月のない夜に

 

 

 身体が風化していた。長いあいだ砂の中に埋もれていたように、雨風に何千年もさらされていたように、がちがちに固まったそれは以前の柔軟さを置き去りにしたようだった。汗も涙ももはや出ない。遠い空の上から自身を見下ろし、それで全てが解決するのなら俺はこの身を悪魔にだって捧げただろう。
「早く起きろ」
 腕を引っ張り上げられる。色を失った俺の身体は相手の所有物にすぎない。手錠は外してもらったはずなのに、逃げ出す気力など残ってはいなかった。もう夜は明け、眩しい朝日が二人の顔の上に降り注いでいた。
「次のお客様がお待ちかねだぞ、ロイ・ラトズ」
 青い服を着た男は札束を握り締めていた。それは俺を道具として扱った証だ。何を売って金を稼ぐ? 彼が手放すものなどただ一つ、その穴埋めを俺が請け負うだけのこと。
「ごうつくばりめ!」
「金など二の次だ、お前の悲鳴が愉しいんだよ」
 とうの昔に壊された身体を立ち上がらせ、扉の奥から現れた次の相手を睨みつける。
 繋がりがなければ苦しむこともなかっただろう。関わりを持たなければ、羞恥に耐え忍ぶこともなかっただろう。それさえ分かっていながら俺は愛を欲しがった。その返答がこの現状だというのなら、俺は間違っていなかったと言い切ることができるだろうか。
 また長い時間が幕を開ける。

 

 +++++

 

