月のない夜に

 

 

 舞い戻ってきた日常は静的で、動を望まなければ永久に水面の底で漂うことも可能だっただろう。エダの家を出て学校へ向かい、ずっと同じ内容の授業を受けていると昔と同じ気分に戻る。ただ今ではその希少さを理解していたから、俺はもうそれに対し飽きるという選択をすることができなくなっていた。
 学校が終わってから事務的な電話を済ませると、昨日と変わらぬ風景の中に加藤幸助は立っていた。速度のないまま落ちかける太陽を背景に、彼と樹は手短な会話を交換する。そうして相手の大きな手を誘導した先は樹の家だった。平和そのものを謳ったかのような空間へ三人で入り込み、誰も待っていない広間であらかじめ決められた定位置に着席する。
 学校の鞄を机の上に置き、俺と樹は幸助と向き合った。相手は黒髪の中に細くなった瞳を隠し、大人の身体は昨日とは違った色のスーツで隅々まで覆われていた。樹が差し出した渦を巻いているコーヒーを一口飲み、それからゆっくりと唇を動かす。
「初めに聞いてもいいかな。清明は今、どんな仕事をしているんだ?」
 見城清明は泥棒であり人殺しとして生きている。相手は彼の知り合いらしかったが、それを突き付けるにはあまりに無防備な相手だった。言葉を濁して伝えてもよかったが、いずれ彼が清明と対面するのなら、それは不必要な気遣いだったに違いない。
「それは本人の口から聞いてくれ。それよりも、あんたの話を聞きたいんだ」
「……君も聞くのか?」
 幸助の視線は俺の隣にいる樹へと向けられた。何も知らない相手にとって、樹は俺の単なる友人として認識されているのだろう。だけど樹が一つ頷いた姿を見ても幸助は怒ったりしなかった。言葉や態度には出さなかったが樹のことを認めているように見えた。
「僕が清明に初めて会ったのは中学生の頃だ。彼は隣町から引っ越してきたらしくて、転校生として僕の後ろの席に座っていたんだ」
 思い出話で生きるケキの姿を想像する。中学生ということは、樹や薫なんかよりも幼い頃の話なのだろう。彼は今と同じで曲がりくねったくせ毛だっただろうか。抱き締められるとすっぽりと包まれてしまうくらいの広い肩幅はまだ作られていなかったのだろうか。
「その頃の僕は、まあ何と言うか……やんちゃでお喋り好きな子供でね。転校生ってこともあって珍しくて、休み時間になるたびに僕は清明に話しかけていたんだ。彼はなかなか大人しい奴だったが、僕が話しかけると年相応の反応を見せてくれていた。中学生の男子が友達になるのにそれほど時間は必要じゃなくて、気付けば僕と清明はいつも共に行動するようになったんだ」
 まるで顔を抜いたシルエットのような二人が学校の中を走っていた。一人がもう一人の手を引いて、物知りな彼は相手にいろんな説明をする。それはありふれた歴史の一頁にすぎなかった。とても穏やかな関係であり、おかしな側面などどこにもない。
「仲良くなった僕は清明の家庭の話を聞くことができた。彼の父親は一年ほど前に病気で亡くなり、それを追うようにして一週間前に母親も亡くなったらしい。母の死によって両親を失った彼は親戚の家に妹と共に引き取られ、だから引っ越してきたんだと言っていた。ただ彼の妹の真とは歳が離れていて、彼女は当時まだ小学二年生だった。清明は母が死ぬ前に真のことを頼まれていたらしい。新しい家族は義父と義母、そして彼らの娘である沙紀は、真よりも年上の清明にとってもう一人の妹となった。清明は彼らはいい人だと言っていた。真もすぐに新しい家族に馴染み、清明は心配事など一つもないと断言した。ただそう言い切る時に限って彼は暗い蔭のある表情をしていたんだ」
 少年の顔に差し込む蔭を想像した時、俺はいとも容易くケキの少年時代を鮮明に描くことができた。思い返せば彼はいつだって蔭のある顔をしていた。明るく振る舞っていた時だって底抜けに全てを広げていたわけじゃなく、武器を磨いている時なんかは郷愁の念に押し潰されているような表情をしていた。そして俺を叱る時、彼は息を荒げていつも怒鳴るが、俺の目を見ていた時は一度だってなかったような気がした。俺じゃない何かを見てそれに苛立っていたのかもしれなかったんだ。
「清明は至って普通の子供だった。ただちょっと大人びたところがあって、滅多なことでは動じないし、頭もよくてスポーツも得意だった。僕はいつも彼を称賛していたが、僕が誉めると彼は珍しく頬を赤らめて照れくさそうに微笑んでいた。活発な僕にとって冷静な彼はちょうどいい相棒だったのかもしれない。そうやって何気ない日常を送っていた時、僕は彼の家に泊まりに行ったことがあった。その時に初めて彼の義父と義母、それに真と沙紀にも会ったが、彼らは他人である僕から見てもすごく幸福そうな家族のように思えた。夕飯の食卓には必ず家族全員が揃ってから食べるようにしていると言っていたし、食事中にも絶えず話題が飛び交って、それと同じくらい笑い声も辺りを取り囲んでいた。義父は寡黙そうな見た目に反して気のいい男の人だったし、義母は子供たちを優しげな目で見守る綺麗な人だった。そして真は沙紀とすっかり仲良くなっていて、二人はじゃれ合いながら会話の中心となっていた。清明は家族の中でも特に大人しい奴だったが、学校で暮らしている時とはまた違った表情を幾つも見せてくれて、この家族に馴染んでいる様子が部外者である僕にもまっすぐ伝わってきたんだ。落ち着いた声ではしゃぎすぎる真を制し、客人である僕に気を遣っていろいろよくしてくれたりした。その日は清明の部屋で泊まることになったが、寝る前に今の家族が好きかと聞くと、彼は人前で見せていた微笑みで肯定してくれると思っていた」
 ぷつりと会話を途切らせた相手はコーヒーを一口飲んだ。彼の喉の奥へ熱いものが通過する様を思い描く。そうしてなぜだかどきりとした。
「清明さんは家族が好きだと言わなかったのか?」
 俺の隣から樹が小さな疑問の声を漏らす。そちらに視線を向けた幸助は、何も言わずにゆっくりと首を横に振った。
「好きだとは言っていた。ただ、その表情は真逆のものだった。髪の毛が逆立つほどの憎しみを全身に張り巡らせ、鋭く尖った視線で何も描かれていない壁をじっと睨みつけたままそう言ったんだ」
 のっぺらぼうのようなシルエットに輪郭ができていた。曲がりくねった黒髪と、まだ少しだけ大きな瞳がすっと細くなった刹那を描く。その姿はまるで生きているようだった。俺は彼のそんな表面ばかり記憶しているんだと分かった。
