月のない夜に

 

 

 自分の体温が感じられなかった。まるで土に還る時を心待ちにする物言わぬ死体のように、中心から先端まで全ての熱が失われたようだ。両手で抱え込んでも手の冷たさでいっそう凍えるだけだった。僕から熱を奪った存在が残酷な風を世界に与えたのだろう。
 だから僕は温もりを探すふりをする。それさえあれば満足できると思い込むことで自分を保ち、一緒にいられない事実を嘆くことで理由を作り上げ、緋色に光る太陽の下で孤独を噛み締めるのだろう。僕に愛を教えた者たちは皆、微笑みつつ遠い場所から水面に沈む僕の身体を見下ろしている。その湖が割れる時が来たならば、おそらく僕は内に流れる本能を全て吐き出してしまうだろう。
『一緒のふりは嫌だ。嘘は嫌だ。その唇が紡ぐ虚偽を破壊しなきゃ、僕は君を信じられない』
 長い髪が黒く染まっていた。美しい黒髪、あの男と同じ一瞬間の安定をもたらす一握りの希望。そこにあるのは愛なのか? 彼女に同情することで僕は自分を救おうとしていたのか?
『あなたと一緒に行くことはできない』
『遠い場所だ、誰も追いかけてこないほど遠い場所、そこまで逃げれば大丈夫だから。どうか僕を信じていて』
『だって――私がいなくなったら、お父さんは独りぼっちになっちゃうから』
 僕は彼女を責められない。それなのに手に持ったナイフで彼女の細い身体を二つに斬り裂く。上と下とに分かたれた身体は地の底へ沈んでいく。僕は息をしない彼女を見下ろし何を思えばいいのか分からない。伝う涙は偽りだった。僕は彼女を殺したのではない、彼女が僕を死に追いやったわけでもない。
 白い腕が僕の身体を抱き締めていた。背後から届く整った呼吸音が僕の耳を震わせる。罪人の髑髏を踏み潰す僕は彼女の十字架を天に掲げ、降り注ぐ赤い約束を自ら黎明へと手放した。
『ああ、神様――』
 金色のそれは偶像か。僕は縋るものがなければ簡単に壊れることを知っている。だから周囲にあるものを破壊し続け、後悔を忘れた頃にどこかにあるはずの場所へ視線を向けるんだろう。
 嘘ならいらない。信頼だってもういらない。孤独も裏切りもどうでもいい、欲しいのはただ一つの愛だから。僕がこうなったのは誰のせいでもない。たとえば皆が僕を騙そうとしていたとしても、それに気付いていても気付かなくとも、僕は彼女を救いたいと感じ、あの人を愛していたいと思ったことは変わらなかっただろう。僕が彼女の為に身をあの男に捧げたことも、あの人に愛されたいが為に幾重もの罪のベールを被ったことも、それが一体何だというのか? そこにあったのは僕の意思だ。僕は確かにロイとして生きていた。
 なぜ樹が僕に同情し、真が俺を憐みの目で見つめるのか。彼らは僕を僕として見ていないのか? 僕は僕ではなく「可哀想な人間」として認識されているのか? あの男と同じように、無機質な笑みを浮かべる彼らと同じように、僕という人間の前に立っている壁の色だけを見ているのか? 全てを打ち明ければ僕を見つけてくれると思っていた? その結果がこれか? もはや僕などどこにも存在しないのではないのか? だったら僕は何なんだ、今ここで夢に苛まれている僕は誰にとっての存在だというのか?
 足の下に広がる光景で子供が大人に抱かれている。抗っても痛いだけなら従っていようと思ったのだろう。子供が黙り込むと大人は嬉しそうだ。対応策なら経験が教えてくれる、それでも譲れない何かが僕を傷つける方向へと落とし込んでいく。罠に酔いしれる大人は暴言しか吐き出さず、僕はそれを腕の中で夢心地のまま聞いていた。震える肌を重ね合わせることが愛じゃないというなら、大人と子供の羨望する愛とは僕の知るところではない。

 

 +++++

 

