月のない夜に

 

 

 いつかどこかで俺は「愛がなければ不安」と告白したことがあった気がしたが、一体それが誰に向けた言葉だったのか、また何の為に口走った内容だったのかを思い出すことができなかった。自分の口から出た愛という名の不明瞭なものと、頭の中で思い描いている理想に似た愛、そして実際に俺自身が探し求めている愛の三つがあって、どうしてもそれらを統合して見ることができないでいた。様々な要因がそれら三つを執拗にかき混ぜ、浮き上がる相違点を発見しては俺の中の誰かが笑う。だから俺はそいつを黙らせようと目を開いていた。それなのに、俺には愛の姿が分からないから道に迷うしかない。自分から誘わなければ俺の目を見てくれる人はいなくて、うまい具合に誤魔化さなけりゃ誰も俺を愛してくれない。そうなったら残る方法はただ一つで――それを実現したならば、皆が俺を憐みの目で見てくるんだ。
 元の生活に戻れなくなることがこんなにも苦しいことだなんて知らなかった。組織を抜け出した時とはわけが違う、あの頃は俺を支えてくれる人がいたから崩れずに済んだ。だけど今はどうなんだ? なぜ俺を救うと言った人に見放され、この暗闇を独りで走り続けているのか? いいや、きっと理由など存在しない。これまでと同じように、俺はただ世界の大きな流れに弄ばれているだけなんだ。そこに苦痛が伴うのだとしたら、俺はひたすら耐えなければならない。
 今は深い水の底に沈んでいるような感覚があった。水面はおそらくきらきらと輝いているだろう。息ができなくなった僕はどこでだって生きていられる。空気を必要とすることもないのに、求めるものはそれとよく似た形をしているような気がした。
「何が怖いの? 君はどうして動けなくなったのか、根本的な原因をちゃんと理解しているの?」
 座り込む僕の傍らに昔の自分が佇んでいる。語りかける口調は穏やかで、普段のように様々なもので素顔を隠したりはしていないようだった。僕は僕自身と向き合う覚悟を置き去りにしている。踏み込んだなら、とことん落ちて挙句には飲み込まれてしまいそうで怖かったのだ。だが僕は抗えない圧力に押し潰され、既に底辺まで落ちて這い上がることもできなくなっている。僕を救う光だけに焦がれ、他のどんなものを得ようとも決して納得できない精神に陥っていた。
 僕は早いところ目を覚まさなければならない。そうしなきゃ強大な時の流れに蹴落とされ、生命を持たぬ自分は忘れ去られる他にない。僕の記憶がここにないのならそれは生きているとは言えないのだろう。まどろみという名の海は深く、光でも見つけられなきゃ水面に到達することもできないんだ。……

 

 