 一日が過ぎた。今日自分が何をしていたのか詳しく思い出すことができない。俺の意識はほとんど空中を浮いていたようだ。それは自分の行為を理解することが恥ずかしかったからなのかもしれない。
 歯を食いしばっても身体は粉々になるだけだった。砂のように小さな粒と化し、風に攫われて抗うこともできず流される。その一つ一つに意思は宿っていなかった。獣が目を光らせて獲物を食い散らかす様を天井から見下ろし、肉片となった白い身体が自分のものだと気付いた時には記憶を白紙に戻そうとした。その上から修正ペンで新しい文字を書き連ねる。俺にとって都合のいい、だけど相手にとってもっと良い条件の、大昔から存在する理の印を誰にも見えぬよう描いていく。文字にならないなら滑り落ち、それは俺の手元から離れていた。そこでは俺は発言すら制限された檻の中の人間だった。
 警察の男はとても愉快そうに見えた。俺が苦しむ様は彼にとって最高の料理らしい。相手は俺のことをよく知っていた。感覚が凍りついた俺には暴力や罵声は効果がないと言っていたが、それは彼の勘違いにすぎなかった。どんな人間であっても他者から嫌われることは恐ろしいと感じるはず。だから厭いの代表である暴力と罵声は怖い。そう思い込んで今まで生きようと努力してきた。ただ、感情が意思に追いつかぬことなどありきたりなことだったけれど。
「何をしている、次が来るぞ」
 夜が始まる前にシャワーを浴び、黒服に着替えてソファで客を待った。最低限の身だしなみとして髪を手で梳いて整えた。エダに続いて借金取りの男にも切られたのでそれは短くなっており、右側と左側とで長さが若干異なっている。鏡がないので詳しくは分からないが、肩に垂れるほど残っているのは右側の後ろの部分だけだった。
 扉を開き、警察の男が部屋の外へ出ていく。しばらくして目に映ったのは深く帽子を被ったコートの男で、彼は後ろ手で扉を閉めた。立ち止まったままじっとこちらの様子を窺い、それが終わるとゆったりとした速度で近付いてくる。
 目の前まで迫った相手はぴたりと足を止め、俺の姿を見下ろしてきた。彼は長い髭を生やした大男で、目深に被った帽子が目の光を隠している。コートの袖口から見える腕は黒ずんで太く、脂肪で肥え膨らんだ相手とは違った意味で嫌な相手だった。
「こんばんは」
 かすれた小声が部屋じゅうに響き渡る。低音のリズムは神経にそのまま入り込むもので、裏に隠れたもう一つの音が存在しているような気がした。
「あの男には部屋の外で待機してもらっている。君と二人きりで話がしたかったから」
「……話」
 喉が潰れていた。滑らかに吐き出したと思った声が相手よりももっとかすれていたらしい。大男の呼吸が少しだけ乱れた。
「君はなぜこんな商売をしているんだ?」
 面倒な相手だった。警察と同じで個人の領域に足を踏み入れようとしている。相手は俺の隣に座り、頭に乗せていた古そうな帽子をソファの上に置いた。彼の茶色い瞳が細く伸びて俺を見ていた。
「好きでやってるわけじゃない」
「目的は金を稼ぐことか?」
「それはあいつの目的だ」
「なるほど、それじゃ君はあの男に利用されているだけというわけか」
 締め切ったカーテンの外に窓はない。あっても鉄格子の中じゃ手が届かない。俺は相手から目をそらした。
「この生活はつらいか?」
 何も答えたくない。だから決して口を開かず、首も動かさなかった。そのまま何分間かが流されていく。
 相手の手が伸びてきた。俺の肩に手を置き、首の下の鎖骨を指でなぞる。俺はなんだかぞっとした。心配そうに事情を聞いてきたくせに、やはり金を払った目的は他の奴らと同じなんだ。若い身体を欲しがる。俺が嫌がっていると知っていながら、俺の口から嗚咽や悲鳴が飛び出す瞬間を今か今かと待ち構えている奴なんだ。知らぬうちに握りこぶしを作っていた。それで相手の顔でも殴ってやろうかと思ったが、俺の後ろにいる人のことを考えるとどうしてもできなかった。
「ずいぶん汚れているな。ちゃんと風呂には入っているのか?」
「え」
 唐突に振られた話題に驚き、ぐいと顔を動かして相手の目を見てしまった。そこには作り物のように動きを見せない瞳が二つ並んでいる。
「シャワーなら、さっき浴びたけど」
 今までの相手は全員揃いも揃って俺の肌が綺麗だと言っていた。それはもちろん御世辞だろうけど、今回の相手は褒めることを知らないのだろうか。俺の容姿が気に入らなかったか、あるいはこの態度が彼を苛立たせたのかもしれない。ただそうだとしても俺は自分を直そうとは思わなかった。
 相手の手がふっと離れる。
「私は夜が明けるまでここにいるが、君を抱く為に来たわけじゃない。さっきも言ったように、君と話がしたかったから来たんだ」
 今回はおかしな客だ。だけどどんな客だろうと俺には関係ない。どうせこの時間が終われば繋がりも切れるんだ、目を閉じて次に開いた時には忘れられる存在だから。
「どうだ、こんな商売はやめて、私の元へ来ないか?」
 髭面の大男がにやりと口元を歪ませる。その様はまるで山の奥底に隠れ住む獣だ。
「どういう意味だよ」
「私があの男から君を買おう、と言っているんだ。そうすれば君はこの商売をやめられる。まあ私も貴族ではないから質素な暮らししかできないだろうが、今の生活よりもよっぽど綺麗で健全だと思うぞ」
 甘い話には必ず裏があるとティナアやケキに教え込まれたことがあった。まだ会って間もない相手を簡単に信用してはならない。子供でも分かりそうなことを俺の精神は囁いて、睨みつける先で立ち上がりコートを脱ぐ相手を厚い壁の中に閉じ込めてやろうと考えた。
「養子として引き取るってわけじゃないんだろ? 名目は何だ」
「それは、まあ――表向きとしては奴隷ってことになるな」
 やはりそうだ。こんなことの為に金を注ぎ込む奴の考えなどこの程度ということだ。ここから逃げ出しても俺は道具以上の価値を与えられない。それならばどこへ行っても視線など同じなのではないだろうか? 人を上から見下ろす人間は足元で這いつくばる者の野心に無頓着だ。だから意見が噛み合わず、武力で無理に自らの欲望を押し通そうとする。
「あんたの要望なんかあいつが聞くかよ。俺はあいつに恨まれてるから、死ぬまで踏み潰されて生きる他にはない」
「ああいう類の人間は物よりも金に目がくらむことが多い。君を嫌っているとしたら、彼はすんなりと君を手放すかもしれないと思うがな」
「まさか、そんなこと」
 嘲笑が生まれる。ここしばらく笑っていなかったから顔が引きつり、なかなか元に戻らなかった。それを隠す為に口元を手で覆う。
 視線を感じた。それは憐れむような目でもなく、興味を持って見ているような目でもない。ただ部屋の片隅にある家具を眺めているような目、生命を通り越してその奥にある靄を無意識のうちに探しているような目だった。離れていた手が再び近付き、今度は太ももの上に置かれた。ごつごつした感触がそこに芽生え、ズボンの上から力を込めてさすられる。
