月のない夜に

 

 

 目を開くと朝が来ていた。夢など見ずにただ眠りの中へ身を投じていたらしく、昨夜の記憶だけが一つとして欠けることなく俺の中に残っている。確かめるように首を横に向けると、俺の身体を腕で包み込んだまま目を閉じているエダの姿が見えた。彼はまだ起きていないようで、静かな寝息を吐き出しながら俺に無防備な顔を見せていた。
 エダを起こさないよう気を付けながらそっと身体を離し、床の上に散らばっている服を拾い上げてそれに着替えた。音を立てずにカーテンを開き、朝の光を肌で感じてから部屋を出ていく。まっすぐに伸びた廊下を一人で歩いて、曲がった先で人の鼓動を感じた。
「おはようございます、ラザーラスさん」
「ああ」
 広間で出迎えてくれたのはセレナだった。朝からはきはきとした態度で挨拶の言葉を口に出し、今は朝食の準備をしている。俺は食卓の身近な席に腰かけ、相手の動きをぼんやりと眺めた。
「おはよう、ロイ」
 しばらくすると眠そうな目をこすっているヨウトが部屋に入ってくる。そして彼の後ろには大きなあくびをしているエダの姿があった。二人とものそのそとした動きをしていてまるで覇気がない。朝に弱い組織の人間らしく、完全に覚醒するにはもう少しの時間が必要であるようだった。
「お前、今日はずいぶん早起きじゃないか。いつもはなかなか起きないくせに」
 ぼさぼさの頭を掻きながらエダは俺の前の席に座る。二人が席に着くとセレナが朝食をテーブルの上に並べ、にこにこした表情でエダの隣の席に座った。
「さあ、たくさん食べてくださいね!」
「セレナさん、ありがとう。いただきまあす」
 俺の隣に座ったヨウトはまだ眠そうだったが、前に出された料理に一番に手を伸ばした。ほとんど閉じられている目でフォークを操り、作法など気にせずにどんどんと口の中に料理を放り込んでいく。
「セレナ、あんたこれからはどうするんだ」
 すっかりこの場に溶け込んだ少女に相手の状況を聞いておいた。あの借金取りがどうなったかは知らないが、彼女の店にある借金だけは簡単には片付かない問題であることに変わりはない。今の生活のままじゃどうにもできないことは明らかで、だからこそ聞いておかなければならないような気がしたんだ。
「ああ、ええと。私のお店、なくなっちゃいましたからね……今は考え中です」
「店がなくなったって、どういうことだよ」
「放火されたんだよ、あの警察野郎に」
 コップに入った水を飲みながらエダが口を挟んでくる。彼は料理には全く手を付けていなかった。
「彼女が店を見上げて呆然としてたから、たまたまそこを通りかかった俺が声をかけたんだ。そしたらラザーラスの名前を言ってて、だからお前の置かれている状況が分かったってわけさ」
「エダさんってばすぐに女の人をナンパしようとするもんね」
「あれはナンパじゃねえだろうが」
 セレナが俺の名を知らなければ俺は助からなかった。エダがそこを通りかからなければ俺は抜け出せなかった。元々の原因を作ったのは確かにセレナだったが、俺は彼女を責めようとは思わなかったし、どうしてだか感謝していた。またエダに対しても同じ想いを抱いている。彼が全てのきっかけだったと言っても過言ではないが、それでも彼と出会って話ができて良かったと思っていた。昨日の夜のことをふと思い出す。俺は彼の腕の中で籠の鍵を外し、自由に大空を飛ぶことができたんだ。
「私のことはいいんですよ。それよりラザーラスさんは学生さんでしたよね、学校はどうするんです? 疲れが取れていないようでしたら、今日は休んでも――」
「いや、行くよ」
 金属と金属がぶつかり合う音が聞こえた。そちらに目を向けると、びっくりした顔のヨウトがこちらをじっと見ていることが分かった。
「ロイ、今日は休んだ方がいいよ。無理をしたらまた身体を壊しちゃうよ」
「平気だ。それに、あんまりずるずると先延ばしにすると気持ちが揺らぎそうだから」
「やだやだ、せっかく帰ってきたのに!」
 ヨウトは俺の腕にしがみついてくる。子供のような仕草を見せられ、俺は彼を叱ることができなくなった。
「おいヨウト、わがままを言ってラザーラスを止めるんじゃねえよ。こいつはただ会いたい人に会いに行くだけなんだから」
 音を立ててコップを机に置き、エダは口を閉ざして部屋から出ていく。彼の声を聞いてヨウトは少し身体を強張らせた。それでも俺を離そうとはしなくて、余計に力を込めて抱き締めてくる。
「ヨウト。また遊びに来るから」
「ねえロイ、ずっと一緒にいたいって思うのは、恋人じゃなきゃ許されない願いなのかな。普通の友達でも同じ時間を共有していたいって思うのは、おかしなことなのかな」
 幽霊の少年は顔を上げ、俺の目をまっすぐ見てきた。そうやって少しのあいだ見つめられ、俺が気付かないうちにゆっくりと身体を離した。そして床に落ちていた自分のフォークを拾い上げる。
 この場にいられなくなり、俺は早めに食事を切り上げて部屋に戻った。俺を待っていたエダは学校の制服と鞄を手渡してくる。何も言わずにそれを受け取り、制服に着替えて手で簡単に髪を梳いた。
「髪、揃えてやるよ。じっとしてな」
 傍の棚から小さな鋏を取り出し、エダは俺の時間を奪う。ベッドの上に座り込み、ばらばらになっていた髪を彼に短時間で揃えてもらった。手の上に落ちてくる自分の髪を眺めながら俺は心地よさを感じていた。昔から憧れていた関係がようやく形成されたのだと気付き、そんなことは知らなければよかったと思った。
「ほら、これでいい」
 ベッドの上と下とに髪が散らばっていた。そこには血の匂いも呻き声も存在せず、ヤウラの部屋で見た光景と似通ったものが佇んでいる。軽くなった頭を起こし、相手にお礼を言おうと思ったが口がうまく動かなかった。ただ唇がかすかに震えるだけで、感情が声の出し方を忘れさせてしまったようだった。
 鞄を手に持って外に出ると、もう太陽は高い所を通り過ぎようとしていた。俺の後ろからヨウトとセレナが続けて扉をくぐり抜け、ちょっと遅れてエダも姿を見せてくる。
「ロイ。また来てくれるよね?」
 今にも泣き出しそうな表情でヨウトが叫ぶ。俺は一つ頷き、彼に向かって笑い掛けた。
「何をしんみりとしてるんだよ、今生の別れってわけでもないのにさ。やっと覚悟を決めたこいつの門出を祝ってやろうじゃないか」
「エダさんは黙っててよ、なんにも分かってないんだから!」
「分かってないのはお前の方だろうが」
 すとんと壁に背中をつけ、エダは腕を組んでこちらを見てくる。鋭い視線が赤く染まり、だけどその裏に騙そうとする意思や踏み躙ろうとする思惑は感じられなかった。まだ納得していないヨウトが口を開きかけたところを片手で制し、風が通り抜ける様を黙って見つめる。
「エダ、あんたにはいろいろと世話になったよ」
「いいや、こっちこそ」
 彼は壁から背を離し、一歩こちらに近付いてきた。
「お前がどう思ってるかは知らないが、ここはお前の家だ。この家はいつだって、お前に対し扉を開いて待っている。帰りたくなったらいつでも帰ってこい。俺もヨウトも、お前の帰りを待っているから」
「うん」
 疑う要素もない、だけど喜ぶべき言葉でもない。それはただの口約束で、目に見えない鎖を言霊として表してくれただけなんだから。
「いってらっしゃい」
 彼の微笑みが朝日に照らされる。
「いってきます」
 三人に背を向け、俺はようやく自分の足で大地を踏みしめた。

