月のない夜に

 

 

 明るいヨウトの呼び声と共に広間へ向かい、並べられた夕食に感謝をしながら席に着いたが、それらが空になってもその場には俺とヨウトとセレナの三人しかいなかった。エダは部屋の中で座り込んでおり、樹や幸助が廊下を歩いて来る気配もない。俺は手短に夕食を作ってくれた二人に礼を言い、ケキが眠っているはずのヨウトの部屋の前に足を運んだ。
 扉を開けようとドアノブに手を伸ばしたが、それに触れた途端に部屋の中から声が漏れてきた気がした。二人が細やかに話し込む声は俺の介入を許さないもののように思え、腕をだらりと下ろして廊下を引き返していく。やがて辿り着いた先は俺が目を覚ました場所に他ならなかった。エダの部屋に続く扉を開き、それがあまりに軽いことに驚きを覚えながらも中へ入っていく。
「なんだ、戻ってきたのか。樹君の所に行かなくてもいいのか?」
「それは、なんとなく――行きにくいというか」
 椅子に座っているエダは先に見た格好と少しも変わっていなかった。ただ窓の外に向けていた顔をこちらに向け、俺と目を合わせてきちんとした応対をしてくれる。それが俺の心から重い鉛を一つ破壊してくれた。
「あんたこそ、樹とはもう話したのか?」
「話すって何を」
「だって振られたとか何とか言っていたじゃないか。仲直りはしないのか」
 エダは黙り込んだ。目を伏せて首を横に振り、俺には分からない合図を送ってくる。そうして開いた瞳は誰よりも奥深いものが宿っていた。
「俺のことはどうでもいいんだよ。それより問題はケキさんだろ。なんであの人が気絶して組織から逃げてたんだ」
「そう言われても、俺だってよく分かってないんだ。俺と樹と幸助はケキと話をしていただけなのに――」
「ああ、じゃあその幸助って奴は誰なんだ。お前らの新しいお友達か?」
「ケキの中学時代の同級生だよ」
 相手の口がぴたりと止まった。半端に開かれていた口がそのままの形で静止しており、その様は間が抜けているように見えなくもない。だけど今は笑うことができなかった。隙間風がざわめきよりも大きな騒音を奏でているんだ。
「あの人の、故郷での知り合いか。それはさぞかし素敵な話をしてくれたんだろうな」
 エダは目蓋を下ろし、自身の足元へと目線をやった。どことなく悲しげな表情に俺は声をかけられない。そしてどうして彼がそんな顔をするのかさえ分からなかった。
「考えてもみろよ。今になってもケキさんのことを忘れずに探してたってことは、あの人に何らかの感情を抱いてたってことだぜ? それがあの人にとって重荷になることは想像に難くない。触れて欲しくない傷跡をわざわざ開かれるようなものなんだから」
 俺の考えを知っていたのか、エダはすらすらと解答のような言葉を吐き出した。俺の頭じゃそこまで考えが回らなくて、やはり相手は何もかも知っているのだと思えてくる。
 だけど相手の言い分は今の自分でも理解に届くものだった。誰にだってそっとしておいて欲しい過去はある。それを知る者が唐突に現れ、反抗できぬまま思い出してしまったなら、当時の感情がそのまま今に重ねられてしまうのだろう。俺は初めてケキの思いを知った気がした。彼が空を見ながら語った理想も、俺を見下ろし踏みつけながら怒鳴った嘘も、全て本物のようには思えなかった。俺はいつだって彼のことを何も知らずに怯えたり頼ったりしていたんだ。
「ケキの本名、見城清明っていうんだ」
 静かな空間で漏らした声は、きちんと伝えたい人の元に運ばれただろうか。
「綺麗な名前だな」
「うん、俺もそう思う。だけど名付けの親はもう死んでいて、引き取られた先の家族の中で虐待を受けてたらしい」
 エダは相槌も返事も口にしない。顔を上げてまっすぐ俺の顔を見つめている。そこに後ろめたい負は存在せず、赤裸々になった魂だけがひっそりと煌めいていた。
