月のない夜に

 

 

「おはよう、ロイ」
 青い目が俺の姿を捕らえている。少し大きく開かれたそれに覗き込まれると、そのまま吸い込まれて彼と同化してしまいそうだった。朝の光にやられて鈍くなった身体を強引に引きずり、俺は人の目に映る自分を創作しておく。
「昨日はよく眠れた?」
「ああ」
 ヨウトとエダを交えて三人で朝食をとった。彼らも俺も余計なことは一切口にしない。夜で生きていた者にとって朝の光ほど憂鬱なものはなかった。ただどうにかして一般人の真似事だけはしておかなければならないと思ったんだ。
「ごちそうさん」
 先に席を立ったのはやはりエダだった。短い一言だけを残し、そのまま家の中から出ていく。彼がどこに向かおうと、それはもうどうだっていいことだった。俺には彼を追いかける理由など持ち得なかったのだから。
「今日も出かけるの?」
 立ち上がると前の席にいたヨウトに声をかけられた。
「そうだな」
「また僕が留守番かぁ。早く帰ってきてね」
「ああ」
 彼もまた俺を追う理由を持たない。だから俺はあっけなく、外の世界へと向かうことができる。
 そうだ。なんて容易いことなんだろう。窓の外だって、自由だって? あの場から抜け出せば、なぜこんなにも簡単にこの形のないものに触れることができるのだろう! だったらあの生活は何だったのか? 悪い夢のようだったと、いつかの自分は言っていたが――それでも身体の隅々に残る痛みとは何なのか? ふと感じる懐かしさへ引き寄せられ、慰めを求めようとする汚い自分は一体誰なのか? 俺はまだ目覚めていないんだ。
 外の空気は湿っぽく滲んでいた。今日は雨が降るのかもしれない。人々が通り過ぎる様を観察し、えも言われぬ感覚へと突き落とされていた。朝の清々しい空気はここにはない。俺を脅かす何もかもが遠ざかり、世界は淀んだ雲に包まれている。
「あれ、あなたは」
 ぼんやりと見えるものを眺めていると、耳の奥で聞き覚えのある声が鳴っていた。
「この前の二日酔いのお兄さん。またお会いしましたね」
 両手で大事そうに花を抱える女が俺の隣に立っている。彼女は、そうだ、昨日声をかけてきた相手だ。道で倒れそうになっていた俺を引っ張り上げ、水を与えてくれた花屋の少女だった。
「今日は二日酔いじゃないんですね。昨日に比べるとすごく顔色がいいですよ」
「何か用なのか」
「いえ、ただ話しかけてみただけです。それじゃ私はこれで」
「待て」
 知らぬうちに彼女を呼び止めていた。立ち去りかけていた相手は不思議そうな目でこちらを見てくる。だけど俺は本当は、どうして彼女を止めたのかさえ理解できないでいた。頭の奥底からロイの警告がふっと溢れ出してくる。
「どうかしましたか?」
 言うべき言葉が見つからない。それでも確かな何かが胸の内で燃えていた。この香りは何だろう。以前にも似たような熱を感じたことがあったような気がしている。
「店に寄ってもいいか」
『後悔するぞ、やめておけ!』
 ロイの声にかき消されて自分の声が分からなかった。それでも相手にはちゃんと届いていたのか、微笑んで一つ頷いた姿だけは偽りなく認識することができたんだ。……

 

 