「あまりにも表情と言葉が違ったから僕は清明に聞いてみたんだ、本当は何か気に入らないことがあるんじゃないかって。それでも相手は何もないの一点張りで、結局その時はそれ以上の情報は得られなかった。ただ僕は清明が何かを隠していることを確信した。そしておそらく家族のうちの誰かを憎んでいるということも想像ができた。最初は新たな父と母など必要ないと大人ぶっているのかと思ったが、それにしては悲しげではなく憎悪が前面に出てくることに矛盾を感じてそれは違うと結論付けた。次に誰を憎んでいるのかと考えたが、真を沙紀に盗られたと思っているのかもしれないとか、義父や義母に真を任せるのが嫌だと感じているのかもしれないとか、予想できる選択肢が多すぎて僕には何も分からなかった。そうやって僕はいろいろと悩みながらも清明とは普段通りの付き合いをしていた。たまたま街で見かけた清明は真と二人で買い物をしていたが、僕の姿に気付く前から穏やかな表情で幸福を満喫しているように見えた。僕がふざけて背後から脅かすと、学校での態度と同じように軽くあしらわれてしまったが、あの夜に見た憎悪が向けられなくて僕はほっとした。そして憎んでいる対象は僕や真ではないことが分かった」
 俺がまだ真と共に行動していた頃のことを思い出す。一度だけ組織に入り込み、そこでケキと真が対面したことがあったが、その時はまだ俺は二人が家族であることを知らなかった。真は一目見てもケキが兄であることに気付かなかった。だけど既に知っていたケキは真に本名を明かして、彼女に対して優しげな眼差しを向けていたことを覚えている。
「それからも何気ない日々を送っていたが、夏が始まる頃に清明の態度に違和感を覚えた。彼は毎日ちゃんと学校には来ていたが、どうしてだか朝から疲れているような表情をしていたんだ。僕は夏バテかとからかっていたが、清明は笑って誤魔化して詳しいことを何も話してくれなかった。そのまま夏が過ぎ、夏休みを終えて新学期が来ても、清明は毎日疲れが溜まっているような顔をしていた。それまでに何度か清明の家には遊びに行ったが、家族は特に変わった様子もなく、僕が初めて会った時に感じたものと同じものを漂わせている家庭にすぎなかった。ただ僕の家に清明が遊びに来たことは一度もなくて、それに気付いた僕は秋の初めの頃に家へ彼を誘ってみた。だが彼は真が心配するからと言って僕の誘いを断ってしまった。どうやら家族の中でも真は特に清明にべったりとくっついているようで、沙紀と仲良くなったとは言えやはり本当の兄である清明がいなければ不安になってしまうらしかった」
 真はケキのことを覚えていたが、しかしそれは靄の中に置いた記憶の如く薄い存在として覚えていたらしかった。彼女は昔の兄はとても頼りになって大好きだったと言っていた。だけど今の兄は最低で大嫌いだとも言っていたことを思い出し、幼い清明の姿と大人になったケキの姿がどうしても重ならなくて頭の中が混乱してくる。
「僕と清明は喧嘩をすることもなく単なる友人として付き合っていたが、僕の見ていないところで彼の疲れはどんどん大きくなっていたようで、授業中に居眠りをする回数が増えていることに気付いて驚いた。担任の先生にも何か不安に思うことがあるのかと聞かれたと清明は言っていたが、彼は窓の外の空を見ながら『そんなものないのにな』と言うだけだった。その頃からだったか、彼には独り言を喋る癖ができていた。とても小さな声で、注意して聞かなければ決して聞こえない程度のものだったが、わずかに動く唇の隙間から流れるような言葉を時々吐き出していた。その時は決まってぼんやりとした目で心を置き去りにしたような表情をし、僕が肩を叩いて呼び掛けないと現実に戻ってきてくれなかった。耳を澄まして何を言っているのか聞いてみたことがあったが、その頃はいくら集中しても強弱の付いた声の意味を理解できるほどはっきりとはしていなかった。僕はとにかく清明のことが心配で、学校に帰るまでの道をこっそり尾行したこともあった。ただ清明はとても真面目な生徒だったからいつもまっすぐ家に帰り、休みの日に出かけることもほとんどないみたいだった。彼の世界は学校と家の中だけだったようなものだ。僕は学校が気に入らないのかとも考えたが、彼を傷つける要因を学校の中から見つけることは不可能だった。だからまた家庭へと焦点が戻り、彼が独り言を言うようになった頃から頻繁に相手の家へ泊まりに行くようになった」
 組織でのケキは無口な時とお喋りな時があった。無口な時はぼんやりしている時や俺を犯す時で、お喋りな時は特に機嫌がよさそうに武器の自慢をする時、それに俺を叱る時も事実と嘘を交えた「真実」をたくさん怒鳴り散らしてきた。なぜ彼が二つの顔を使い分けていたのか、その理由は俺には分からない。
「十月が終わり、十一月が始まってその中頃だったか、僕は清明の家に泊まりに行っていた。その頃になるともう家族も僕を客人ではなく兄弟の一人として扱うようになっていて、僕も清明の家の勝手をすっかり知ってしまっていた。その時僕は清明が風呂に入っている間、彼の部屋でのんびりとくつろいでいた。部屋の景色も見慣れたものとなり、一つ増えた布団の寝心地も良くなっていた頃だったから、清明の私物をいろいろと物色する楽しみができてしまっていた。大抵何を見ていても清明は呆れた顔で僕から私物を取り上げるだけで、怖い顔をして怒ってくるなんてことは一度もなかった。ただ彼の部屋には年頃の少年が好む漫画やゲームのような娯楽要素はほとんどなく、本棚に並んでいるのは僕の苦手な活字だけが印刷された本ばかりだった。机の上にも勉強道具だけが設置され、壁に吊るされているカレンダーは絵も写真もないシンプルな物だけで、仕方がないから僕は勉強机の下にある小物入れの中を漁ることにしていた。そこには押し花のしおりや鈴の付いた可愛らしいキーホルダーのような女の子らしい物が入っていて、僕はそれを見つけては清明をからかっていた。だけどあの日、僕が見つけたのは乙女ちっくな小物ではなく、銀縁の重みのある小型サイズのビデオカメラだった。小物入れに無理矢理押し込まれたように狭苦しく入れられていて、初めて見る物にどきどきしながら僕はその電源を入れた。僕はきっと家族との思い出の映像でも入ってるんじゃないかと期待していたが、そこに保存されていたのは全く違う映像で――あまりに想像と違っていたから、僕は驚いて、とにかく驚いてそれを食い入るように見ていた。部屋に戻ってきた清明にも気付かず、勢いよく僕の手から取り上げられて相手の怒った表情を見るまで、僕はその内容を理解することができなかった」
 話をする相手の指先が小さく震えていた。その手のままでコーヒーのカップを持ち上げようとしたが、すぐに自身の違和感に気付いてそれを皿の上に戻した。それから大きく深呼吸をするように息を吐き出す。
「そこには何が映っていたんだ」
 俺が催促すると相手は目を伏せた。しばらく何も喋らず微動だにしなかったが、やがて開かれた瞳の裏には限りない悲しみが鮮明に彩られていた。
「彼が裸になって、男に犯されている映像だった」
 背筋がぞっとした。胸に巨大な釘を打ち込まれたような衝撃を感じた。悲劇の予測くらいできたはずだったのに、理解したくないという思いが正常な思考の邪魔をしている。結果として俺は何も言えなくなってしまった。