 

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 いつから学校に行かなくなって、今日が何月の何日かさえ分からなくなるほど切迫していたのか、今となっては全て過去の出来事のように感じていた。だけど目の前を通り抜ける風だけは俺の知っているもので、郷愁の念と固まり始めている身体を引きずりながら俺は大きな校舎を見上げていた。そこに付けられた時計は既に九時を回っており、一時間目の授業は始まっているらしい。まっすぐ教室へ向かう気にもなれなくて、中庭をぐるりと一周してから中へ入ろうかと考えた。
「ラザー? こんな所で何してるんだ」
 懐かしい声が俺を背後から貫く。溢れそうになる感情を抑えつつ振り返ると、黒い目を丸くした薫が花壇の傍に立っていた。
「お前こそここで何をしている。もう授業は始まってるんじゃないのか」
「俺はその、あれだ。ちょっと寝坊しちまって」
 さして警戒することもなく相手は一歩ずつこちらに歩み寄ってくる。俺は立ち止まったまま動かず、相手が足を止める位置を無意識のうちに確認していた。
「そうだ、ちょっとラザーに話したいことがあったんだ。屋上に行こうぜ」
 俺の目の前まで距離を詰めた相手に手首を掴まれ、校舎の中へと連れ去られる。足早に進んでいく彼に引きずられて俺はまっすぐ屋上へと向かった。手すりのある場所に着くまで彼は手を離してくれず、そこから見える景色を懐かしむ暇もなく相手の声が飛んでくる。
「樹の奴の元気がないのってラザーのせいだろ」
 彼は横顔を向けていた。瞳の中が見えなくて、彼の考えなど読めるはずもない。
「俺は樹とは兄弟でもないただのご近所さんだけど、ずっと幼馴染やってたからあいつの考えはなんとなく分かるんだ。あいつは何も言わないけど、一ヶ月くらい前から何かに悩んでることにも気付いてた。そしてそれがラザーと関連があるってことも」
「そうか」
「ラザーさ、あいつと何かあったのか? いつも喧嘩すらしなかったお前らがそんな関係になるなんて、俺はなんだか信じられないんだ」
「ただの喧嘩だよ」
 相手はこちらに顔を向ける。彼の中で渦巻く声が腹の中で留まっていた。俺はヨウトに対する時のように優しく接しようと考えていた。これ以上ここの人々に自分を偽って見せたとしても、それは何の意味も持たないことだと分かっていたんだ。
「本当のことを教えてくれよ、ラザー! 俺はあいつのことが心配なんだ、放っておけないんだ」
「本当のことって、じゃあ何を教えれば満足する? お前は何を知りたいんだ」
「何って――ラザーと樹の間で何があったのかってことだよ」
「くだらないことだ。俺とあいつは一線を越えちまった、それだけだよ」
「それじゃ分かんねえよ、はっきりと言ってくれ、ラザー!」
 どうしてだか彼は必死だった。相手は樹の幼馴染で、元気のない彼のことを心配して俺に事情を聞いているらしい。おそらく樹は薫に何も説明しなかったのだろう。だったら俺だって、彼の秘密を簡単に口外することは信頼に背く行為にしか成り得ないと知っていたから、ここはひとまず黙っている方がいいのだろう。
 薫はじっと俺の顔を見ている。俺の口が動く時を待ち構え、俺が発する微細な空気すら見逃さぬ気迫でこちらを睨みつけていた。だから俺は彼の眼を貫いた。赤い目線で相手の奥に潜むやわらかなものを壊し、尻込みさせる為の刃で否応なしに傷つけてやる。ただ相手はなかなか折れなかった。強い風が吹いても決してなびかず、一時を永遠のように思わせる魔力で俺の身体を包み込んでいた。相手の肩に手を置き、少し力を込めて手すりへ押しつけても効果はなかった。きっと今の彼では俺が屋上から突き落としたとしても、何の反抗もせず俺を呪いながら大地へとその生命を差し出してしまうんだろう。それが分かった途端にぞっとした。俺はまるで大きな鏡の前に立っているような心地になったんだ。
「お前はどう思ってるんだ」
 動揺を隠す為には話をする必要があった。俺の口が動いたなら、薫は少しだけ目を丸くした。そうして表面だけをきらりと光らせる。
「……つい最近のことだけどさ、俺の家に樹が遊びに来たことがあったんだ。でもその時は他にも一緒に遊んでた兄ちゃんがいて」
 見えているものが見えていないような、そんな瞳がふっと俺の視線を避けた。そしてそれは遠く果てしない地へ投げられる。