 誰かの吐息を頬に感じ、俺はふと目を覚ました。普段以上に目蓋が重い気がしたが、それを無理に押し上げて確実に自身を覚醒させる。
 どうやら俺はベッドに押し込められているようだった。見慣れぬ部屋には誰の影もなく、家の外から聞こえる鳥の鳴き声が頭の中に直接入り込む。身体を起こすと妙な肌寒さを感じた。反射的に自身の身体を確認すると、どういうわけか一糸纏わぬ姿になっていた。
 昨夜の記憶が一切残っていない。俺はどのようにしてこの部屋に辿り着き、この白いベッドの中に入ったのだろう。そしてなぜ俺は裸のまま眠っていたのか? まさかヨウトやエダが余計なことをしたのではないだろうか。いいや、思い出してきた。確か昨夜はエダが酔っ払って帰ってきて、彼に暴力を振るわれたヨウトはそのまま姿を消してしまったんだ。そして俺は何をした? あの二人の様子を近距離から眺めていて、それから何かおかしなことをしたような気がするが、肝心な部分の記憶が抜けていて何一つはっきりとしているものがない。
 ベッドから出る為立ち上がろうとすると、何かに後ろから腕を掴まれた。それは人間の手のように感じられた。驚いて振り返ると、視界に何やら赤いものが飛び込んでくる。
「おはよう、ラザーラス」
「は――」
 赤い瞳がウインクしていた。俺が入っているベッドにエダが寝転んでいたんだ。なぜ俺はこいつと一緒に寝ていたんだ? そればかりか相手も裸に見える、これは一体どういうことだ?
 気分が悪くなってエダの手を振り払い、全力でベッドから飛び出した。手に持っていた掛け布団を引っ張ったために仰向けに寝ているエダの全身が目に見えるようになる。彼はやはり裸のままだった。まさか俺は酔っ払った彼に襲われたことにも気付かず眠っていたというのだろうか!
「朝からそんなに睨むなよ。昨夜はあんなに可愛らしかったのに」
「貴様、何を――何をしたんだ、言え!」
「そう怒鳴るなって。それよりも朝飯だ」
 まるで気にしていない彼はゆっくりと身体を起こし、床に散らばっていた服を拾い上げてそれを悠長に身につけた。俺は呆然として彼の行動を眺めることしかできない。
 俺の知らないところで何かが起こっていたのは確かだった。そしてその何かの正体を彼は知っている。遠く過ぎ去った黎明以前の記憶は俺の中に無く、赤い目の男が全て食い散らかしてしまったのだろうか。彼に問いたださねば自分を納得させることができなかった。しかし秘密のような謎めいた事実を知ったとして、俺は素直に状況を受け入れることができるんだろうか?
「お前も服くらい着ろよ」
 手の中にあった掛け布団を剥ぎ取られる。代わりに相手が投げてきたのは黒い布地の物で、操られるままにそれを広げると黒服であることが分かった。俺に背を向けた相手は掛け布団をベッドの上に置き、両手を使って綺麗に整えている。なんとなく胸に手を持っていくと冷たい金属の感触が挨拶をし、俺はそれだけで幾らかの安堵を取り戻すことができた。
 何も言わず部屋から出ていったエダを目で追いながら、俺は渡された黒服を大人しく着込む。彼が何を考えているのかなど分かるはずもなかったが、どうやら俺を追い詰めいたぶる嗜好は現在の精神に影響を及ぼしていないらしい。ふと思い出したのは樹の言葉で、彼がエダのことをスイネと呼んでいた声が頭の中に反響し始めていた。その囁きが身体全体にぶわっと広がって、愛おしさのせいで胸が窮屈そうに唸ったのかもしれない。俺は突然思い出してしまった彼の存在をどうにかして抹消せねばならなかった。
 部屋を出て玄関へ足を向けると、狭い部屋の中にエダとヨウトが集まっている様を見かけた。二人は部屋の面積の三分の二以上を占める机を挟んで向き合っており、機嫌のよさそうなヨウトが鼻歌を歌いながら机の上に料理を並べているようだった。なんとも平和そうな風景であったが、俺はそれを破壊する為に部屋の中に乗り込んでいく。
「あ、ロイ。おはよう」
「……ああ」
 真っ先に声をかけてきたヨウトにとりあえずの挨拶を向け、飄々とした顔のエダに鋭い視線を浴びせかける。しかし相手はそれに応じる様子もなく、俺はヨウトに腕を引っ張られて空いている椅子に座らせられた。
「二人とも、お腹すいたでしょ? ほら、いっぱい食べていいんだよ」
 満面の笑みがちょうど前の席にあった。どうしても聞き出さねばならない疑問が胸の内でくすぶっていたが、ヨウトを怒らせる必要も感じられなかったので、今は大人しく彼の作ってくれた朝食を頂戴することにした。目の前に並んだ皿の上には大量の野菜が乗せられており、鳥獣の類は一つとして見当たらない。鮮やかな緑にぐるぐる巻きのドレッシングが細い線を描き、たくさんある皿の全てがこのような有様だった。
「どうしたの、ロイ。何か気に入らないことでもある?」
「あ、いや――」
 この少年はいわゆるベジタリアンなのだろうか。今までそんな話を聞いたことがなかったが、思い返せば彼がものを食べている姿を見たことさえなかった。それなのになぜいきなり料理に興味を持ったのだろう。エダに認めてもらう為だなんて言っていたが、もっと別の理由を見落としているような気がしてならなかった。
「ごちそうさん」
 俺が料理をまじまじと観察している隙に食べ終わったのだろう、隣に座っていたエダが小さく声を出して立ち上がろうとした。
「待ってよ、エダさん。少ししか食べてないじゃない。……もしかして口に合わなかった?」
「そういうんじゃないさ。ただ腹が減ってないってだけで」
「朝食を欠食したらお昼になるまで力が出ないでしょ。ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」