「当時僕はまだ大人の女の身体すら知らなかったから、その映像がどんな意味を持つかということまでは理解できなかった。ただそこに映っている清明がとても苦しそうで、泣きそうになっているのを我慢していることが分かるほど痛々しかったから、これは何かとんでもないことをさせられているんじゃないかと感じ取ることができた。そして清明にそれを強要させている相手の姿も映っていた。だけどそれが誰なのかを確認する前に清明にビデオを奪われてしまい、僕はすぐに取り返そうと立ち上がった。清明にもう少し見せてくれと頼んだが、彼は顔を真っ赤にして首を横に振った。まだ諦め切れない僕はもう一度頼もうと口を開きかけたが、彼が怒った顔で涙を流しながら僕の目を見てきたから、もうそれを取り返そうとは思えなくなってしまった。清明は僕の見ている前でビデオカメラの電源を切って、小物入れにきちんとしまって布団の上に座り込んだ。そして独り言を言う時の声で「あれが慶一郎だ」と言った。慶一郎とは彼の義父の名前だった。それだけで僕はいろんなことを瞬時に理解したと感じてしまった」
 俺は何を思っていいのか分からない。彼の昔話を知りたがったのは自分なのに、それが物語のような悲愴さを形作るものだとすれば、今からではどうすることもできない苦痛に苛まれねばならなかったんだ。そしてそんな感情が芽生えたとしても、目の前で座り話を続ける男は俺のことを何も知らない。
「僕は清明にただ一言、「どうして」としか声をかけられなかった。すると清明は僕にこれまでのことを説明してくれた。清明と真が親戚の家に引き取られてから一週間が経過した頃、夜中にトイレで目を覚ました清明は家の廊下を歩いていた。真は沙紀と同じ部屋で眠っていたが、彼女らの部屋の前を通ると、扉が少しだけ開いていることに気付いた。彼がそれを閉めようと手を伸ばしたなら、部屋の中に大人の影を見て疑問に思い、音を立てないよう気を付けながら扉を開いた。そこにいたのは義父の慶一郎で、清明に気付いた慶一郎は彼を自分の部屋に連れ込み、清明に一つの約束をさせた。それは「今日見たことは決して他言するな、もし口にすれば真と共に家から追い出してやる」ということだった。清明はその時はなぜ慶一郎が焦っているのか分からなかったらしい。それからまた一週間ほどが経過し、ある夜ふと慶一郎が清明の部屋を訪れた。慶一郎はひどく酒に酔っていて、真の代わりだと言って清明を襲った。それが引き金となり、清明は「拒めば真を襲う」と脅されレイプされるようになった。最初は一週間に一回程度だったが、次第に回数は増えていき、僕が泊まりに行くようになった頃からは僕がいない夜は毎晩犯されていたらしい。僕は義母には話していないのかと聞いたが、清明はもし話せば真と一緒に家を追い出されると言って否定した。家族は誰も清明と慶一郎の関係を知らないようだった。清明は真を守る為に自らを犠牲者として慶一郎に捧げていたんだ。僕はそんな彼が馬鹿だと思った。嫌なら逃げればいいと言ったが、清明は真を置いては逃げられないと言うだけだった。だったら真と共に逃げろと詰め寄ったけど、まだ小さい真を連れてどこへ行けばいいかと逆に問われ、僕は何も言えなくなった。子供が二人で生きられるほど社会は甘くないことくらい中学生の僕でも理解できた。その日は結局何も答えを出せないままで、次の日になると僕はいつものように自分の家へと帰ることしかできなかった」
 真は何も知らなかった。ケキと対面した時でさえ、彼は真に何も説明しなかった。だから真はケキを嫌った。最低な兄だと言って泣いていた。
「清明はそれからも学校には普通に来ていた。独り言を言う回数は多くなり、周りの生徒たちからは変人扱いされていた。僕はますます清明の家へ泊まりに行く頻度を上げたが、僕の親に注意されて回数を減らされてしまった。僕は親に相談しようと思ったが、どうしてもそうすることはできなかった。学校にいる間は清明の傍にくっつき、ぼんやりする彼の世話をし続けた。そうしているうちに清明の方から昨晩の話をしてくれるようになった。昨夜はどんなことを言われ、何時間くらい拘束されたかとか、どんな格好で何をさせられたかとか、僕に事細かに教えてくれた。そしてその後には独り言のような独白が続いていた。相変わらず小さい声で聞き取りづらかったが、「ぼくが我慢していればうまくいく」とか、「あいつを満足させるだけでいいんだ」とか、「ぼくは好きなんかじゃない」とか、よく聞けばいつも同じことを繰り返し言っていた。僕にはそんな彼に対し明るく振る舞うことくらいしかできることはなかった」
 話を聞きながら嫌な気持ちが胸の中に広がっていく。真っ黒な霧みたいなものが俺の視界を染めてしまいそうだった。その名を知っているはずだったが、どうしても思い出すことができない。
「毎日遅刻もせず学校に来ていた清明が休んでいた日があった。僕は心配になって授業を抜け出して彼の家を訪ねたが、彼の義母は真と一緒に学校へ行ったはずだと言っていた。もう一度学校へ戻って確かめたが、やはり清明の姿はなく、何かを感じた僕は彼を探して街じゅうを駆けずり回った。僕一人の力じゃ見つかるはずもなく、結局その日は清明と真は家に戻らなかったらしい。翌日に警察である僕の父に協力を求め、清明と真は無事に発見することができた。しかし二人が見つかったのは失踪してから三日が経った後で、隣の県の道端で見つかったらしかった。普段と変わらない顔で学校に来た清明に事情を聞くと、僕が以前言っていたように真と二人で遠い所へ行こうと思ったのだと話した。だけど途中でお金がなくなり、もう少しで飢え死にするところだったと笑いながら語っていた。僕はその時かっとなって彼の顔を殴ってしまったが、すっかり衰弱してひねくれていた彼は僕に何も言い返してこなかった。その日の夜に僕はとうとう父に清明のことを話した。ただ彼の名前は伏せ、もし彼のような境遇に遭っている人と知り合ったらどうすればいいかと遠回しに聞いた。父の答えでは清明と真は施設に入れられるだろうということだった。僕はなんとなくそうだろうと思っていたから驚かなかったが、そのことを清明に話すと、彼はおかしなことを言い出したんだ」
 相手はそこで一息つき、残っていたコーヒーを一気に喉の奥へ流し込んだ。いつの間にか汗をかいていた俺はコップに入れられた水を飲み、幸助の次の言葉を黙って待っていた。
「……彼は施設に入ることだけは絶対に駄目だと言っていた。なぜかと問うと、それだと真が普通じゃない人生を歩むことになるからと言った。清明は母の死を間近に感じ、それを理解したからこそ自分が普通ではない経験をしたことを知っていた。その経験は自身に多大なストレスを与え、自分は通常の過程を経て大人になることはないのだと、そう思って生きていたらしい。だけど真にはその苦しみを知ってもらいたくなかったようだった。幼い彼女は父と母が死んだことをまだぼんやりとしか認識できず、新たな家族を普通の家族として見ることができる無垢さを持ち合わせていた。それだけでもぎりぎりの境界線を歩いているのに、もし真と共に施設に入ったならば、真の中で完全に異質な幼少時代が築かれてしまい、清明はひたすらそれを恐れていたんだ。だから見えないところで真を守り、慶一郎を普通のお父さんとして見ていてもらいたいのだと言っていた。清明はその為にできることがあるなら何でもすると言った。慶一郎に身体を捧げることもその一環にすぎないと断言していた。清明は僕の父が警察であることを知っていたから、今後は父の前で自分の話題を口にしないよう約束させられた。僕はそれから毎晩悩み、幾度となく父に清明のことを話そうと決心したが、清明の名を口に出そうとすると喉がつっかえたように上手く話すことができなかった。そうやって僕は最後まで父に清明の秘密を教えることはなかったんだ」