 俺はとにかく誰かと関わりたかった。いい人なら誰だって構わない、俺のことを知らない人と時間を共有していたかった。深い繋がりは俺を心地よくさせてくれるが、それがあまりに深すぎると失った時のつらさが身体の芯にまで浸み込んで耐えられなくなってしまう。だから浅くて気遣う必要のない素っ気ない関係が欲しかった。出会っても別れても風が吹いただけのようにしか感じられない、そんな繋がりが恋しくて俺は誰かを求めてしまったのだろうか。
「へえ、ラザーラスさんは学生さんなんですか。今日は学校はお休みなんですか?」
「ああ」
「最近は学校にも行かずふらふらしてる人が多いのに、ラザーラスさんは偉いですねぇ」
 知らない人にならいくらでも嘘をつくことができる。後ろめたさを覚えることもない。ただ最も恐ろしいことは、この後何らかの事情により相手が「知らない人」ではなくなることだった。だけどもうそんなことにまで気を付けている余裕などない。
 薄い茶髪の少女はセレナと名乗った。話によると彼女は死んだ両親の跡を継いで花屋を経営しているらしい。俺はよく喋る相手の話を聞きながら色とりどりの花を何とはなしに眺めていた。花などどれを見ても同じように見えるが、ふとカイの家に置いてあった赤い花のことを思い出した。花弁と茎とを分かたれたあの小さな生命は元気にしているだろうか。なぜあんなにも遠い昔のことを、今になって思い返しているのだろう。緑の茎を二つに切り裂いた感触が生々しく甦る。何も握っていないはずの手に、氷のように冷たい銀のナイフが収められているような気がする。その刃が美しく煌めき、空を切ったならば、辿り着く場所は硬い茎ではなかった。傷口から液体が漏れ出してくる。陽に照らされて分かるその色彩は、俺に不快感だけを与える愛しいものに他ならなかった。
『人殺しなんて――救えない』
 嘘ばかり、嘘ばっかりだ。彼は俺のことを勘違いしている。俺はアニスの十字架を背負っているじゃないか、彼女との約束を守り続けているじゃないか! それなのになぜ俺を人殺しと呼ぶ? この手に残る生温かな何かが俺を誘惑する。その上からぎゅっと握り締めてくれたあの手を忘れてはいない。ああ、もっと昔のことを思い出しているようだ。俺に微笑みかけてくれた人、どうしてだか夢ではいつも泣いていた少女。あの子を殺した罪よりも、彼女の意思を理解できなかった罪が重く頭上に存在し続けているのだろう。何もないはずなのに彼女は手を伸ばしていた。俺はその先を見ることができなかった。
『酷い奴!』
 消えない。手にこびりついた体温が消えなくて、指先が小さく震えている。セレナの声などとうの昔に聞こえなくなってしまった。反響するものはただ一つ、あの愛しい少年の声で再生される、俺を罵り貶めようとする赤いものだけ。それが消えなくて悪寒が駆けめぐり、身体の中心から急速に機能を害してゆく。
「ラザーラスさん? どうかしたんですか?」
 気付かぬうちにセレナが目の前に立っていたらしい。俺の顔を不思議そうに覗き込む姿はひどく現実味を帯びており、そのおかげで俺はまたここへ戻り、同時に何かを成し遂げることを中断してしまったらしかった。
「何でもない」
「そうですか?」
 深く詮索しない相手は俺の言葉に簡単に騙される。相手は手に持っていた白い花を丁寧に並べ、すぐに店を開く準備を再開した。
 俺はまた何かを置き去りにしているようだった。それは大昔から何度か繰り返していたことで、都合の悪い記憶は全て封印してしまう癖があるらしい。ただ自分が不器用な人間だと感じる理由として、俺は何かを忘れたこと自体を忘れることができていない不便さがあった。だから常に頭の片隅に何かが引っ掛かっている。今もまたそれが舞い戻り、俺を不安の海に放り投げてしまったらしかった。
 ただ今はこの空虚さが心地良かった。セレナと二人で狭い店に篭り切り、喧騒から抜け出してたくさんの色彩を無心に眺める刹那が俺を歓迎してくれていた。いつかの保健室で感じたたくさんのものを思い出す。誰かに縋りたくて巻き込んでしまったあの白衣の女性は、まだ俺のことを覚えてくれているのだろうか。
 ふっと全身から力が抜けた。段差に座っていたはずなのに、世界が回って天井が見える。身体を起こそうとしてももう自由など手放してしまっていた。まだ自分の髪は長いと勘違いをして、床に広がっているだろう銀の束を手で探ったけれど、掴むものなど一つとしてなかった。
 何気ない時間をぼんやりと過ごす。知っている人には会いたくなかった。だから学校には戻らないし、エダとヨウトの家に帰ることもしない。店を開いても客は一人も来なかった。セレナは苦笑いしながらこれが普通だと言っていた。
「私、お父さんとお母さんが残してくれたこの店を潰しちゃいそうで怖いんです」
 カウンターに立ったまま少女は俺に向けた言葉を発する。もはや諦めを知った表情をしているのに、彼女の瞳には強く光る何かが存在していた。
「だけどもう終わりかなって。借金も増えてきちゃったし……」
 俺は身体を起き上がらせた。相手は窓の外だけを見つめている。
「どうして借金なんか」
「え?」
 立ち上がってカウンターの中に入り込み、相手の腕を掴んだ。彼女は今まで見てきた他の誰よりも細い腕をしていた。まるで骨と皮しかないような、だけどよく観察してみると、普通の人間と同じ程度の太さであることに気が付く。
「借金なんかしない方がいい。長く続けば続くほど、罠にはまって抜けられなくなるぞ」
「お店を継続するにはお金が要るんです。私にとってこの店は、自分の生活よりもずっとずっと大切なものなんです」
「――分からない」
 腕から手を離し、相手に背を向ける。店の中に並べられた花は何も言わない。この少女は汚い世界を知らないから楽観的になっていられるんだ。金の貸し借りほど腐り切ったことはないのに、無知であるが故に小さな生命が殺されようとしている現場に俺は直面していたらしかった。
「お前、借金取りって知ってるか」
「それくらい知ってますよ。でも私はちゃんとやってますから、大丈夫です」
 店の中を歩き、床と壁の境界線を目で追っていく。花を入れた壺が隙間なく並べられ、店内は綺麗に掃除されているようだった。カウンターの奥には彼女の自室があった。靴を脱いでそこへ上がり込んだが、セレナは俺を止めようとはしなかった。
 狭い廊下を通って辿り着いた部屋は質素なもので、机と本棚とごみ箱だけが置かれた小さな空間だった。俺はまた床と壁との境界線を目視する。形をなぞるように視線を動かしていくと、ふと一枚の紙切れが目にとまった。床に落ちていたそれを拾い上げる。
『見るな! それを見ると後悔するぞ!』
 自分の奥でロイが叱りつけている。
「殺人事件」
 黄ばんだ紙に書いてあった文字が頭の中にすっと入り込んできた。意識のないところで目線を滑らせ、そこに記された過去の出来事を全て平らげる。
「その事件、知りませんか? 貴族の偉い方が何者かに殺されたんですよ。犯人はまだ捕まってないそうですが」
「何者か?」
 胸の内で何かが震えていた。がたがたと音を立てて解放される時を待っている。何もないはずなのに指が動き、支えを失った紙切れはひらひらと宙を舞って床に落ちた。心臓の鼓動が徐々に速度を増し、口の中から唾液が消え、セレナの目が大きく開かれる。
「ラザーラスさん、何か……ありました?」
 答えようとしても声が出なかった。喉が詰まっているわけでもないのに、どうしても開け放ってはならない扉があったから、声を出せばそれまで一緒に放出してしまいそうで怖かったんだ! 俺は口を閉じて黙り込んだ。そのせいで脈拍は更に激しく稼働した。次第に頭痛が襲うようになり、なぜだか分からないまま呼吸をすることすら苦しくなってくる。
 耐え切れなくなって床に手をつく。その拍子に上着のポケットから銃の弾とナイフが飛び出した。慌ててそれらを拾い集めようと手を伸ばしたが、銀のナイフに黒ずんだ血痕が滲んでいる様がはっきりと目に映ってしまった。
「あ――」
『見るな!』
 ナイフを手元に引き寄せ、顔面に近付けて観察する。光を失った刃物は少しだけ欠けていた。赤い色彩はいくら眺めても消えてはくれない。
「あ、あ――ああ!」
『やめろ!』
 目の奥で幾度も「あの光景」が描かれる。
 粉雪が全身を包んでいた。だから黒い服を着ていても意味がなくて、相手はすぐに俺の姿に気が付いたんだ。何かわけのわからないことを言っていたような気がする。でも俺はそれを遂行しなければならなくて、感情を抑え込んだ目でその人の姿を全て捉え、そのまま破壊した。彼はすぐに崩れ落ちた。枯れた花のように動かなくなった。獣や虫の死骸を足で踏みつける人間として、俺はナイフを洗うこともなく彼の元へと帰っていったんだ。
 そして愛してもらった。何も知らない少年に、俺の弱さを餌として。相手は何を言っていただろう? 俺の汚い身体を抱きながら、俺にどんな水を与えてくれたのだろう?
「あの、ラザーラスさん」
 心配そうに見つめる少女がいる。俺は彼女を安心させてやらねばならない。
「俺は人殺しの名前を知っている」
 意思の底から声が出た。手の中のナイフが色を取り戻した今、自己の解離が始まっているのかもしれない。
「その犯人はどうしようもない奴だ。一人の少年に愛されたかったが為に命令をはねのけることのできなかった弱虫だ。必要じゃないのに自分を犠牲にし、都合の悪いことはすぐに忘れてしまう卑怯者だ」
「一体何を言って――」
 なぜ自分はこんな人間になってしまったのだろう。なぜ間違ったことを間違いと指摘することもできず、上からの暴力を黙って見過ごすような臆病者になってしまったのだろう。自分が傷つくと分かっているのに繰り返してしまう。その選択がきっと皆の為になると思い込み、彼らの本心も知らぬまま自ら人柱へと変貌する。そしてそれが終わったら夢の中か。俺はなんと惨めな人間なのだろう!
 目頭が熱くなった。だけどぐっと我慢をした。涙など人前で見せるものではない。俺は感情など知らぬ木偶の棒のように振る舞い、永遠に続く暗闇をくぐり抜けねばならないんだ。立ち上がって歩き出す。赤いナイフを握ったまま靴を履き、何も言わないセレナを残して店を出た。
 雨が降っていた。重なり合う雲が光を遮っている。一歩踏み出すと全身に冷たさが駆けめぐった。そしてそのまま凍りついてしまえばいいと思った。
 手に持ったナイフから赤い水滴が落ち始める。俺はそれを俯いて見つめ、永遠に訪れないであろう刃が綺麗になる瞬間を待ち続けていた。