「俺の両親は仕事で家にいなくて、三人でゲームして遊んでたんだ。そしたらつまんねえセールスの電話がかかってきてさ、そいつがやたらしつこく迫ってきたんだよ。俺はそのセールスをどうにかするのに時間をかけちまって……なんとかそれから逃れて二人の元に戻ったら、樹が一緒に遊んでた兄ちゃんに襲われてたんだ」
 とん、と胸を押された気がした。だけど相手の手は屋上の手すりに乗せられている。
「その時は結局樹を助けられなくて、あいつが帰ってくるまで待つことしかできなかったんだけど――本当はそれより前からあいつが悩んでることには気付いてたんだ。でもいつもの悪い癖だと思って深く考えたことはなくて、また時が経てばそのうち悩みも消えるだろうって気楽に考えてた。だけどさ、樹が帰ってきて俺の前に現れた時、なんとなく分かったんだ。もしかしたら樹の悩みってのは男とそういう関係になることに関連があって、同じ時期に学校を休むようになったラザーとも関連があるんじゃないかって。その二つの想像はなかなか結び付かなかったんだけど、俺が今になって思うのは――」
「ああそうだ、お前の考えている通りだ」
 ぎゅっと手すりを両手で掴み、下に広がる茶色の土を滲んだ目で眺める。それが絶えず俺を手招きしているように見えて、堪え切れなくなって再び薫の方へと視線を向けた。相手は強い双眸を持っていた。真実よりも嘘に喜びそうな色を背景に湛えていた。
「それを知ってお前はどうする」
「俺は樹には幸せになって欲しい。あいつはずっと苦労してきたから、幸せな人生を送って欲しいんだ」
「その為に何をする? お前は所詮幼馴染という立場であって、家族でもなければ恋人でもない赤の他人だ。そんなお前が樹の為に出来ることなどあるのか?」
「あるさ! だから今こうやって、ラザーと話をしているんじゃないか!」
 怖かったのかもしれない。彼に樹から離れろと言われることが、最愛の人間を奪い去られてしまうことが、俺にとっては暗い牢獄で暮らすことよりも恐ろしいことになっていたから。だからわざわざ温度のない言葉を選ぶ。自分の身を守る為に、平気な顔をして相手を深く傷つけていく。
 震える指先を背後へ回し、服の裏に隠してあったナイフへ向かわせていたことに俺はなかなか気付かなかった。冷たい感触を得てから息を呑み込み、驚く準備が整ったところで風が顔面を通り過ぎる。
「ラザー、あいつを幸せにしてやってくれ」
「――え」
 握ったはずの銀色が消え、それはやがて屋上の地面に落ちたようだった。
「あいつにとってお前しかいないのなら、きっとあいつを幸せにするって約束してくれ、ラザー!」
 俺は両手をだらりと垂らした。彼に対し壁の裏から話すことをしてはならないと感じたんだ。だから指先を相手の視界に入れ、目の上に張られていた膜を自ら消去する。
「疑問に思ったり、しないのか」
「何を?」
「だってあいつは男だし、俺だって」
「友達を作る時に性別なんて考えるか? それと同じで、恋愛するのに性別なんて必要ないだろ」
 友人と恋人は違う。友人はその場限りのものだけど、恋人は一生を共に暮らす言わば自分の半身のようなものだ。それを時の迷いで決めただけの者と形成しても構わないのだろうか。ずっと裏切らないという保証などないはずなのに、理屈を抜きにして感情のみで決定してしまっても許されるのだろうか。
「約束するよ」
 理解の届かない俺ではその答えは分からずに、簡単な口約束しかできることなどなかった。ただその一言を吐き出しただけで薫はほっとしたような表情になり、俺のよく知る相手に戻ってにっと笑ってきた。
「話したかったのはそれだけだぜ。そんじゃ、そろそろ教室に行くか」
「……俺はもう少しここにいようと思っている」
「そうか? だったら俺だけで行くけど、教室に行ったら樹にラザーが学校に来てることを教えてやるよ」
 それだけを言い残して薫は俺に背を向けた。手に持った鞄をぶんぶんと大きく振りながら、鼻歌なんかを歌いながら屋上から姿を消す。一人きりになって俺は手すりに肘をかけ空を見上げた。白の絵の具を零したかのような青色の空はいつもの光景と変わらず、この世の点である自分自身は何の為に生にしがみつくのかと、そんな途方もない深みに飛び込むことで現実の刺々しさから逃れることに成功していた。