 相手の瞳の中にうっすらとした赤が漂っていた。一人だけ置き去りにされた男は願うように話を続ける。
「清明はずっと学校に来ていた。だけど冬休みが始まる前になった頃、机に座ったまま彼が大きく震えている時があった。どうかしたのかと聞いても彼は独り言を吐き出すだけで何も答えず、だから僕は彼の口元に耳を近付けてみた。すると彼は「殺される」と言っていた。驚いて顔を離し、彼の肩を揺さぶってみたが、彼は尋常じゃない様子で「あいつはぼくを殺す気だ」と言い、何度か同じような内容の独り言を喋り続けた。僕は我慢ができなくなり、清明を保健室へ連れ込んで震えたままの相手を落ち着かせた。保険の先生が部屋を出た頃を見計らって事情を聞くと、いつものようにどんな愛され方をしたかという説明をしてくれた。それはこれまで聞いていたものとほとんど同じで、僕が想像していたことは何一つなかったと言われた。僕は彼の姿を見て、もう清明は限界だと感じた。だけど僕にはどうすることもできなかった。どんなに青ざめた顔をしていても清明は毎日きちんと学校に来ていた。そして独り言の内容は「殺される」というものに変わっていた。必死になっていた僕は清明の意見を無視して彼を自分の家で二日間泊まらせた。そしてその間に長いこと口喧嘩をした。僕は真と一緒に施設へ入れと言ったが、清明は決して頷こうとはしなかった。もっと長いこと家に留まらせておくつもりだったのに、清明は真のことが心配だからと言ってすぐに家に帰ってしまった」
 相手はそっと目を伏せた。もう一時間以上が経過しているような気がしたが、実際はまだ三十分しか経っていなかった。再び目を開いた相手の中に濃く染められた後悔の色を見る。
「それから冬休みが来て、僕は毎日清明を遊びに誘った。清明はいつも疲れた顔をしていて、夕方の決まった時間になると必ず家に帰ってしまった。僕は彼を家に帰らせたくなくて、何度か僕の家へ泊まりに来るよう誘っていた。清明も家には帰りたくなかったのか、以前ほど頑なに断ることはなく、週に一回以上は泊まりに来るようになった。逆に僕は彼の家族に近付きたくなくて、清明の家に泊まりに行く機会が減っていた。僕の家でのんびりしている清明は普通の子供のように見えていた。独り言を言うこともなく、彼が今まで語っていたことは全て嘘だったんじゃないかと思えるほど平凡な中学生に戻っていた。だけど夜が来ると、彼はベッドの中で夢にうなされていた。夜中に突然起きて泣き出すこともあった。たった一度だけ、彼に襲われかけたことがあった。彼は虚ろな目で僕に性行為をせがみ、断り続けた僕はいたたまれなくなって彼の身体を抱き締めた。そうしたら彼は何も言わなくなり、僕は感情を抑えられなくなってその時初めて泣いたんだ。それに気付いた清明は正気に戻り、一言ごめんと言ってきた。僕は涙で声がちゃんと出なかったが、お前が謝ることなんてないと言いたかった。僕は彼を連れてどこか遠い所へ行ってしまいたかった。誰も知らない場所へ彼を逃がしてやりたかった。何より彼から真という楔を抜いてしまいたかったけど、そうする方法が見つからないままとうとう僕は彼を助けられなかった」
 流れるような悲しみが細い運命を演出していた。幸助は手をきゅっと握り締め、唇を震わせながら俺の知らない話を教えてくれる。
「冬休みが終わり、学校生活に戻ると、清明はまた独り言を言うようになっていた。僕は変わらず彼の心配ばかりをしていた。そんなある日、清明の独り言がまた変わっていることに気付いた。彼は頻繁に「殺してやる」と言っていた。そればかりは放っておく気になれなくて、僕はその場で清明に問いただした。すると清明は「ぼくはあいつに殺されるからその前にぼくがあいつを殺すんだ」と言った。僕は恐ろしさを覚えながらも「どうやって」と聞いた。清明は何度か僕の言葉を自身の口の中で再生し、やがて出てきた答えは「事件にしてはいけない」というものだった。まだ真のことを考えているのかと思うと苛立ちとやり切れなさが溢れて、僕は清明に「真なんか見捨てろ」と言った。だけど清明はもう僕の言葉を聞いていなくて、突然「父親に頼んで銃を貸してくれ」と言い出した。僕は怒って、彼の顔を平手打ちした。だが清明は床に頭をこすりつけて僕に頼んできた。僕はそんなことができるわけはないと分かっていたし、彼を人殺しにしたくなかったから断らなければならなかったけれど、彼を慶一郎の手から助け出すにはそれ以外の方法が思いつかなくて、押し切られる形で彼の要望を受け入れてしまった。僕は家に帰り、父にそのことを話そうと思ったが、悩んでいるうちに朝が来てしまっていた。学校に行く前に清明の家を訪ねたが、そこにはたくさんの人が集まっていて――聞いた話によると、清明の義父である慶一郎が殺されていたらしい。そして長男の清明の姿が消えていて、彼が何らかの方法で慶一郎を殺したのだという噂ができていた。僕はそれを聞くと無意識のうちに清明を探しに走っていた。でも僕はとうとう清明を一度も見つけることができなかった。慶一郎の死は他殺かと思われていたが、いくら調べても死因が解明されなかったらしく、結局は真相が明らかになることなく闇に葬られた。真や周りの者には病気で死んだという説明をしていたが、僕は間違いなく慶一郎は清明に殺されたのだと思っていた。……それから十余年が経過したが、僕は定期的に清明が家に戻っていないか確かめにこの街へ来ている。僕との約束を果たす前に消えてしまったあいつと会う為に、今でもずっと彼の帰りを待ち続けているんだ」
 静寂があった。話を終えた相手は大きく息を吐き出す。俺は何も言えなかった。自分が何を感じているかも分からなかったから、どんな声を出せば理解できるのかということを知らなかったんだ。樹も黙っていた。目線を俯かせて手の中にあるコップの水をただじっと見つめていた。
「君は清明が今どこで何をしているか、それを知っていると言っていたね」
 涙の滲んだ声色で問いかけられ、俺は一時的に頷いておいた。
「彼に会いたい。彼のいる所へ連れて行ってくれるかい?」
 普通の人間をあの組織に近付けることはできない。そんなことは分かり切ったことだったのに、俺は相手の誘いを断ることができず、不確定な事実の下で薄っぺらい約束を交わしてしまうこととなった。