 

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「ロイ、どうしたの、そんなに濡れて!」
 すっかり日が暮れた頃に家に戻ると、目を丸くして驚いた表情のヨウトが迎えてくれた。
「雨が降ってたんだ」
「それは知ってるけど、ずぶ濡れになるまで外を出歩くなんて……風邪ひいちゃうよ」
「おかしな心配をする奴だな、お前は」
 身を案じてくれる彼のことは嫌いじゃない。話をしていても退屈しないし、気楽に付き合うには申し分のない相手であった。だけど彼では駄目だった。俺にとって必要な人はただ一人であり、あの人のいない自分など死人と見分けもつかぬほど生気のない者となっているのだろうから。
 相手を取り残して部屋へと向かう。追いかけてきたヨウトが夕食を催促したが、俺は食べたくないと言って断った。幽霊の少年はふと悲しそうな顔をしたが、それ以上は何も追及してこなかったので嬉しかった。
 濡れた服を全て脱ぎ捨て、裸のままベッドの中に潜り込む。綺麗になったはずのナイフは服のポケットに入ったままだった。俺は再び犯した過ちのことを思い出して怖くなっていた。他人にナイフを突き立てた時、そこには一つの感情も含まれていなかったような気がしていた。更生したと思っていたのに何も変わっていなかった。人殺しの罪をロイになすりつけ、ラザーラスは悠々と平和な世界に戻っていったんだ。
 片手に携帯電話を握り締め、だけど電話もメールも送り出す気にはなれなかった。会いたい人ならいる、心配して欲しいから彼の声を聞きたい。それこそが最も単純な願いであるはずなのに、目に見える自分の指が真っ黒に見え、頭の底から絶えず響く騒音が煩くて、普通じゃない今の自分が彼に会ってもどうにもならないと思っていた。俺はまずこのざわめきを鎮めねばならなかったんだ。だけど身体の震えが止まらなくて、外で降っていた雨のように、ただ一方へ流れることしかできないでいた。
「ロイ、お薬持ってきたよ」
 気が付くとヨウトが目の前に座っていた。小さな手には茶色い瓶が握られており、もう片方の手には水の入ったコップが収められている。俺の頭の隣にちょこんと座り、その大きな瞳が優しげな光を帯びていた。
「薬って、何だ」
「調子悪いんでしょ? 風邪薬をエダさんから貰ってきたんだ。さあ、飲んで」
 音を立てて瓶の蓋を開け、中から丸い錠剤を二つ取り出す。そうして閉じられていた俺の口に無理矢理それを押し込んできた。仕方なく彼の要望に応え、続いて渡された水で異物を喉の奥へと押しやる。倒れた身体の中で流動物がぐるぐると回った。
「エダの奴、こんな薬を持っていたのか」
「知らない? エダさんは薬マニアなんだよ。いつもおかしな薬を持ってたでしょ」
「ああ、そういえば――」
 忘れかけていたいろんなことを思い出す。あいつに飲まされた薬で感覚がなくなっていた日々のことは、おそらくこれから先も許すことはないだろう。彼は俺に対し幾つもの乱暴を繰り返したんだ。
 仕事を手伝わされて、人質を取られて、脅されて、レイプされて。生きていることがつらいとさえ感じられた毎日だったけれど、死ぬ方法がないという理由が原因ではなく、俺はそれでも自殺を考えたことはなかった。それは誰かに生かされているという意識があったからだろうか。俺に期待を寄せる人がいたから、その人を裏切りたくないと考えていたからなのだろうか。そんなことはもう、いくら考えたって分からない。そうやってどうにかして生き延びたはずなのに、こうして横たわっている自分は寿命を迎えた巨木には敵わなかった。人間に踏み潰された小さな花のように、ただ生への執着だけを露わにし、零れ落ちる自らの血を顧みることもしない生物だった。
「エダは、どこにいる?」
「自分の部屋にいると思うけど……呼んでこようか?」
「頼むよ」
 まるで雪が降っていた日のように寒い。俺の声を聞いたヨウトはすっと姿を消し、部屋の中から出ていったようだった。一人きりの空間が淋しさでいっぱいになる。静寂が疎ましく、だけどその美しさを否定することもできないで、涙が溢れてこようとする衝動を唇を噛んで抑えていた。
「何か用か」
 やがて現れたエダは鋭い目をしていた。赤い目が俺を捉え、両手と両足に枷をはめられた心地がした。背筋がぞくぞくして、自由を奪われた束縛感が俺を刺激し、それでも不思議と怖くはなかった。俺は少し力を込めて、もう動かないだろうと思っていた身体をゆっくりと起き上がらせた。
「聞きたいことがあるんだ、あんたに」
 エダは俺の隣に腰を下ろした。それはとても無防備な格好に見えた。
「この前、俺に仕事を押し付けてきただろ。殺しの――」
 相手は相槌も打たない。
「あれは何だったんだ? 俺に何をさせようとしていた? そのターゲットは一体誰で、なぜその人を殺そうと思った?」
「なぜかだなんて知るかよ。あれは組織にあった仕事の一つだったから」
 張り裂けそうな空気が静かに震えた。エダは落ち着いている。俺は彼のそんな表情が好きだった。
「あれは俺が決めたことじゃない。組織を抜け出して、だけどまだ終わってなかった仕事の内容を覚えてたんだ。その時の俺にはお前が邪魔だったから――お前に殺しを思い出させて、それでお前を駄目にしようとした。結果として、俺の企みは失敗に終わったけど」
 彼の顔に影が落ちた。何か些細な悲しみが思い起こされたのだと理解した。爪の先がびりびりと痛む。右手で左手の指を覆い、それが至るべき場へと誘導されることを願った。
「自分でも馬鹿なことをしたと思っている。お前を苦しめたって、俺の欲しいものなんて手に入らないのにな。あの時は、悪かったよ。……聞きたいことはそれだけか」