 

 

 一つのチャイムが鳴ったなら、校内からまるで今になって生まれたかのような人々のざわめきが喚起される。耳を傾けるとその一つ一つが何を表しているのかはっきりと聞き取ることができ、だけどその内容を思い出そうと頭を回転させても一つ先の未来になると全て忘れてしまっていた。
 外から校内へ侵入してくるねぼすけたちを眺めていると、屋上に近付く靴の音と息のリズムが空気を振動させていることに気付く。それが俺の元へ辿り着くまでにそれほど時間は必要じゃなくて、頃合いと思った時に振り返ったなら俺の姿をまっすぐ見ている人間の顔がそこにあった。
 黒い制服に包まれた相手は俺のよく知る青年だった。どうしても会いたかった人、俺の全てを許して欲しかった相手、罪も汚れも何もかもを受け入れてもらいたかった人間である樹がそこに立っていた。
「久しぶりだな」
 足を止めて呆然としたように立っている相手へ一歩だけ近付いてみる。
「あ……うん」
「元気にしていたか」
 彼は縦に首を振った。相手の姿を見ただけで俺の顔は綻んでいるみたいで、自分がどんな色を持って相手と接しているのか知ることができない。
「ラザーも、最近あまり学校に来てなかったみたいだけど、元気にしてた?」
「エダとヨウトの所にいたんだ。二人とも俺によくしてくれた」
「――そう」
 言いたいことならたくさんあった。この手に掴み切れぬほどの想いが心の内に溜まっていた。だけどそれを外に出したなら、隠さねばならないものまで表に出てしまいそうで、俺はきっと両手を失ってしまうだろう。
「お前に話しておきたいことがあるんだ。聞いてくれるか」
 空の青に溶け込みそうな相手が俺のことだけを見ていた。何の装飾も施されていない素朴さが彼の中に存在していた。そしてそれが何よりも美しいと気付く。
「俺なんかでよければ、話を聞くことはできるけど」
 ぐっと感情を抑え込んだ。そうしないと前を向くことができないから。
「俺はあの組織を壊そうと思ってる」
 吐き出した言葉を掻き消すかのように強風が通り過ぎた。だけどそれだけでは不可能だった。一度外に出てしまったものは、他人の目にさらされてしまったものと同様に、やり直すという行為自体から崩壊してしまうから。
「それは、クトダムを止めるってことか」
「違う。止めるんじゃなくて、警察に引き渡して、不死が終わる時まで檻の中で眠っていてもらうんだ」
 計画など最初からなかった。ただ彼の顔を見たらそうしなければならないと思ったんだ。いつだったか樹が言っていた、組織の人々を救うという選択肢を、俺はようやく発見してその意味を思い知った。俺を苛み足蹴にしていたエダでさえ更生できたのだから、もしかしたらケキやティナアも立ち直ることができるのかもしれない。そしてその為にはあの組織があってはならなかった。あの組織が存続する限り、堕落に身を任せる人間は増えるばかりで、俺のような惨めな者も必至となってくるだろう。その螺旋を引きちぎるにはどうすればいいかだなんて、誰が考えようとも同じ結論に至るはずだった。俺は長い時間をかけて遂にその断片を掴むことができたんだ。
 ただその理想を現実にする為には仲間が必要だった。自分一人だけじゃどうすることもできなかった。俺が心の底から信頼している人、一番初めに知って欲しかった人、その相手に今は思いの丈をぶちまけている。俺の声を聞いた彼はとても驚いているようだった。何を言っていいか分からない様子で何度かまばたきを繰り返し、だけど俺を否定する言葉だけは決して発しない。俺は彼の考えが分かったような気がした。手を伸ばせば届きそうな位置に来たならば、何を思い巡らせようと関係なく、相手の呼吸だけで彼の想いを理解したと思ったんだ。
「樹。手伝ってくれるか?」
 問いかけるように差し出した手を、相手はひと欠片の躊躇いさえ見せずに握り返した。そして浮かべた微笑みは朝に見たあの人のものとそっくりだったんだ。
「二人だけじゃきっと失敗する。だからエダとヨウトにも声をかけてみるつもりだ。それと、ヤウラにも協力してもらわないと」
「具体的にはどうするんだ」
「あの人を組織の外に連れ出す。それが終われば、あとは警察がどうにかしてくれるだろう。だけどそうするにはまずティナアを組織から遠ざけなければならないんだ」
 チャイムの音が耳に届いた。だけど樹は振り返りもしなかった。
「ケキにも協力してもらったらどう?」
「どうして」
「アニスはティナアとケキの娘だったんだろ。アニスがいない今、ティナアを動かすことができるのってケキだけだと思うから」
 彼の名を聞くと空気がうるさく感じられる。何も恐ろしいことなんかないはずなのに、言い様のない不安だけが沸き上がってくるのを殻の中から思い知る。
「分かった。エダと一緒に会いに行って、話をしてみることにする」
「俺も行くよ」
「お前はこの世界で待っていろ。準備なら俺だけで大丈夫だ、お前はその時になってから来てくれればいい」
「いいや、俺も一緒に行くよ、ラザー」
 握っていた手が腕に伸びてきた。彼は一歩近付き、二人の距離が消えてしまいそうなほど小さくなる。もはや影は一つきりになりかけていた。彼の大きな瞳に見つめられたなら、俺はもう相手の言葉をへし折ることなどできなかった。
「じゃあ、一緒に――」
 だって愛しているから。彼だけに見ていて欲しいから。俺の全てを受け入れて欲しい。永遠を俺と共に見つけて欲しいんだ。
「なあ、ラザー。今日は一緒に授業に出ようよ。そして学校が終わったら、今度は俺の家に来てくれ。そこでいろんな話をしよう」
 彼の誘いが嬉しかった。彼から滲み出る優しさが痛いほど身体じゅうに浸み込んでくる。その痛みを全身で感じ取りながら、それでもそこに苦しみは伴わなかった。俺はエダの手のひらを思い出し、片足が沼から宙へ飛び出した心地がしていた。
 次のチャイムが鳴るまで二人で空を見上げていた。眩しすぎると感じた青空はどこまでも高くそびえていたが、樹と二人だったなら恐ろしさなど見分けがつかなくなっていた。いつも持っていた息苦しさも自然の中にやわらぎ、ただ穏やかなものだけが俺と彼との間を通り過ぎていく。

 

 