 

 

 街が寝静まった頃、そっと形のない扉を押す。壁の合間にはめ込まれたドアは音もなく開き、薄い明りの灯った部屋の様子を外にいる俺に教えてくれた。その中へ臆することなく入り込み、誰も知らない通り道を石の壁で塞いでおく。
「ラザーラス?」
「よお」
 椅子に座って本を読んでいたヤウラは顔を上げ、隠し扉から入ってきた俺に視線を投げかけてきた。部屋の中には彼しかいないようで、俺は姿を消す必要がなく、堂々と相手の前に近寄ることができた。
「あんたに頼みたいことがあるんだ」
「くだらないわがままならお断りだぞ」
 ため息を吐いて本に視線を戻した相手の肩に手を置き、再びこちらへ注意を向かせるように仕組む。俺の思惑通りに動いた彼は迷惑そうな顔をしていた。
「あの組織を潰す為に協力してくれ」
 本題を告げたなら、ヤウラは目つきを変えて鋭い刃を作り出した。
 加藤幸助を連れてケキの所へ行くという約束は明日の昼以降ということに決定していた。冬である今の時期ではこの時間でさえ辺りは暗く、これから向かう場所を考えると明るい時刻でなければ彼を守り切る自信がなかった。だから今日のうちに計画を進めておこうと思いヤウラの元を訪れたが、ここに辿り着くまでに時間をかけすぎたのか、いつの間にやら闇夜に包まれた世界が俺の前に君臨していた。暗がりの中に灯された蝋燭の火が心地良い空間を演奏している。
「どんな協力をすればいい」
 俺の突拍子のない頼みを耳にしてもヤウラはそれほど動揺していないようだった。だけど俺だってそんなことは最初から分かっていた。
「俺と樹とエダで組織に乗り込み、あの人を外へ連れ出す。あんたは外で待機してあの人を警察の本部まで連れ込んで欲しい。護衛にはヨウトを付けておく」
「エダというのはスイネのことか? 奴にしろヨウトにしろ、クトダムよりもお前を優先する連中のようには思えないが」
「あいつらは変わった。俺の家族みたいなもんだ」
 ぱたりと本を閉じる音が部屋の中に大きく響いた。相手の膝から滑り落ちたしおりが静寂のままで床の上に着地する。
「なぜそう言い切れる」
「知ってるからだよ。もうエダもヨウトも、以前のあいつらじゃない。樹と知り合ったことで変わったんだ。俺はあの二人を信頼している」
「そんな短時間で変われるものか? お前は騙されているんじゃないのか? 忘れたのか、連中はいつだってお前を嘲笑ってきたんだぞ。裏切られることが怖いなら信用などするな!」
「怖くない。あいつらは裏切らないから」
 ヤウラは立ち上がった。俺よりも少し背が高い彼は俺を見下ろしてくる。すぐ近くまで詰め寄られ、相手の息が直接肌の上に降りかかってきた。
「ティナアとケキはどうする」
「あの二人は、組織に乗り込む前にこっちでどうにかしておく。早ければ明日にでも決着がつくだろうから」
「どういう意味だ、説明しろ」
「ケキの日本での知り合いに会った。彼を連れてケキに会いに行く。そしてケキにティナアをどうにかしてもらうつもりだ」
「そんな計画、うまくいくものか。お前は相変わらず詰めが甘い」
「いや、うまくいくさ」
 大きな音が響いた。ヤウラが机を握り拳で叩いた音だった。彼は眉を吊り上げ、目を細くし、硬い表情のまま恐ろしい形相になっている。それでも俺はその様子と冷静に向き合うことができていた。
「お前は馬鹿か! あの組織が今までお前にどんな苦痛を与えてきたか、それを忘れたわけではないだろう! 甘ったれた考えであの組織を壊せるか? いつ裏切るかも分からない人間をなぜ腹の底から信頼することができる!」
 彼は俺の何もかもを知っていた。俺は彼にだけは嘘をつけなかった。彼にはいつも本当のことを話し、世間に傷付けられた時は彼の中に逃げ込んでいた。だからこそ相手の気持ちがまっすぐ伝わってくる。俺の癒えぬ傷跡に想いが直接塗り込められていく。だけど、彼にだけは分かって欲しかった。いくら否定されようとも最後には俺のことを肯定して欲しかった。怒られると分かっていながら協力を求めたのは彼に縋りつきたかったからではない。ロイもラザーラスも含めて俺の全てを彼に分かっていて欲しかったんだ!
「後ろを向いてばかりでは何も変わらない。それに気付いたからこそ、俺にできることから始めなければならないんだ。そして今は信じられる人たちがいる。人は誰かによって救われることが可能な生命だと知った。俺が小さな命によって救われたように、今度は俺があの人を救ってやりたいんだ。俺の目で見える世界の中では、自分と同じ思いを受け継いで欲しくはないから」
 相手の目から力が抜けた。整っていた顔が崩れ、気が付くと身体を抱き締められていた。彼の身体は重かった。そして彼を支えることができている自分の姿を誇らしく思った。
「どうしてあんたが泣くんだ」
 彼の肩が震えている。肩の上に熱い雫が零れ落ちていた。
「あの時お前を助けて良かったと思ったんだ。お前を見捨てずに、ずっと見守っていて良かったと」
「……それだけで泣くか? 普通」
「あと、自分が情けなくて。川崎殿にお前の話を持ち出された時、大人げない屁理屈で追い返してしまった。お前を取られたくなくて。一番の親友は自分なんだと証明したくて」
「何だそれ、馬鹿じゃねえの――」
 時間が止まったかのような錯覚があった。彼は俺の見えないところで涙を流す。こんなに近くにいるのに彼の感情が見えなくて、距離だけで理解が測られるものではないということが分かったような気がした。
 ようやく身体を離した相手はなぜだかすっきりした顔をしていた。彼の手が俺の肌から消えた時、もう理由のない淋しさを感じることもなかった。
「あの組織がなくなってもお前の過去が消えるわけじゃない。だが通過点として新たな行き先は見えてくるだろう。しくじるなよ、お前の善と悪がかかってるんだから。俺の力が必要になった時はいつでも呼んでくれ」
「ああ、頼りにしている」
 最後に彼との初めての握手を交わし、俺はヤウラの部屋を後にした。