 落ち着きを失った自身の鼓動を感じて目を覚ました。また嫌な夢を見ていた気がする。もう俺を怯えさせる者などいないのに、一度思い出してしまったものはなかなか消え失せてはくれないだろう。長い時間をかけてそれと対峙せねばならないんだ。
 顔面に陽の光が差し込んでいる。眩しさに瞳孔を収縮させるが、人の力でそれを遮ることはできなかった。何も掴んでいない手を顔の上に広げ、指の隙間から見える天井を呪わしく思う。
 身体を動かそうと思っても全身が重い疲れに縛られていた。昨夜の遊びが原因かもしれない。好きでもない男に身体を捧げるなんて、俺は頭がどうかしていたんだ。相手が仲直りをしたいだなんて言ってきたから、自分でも驚くほど簡単に騙されてしまっていた。彼も他の連中と同じで、愛を盾に俺を苦しめるだけだった。
 耳の奥がざわざわしている。聞こえるはずのない音が頭に響き、喉には何かが引っ掛かっているようだ。目蓋が重くて仕方がない。吐き出した息が何色かに染められている気がして、今が現実か夢かさえ分からなくなっていた。部屋の外から焦げ付いた匂いが漂っていた。そうしてふと脳裏に浮かんだのは、暗い部屋の隅に置かれていた小さな蝋燭だった。
 あれはどこの記憶だったろう。真っ暗だから組織での記憶に違いない。自分と相手とだけが存在しており、長くなった髪に相手の手が絡みついていた。俺はそこで赤く光る蝋が一つずつ落ちていく過程をぼんやりと眺めていた。どこからか甘い花の香りが部屋に充満し、夢のように幻想的な時間を相手と共に味わっていたのではないだろうか。相手は俺を抱き締めていたような気がする。それは卑しい目的ではなく、ただ単純な愛を俺に示していたんだろう。火が照らしたのは相手の曲がりくねった金髪だった。そうだ、思い出した相手とは、あの人のことだった。
 あの日以来たくさんのことを思い出してしまう。忘れてしまっていたあらゆるものが俺の心を揺るがして離れようとしない。眠るのが怖いなら、夜に逃げ込んだ方が楽になれるのではないだろうか。誰かに助けを求めるのではなく、一人きりで闇の中に身を任せた方が良いのではないだろうか。
「ラザー」
 聞こえた声に身が竦んだ。気が付かないうちに自分の視界に大人の姿が入り込んでいた。身体を起こそうと力を込めたが、どういうわけだか手足が強張ってぴくりとも動かない。相手はゆっくりと歩いてベッドの傍まで近寄ってきた。
「どうしたんだ、顔が真っ蒼だけど――気分でも悪いのか?」
 何か答えなければならなかったが、口も手足と同じように少しも動かなかった。喉に詰まっているものを吐き出さなければ気持ちが悪い。息苦しくて生きている心地がしない。
「そろそろ学校に行く時間だけど、調子が悪いなら休んだ方がいいぞ」
 ベッドの傍でしゃがみ込んだ相手は心配そうな目で俺を見ていた。学校を休めば樹に会う機会がなくなる。それは避けたいことだったはずなのに、今は彼と真正面から話せる自信がなかった。それは彼の言いつけを破ったからだろうか。彼じゃない男に抱かれて、それで満足した俺の身体を知られたくないからだろうか。だけど彼なら受け入れてくれるはずだった。俺の汚い過去を知っても離れなかった彼ならば、このおかしくなった俺の精神さえ正常に戻してくれるはずだったんだ。それなのにどうして彼に頼ってはならないんだろう? なぜ彼はここまで共に歩いてくれたのに、今になって未来を恐れて俺から離れてしまったんだろう!
 愛したいと思った人が順当にいなくなっていく。そのあらすじを追いかける自分はひどく滑稽だ。恐ろしいことばかりが眼前に迫ってきて、誰かに縋ろうと思っても様々な理由が相手の姿を遠ざけてしまう。愛なんて気まぐれで、相手の興味を休みなく自分に向けさせることなんてできなくて、どんなに叫んだって俺の言葉は地に落とされてしまって終わりだ。そのくせ俺を呼ぶ声だけは聞こえ続けていて、足を止めて振り返ったとしても相手の影さえ見つけることができない。手を伸ばしても血と雨とで濡れた粘土細工では壊されるだけだ。さっと目の色が蔑みに変わり、それに気付いた俺はもう相手のベールに包まれたいと思えなくなる。
「ラザー! おい、どうしたんだ」
「……え?」
 目の前に相手の顔が迫っていた。声が出た刹那にすっと涙が頬を伝って落ちる。慌ててそれを拭うと視界の端に黒い靄が見えた。その中心からきらきらと光る白いものが幾つも現れる。