 樹に連れられて教室へ向かい、そこで授業を受けていたはずなのに、俺はいつの間にやら夢の中へ頭を突っ込んでいたようだった。気がついた頃にはもう昼食時間になっていて、自分が眠っていたことを知ってから初めて身体に蓄積していた疲れをひしひしと感じ取った。
 ここにいる人々は俺のことを何も知らなくて、だけど本当は誰よりも俺のことを知っている人たちだった。俺はまたここに戻ってくることができた。どうやらこの場にいても許されるようで、それについては感謝の気持ちを持って頭を下げなければならないらしい。ただ以前はそこに不安と似た違和感を覚えていたけれど、今はそういった類のものは一つとして感じられなかった。ここで暮らすことさえ当たり前で、綺麗な彼らと同じ世界で生きることは俺にとって正しく、自分を卑下して縮こまる必要もなく、堂々と胸を張って彼らと同じ人間だと言うことができる。喉の奥に引っ掛かっていた何かが取れたような心地だった。この穏やかさが何よりも素敵だと気がついたから。
 授業が全て終わり、樹と共に学校を出た。相手は自転車を手で押しながら帰り道を俺の歩幅に合わせて歩いていた。まだ明るい時間だったはずなのに、もはや世界は夕暮れに包まれようとしている。二人の影が狭い田舎の道に長く伸びて映っていた。
 帰り道の途中で家の近所のスーパーに寄り、樹は夕飯の買い物をしていた。俺は彼にくっついて相手が品物を選ぶ様子を間近で見ていた。彼の細い手が大きな緑を掴み、また別の位置では中身の見えない袋を掴んでいた。彼の足は道を知っており、迷うことなく目的の場所へと進むことができる。彼は間違いを犯さず、目指したものを的確に射抜くことができる。俺は遠い場所にいた彼のことが羨ましかったのかもしれない。だからこうして惹かれているのだとすれば、人間とは一体何を愛するようにできているのだろうか。
 樹の家に辿り着いても、そこで彼を待っている人はいなかった。彼の姉はまだ仕事中らしく、あの日と同じように樹が夕食の準備をすると言った。俺は彼の作業を手伝った。途中でリヴァセールが帰ってきたけれど、俺の顔を見ても相手は咎めることもなく快く受け入れてくれた。
 夕食の準備が終わり、何もすることがなくなると、樹の部屋で学校の宿題をさせられた。別のことばかり考えて頭が上手く回らない俺を相手はやわらかく叱ってきた。なんとなくそれがくすぐったくて、エダに認められた時のことを彷彿とさせられた。
 樹の姉が帰ってきた頃に夕食を食べ、四人で穏やかな時間を過ごした。夕食を終えても彼らはなかなか席を離れず、他愛ない話で盛り上がっていた。そんな三人に囲まれて俺は嬉しくて、憧れていたものに届いたんだと確信した。普通の家庭の普通の幸せが目の前にある。たとえばその裏に潜む事情が普通じゃなかったとしても、それが確かな意味を持つとは限らない。俺はもう目を閉じていようと思った。そして全身で感じる些細なものだけを目として、この世界で生きていこうと思ったんだ。
 風呂を済ませて皆が寝静まる時間が来ると、おやすみを言って三人はそれぞれの部屋に引っ込み、俺は樹の部屋に連れられた。暗い室内に人工の光を与え、樹は机の前に立って明日の準備を始める。規則的な行動に彼の兵器らしさを感じた。それがちょっとおかしくて、思わず口元が緩んでしまう。
「ラザー、今日は月が綺麗に見えるよ」
 樹は窓を開け、上半身を外へと投げ出した。子供みたいな相手の後ろに歩み寄り、彼の隙間から見える空を見上げてみる。
「お前が邪魔でよく見えない」
「あ、ごめん」
 相手はすぐに場所を譲ってくれた。そこに足を乗せ、よく見えるようになった夜空を視界に放り込む。
 細々とした星が散らばる海の中でぽつりと淋しげに光る月があった。雲はなく、自分と同じものが存在しない空で静かに佇んでいる姿がよく見える。満月でも三日月でもない歪な形をした月だったけど、それはとても綺麗だった。ともすれば見惚れて時を見失ってしまいそうなほど美しい容姿をしていた。
「ラザーと初めて会った時のこと、俺はまだ覚えてるよ。あの日も今日みたいに月の綺麗な夜だった」
 樹と知り合った日の夜など、俺の記憶にはもう残っていなかった。こんなに大切な思い出になるのなら、最初から知らせてくれればよかったものを。だから俺は何も言えない。
「あの頃は俺、ラザーのこと怖い人だなって思ってたんだよな。怒らせたら困るから、どう付き合っていいか分からなくて……あれからまだ一年も経ってないんだ。時の流れって不思議だな」
「樹」
 窓の傍に立ったまま、相手の顔を見る。彼の壊れそうな優しさを確かめたくて乱暴になりかけている心を落ち着かせる為に、俺は決して相手の身体に触らなかった。
「俺はもう逃げないから。あの人の前に立ってみせるから。だから俺の柱が崩れそうになった時は、お前に支えて欲しいんだ」
「うん」
 月よりも太陽よりも美しい瞳が頷き、俺に必要なものを簡単に作り出してしまう。身体の芯からつま先まで染められて、呼吸ができなくなるほどにそれは輝いていた。憧れて手を伸ばしていたもの。白い息が冬に溶け込み、だけど粉雪の冷たさはもう感じない。
 もう一度窓の外へ視線を投げかけた。そこにはずっと変わらない夜空がある。自然は時の流れを観察しているけど、個々の生命に関与するほどの傲慢さは持ち得ずに、エゴイストとでも呼ぶべき人間たちを慈愛のような感情で包み込んでくれる。そこに格差はないはずだったが、実際は繊細な部位において一ミリ以下の違いがあった。人間が与えられた平等とはおそらく二つきりなのだろう。それはこの世に生を受けることと、段差のない死を迎え入れることなんだ。
「ラザー。組織を壊すってことだけどさ――」
「どうした、何か気になることでもあるのか」
 気遣う必要のない関係が欲しかったのなら、俺はとんだ馬鹿者だったのかもしれない。
「クトダムだけを捕まえて、本当にそれだけであの組織を壊すことは可能なのか? あそこに残った連中が新たな組織を作り出すって選択肢はないのか」
「それはない。連中には自我など残っていないから、まとまって行動するにはどうしたって命令を下す人間が必要なんだ。だからあの人とティナアとケキさえ潰せば、組織はもう機能しない」
「だけど残党が個別に罪を犯すことだってあるだろ? そいつらも捕まえた方がいいんじゃないのか」
「――その辺りはヤウラに任せる」
 組織のことなら俺の方がよく知っているはずだった。だからこそ自信を持って彼らの生態を説明することができたけれど、未来のこととなると連中がどう変貌するか、そればかりは誰にも分からないことだった。罪人の扱いはその手のプロに任せた方がいい。俺が達成しなければならない目的は一つだけなんだ。
「それと、ケキのことなんだけど」
「あいつがどうかしたのか」
「あの人のことをもっと詳しく知っておきたいんだ。なんだかずっと気になってて――昔に何かあったのかなって」
「そんなことを知ってどうする」
「あの人だって救えるかもしれないじゃないか」
 それは俺の願いとも共通する意見だったことは間違いない。ただなんとなく俺は彼を救うことはできないと知っているような気がしていた。
「あいつの事情なんて、俺はそんなに多くは知らない」
「じゃ誰がよく知ってる? 真の兄って聞いたけど、真に聞けば何か教えてくれるかな」
「やめておけよ」
 心のざわめきが大きくなっていた。腹の中がぐるぐるして、小さな眩暈が頭を響かせる。もしこの時点で樹が走り出したとしたら、俺にはきっと彼を止めることはできなかっただろう。足で床の上に立っていることさえ難しく、なぜこんな焦りが身体を支配するのかその理由を見つけることも出来ない。
「あの人にだって事情があったはずだ。でなきゃあんな組織で暮らすなんてこと、普通の人間じゃ選ばない。だから俺は知りたいんだ。ラザーが止めるなら、俺は一人でも調べるよ」
 彼の中に強さが戻っていた。それは自身の役目に向き合った際の強さと同等で、そんな彼の奥底にある何かを感じ取ったから俺は相手に力を貸そうと思ったんだ。つい数週間前まではその強さがどこにも見えなくて、だから俺の感情に巻き込まれて二人で板挟みになっていたんだろう。今の彼はとても頼りに思える。守ってやらなきゃすぐにやられてしまう弱虫なのに、俺の方が守られている気分になり、且つ安らかでもあった。
「お前を危険な目に遭わせるわけにはいかない。俺も付き合ってやるよ」
「ありがとう、ラザーならそう言ってくれると思ってたよ」
 まるで図ったかのような笑顔を見せられ、俺は言葉が出なくなってしまった。