 

 

 長らく戻っていなかった自分の部屋のベッドに寝転がり、手が届きそうなほど低い天井をぼんやりと見上げる。
 準備は滞りなく進んでいた。ヤウラの協力も得られたし、エダやヨウトと共に作り上げた道順も頭の中にしっかりと描かれている。樹との仲直りも成功して、あとはケキを説得するだけとなっていた。彼のことはよく知っているから疑う要素もなく上手くいくと思い込んでいた。
 だけど俺は動揺していた。加藤幸助によって語られた見城清明の姿を信じられないまま動いていた。昔のことを何も話さなかった彼はいつだって、夢見がちな子供のように未来のことばかりを見つめていた。それを馬鹿にしていた自分のことを叱りたくなってくる。
 俺が最も怖かったのは、彼の境遇がどことなく自分と重なっていることだった。誰かの為に自身を犠牲にする姿を俯瞰して、俺は彼に不思議な感覚を抱いていた。それが何なのかは分からないが、今まで生きてきた中で決して認めようとしなかった感情であることだけは確かだった。
 また恐ろしいことならもう一つあった。過去に人格が壊れるほど苛まれた人間が成長し、大人になると子供に同じ痛みを与えようとするのならば、俺もまた時が過ぎて痛みを忘れた頃に同じ道を歩んでしまうのではないかと不安だった。ヤウラにはほとんど装飾のない綺麗事を言ってしまったけれど、いざ都合のいい位置に立った時、俺は正気を保って子供を愛することができるのだろうか。ケキと同じように怒りに呑まれ、我を放棄して快楽を求めてしまうのではないだろうか。
 真の為に自ら悪役を買って出た清明は大人だった。その手でティナアを愛し、アニスを生み出したこともまた事実。
 俺はなぜアニスがロイよりもケキを選んだのか、その理由をようやく理解できたように感じた。

 