「学校には行く、だからもう――部屋から出ていけ!」
 少し怒鳴ると相手はすぐに姿を消した。無理に身体を起こして床の上に立つ。冷たくなった全身を制服で包み隠し、何も入っていない鞄を手に持って窓から家の外に飛び出した。
 青いはずの空が赤く見える。ぐっと目を閉じてから開くと眩暈がした。足に力が入らなくてまっすぐ歩くことができない。青い草が足首まで伸びて俺を動けなくしているように見えた。
 どこかに行かねばならなかった。全ての感覚がおかしくなる前に、どうにかしてこの異変を止めなければならなかったんだ。
 手の中が空っぽで怖かった。名を呼ぼうと思い立っても呼んで許される名を見つけられなかった。視界に映る光景が虹色に変わっていく。黒い雲が空を自由に泳ぎ、俺を捕まえようと幾つもの触手を伸ばしていた。
 紫色に塗り替えられた木々がどんどんと道を作り、だから俺は迷うこともなく門の前に辿り着くことができたのだろう。どれほど目を凝らしてみても門の向こう側は見えなくて、そこには何かおぞましさすら忘れられそうな歪み切った安堵があるような気がした。一歩足を踏み出すと世界はたくさんの物を割った。俺の意思の外で起こる破壊に惑っても、誰かがこちらに手を差し伸べているわけでもなく、もう倒れてはならない身体は鋭い弾丸で貫かれてしまった。胸の辺りに熱があって、俺の精神を守る頭はひどい痛みを訴えている。目の前がはっきりしない――強弱のついた場面が頭の中を侵食して、俺の周囲をからかったような光る鳥がぐるぐると回り続けていた。
 歩いていると肩が重くなった。そこに手を当ててみると異物が乗せられていることに気付く。ちらと目を動かしたなら、誰か知らない奴が俺の肩に手を置いていることが分かった。相手はどうしてだかにやにやとした笑みを浮かべ、絶え間なく言葉を吐き出していたが、俺には相手の目を見つけることも彼の声を聞くこともできない。気色が悪く思えて相手の手を振り払い、見える人ごみの中へと駆け出した。たくさんの愛すべき人々なら俺を躊躇いもなく守ってくれそうな気がしたんだ。
「ロイ!」
 名を呼ぶ声があった。びっくりして立ち止まると、ふわりと眼前に春の風がなびいていた。
「どうしたの、こんな所で。今日は学校じゃなかったの?」
 相手はヨウトだった。公衆の面前で恥ずかしげもなく俺と会話を交わそうと試みている。そうできるのは彼が俺のことをよく知っているからなんだろう。中途半端にしか知らない奴じゃ、俺とまともに目を合わせることすら避けるだろうから。
「お前こそ、こんな街の中で何をしているんだ」
「言わなかったっけ? 僕はエダさんと一緒にこの街の端で住むことにしたんだ。そうだ、ロイ、樹君はいる? エダさんが昨日になってやっと目を覚ましたんだよ、樹君に伝えてあげなきゃ」
「エダと……暮らしている?」
 どうしてそんなおかしなことになっているんだろう。青い髪の少年の言葉がまるで信じられなかった。二人はそれほどまでに仲が良かったのか? 一緒に暮らしてもお互いを傷つけることもなく、何もかもが順調に進んだ結果がこれだというのだろうか。俺と彼とじゃ失敗したのに。あんなに輝かしい安らぎを作り出していた二人でさえ終焉を迎えたのに、どうして彼らは安易に成功できたんだろうか?
 違っていたものなど何もないはずだった。
「それで、エダは?」
「朝早くからどこかに出かけたよ。それでね、今は家の中には誰もいないから、僕はそろそろ帰ろうかなって思ってるんだけど……よかったらロイも来ない? なんにもない家だからおもてなしはできないけど」
「ああ」
 期待が込められていたわけではなかったが、自分の口から出た声があまりにはっきり耳に響いて俺は驚かねばならなかった。また新しい逃げ場を探しているんだろうか。どうせすぐに幻滅するのに、他者の力によって跡形もなく崩壊してしまうのに!
 ヨウトに手を引かれ、俺は狭い路地を歩いていく。すれ違う人々が俺の顔ばかり見ている気がしたけど、振り返っても誰もが皆前を向いて目的の方向へ歩いているだけだった。そのくせ足音だけは雨のように煩くて、わけもなく責められているような心地になる。人が影のようとはよく言ったものだった。砂が散るように視界から消えてゆく彼らは、二つの眼だけを煌めかせてあらゆるものを判定しようと常に気を配っているんだろう。