 

 +++++

 

 翌日、俺は樹と共に学校へ行った。頭に入らない授業に出て、何も考えないことにより時間を潰し、学校が終わると二人で真の家へ向かうことになった。昨日と同じ道を通って家がある方角へ進み、不格好なほど伸びた自分の影を踏みながら田舎の道をのんびりと歩く。
「河野……ここかな」
 学校の鞄を手に持ったまま真の家の前に立った。俺が師匠の家で暮らすことになってから何度かここには来たことがある。彼女の家族とも顔見知りだが、それほど深い関係があるわけではなかった。だから俺の方から真を訪ねたことはない。
 樹は壁についているインターフォンを鳴らした。間の抜けた音が小さく聞こえ、それからしばしの沈黙が空気を震わせる。
「出ないな」
 家の中から反応はなく、樹はもう一度インターフォンのボタンを押した。それでも返ってくるものは一つとしてない。
「あれ、お前らそこで何やってんの」
 代わりに予期せぬものが返ってきた。真後ろから響いた声があり、そちらに振り返ってみると、目を丸くした薫がこちらを見ていた。彼も学校の帰りらしく片手に鞄を持っている。
「河野一家なら旅行中らしいけど、真に何か用なのか? 四月になるまで帰らないとか言ってたぜ」
「えっ、旅行中? つーかなんでお前がそんなこと知ってるんだ」
「なんでってそりゃ、まあお隣さんだし」
 思い返せば薫の家は真の家の隣だと聞いたことがあったような気がした。そんな彼がそう言うのだから、きっとここで待っていても真は帰ってこないのだろう。
「樹、真に聞くのは諦めろ」
「だけどそれだと誰に聞けば――」
 何かを感じ取ったように樹は言葉をぴたりと止めた。オレンジを寄せ付けない茶色の瞳は徐々に大きくなり、その先を辿ると電柱の傍に見知らぬ男が立っていることに気付く。どうやら樹は彼を見ているようだった。相手はこちらの存在には気付いていないようで、ただぼんやりと上にある何かを見つめている。
「あの男がどうかしたのか」
「え、いや」
「なになに、お前ら何の話してんの?」
 調子のいい薫は何でも聞きたがるから騒がしい。彼を大人しくさせる為にも俺は電柱の隣にいる男を指差した。薫はやたら大きな身振りでそちらへ向き直り、それから短く疑問の声を上げる。
「俺あの兄ちゃん知ってるぜ。たまに家の前まで来て、あんなふうにぼーっと空を見上げてるんだ」
「それって、定期的にここに来てるってことか? どっかの家の客じゃないのか?」
「そんなことは知らねえよ。気になるんなら聞いてみりゃいいじゃんか」
「あ、あのなあ……」
 気楽な薫の意見に樹は明らかに尻込みしていたが、俺はここで聞かなければ何かが終わってしまうだろうと感じた。自ら動かねば何一つ変えることなどできはしない。俺は話し合いをする幼馴染の二人を置いて男の方へと近付いた。すると彼もまた俺の姿に気が付き、こちらへ平坦な視線を向ける。
「あんた、何を見てたんだ」
 突然話しかけられたからだろうか、相手はびっくりしたような表情で少しのあいだ固まっていた。それから慌てた様子で手を動かし、だけどなかなか肝心の声が出てこない。
「この辺りの人間か?」
「いや、僕は東京から来たんだ。知り合いが家に帰ってないか、それを確かめたくて」
「ふうん」
 相手の目の前で腕を組み、彼の姿をまじまじと観察する。東京とは日本の首都だとか聞いたことがあったが、確かに相手はなかなか小奇麗なスーツ姿をしていた。だけど顔はお世辞にも綺麗とは言えないもので、歳は二十代の後半か三十代前半のように見える。
「君はこの辺りに住んでいるのかい?」
「いや、俺の友人が住んでいるだけだ」
 話し合いを終えたらしい樹と薫がいつの間にやら俺の後ろに立っていた。ちらりとそちらに目をやり、再び男の方へ視線を戻すと相手はもう俺のことを見ていなかった。代わりに後ろにいる二人の方へと注意を向けている。
「この辺りに住んでいるのなら聞きたいんだけど、ここの河野さんのお宅に、清明っていう名前のお兄さんが来ているところを見かけなかったか?」
「真の家にお兄さん? そんなの見かけたことないけど」
「……そうか」
 いくらか気を落とした様子で相手は一つため息を吐いた。
「キヨアキって、見城清明のことか?」
 それは俺にとって聞き覚えのある名前だった。ずっと昔、まだ組織に来て間もない頃のケキがそう名乗っていたことを知っている。いつから名前を変えたのか、なぜ変える必要があったのかは分からないが、その時まで確かに彼は清明として生きていた。
「見城というのは清明の前の家での名字だが、なぜ君がそれを知っているんだ?」
「ああ、そうか、本当は河野ってことになってるのか」
 よく分からないことがたくさんあって混乱する。ただ俺に教えてくれた名前は間違いなく「見城清明」だった。真が「河野」と名乗っているのなら彼も「河野」であるはずなのに、どうして前の家での名字をわざわざ持ち出したりしたのだろう。
「君、お願いだから僕の質問に答えてくれよ。君は清明の知り合いか何かなのか? 彼が今どこで何をしているのか知っているのか?」
