努力って――お前の傍から離れることが努力に繋がるのか? 俺はお前から離れて生きて、お前の存在そのものを忘れられるように努力しなければならないって言いたいのかよ?」
「ちょっと待って、そういう意味じゃないよ。俺が言ったのはどんな行為があればラザーが満足できるのかってことで――」
「満足! そんなもの、汚いだけだ! 俺はそんなもの必要じゃない、快楽なんて、醜いだけじゃないか! ただの欲望だ、身体の欲望、それを満たして相手を捨てるくらいなら、どうして執拗に愛を見せびらかせてくるんだよ!」
「ラザー、落ち着けって!」
 言葉で伝えようとしても彼の考えがここにないなら、それはあらぬ方向へ旅立って戻ってこなくなってしまう。彼は俺を見上げるけれど、その目が俺の姿を本当に映しているかどうかは定かではなかった。俺は彼を落ち着かせる為に相手の白い腕をそっと撫でる。寒いと言っていた彼の身体はじんわりとした汗で湿っていた。
 いつまでも恐れて逃げ出してる場合じゃない。俺にとって本当に大切なものだけを持ち、その他の全てを捨ててもいい覚悟で望まなければ手にできないものがある。俺が彼のことを心の底から愛しているなら、どうしてそこに戸惑いが必要だろう。道は既に開かれている、俺はただひたすらに、そこへ向かって歩くだけだ。
 彼の上に身体を重ね合わせる。相手の呼吸音がより近くに感じられた。他には何の音もない、この部屋にはたったの二人だけ、俺と彼しか知らない世界がある。苦痛も悲劇も憎悪も通り過ぎ、絶望を見渡す瞳は愛を知ることとなった。そう、そこで生命が燃えるならば、飛び散るように消えゆく火の粉の影にそれが存在していたんだ。俺は口をつぐんで彼の上に倒れていた。そうして謝りたい衝動を抑え込み、彼の答えを待ち続けた。
 だけどもいくら待っていようと、彼の内側から何かを感じることはできなかった。彼が隠そうとしているわけじゃない、単純に彼の内に何もなかっただけだった。それに気が付いた途端に背筋が寒くなったけれど、理解したいと願う心が二人の世界を存続してくれていた。……

 

 +++++

 