「何をいきなり偉そうに。今まで食ってなかったんだから平気さ」
「でも――」
 ヨウトの声を背に、エダは普段通りの態度で部屋を出ていった。短い廊下を歩く足音が妙に大きく響き渡る。
「ヨウト。俺も要らない」
 彼を傷つけるつもりはなかったが、俺の言葉に相手は悲しそうな顔をした。申し訳なさが頭の中に舞い降りてきたが、この程度で崩れるくらいなら俺は今ここに居られなかっただろう。
「ごめんな。でも、夜は貰うよ」
「……うん」
 果たせるかどうか分からない約束を交わし、俺はエダを追う為に部屋を出る。
 どうやらエダは家の外に出たらしかった。この狭い家に隠れられるような場所は存在しないから安易に想像できたが、玄関の扉を開けても彼の姿を見つけられずに足止めを食らってしまう。周囲を見渡すと強い風が全身に吹き付け、どこからともなく飛ばされてきた葉が目の前を勢いよく通り過ぎていった。その先を目で追うと見慣れた後ろ姿を見つけた気がした。他に何も手掛かりなどなかったので、とりあえずそれを追いかける為に一歩踏み出す。
 視界がぐらりと歪み、強い眩暈を感じて壁に手をついて身体を支えた。そればかりか針で刺されたような痛みが頭を襲う。拍車をかけるように胸の鼓動が速度を増し、俺は一度自身を落ち着かせる為に深く呼吸をした。なかなか異様な動悸は治まらず、彼が遠ざかっていくと考えると余計に焦りが芽生え始める。頭で考えていても仕方がないと思い直し、俺はとにかく歩いてみることにした。
 一歩踏み出すたびに世界がぐにゃぐにゃと形を変えて見えた。左右など既に認識できず、しまいには上下さえ分からなくなるのかもしれないと冷静に判断する自分がいたことが滑稽だった。ふらつく足で前進を続け、ほとんど人の姿が見えない住宅街を一人で歩く。歪んだ視界には薄く靄が張り巡らされ、全てが夢の中のようにふわふわとして現実味がなかった。頭上を素早く通り過ぎた鳥に気を取られ、ぐいと顔を上に向けた途端に足元の感覚がおかしいことに気付く。反射的に両手を前に突き出し、俺は今にも転びそうな自分の身を守ろうとした。
「お前、何やってんだよ」
 後ろに身体を引かれ、倒れることはなかった。俺を引っ張ったのはエダだった。もうすっかり取り残されたと思っていたのに、相手は俺より後ろを歩いていたのだろうか。いいや、それよりも、探していた相手が自ら出向いてくれたのだから都合がいい。
「昨日のこと――教えろよ!」
 倒れかけていた身体を元に戻し、相手の胸ぐらを力任せに掴む。靄の中にいるエダはそれでも表情を変えなかった。
「俺が本当のことを話したって、どうせお前は信じやしないさ」
 落ち着いた様子でそれだけを言った相手は俺の手に自身のものを重ね、やんわりとした力で俺の手を振りほどいた。持ち主の元へ戻ろうとする彼の手を掴もうと思ったが、くらくらする頭のせいで目標がしっかりと認識できなかった。伸ばした手は見事に宙に舞い、前のめりに倒れかけた俺の身体を再び相手に支えられる。
「お前、今日は家で寝てた方がいいんじゃねえの」
「黙れ」
「口だけは達者か。さすがロイ君の十八番だね」
 よく知りもしないくせに彼は情報だけでロイという人間を決めつける。全身の血流がひと巡りする頃、俺の頭から理性が閉め出されていたらしい。
「おいおい、俺はお前と殴り合いするつもりはねえぞ」
 重い身体を使って腕を持ち上げ、相手のどこでもいいから届けばいいと思った。普通に殴りかかっただけなのに足枷でも付けられているかのような重さを感じる。とにかく身体の軸だけを折らぬよう注意を払い、ひらりと身を翻した相手にもう一度拳を振り上げた。
「せっかく忠告してやったのに可愛げのない奴だな」
 風の生温かさが吐き気を誘う。胃の中がぐるぐるして気色が悪い。少しでもむかつきを抑える為に唾を飲み込むと、力を込めた手のひらが地面の敷石に添えられていた。縮められた身体が大地に土下座でもしているようだ。
「俺はもう行くぜ。じゃあな」
「待て――」
 視界から彼の靴が消える。俺の言葉はいつだって置き去りにされていた。エダには逃げられ、樹には見捨てられ、次に俺を拾うのは誰だ? ヨウトは掬い上げてくれないだろう。ヤウラは共に立って終わりだ。真やカイは俺をまだ知らない。誰かに縋りたくて手を伸ばしているのに、どうして誰の名も無情に俺の隣を通り過ぎてしまうのだろう!
 情けなさなど感じる余裕がなかった。今の自分のことは自分が一番に知っているはずだった。このままでは崩壊する、独りで足掻けば足掻くほど罠に陥り、今度こそ片足を深淵に喰われたままその時を待っているんだ。多くの人間は微笑みながら俺を眺めている。赤と黒に染められた精神がばらばらになり、砂のように原形を留めぬほど変わってしまうことを待ち望んでいるんだ。俺はそれが怖い、どうしたって止められない崩壊が怖いんだ! 助けを求めて泣き叫ぶけど、何か壁のような厚いガラスのせいで、大衆には俺の声など届かないままだった。
 身体の調子がよくないのは精神的に追い詰められているからだろうか。もう何もかもを知っておきたいと思うのに、なぜエダは俺に事実を教えても無駄だと判断するのだろう。知られたくないなら隠しておけばよかったものを。どうして分かりやすい証拠をわざわざ残し、俺におかしな謎かけだけを見せびらかせてくるんだろう。そんなことをされても気分が悪くなるだけだ。所詮あいつは罪人らしいサディストでしかなかったというわけなのだろうか――。
「大丈夫ですか?」
「え」
 醜い感情が吹き零れる直前に、翡翠色の煌めきが目の前にあった。

