月のない夜に

 

 

 何本もの腕に引っ張られ、何時間もの暴力を受け続け、何人もの瞳に蔑まれる。人々は俺の姿を見て笑い、見えないところで陰口を叩き、優しげな顔をしながらも最後は見捨てて消えてしまう。俺を背中から抱き締めるのは愛を教える人間で、だけど信じたいと願った者はそれはほんの一片に過ぎないと言い放った。何を信じていいか分からなくなっても、俺にはもう彼しか残されていなかったから、彼の全てを受け入れて彼だけを見て生きていこうと決めたんだ。
『死ね、さっさと死ね! お前なんか――早く死んでしまえ、この悪魔が!』
 目の前の男が怒りを持っている。手に持った鞭が何度も視界の端から端へと通過して、白かった身体に赤い傷跡が飽きることなく作られていた。
『お前を愛してやる。何日も、何年も、休むことなく愛し続けてやる。だってそうして欲しいんだろう? だから仕方なく愛するのさ、お前なんか嫌いだが、身体だけなら愛してやることができるから』
 背中から胸に回された腕がぬくもりを落としていた。擦り合わされる手のひらから眩しい炎が溢れ出し、徐々に身体じゅうに広がって全身をすっぽりと包み込んでしまう。
『何をしている? お前は何も考えず、命令に従っていればいいだけだ。余計なことを考えるな』
 髪を引っ張られた。多くの人が自分を見下ろしている。口の中に指を入れられて、感覚を失った舌を強い力で引っ張られた。
「あ――」
 まばたきをすると黒い天井が嘲笑っている。頭上に持ち上げられた両手は手錠により自由を奪われ、開いた両脚の間に大きな影が迫っている。それは笑いながら近付いてきて、密着したかと思うと即座に俺を殺してしまった。
『もっと鳴け、叫べ! 愉しませろよ、ロイ――』
 相手の顔に見覚えはない。知らない男に襲われて、何も思うことがないくらいそれは「普通」に変わり果ててしまっていた。
 誰にも知られたくなくて黙っていた。隠そうと必死だったから抜け出せなくなった。それでも犠牲になることで心地よさを感じていたのなら、俺はもう凌辱など取るに足りないものと笑い飛ばすことができたはずだろう。
『ああ、汚れてしまった。惨めな奴! そんな身体を隠しながらお友達と握手を交わすなんて、お前はとんでもない化け物だよ!』
 息苦しくて涙が出る。また見捨てられるかと思うと、淋しくて声を張り上げたくなってくる。身体と身体が離れる瞬間がどうしようもなく嫌いだった。あんなに乱暴を恐れていたはずなのに、相手の体温がなくなったなら今度はそれを求めてしまう自分がいた。そうやってぐるぐる回っているんだ。
『樹、お前を愛している、愛しているんだ――どうか信じてくれ!』
 彼の中を犯して、俺は一体何をしようとしていたのか。彼は優しいから黙っていてくれる。俺の間違いを指摘して、どうすればいいのかを事細かに教えてくれる。それを受け入れられない俺は愚かなのか? 彼の示す道を望みながら、どうして素直に打ち明けることができなかったのか。
『だって、可哀想だもの……一人きりで、淋しげで。だから私は、あなたと一緒に行くことができない』
『そして犠牲になるんだ。あの人を信じているなら、あの子を守りたいと願うならば、お前は身体を捨てなければならない。そうすることでしかこの世界では生きられないんだ』
 たくさんの腕が近付いてくる。身体のあらゆる場所を強い力で掴まれて、胸の内から足の指先まで全身が熱く燃え上がっている心地がした。頭上から汚い液体が降ってくる。その濁りを目で追いながら、次に起こるであろう恐ろしいものを頭の中だけで思い描いていく。

 

 