 もう片方の手が肩に触れた刹那に世界が傾き、俺はソファの上に押し倒されていた。驚いて相手を手で押し退けようとするが、彼の身体は大きすぎてぴくりとも動かない。
「何しやがる、こういうことをする為に来たんじゃないって――言っていたじゃないか!」
「最初はそのつもりだったが、せっかくの機会だ、楽しませてくれよ」
「この、嘘つき野郎!」
 重い身体が全身の自由を奪う。服の下に手を入れられ、力ずくで上下共に脱がされた。愛撫などせずに相手は自分のズボンを下ろし、いつの間にか角度を持っていたものを俺の口に押し込んできた。
 呼吸が上手くできなくて苦しかった。彼は俺をソファに押し倒したまま口の中を犯してきた。好きなだけ遊ぶと口から抜き、今度は強引に足を開かされて下の入口から挿入される。準備ができていない状態なので痛みが頭を横切った。
 彼の口から幾度も息が吐き出され、その乱れ方が男特有のもので恐ろしかった。少しでも気を許した自分がどうしようもなく愚かに思えてくる。相手の本心すら見抜くことができずに、俺は何を必死になって探っていたんだろう。そうやって自分を責めようと思っても、彼のやり方が驚くほど攻撃的で、何も考えられないくらい身体全体を揺さぶられていた。閉ざしていたはずの口は開き、潰されたはずの喉から絶えず声が溢れ出る。あまりに乱暴な扱いを受けて反射的に涙が出ていた。それだって見えているはずなのに、男は自らの欲望に対しひたすら忠実に動くだけ。
「嫌だ、やめろ!」
 叫んでも相手には届かない。誰もが簡単に裏切っていく。俺を救うだって、こんな汚いことを望んでいるのに? 人間なんて皆嘘つきだ、平気で他人を貶めることができるんだ! 下から強い力で貫かれ、その拍子に首が横に傾いた。涙で滲んだ目では何も見えなかったはずなのに、恐ろしい形相をしたロイが鋭い刃物を両手で握り締めている様が確認できたんだ。
『そいつを殺せ』
 薄いピンクの唇が動く。その言霊に躊躇いはない。
『殺さなければお前が傷つくだけだ! いいように遊ばれて、それをお前は黙認してしまうというのか!』
 ロイは動かない。俺が認めない限りは動けないんだ。俺は首を横に振った。もう意味のない罪を重ねたくはなかったから。
『もしここでこいつを殺しても、誰もお前を責めたりしない! お前は騙されたんだ、嘘つきは殺されるだけの価値がある! お前は間違っていないんだよ、こんな下衆野郎の何倍も善人であるお前ばかりが傷つくなんておかしいんだ!』
 俺は金を受け取る側で、これは商売の一環だ。売り手が客を殺したなら、間違いなく俺が罪に問われるだろう。いくら相手が嘘をついたと弁解しても殺人犯の言葉など誰も真面目に聞きはしない。それに俺には逃げられない理由があったんだ。
『馬鹿なことを! お前がそうやって自分を犠牲にするから、いつになっても幸せになれないんだよ、ラザーラス!』
 その「幸せ」とやらが他人を踏み台にして手に入れたものならば、一体どれほどの値段が付けられるだろう。この世のどんな宝石よりも美しい物だとして、それは単なる石ころとどこが異なるというのだろう? 確かに俺だって幸せは欲しい。安心して暮らせる毎日が欲しくて欲しくて仕方がない! だけど一人きりの幸せなんて、孤独に埋め込まれた安堵なんて、一枚の皮を剥がされたなら真っ黒のカビが全面を覆っていることを知っている。俺が望むものは、昔から憧れて手を伸ばし続けた先にあるものは、あまりに眩しすぎて諦めかけていたあの輝いていたものではなかったのか? 組織の底から夢見続けた窓の外にある世界ではなかったのか?
『そんなものはない! そんなもの――どこを探しても見つからなかったじゃないか! お前が組織を抜け出して、あの窓の外の世界へ来たはずなのに、なぜお前は今も昔のように男に身体を捧げている? どうしてあの頃に堪えていた涙をそんなにたくさん流しているんだ!』
 きゅっと手のひらを握り締める。相手の身体が俺の中に入り込んできた。それはとても気持ちが悪い。
『僕を行かせろ、ラザーラス! お前の代わりに殺してやる、お前の罪も、汚れも、暗闇も、全て僕が吸い込んでやる! お前は何も知らなくていい、何もかも忘れてしまえばいい! 今までだってそうして生きてきたじゃないか、だからここも僕に任せて、お前は空の上から僕を見ていろ!』
 ロイの刃物がすっと長くなった。先程よりも更に鋭利に、不気味な光を全身に湛えている。それは俺の意識の一部だった。こんなに恐ろしい刃が俺の中に眠っていて、躊躇なく相手に振りかざすことができるだなどと、忘却の平面に塗り固めた隠蔽がこの時になってパラパラと崩れ始めたんだ。俺は再び首を横に振った。
『なぜ僕を否定する! このまま殺される気か、死んでもいいというのか、お前は!』
「あ――っ!」
 分断された身体が痙攣を起こす。その痺れは頭の中にまで侵入し、白くなりかけた精神を強引にこちらへ呼び戻した。まだ繋がっているはずの腕を持ち上げ、ロイに左の手のひらを見せる。
『我慢するな、今すぐ殺してやるから』
 理性と殺意が入り混じり、頭がどうかしてしまいそうだ。
『こんな屑野郎、生きている価値もないんだよ!』
「やめろ!」
 刃を大きく振り上げた腕が部屋の空気を乱したが、狂気の中で絞り出した声の後ろに歯止めとなるものがあった。
「あ、ああ――!」
 再び心が身体に戻った。ロイの姿は見えなくなっていた。両手を湿らせたのは血ではない。赤くなかったからそれが分かっただけで、身体の中から滴り落ちる同じ雫が何なのか、目を覚ましたばかりの俺に理解できるはずがなかったんだ。真っ先に見えたのは男の唇の形だった。その下方に鎖骨が浮き出て、分厚い胸板が俺を押し潰し、へそから下にある一部分が俺の中に入れられていた。それを引き抜いた途端に寒気がするほどの淋しさが襲ってきた。
「は、離れないで」
 両手が動き、相手の腕を捕まえた。彼の驚いた表情を見るまで自分が何をしたのか理解することができなかった。慌てて手の力を緩めたが、床に作られた染みが俺を一層追い詰めるだけだった。こんな嘘つき野郎を相手に、俺は何をやっているんだろう!
「また明日、迎えに来よう」
 整った息を吐き出しながら男は俺の背に手を回した。彼の言葉が耳をくすぐり、嫌悪感と人肌の温かさに戸惑って俺はどうすることもできない。
「君は可愛いな」
「やめろ」
 キスと共に彼の髭が顎を撫でた。
「今晩はずっと一緒にいてあげるよ」
「お前なんか、死んじまえ……死んで内臓ぶちまけて、鳥の餌にでもなっちまえ!」
 身体がソファに沈んでいく。身動きができず、手にはナイフも持っていない。
「心配いらない、夜なんてすぐに終わってしまうから」
「この下衆野郎!」
 上にいる限り夜の長さを知ることはない。俺は常に地べたを這いずっていたから、まだ始まって間もない時間をひどく恐ろしく感じることしかできることはなかった。……