「義理の父親になった人が、どうもよくない幼女への性的嗜好を持つ人物だったようで、当時小学生だった真に手を出そうとしていたらしい。それに気付いた清明が義父から真のことを守る形で性的虐待を受け続けていたそうだ。そして最後には義父を殺害し、そのまま行方をくらましたらしい」
「――そうか」
 細くため息を吐く音が聞こえた。彼の身の上を話すことで俺の心はざわめき始めたらしい。溢れ出る感情を片手で抑え、エダの肩に手を乗せた。
「エダ、教えてくれ。なぜ清明は苛まれる痛みを知っていたのに、俺やアニスをあんなにも苦しめたんだ? 虐待の恐ろしさを身に刻み込んで理解していたはずなのに、どうして何も知らない子供に対しそれを振りかざしてしまったんだ?」
 理由を知っていれば避けられると思った。頭で整頓して肝に銘じておけば繰り返さないで済むと思っていた。しかしそんなことは建前で、俺は彼の気持ちを知っておきたいと思ったんだ。いつも何かに苦しめられているようだった清明の感情は、きっと闇の底で暮らしていた俺にだって分かるものだと勝手に思い込んでいた。
「知っているからこそ、なんじゃねえの」
 やがて開かれたエダの考えがすっと頭の中に入ってくる。
「俺が初めて鞭を手に持って、目の前にいる大人を打った時――気持ち良さというか、達成感が身体じゅうに染み渡ったんだ。いろいろ考えてみたけど、その正体はおそらく自分と相手の立場が逆転したことにより得られる快感だと思った。今まで打たれる側だった俺が打つ側になり、打たれる痛みを知っているから相手の痛みも手に取るように分かる。それを自分で感じるとただ痛い、やめて欲しい、逃げ出したいって思うだけだけど、相手がそういったものを感じているんだろうと考えたら、驚くほどの快感が得られるんだ。これは俺の場合のみかもしれないけど、もしかしたらケキさんもそう感じていたのかもしれない」
 彼の意見は納得に値するものだった。痛みを知れば人は優しくなれるとよく聞くが、その逆もまた然りとは一体どのような皮肉だろう。だけど世界とはもはやそのようにできているのかもしれないと薄々感付いてはいた。この世は大きな天秤の形をしているように思えてくる。
「それと、もう一つ。こっちはお前も感じたことがあるかもしれないが、人間ってのは不思議なもので、痛みを自分から繰り返し求めてしまう生き物だ。あの人にとって男に襲われることではなくセックス自体が苦痛の根本となっているのなら、それを無意識のうちにリピートしようとしていたのかもしれない。思えば初めてあの人と会った時、俺はガチガチに緊張した相手を男娼としてもてなしたが、彼が俺の元へ至る道筋は彼自身が少なからずそれを望んでいたからに他ならなかったんだ。誰かに強要されたわけでもない、ケキさんは男に抱かれる為にわざわざあの場をうろついていたということ。少年時代に歪められた性癖って厄介なんだぜ。俺だって今でこそ普通の人間のように振る舞ってるけど、気に入らない奴を見かけるとついベルトで打ちたくなっちまう。お前だってそうだろ? ずっとレイプされてたおかげで、愛し合う為のセックスでも怖いんだろ?」
 だからこそケキと同じ道を辿りそうで不安だった。この不安が時を追うごとに薄くなり、目に見えるものではなくなった時に自分がどんな人間になっているのか、それを考えても暗闇があるだけで何も見えないことが常だった。強く善を保とうと考えていても、一寸先の時間など誰が手に入れられるというのだろう。俺がケキになる未来だって存在するかもしれないじゃないか。