 目を覚ますと身体じゅうが汗で湿っていた。俺を怯えさせる夢は終わり、ずしりとした疲れが重力のようにのしかかってくる。すっかり重くなった身体を起こして床の上に足を投げ出すと、幾日も過ごした自分の部屋が俺の姿をじっと見ているようだった。なんだか頭が痛くなって片手で額を押さえつけた。
 床の上に畳んで置かれていた学校の制服に着替え、机の上にある空の鞄を手に持つ。そこに携帯電話だけを放り込み、手鏡と櫛を探す為に机の引き出しを開けた。
「ラザー? 起きたのか?」
 扉の向こうから声が聞こえた。聞きたくなんかなかった声だった。俺はそれを無視し、見つけ出した手鏡と櫛を使って髪を整え始める。少しだけ相手は黙っていたが、やがて無断で扉を開いて部屋の中に足を踏み入れてきた。
「起きてるなら返事くらいしてくれてもいいじゃないか」
 彼と言葉を交わしたくなかった。挨拶も毒舌も、彼なんかに俺の一部を見せたくない。
 手鏡と櫛を鞄の中に入れ、俺は彼を押し退けて部屋の外へ出る。相手は腕を掴んで俺の行為を止めようとした。それでも俺が強く睨み返したなら、彼はそれ以上抵抗せずに大人しく引き下がった。
「おい、朝食は――」
 廊下を歩き、家の外に出ると彼の煩い声が聞こえなくなった。それで良かったはずだった。俺を救ってくれない大人なんて信用できない。気付いていたのに黙っていた奴なんて、この広い大地の上でくたばってしまえばいいんだ。
 学校に行くと教室の中には誰もいなかった。自分の席に座ると何か大きな違和感を覚えた。すぐ隣に窓がなくて、だから知らない間に席替えをしていたことに気が付いた。俺はまたあの鉄格子の中に逆戻りしているんじゃないかと思った。そう考えただけで足が震え始める。強要される重労働なんて苦にもならない、髪を切られることもみすぼらしい服を着せられることも我慢できる、でも労働の合間に近寄ってくる連中との遊びだけはどうしようもなく嫌だった。全然知らない奴、大勢で脅して仲間を呼んで、そんな奴らが俺だけを取り囲んでいる。もうあそこには戻りたくないのに、どうして今こんな気持ちにならなければならないんだろう。
「おはよう」
 呼び声に反応し顔を上げると、黒髪に隠れた茶色い瞳が俺の姿を見つめていた。それは俺が待ち続けていた光に他ならない。
「ああ、おはよう」
 どうにかして笑顔を作ると、相手もまた美しい微笑みを見せてくれた。
 相手は俺の姿を見ている。俺のことだけを見ている。この瞬間がどうしようもなく愛しくて、このまま時が止まったとしても俺は満足することができただろう。何より他の誰でもない俺だけに向けられた視線が嬉しかった。なんだかそれは、彼にとって俺が必要な人間だと言っているように感じられて、俺もまた彼を必要としていたから、お互いの心が通じ合っているような気がしたんだ。
「樹」
 彼の名前を口にすると、それだけで心が溶けてしまいそうになる。
「何?」
「ちゃんと……学校に来たぞ」
「うん、そうだな。ラザーならきっと来てくれるって思ってたよ。せっかく学校に来たんだし、一緒に授業頑張ろうな。……そういえば、今日はラザーの得意な数学も体育もあるんだ。他の授業はつまらなくても、この二つは退屈しないと思うよ」
 彼の手が俺のものに重ねられた。どういうわけか心臓の鼓動が速まってくる。もう一度名前を呼びたくて口を開いた。だけど唇が震えて上手く声が出てこない。
 相手の姿が世界の中に溶け込んでいた。平和な世界、何も恐ろしいことなどない、つまらなくて繊細な、俺がずっと憧れ続けていた世界に彼は仲間と共に暮らしていた。おかしな道に引き込んだのは俺だ。世の暗闇を見せて、俺を愛して欲しいと懇願して、彼は人が好いから素直に従ってくれていた。そしてそれが終わったから捨てられたんだ――彼はもう、俺の隣から遠ざかると言った。俺なんか愛するに値しない人間だと判断したんだ。
 人々が集まり、授業が始まると、どうしようもなく懐かしい感覚に襲われる。でもそこに幾らかの距離を感じた。俺はこの場に似合っていなくて、後ろから腕を引っ張る何かが俺の滑稽さを笑っていた。
 耐えられなくなって授業の途中で抜け出した。いつもの屋上に向かい、遠い景色を求めて風の中に身を投じる。
 俺はまた一人きりだ。誰にも知られず、独りぼっちでここに立っている。夜まで待っていればエダが来るだろうか。あいつが俺を探しに来て、俺は悪態をつきながらもあいつの乱暴に酔いしれるのだろうか。苦しいと思っていたあの日々は、本当は俺にとって何よりも愛しい経験だったのではないだろうか。あいつに触れられ、あいつの体温を感じ、耳元で罵声を聞き、身体の奥まで支配される痛みも、その全てが彼の見せる愛情の表現だったのだろう。彼は俺を求めてたんだ。他の誰でもない、ヨウトでもケキでも駄目で、俺という一人の人間を求めてここまで来た。ああ俺はあいつに何を言っただろう――俺を愛してくれていたあいつに向かって、どんな酷い言葉を浴びせたんだろう!
 いや、それはおかしなことだ。彼が俺を愛していただって! 口の上ではそう言っていた。でも、それならどうしてあんな暴力を振るう? 愛してるんなら傷つけたりしないはずだ。アニスみたいに優しく受け止めてくれるはずだ! だけど、それでも愛しているのかもしれない。あいつにとっての方法がそれで、俺の理解が足りないから分からないだけなんだろう。樹だってそう言っていたじゃないか、愛は暴力にも成り得るんだって! 暴力は怖いけれど、愛されたいと願うならそれも黙って許容すべきなのか? 相手の愛する方法を全身で受け止めながら、何も言わずに彼の燃えている瞳の奥まで見つめていなければならないのか?
 愛して欲しかった。誰でもいい、俺を愛して欲しい。そのせいで動けなくなってるんだ。胸が苦しくなって、空に飲み込まれてしまいそうになる。だけどそうやって愛を求めたとしても、それを手にした瞬間には突然に恐ろしさを感じ、だから俺は愛情を信じられなくなってしまうのだろう。その場限りの感情なんて不安定だ。俺が欲しいのはずっと変わらないもの――人々が永遠と名付けた形のないものを探し続けているのに、どうして俺はそれを手にすることができないのだろう?