「その人の、名前は」
「覚えていない」
 非情であることが普通だった人々にとって、この世界で生きることはなんと難しいことなのだろう。俺も彼も始まったばかりであった。全くの初心者が、人目を気にして奥まった所へ身を隠し、それでも誰かに愛して欲しくて足を外へ向かわせる。俺たちを見つけてくれた少年は、優しさ故の厳しさを以て二人を突き放したんだ。
 泣いている時間なんて残されていない。だって時間は立ち止まらないのだから。
「墓くらい、建てられるかな」
「どういうことだ?」
「もしそいつが貧しい人間で、あるいは貴族であっても皆から嫌われてたとしたら、誰もそいつを偲ぶことがないかもしれないけど、それでも墓だけは誰かが建ててくれるのかな、って思って」
「――泣いているのか」
 右目に手を当ててみたけれど、涙など流れていなかった。それなのにエダは目を丸くして驚いている。俺には彼が泣いているように見えた。それは自分が泣きたいと思っているからなのだろうか。
「服、貸してくれよ」
「どうして」
「雨で濡れて、もう着られないんだ」
 エダは立ち上がって部屋を出た。じっと動かずに待っていると彼はすぐに戻り、自分の物であっただろう黒服を俺に手渡してきた。
「ありがとう」
 受け取って服を広げ、俺はそれに着替え始める。ふと隣を見るとエダは壁の方を向いていた。彼の背が何かを訴えているような気がして、だけどその言葉までは理解できなかった。俺はまだ彼のことを何も知らなかったんだ。
「どこへ行くんだ、もう夜だぞ」
 立ち上がって部屋を出ようとすると、動かないままの彼が声を上げていた。首だけを動かして振り返り、小さく閉ざされた相手の身体を目の中へ放り込む。
「――少し散歩に」
「付き合おうか」
「いい」
 それだけを答えると、エダは小さく「そうか」と呟いた。俺は彼を部屋に残し、一人きりで家を出ていく。
 空が綺麗な夜だった。雨上がりの大地はひっそりと輝き、歩くたびに靴の裏にその証明が刻まれる。町に人の姿はなかった。明かりの消えた窓が規則正しく幾つも並び、隣を通りかかると人間の寝息が届いた気がした。俺はまっすぐ歩いていた。道が消えるまで歩き続けた。目の前にレンガの壁が迫った時、そこが自分の終着点ではないと咄嗟に感じた。踵を返し、元来た道を歩き始める。途中で人の声を聞いて足を止めた。よく見るとそこには明かりがついていて、数人の人間が話し合っているようだった。
「セ、レナ」
 口をついて誰かの名が飛び出す。思わず唇に指をあてると、乾いたそれは微かに震えていた。明かりの方へと歩み寄ってみる。立っていたのは黒い服を着た二人の男で、彼らを睨むように見上げているのは既に名を知っている少女に他ならなかった。
「セレナ?」
 近くまで寄ると輪郭がはっきりとした。それは確かに花屋の娘であった。男たちは店の前に陣地を構え、若い少女は彼らを店の中から出迎えている。片方の男がドアに手を当てていた。
『それ以上寄るな』
 手を掴む者がいる。それはこの世の者ではない。
『必要以上に人と関わるな。関われば後悔する。関われば、お前が傷つく』
 傷つきたくなければ通り過ぎてしまえ。何が起こっても知らんふりをしていればいい。湧き出る感情など作り物にすぎない。ただ一瞬間の時間を共にするだけの相手を、なぜそこまで気にする必要があるのか?
 分かっていた。分かっていたんだ、いつだって。だけど身体が勝手に動くんだ。誰かを助けたくて、誰かの為に何かをしたくて、見返りが欲しいわけじゃなくて――俺が生きていることを知って欲しかったんだ。こんな身体になってしまったけど、もう人間じゃなくなってしまったけど、それでもたった一人でもいいから誰かに俺を認めて欲しかった。俺がここにいることを知って欲しかった。
「ラザーラスさん! どうしてここに――」
「そいつらは誰だ、なぜそんな怯えた顔をしている」
 警察の真似事だ。善良な一般市民を悪者から助けるんだ。
「なんだよ兄ちゃん、この女の恋人か? だったらちょうどいい、こいつから金を絞り取ってくれよ。なかなか借りたものを返してくれないで、こっちも困ってたところでな」
 黒服の男は借金取りらしい。俺が心配するまでもなく、もはや手遅れだったようだ。背の小さい方がしゃしゃり出て俺を見上げてくる。その眼はどこまでも下卑た黒色をしていた。
 無意識のうちに俺の手はズボンのポケットに伸びていたらしい。指先に金属の感触があり、それを掴んで引き出すとナイフを握り締めていた。おそらくそれ以外は何も入っていなかったのだろう。投げることなく男に向かって刃を突き出すと、風よりも遅かった相手は簡単に身体の一部を抉られることになった。
 相手の悲鳴が夜空に響く。隣にいた背の高い方の男が銃を取り出して発砲した。弾はまっすぐこちらに届き、右の肩に回転しながら食い込んだ。セレナが驚いて店の中へ後退した様が視界に入った。続けざまに銃が発砲される。俺はナイフを振りかざすけれど、肩がうまく動かなくて黒い服にさえ届かなかった。もう銃で撃たれたことを忘れていたんだ。その隙に何か硬い物で頭を殴られ、意識が途切れてゆく。
『だから言ったのに、お前が傷つくことになるって。次に目を覚ました時、お前はもっと絶望するよ』
 それだって分かっている。充分すぎるくらい分かっているから。
 自分を犠牲にしてでも守りたいものができてしまったならば、一体どんな方法を選択することが真に正しい手段なのだろうか。たとえ明確な答えがあったとしても、暴力でしか解決できない俺には触れることのできない崇高なものなのだろうと感じていた。