 

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 薄い赤に、存在を主張する黄色が混じり、ひっそりと燃えるのは何物にも染まりやすい白色だった。新緑の如き鮮やかな葉が茎をやわらかく包み込み、今にも大きな弁を開きそうなふくらみが不規則に並んでいる。泥や血の臭いばかりを味わってきた鼻にも彼らの穏やかな香りは届き、艶やかなヴァイオリンの調べはこの空間における辛辣さを打ち消す効果を秘めていた。その中心で値段の書かれたプレートを設置している女がいる。
「昨夜、お酒を飲みましたね」
 何も覚えていないから何も答えなかった。道端で俺を気にかけた女は優しげに微笑んだまま、自分の経営している小さな花屋へ俺を身体ごと連れ込んでしまった。そうやって彼女の望み通りに大人しくしている俺は、ただ黙って店の中の段差に座り込み、無理矢理手渡されたコップに入った水を片手に持っている。
「身体のだるさの正体は簡単です、二日酔いですよ」
「どうして分かるんだ」
「私もよく二日酔いになるんですよね」
 話を聞いているのか聞いていないのか分からない返事だけが零れ落ちた。水を通して見える指が太くなっている。
「そのお水飲んだら、早く家に帰った方がいいですよ。そして今日はもうお休みになってください」
「家には帰らない。追いかけなければならない奴がいる」
「わがままな人ですねぇ」
 くるりと振り返った相手は両手を腰に当て、俺の姿を頭から見下ろしてくる。
「あなた、この辺りの人じゃないですよね」
 きゅっと指に力を込めた。真っ白だった紙が虫に食われる時を待つ気分だ。喉の奥が一度くるりと鳴り、舌の上に溜まる唾に知らないふりをして口を開く。
「あんたに教えることなんて何もない」
「そんな邪険にしないでくださいよ。私はあなたを責めてるわけじゃないですよ」
「もういい。世話になったな」
 まだ水の残っているコップを相手に突き付ける。彼女は目を丸くしてそれを受け取り、そのまま何も言わず立ち上がった俺の顔をすぐ近くで見上げていた。
 名前も知らない人間を狭い店に残し、まだふらつく身体を抱えて外に出る。太陽が告げる時刻は朝靄に包まれ、往来を行き交う人々は足早だった。誰もが目的を持って俺の前を通り過ぎ、未来の行方を見失った人間に目を留める者などいない。俺は探し出される瞬間を待っているのだろうか。彼の前から姿を消して、擬似的な平和から逃げ出して、そして同情と愛情を買おうと画策しているというのだろうか。人の好い樹は簡単に引っ掛かった、それこそ呼吸をするように容易く騙すことができた。俺は彼のことを知らなさすぎたんだ。
 何のあてもなかったが人々に混じって歩き出す。朝の風が挨拶を残す。草木も青空も俺に笑いかけているように見えた。本当は怒っているのかもしれないけど、今だけは全ての怒りを許すことができるような気がしたんだ。
 しばらく歩くと公園に着いた。薄着で走っている人が何人か見えた。家族で散歩をしている集団も見える。大きな噴水を見上げる男女が一組、仲睦まじく手を繋いでいた。彼らの後ろを通り過ぎ、草が綺麗に刈られた丘へと向かった。
 赤い髪の男が座り込んでいた。手には何も持っていない。何をするでもなくぼんやりと、空に浮かぶ雲でも眺めているようだった。こちらに気付くとちょっと微笑み、再び視線を高い場所へと投げかける。
「意地でも知りたいって感じだな、お前」
 彼はエダだった。相手の斜め後ろに張り付いて立ち止まる。
「こんな所で何をしている」
「何って、インスピレーション」
 わけの分からないことを言う男だった。それは誰かを蹴落とす為の演技ではなく、彼の個性と呼ばれる類のものらしい。
「俺の兄貴、絵を描くのが好きだったらしくてさ。もちろん子供の頃はそんな趣味はなかったけど、ほら、兄貴の家に絵がいっぱいあっただろ」
 目の端に赤い炎がちらつく。樹が見た記憶は俺の中には存在しない。彼の兄の作品と共にそれは灰となったはずで、いくら振り返ろうとそこに辿り着く手段は断たれた。
「兄貴の絵を見て思ったんだけどさ、兄貴が一番描きたかったものって何だったんだろうって。あの小屋に置いてあった絵はどれも未完成品で、兄貴は本当に描きたかったものを描かないまま死んじまったんじゃないかと思ったんだ」
「それで、お前があいつの遺志を受け継ぐと言いたいのか」
「まあそんなとこ」
 世の中の失望や苦痛しか知らない人間が芸術の中へ身を投じると宣言している。俺にはそれが良いことなのか悪いことなのか判断できない。彼の中から犯罪を奪うことは、本当に彼の為になることなのか。堕落から這い上がることのできる道は偽りではない世界へと続いているのだろうか?
「昨夜のことは、お前が想像してる通りだよ。ただ誘ってきたのはお前の方だったぜ。確かに酒を勧めた俺も悪かったけどさ、訊ねたら本音みたいなことぺらぺらとよく喋ってくれた」
 彼の言葉に俺はそれほど驚かなかった。予想していた範疇の過去であり、彼が嘘を連ねているとしてもそれに対し苛立つ理由も消え去ってしまったのだろう。今はそれよりも、彼の口から事実を聞いたことが大事だった。
「それで、樹君はどうしたんだ?」
 まっすぐ見上げる目があった。ただその眼光は返答を待つ色ではなかった。
「あいつには振られた」
「ああ、そう。でも納得してないんだろ。今ならまだ間に合うんじゃねえの」
「もう何をしたって無駄だ」
「何もしてないくせによく言うよ」
 エダは手を伸ばし草をむしった。ぱらぱらと彼の手のひらから緑が舞い落ちる。
「じゃあどうしろって言うんだ」
「本音を伝えればいいだろ。お前の本音を」
「俺はちゃんとあいつに伝えたんだ、だけどあいつはあいつの意思を曲げなかった! こうすることが一番の方法だって思い込んでて、俺のわがままなんて聞いてられないって!」
「恋愛なんてわがままの塊だろ? 樹君もお前も、ただ臆病になってるだけなんじゃないのか」
 何も知らないはずなのに、彼は俺を貫くすべを知っている。山ほど溜まっていた伝えたいことが俺の中にあることに気付いた。俺はまだ何一つとして樹に見せていなかったのではないかと思った。汚い部分を隠そうと必死だったのは、嫌われることが怖くて孤独を恐れる臆病者の癖だったんじゃないだろうか?
 エダはすっと立ち上がり、手を上げて遠くを見つめる仕草をした。彼の視線は空の向こうへ投げられているようだった。俺には見えない何かが彼には見えているような気がした。いつかは俺の方が先へと進んでいたはずだったのに、いつの間に追い抜かれてしまったのだろう。
「俺さ、もう組織には戻らない」
 彼の存在が遠く感じる。
「どうして」
「さあな、外に興味が出たからじゃねえの。それに、ヨウトの奴がやたらくっついてきやがるから、あいつを放っておくとうるさいんだよ」
「逃げればいいじゃないか」
 口から出てきた言葉には確かに聞き覚えがあった。だから俺は相手の返答を既に知っていたんだ。
「逃げられないから困ってるんだろ?」
 そう言って振り返った相手はなぜだかすごく清々しく見えた。そして見せつけられた明確な距離に、俺はひたすら納得することしかできなかった。