「ラザーラス君?」
 俺の名を呼ぶ声があった。振り返ると眩しい姿の少女が立っている。彼女はゆっくりとこちらに近付き、俺の目だけを見つめているようだった。
「せっかく久しぶりに会えたのに、そんなに授業……つまらない?」
 すぐ傍まで来た相手は俺の顔を見上げている。その目の位置は、樹よりも少しだけ低かった。
「俺はあそこにいてはならないんだ」
「どうして? あなただって私と同じ、あのクラスの一員じゃない」
「お前らと同じなんかじゃない」
 嘘だった。俺は嘘をついている。ただあの場の空気に耐えられなかっただけだった。樹と同じ空間にいるはずなのに、彼の気持ちが見えてこないもどかしさが俺を押し潰していただけなんだ。
「あなたがそう言うのなら……私は何も口出ししない。それで、ねえ、ラザーラス君。バレンタインに私が言ったこと、覚えてる?」
「ああ――」
 冷たい風が俺とあかりの髪をなびかせる。本当ならもっと長いはずだった髪は、遠い昔に地面の底へと埋められてしまったままだった。その地点の記憶さえ俺の中には残っていない。
「私と……付き合ってほしいの。強制はしないけど、でも、私はあなたのことが好きだから」
 彼女の瞳に何かが揺れていた。
「付き合うって何だ」
「え? それは――恋人になるってこと、でしょ? どうしてそんなことを聞くの?」
「恋人になったら、それでどうするんだ? その代名詞を掲げて終わりか? だったら何の意味もないことじゃないか。俺は意味のないことをしたくないんだよ」
「意味がないことなんてないわ! 恋人になったら、二人で一緒に過ごして、楽しいこともつらいことも、いろんなことを分かち合って生きていくのよ。それってとても素晴らしいことでしょ?」
「ふん、つまらんな」
 そんなものは恋愛ごっこと同じだ。俺の求める愛とは違いすぎる。子供なんかに期待すべきじゃなかったんだ、それなのにどうして俺は今も樹に夢中になっている? だって彼なら――あの光の魂である彼だったなら、俺の知らない世界を教えてくれるような気がしたんだ。どこにもないと思い込んでいたあの地に導いてくれると確かに感じたんだ!
「ねえ、ラザー。たとえ今は信じられなくても、付き合ってみれば考え方も変わるかもしれないと思うの。だから、少しだけ試してみない?」
 あかりは笑っていなかった。きっと彼女にとってこれは深刻な問題なのだろう。俺は彼女に対し何ができるだろう。この広い世界の中で偶然出会った少女に対し、一体何をしてあげれば普通に暮らせるというのだろう。
 相手の腕に手を伸ばす。樹よりも細い手首を掴み、ぐいと手元に引き寄せた。そのまま彼女の小さな背に腕を回し、顎を少し上げさせ、驚く瞳に深い色を感じながら唇を重ねる。
 やわらかい唇がかすかに震えていた。相手の息が自分の中に入ってくる。密着した部位からあたたかな何かがうごめいて、風の冷たさなど二人の元へ届く前に叩き落とされてしまっていた。
 口を離すと潤んだ目が俺を見上げていた。どうして彼女は泣き出しそうな顔をしているのか、そんなことを理解しようとする意思など俺の中には存在しなかった。もう一度別の方向から唇を重ねる。相手の身体をぎゅっと抱き締め、壊れてしまわないように気を付けながらゆっくりと地面に横たわらせた。
 身体を少しだけ起こし、彼女の制服に手を伸ばす。リボンを外そうと指を動かしているとさっと手首を掴まれた。
「あ、あの……何をする気?」
 俺の動作を止めた相手は何やら不安げな顔をしていた。彼女は何を聞いている? ああそうか、きっと初めてだから驚いているんだな。樹だって最初は驚いていた。もう忘れてしまったけど、俺も初めての時は驚いていたんだろうな。
「心配しなくていい、痛くはしないから」
「そういうことじゃなくて、私、それはまだ……」
「まだ?」
「だって、私たち高校生じゃない! そんなの早すぎるわ、大人になってからすることでしょ?」
 大人とか子供とか、どうして年齢で区別しようとする? どちらにせよ人が人を愛する行為に他ならない。それなのになぜ彼女はそれを否定するんだろう? 恋人になって欲しいだなんて言いながら、俺を本気で愛することもしないのだろうか?
「恋人って、こういうことをするんじゃないのか」
「だからそれは、大人になって、結婚してからで――」
「結婚? 何だそれは」
「え……」
 ふっと彼女の目の色が変わった。俺の言葉が理解できなかったらしい。理解できないことを言っているのは相手の方なのに、あかりは俺の顔を見上げながら純粋に驚きの表情を浮かべていた。
「お前は俺のことが好きなんだろ?」
「え、ええ。好きよ。あなたが好き。あなたと付き合いたいって思ってるの」
「それは、つまり俺を愛してくれるということじゃないのか? それなのにどうして拒むんだ?」
「だから――まだ早すぎるって、言ったじゃない」
「早いって何だよ! だったらいつになれば許してくれるんだ! 俺はそれまで待てないんだ、誰でもいいから……愛して欲しいんだよ!」
 相手の手を振り払ってリボンを手で引っ張る。胸元に手を突っ込み、無理に制服を脱がせようとすると何かが絡まってしまった。それは相手の髪だった。指の間にくっついて、俺の手は身動きが取れなくなっていた。
 一つ息を吐き出して落ち着くと、彼女の髪は簡単にするりとほどけてしまった。もう一度胸元に手を忍ばせ、相手の制服を丁寧に脱がせる。シャツの下に手を滑らせると愛おしいくらいの体温を感じた。この身体がもうすぐ自分のものになるのだと考えると、どうしてだか背筋がぞくぞくとした。
「ラザー、あなた……本気で、しようと――?」
「怖がらなくていい。お前を苦しめたいわけじゃないんだ。ただ俺のことを愛してくれればいい」
 相手は口をつぐんだ。もう否定はしなかった。そっとシャツを捲り上げ、寒空の下に少女の白い肌が露わになる。細い太ももに手を乗せ、くっと俯いて綺麗な肌に舌を這わせた。
 彼女が俺の手の中にあった。俺に反抗することもなく、黙って従うだけの都合のいい存在だった。ただ彼女は俺を愛してくれていることだけははっきりとしている。だって彼女の方から寄ってきたんだ、俺は何もしていないのに、彼女は俺を愛しているらしい。そこに利用を押し付けるのは単なる暴力なのだろうか?