 

 

 何枚もの紙が床の上に落ちていた。表面には何か細かな文字がびっしりと敷き詰められ、虫が這った後のような線が角ばった図形を描いている。部屋の中を右往左往する男は新品の靴で紙を踏みつけ、俺はその様子をソファに食われながらじっと眺めていた。
「ろくなもんじゃないな、貴族って種族の人間は。金に物を言わせていとも簡単に俺の商売道具を奪いやがる」
 閉められたカーテンの隙間から朝陽が足首に差し込んでいた。身体は疲労のせいでぴくりとも動かない。両手には手枷をはめられ、服従の印として首輪も付けられている。視界と意識しかまともに働かず、だから俺はもうどうなってもいいと考えていた。
 昨夜の大男は今日の夕方に迎えに来ると言い残して帰った。俺の所有者である警察の男も客に逆らうことはできないらしく、取引には応じたが今朝からひどく機嫌が悪い。机の上の物を撒き散らかしたり、何度も壁を殴打したりして八つ当たりを繰り返している。俺は彼には関わらないようにしようと考え、話しかけられもしないのでずっと口を開かなかった。
 そうやって早く何もかもが終わって欲しかったのに、昼に近付いた頃に腕を引っ張られて身体を起こされた。相手は眉をつり上げて歯を剥き出しにしており、言葉の代わりに鋭く重い暴力がぶつけられた。
 ソファの上から転げ落ちた俺の身体を彼は靴の裏で踏みつける。床の中に溶け込みそうなほど強く押し付けられ、靴の先端が無防備な脇腹に食い込んできた。競技用のボールのように何度も蹴られ、やがて壁に辿り着いた身体は逃げ場を失う。しゃがんだ相手に胸ぐらを掴まれ、背を固い壁に刺されて前方からは鉛のような拳を食らった。はっきりしていた視界も歪み始め、何種類もの痺れが俺の全てを支配しようとしていた。目を閉じようと努めても暗闇が恐ろしかった。よもや俺の許される地場など存在しないのだろう。
 彼は腕や腹、足などを執拗に痛めつけてきたが、服で隠されていない部位には決して傷を付けようとはしなかった。俺は大事な商品だからぞんざいな扱いができないらしい。そう考えるとなんだか可笑しくて、口元がわずかに緩んだようだった。相手はそれに気付かずにただ乱暴な態度を続けるだけ。
 夕方になると昨夜の客が来た。彼は昨日と同じように目深に帽子を被り、古そうなコートで全身を隠していた。俺はソファの上で二人の男を見比べた。彼らは少しだけ言葉を交わし、コートの男が取り出した札束を警察の男が堅い顔で受け取っていた。
「さあ、おいで」
 手錠を外され、大きな手が俺の手を握った。昨日のような乱暴な掴み方ではなかった。身体の節々が痛んだが知らないふりをする。警察の男が睨みつけていたが、俺はそれにも気付かないふりをして外へ出た。
 淡いオレンジが世界を染め上げていた。だけど俺の目にその光景は灰色として映っていた。頬を撫でる風はやわらかいのに、どうしてだか鋭い棘で刺されている心地になる。長らく履いていなかった靴に違和感を覚え、俺の手を引く大男に身を任せる他に生き残るすべはないような気がした。
『そいつを殺せ』
 俺の後ろにロイがいる。彼には手錠もないし、足枷もないし、首輪だってない。だけど俺は振り返らなかった。
『自由になりたいなら殺してしまえ。家に辿り着いたらまた殺されるぞ、お前はそれでも構わないのか』
 彼はまた刃物を手に握り締めていた。いつだって彼は人を殺す準備を完璧に進めている。俺の首には銀の金具が取り付けられていて、呼吸をする自由だって奪われていたんだ。それが何を意味するか分からないほど愚かではない。
「私の家まではまだ距離がある。少し休憩をしようか」
『そいつを殺せ、ラザーラス』
 俺は一つ頷いた。
 男は狭い道から足を外し、小さな公園に俺を連れ込んだ。入口に差しかかったところで三人の子供たちとすれ違う。広さもない空き地のような地面に小さなベンチが設置されており、俺は男に手を引かれてそこへ足を向かわせた。
「私は少し用事があるから、君はそこで座っていなさい。いいか、逃げ出すんじゃないぞ」
 ベンチの傍で手を放し、彼はコートの襟を両手で正した。そうして俺にだだっ広い背中を向ける。
 いくら分厚い筋肉で守られていても、人間の体というものはあまりにあっけなく壊れてしまうものだ。生命の源を断ち切れば終焉で、俺は幾通りもの方法を知っている。金に溺れ自らを動かさなくなった者は夜盗の撃退法も知らず、頼り切っていた全てのものが消えた時に醜い断末魔を世界中に響かせる。俺に背を向けた憐れな男は何も知らないようだった。
『殺せ、ラザーラス』
 手の中に銀の冷たさを感じる。指先が鋭く研ぎ澄まされ、ナイフよりもたくさんのものを貫く形へと変貌する。
『殺せ!』
 ぐっと足を踏み出し、相手の心臓を裏側から探り、一本だけ伸ばした指をそこへ押し出した。
 雲がさっと空を隠す。
 もはや誰もいなくなっていた。腕から一気に力が抜けた。崩れるようにベンチに座り、俯いて頭痛が終わる時を静かに待つ。
 自分がこれからどうなるのかなどと、そんなことを考えている余裕などなかった。これが定められた運命とやらならば俺は黙ってそいつに従おうと思ったんだ。世の中とは上手く出来ているもので、幸福を手にする為には必ず他者の幸せを奪うしか道はない。俺が今の状況を不幸と考えるのならば、間接的に守ろうとしたセレナは今頃幸せそうに微笑んでいるはずだった。俺はその笑顔を見たくない。それを見てしまえば戻れなくなり、汚い自分に嫌気が差して逃げ出してしまいそうになるから。俺は彼女を裏切ることのできない多くの理由を抱えていたんだ。身体じゅうの傷が精神まで蝕み、尖っていた指先が元のやわらかさに戻っていく。
 耳の裏で子供の声を受け止めた。公園の中で楽しそうにはしゃぐ声だった。陽気に歌を歌い、風のように走り回り、俺の前を何気なしに通り過ぎていく。ふと幽霊の少年のことを思い出して悲しくなった。
 ここで全てが止まればいいと思った。時間が終わり、空間が消滅し、塵となって新たな歴史が始まってしまえばいいと思ったんだ。もう何がどうなろうと俺には関係なくなってしまったから! いつかラスが言っていた言葉を思い出している。こんなに苦しみばかりが伴うなら、この生命はここにある意味などないのではないだろうか? 俺は他人の為に存在し、自らの望みなど持つべきではなかったんだ! ああ、そんなこと、気付かなければ良かった! 必死になって生にしがみつく者のなんと愚かなことだろう!
 灰色の手のひらをじっと見つめる。
「ラザーラス」
 音のない世界が俺を押し潰していた。
「顔を上げろ」
 聞こえた命令に従い、頭をゆっくりと持ち上げる。悪くなった目が捕らえた人影はコートを羽織っていなかった。背後に沈みかけた夕陽を掲げ、そのおかげで相手の顔がよく見えなくなっている。
「ほら、帰るぞ」
 彼は俺を買った男とは違っていた。差し出された手を見つめ、相手の正体を暴こうとしたけれど、視界が歪んでいたせいで情報の一片さえ取りこぼしてしまっていた。俺が動く前に相手がぎゅっと手を握ってきた。そうして強い力で引っ張られ、逆らえない俺はすぐに立ち上がる。
 彼は背を向けて歩き出したが、繋いだ手の力は決して緩めようとしなかった。古着を破って作ったようなマントで身体を包み、頭には安っぽい帽子を被って髪さえ見えなくなっている。黙々と歩を進めて公園を後にし、俺はわけが分からないまま彼の背中を追った。
 少し歩くと風が吹いた。雨の日のように強い風だった。俺の前を歩く頭から帽子が飛ばされ、隠れていた髪が目の前で大きく揺れる。
 それは赤い髪の毛で、振り返った相手を見て確信した。
「エダ」
「ああ」
 エダだった。彼は間違いなくエダだった。灰色の中に一つだけ色彩が浮かんでいる。それを導火線とし、目の中に色が強風と共に描かれた。
「なんだよお前、気付いてなかったのか? ただ帽子を被ってただけじゃないか」
「ど、どこへ――連れて行くんだ」
 自分でもはっきりと分かるほど声が震えていた。だけど彼が怖いわけではない。麻痺していた感覚が一気に甦った。脇腹と背中が痛み、足が普通に動かなくなる。
「おい、どうした」