 

 

 誰かが俺の名を呼んでいた。それに応える為に口を開くけれど、喉の奥から出るはずの言葉など存在しなかった。たとえ無理にそれを生み出したとして、相手の元に届く前に風によって掻き消されてしまうだろう。俺は彼らの足元にさえ至っていない者で、誰の目にも映らぬ罪人でしかないのだから。
 目を開けると黒い集団が見えた。何人もの人間が雑な動きをし、何やら話し込んでいるように見える。身体を起こそうとすると手足が縛られていることに気付いた。仕事でへまをして捕まった時のことを思い出す。
「やあ、ようやくお目覚めかい」
 一人の男がこちらへ歩み寄る。彼の口から甘い酒の匂いがした。
「あんた、あの組織のロイ・ラトズだろ? 組織を抜け出して、あの女にでも惚れ込んだのか?」
 名を知られていることは不愉快ではなかった。長く生きていればその筋の者にはすぐに知れ渡ってしまうんだから。地面に太ももを擦りつけてもポケットにナイフが入っている感触がなかった。
「だったら何だっていうんだ」
「いや、ちょっと聞いてみただけさ。お前がロイだったら仕事を手伝ってもらおうと思ってたんだよな」
「断る」
「セレナとかいう女がどうなってもいいのかよ、ああ?」
 世の中には自己を過剰に溺愛し、他者の生命を平気な顔して踏み潰す連中がたくさんいる。俺だって昔はそうだったんだ、彼らの考えていることは嫌になるほどよく分かっていた。使えるものは物だろうと人だろうと徹底的に利用するんだ。その為の道具なら、いとも簡単に手放してしまうんだから。
「仕事中に逃げ出すかもしれないのに?」
「できないさ、お前には。あの女の傍には部下を配置してある。お前が帰ってこなければ……どうなるか分かってるよな?」
「腐った連中だ」
「お前だって同族だろう!」
 ロイは知っていた。だからあんなことを言ったんだ。いいや、知っていたのはロイじゃない。
「何をすればいい」
「まあ、とりあえずは北にあるお貴族様の屋敷にでも忍び込んでもらおうか。そこから五百万ほど盗ってこい」
「一人で?」
「当たり前だろ、何を考えてんだ」
「そうか」
 酒の息を吐く男は俺の縄を乱暴にほどいた。自由になったはずの身体はとても軽い。確認の為にポケットに手を突っ込んだが、やはりそこは全くの空室になっていた。辺りを見回すとすぐ隣に扉があり、俺は玄関で寝転んでいたことに気が付いた。
 扉を開けて外へ出ると、彼らの寝床はアパートの一室であることが分かった。少し高い位置から町の様子がよく見える場所だった。両隣の部屋には誰もいないらしく、明かりも人の寝息も聞こえない不気味さだけが漂う空間だった。雨に濡れた階段を下りていき、夜の道へと体を向かわせる。
 この場からエダの家に行くにはどこを通ればいいのか、セレナの店はどれくらい離れているのか、それを調べておく必要があったのに俺の身体は北へ向かっていた。奴らの命令通りに動かなければならなかった。あの頃と同じ繰り返しだ。上からの命令を素直に聞き、疑問を持っても決して逆らわず、失敗すれば相応の罰を受ける。俺はこの世界で罪と認識されている行為を自ら行おうとしている。最低な奴だと笑う者を嘲ることもできない。軽蔑したければすればいい、幻滅したければすればいい! こうすることでしか彼女を助けられないなら、それは仕方のないことじゃないか!
 迷う必要なんてないんだ、更生などの為にあの少女を危険にさらすなら、それは偽りの平和だ、上辺だけの優しさだ! 本当の意味で善人になりたいなら、汚いことを自ら引き受け、影の中で息を吸い、泥水を啜りながら生きていく他にない! 安っぽい正義の為にどうして彼女を見捨てることができる? 自らに犯罪の垢を塗りつけ、美しい何もかもがその下に隠れてしまったとしても、自分一人だけがそれを知っていればいいだけのことだ。それで誰かが助かるのなら、守ったはずの人に殴られたって構いやしないから!
 だから大丈夫なんだ。俺はそれを分かっているから、恐ろしいものなど消えてしまったはずだから。
 そうやって言い聞かせるのに、なぜこんなにも足が重く感じられるのだろう。一歩一歩が他の何よりも遅く思え、果てのない道が俺の影を飲み込んでいた。ここにあるはずのない時計の針の音が聞こえている。曇った空は星の光を完全に消し去り、月など探すべきではないと叱っているように見えた。
 近付けば近付くほど闇が濃くなった。俺は塀で囲まれた豪勢な屋敷に忍び込まねばならない。目的地に辿り着いたなら、きちんと閉められた門の前に立ち、鍵の掛かっていたそれを力ずくでこじ開けた。なるべく音を立てないように、呼吸さえ黙認せずに完全に絶ってから領地に入る。
 整えられた庭と、明かりの消えた古めかしいが煌びやかな建物。ここで住む人間は何を可笑しいと感じるのだろう。彼らが杖の先で叩き割ったものは、一体どれほどの感情をその胸に秘めていたというのだろうか。取りこぼした何かが組織に新たな芽を生んだ。それは水面下で成長し、大きくなる前に鋭いナイフを握り締める。俺の隣で幾度も繰り返された殺しは非道なものだった。それを見ていたロイは何を思えばよかったのだろう。
 壁を伝ってよじ登り、三階の窓辺に辿り着く。窓を覗き込むと室内の様子がよく見えた。右腕で身体を支え、左手をぐっと伸ばして冷たい窓に触れた。指先で小さな穴を開け、それを少しずつ押し広げていく。細かな破片を床の上にまき散らかし、やがて窓ガラスは完全に粉砕されてしまった。そこへ身体を放り込んで室内に侵入する。
 真っ暗な闇の中で一度深く呼吸をした。それを終えて歩き出し、金目の物が保管されている場所を探す。侵入した部屋はどうやら書庫らしく、本棚の下や裏を探ったがここには目ぼしい物はないようだった。入り口のドアを開けるとひっそりした廊下に出た。
 書庫の隣の部屋は鍵がかかっており、それをこじ開けて中に入るとインクの匂いが鼻をかすめた。部屋の中央には丸い木の机があり、その上には大きな鞄が置いてある。中を確認すると大量の札束が詰め込まれていた。銀行から持ち帰ったばかりなのか、あまりにも無防備で都合の良すぎる獲物が目の前にあった。とりあえずそれは後回しにし、部屋の隅々まで視線を走らせておく。豪華そうな棚の引き出しを開けると金や宝石の類が所狭しと押し込められていた。それを無造作に鷲掴みし、ポケットに入るだけ詰めておく。
「そこで何をしている!」
 見張りの兵だろうか、低い声を出した人間が部屋の中に飛び込んできた。相手は長い剣を取り出してこちらに斬りかかってくる。刃を左手で受け止め、右手で彼の腹部を殴った。床に尻もちをついた男を右足で蹴り飛ばし、部屋の片隅に追いやってから人差し指で彼の心臓を貫く。
 机の上の鞄を持ち、窓ガラスを割って外へ飛び出した。庭に着地しても見張りの姿はなく、そのまま屋敷から遠ざかっていく。
 雨上がりの地面がきらりと光った。
『人殺し!』
 右手の指から生温かい血が滴り落ちる。
『化け物のくせに』
 濡れた大地は跡を消してくれた。俺の罪を洗ってくれた。
『そしてもう出てくるな』
 どうして今になって思い出してしまうのか。なぜ忘れたはずの彼の言葉が俺の中に甦ったのか。
 あの男が笑うからいけなかったんだ。皆が不幸を嘆いて泣いているのに、あの男だけが彼らの苦しみを嘲笑っていて、だから俺が止めてあげたんだ。誰か一人でも彼の代わりに笑えるようにする為に。
『震えているのかい、ロイ』
 指先だけじゃない、全身が使いものにならないほどだ。視界が歪み、足はよろけ、呼吸が乱れている。二日酔いと言われた時よりもっと気分が悪かった。
『お前は間違っていないよ。だってあの子は、もうすぐ死ぬはずだったんだから』
 小さな子供を二人殺した。その罪が僕をおかしくしていた。遠い昔のこと、泣いていた女はティナアで、おかしくなった僕よりも彼女の方が重症だった。彼女は幸せを放棄して一人の男を破滅させてしまった。
 どうして思い出している? あの言葉は誰のものだったのか? いいや覚えている、初めて人を殺した僕を慰めていたのは、誰よりも愛すべき僕に殺しを命令した人物だった。
『私には全てが見えるからね』
 あの人に逆らってはいけない。あの人は、神にも等しい存在だから。
「ああ……」
 地面に膝をついていた。やんだと思っていた雨が降り出し、雲の切れ間から星が見えることもなく、ただ遠すぎる夜空へ視線を投げながら大地からの質問に答え続けた。僕は人を殺しましたと。他人の幸福を奪いましたと。それが誰かの笑顔の為だったとしたら、秩序は許してくれないかと甘い考えを頭の中で何度か思い描いていたんだ。