 ぐっと足を持って折り曲げる。空いた片方の手では自分のベルトに触れ、それを外して地面に捨てた。もうすぐ彼女が俺を愛するんだ。昨日は樹に愛されたはずなのに、どうしてもう何年も愛されたことがなかったように感じられるんだろう? 早く彼女の中に入り込みたかった。焦りが手の動きを抑制し、なかなかズボンを下ろすことができない。
 身体の中が熱くなり、徐々に息が乱れてくる。口の中には唾液が溢れていた。目の前の景色がぼんやりしたりはっきりしたりして、遠近感が掴めなくてなんだか眩暈がした。隣の世界が一瞬間だけ速度を増す。
「何をしているんだ」
 聞こえてきた声にはっとする。あまりに聞き慣れたはずのそれを確かめる為、気付かぬうちに俺の腕を掴んでいた人の姿を見上げた。
「何をしてるんだ、ラザー。もう授業が始まる時間だぞ」
 それは彼だった。愛しい人、誰よりも愛して欲しい人だった! 樹が俺の腕を掴み、俺の行動を抑止している。俺の姿を見下ろしながら、どこか恐ろしい目ですぐ傍に立っていた。やっと彼が来てくれた。やはり彼は俺を見捨てたわけじゃなかったんだ! ああ、よかった! 俺はまだ彼に頼っても構わないんだ!
「樹!」
 力を込めずとも立ち上がることができた。そのまま倒れ込むように相手を抱き締める。この感覚が俺を生かしてくれる。これがなければすぐに駄目になってしまうんだ!
「離れろよ、ラザー」
「意地の悪いことを言うな……いいじゃないか、誰も見てないんだから」
「そういう問題じゃないだろ。俺はラザーの恋人じゃないんだから、こういうことされたら迷惑なんだよ」
 耳元で囁いてきた声に痛いくらいの棘を感じた。彼の言葉の意味が頭の中で処理し切れない。
「早く離れろ」
 引き離す。また引き離すんだ、彼は。
 あの時の言葉は夢じゃないと告げられた気がした。いいや、分かっていたはずだ。身体に力が入らなくなり、俺は彼から一歩だけ離れた。相手は地面にしゃがみ込み、俺が捨てたベルトを手に持って立ち上がった。
「誰彼構わず抱こうとするな。上野さんはラザーのことが好きなんだから、彼女のことを悲しませるようなことをするな」
「俺はそんなつもりじゃなかった、あいつが恋人になって欲しいって言ってきたから――」
「ラザー。恋人になることとセックスをすることはイコールじゃないんだ。ラザーはそれを知らなきゃならない」
 彼はベルトを差し出してきた。俺はそれを受け取り、口をつぐんで装着する。
 くるりと踵を返した相手は、何事もなかったかのように俺の元から離れていく。どうにかして呼び止めようと俺は頭の中でたくさんの理由を生成した。ここで声を上げなければ二度と立ち止まってくれないと強く感じた。だけど彼は俺の気持ちを知らず、どんどんと距離を高く積み上げ、やがて影さえもが俺の目に映らなくなってしまった。俺は彼に声を掛けることができなかった。そうしなきゃ彼を止めることはできないのに、なぜ声が出なくなったんだろう? あの夜にはあんなに簡単に全てが上手くいったというのに!
「ラザー、あの……」
 後ろから弱々しい声が風によって届けられた。彼女は不安げにこちらの姿を見つめている。そうやってずっと俺のことを見ていればいいんだ。他のものなんて存在しない、お前の世界には俺しかいないんだから。
 いや、何を――俺は何を考えている? 子供に期待してはいけないと、そう考え直したばかりじゃないか! また同じ過ちを繰り返す気か? 進歩のない奴、学習することを忘れ、怠惰に身を沈ませたあの卑しい罪人の如く、黒い天井の元へとどうして戻らなければならないのか! 彼女に触れてはならないんだ。これまでに何度も感じたように、俺は彼女らの世界にとって害となる存在でしかないんだから。だとすれば、ああ俺は、ここから消えなければならなかった。誰かが心配してくれたとしても、その煌めきを手にすることは許されなくて、彼らを汚してしまう手では光を握り潰すことしかできない。そうやって、俺は、あいつの優しさを一つ残らず破壊してしまったんだ! 嫌われて当然だ、あいつの人生を狂わせて、嫌がることばかり押し付けて、不安定な弱さをわざと見せつけるなんて、どうして俺はそんなことをしてしまったんだろう――愛されたかったのに嫌われてしまった! その理由は全て俺の中にある、彼に責任を求めるのは間違った解釈だったんだ!
 眩暈がする。何もかもが終焉に向かって走っていた。見上げた空が高すぎて息をすることさえ苦しくなる。皆が俺を見捨て、唾を吐き捨てる姿がはっきりと目蓋の裏に浮かび上がっていた。
 誰かの声が聞こえた気がした。両手で耳を塞いだせいで何を言っているのかは分からなかった。ふっと人の気配が消え、広い世界に独りぼっちになる。
 俺から生まれる音が俺の耳に届き、俺の中から放たれた熱が俺の肌を温めていた。床に水滴が落ち、雨が降ってきたのだと思った。だけどいつになっても俺の身体が雨によって濡らされる瞬間は訪れなかった。どうしてという言葉だけがこの世を支配してしまいそうだった。
 何が彼の気に障ったのか、いくら考えても事実の欠片さえ見えてこない。はっきりした結末だけが俺の前に君臨していて、俺はただ怯えながらがたがたと震えているだけだった。これから俺はどうやって生きればいいのだろう。彼の愛情を失って、師匠との仲も改善できなくて、嫌われると分かっているヤウラの元に逃げ込むこともできなくて――誰に頼ることもできなくなってしまったんだ。そんなこと、あの頃と同じなのに、なぜこんなに苦しくなって、不安ばかりが心に押し寄せてくるんだろう? それは一度優しさを知ってしまったからだ。たった一度きりの経験でも、これまでより良いものを感じることができたなら、その過去の栄光に目がくらんで現在の状態に満足できなくなる。ただそれだけのこと、ありふれた虚無なんだ。俺がおかしくなったわけじゃない。俺はまだ普通でいられるんだ、そうだろう?
 顔を上げると青い空が見えた。誰もいなくなった屋上で一人きり、俺は全ての人に忘れられた者となったのだと静かに感じた。