 やがて辿り着いた場所には小さな扉があった。それは壁に埋め込まれた不格好な扉で、人の目を避けるように光から離れた地点に設置されている。ヨウトは風のような足取りで扉の前まで移動し、鍵もかかっていなかったそれを軽々しく開いた。
「さ、入ってよ」
 見知った人に促されたので特に警戒することもなく家の中へと足を踏み入れる。さっと全身が暗闇に包み込まれ、嫌な気分にはならなかった。視界に映る情報だけを読み取るとそれは普通の光景だった。机があって椅子があって、小さな棚や花が安置されているどこにでもありそうな室内の空間。誰もがこれを望み、最後の地点として夢見ているのなら、この二人はそれを手に入れたということだった。悲しい痛みの必要ない場所だ。誰からも傷つけられることのない、怯えも虚無も失ったはずの場所なんだ。
 潤んだ瞳を指で押さえつけ、木造の小さな椅子に腰かける。ヨウトは俺の前の席に落ち着いた。
「なかなかいい家でしょ?」
「こんな家、どうやって見つけたんだ。他人の家を勝手に使っているんじゃないのか」
「酷いなぁ、そんなこと言うなんて。この家は持ち主から譲ってもらったんだよ。引っ越すからもういらなくなったんだって」
「ふうん」
 ヨウトは何も気付いていない様子だった。無理もない。いつの頃からか感情が表に出なくなっていたけれど、それを元に戻そうとは思えなかった。
「ところでロイは何をしに来たの? 樹君の姿が見えないけど、あの子は一体どうしたの?」
「あいつには……振られた」
「ええっ! 嘘を言わないでよ、そんなことあるわけないじゃない。彼はあんなに君のことを大切に思ってたんだから」
「過去はそうだとしても今は違うんだ。あいつは俺に幻滅して遠ざかった。俺に愛想を尽かして距離を置いた。もう俺なんかに構っている暇はないんだってさ」
 泣きたいほどのつらさがあるはずなのに顔に浮かぶのは自嘲だけだ。そうやって俺はヨウトの澄んだ瞳を見ながらケキのことを思い出していた。
「それは……ねえ、樹君がロイにそう言ったの?」
「何を」
「だから、君に愛想を尽かしたって」
「あいつは迷惑だって言った。俺のことは恋人でも何でもないから、触れることさえ迷惑なんだと言っていた。分かっていたさ、あいつの考えていることなんて。だってあいつは俺を化け物だって思ってるんだぜ? 気色の悪い不老不死の体を持っていて、いつまでたっても成長しない、苛められるしか能のない奴だって思ってるんだ。それに加えて、汚いことばかり望んでいて――人殺しなんて救えないんだとよ! ははっ、やっぱりそうだ! あいつは俺のことが怖くて逃げ出したんだ! 俺を救うと言っておきながら――この仕打ちは――何なんだよ!」
 彼の愛なら感じられた。無償の愛、恥ずかしいくらいまっすぐな愛を、彼は俺に向かって差し出していたことをいつも感じていたんだ。それなのにどうして? なぜ彼はあんなことを言い、俺を遠ざけようと目の前から消えてしまうのか?
「ロイ、あのね……樹君はきっと、君のことを思ってそうしたんじゃないかな。ほら、君と彼とじゃ生きられる時間が違うし」
「だから一緒にいちゃいけないのか? 俺はそれが分かっているから、少しでもあいつの傍にいたいんだよ! 一緒にいられる時間を……もっと共有していたいんだよ」
「……泣かないで」
 溢れてきた涙をヨウトの小さな手が拭った。それはとても温かい。
「あ、あいつは……同じだったんだ。他の奴らと同じ、近寄りすぎて怖くなって、最後には逃げ出した臆病者だったんだ! 俺を、捨てたんじゃなくて……一緒には行けないって、そう言って消えてしまった! だから、だから、嫌なんだ、俺はあいつを殺したくない!」
 いくらヨウトが涙を拭っても、両目から頬を伝う雫は止まる気配がなかった。人目もはばからず泣きじゃくるなんてまるで子供のようだ。それだって分かっている、分かってるんだけど、どうしても感情が止まってくれなかったし、こうすれば心地の良い同情を向けてくれると知っていたから涙を流し続けているんだろう。馬鹿なことを、同情など嫌っていたはずなのに、不安に苛まれるとそこに逃げ込むのか。俺はなんて卑怯な奴なんだろう!
 席を立ったヨウトは俺の傍まで来て身体を抱き締めてくれた。霊体の相手からあたたかな体温が感じられる。ふわりとしたくせ毛が頬に触れ、両目から流れる涙が彼の髪を濡らした。水の色と似たそれはこの落涙さえ許してくれそうな気がして、徐々に閉じていく視界を待ち望みながら俺は、時が落下し壊れてゆく過程をただひたすら愛しく思っていた。