 地面に倒れかけた俺を相手は身体を張って助けてくれた。彼の手が柱を失った俺を支え、鈍い痛みがじわりと広がっていく。苦痛に慣れ始めた頃に支柱を元に戻し、何食わぬ顔をして自身の足で地面に立った。
「歩けるか?」
「うん」
 相手は深く聞いてこなかった。納得をしたわけではなさそうだったが、黙って前を向いて再び歩き出す。
 眩しい背を追いながら俺は人の通らない道を歩いた。彼がその道を選んでいるようで、細い小道や畑に囲まれた田舎道ばかりを足で踏みしめる。人々の声は遠くに押しやられ、沈む夕陽が眼前で大きく微笑んでいた。知らないものばかりで疲れてしまい、俺は無意識のうちに足を止めていた。
「大丈夫か? 無理はするなよ」
 振り返った相手はやはり優しげに声をかけてくる。それなのに今の俺ではどうしても一歩を踏み出すことができない。
「何も聞かないの?」
 ロイの唇が俺の底にあった。エダはくっと目を丸くする。
「何もって、じゃあ何を聞けばいいんだ」
「俺が今まで何をしていたか知りたくないのかよ、あんたの喜びそうな話だぞ!」
「知ってるよ」
 無音の空間が息を吹き返していた。風が全身を包み込み、背中に刃の温かさを知る。
「セレナから頼まれたんだ。お前が悪党に捕まったから助けて欲しいって。それなのにその悪党どもはお前はもういないとか言いやがって、あの警察の住処を見つけるのに時間を食っちまってなぁ」
 相手はズボンのポケットに手を忍ばせた。そこから見覚えのある機械を取り出し、手の中で転がせて弄ぶ。
「お前を公園まで連れてきた男は金で雇ったんだ。俺が警察のところに乗り込んだら、すぐに居場所がばれてセレナが危なくなっちまうからな。ああそうだ、セレナは家でヨウトが守ってるから安心しな。それはそうと、助けに行くのが遅くなって悪かったよ。俺が雇った男には酷いことされなかったか?」
「酷いこと――」
 昨夜のことは思い出したくなかった。身体の節々がずきずきと痛む。身体の内側から針で刺されているようだ。彼の手の大きさが俺を押し潰し、身動きができなくなってから玩具のように扱われた。
 両手で自分を抱き締める。身体の震えが止まらない。あの男のことを考えると呼吸が乱れて苦しくなった。目の奥で火花が飛び交い、血の巡りが速くなって酸素が休みなく消費される。
「あ、あんな奴、死んじまえばいいんだ」
「おい」
 相手は俺の手を取った。
「あいつに何かされたのか」
 真剣そうな目があった。それは俺に心配を寄せている証なのだと感情が理解させた。だから俺は素直に話そうと考えたのかもしれない。
「理由とか、いろいろ聞かれて――その気じゃないって言ったはずなのに、あいつは俺をソファに押し倒したんだ! 俺は信じてたのに、あいつの言葉を信じたのに、あいつは夜のあいだじゅうずっと俺を手放さなかった! 嫌だって言ったのにさせられたんだ、何回も、何回も!」
「……そっか」
 ふわりと春のような風が舞う。
「ごめんな。あの男がそんな奴だとは思ってなかった。あいつの正体を暴けなかった俺の責任だ、悪かったよ。お前には手を出さないって約束させてたんだけど――男に興味はないと言いながら、嘘を被ってお前に近付いちまったんだな。本当にすまなかった。……つらかったな」
 抱き締められていた。人のぬくもりが感じられた。だけどそこに卑しい目的はない。どこまでも綺麗な、恥ずかしいほど純粋な、汚れを受けなかった鏡のように透明な抱擁だった。夕焼け空がそれを深い影として大地に落とし込んでいる。
「そうだ、これ」
 彼の腕が動き、手で握っていた機械を俺に見せてきた。背中から相手の腕が離れ、それを追いかけるように相手に目線を送った。エダはちょっと微笑んでから機械に視線を落とす。彼につられて俺もそれを眺め、相手の手の中にある物が警察の男が使っていたビデオカメラであることが分かった。
「あの警察野郎、こいつを売り飛ばして金儲けでもするつもりだったんだろうけど、泥棒に盗まれてるようじゃ世話ないよな」
「エダ、それは」
 覚えている。あの男は俺が客と交わっている様を撮影していたんだ。それが嫌で嫌でやめて欲しいと頼んだが、あいつは俺の言うことなど一つも聞いてくれなかった。そうやって作られた映像がエダの手の中にあった。俺の否定できない事実が今は相手の大きな手のひらの上に乗せられていた。
 彼は手をくるりと裏返した。支えを失った機械は重力に従い、まっすぐ地面へと落下する。
 張りつめられた静寂に騒音が生まれた。
「どうして――」
 彼の足が機械を踏み潰していた。二度、三度と踏みつけて、人間が作った物質がばらばらに分解されていく。
「なんで、どうして」
 過去が消える。傷跡が消える。俺の消したかった汚れが、忘れたかった痛みが踏み潰される。嫌な事実、知られたくない行為、利益に塗装された砦が破られ、俺の扉を容赦なく破壊してくれる。その乱暴さが今は心地良かった。狂気が溢れるほど居心地が良かったんだ!
「どうしてあんたがそんなこと、どうして俺を――助けるんだ!」
 相手の胸ぐらを掴んで問い詰める。言おうと思った言葉は喉に引っ掛かって出てこない。心の裏側にある叫びだけが脳を通過せずに吐き出され、相手の顔面を多彩な水で濡らしていく。
「なんでこんな、こんな優しいことを、あんたが――」
 エダは黙っている。何も言ってくれないから感情が止まらない。
「こんなに、優しいこと、どうして――」
 彼の瞳が微かに揺れていた。
「俺が助けたいと思ったからだよ」
 真面目な顔が俺を見ていた。急速に息を止められた気がした。見上げていた全てのものが滲み始め、俺の中の殺意がしんしんと洗い流されてゆく。
 彼の手が頬に添えられた。それが下方へと移動し、俺の首と銀の首輪との間へ指先を侵入させた。外側からは親指をあてがい、手の甲にほんの一瞬だけ筋が浮かぶ。小さな音と共に首から食いついて離れなかった物質の重さが消えた。銀の粉が夕日に照らされてきらきらと輝き、風に乗せられてどこかへと流れていく。
「お前はもう自由だ。誰の命令も聞かなくていい」
 色の付いた氷に似た瞳だった。何重にもカットされた宝石のように深く、だけど透き通っているから向こう側がはっきりと見えている。
「あ……う、あ、ああ」
 染められた世界の中で、再びおもむろに抱き締められる。
「うっ、ああ、あああ……」
 腕から伝わるぬくもりが、胸から感じるぬくもりが、身体全体から広がった人のあたたかさが俺の中に駆け巡り、幾度も弾けて隅々まで行き渡る。
「ああ、ああっ、うあああ――!」
 持ちこたえることができなくなって、彼の腕の中で力いっぱい泣いた。
 大声を出して泣いた。恥など忘れて子供のように泣きじゃくった。自分が今どんな感情を抱いているのかさえ分からずに、ただ溢れ出る何かを表現したくてエダに縋りついて泣いたんだ。相手は何も言わず受け止めてくれた。それが何よりも嬉しくて、余計に止まらなくなった涙を全て彼の為だけに捧げた。
 他人の為に自分を殺すことのつらさや、決して逆らえぬ命令に頭を下げ続けることの苦しさを、俺はもうずっと昔から知っているものと思い込んでいた。それは当たり前のことだと、自分は幸せになるべき人間ではないと感じていたから我慢して、だから今になるまで耳も目も塞がず生き残ることができていた。このつらさは身体に付けられた傷よりも浅く、時間が経てば忘却という名の逃げ道を与えられるから簡単だと思っていた。悲愴などもうすっかり舐め尽したと感じていた! それなのに、それなのに今になって、彼に抱き締められて声をかけられた刹那に思い知った。俺が今まで見ていた苦痛や悲しみは表面だけのものにすぎなかったんだと! 優しくされた瞬間に痛みが押し寄せた。心を寄せられた一閃に耐えられないほどの悲哀が噴出した! 俺はそれを止められなかった。慟哭することでしか自分を正常に保つことができなかったんだ。
 泣きやむまでにたくさんの時間が必要だった。声が枯れても涙は底をつかず、それを見かねたエダは俺の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「さあ、家に帰ろう」
 俺は腕で涙を拭い頷いたが、彼のやわらかな微笑みを見ると溢れ出る涙を止めることができなくなった。