 

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「おかえり」
 扉を開けた途端に声が飛んできて、彼は俺の帰りを待ち構えていたことが分かった。それを無視して相手の隣を通り過ぎる。
 自分の部屋に入ると鍵をきちんと掛けておいた。鞄を床の上に放り投げ、窮屈な制服の上着を脱ぐ。ベッドの上に身を投じるとずぶずぶと身体全体が沈んでいった。目に見える世界が限られたものとなり、それが心地よくて酔ってしまいそうになる。
 このまま眠ってしまいたかった。今が何時だろうと関係ない、誰もがそれを許さなくとも俺がしたいことをするだけのことだった。行きたい場所に向かうだけ、誰もかもが顔を背けているだけ。俺を必要とする人は一人も存在しなくって、俺もまた誰かを求めているわけじゃなかったんだ。
『嘘ばっかり』
 唐突に降ってきた声にはっとする。ぐるりと体を回転させると天井との間にぼやけたロイの顔が見えた気がした。
『可哀想な人。愛されて、捨てられたんだね。信用なんかするからだ、あんな奴のことなんて、遊びと割り切っておかなきゃならなかった』
「遊びじゃない」
『そうやって本気になるから弄ばれたんだよ。他人なんて信用するもんじゃない』
 たとえそうだとしても、俺は樹のことを信じたかった。彼の言う通りにしていれば自分は幸せになれるのだと思い込もうとしていた。だってあいつがそう言っていたんだ、あの愛しい二つの瞳が、俺の心を突き動かして俺はすっかり引きずり込まれてしまったのだろう。俺は彼を信じたいと願った。今まで誰も信用しなかった俺が、自分でも驚くくらい彼にのめり込み依存していることがよく分かっていた。
『馬鹿な奴! ずっと一緒にいられるわけでもないのに』
 耳を塞ぐ。
 目も閉じようと目蓋に力を込めると吹き付けた風が髪を揺らした。何事かとまばたきをした目がその正体を探って右往左往する。腕を引っ張られて身体を起こされ、おかげで相手の青い髪がよく見えるようになった。ちゃんと鍵を掛けたはずなのに無神経な男が部屋の空気を吸っていたんだ。
「ラザー、その……俺が悪かったのは分かってる。謝って欲しいんなら、いくらでも謝るよ。本当に悪かった。これからはおかしなことに気が付いたらお前に相談して、きっと力になるって約束する。だから――お願いだから、口をきいてくれ、ラザー」
 彼の目が潤んでいるように見える。大人のくせに嫌われただけで泣くのか。情けない、こんな奴なんかを、俺は一体どうして頼りにしていたんだ? 途中までは協力してくれてもいざという間際になると逃げ出すんだろう。俺だけを置き去りにして、どこまで走れば気が済むんだ?
 ふいと目を背ける。その拍子に腕を引かれ、身体が浮いて相手の胸へと倒れ込んだ。そのまま背中に手を回され、強い力で抱き締められる。
「離せ!」
 叫んで暴れても力が込められていて離れられなかった。つい声を上げてしまったことを後悔しすぐに口をつぐんだが、相手はそれに気が付いていない様子だった。
「どうすればいい? どうすれば仲直りしてくれるんだ? こんなにお前のことを想っているのに、何をすれば機嫌を直してくれるんだよ!」
 不器用な人だった。こんな押し付けるような方法じゃ、人の心を動かすことができるわけがないのに。まるで自分を見ているようで嫌になる。
「その手を離せ」
「仲直りしてくれるまで離さない」
 届いた声が俺を苛立たせた。そもそもこいつの言う「仲直り」という概念が不明瞭だ。顔のすぐ隣にあるくせ毛が首にまとわりつき、俺は彼と仲直りをしなければこの髪で首を絞められるのではないかと思えてきた。ぴったりとくっついた彼の身体から確かな脈が感じられる。
 何をすればいいのか分からなくてじっとしていた。もう声を上げることもなく、相手が呆れて離れてしまう時を待っていた。
 そうやって時間ばかりが動いてゆく。窓の外に見える景色が徐々にオレンジに染まっていく過程がよく分かった。流れる雲が窓の端に消えて新しい雲が生成される道順が示されていた。吹き付ける風に押されることもなく飛ぶ鳥が自然の中で生き、でも自由ではないことが怯える彼らを見て理解できた。俺を抱いたまま微動だにしない彼は、これまでずっと人から離れた場所で暮らしていたのだろう。だとすれば、俺が抱え込んでいる暗闇は彼に理解できるものなのだろうか? 低俗で猥雑な、こんな狂気的な隠し事なんて、本当は誰も理解できないものなんじゃないだろうか。分かってくれるのはあの人だけ――彼だけが俺の痛みや苦しみに安寧を与え、根本から癒し浄化してくれる唯一の人間だった。
 少しも動かないから彼が起きているかどうか分からなかった。俺を抱いたまま死んでいるんじゃないかという疑惑さえ浮かんでくる。だけど彼が俺に触れている箇所から感じられる体温が愛しくて、無理に離れようとする努力ができなくなってしまっていた。
 空が闇色に包まれた頃まで俺は彼に囚われていた。星の光が夜空にぽつぽつと現れ、雲の切れ間から月光がちらりと覗く様を眺めていると、やっとのことで彼が息を大きく吐き出した。続いて小さな呟きが耳の奥にまで響いてくる。
「どうしてお前は、こんなにも頑固なのかね」
 相手はすっと身体を離した。ただその手だけはまだ肩の上に乗せられていた。そうして俺の目をじっと見つめてくる。
「分かった。お前の言うことを何でも聞いてやる。これからはお前を子供扱いしたりしない」
 俺はなんとなく彼の目を見つめ返していた。そこに含まれる後付けの理由などどうでもいい。
「ふん、そうかよ。だったら俺を悦ばせてみろよ」
 彼になどできるものか。俺を腹の底から愛し、騙して、痛みの隙間にある幸福を呼び覚ますことができるのは樹しかいないはずだった。もしそれが彼にもできる技だったなら、俺は相手のことを認めてやってもいいと思った。どうせできはしない、あんな気持ちになる相手なんて、この世に樹しかいないんだから。
「悦ばせるって、どういうこと――」
 彼の目が不思議そうに煌めいた。ほら、そんなことすら分からない。なんだか可笑しくて口元が緩んだ。肩に置かれていた相手の手を振り払い、ベッドから床に下りて戸惑う彼の身体をぐいと引っ張った。