 

 +++++

 

 昼頃になると家の扉が静かに開いた。どうやらエダが帰ってきたらしく、それまでヨウトと他愛ない会話をしていた俺は彼の懐かしい顔を見つけることができた。
「おかえりなさい、エダさん」
「ラザーラス? どうしてお前がここに――」
 くるりと目を丸くした相手は恐ろしくは見えなかった。俺が知る限りのあいつと同じように、機嫌のいい時は特に警戒する必要はないらしい。たとえそうだとしても彼の動作の全てを信じることはできなかった。俺の中にはまだ深いところまで侵入したなまめかしい傷が残っており、それらが完全に消えてしまうまではこの男に対し心を許すことはないのだろう。
「エダさん、その袋は何? 買い物してきたの?」
「ああ、そうだぜ。今後の生活の糧にしようと思ってな」
 布地の黄ばんだ袋を机の上に置き、エダは俺の真正面の席に座った。
「何買ってきたの? 見せて見せて」
「こら、勝手に触るな!」
 はしゃいだヨウトから袋を取り上げ、エダは赤い目を鋭くする。二人はとても仲がよさげに見え、俺はなんだか息苦しくなった。
 相手の大きくてたくましい手が小さな袋の中へ沈む。そうやってしっかりと掴み、机の上へと誘導した物はどうやら絵筆のようだった。ヨウトの大きな目がさらに大きく開かれる先でエダは手を動かし、続いて色とりどりの小瓶を幾つか机上へ移動させる。
「……なあに、それ?」
「見りゃ分かるだろ。絵筆と絵の具だ」
「えええ、エダさんって絵なんか描くの? 嘘だぁ、見るからに不器用そうなエダさんが絵なんて描いたら、世界中の人がびっくりして失神するような絵ができちゃうって!」
「お前……それはどういう意味だよ、ああ?」
 ささやかな口論でさえ羨望の的とするくらいに俺は孤独に苛まれていたんだろうか。二人の姿が遠ざかっていく様を小さな部屋の中で静かに感じ、またあそこに戻りたくなる衝動が心の内にふつふつと湧き上がってきた。そうして現れるのは使い古された疑問ばかりだ。なぜとかどうしてとか、そんな安っぽい言葉しか今の自分には必要のないものだった。
 ころころとカラフルな瓶が机の上を転がり、端まで行き着いて落ちそうになったところをヨウトの白い手が受け止める。瓶の中身が面白いくらいぐるぐると回転していて、まだ新しかったはずの透明なガラスはすっかり汚されてしまったようだった。
「じゃ、俺はまた出かけてくるから」
 袋と絵の具を机に置いたまま、軽く手を上げてエダは席を立とうとする。そうやって何の躊躇いもなしにドアの方へと歩いていく姿はどこかの誰かに似ている気がした。
「ちょっと待ってよ、どこに行くの?」
「心配すんなよ、夜には帰ってくるからさ。ラザーラスがいるから淋しくないだろ? 引き続き留守番よろしくな」
「エダさん、ねえ――」
 白い歯を見せてヨウトの声をさらりとかわし、エダは家を出ていってしまった。なぜ俺がここにいるのかともっとしつこく聞かれるかと思ったが、あいつの興味はもはや別の方へ向いてしまったようだった。それは喜ぶべきことかもしれない。ただ心に引っかかることとして、彼が樹に振られたという不可解な過去があることだけは意識しておかねばならなかったんだろう。狭苦しい部屋に取り残されたヨウトはなんだか面食らったみたいにぽかんとしていた。手に持った絵の具の瓶を机に置くこともなく、エダが消えていった扉を信じられないと言わんばかりの目でじっと見つめている。
「なんだよ、エダさんの薄情者! せっかく二人で暮らそうって決めたのに、どうして勝手な行動するんだよ!」
 二人のすれ違いがなんだか可笑しかった。
「お前、あいつのことは好きなのか?」
「好きってほどじゃないけど、嫌いじゃないよ。でも僕はロイや樹君の方が好きだな。エダさんもね、いい人だとは思うけど、僕の話を聞いてくれないからなぁ……」
「それって結局、嫌いってことじゃないのか」
「そうかな? 普通だと思うよ。嫌いだったら今だって一緒にはいないもん」
 彼の好き嫌いの基準は自分の話を聞いてくれるか否かによって左右されるらしい。あの組織で暮らしていた頃、俺はよくヨウトの話し相手になっていた。彼の話は聞いていて飽きなかったし、まともに話ができる数少ない人間だったので、彼から意図的に遠ざかる理由など一つも存在しなかった。だから彼との関係は組織を抜け出した今でも守られているようだが、それはあくまで保守的な関係であり、不安も恐れもない積極的な安堵とは全く異なる類のものだった。逃げ場として機能するわけでもなく、ただ円滑な穏やかさが小川のように揺れているだけ。たとえばそれが俺の身体を優しげに包み込んでくれたとしても、俺が求める刺激や痛みを持たぬしゃぼん玉はいつか必ず消えてしまうと分かっていた。そうやって俺はまた「永遠」と名付けられたものを探そうとする。だけど心のどこかで無常を感じ、滅んでいった旧い生命の叫びに見つめられているような心地がするのだった。
「それで、ロイはどうするの? 今日は僕と遊んでいく?」
「そうだな」
 遊びに来たつもりではなかったが、今は学校に行く気分にもなれなかったのでこの家に隠れていたかった。ちょうどエダも出かけてくれたんだ、全ては俺の望む方へと進んでいるようだ。それでも埋まらない心の溝はひしひしと俺の身体を蝕んでいく。先程までの視覚や聴覚の異常などはみられなくなったが、代わりに今は鈍い頭痛と全身にのしかかる重圧が俺を動けなくしてしまっていた。
「ねえねえ、何して遊ぶ? 僕は外に出ていろんな人を驚かしてやりたいなぁ。姿を消して近付いてね、ぱっと現れてびっくりさせるんだよ。その時の人間の顔ときたら……間が抜けてて何度でも見たくなっちゃうんだ!」
「お前はつまらん遊びが好きなんだな」
「えへへ。人間観察ってわりと面白いんだ」
 表情を変えて笑う少年の顔はこの世界の平和を物語っているようだ。彼は俺のことも面白がってこんなに近くに寄ってきたのだろうか。
「そうだ! ロイって確かお料理が上手だったよね? 僕も何か作ってみたいんだ、手伝ってよ」
「そんなことをしてどうするんだ」
「エダさんに食べてもらおうと思って。そしたらエダさん、僕のことを少しは見直してくれると思うから」
 どこか哀しげに微笑むヨウトはどうしてだかとても幸福そうだった。そんな少年の明るい顔を眺めながら、俺は彼との間にそびえ立つ実質的な壁を一人で感じている。
「そうと決まれば材料を買いに行かなきゃ。ねえロイ、何を作ればエダさんが喜んでくれるかな」
「……お前、留守番はどうしたんだ」
「少しくらい家をあけたって平気だよ。それより早く行こう!」
 ぐいと腕を引っ張られ、活力に満ちた相手に光の下へと連れ出される。どこにも行きたくないと考えていたはずなのに、なんだかヨウトの気まぐれに付き合うことはいい気分転換になるように感じられ、だから俺はもう何も言わずに歩くことにした。この道がどこへ続いていたとしても、彼と一緒なら何だって乗り越えられそうに感じられるから不思議だ。世の闇を舐め尽した無邪気な瞳が見つめる世界は美しく、愛すべきたくさんの人々がすぐ傍を通り過ぎて、俺もまた彼らの隣を何も言わずに通り過ぎるだけだった。もう彼らと同じ目線は失ったけれど――目に映る人々の姿は眩しくて、俺がそこに戻ったとしても、多くの人は快く迎え入れてくれるんじゃないかと考えていたんだ。……