 

 

 散らばった水玉が互いに触れた時、それらは何の抵抗も許されないまま混ざり合うしか方法がないのなら、そこから生まれる新しい色はより良いものと言い切ることが叶わなかった。狭い白の空間で主に逆らえない赤と青が溶け合っている。神の視点で見下ろす瞳はその先にあるものしか見ようとせず、情報として認識される最小限の色彩など、彼にとっては非常に些細なことであるようだった。その横顔を俺は知っていた。使い古されたカラーを一から作り直す手の動きは、かつて無心に覗いていたあの人の動作に他ならなかった。
 真っ白で何も描かれていない紙を前に、エダはパレットで色を作り続けていた。絵具の瓶を斜めに傾け、そこから垂れる色を眺めながら、既に存在していた別の色を上書きしてしまう。その所作はただ遊んでいるだけのようにも見えた。色を作るだけで決して何かを描こうとしなかったから、彼は何の為に絵筆を持っているのか忘れているのではないかと思った。
「あの人も、絵を描くのが好きなんだってな」
 くるくると絵筆を回しながら彼は小さく呟く。静かな部屋の中でのそれは俺に向けられた台詞であったのだろう。
「お前、見たことある? あの人の作品」
「――ああ」
 それが完成していたものかどうかは分からない。あの人はいつだって、優しく微笑んで俺に全てを見せてくれていた。俺の望むものなら何でも良かった。その為に俺は動けなくなっていたのかもしれなかった。
「そんなにつらいなら、気を紛らわせた方がいい。趣味は大事だぜ。好きなことに没頭できる時間ってのは、上手く生きる為にどうしても必要になってくる」
「俺は……趣味なんてない」
「それが問題なんだよな。ま、そのうち見つかるんじゃねえの」
 ここに来てからの彼は変わっていた。あの頃ずっと恐れていた面影などなく、どうしてだか普遍的な人間のように細い息を吐き出していた。心境の変化があったとすれば、樹に会ったことが原因だろう。俺と同じように彼に愛されたいと願ったから、いろんなことが煩わしくなってどうしようもなくなってしまったんだろう。
「エダ」
 呼び掛けると相手は小さく返事をした。視線の先は変えないまま、絵具での遊びも留まらせはしなかった。俺は彼の本心を知りたくて仕方がない。
「どうしてお前は、俺に目を付けたんだ」
 息を吐く音が聞こえなくなる。代わりに吐き出されたのは、紫の地平線だけ。
「相手が誰だろうとどうでもよかった。お前がロイだろうがラザーラスだろうが、お前の組織での役割を演じていた奴が必要だったから、結果としてお前のところに行き着いたってだけだ。全体の士気が下がっててね……仕事に支障は出るし、失敗したらティナアさんが怒るし、ケキさんはほとんど仕事をしなくなるしで、あの組織にはお前の存在がなければならなかった。だから、俺が偽りなくその問いに答えるとすれば、仕事だったからってことになる」
 彼が部下を使わず自分で動いたことは、単なる気紛れの類で片付く理由なのだろう。ヨウトがエダの企みに気付いたことさえ偶然と明言するなら、はじまりは不確定な、何もかもが見えない暗闇から創られていった劇だった。その演技を通して得られた感情は確かに誤算であり、俺も彼も目が覚めたように海底へと沈んでしまった。ゆらゆらと揺れる水面を眺めながら、いつかその上へ飛び出せる時を夢見つつ、地上の輝きを眩しそうに見上げている。生まれて間もない感情は脆く危険だった。身を守るすべをまだ習得していないから、傷付けられた個所を癒す方法を模索しながら生きていく他に生還するよすがもない。