 

 +++++

 

 鞄を床に置き、ポケットに詰め込んでいた宝石類を彼らの足元にばらまく。黒服の男たちは俺の手から離れた物をまじまじと観察した。それが本物か偽物かを見分けるように、全てを疑い尽くす眼差しで見ていた。
「この短時間に、大したもんだ」
 俺に命令を下した男が鞄を奪い取る。中の札束を部屋の奥に放り投げ、空になった鞄を俺の足元へ投げ捨てた。それに続いて他の男たちが床に散らばった宝石を拾い上げる。
「それじゃ、次は南東の屋敷だな」
「もうすぐ夜が明ける、明日にしてくれないか」
「駄目だ」
 俺は手駒で、彼の命令は絶対に守らねばならない。それが分かっていたから頷くことしかできなかった。
 振り返って扉の方へ向き直ると、出口の前に誰かが立っていた。俺より背の高い男が見下している。彼は俺の顔を見て、それから何かを言って肩を殴ってきた。痛みを感じた個所に手を当てると、背に重い衝撃を受けた。背の高い男の方へよろめき、再び彼に殴られる。
 出口が遠くなっていた。地に手をついた俺をたくさんの男たちが笑っていた。足で蹴られ、背を殴られ、終わることのない罵声を浴びた。これが罰であればそれでいい。手を踏みつけられた。エダに借りた服を刃物で切られた。短くなった髪を引っ張られ、雑な手つきで乱暴に切られた。不思議とあの時ほどの絶望は感じられなかった。
 彼らにとっては憂さ晴らしの対象か、あるいは単なる遊戯なのだろう。自らしか愛せない人々は簡単に他人を貶める。自身の幻影を相手の中に見出し、だから凶暴な切っ先を鎮めることができなくなる。何度も身体じゅうを殴打された。靴の裏に付いていた土が口の中に入っていた。
「何をしている?」
 ふと鋭い声が降り注いだ。それをきっかけとして暴力と暴言がぴたりと止まる。動きの鈍くなった頭を持ち上げると、玄関の扉が開いている様が目に映った。光の差し込むその先に、見覚えのある青い服を着た誰かが立っていることが分かった。
「ちっ、警察か!」
「おっと、窓から逃げても無駄だぞ。外には俺の部下を配置してあるんでな」
 ゆっくりと身体を起こし、部屋の様子を確認する。黒服の集団は部屋の奥にある窓へ向かっていたが、青い服の男の声を聞くとすぐに諦めたようだった。彼らはおもむろにナイフや銃を取り出して一人の男に牙をむく。床に散在した宝石類が美しく輝いていた。
「君がラザーラスか? 俺は警察だ、もう安心したまえ」
 目の前に知らない顔があった。警察らしき男が俺の前でしゃがんでいるんだ。彼は俺を助けに来たのだろうか、でも一体なぜ? 俺は返事をしようとしたが、内で眠る警戒心が邪魔をして完全に喉が潰されていた。何も喋らない俺を見て、相手は驚いたように目を大きく開いた。
「その顔――ロイ・ラトズか?」
 相手の命が青く燃えていた。彼もまた警察の中に含まれる狼の一員だったらしい。俺の顔を見て何かを覚った相手はさっと表情を変え、差し出しかけていた手を引っ込めて勢いよく立ち上がる。
「お前たち、俺と交渉をしないか?」
 警察の男が何かを言っていた。俺はそれをただぼんやりと見上げている。
「どういうつもりだ」
「この男を譲って欲しい。そうしたらお前らを見逃してやる。もちろん他の警察にこの場所は口外しない。望みとあれば、金も用意しよう」
 彼が何を言っているのか分からない。俺の知らないところで何かが起きているようだ。だけどそれは俺には関係のないこと。だからさして気にする必要はないんだ。
「いいだろう。ただし、金が先だ」
「今は持ち合わせがない。こいつを連れて行ってから渡しに来るのでは不服か」
「それじゃ信用できないな。見張りを――そうだな、二人ほど」
「よし、分かった」
 話が終わったと思ったら、ぐいと腕を引っ張られる。俺を引き上げようとしているのは警察の服を着た一人の男だった。
「来い」
 地面に足を付け、立ち上がると彼に引きずられた。すぐにアパートから外に出てしまい、明るくなり始めた空の下にこの身をさらす。
 見慣れた青が俺をどこかへ誘導していた。ただその内側にある生命は俺の知っているものではなかった。いつも嫌っていたもの、正義を盾にして俺を足蹴にしてきた人の集団、その一端が俺を連れ去ろうと目論んでいるらしい。俺はあの借金取りの連中にとって必要な人であるはずなのに、なぜ彼らはこの男を止めなかったのだろう。もしこのまま俺が彼らの元を離れたら、連中に脅されていたセレナはどうなってしまうのだろう――俺はあの少女の為に盗みと殺しをしたばかりなのに、俺が彼らから逃げ出せばセレナに危険が迫るのではないのか?
「放せ!」
 道の上で相手の手を振りほどく。それはあっさりと外れてしまい、だけどすぐに反対側の腕を掴まれた。
「俺はあいつらのところに帰らなきゃならない、でなきゃ危ない目に遭う人がいるんだ!」
「それはセレナという名の少女のことだろう? お前を探してくれと頼んできたのがその少女だったんだ、心配することはない」
「えっ――」
 彼女が俺の捜索を頼んだ。そうだ、確か彼女は俺が気絶する現場を目撃していたじゃないか! だけど、なぜ彼女はそんなことを頼んだのだろう。数回会っただけの、名前しか知らないような相手を、なぜ助けようとして危ない中を動いたのだろう。それが慈善活動になるとでも思っていたのだろうか?
「お前は俺の言うことを聞いていればいい。さあ、分かったらこっちに来るんだ」
 再び腕を引っ張られ、俺は彼の背を追って雨の降る道を歩く。警察の言葉など信用したくはなかったが、今は俺のわがままよりもセレナの安全の方が重要だった。この男は心配する必要はないと言ったが、具体的な状況を話してくれないから今は何も分からない。そして彼は俺の昔の名前を知っていたんだ。