 

 

 店の並ぶ通りへと足を踏み入れたなら、ヨウトは目を輝かせながら一人で人ごみの中へ紛れ込んでしまった。俺は生きている人々の中から死んだ少年の姿を探し当て、彼の心が惹かれた原因を幾度も目の当たりにする。これまでろくに人間の生活を知る機会がなかったヨウトにとってはあらゆるものが真新しいらしく、すっかり見慣れた者からすればほんの小さな動きにさえ大層な反応を示していた。店に陳列する商品を興味深げに眺め、野菜を手に持ってその感触を確かめたり、調味料の種類の多さに逐一文句を言ってみたりしている。彼の落ち着きのない姿を見ることは今までと全く異なる体験であり、俺は少しの躍動感に引きずり込まれているようだった。それなのにその一方で深い距離を感じる。相手がこの手の届かない場所へ行くことはあまりに容易すぎて、一度でも見失ってしまえばもう二度と同じ場所には戻れないのだろう。だけど今をずっと変えずに保つことはできなくて、目の前にあるこの流れる雑踏のように、いつの間にか出来上がり、視覚で確認できる形を作り、やがては誰も知らぬ地でものも言わずに消滅するものこそが真実なのだろう。人と人との関係とはそんな驚くくらいに儚いものであり、だから俺はそれを信じようとしなかった。きっといつか終わりが来るものを信じられるほど楽観的ではなかったし、時に取り残される者としてそれに縋ることほど滑稽なことはない。ただ神秘的な輝きを放つそれは俺の憧れそのものでもあった。人々に忘れられることを繰り返さねばならなくなったこの身体を捨て、俺は彼らと同じ時の中で生死を全うしたくなっていたんだ。
「お買い物って楽しいね」
 俺の隣を歩く少年は歳相応に無邪気だった。何軒もの店をぐるぐると見て廻り、そのたびに抱える荷物を増やしている。それがあまりに増えすぎると俺に手伝いを要求し、特に断る理由もなかったので俺は彼の言う通りにした。
「組織で暮らしてた頃はあんまり考えたことなかったけど、世界にはいろんな人が生きてるんだね」
「どうした、急に」
「ううん。ちょっとね、人の多さにびっくりしちゃって」
 買い物が終わると近場の公園へと向かった。肌寒い季節だからなのか、広い敷地の中に人の姿はまばらにしか見られない。俺はヨウトに連れられて噴水の近くのベンチに腰掛けた。
「生きてる人がいるってことは、その人にとっての人生があるってことだよね。そしてその人生は死んじゃったらそこでおしまいになるんだ。僕らは彼らの人生を力ずくで終わらせていた。どうして人殺しが罪になるのか、分かっていたふりをしていたけれど……それって結局、他人の権利を奪うことに罪が生じるってことだったんだね」
「そうだな」
 俺は相槌を打つ。頭では何も分かっていないのに、ヨウトの瞳が映す世界を少しでも理解したかったから、何か分かりやすい形で自分の意思を表現しなければならなかったんだ。
「ロイは昔から知ってたの? 知ってて、それでもクトダム様に逆らわなかったの?」
「人殺しが罪になることなんて、誰に教えられなくたって分かっていた」
「でも組織から逃げ出さなかったよね? それってやっぱり、アニスのことが心配だったから?」
「……違う」
 首を振って否定を表す。目に映った緑の木々が端から端へと移動した。
「それじゃ、クトダム様が怖かった?」
「怖くなんかない。俺はただ――あの人の役に立ちたいって、そう思っていただけだ」
「君は……あの人に愛されたかったの?」
 それはおかしな質問だった。俺はあの組織にいた頃、確かにあの人に愛されていた。ケキのような歪んだ表現ではなく、純粋な抱擁と接吻を幾度も俺に与えてくれていた。それは仕事の代償だった。盗みを働けばあの人が俺の身体を抱き締めて、人を殺せばあの人が俺の額にキスをしてくれる。罪と引き換えの愛が俺を生かしてくれており、踏み潰された身体も黒で染められた精神もまっさらな状態に浄化してくれるんだ。俺はあの人の愛が欲しくて組織に留まり続けていた。俺を偏見もなく愛してくれる人、平等に、無常に、俺の思った通りに愛してくれる人こそがクトダム様だったんだ。