「ま、過去のことなんてどうでもいいさ。それより問題はお前自身だろ。あの子に振られたこと、どうしても納得できないんなら、やっぱりちゃんと伝えておいた方がいいと思うぜ。顔を合わせるのが怖いなら電話で、声を聞くことさえ恐れるんなら手紙で。ああ、そういやメールって手段もあったな。感情的になって失敗するのが嫌なら文章で伝えることの方が効果的だと思うけど、どうする?」
 なぜ彼はこんなことを言ってくるのだろう。俺が誰に嫌われようと、彼にとってはどうでもいいことなのではなかったのだろうか。かつて見下していたあの瞳とは明らかに違う、今の彼は確かに、大勢の中から一人の人間を見つけ出した目の色をしていた。頭をそのまま誰かとすり替えたかのように、態度も視線も考え方も変わっていた。
 そうさせたのはきっと彼。俺が愛してやまない人。おそらく彼は自覚していないだろう。組織でうずくまって暗闇ばかりに目を向けていた人たちを、彼は気付かないうちに一人ずつ、だけど確実に掬い上げていたんだ。俺だって彼に救われていた。俺が自分とは何の関係もない他人を信じようと感じたのは、相手が彼だったからこそそこへ行き着くことができたのだろう。きっとリヴァセールや薫やあかりでは駄目だった。カイや真やヤウラでも不可能だった。あいつだったから、樹だったからこそ、自分の中の何もかもを放り出しても構わないほど信じていられたのだろう。俺が彼の手に触れ、視線を浴び、言葉で包み込まれるたびに、彼という光に魂を差し出していた。そうさせる強い何かが彼には確かに存在していたんだ! そしてそれを感じていたのは俺だけじゃなかった。ただそれだけ、それだけのことだった。
「もし本音を伝えたとして、そして……嫌われたら?」
 目の前にいるのは赤い髪の男だったが、もしかすると大きな鏡が置かれていたのかもしれない。俺はそれに向かって独り言を囁いているのか。
「嫌わないさ。あの子は確かにお前を愛してる。お前を誰にも渡したくなくて、目覚めた俺を壊したんだと思い込んでる。あの子は……ただ俺にきっかけを与えてくれたにすぎない。お前だってそうだな、ラザーラス。お前たち二人から見れば俺なんてただの邪魔者で、或いは二人をくっつける為に一役買った脇役のように思われてるかもな」
 そう言ってエダは少し声を出して笑った。その肩や手がとても小さく見えた。薄くなっていたんだ。彼の存在そのものが、俺の前から消えて無くなってしまうんじゃないかと思えた。
「恐れるなよ、自信を持て。時間ならまだまだたくさんあるさ。焦ることはないが、お前がぼんやりしていると、そのうちどこかから現れた美人さんにでもひょいと奪われちまうかもしれないぜ?」
「いきなり親身になるなんて、お前、気色悪いぞ」
「なんだと、人がせっかく心配してやったのに! そんなこと言われるなんて心外だな、こんなことなら言わなきゃよかった!」
「ありがとう」
 どうしてお礼を言ったのかは分からない。彼の表情が目の前でくるくる変わっていたけれど、俺の顔はずっと同じ絵を保っていた。光明を見出した彼が羨ましく思えたのだろうか。望みが朽ち果てた末に再興した目標が立派だったから、単純に彼の生き方が眩しくて目がくらんだのだろうか。今の自分では相手の足元にも及ばなかった。ただその一方で感じることは、圧倒的な感情の距離ではなく、彼が隠そうとしているひっそりとしたものの気配だった。
「ヨウトは?」
「あいつは買い物。夕方までには戻るだろ」
「帰ってくるまでここにいていい?」
「ご自由に」
 陽の光に照らされた絵の具が新しい色を演出する。その煌めきを絵筆でかき混ぜる青年の横顔は、俺が今まで見てきた誰かのものとそっくりだと感じられた。