 それほど歩かぬうちに俺は建物の中へと案内された。雨宿りの為の場所は質素なコンクリートの部屋で、白を基調とした壁が取り囲むがらんとした空間だった。机が一つとソファが一つ、隣の部屋へ続く扉が異質な雰囲気を醸し出す他には何もない部屋で、俺は手錠を掛けられてから灰色のソファに向かって突き飛ばされた。
「さて」
 相手は青い上着を脱ぎ、たくさんの書類が積まれた机の上にそれを置いた。彼の金髪が闇の中で静かに光っている。
「ロイ・ラトズ。俺のことを覚えているか?」
 俺の目の前に来た相手は口元に笑みを浮かべながら質問を投げかけた。俺はその顔をまじまじと見つめたが、どの角度から凝視しても見覚えのある断片は見えてこなかった。しかし彼がこんな質問をするということは、少なくとも相手の方は俺のことを覚えているということなのだろう。俺はふと樹が兄のことを語っていた横顔を思い出した。
「警察のことなんていちいち知らない」
「ふん、そんな事だろうと思ったさ。お前は警察を嫌っていたからな」
 右腕が伸び、大きな手が俺の髪を握り締める。
「俺はお前のことを忘れたことはない。お前が嫌いで嫌いで仕方がなかったから」
 彼の手には力が込められていた。青い目が鋭く尖り、瞳に宿る光はぎらぎらと不気味な閃光を放っている。口の中に銃口を突っ込まれた心地がした。やおら相手は自身の胸に手を当て、白い服を引っ張って肌を露出させた。そこにはナイフで切られたような傷跡が綺麗な形で残っていた。そうして彼は目を見開いて笑う。
「おい、話し合いは後にしてくれよ」
 全く注意をしていなかった箇所から声が飛んでくる。そちらへ目を向ける余裕はなく、だけど警察の男が視線を動かしたからそれを確認することができた。黒い服を着た男が二人ほど扉の前に立っており、警察の男は俺から手を放して彼らの方へと歩み寄る。
「すっかり忘れていたよ、すまない。約束の金を支払おう」
 彼はそれだけを言って机の引き出しを開けた。そこから幾つかの札束を取り出し、二人の男に悠然と差し出す。
「確かに受け取った。それじゃあな」
 満足した二人組は軽い挨拶だけを残して立ち去った。狭い部屋の中で警察と二人きりになる。相手は引き出しをきちんと閉め、再びこちらに視線を向けた。俺の座っているソファの傍に寄り、先程と同じ憎しみの入り混じった眼光で貫かれる。
「あの組織を抜け出し、足を洗ったなどという噂を聞いたが、今度は偽善の警察ごっこか? 悪人の館に忍び込んで捕まるなどと、まるで間が抜けているな」
 彼から目がそらせなかった。ソファの開いている位置に座り、身体を傾けて頬を撫でられる。反射的に逃げ出そうと身体をよじったが、彼の片手が腕を掴んで俺はすっかり動けなくなってしまっていた。
「お前をずっと探していた。善人になりきったお前の化けの皮を剥がす為に……いいや、俺を嘲笑ったお前に復讐する為に」
 頬から手が離れると、今度はその手に小さなナイフが握られていた。逃げることもできず、俺は相手に胸を刺される。
「無様だな。あの借金取りの連中に理不尽な暴力を振るわれても反抗せず、俺に刺されても逃げ出さないか。全てはあの女の為だと思っているんだろう? くくっ、お前はそういう奴だ。知ってるんだぞ、お前が一番傷つく方法くらい。お前は自分よりも自分に良くしてくれる人の安全を優先する。ただし裏の社会で育ったお前に暴力や罵声はあまり効果を与えない。お前の顔を恐怖で歪める為に必要な要素は他にあるんだ」
 胸に刺さったナイフを抜き、相手は俺の心臓の鼓動を確かめているようだった。彼の目に吸い寄せられ、それ以外の全てが見えなくなっている。このままじゃ食われると思った。だけど手が縛られていて自由など遥か彼方に隠れてしまっていたんだ。
 彼の唇がすっと耳元に寄せられる。
「お前、男にレイプされてたんだってな」
 息ができなくなった。相手の奥に何かが宿った。それはまるで最も掴みたかったものをようやく獲得し、その事実を噛み締め味わっているかのように。
「や、めろ」
 彼から離れなければならなかった。そんなことは頭では分かっているのに、両手が動かないせいで身体が石のように固まっている。全身の汗腺から何かが溢れ出す感覚があった。一本一本の毛が逆立ち、相手の瞳以外の全てが急速に回り出す。
「何を構えているのか知らないが、あいにく俺は男になんぞ興味はない。お前には少しお仕事をしてもらうことにしよう」
「そんなこと、誰が」
「俺にたてつくつもりか? あの女がどうなってもいいのか、うん? お前に用意された選択肢なんて最初からないんだよ、黙って俺に屈服しろ!」
 胸の重さが消えぬまま、相手の言葉の意味を必死になって探った。それでも何も分からなくて怖くなる。
「世の中には物好きな連中がたくさんいる。若い少年の身体を好む貴族もその一例だ。俺から言わせてもらえればそんな奴らはただの狂人だが、金持ちってのはどうも自分の望むものが全て揃わないと気が済まないようでね……時々依頼が来ることがあるんだ。なあ、おかしいと思わないか?」
 立ち上がった相手は机の傍へと歩み寄る。そこに置いてあった電話を手に持ち、少しのあいだ優しげな声色で誰かと話をしていたようだった。この狭い部屋の中じゃ全てが筒抜けになったはずなのに、俺は耳で受け止めた震えの何もかもを聞き流し、結果として理解したことなど一つとして存在しなかった。ただ少し前から分かっていたことがある。それは俺はもうすぐ誰かに襲われるということで、その行為は服従的であり、何があろうと反抗してはならぬということだった。
「客はすぐに来るそうだ」
 電話を終えた男はこちらを見た。彼が告げた短い言葉はあまりにも無慈悲であり、俺は今になってロイの台詞の意味を理解したと感じた。