 正面から向き合う形を作り、俺はしゃがみ込んで彼の腰にあるベルトを掴む。頭の中は相手を驚かせてやろうという子供っぽい悪戯心で溢れていた。抵抗しない彼のベルトを外してズボンに手を掛け、そのまま床の上にずり下ろす。
「おい、何をしようとしている」
 相手は怒っているような声を出した。手で相手のものを掴み、その大きさを確認する。なかなかどうして、彼には何か惹かれるものがあった。こんなに立派な大人が戸惑う様をもっと眺めてみたいと考えてしまう。口内に充満した唾を飲み込み、相手の股間にぐっと顔を近付ける。
「よせ、馬鹿なことを――」
 頭の上に手が乗せられた。そうだ、俺はこれが欲しかったんだ。この威圧的な抑止の手も、乱暴で粗雑な強制の拳も、俺がこの生を全うする為に必要な要素だったんだ。戻れない――全て忘れていた頃になど、あらゆるものを思い出してしまった俺なんかじゃ、ただ下へ下へと堕ちていく他に道など用意されてなかったんだ! 昼間に止められたせいだろうか、どうしようもなく愛が欲しかった。普段は嫌で嫌で仕方がなかった行為なのに、なぜ俺は自らそれを求めようとしているのか?
 昔の記憶が語りかけ、俺の知る限りでの最善の方法で唇と舌とを動かした。吸い込めるものは全て吸い込み、吐き出すべきものも無理に喉の奥に流し込んだ。彼が支配する領域が広くなったことを感じ、俺の手でも誰かを悦ばせることができる快感に浸ろうと考えた。
「おい、ラザー! お前は……」
「何をそんなに慌てている? まさか初めてってことはないんだろう?」
「そんなこと、もう忘れた――」
「くくっ、そうか。だったら黙って従っていろよ。あんたに俺を抱かせてやるって言ってんだ」
 相手は目を大きくしている。少しからかっただけなのに顔を赤く染め、困ったようにきょろきょろと周囲を見回し始めた。俺は彼の肌から手を離し、自分の服を脱いで床の上に放り投げる。裸になって座ったままの彼を見下ろし、何もしようとしない彼の代わりに相手の上の服を脱がせた。
「お前、頭は正気か? 俺が誰だか分かってるよな?」
 彼の腕を引っ張りつつベッドの上に寝転がる。もうお喋りは要らないと思っても彼がそれを許してくれないようだった。
「そんなことを聞いてどうする」
「だって、俺は男だぞ? 女でもないのに、なんでこんなこと……」
「最初は誰でも戸惑うさ。けど、慣れちまうとこっちの方がよくなるんだ」
 俺の口はよく分からないことばかりを言う。慣れとか戸惑いとか、そんなものは俺に存在しないものだった。彼の問いは俺が聞きたいことだった。俺は女でもないのに、どうして奴らは俺のことばかりを執拗に狙っていた?
「本当に、これをすれば、仲直りをしてくれるのか」
「あんたが上手くやればしてやるよ」
「おい――もうどうなっても知らんぞ? 途中でやめるとか言い出すなよ?」
「いいからさっさとしろよ!」
 身体の上に彼が覆い被さった。顔が近付いて嫌な気持ちが押し掛けてくる。頬に手を当てられ、好きでもない男の息が直に感じられた。
「待てよ」
 声を上げると彼の動作がぴたりと止まる。
「キスは嫌だ」
「……」
 ちょっと眉をひそめた相手はすっと顔を離した。
 彼の愛撫が始まった。慣れていない手つきが身体じゅうに張り巡らされた。落ちてくる体温を感じながら俺は息を止めていた。目も口も閉ざし、暗闇の中だけで彼の存在をひたすら感じていく。
 見えない手が恐ろしくて、でもそこに温かさがあると安堵の気持ちが芽生えるから不思議でならなかった。身体のラインを確認するように彼の手が滑り、その動作が樹よりもケキやエダを思い起こさせた。ふと目を開けると身体に汗が滲んでいた。身体の中心からゆらゆらした熱が産出され、汗で湿った肌に俺と彼の髪がぴったりと密着していた。
 白いベッドの上で相手の欲が満たされる。俺はそれをただ一身に受け、湧き上がる苦しみに苛まれる痛みを知った。自分から誘惑したのにそれはおかしな話だった。エダからの凌辱のように強制されているわけでもないのに、ただ肌に触られただけでひどい吐き気が襲いかかってくる。頭が狂気に染められる一方で俺の身体は彼の愛に悦んでいるようだった。また身体と精神が分離している、早く元に戻さないといけないのに、目の前の景色がぼんやりしていて息をすることさえ難しい。
「が――っ!」
 口の裏側から妙な声が出てきた。目に見えるあらゆるものがぴかぴかと光って、全身が麻痺したみたいに動かなくなる。それでも視界が揺れているから俺は痙攣しているのだと分かった。まるで心臓にナイフでも突き立てられた心地だ。喉の奥に銃弾を撃ち込まれ、頭の一部が吹っ飛んだ時の感覚にも似ている。俺は彼にも殺されるんだ。信用したかった人なのに――彼もまたあいつらと同じで、肉体的な快楽さえあれば満足するような人間だったんだ。やっぱりそうだ、男なんて全員同じだ! 暴力的で支配的で、野獣のような魂を優しさの裏に隠し持っているんだ。
 笑みが出た。嫌悪感で殺されそうなのに笑いが止まらなかった。相手の肩に手を伸ばし、自分から彼の身体を引き寄せた。口先で求めるものと正反対の願いを作成し、その通りにする相手を憎むほど大きな笑いが俺の中に舞い降りてきた。声に出して笑ってたんだ、頭がやられた人間のように、快感の混じった声でひたすら笑い続けていた。その反動として幾度も身体全体が痙攣し、咳が出る。
 胸がぎゅうぎゅうと締め付けられ、苦しみに耐える為にうつ伏せになってベッドのシーツを噛み締めた。その間にも彼の欲は俺を見逃してくれなかった。口を閉ざしたおかげで笑いは出てこなくなり、代わりに恐怖と幻滅とが俺の身体を抱き締める。張りつめた何かが俺の中に存在し、それを解き放たないよう必死になって身体の軸を支えていた。
 彼の動作が止まったなら、俺は満足することができた。注ぎ込まれた熱が俺の内部でくすぶり、疲れを忘れたかのような勢いのある放出を行う。それこそが身体が満足した証だった。俺の身体は汚いことが大好きな出来損ないだと宣告されたように感じられた。