 陽光が世界を埋め尽くしている間に俺はラザーを連れて師匠の家を訪れた。もう久しく見ることのなかった景色に驚き、でもそのおかげで自分は時間を逆流することを認められたのだと感じた。顔の上から陰を消すことのないラザーの手を握り、俺は小さな家の扉を開く。その先に広がるものは二人を分け隔てる壁であり、だけどそれは俺と彼とを救ってくれるものに相違なかった。
 小屋に入ると師匠と出くわした。相手は俺の顔を見て目を丸くした。そうしてゆっくりと口を開くけれど、そこから声が出てくるわけがなかったのだろう。俺はラザーが小屋に入ったことを確認してから扉を閉める。
「ほら、ラザー」
 俯いたままのラザーラスの背を押し、師匠の前へと誘導する。二人は一度目を合わせたけれど、すぐに視線を外して沈黙を貫いていた。双方がお互いのことを嫌悪しているわけではないことは分かっている。相手に対する怒りよりも、元のように遠慮を知らぬ態度で過ごすことを望んでいるのだろう。だから逃げ出すこともなく、でも心が弱っているからどうしていいのか分かっていない。俺はそっと二人の顔が平等に見える位置に立った。
「師匠、ラザーはあんたのところで暮らすべきだと思う。だからラザーを連れてきたんだ。でも、あんたはラザーに謝らなきゃならない」
「ラザー、俺は――俺はただ」
「言い訳は要らない。……一言でいいんだよ、分からないのか」
 ぱっと顔を上げた師匠の言葉を遮ると、目を細くしたラザーがゆっくりと目の前の男を見た。その口は堅く閉ざされている。
「――ごめん」
 大人の口から消えそうな声が漏れる。
「俺が悪かったよ。お前が苦しんでるって気付かなくて、何が起きてるのかも知ってたのに、ずっとお前を助けてやれなかった。だから、ごめん。許してくれとは言わないけど、仲直り……してくれないか?」
 ラザーは腕を組んだ。二人の瞳は交叉している。
「……そ、そうだ。そろそろお昼だよな。君たちもうご飯は済ませた? もしまだだったら俺が何か作るから」
「そうだな。そうしてくれよ」
 何も答えないラザーの代わりに俺が返事をした。師匠は一度俺の顔を見てから隠れるように廊下の先へと消えていった。
「ラザー、まだ怒ってる?」
「あんな奴なんか信用したくないし、口も利きたくない。俺がここに来たのは、樹、お前がそうするべきだって言ったからだ」
「うん、分かってるよ」
 彼の気持ちなら分かっているはずだった。深い部分で繋がり合った関係なら、目を合わせるだけで心が通じ合うものと思っていた。だから常に一緒にいる必要はなくて、適度な距離を置きつつ付き合わなけりゃいつかは崩壊すると気付いたんだ。
 そっと相手の手を握る。彼は怯えたように手を引っ込める。それを追いかけて捕まえ、両手でぎゅっと包み込んだ。目の奥で燃える生命の光に永遠の可能性と責任とを見出す。それはまるであの時燃えたエダの兄の小屋みたいだった。俺は彼の手を引いて広間の机へと誘導する。そこにある木造の椅子を一つだけ選び、大人しい彼を大事そうに両手を使って座らせた。そのすぐ隣の席に自分も腰を下ろす。
 机の上には赤いカーネーションが咲いていた。あの時ラザーが切ってしまった花が花瓶の中で息づいている。月日が経って変わったもの、変わらずにここにあるもの、変えたつもりなのに変わっていないもの、そして変わっているのに誰にも気付かれず変わらぬものと認識されているもの、それら全てがこの視界の中でものも言わず蠢いているような気がした。そっとカーネーションに手を伸ばして触れる。もしこの花があの時のものと同じなら、どうして生き返ることができたのかと問い詰めたくなっただろう。俺は同じものを探しているんだ。まだ何も起こっていなかった頃、あの頃と同じものを見つけたなら、そのまま心身共に吸い込まれて全て元に戻ってしまうんじゃないかって、空想のようなことを期待している。俺はラザーを救おうと意識したことに対し後悔でもしているのだろうか? あんなに必死になって追い求めて、幾度も失望と幻滅を繰り返しながら、闇の奥に供えられていた金の杯に躊躇いも忘れて口を付けた自分の姿は、後悔などという無骨な鎧とは違った薄いベール状の本音だったのだろう。救うべき人を手放して、彼に孤独の味を覚えさせようと画策している俺は、もう二度と悔やんだり過去を羨んだりしてはならない。目に映すのは未来だけ――この先に何が待ち構えていようと、それらを破壊しつつ前へ突き進んでいかなければならないんだ。たとえそれが俺や彼を傷つけるものであったとしても、もっと先にあるものを見る為には必要な犠牲と割り切らねばならない。そのせいで生じた悲しみなら、あの得体の知れぬ空虚よりも安心して迎えられるはずだった。