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 異世界の森では雨が降っていた。ぬかるんだ道をしっかりと歩き、俺の前を進んでいく樹の背を追って幸助の手を引っ張っていく。
 昼から学校を抜け出し、俺は樹と共に幸助を連れて組織の前まで移動した。幸助にはあらかじめ説明しておいたせいか、世界が変わっても彼はそれほど驚かず、歩いて組織に近付くたびに表情を硬くしているように見えた。
 身を隠す為に傘も差さず歩いていたが、何事もなく組織に辿り着くことができて拍子抜けしてしまった。入口の前に座り込んでいる見張りの目を盗んで裏へ移動し、俺が部屋として使っていた空間の位置にある窓を開けてそっと侵入する。変わらない四角形が俺を出迎えてくれ、高い場所にある窓へ招待する為に樹と幸助にはロープを使って壁を登ってもらうことにした。二人が床に足をつけたことを確認してから部屋のドアを開く。
 記憶を頼りに廊下を進み、曲がった先に見えた扉を開くとケキの部屋に到着した。床に散らばるナイフを踏まないよう気を付けながら中に入り、窓際の椅子に座って銃を磨いている大人の姿をじっと見据える。
 ゆっくりと顔を上げた相手はこちらを見た。その瞳は眠っている時のように穏やかで、今日は当たりだと確信する。
「ロイ? なぜお前がここに――お前は戻ってきてはいけないはずじゃないか」
「あんたに会いたがってる人がいる。そして俺の頼みを聞いて欲しい」
 黒い眼が俺の後ろにいる二人へと向けられた。しかしそれだけでは何の感情も出さず、再びこちらへと視線を戻す。俺は一歩進んで彼に近付いた。相手は銃を窓辺の棚に置き、椅子から立ち上がってその大きさを知らしめてくる。
「何だ、その人間は」
「加藤幸助って名前に聞き覚えない?」
 ケキはちらりと幸助の方へ視線を向けた。そのくせよく見ないうちに目を閉じて首を横に振り、小さく「知らない」と返答した。
「清明、俺のことを忘れちまったのか? 俺だよ、中学校で同級生だった加藤幸助だ!」
 大仰な声と共に後ろから幸助が飛び出してきた。闇の中で静かに佇むケキの前へ詰め寄り、彼よりも少しだけ背の高い相手の顔をぐっと見上げる。同級生だと叫んだ男を見下ろすケキは恐ろしいまでに冷たい表情をした。この世のありとあらゆる刃物を凝集したような棘で彼の姿を突き刺し、それでも引き下がらない幸助を突き飛ばすような真似はしない。
「今更何の用だ」
 一つため息を吐き、ケキは腕を組んで身体を部屋の奥の方へと向けてしまった。対する幸助は立ち止まった位置から一歩も動かない。
「清明、俺はお前に謝りたかったんだ。あの頃俺がもっとしっかりしてれば、お前があんなに傷つくこともなかったはずなのに……なあ、やっぱり慶一郎さんの死って」
 狭い空間に鳴り響いた轟音が世界を震撼させた。ケキが腰に吊るしていた黒い銃が彼の大きな手の中にあり、弾を発射したせいで銃口から煙が立ち上っている。金色の弾が向かった先は何もない壁だった。ただそこに至るまでに無防備な幸助の隣を通り過ぎたのだろう。
「あんな下賤な野郎の名を俺の前で口にするな」
「清明! やっぱりお前が――」
「ああそうさ、あの男は俺が殺したんだ! あいつさえいなければ家は平和になるんだ、現に真は今幸福そうに笑っているじゃないか!」
 銃を床に放り投げ、乱れた息を整えながらケキは俺の肩に手を置いた。そしてもう片方の手で上から髪を撫でられる。
「なあロイ、どうしてこんな奴を連れてきたんだ? 俺はお前に戻ってきて欲しかったが、お前はここにいちゃいけないんだ。またお前を傷つけてしまうから。お前はもう一人で生きなければならないんだ、それは分かっているのか?」
「俺はもうロイじゃない、それから、あんたは本当に清明なんだよな? 幸助が知っている河野清明で間違いないんだよな?」
「その名字で呼ぶのはやめろ!」
 髪をぎゅっと握り締められた。そのまま身体を引っ張られ、床に叩きつけられる。すぐに差し出された樹の手を借りつつ立ち上がると彼の手の中に千切れた銀髪が残っていた。
「河野って名前が嫌いだから、わざわざ見城と名乗ってたってことか」
 俺が問いかけたなら、見城清明は皆を蔑むように笑った。手に持っていた俺の銀髪を床の上に落とし、靴の裏で乱暴に踏みつける。
「俺はあの家が嫌いだった。さっさと消えてしまえばいいと幾度も繰り返し思っていた。それなのに真はあそこから離れようとしなかった。だから俺がずっと我慢して――いや、もういいんだ。それは終わったことだ、俺はあそこに戻らなくていいんだ」
 彼はゆっくりと歩いて部屋の奥へと進んでいく。相手の姿を目で追いながら俺は何度かまばたきをした。部屋の奥には彼が集めた武器が綺麗に並べられており、相手は壁に吊るされた銃の前で立ち止まった。やがてそれに手を伸ばし、愛でるように黒い表面を撫でる。
「幸助」
 動きのない中で清明の声が漂った。名を呼ばれた男は額に汗を流しながら顔を強張らせている。おもむろに銃を握ったケキは振り返って幸助の姿を見た。
「そこの二人に喋ったのか?」
 先程よりもずっと恐ろしい闇で相手を貫いていた。細められた瞳は無数の槍を解き放ち、密かに震える唇からはやわらかくて猛毒のある針が相手の脳を束縛する。自分に向けられたものではないのにそれは過去を思い出させる要因となってしまった。彼をケキだと認識した俺の身体は唐突に機能を止め、判断の全ての色を逃走と謝罪とに染め上げてしまいそうになっていた。
「彼らは、お前の――友達だと言っていたんだ。だから」
「お前が気付いたから教えたんだ。お前を信用したから話したんだ。お前だったから知らせたものを、なぜ易々と他人に秘密を売った!」
 銃弾が発砲された。それはまっすぐ幸助の額に向かい、俺は反射的に彼の身体を押し倒していた。かろうじて壁に当たった銃弾は地面に転げ落ちたが、続けて放たれた弾は幸助の頭を的確に狙っている。俺はぐっと腕を伸ばし、銃口の向けられた先で手のひらを広げた。回転しつつ速度を持った小さな弾丸が皮を裂き肉をえぐる感覚が脳を襲う。
「ラザー!」
 心配した樹の声が響くと同時に三発目が俺の肩に当たった。俺はケキに背を向けて立ち、幸助の盾となるべく身体を大きく広げる。理性も節操も見失った男は連続して銃弾を放ち、それは狙い通りに俺の背にまっすぐ飛んできたようだった。
「清明、どうか落ち着いてくれ! 俺が悪かったよ、お前のことを勝手に喋ってしまったことは謝るから、だから!」
「いけませんね、そんな謝り方では」
 世界が静止したように思えた。
 幸助の後に聞こえたものは誰かの声に違いなかった。それは聞き覚えのある、俺が知っている人間のものに相違なかっただろう。それが鳴ったおかげで銃弾が飛んでくることはなくなった。心を乱した大人を鎮める効果がある声色とは、全ての人間が生成できるほどありふれたものではない。
 靴の音が反響する。床の上を歩く音だ。俺は金縛りにあったように動けない。すぐ隣を通り過ぎる誰かの影が目の上にちらついた。
「清明は君に裏切られたんだ。全ての事情を知る君に、何の条件もなく信頼した君に、唯一の味方であったはずの君に裏切られた。それをただ一言の謝罪で許すほど彼の傷は浅くはないよ。分かっているかな、加藤幸助君?」
 鏡が割れたように世界が反転した。倒れかけた俺の身体を支えたのは樹で、彼のおかげで動きを取り戻した俺はケキの姿を探して視界を広げる。そうして見つけたケキの後ろには懐かしい人が立っていた。金の衣に身を包み、顔に面積の少ない仮面を付けた、俺が愛してやまないあの人が立っていたんだ。
「やあ、ロイ。久しぶりだね」
 声が出てこない。俺の昔の名を親しげに呼んでくるのはあの人だ。ずっと名を呼んで欲しかった、他でもないあの人にだけ呼んで欲しかった! それが叶って嬉しいはずなのに、どうして俺は無邪気に喜ぶことさえできないのか?
「クトダム、離れろ」
「そんなに怒ることはないだろう、私がお前を止めてやったのだから」
「いいからさっさと離れろ! べたべたと気色悪いんだ、お前は!」
 怒っていたのはケキなのに、行動を支配していたのはあの人の方だった。ケキの後ろから首に回していた手を下に垂らし、ぴたりとくっつけていた身体をあの人はゆっくりと離した。
「それで、一体何の用だ。勝手に部屋に入るなといつも言っているだろう!」
 苛々した口調でケキはあの人に怒鳴っている。それがなぜだか分からない。あの人は尊敬すべき人間であるはずなのに、どうしてケキは親の仇を見るような顔であの人を睨みつけているんだろう! 彼はあの人がクトダム様だと気付いていないのか? ずっと組織で暮らしてきた身でありながら、あの神のような人間に対し憎しみの感情をひと欠片でも抱いてしまったというのか!
「お前の部屋が騒がしかったから様子を見に来ただけだよ。お前はいつも恐ろしいことを考え付くからね、私が見張っていてあげなければならないじゃないか。それとも私の与えた居場所は心地悪かったかい?」
「居心地なんか最低に決まっているだろう!」
「自ら求めた地をそう呼ぶのか。まあいい、所詮お前は私以外の者には愛されぬ人間だ。それなのにまだティナアのことを愛しいと思っているのかい」
「黙れ、この下衆野郎!」
 彼の手の中から弾が飛んだ。それが加速してしまう前に、地を蹴った俺の身体が真正面から回転を止める。
「いい子だ、ロイ」
 銃弾は脇腹に食い込んでいた。その痛みを感じているはずなのに、俺の感覚はもはや正常に稼働していない。ただ力は相応に失っているようだった。何もないはずなのに膝が折れ曲がり、俺は床の上に両手をついて身体が崩れないように支えていた。
 誰かが俺に支柱を与えてくれていた。ぬくもりがある方へ顔を動かすと大きく顔を歪ませた樹が俺を全身で支えていた。彼はいつでも真っ先に動き、俺を優先して判断してくれている。俺もまた彼を一番に想おうと決めたはずだったのに、意識の外で流れる命令にどうしても逆らうことができなかったんだ。
「ねえ清明? この世でお前を愛せる人間は私しかいないのだよ。ティナアはお前を見捨てたし、アニスは神の元へ帰ってしまった。組織を抜け出したはずのロイでさえ私を選び、古い時代を共に生きた友人にも裏切られて、お前は本当に可哀想な子だ。犯罪者であるお前を人間として見る者は存在しない。外の世界にお前が安堵できる桃源郷はない。それが分かっているからこそ私の傍から逃げられないのだろう? さあ、こんな人々など捨てて、私の部屋へ来なさい。そこで思い出してしまったつらい過去を全て封印してあげるから」
「やめろ!」
 目を閉じて耳を塞ぎ、大声を喉の奥から吐き出した男がいた。彼は俺の隣でうずくまって両手で頭を抱えてしまう。俺には何が起きているのか理解することができない。彼に対し冷たい言葉を放ったのは一体誰だったのか?
 彼に向けて手を伸ばした。届くはずだった距離なのに指先に相手の体温が感じられなかった。上から腕を掴まれている。それに気が付いて顔をぐいと持ち上げると、金色に煌めく仮面の奥に宝石の如く無数の線を隠した瞳がこちらを見ていた。
「ロイ、お前も私のところへ戻っておいで」
 くっと彼の手のひらが開かれた。彼以外のものが見えなかった。身体が彼を欲し、意識が彼を求め、魂は彼の元へ還っていく。世界がどうなろうと関係なかった。ロイもラザーラスもただ彼の為だけに生きているのだから。
 目の前が真っ白になる。幾度となく夢見た言葉だった。そこが深淵でも構いやしない、ただあなたが傍にいてくれるのなら。
 視界を失ったすぐ後に身体から重力が消えた気がしたが、意識を手放そうとする俺ではその原因を知ることはできない。揺れる大地を恨みながらも安らぎの願いが隣で微笑んでいたから、俺は眠るように全身を手放していた。
 ただ風が身体を通り抜ける感覚だけを知る。