「ヨウト、お前はなぜあの組織で暮らしていた? お前はあの人に縛られていたわけでもないし、社会から追い出されたわけでもなかっただろ」
「あれ、どうしてそんなこと聞くの? 前にも言ったじゃない、僕にはあそこ以外に居場所がなかったんだって」
「それはそうだが、居場所なんて――お前のその性格があればいくらでも作れると思うんだがな」
「無理だよ。僕は普通の人間じゃなくて、幽霊みたいなものだから。最初はうまくいっててもね、途中から皆が僕をおかしなものだと認識し出すよ。僕はそれが嫌なんだ。僕だって元は人間だったのに、まるで人間じゃないって言われてるようなものなんだもん、耐えられないよ。組織の人たちは周りのことに無関心だから、当然僕にも興味なんて示さない。だからあそこにしか僕の居場所はなかったんだ」
「それならなぜ今になって組織を出ようと思ったんだ? エダが一緒に出ていったからか?」
「それもあるけど――」
 ヨウトは顔を上げてまっすぐこちらを見つめてくる。二つの青いガラス玉が俺の情けない姿を映していた。
「君がいない場所に固執する必要はないって気付いたからだよ。君がどうしても組織に戻らないって決めたのなら、僕は組織以外の場所で生きなきゃならなくなるってことだよ」
 甘いようで鋭い響きを持つ言葉が少年の口から飛び出していた。透明なそれは息に混じって白濁し、俺の喉仏に届くと霧のように散ってしまう。俺は彼に何を返していいか分からなくなった。
「エダさんは樹君のことが好きになったらしいけど、彼の感じてる好きって気持ちは、どちらかというと樹君とお友達になりたいっていう好きに近いものだと思うんだ。あの人、今までお友達なんて一人もいなかっただろうし、樹君みたいに優しく接してくれる人に会ったのも初めてだろうから、ただあの子と一緒に何かをしたかったんじゃないかなって思う。その何かってのは身体を重ね合わせることじゃなくて、たとえば一緒にお買い物に行ったり、お散歩したり、お喋りしたりするだけでも良かったんだと思う。だけどね、エダさんはきっとそういうことを知らなかったんだ。それを知らなくて、エダさんが知っていたことを樹君に押し付けようとして、そのせいで上手くいかなくなって自暴自棄になったんじゃないかな。樹君はあの時、エダさんと恋仲になるんじゃなくてお友達になるんだとしたら、快くエダさんを迎え入れてあげてたはずだと思う。……僕はエダさんほど不器用じゃないつもりだよ。君のことが好きって気持ちは、ただお友達として好きってだけだから。常に一緒にいたいわけじゃない。離れた場所で暮らしてても、ちょっと淋しく感じるだけだよ。でもね、それでも駄目なことはあるんだ。関係がこじれてしまう境界線までの距離でいたいって、そんなことを考えてしまうんだよ」
 いつになく真剣に話すヨウトは子供のように見えなかった。俺は彼の頭にふわりと手を乗せ、相手の小ささを改めて確認する。俺もヨウトもエダも、組織にいた人間は誰もが愛の正体を知らなかったんだろう。樹が言っていた愛は生きることそのものを指していた。ケキが示そうとしていた愛は単なる肉体的な快楽でしかなかった。ではエダが信じていた愛とは何だったのか? そして俺の前に掲げられているヨウトが作り上げた愛とは何なのか?
 俺はそっと相手の頬に手を回す。
「キス――欲しいか?」
 ヨウトは頷いた。だから俺は何の迷いもなく唇を重ねる。
「他に何が欲しい?」
 短い問いにヨウトは首を横に振る。彼が何を伝えようとしているのか、まるで理解できない。
「もう帰ろう。早くしないと夜になっちゃうよ」
 やわらかな頬が手から離れ、少年は荷物を抱えてベンチから立ち上がった。いつしか昼が過ぎて世界は夕刻を迎えており、太陽の痛々しいまでの眩しさが何気ない空虚を物語っているように見えた。