 

 +++++

 

「ロイ!」
 扉を開けた途端に水色の風が揺らめいた。真正面から飛びついてきたヨウトに抱き締められ、思わず一歩後退してしまう。
「ロイ、ロイ、ロイっ! よかった、よかったよぉ!」
「ヨウト、苦しいって」
「僕ロイが心配で心配でたまんなかったんだよ! 無事でよかった、本当によかったぁ!」
 髪に埋もれた小さな肩が震えていた。いつも以上に強い力で抱き締められ、申し訳なさとあたたかさとで心が埋め尽くされていく。
「心配かけて悪かったよ。俺はもう大丈夫だから」
 涙の塵が目の奥に残っていた。それを隠す為にも気丈に振る舞い、この時をどうにかして乗り越えなければならないらしい。俺はしがみついて離れないヨウトの頭を優しく撫でた。
「おいこら、玄関で立ち止まってんじゃねえよ。家に入れないじゃないか」
「あ、エダさんいたの」
「てめえ……」
 腕で強引に涙を拭ったヨウトは背に回していた手を離してくれたが、その後になっても俺との距離を空けようとはしなかった。とりあえず家の中に入り、俺の後ろに立っていたエダが音を立てずに扉を閉める。
「ラザーラスさん」
 狭い部屋の奥からセレナが顔を見せた。影を隠さぬ表情でこちらをじっと見つめ、その大きな瞳に霧のような不安が被せられていた。俺の前に立った彼女は一呼吸置き、ゆっくりと唇を震わせる。
「ごめんなさい」
 頭を下げた。長い髪がふわりと垂れ下がった。
「私のせいで、あなたにつらい思いをさせてしまって――こんな、謝るだけで許してもらえるとは思っていないけど、それでも」
「気にしなくていい。俺が勝手にやっただけだから」
 相手の肩に手を置くと、彼女は身体全体をきゅっと強張らせた。
「本当に気にしなくていいから」
 彼女は怯えている。俺が犠牲になったことに責任を感じ、強い恨みを向けられるのではないかと危惧してるんだ。俺はそんな感情を抱いて欲しくて悪党の元へ出向いたわけじゃない。目には見えない幸福を知って欲しかったから彼らの言いなりになったんじゃないか! 以前にも同じような矛盾に苛まれたことを思い出す。これは、そうなんだ。俺が犠牲になって傷つくということは、俺のことを少しでも知り、心配してくれる人もまた同じように傷つくということなんだ。そんなことは知らなかった。俺は誰かを守ろうと必死になっていたのに、本当は別の方向から絶えず癒されない傷を作り続けていたということなのだろうか。
「お前ら何をそんなに暗い顔してんだよ。それよりラザーラス、お前はとりあえずシャワーでも浴びてこい。その後で俺の部屋に来いよ、分かったな」
「あ、うん――」
 後ろから背を押され、ようやく頭を上げたセレナの傍を通り過ぎて風呂場へ向かった。部屋を出る前にヨウトは俺から離れた。一人きりで狭い廊下を歩き、同じように面積の少ない脱衣所で服を脱ぐ。そうして目に入った自分の身体を確認し、痣や傷で汚された白い肌を指先で一箇所ずつ触れていった。もう出血は止まっていたけれど、拍動が爪の先からも感じられた。
 風呂場に足を置き、頭上から降り注ぐ熱湯を全身に受ける。白い湯気が身体を包み、それは俺を夢の中へといざなった。痛いはずの傷が緩み、浴びせられる湯が身体の奥に留まった汚いものを洗い流してくれた。足元で沈んでゆく水は泥よりももっと濁り、人の作った社会で最も卑しいものとして認識されるのだろう。それが排水溝の中へ渦を巻いて消えてゆく。
 シャワーだけを浴びて風呂を出た。床に脱ぎ捨てた服を拾おうとして、脱衣所に別の黒服が畳んで用意されていたことに気付く。それを手に取って上下共に着替え、脱いだ服はバケツの中に入れておいた。そうして脱衣所を後にし、エダの部屋へと歩いていく。
「よう。身体はちゃんと洗ったか?」
「ああ」
 床に座り込んでいたエダは扉を後ろにした俺の方へ振り返り笑顔を見せた。そちらへ近寄って彼の前に座り込み、相手の顔がよく見える位置を陣取る。
「それで、何か用なのか」
「うん、まあ……セレナとは顔を合わせにくいだろうなーと思ってさ。それにお前、怪我とかしてるんじゃないのか? 薬を塗ってやるからじっとしてな」
 彼は何でも知っている。俺のことを俺以上に知っているように振る舞う。どうしてそこまでの情報を手に入れられるのかは分からないけれど、それが彼という人間を表しているのではないかと思った。だから俺はもう深くは追究しない。両手で服を捲り上げ、裸の腹を相手に見せる。
 エダは棚の上に置いてあった白い瓶を手に取り、蓋を開けてジェル状の薬を俺の腹に塗った。ひやりとした温度が心地良かった。同じように背中や腕にも薬を塗ってもらい、それを終えるとズボンを足首から上へと捲り上げる。
「おい、それじゃ太もものところが塗れねえだろ。脱げよ」
「え――」
 背中がぞくりとした。そういう目的でないことは分かっているのに、身体が勝手に警戒反応を呼び覚ましてしまう。それを抑えてズボンを手で握ったが、俺を制止させる何かのせいでうまく脱ぐことができなかった。
「大丈夫、何もしないから」
「……うん」
 彼の一言が緊張を和らげてくれた。手のひらから過剰な力が抜け、傷で埋め尽くされた足を相手の前にさらけ出す。エダは腹や腕と同じように丁寧に薬を塗ってくれた。全て塗り終えるとズボンを穿き、改めて相手と向き直る。
 何か言わなければならないと思った。だけど頭に浮かび上がってくるのは安っぽい感謝の言葉だけで、それは違うと感じた。拠り所が欲しくなって胸に手を当てる。俺を叱ってくれる十字架を探し、指を折り曲げて服の上から肌を触った。
 それはまっすぐ胸を隔てる皮膚へと辿り着く。はっとして服を捲り上げると、そこにあるはずのアニスの十字架がなくなっていることに気が付いた。
「どうした?」
「な、ないんだ……アニスの十字架がない!」
「風呂場にでも置き忘れてんじゃねえの?」
「そんなはずはない! 俺があれを忘れるなんてこと、絶対にあり得ない!」
 そこまで口にしてから後悔した。俺は手で触れるまで十字架がなくなっていたことに気付かなかったんだ。あれは失ってはならないものなのに、いつから消えていたのかさえも分からない。眠っていたわけでもないのに、俺はどこまで生温かい世界に酔いしれていたのだろう!
「探しに、行かなきゃ――」
「待て待て、その身体で外を出歩くとすぐにぶっ倒れるぞ、分かってるのか?」
 何も知らないエダは立ち上がった俺のズボンを手で掴んで制止しようとする。天井の隙間から黒く染まりかけたオレンジが差し込み、焦る気持ちが倍増されて身体より先に意思が走り出していた。
「止めないでくれ、俺を行かせてくれよ!」
「だから駄目だって言ってるだろ。ただでさえ疲れてるんだから、お前はここで大人しくしていろ。それに、今からお前が外に行ったらヨウトやセレナがまた心配するだろ」
 相手の言葉に何も言い返せなくなった。俺はあの二人の顔を不安で隠してしまうことしかできない人間にはなりたくなかったんだ。前に出しかけていた足を元に戻し、部屋の中で縮こまる。力を失って座り込んだ俺を見たエダは一つ頷き、何も言わないまま立ち上がって外へ出ていった。

 

 