 

 

「おい……風呂、入らなくていいのか」
 もはや絶望など感じない。自分のことは自分が一番知っているはずだから、驚いている余裕なんかなかったんだろう。声をかけてきた相手は俺のことを見下ろしていたが、ベッドに沈む身体を無理に起こしたりはしなかった。心配でもしているんだろうか、それとも気まずくて距離を作っているんだろうか?
「いい」
「――そうか」
 足音が部屋に響き、追う影が消えるとそれもまた無くなった。
 身体が寒い。目を閉じて彼を想った。彼のぎこちない手が俺の身体を温めてくれていた。乱暴になる前の優しい愛撫が肌の上に残っているんだ。それを想うだけで淋しくなる。終わったばかりなのに、また誰かに抱かれたいと考えてしまう。
 樹はこれを続けてはならないと言った。こんな精神状態のままじゃ、俺は傷つき続ける結果になると分かっていたからそう言ったんだ。それなのに俺は彼の言葉を裏切った。彼の言う通りにすれば幸福になれるはずなのに、どうしてこんなにあっけなく、彼からの標を手放してしまったんだろう。
 ベッドの中で身体を丸める。そうしなきゃ寒すぎて凍えてしまいそうだったんだ。黒服はまだ床の上に落ちているが、それを拾い上げてまで着ようとは思えなかった。どうしてだか身体の震えが止まらない。
 何か物音が聞こえた気がして顔を上げた。暗闇に支配された部屋の中は静まり返り、虫の鳴く声さえ遮断されている。それでも頭の中に直接響く笑い声は止まることを知らず、耳を塞いでも全身を貫かれる恐ろしいものだった。
 それは自分の声だ。俺が笑ったんじゃないか。最初は戸惑っていたくせに、結局は俺の身体を手にして悦んでるあいつを見て、どうしようもない奴だと笑い飛ばそうと必死だったじゃないか。そうでもしなきゃ心が押し潰されそうだった。俺が彼を誘ったのに、身体を触られた途端に嫌な気持ちが溢れてきたんだ。もう誰にも触られたくなかった。髪も肌も唇も、男なんかに俺の秘密を知られることが嫌だったんだ。
 黙ったままじっとしているとノックの音が聞こえた。その頃にはもう笑い声は消えてしまっていた。俺は身体を起こし、扉が開く瞬間を静かに待つ。
 濡れた髪を乾かしていない男が裸足で部屋に入ってきた。ひたひたと歩いてベッドの傍に寄り添い、こちらをじっと見てくる。何か言いたげだが何も言ってこなかった。彼を部屋から追い出す気分にもなれない。
「なあ、ラザー……」
 左手に手を重ねられる。びっくりするくらい彼の手が温かい。
「あんなことした後なんだ、ちゃんと身体を洗っておけよ」
「いいって言ってるだろ」
「けど、気持ち悪くないのか」
 組織で暮らしていた時は風呂なんてなかった。どうしようもなく気分が悪くなった時は、ヤウラの部屋にある風呂を借りていた。今日はまだ優しい方だったんだ、慣れを取り戻した俺の身体は大丈夫だと囁いている。
「あんた、心配するところがおかしいんだよ」
「ラザー。さっきは、どうしてあんなに……笑ってたんだ?」
「どうしてだって。決まってるだろ、あんたの行動がおかしいからだ」
 さっと顔を赤くした相手は噛みつくように顔を近付けてくる。
「おかしいって、お前がそうしろって言ったんじゃないか! 俺はお前と仲直りがしたかっただけだ、あんなこと――普通は頼まれたってしなかった。だけどもし断ったら、もうお前と仲直りができなくなりそうな気がしたから、だから」
「へえ。それじゃなんであんたはあんなに俺を突いてきたんだ? あんたさ、俺をこの家に閉じ込めてる理由って、俺の身体が欲しかったからなんじゃないの? 本当は昔から俺の身体だけに目を付けていて、だからさっきもあんなに――」
「ば、馬鹿なことを言うな! 俺はただお前のことが心配だから、お前を放っておけないんだよ」
「だったらなんで断らなかったんだよ! 嫌なら突き飛ばしてでも逃げれば良かったじゃないか、そうしてくれたら俺だって追いかけたりしなかった! なんでそうやって……甘んじるんだ! 大人なら、叱ってくれたっていいだろ!」
 自分の中から出た言葉に驚いてばかりだった。俺は本当にこんなことを考えていたんだろうか? 彼に襲われたことを正当化しようとして、だから綺麗事で事実を塗り替えようとしているんじゃないだろうか。
「そうか、お前は……叱って欲しかったんだな。ごめんな、俺は大人なのに大人の行動ができない。叱らなきゃならなかったのに、結局お前の言いなりになっていたなんて」