 考え込んでいると肩に手を置かれた。相手は食いつくような目で俺を見ている。
「知っているが、あんたには教えない」
 彼が何を知っているかは分からないが、今のあいつの状況を話したところで何の得にもならないだろう。ただ俺のかわし方がまずかったようで、相手はますます俺の肩に両手を食い込ませてきた。
「僕は彼の同級生だったんだ、友達で、いつも仲良くしてて――彼が伸ばしていた手を掴んでいたはずなのに、僕は彼を救うことができなかった。僕はただ彼のことだけが心残りで今でもこうして家に帰っていないかと確認しに来るんだ。ずっと見つけられないけど、それでも諦めることができない。彼が本当にお父さんを殺してしまったのか、それすら知ることもできないなんて苦しくて悲しいんだ」
「父親を殺した?」
 樹の驚いた声に相手ははっと息を呑んだ。
「すまない、今のことは――忘れてくれ」
 彼の手が俺の肩から離れる。俺はそれを追い、今度は相手の腕をこちらから掴んだ。
「俺はあいつの居場所を知っている。だけどあいつの昔話は知らない。もしあんたがそれを教えてくれるのなら、あいつの所へ案内してやってもいい」
 相手は逃げなかった。視線の檻で囲っても怯えずに、まっすぐ伸びた純粋さで壁を作っている。その瞳は彼の探している清明のものとよく似ていた。口が固くてなかなか次の言葉を吐き出すことができないところも、俺の知っているケキとそっくりだったような気がした。
「その前に、君と清明との関係を教えてくれ。赤の他人に彼のことを話す気はないからね」
 彼の質問にどう答えればいいか分からなかった。すぐにでも答えなければならないのに、差し障りのない回答がなかなか俺の中で創られない。俺とケキの関係だなんて、ただの上司と部下のようなものだ。それも組織を離れた今ではその関係すらなくなって、俺とあいつは無関係ということになっているのかもしれない。だけど俺の中であいつは生きている。あいつに付けられた傷は癒えず、あいつに与えられたあたたかさも残り、肌のあらゆる表面から神経線維に至るまで、俺は彼の全てを覚えていた。彼を忘れること自体が不可能な試みだったことは言うまでもなかったんだ。
 俺はあいつのことを何も知らない。それを聞く機会ならいくらでもあったはずなのに、ことごとくその隣を通り過ぎてしまったのはなぜだったのだろう。
「――友達、だよ」
 すっと大きくなった目は誰のものだったのか。
「だから知りたいんだ。あいつがどうしてあんなふうになってしまったのか」
 もしそれを知ったとしても、俺なんかが彼を救うことができるかどうかは分からない。だけど知ることは無駄な行為ではないと思った。いつか誰かが無知と無力は最大の罪だと言っていたが、本当の意味での罪はそれらではなく「無関心」というものだと思うから、俺はもっと周囲のものに目を向けなければならないんだ。だって俺は今までずっと、彼の目を見ながら相手の全てを目の中には入れなかったんだから。
「……今日はもう遅い。また今度、時間のある時にゆっくりと話そう」
「今からでも時間は充分あるじゃないか!」
「だったら、明日。夕方までに僕に電話をしてくれ」
 相手は懐から一枚の紙切れを取り出し、それをこちらに手渡してきた。硬さのある紙の表面には小さな文字で電話番号が書かれてあり、その上に大きく「加藤幸助」と印刷されている。
「君の名前は?」
 前を見上げたなら、俺よりも背の高い大人の顔があった。だけどいつも感じていた恐ろしいものはどこにもない、子供がそのまま大きくなっただけのような純朴さが残っていた。
「ラザーラス」
「僕はそこに書いてある通りだが、加藤幸助という。それじゃ、また明日」
 呼び止めなかったから相手はすぐに俺の前から消えてしまった。胸の内で不思議な感覚が蠢いていることを静かに感じている。それは動的ではなく、だけど水面のように佇んでいるだけでもない。
「ラザー、さっき言ってた清明って人って」
「ケキが昔そう名乗ってたんだ。だから、あいつのことで間違いないだろう」
 樹は驚愕よりも不安を前面に出した表情をしていた。彼にどんな言葉をかけていいか分からない。
「あいつのことは、とにかく明日だ。俺はこれからエダの所へ行ってくる。おそらく今晩はあいつのところで泊まることになると思う」
「え、だけど――」
「心配はいらない」
 正体の分からない棘を引き連れて俺は二人と別れた。樹は手を伸ばしかけていたようだったが、それが俺の元へ届くことはなかった。そんな彼の様子を薫が不思議そうに眺めていた。彼にも樹の考えは分かっているようで、なぜ素直に俺を止めないのかと疑問に思っているのだろう。二人の間には漆喰で接合された信頼関係がある。それは友人や恋人でもない、きっと最も近しい表現としては家族のような関係なのだろう。
 憧れているものは決して手が届かぬと言うが、俺にも類似した人間ができたから、もうそれが目を開けていられないほど眩しいと感じることはなかったんだ。

 

 