 夜が来て間もない頃に広間へ行き夕食を食べた。それはどうやらセレナとヨウトの二人が作ったものらしく、自慢げに語るヨウトを横目にセレナはいつもと同じような笑顔を見せていた。だけどその席にエダの姿はなく、彼の為に用意されていた白い皿は使われないまま食器棚の中へ収納されることになった。
「ねえロイ、寝る前にお話ししようよ」
 部屋へ戻ろうとすると後ろからヨウトに声をかけられた。先程まではこの時間になっても戻らないエダに腹を立てていたのに、そんなことはもうすっかり忘れてしまったらしい。子供らしい裏表のない目で迫られ返答に困ったが、胸に十字のない今の俺が相手と話をしても有益なことなど一つもなく、また全身に溜まった疲れを早く消化したかったので、俺は彼の誘いを断らなければならなかった。
「悪いけど、今日は早く寝たいんだ。また明日な」
「あっ……そっか、そうだよね。無理言ってごめんなさい」
「いや、いいよ」
 相手を安心させる為に笑顔を作る。ヨウトは俺の顔をいとも高そうに見上げ、少し困ったような表情になった。
「なんだ、どうかしたのか」
「えっとね、昨日エダさんと決めたんだけど、セレナさんは僕の部屋で寝ることになったんだ。でもそうしたらロイの寝る所がなくなっちゃうなぁって気が付いて」
「じゃあ俺はエダの部屋で寝るよ」
「駄目だよそんなの、エダさんなんかと一緒の部屋で寝たら、エダさんがロイを虐めるんでしょ?」
「大丈夫さ」
 俺はエダじゃないから彼の考えなど分からなかったし、ヨウトでもないから目の前にいる少年の心配だって分からない。だからこそ俺は彼らを安寧の中へ導き、なんとなくでも信じてやることができるのだと感じた。ふわりとしたヨウトの髪を片手で撫で、もう一度だけうんと優しい微笑みを作る。
「ロイ」
 唐突に重さを感じた。俺はヨウトに抱き締められていた。相手の顔は俺の胸に埋もれて全く見えなくなっている。
「もう、いなくなったりしたら、やだよ」
「――うん」
 昔と同じようで、実際はたくさんのことが変わっていた。ただの仕事仲間と思っていた相手だったのに、今ではとても大切な存在になっていた。そしてそれは彼にとっても同じようで、こんな真っ直ぐな気持ちを向けてくれる相手のことが俺はとても好きだった。だから小さな身体をぎゅっと抱く。実在しない生命だとしても、俺の名を呼び続けてくれる彼の声は俺の魂に直接響いていたのだと気が付いた。
 少しのあいだ抱き合い、やがて顔を離したヨウトの目は宝石のようにきらきらと光っていた。
「えへへ。おやすみ、ロイ」
「ああ、おやすみ」
 眠りの挨拶を交わし、俺は大きく頷いた。照れくさそうな表情のままヨウトは姿を消し、彼の影が見えなくなってから身体を逆向きに回転させた。そうして古い床を踏みしめながらエダの部屋へと向かっていく。
 部屋に戻ってもエダは帰っていなかった。どこへ行くとも言っていなかったし、彼を探しに出かける体力も残っていなかったので、俺は一人で彼のベッドに潜り込んでしまった。それは大きく見えていたのにとても冷たい鳥籠だった。昨日のことを思い出し、早く忘れてしまいたくてすぐに目を閉じて闇に溶け込む。
 視界を失ったままじっとしていると、突然誰かに肩を触られた気がして目を開けた。そこへ手を伸ばして生々しい感触を消そうと試みたが、もとより何もなかったので自分の手が肩に置かれただけだった。再び目を閉じて暗闇に沈んでいく。早く眠ってしまいたかったのに、今度は足首を掴まれたような気がしてまた目を開けてしまった。
 身体を丸めて小さくし、力を込めて目を閉じる。背中を誰かに撫でられた気がしたが知らないふりをしていた。続いて手首を掴まれ、腹を舐められ、首を絞められた感触さえ覚え、それでも目を開いてはいけないと自分に言い聞かせてこの場を凌いだ。これは幻だから気にする必要はない。疲れて眠ってしまったら、きっと消えるはずだから大丈夫だと思い込んでいた。
『目を開けなさい、そしてちゃんと見るんだ』
 ここにはいないはずの男の声が聞こえた。はっとして目を開けたが、俺が思い描いた相手など当然いるはずもない。質の悪い幻聴などに怯えている場合じゃないのに、立ち込める不安は限度を知らぬかの如く溢れ出るばかりだった。もう一度目を閉じて無に努める。
『お前に選択肢などないんだよ、犬みたいにご主人様の為に尽くしていればいいんだ』
 両手で耳を塞いだ。手のひらに汗が滲んでいることに気が付いた。
『君は可愛いね。身体もこんなに綺麗で……とても素敵だ』
『この下衆野郎、殺してやる!』
 頭の中で声が回る。上下も左右も分からなくなって、目を開けているのか閉じているのか、今が現実なのか夢なのかさえ判断できなくなる。罵声が右から飛び、下方からは鼻息のような声が聞こえた。そのすぐ後ろに潜むのはロイとして吐き出した暴言で、それらがぐるぐると渦のように舞っていた。
 終わりがない。声など音と同じなのに、部屋じゅうに響き渡って何重にも広がっていた。手足が痺れて動けないのは、手枷と足枷とを付けられているからだった。口を開いても空気を吸い込めないのは、首輪を付けられて執拗な接吻を受けているからだった。腹の中がざわざわする。全身の毛が燃え上がり、全て抜け落ちた感覚があった。あらゆる箇所から汗が流れる。骨がきしみ、爪が割れ、これまでに感じたことのない頭痛が襲う。
 胃の中のものが口から出てきて目が覚めた。ようやく動き出した身体を支え、だけど吐き気が止まらなくてベッドの上を汚していく。ヨウトやセレナが作ってくれた料理が台無しになってしまった。それが申し訳なくて悲しくなり、嘔吐が終わっても身体が震えて何もできずに座り込んでいた。
 無音だった。声を上げている者など一人もいない。右手の指で太ももを強くつねり、無理に立ち上がって机の上にあったタオルで口を拭いた。
「あれ、まだ起きてたのか」
 背中から声が聞こえてタオルを床に落としてしまった。大きくなる目を抑えながら振り返ると、部屋の入口に何食わぬ顔をしたエダが立っていた。片手をズボンのポケットに突っ込み、悠々とした態度でこちらへ近付いてくる。
「お前さ、早く寝た方がいいぞ。身体も傷だらけなんだしさ」
「わ、分かっている――」
 何か大きな隠し事を言い当てられたようで、わけもなくさっと顔をそらしてしまった。
「まあいいけどさ。それより、起きてるんならちょうどよかった。これ」
 タオルを持っていた方の手を握られ、その上に冷たい物を乗せてくる。まだ気持ちの悪い胸をなだめながら、ゆっくりとそちらへ視線を向けた。
 手の上には金色の十字架が乗せられていた。それは紛れもなくアニスから受け取ったあの十字架だった。
「な、なんで、これ」
「あの警察の部屋で見つけたから、あいつがおねんねしてる隙に盗ってきちまったんだ。……それで合ってるだろ?」
 驚きを隠せないまま俺は頷いた。頭が上手く回っていなかったので二度も三度も頷いてしまった。
「そうか、良かった。これで心配事はもう無くなったよな?」
「ヨウトが怒ってた、エダはいつもご飯を食べてくれないって。俺も、あんたはまた遊びに行ったのかと思ってて――」
「本当は遊びたかったんだけど、あの警察は俺から見てもいけ好かない奴だったからさぁ。ああ、そういや俺が雇ったコート野郎にも会ったぜ。あいつにはお礼の意味も込めて、俺のベルトの跡を全身に刻み込ませてやってさ、ついでに渡した金の半分を奪い返してきちまったよ」
 エダはけらけらと笑いながら札束で顔を扇いだ。悩み事など一つもなさそうな表情が羨ましくて、知らぬうちに俺の頭は俯いてしまう。
「そんなわけで疲れちまったから俺はもう寝るぜ。ベッドはお前が自由に使っていいからさ」
 喋りながら相手は床に寝転がった。足の指先に見えた彼の赤い髪を見て、俺は彼の傍にしゃがみ込む。そうして彼の肩に手を置いた。閉じかけていた目を開き、エダは俺の顔を不思議そうに見上げた。
「あ、あの」
 なぜだか目を合わせることがとても恥ずかしく感じた。身体の奥から熱が生まれ、握っていた十字架の温度を確認しなければ溶けてしまいそうだった。手のひらの汗が相手の服を濡らしてしまう。
「どうしたんだよ」
 急かしてくる相手を恨めしく思った。目が合うだけで自分の気持ちを偽りなく伝えることができればいいのにと思った。止まりそうもない唾を飲み込み、震えているだろう唇を動かして自身の胸の内を明かそうと声を吐き出す。
「一人じゃ、眠れなくて――昨日のこととか、思い出して、気分が悪くなるから、だから」
 エダは身体を起き上がらせた。そうしてまっすぐ俺の目の奥を覗き込んでくる。
「お前、それ、俺に一緒に寝てくれって言ってんの?」