 

 +++++

 

 太陽が傾きかけた頃にヨウトは帰ってきた。買い物をしたはいいが料理の方法が分からないということで、俺はまた彼の夕食作りに付き合うこととなった。ヨウトは組織の中でも器用で物覚えがいい方だったが、時々何かをやらかしては周囲を困らせるような奴だった。その特性が料理中でも足を引っ張り、彼はあまり家事には向いていないと結論付けた頃に全ての品が完成していた。
 三人で質素な夕食を終え、片付けもすっかり済んだ時、いざ眠ろうと考えて自分の部屋がないことに気が付いた。俺はエダとヨウトの家に居候させてもらっている身であり、当然のことながら自由に使っていい部屋などない。昨夜はエダの部屋で眠っていたらしいが、冗談でも彼と一緒に眠ることだけは避けたかった。そんな俺の心情に気付いたのか、エダの提案で今晩は臨時としてヨウトの部屋にあるベッドを借りることになった。
「なかなかいい部屋でしょ? 窓の外は壁だけど」
 俺をそこへ案内したヨウトは得意げに部屋の自慢話をした。しかし小さい家だから部屋の面積も狭く、机と椅子とベッドだけでかなりの境域を圧迫していた。それでも必要な物だけを置く空間は嫌いにはなれず、第一印象としてはなかなか良い部屋だと感じられる。
「ボロっちい家だから電気はないよ。これが蝋燭。窓は閉めておこっか、まだ寒いもんね。それから――」
「ヨウト」
 嬉しくて仕方がないと言わんばかりに喋り続ける相手を黙らせる。名を呼べば彼はこちらを振り返り、不思議そうに俺の次の言葉を待ち構えた。その受け身な体勢が心地良い。
「今日は本当は早めに寝たいんだが、少しだけ話をしないか?」
「えっ、いいよ、もちろん!」
 俺は白いベッドに腰を下ろす。ヨウトは飛ぶように隣にくっついてきた。無邪気な目が輝いている。俺は彼の望みを知り尽くしているから、この黄泉からの使者を操ることなど容易だったのだろう。
「何のお話しをするの?」
「お前に聞きたいことがあるんだ。エダのことについて」
 相手の大きな目がより大きく開かれた。
「あいつは組織に戻らないと言っていた。その理由はまだはっきりと分かってないらしかったが、理由の一つとしてお前の名前が出ていたんだ。お前がくっついて離れないから放っておけないって。お前はエダより俺や樹の方が好きだと言っていたな。あいつのことは嫌いでも何でもないって、そう言っていた。それなのになぜあいつのところに留まるんだ? あいつはお前の自由を制限し、喧嘩ばかりするようになるんじゃないのか」
「理由なんて大したことじゃないよ」
 まっすぐ返ってきた声は静かで澄んでいる。偽りを知らない子供はしばらく黙り、幾度か呼吸を終えてから返答の続きを口に出した。
「エダさんはあくまでおまけだよ。本当は僕が組織を出たかったから、外の世界で生きたくなったからここにいるんだ。僕はエダさんを利用してるんだよ。だってあの人が身内になってくれたら、いろいろと便利なことがあるんだもの」
「そうか」
 ぽんぽんとヨウトの頭を撫でるように触れる。彼の台詞の真意がどこにあるか、今の俺には充分すぎるほどよく分かっていた。
「ロイはこれからどうするの? ずっとこの家で暮らしてくれたら、僕はすごく嬉しいんだけど」
「俺はここにはいられないさ。帰るべき場所はここじゃない。ちゃんと……伝えてみるから」
 不思議そうにこちらを見るヨウトの前で懐から携帯電話を取り出す。夕食前にエダが言っていたことがずっと頭の中から離れなかった。嫌われてないのなら、素直に自分を打ち明ければいいのだろう。感情的になることを避ける為に、厳選した方法のみで伝達に臨むべきだった。
 携帯を操作して画面を切り替える。既に暗くなった天井が映し出され、ヨウトは蝋燭に火を灯した。それからぐっと頭を突き出して画面を覗き込んでくる。
「メール? それって、お手紙だよね?」
「エダに言われたんだ、電話よりこっちの方がいいって。面と向かって話してたら、きっと同じことを繰り返してしまうから」
「そっか。じゃ僕は大人しくしてるね。ロイの邪魔したいわけじゃないもの」
 火の灯った蝋燭を机の上に置き、ヨウトは窓の方へと体を寄せた。おかげで俺は一人で携帯の画面と向き合うこととなる。どうにかして自分の思いを自分一人で言葉に変換しなければならなかった。
 いざ文章を考えてみると面白いほど何も思い浮かばなかった。そもそも俺があいつに伝えたいこととは何だろう。あいつの言い分としては、俺とあいつとじゃ生きられる時間が違うから、このままお互いを想っていても別れの時がつらくなるというものだった。だったら俺は別れるのはつらくないと返答すればいいのだろうか。共に過ごしたことを後悔することもなく、一時の苦痛を必ず乗り越え、未来へ向かって歩むことを約束すればいいのだろうか。いいや、違う。そうじゃない、俺が伝えたいことはそんな理屈っぽい誓いじゃないんだ。
 打ちかけていた文章を消去していく。また真っ白に戻った画面は俺の言葉を待ち構えていた。
 彼に伝えたいこと。正直な自分の気持ち。それはただ一緒にいたいという願いだけだ。他のことなど望まない、あいつと共に生きられればそれでいい。恋人になりたいとか、家族になりたいとか、そういうことじゃない。同じ時間を共有して、同じ幸せを味わいたいってだけだったじゃないか! だけどそれを言葉に直すすべが分からなかった。どんな言葉で伝えたなら偽りなく届けられるだろう。たとえば質素な文字だけで作ったとしても、それはやはり装飾された煌びやかな文章だった。俺はまた打ちかけていた長ったらしい文章を破壊していった。
 素朴さも荘厳さも画面の中では全て同一だった。考え方は異なっているはずなのに、文字にした途端にその個性が消え失せる。メールとはこんなにも頑固なものだっただろうか。いや、メールだけに限らず、型にはまった文字とは全てこのようなものなんだろう。俺は何度か文章を作り出した。出来上がった全体を眺め、推敲を繰り返した。俺は幾度も完成したと感じた。だけどいざ送信ボタンを押そうとすると、送り出す文の何もかもが偽りに彩られたもののように思え、結局は全てを削除してしまった。それを飽きることなく繰り返し、底の方へと落ちていく。