「ああもう、今更ごちゃごちゃ言われたって鬱陶しいんだよ。それより何の用があって来たんだ。もうお前の相手なんかしたくないんだ、さっさと自分の部屋に引っ込めよ」
「だって――さっきのお前の様子がおかしかったから、心配で」
「何がおかしかったんだ、俺は普段通りだったじゃないか」
「普段通り?」
 はっとするほどはっきりとした驚きが彼の声色から感じ取ることができた。俺はそれを発見するたびにびくびくと精神を縮めてしまう。
「ラザー、お前……組織で一体どんな生活をしていたんだ」
 心なしか怒っているような声で問われた。相手は俺の過去を知りたがっている。でもそれを伝えたところで何になるだろう? 樹みたいに引きずり込まれ、戻れない場所にまで共に走ることができるんだろうか?
「あんたには想像できないような生活だったさ。こんな平和な自然の中に囲まれて、あんたは大層な生活を送っていたんだなって思ったよ」
「どうしてそんなに怒るんだ、ちょっと訊ねてみただけじゃないか」
 また口の上に笑みが浮かんでくる。この感情をどうやって止めればいいのか、その方法を教えてくれる人は誰もいない。
「いいよな、一般人は平和そうで。見て見ぬふりが通用するんだもんな、汚いものや危ないものに気が付いても、あたかもそいつがそこに存在しないかのように通り過ぎていくんだ。まったく、馬鹿な連中だ! 目を背けようと世界は汚いのさ、虚偽や蹂躙が充満した、綺麗なものなんて残ってない恐ろしい世界なんだよ、ここは!」
 口の中から嘲笑が零れ落ちる。拾い集めて隠すには圧倒的に時間が足りなかった。隣に立ったままの男は俺の行動を見て明らかに狼狽している。俺はおかしな奴なんだって、そう考えているからあんな目で俺を見下ろしているんだ。
 笑っていると咳が出た。喉に異物が詰まっている感覚がして、それを吐き出そうと何度も咳が出てくる。急激に気分が悪くなって咳が出た後に胃の中の物が逆流してきた。ベッドの上にそれを吐いてしまい、目の前の景色がちかちかした。
 頭が重かった。何か支えられそうな物があったから寄りかかると、それは俺の隣に腰を下ろした相手の身体だったらしい。気が付けばベッドの上から俺が吐いた物が消えていて、身体を支えている相手は手の中に水の入ったコップを持っていた。
「吐くほど嫌だったのか?」
「……そうじゃない」
 相手はコップを手渡してくる。いつかはこれと同じことを樹がしてくれたんだ。あの頃からやり直すことができたなら、どんなによかったことだろう。
「お前が組織でどんな生活をしていたのかは知らないけど、もうお前はあそこの住人じゃないんだ。当時の通常に従う必要はない。そう考えて今まで俺の家で暮らしてきたんだと思ってたけど、組織の連中に会ったせいで、いろんなことを思い出しちまったのか?」
「ん……」
 詰まったままの喉に水を流し込み、コップを返して相手の身体にもたれかかる。広い肩幅がケキとよく似ていた。胸の内に顔を埋め、そのまま目を閉じてみる。
「今夜は、離れないで」
 記憶の中で大きな身体に抱き締められていた。捨てられることの方が多かったけど、時々見せる優しさが嬉しくて、だから俺は今になっても彼の手を忘れることができないんだろう。あの黒い髪が闇に紛れて光っていた。樹と同じ黒い髪だ。艶やかで、美しく、俺に噛みついてくるあの髪がどこまで逃げようと俺のことを追いかけてくる。何度も走る練習をして、それでも逃げ切れなかった夜が身体の上にのしかかっていた。
 背中に体温を感じた。目を開けると視界が暗くなっていた。きっと彼が俺の背に手を回したんだ、俺を愛そうと抱き締めてくれたんだ。心臓の鼓動が顔の近くに感じられる。相手の肌が直接触れて、その温もりが心を落ち着かせてくれていた。
 もっと愛して欲しい。もっと近くに感じていたい。そう願うのは俺がおかしくなったからだろうか。普通の人間は抱き締められるだけで満足して、相手が自分の内部に侵入することを望んだりはしないのだろうか。だったら俺は、どうしてそんなことを渇望してしまうのだろう。愛がなきゃ不安で、でも中途半端な方法じゃ納得できないのはなぜなのか?
『本気じゃなきゃ嫌だからだよ』
 耳元で囁きかけるロイの声は現実味を帯びていた。俺はまた目を開けて彼の姿を探したけれど、過去の自分がどんな姿をしていたかさえ忘れてしまったので、気を紛らわせる為にも俺を抱いて離さない男の背中に両手を回して力を込めていた。……

 

 

 

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