 

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 エダはなかなか家に帰ってこなかった。彼の為にと質素ながらも情を込めた料理を作ったヨウトは腹を立て、ついには痺れを切らしてエダが帰る前に全ての料理を平らげてしまった。俺は彼の危なげな料理に何度も横から口を挟んで手伝ったが、いつも自分で作っていた味と全く異なる匂いを感じ、この場に自分以外の人間がいることの意味を静かに噛み締める心地よさに浸りかけていた。窓の外が暗くなり、周囲の明かりが消える時刻になって初めて、ヨウトの待ち焦がれていた赤い髪の男が乱暴に家の扉を蹴り飛ばして室内に入ってきた。
「エダさん、遅い! 今まで何してたのさ!」
 それまで俺と向き合い話をしていたヨウトはエダの帰還と同時に立ち上がり、片手に白い瓶を持っている男の前に立ち塞がった。目の色を変えないエダはヨウトには目もくれずに扉を閉め、悠々と歩いて俺の前の席に堂々とした態度で腰かける。音を立てて彼の手に握られていた瓶が机の上に置かれたが、それはどうやら酒の入っている瓶のようだった。そしてその中身は半分以上減っているように見えなくもない。
「んん? なんだか腹の立つ顔が目の前にあるな……」
 机に両手をつき、相手はぐっと顔を近付けてきた。ほのかに香るのはやはり酒の匂いで、それだけで気分が悪くなってくる。
「そうか、お前、逃げてきたんだな。普通の暮らしができなくなって、普通の人間に混ざれなくなってさ。いやいや、それは賢い判断だね。俺たちみたいな性根から腐った連中は、こんなふうに泥の中で生きるしか方法はないってことさ」
「ちょっとエダさん、まさか酔っ払ってるの? お酒は駄目って昨日言ったばかりじゃない!」
「はあ? うるさいガキだな、俺の前から消えろよ!」
 顔を紅潮させたエダは彼に近付いたヨウトに向かって酒瓶を振りかざした。幽霊の少年は驚いた表情でさっと姿を消し、そのまま部屋の中に間の悪い静寂が訪れる。
 エダは突然長く息を吐き、立ち上がって奥の部屋へと引っ込んでいった。俺はその隙に逃げ出そうかと考えたが、どこへ行っていいか分からなかったので結局一歩も動くことができなかった。そうやって弱い自分に嫌悪感を覚えつつ大人しくしていると、手に何か光る物を持っているエダが部屋の中へと戻ってきた。机の上に置いた物が蝋燭の光で照らされ、それは二つのコップなのだということが分かった。
 見ているだけでもはらはらする手つきで二つのコップに酒を注ぎ、揺れる水面を満足げに眺めてエダは一方に口を付けた。ぐいと喉の奥まで一気に押し込み、透明な液体が彼の中へと流れ込んでいく。
「お前も飲めよ」
 更に顔を赤くした相手は俺の手にコップを押しつけてきた。
「いらない」
「いいから飲め。嫌なこと、全部忘れられるぞ」
 酒に染められた今の彼は普段の相手よりずっと友好的だった。俺のことを嫌いな相手と認識する能力も失われ、ただ自分に都合のいいものだけが存在していると勘違いしているらしい。それは幸福なことかもしれない。永遠に続くものではないと知りながら、一時的な幸福に酔いしれる人間の姿は滑稽で、だけど今の自分にとっては彼らの足元にさえ届かないことも分かっていた。
「忘れたって、明日になれば思い出すだろ」
「そうだな。でも一度でもすっきりしちまえば、改めて考えると今の悩みなんてつまんねえもんだって気付くかもしれないだろ? 俺はさぁ、忘れることにしたんだよ。あんな子供と仲良くなろうとしたこと自体、何かの間違いだったんだって思い込もうとしててさぁ……」
 どうやら彼は樹に振られたことを忘れようとしているらしい。それだけ彼は本気だったということなのだろうか。しかしヨウトの解釈では、エダが樹に近付いたのはただ友達になりたかったからと言っていた。友達になりたくて近付いて、それを何も知らない相手に無残にもはねつけられて、だから自暴自棄になって家を燃やしたのだろうか。それに比べ、俺はどうだろう。俺は彼に別れを告げられて何をしてしまったんだろう? ただひたすら泣いていた気がする。泣いて同情を買おうと考えて、それに失敗したから誰かに縋ろうと目標を変えたんだ。一度目はあかりに縋って、それは途中で樹によって止められた。二度目は親の顔をしているカイを煽り、何も知らなかったはずのあいつを巧いこと利用してしまった。誰かに愛して欲しかったから利用したんだ。あいつはきっとああいうことは望んでいなかった、でも俺と仲直りするにはそれしかないって思わせることに成功して、全てが上手くいったと思って俺は満足していたに違いない! なんという――馬鹿なことを! あいつには何の罪もないはずだったじゃないか、それなのに俺は、またくだらない欲望の為に人を巻き込んでしまったのか!
「もう……誰とも関わらない方がいいのかな」
 酒の水面に自分の顔が映っている。小さな衝撃によってぐにゃりと歪み、すぐに原形が壊れて分からなくなってしまった。
「誰にも会わないで、たった一人で静かに暮らして、誰の愛も求めないようにすれば、僕は幸せになれるんだろうか」
「そんなこと知るか。答えが欲しけりゃ、そいつを飲めよ」
「……」
 吐き出す息が震えていた。目の前にある答えをもたらす物は本来嫌っていたはずの物で、どういうわけだか目の敵にしていた要素であることには違いないはずだった。俺はそれを「逃げ」だと思っていた。世の中で比較的簡単に手に入る、安価な快楽を約束する瞬間的な薬と解釈していたんだろう。誘われても断れば済む問題だった。だけど俺の密かな欲望は手をそこへと誘導し、闇に包まれた透明な世界へと近付いていく。
「お前のこと、羨ましいよ。冗談抜きで羨ましい。……俺も外の世界で生きてたら、お前みたいに愛される人間になれたのかもしれなかったな」
「愛される? 僕は、本当に愛されているのか?」
 ふと肩に白い手が置かれた気がした。その上から垂れてきたのは綺麗な白銀の髪であり、見上げた先に二つの赤い目が優しげに笑っている幻が見えた。
「あんなこと、しなければよかった――」
 机の上に雫が零れる。
 俺は石のように冷たいコップを手のひらの中に収め、その中にある液体をぐいと喉の奥へ流し込んだ。

 

 

 

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