 しばらくすると部屋の奥から師匠が戻ってきて、俺とラザーは彼に昼食をふるまわれた。なんだか久しぶりに普通の食事をした気がしたが、俺の隣に座っている青年が決して口を開こうとしなかったので、舌の上で転がす何もかもが酸っぱい味をしているように感じられた。
「ラザーも食べたら? これ、美味しいよ」
 俺は平気で嘘をつく。これは身を守る為の嘘だっただろうか。
「いらない」
「一口くらい食べてみろよ」
 手元に目をやると手で握っているフォークにレタスが絡まっている様が見えた。そしてようやく俺は自分がどんな料理を食べているのかさえ知らなかったことに気付く。レタスを口に運んでも酸っぱい味がするだけだった。自分の口から出た美味しいという言葉が信用できなくなる。
 そうやって価値も何もない昼食を終えて、俺は家に帰ろうと考えた。恐ろしげな別れの時が二人の眼前に迫っていたが、俺も彼ももう何も言わなかった。
 小屋の扉を開け、草原の広がる大地へと踏み出す。傾きかけた太陽がじんわりとした湿気を帯びていた。扉の方へと振り返るとラザーがそこに立っていた。俺よりも背の高い、普段よりも優しげなのに悲しい色をした双眸が俺の姿だけを映していた。
「じゃあ、これで……」
「樹」
 彼の手が俺の腕を掴む。
 何か言いたいならぶちまけてしまえ。その方がいい、すっと楽になるから。
「また明日、学校で会おう」
「あ――」
「え、何?」
「……」
 黙り込んだ相手は縮こまったように俯いてしまう。彼は俺の腕から離した手をぎゅっと握り締めていた。その苛立ちを沈められる穏やかさは、彼の中にしか生まれないものだった。
「本当に、お前の言うことを聞いていたら……幸せになれるのか」
 呟くように漏れ出した声は震えているわけでもなく、未来に幾らかの期待を抱いているもののように聞こえていた。すっかり閉ざして鍵さえ踏みつけていたあの銀縁の扉も、ようやく陽の光を受け入れるようになったのか、或いはやはり強引に開かなければ中の風景には会えないのか。
「なれるよ。きっとラザーは幸せになれる」
「だったらどうして、こんなに苦しいんだ!」
 両手が伸びてきて肩を掴まれた。想像していたより大きな力が込められていて驚いた。ぐっと開かれている瞳に苦痛の色がはっきりと浮かんでいる。それが満たされない願望だとして、自分ではない人の中にある空虚をどのように処理すれば救うことができるだろう!
 どうにもできないことをどうにかしようとするのは、どうしようもないことだと諦める必要がある。後ろ指をさされて逃げ出したとしても、俺は俺であってラザーじゃないんだ。
「苦しいのは今だけだよ。時が過ぎれば、いろんなことを忘れられる。以前のように離れて暮らして、俺がいなくなってしまえば、その頃はきっと俺のことなんてどうでもいいって思ってるよ。ラザーは俺のことを本当に愛しているわけじゃないんだ」
「どうしてそんな、そんなことを言う! お前は俺のことを信じていないのか、俺はお前を信じたいと思ってるのに!」
「信じてないわけじゃない。でもラザーが言ってることと俺が思っていることは違ってるんだ。だからラザーは俺の言うことが理解できなくて苦しんでる。俺にはその痛みを大きくすることはできても、あんたの中からそいつを追い出すことはできないんだ。だから……さよなら」
 一歩だけ足を後退させる。それだけなのに風に叱られた心地がした。
「さよなら。さようなら」
 何も言えなくなっていた。それを誤魔化す為に彼の手からするりと逃れる。何か言いたげな彼の唇を捨て置いて背を向けた。二度はないことも分かっていたくせに、俺は巧く自分を演じなければならなかった。

 

 

 空色の目が俺を見ている。まばたきもしないままで、遠い未来を夢見るかのように、俺の全てを貫いてあらゆるものを破壊していた。
 手の中には手紙があった。一度目を通しただけで頭の中を支配された文章が、今は眠りについて緩やかな静寂の波を引き寄せている。
 優しげな月の光が世界を包み込むのなら、手を伸ばせばどこにだって届くはずだと思っていた。
 嫉妬も憧れも何もない。
 俺は彼の残した重圧を愛しく感じながら引きちぎり、ばらばらになる光輝を見送って肺の空気を一滴も逃さず吐き出した。そうして幻想に紛れていた現実を見つける。
 いつかの夜空で微笑んでいた月は、二人が望んだ幸せを知っているのだと感じた。波の上を滑るように流れる紙片を目で追いながら、あの日見上げた月を思い出し、存在しない地で待ち続けているあの人の顔を思い浮かべていた――。

 

 

 

 

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