 なぜ俺はこんなことをしているのだろう。それは彼と仲直りをしたかったからだ。ならばどうして俺は彼と喧嘩をしてしまったのか。あいつがいけないんだ、いきなり俺を突き放して、その方が俺は幸せになれるだなんてことを言うなど卑怯じゃないか。そしてその言葉を俺はすっかり信じ込んでいる。どうして信じられるようになった? あんな奴はただの他人だ、それなのになぜ俺は彼の全てを疑わない? なぜって、決まってるだろ、あいつが正直に自身の何もかもを白状してくれたからだ! 彼の隠さなかった感情が痛いほど胸を貫いて、俺の奥の方まで染み込んできたから彼を信じようと思ったんじゃないか! 決して彼に頼りたかったわけではない。ただ彼にだけは愛されたかった。愛されたかったし愛したかった。愛など何も知らぬ人間が、何を滑稽なことをほざいているのだろう!
 いつからこんなにもつれ合い、複雑になってしまったのか。感情も理性も身体も何かに捕らわれて動けなくなっている。俺はただ彼と一緒にいたいだけだった。傍に座って、つまらない話をして、それで笑い合えればそれだけで良かった。その為にならどんな汚い仕事でも全て請け負う覚悟でいたんだ! なのになぜ? いつになれば俺は、彼の目に触れることを許される日が来るのだろう? 傍にいたいと思うことがそんなにいけないことなのか?
 ただ破壊だけが繰り返される。俺は自分から滲み出た感情を静かに眺めるが、それを自ら壊す行為は臆病者の守護にすぎなかった。知らず知らずのうちに遠回しな表現を作り出し、それに頼って手の中からとめどなく感情が零れ落ちていく。俺は彼に対しどんな気持ちを抱いているのか。どんな目で彼を見て、何をしてもらえたなら幸福を感じることができるのだろう。
 彼の全てが欲しい。それ以外に何がある? 俺は、ああそうだ、彼に攫われても構わなかった! 最大の願いは心中だ、叶うならば彼に殺されたいと思っている。俺は気が変になっているんだろう。生の中に見つけられない幸せなど、一体どれほどの価値があるというのか!
 携帯の電源を切る。それを机の上にある蝋燭の隣に置いた。巻き起こった僅かな風が消えそうな炎を小さく揺らした。共に見ていた茶色い瞳は、俺の目の届かないところへ行ってしまったのだ。
『可哀想な子』
 見下ろすのはいつだって自分だった。冷たい視線を浴びせるのも自分で、罵声を降らせるのだって自分に他ならない。その口が幾度も嘘をつく。俺は知らないふりを決め込み、全身に走る痛みを忘れる為に口の中へ指を突っ込んだ。
 人差し指の上に中指を添え、唾液で湿った舌をすくい上げるようにゆっくりと触れる。唇の先まで舌を引っ張り出し、粘り気のある感触に酔いしれそうになった。指に絡みついた唾液を首筋まで誘導する。それが枯れた後にも手は下降を続け、服の上から身体のラインを確認した。昔に比べ大きくなった胸や腹はたった一つの細い柱に支えられ、何か強い力が加わるとすぐにでも折れてしまいそうなほど頼りなく感じられた。夜の闇に紛れてしまえば肌の色など関係ない。守り続けることなど無意味な抵抗であり、だからこそこの身体を好きになってくれた彼に嫌われたくなかったんだ。硬いベルトを通り過ぎ、太ももの上に手を乗せる。他人に触られるとあんなに気色が悪くなるのに、自分で意識して触ったなら驚くほど何も感じられなかった。それがひどく恐ろしくて唇が震えた。
「ロイ」
 寒くて身体を両腕で抱き締めた。どこかから俺を罵る声が聞こえてきた。足がなくなって立てなくなった俺を指差し、彼らは大声で俺を嘲笑った。金色に光る鳥が俺の中から放たれ、空へ向かって飛び立ったなら瞬時に撃ち殺されてしまった。彼を打ち抜いた銃は灰色の煙を絶え間なく吐き出し、周囲の人間はその毒にやられてばたばたと倒れていく。耳の奥がざわざわする。指と指の隙間から血液が吹き零れている気がした。目を閉じると綺麗な花が開花する刹那が見えた。だけどその花は人間を敵視する生物であり、あの銃よりもずっと強い毒を美しさの裏に隠していた。俺はそれに向かって手を伸ばす。爪の先に花弁が触れ、俺の感情と記憶とが食われていく心地になる。容姿も香りも色彩も、その全てが僕を騙す罠だった。一度口を開いたならば、無数に並ぶ鋭い牙に気付き、だけどもう引き返せなかった。
「ロイ!」
 ぐっと肩を掴まれ、驚いて目を開ける。
「どうか、したの?」
 唐突に無音になった気がした。目の前にはヨウトがいる。
「お手紙は――メールはちゃんと書けたの? 次に樹君と会った時、きちんと話し合いはできそう?」
 急激に感情の波が押し寄せてきた。空虚が胸を締め付け、彼の視線があまりにも優しすぎて、溢れ出る精神が止められなくなる。
「えっ……」
 俺の前にある生命を抱き締めた。幽霊であるはずなのにそれはあたたかくて、地の底から湧き出る何かが涙に変わった。彼の髪に顔を埋めると何も見えなくなる。だけどふわりとした青い髪からは甘くていい香りが漂っていたんだ。
「ロイ……ラザーラス?」
「ううん、ロイでいい。だから、ヨウト――お願い」
 髪に包まれたまま目を開く。見えるのは透明な、澄んでいる涙だけ。
「怖いんだ。夜が、怖いんだ。どうか忘れさせて。僕をあの頃みたいに愛して」
 もはや自分一人の力では身体じゅうの震えを止めることができなかった。俺は一体何人に愛され、そして捨てられる経験を繰り返そうとしてるんだろう。今日の相手はよく知る人物で、明日の相手は優しいあの人なのだろうか?

 

 

 

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