 

 

「まさか君が手に入るとは思っていなかったよ」
 裕福そうな男が相手だった。指に大きな宝石の付いた指輪をはめ、小奇麗な髭にはうっすらと脂汗が滲んでいる。
「私はずっと君を探していたんだ。君は美しい髪を持っていると聞いたからね」
 白髪混じりの汚らしい男の手が俺の服を剥ぐ。胸に光るアニスの十字架だけじゃ、俺をこの男から守ることはできない。
「君は肌も美しいね。なんて素晴らしい子なんだろう!」
 分厚い唇が俺から息を奪った。他者を労わる心を知らぬ相手は気遣いもなく舌を滑り込ませ、歯の間から彼の粘っこい唾液が侵入してきた。そのままベッドに押し倒される。
 重い身体がのしかかってきて苦しかった。金で太った相手を噛み殺してやりたかった。彼は俺の陰部に手を伸ばす。棒のような指を小さく動かし、俺の身体を好き勝手に弄ぶ。
「いいね、その表情」
 自分がどんな顔をしているかなんて分からない。できるだけ声を出さないようにしようと決めたが、嫌な気分と与えられる刺激によってどうしても声が漏れ出してしまう。手で口を塞ごうとしても手錠のせいで叶わなかった。肌の上に相手の唾液が糸を引きながら滴り落ちる。
「や、やめ――」
 中心部を執拗に刺激され、身体が過剰に反応した。俺の身体はこんな男に悦んでいるのか? 汚らしい、金の力でわがままになった、こんな子供のような大人に犯されてどうして悦ぶようなことがあるだろう! この身体を一体俺はどうすればいい? 我慢すればするだけ相手が喜び、一方で俺は惨めに涙を噛み殺さねばならない。彼は手の動きを止めずに続けた。耐えかねた俺はぎゅっとベッドのシーツを握り締める。
「う――っ!」
 頭を殴られた時よりも痛かったし、大衆に罵られた時よりもつらかった。それなのに相手は俺の先端から零れ落ちた液体に満足しているらしい。嫌味ったらしい笑みを浮かべ、今度は自身の服を脱ぎ始める。
 相手の丸く膨らんだ腹を見て視線をそらした。
「駄目じゃないか、ちゃんと見てやらなきゃ」
 まるで天からの声のような音が頭上から降り注ぐ。
「……すみません」
 何も逆らえない俺は顔を元に戻し、ベッドの隣で小さな機械を持つ警察の男を愉しませてやる必要があった。
 俺ばかりを見ている相手に押し潰され、身動きが取れなくなる。
 長い明け方はまだ始まったばかりだった。

 

 

 

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