「あれ、ラザーラスさん。忘れ物ですか?」
 エダの家に戻ると玄関でセレナが出迎えてくれた。彼女はまだこの家に居ついているらしい。できれば別の場所にいて欲しかったのだが、俺のわがままで彼女の自由を奪うことはとんでもなく愚かな願望にすぎなかった。だから俺は首を横に振る。
「エダに話があって帰ってきたんだ」
「そうだったんですか。……あ、おかえりなさい!」
 いきなり声を張り上げてくる相手だが、俺には彼女の行動の意味が分からなかった。
「ほら、『ただいま』はどうしたんですか? ちゃんと言わないと家に入れてあげませんよ!」
 この家はセレナのものではないはずだったが、彼女の要望に応えなければ本当に家の中に入れさせてもらえなさそうだった。
「……ただいま」
「うん、よろしい!」
 ぱっと笑顔になる相手を真正面から見るほど落ち着いてはいられなかった。単なる挨拶であるはずなのに、どうしてこんなにも恥ずかしくなってしまうのだろう。思わず口元を手で覆ってしまう。
 慌ててセレナの隣を通り過ぎ、広間へと足を急がせた。しかしそこには目的の影は存在せず、仕方がないので廊下の方へと突き進んでいく。
「わあ、ロイ! 帰ってきたの?」
 薄暗い床の上にヨウトが幽霊の足で立っていた。その手には何やら絵筆のような物が握られている。
「エダは部屋にいるか?」
「うん、今は絵を描いてるよ。僕はその助手なんだって」
「なるほど」
 ヨウトを後ろに連れてエダの部屋の前に立ち、一度ノックをしてからそっと扉を開けた。あまり光の入らない空間に赤い髪の青年は座り込み、まだ白と黒しかない紙をじっと見つめている。一つの世界が生み出されようとしていたが、創造主が居眠りをしているせいで誕生はなかなか始まりそうになかった。
「エダ、ちょっと話があるんだが」
「へ、ラザーラス? なんでお前がここに――つーか帰ってくるの早すぎだろ!」
 やたらと驚いた様子でエダはキャンバスに掲げられていた白い紙を裏返してしまった。続いて色とりどりの絵具で散らかっていた床の上を片付け、人が座ることのできる程度のスペースを作り上げる。俺とヨウトは即席の椅子に腰を下ろし、三人で円を描くように並んだ。
「俺に話って何?」
 エダはいくらか機嫌が悪そうだった。それでも俺を追い返したりするはずはなかったんだ。
「あの組織を壊そうと思ってる。だから協力して欲しい」
「えっ、本当に?」
 真っ先に反応したのはヨウトで、俺の目をじっと見ているエダは大きな反応を示さない。
「組織を壊すと言っても、あそこにいる人間を一人残らず捕まえるわけじゃない。細かいことは警察のヤウラに頼もうと思ってて、とにかく俺はあの人を警察に引き渡そうと考えてるんだ」
「だけどクトダム様の部屋に行くにはティナアさんが邪魔でしょ。あの人はそう簡単にやっつけられないよ、勝算はあるの?」
「ティナアのことはケキに頼もうと思っている」
 彼が協力してくれるかどうかは分からないが、俺の中で確かなものが堅くなっていた。ケキの名を出すとエダは少しだけ渋い顔をしたようだった。俺の隣にいるヨウトは普段のように表情をくるくると回転させている。
「ケキさんがティナアさんをどうにかできるとは思えないな。あの二人って仲が悪いだろ」
「仲はいいさ。子供だってできたんだから」
「それでもティナアさんはケキさんのことを避けてるだろ。あの人に頼むのはやめとけよ」
「ケキの過去を知っている奴に会ったんだ。それが分かれば、なんとかなるさ」
 自分の口から出てきた緊張感のない言葉に驚いたが、それを聞いたエダは息を詰まらせたように声を止めた。舌打ちをし、それから何度か首をいろんなふうに振った。
「じゃあティナアさんのことはいいとして、俺は何をすればいいんだよ」
「ただ一緒に来てくれればいい。そして一緒にあの人と会って欲しいんだ。樹にも来てもらうんだが、二人だけじゃ不安だから、あんたに傍にいて欲しいんだ」
「それこそあの警察のオトモダチに頼めばいいじゃないか!」
 エダはどうしてだか怒っていた。その理由がひと欠片すら見えてこないが、俺が彼を苛立たせたことだけは事実であるようだった。どうにかして彼の機嫌を元に戻さなければならなかったが、いきなりそんなことを要求されても俺はその方法を知らない。
「ヤウラには組織の外で待っていてもらうつもりなんだ。あいつは組織の内部に詳しくないから、いざという時に身動きが取れなくなる可能性がある。だけどあんたなら組織のことをよく知っている。だからこそあんたに頼みたいんだ、エダ」
「駄目だよロイ、そんな言い方じゃ」
 割り込む必要の感じられなかったヨウトの声が大きく部屋じゅうに響き渡った。思わずそちらに目を向けると、何やら自慢げな顔で腕を組んでいる少年の姿が見える。
「エダさんはヤウラさんや樹君に嫉妬してるんだよ」
「違う、いい加減なことを言うんじゃねえ!」
「ほらほら、こんなに慌てちゃって。図星だったんでしょ?」
「だから違うって――」
 ヨウトの言葉の意味も、エダの焦燥の理由も、俺には一つとして理解できなかった。だけど二人は分かっているらしい。口論はじゃれ合いのように軽やかで、その中心に立っているのは自分なのだとようやく気付いた。俺が憧れや孤独を感じる必要はなかったのだ。
「エダ、俺はあんたを信頼してるから頼んでるんだ。あんたは俺の――兄みたいなもんだから」
「ふぇ?」
 間の抜けた一言が相手の口からぽろりと落ちた。それがなんだか可笑しくて、つい息を吹き出して笑ってしまう。おまけに声まで漏れてしまったが、俺よりも大声で笑うヨウトの声によりそれはすっかり隠れてしまった。
「てめえら、人のこと笑ってんじゃねえよ!」
「だってエダさん、おっかしいんだもん!」
「ははは……」
 光が入らない部屋の中、三人でくだらないことをして笑い合った。
 闇の中でも笑うことはできる。笑うということは、幸福の傍を通りかかるということ。それは這いつくばって手に入れる幸福よりも安価だけど、そのぶん刺々しさや光沢感のない丸い形をした幸福だった。風が全身を包み込むようにやわらかい。天から降り注ぐ雨を傘も差さずに受け止め、若い緑の葉を新たに伸ばすことができる。どんな場所でも花は生きることができるから、蕾のまま枯れることはなかったんだ。
 夜が来るまで三人で話をし、組織に侵入する方法をまとめ上げた。不完全な計画は風が吹けば倒れてしまいそうなほど頼りなかったが、エダやヨウトと共にあればどんな策士よりも素晴らしい地図を作ることができると感じていた。その夜はエダの部屋で泊まらせてもらい、窓の外に浮かぶ月を見ながら安定の中へ身を任せた。生命の体温を肌で感じながら、絶えず瞬く星に想いを寄せ、俺は憂いのない穏やかな睡眠を受け入れることができた。

 

 

 

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