 

 

「ラザーラス!」
 耳元で囁かれた叫びに驚いた目は瞬時に大きく開かれた。自分が存在する地を確認するその前に、頭上から落とされた拳を髪の上から受け止める。
「――エダ?」
「やっと起きたか」
 殴られた箇所がじんとした。俺の顔を覗き込む相手は確かにエダで、動きの鈍った身体は白いベッドの中に押し込められている。力を込めて身体を起こすと、ここはエダの部屋であることが分かった。部屋の中には俺と相手の影しかなく、なぜこんなことになっているのかさっぱり分からない。
「あの」
「組織に侵入する時の為の下見をしてたんだ。そしたらお前を背負った樹君が走って逃げてきたから驚いたんだぞ! ついでに知らない男がケキさんを背負ってるし、どういうことか説明しろよ」
「樹が俺を背負って――?」
 声を出すと頭痛があった。右手で額を押さえると少しだけ和らいだ。俺の知らない事実が蔓延している。分かることといえば、ケキを背負った男が幸助であることくらいしかなかった。
「樹やケキもここにいるのか」
 腕を組んで仏頂面をするエダはふいと窓の外に顔を向けた。彼につられてそちらへ目をやると、既に夜が訪れていることがよく分かる。
「樹君はヨウトの部屋で気を失ってるケキさんの傍にいる。ケキさんを背負ってた奴もそこで座り込んでるぜ。ヨウトとセレナはお前らの為に台所で晩飯を作ってるから、出来上がったらちゃんと食ってやれよ」
 俺は一つ頷いておいたが、彼の目線は窓の外に投げられたままであり、それは自分しか知り得ぬ特異な合図となってしまった。混乱が胸元へ両手を引き寄せる。
 何があってこんなことになったのか、なぜ俺とケキは気を失ってしまったのか。樹に聞いてもきっと答えは出てこないだろう。彼も幸助も俺じゃなくケキの所にいるのならば、俺も大人しく彼の回復を待たねばならないのだろうと感じた。
 そして俺はおそらく開けられた穴にまだ気付いていない。

 

 

 

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