 断られるんじゃないかと思った。先程よりも強い口調だったから、子供みたいなわがままを言うなと怒られる気がした。
「目を閉じたら誰かに触られてるような気がして、それが終わらないままに今度は幻聴が聞こえて、このままじゃ眠れないんだ! だからエダ、お願い――」
 相手は立ち上がった。そっとベッドの傍に寄り、小さく驚きの声を漏らす。そして床に落ちていたタオルを手に取り、俺が吐いたものを拭き取ろうとしたようだった。
「うーん、これじゃ取れねえな」
 すぐに諦めたエダはベッドのシーツをはぎ取って床の上に放り投げた。シーツを失った布団の湿っている部位にタオルをあてがい、更にその上に布切れのような枕を乗せる。
「これで我慢するしかないな。ほら、中に入れよ」
 顔色を変えないまま催促され、俺はどうしていいか分からなくなってしまった。彼は怒っている様子でもないし、喜んでいるわけでもなさそうだった。どうすべきか悩んでいるとあまりにも曲がりのない視線を感じ、俺は言われた通りベッドの中に入り込むことにした。俺が入るとすぐに相手も中に潜り込んできた。二人並んで天井を見上げ、不思議な感覚が全身をくすぐっていた。
「エダ、あの」
「何だよ」
 顔を傾けて相手の横顔を確認する。
「どう思ってる? この状況のこと」
「んーまあ、仕方ねえかなって」
「じゃあ、本当は嫌なのか?」
「そりゃあ一緒に寝るなら恋人ってヤツの隣がいいに決まってるだろ。とは思うけど、別に恋人なんていないし、俺は嫌じゃないぜ。むしろお前の方が嫌なんじゃないのか」
「俺は……嫌じゃない」
 布団の中があたたかかった。一人でくるまった時に比べ、全身の熱っぽさを感じることもなく、静寂のように落ち着いていられる。
「あ、あのさ」
「何だよ」
 胸に十字架を押し当て、焦りそうになる気持ちを一つ残らず沈めていった。エダはまだこちらを見てくれない。
「触ってもいい?」
 相手は顔を動かして俺の目を見た。
「そんなことしてどうするんだよ」
 問い返されてしまい、どう答えていいか分からなくなる。俺だって自分が今何を望んでいるのか、それをきちんと説明できるほどよく理解しているわけじゃなかったんだ。ただ誰かに触れていて欲しかった。人間の持つ独特の体温を感じていたくて、相手に無茶なお願いを吹っ掛けてしまっている。
 上手い言葉が見つからなくて、俺は相手に向かって手を伸ばした。彼の腕を服の上から触り、身体全体を相手に寄せ、肩の上に額をうずめる。そうやってしばらくじっとしていた。
「お前さ、俺が誰だか分かってる?」
「分かってるよ」
「だったら酒でも飲んだのか?」
「飲んでない」
 ふと肩に体温を感じた。俺が欲しかったぬくもりが唐突に降ってきたんだ。顔を上げて確認してみると、エダの手がガラス細工を扱う時のようにそっと添えられていた。相手は暗闇に目を向けて、消え入りそうな呼吸を繰り返している。
「今でも樹君のこと、好きなんだろ? こんなことしてていいのかよ」
「どうして。抱いてもらってるわけじゃないのに、気にすることなんてないじゃないか」
「……」
 ふっと息を吸い込んだ音が聞こえた。彼の喉が小さく鳴る。
「触ってるだけでいいのか?」
「うん」
「俺が何かするかもしれないとか思わねえわけ?」
「思わない」
 相手は身体を横に向けた。服の隙間から彼の胸板が覗いている。おもむろに肩に置かれていた手が動き、それは俺の背に回された。服を隔てて伝わってくる脈が相手の生命を強く感じさせる。彼の素肌を触りたくなり、俺は相手の首へと頭を寄せた。キスをする時のように首筋へ近付け、弾力のある肌に頬をこすりつける。
「おい、そういうことはするなって」
「もっと触って欲しいんだ。触って、撫でて――あ、愛して欲しい」
 前方から押され、少し身体を離された。エダは普段より目を大きく開き、なんだか慌てているようにも見える。
「お前、それはつまり、セックスしたいってことか」
「違う」
「じゃ愛して欲しいって何なんだよ!」
「な、何って」
 愛して欲しいということがどういうことを指しているのか、自分で言っておきながらその答えを見つけることができない。ただ彼と繋がり合いたいというわけではないことだけは明らかだった。俺は誰かの肌が欲しくて、人間の体温を感じたくて、相手と同じベッドの中に寝転がることを選んだんだ。その次に溢れてきた欲望は自分に触れて欲しいということで、それがどこから愛に繋がるのか――樹なら知っているだろう理を、俺はまだ自信を持って肯定することができない。
「触って」
 彼の手を取り、胸の上に乗せた。相手は表情を固くしながらもゆっくりとさすり始めた。俺が手を離しても続けてくれた。それが何よりも嬉しかった。
「服の下から触って」
 新たに芽生えた欲望は歯止めが利かない。相手は俺の言葉通りに手を動かした。服の下に五本の指を忍ばせて、肌に直接触れてくる。邪魔になった服を捲り上げ、相手の手引きによって窮屈な服から身体を解放させた。
「いいのかよ、本当に」
「何が」
 頭がぼんやりしている。何もかもが常識の域から外れ、俺の知らないところへ飛んで行っているように見えた。相手は俺の腕に長い指を這わせている。
「もっと触れて。体温を感じさせて。胸や腕だけじゃなくて全身を、慰める時みたいに触って。舌も使って……お願いだから、愛して」
「それはつまり、挿入さえしなけりゃ何をしてもいいってことか」
「う、うん――」
 相手は身体を少しだけ起き上がらせ、機敏な動きで自らの服を脱ぎ捨てた。ただ腰から下は隠れたままで、だけど仰向けに寝転がせた俺の身体からは全ての衣類を剥ぎ取ってしまった。
 彼の顔が近付いてくる。両手が俺の肌に触れ、湿った舌で腹を舐められた。以前のような息苦しさは感じられず、だけど気持ち良さとは程遠い感覚だけが根を張って広がってゆく。やわらかな力で身体を押さえつけられ、彼の舌が乳首を舐めた。これまでに感じたことのない透明な何かが根の間を這って侵入してきた。驚いた俺の身体は小さく声を漏らしてしまう。
 胸を重ねられ、首を噛みつかれた。歯の硬さが感じられる噛みつき方だった。ちくりとした痛さが身体を敏感にさせ、続いて噛まれた部分に舌を滑らされた。まるで傷を舐めて治そうとしているようなその行為は、養分を吸い取って幹が膨れ上がった木を彷彿とさせる魅力があった。沈んだ頭に辿り着いた後は、髪をかき分けて耳を噛まれた。歯の並び方が分かり、甘い唾液を感じ、囁きのようにふわりとした噛み方だった。目を閉じると相手の色や香りが身体全体に行き渡るようなゆったりとした気持ちになった。
 相手に押し潰されても嫌な気持ちは目を覚まさなかった。下半身を触られても怖くなったりしなかった。手の届く範囲で太ももや膝を触られ、ひと巡りした後に最も敏感な部分に手が伸びる。目を開けて彼の顔を見ると、月の光に照らされて少しだけ頬を赤らめていることが分かった。
「ん、うう……」
 優しい手つきでも伝わってくる刺激はいつものものとあまり変わらなかった。それが分かった途端に恐ろしさが俺を踏みつけ、思わず相手の身体にしがみついてしまう。
「心配するな、怖くねえよ」
 低いトーンの声が心をここに留まらせてくれた。俺は頷き、彼からの愛撫に集中する。
 途中で幾度も声が零れた。俺の考えとは関係なしに起こる拒否反応をどうにかして抑えながら、身体の中を疾走する電信に振り落とされないよう必死だった。感情が昇れば昇るほど力を込めて相手にしがみつき、全く知らない感覚の正体が見えそうで見えなくてもどかしく感じていた。だけどそれを掻き消す大きさの恐怖が身体を痙攣させていく。
「ま、待って――どこかに行っちゃいそうなんだ、怖い!」
 不安感を口に出して相手に伝えた。目の前の景色がぐらぐらして頼りない。息をすることも苦しくて、中心から出た熱は更に温度を上げ、未知の世界へ吹き飛ばされそうでこの上なく恐ろしかった。相手にずっと俺を捕まえていて欲しかったんだ。
「平気だ。身体を出たら、俺の所に来ればいい。受け止める準備なら既に整っているから」
 彼の声が澄んだ歌のように聞こえた。
 やがてそこに達した俺は、彼の中を目指して飛んだ。とても高い空だった。それは青空ではなく星も月もない夜空で、彼の残した道標を辿って進むとちゃんと彼の元へ辿り着くことができた。
 うっすらと目を開けると俺は現実に戻ってくる。ベッドに沈んだ身体は汗で濡れて湿っていたが、彼が包み込んでくれていたから、朝が来ても決してそれが冷えることはなかった。

 

 

 

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