「ま、それほど深く考えなくていいと思うぜ。案外別のところにきっかけがあったのかもしれないし、もしかすると俺が言ったこと全てが原因なのかもしれないしさ。あの人のことはあの人にしか分からない。それだってあの人は不器用だから、自分の辿った軌跡さえ忘れちまってるかもしれないけど」
「俺もなんとなく、あいつがああなった原因は他にもあるような気がするんだ」
 幼い頃の経験が身を滅ぼすこととなり、彼に近付く者もまた見えない力により掻き混ぜられていた。悲劇の連鎖を目の当たりにした俺はどんな言葉を発すればいいのか。その頂で仁王立ちする「悪者」は一体誰だったのか、それを追究すること自体が間違いだということは既に知っていた。だけどたとえそうだとしても、だったら俺はどうすればいいのか? 過去を垣間見て悪役を知ろうとも、彼が深すぎる傷を負っていることだけはどうあろうとも変えようがないのだから。
 理解があっても人は救われない。それなのに人を救う主要な条件として相手を知ることから始めねばならないのはおかしな話だった。俺はそこを難なく通り抜けてしまったが、あまりにも容易だった為か彼の気持ちが分からない。今まで聞いてきた言葉の全て、行動の全て、感情の全てを知りたいと感じ、手が届かないから余計に欲しくてたまらなくなっている。それは傲慢だと罵られるだろうか。彼を救う為の代価として求めているだけなんじゃないだろうか?
「ラザーラス、お前はケキさんとは違う。お前はあの人と違って、たくさんの人に愛されているんだ」
 エダは俺の目を見て言う。俺は彼の目を見つめてその裏にある意味を探ろうと焦る。それを見つける前にぽんと頭を撫でられた。優しい手つきで髪に触りながら、相手は穏やかな笑みを俺に与えてくれた。
「お前を愛してくれる人がいる限り、お前はもう間違わねえよ」
 ふっと相手の身体が近付き、額に小さな接吻を受けた。すぐに身体を離した相手を驚きつつも凝視してしまう。
「お前が間違いそうになったなら、俺たちが引っぱたいてでも止めてやるってことさ。頭の悪い弟を叱るのは兄の役目だからな」
「弟って、あんた」
「困ったことがあったら何でも兄ちゃんに相談するんだぞ、ラザー!」
 調子のいい相手は軽い口調でおどけるが、俺は今の名前で呼んでくれる相手のことが好きなのだとようやく気付いた。彼とはロイの頃に付き合いがほとんどなかったせいなのだろうけど、組織で生きていたことはお互いに知っているからこそ、俺がラザーラスであることを認めてくれているようで嬉しかったんだ。
 彼と知り合いになって良かったと思った。いいや、知り合いになっただけじゃなく、本物の家族みたいに話せるようになって救われたと感じた。俺の知らないことを教えてくれる彼は頼りになる。心配し甘やかすことだけが優しさではないことを実践してくれる彼は、密かな誇りとして俺の中に舞い降りているようだった。
「エダ、ありがとう。樹と話をしてくることにするよ」
「ああ」
 立ち上がって相手に会釈をする。彼の笑った顔が純白に思え、俺は後ろに引っ張られることなく彼の部屋から飛び立つことができた。

 

 

 長い廊下を一人で歩き、清明が眠っているはずの部屋へ辿り着く。息を押し殺して扉に耳を近付けてみたが、夜も遅くなったせいか誰かの声は聞こえてこなかった。それを確認して安心した俺は何も考えずに扉を開く。
 狭い部屋の中には三人が押し込められていた。清明が白いベッドの中で目を閉じ、彼の傍にある椅子の上で座ったままの樹がうたた寝をしている。そして同じくベッドの傍に置かれたもう一つの椅子の上は空っぽで、代わりに床に敷いた絨毯の上に腰を下ろしている幸助だけが俺の来訪に気付いて顔を上げた。彼がそこにいることは知っていたはずなのに、俺はどうしてだかひどく驚いてしまった。
「ラザーラス君、もう起きても大丈夫なのかい?」
「あ、はい――」
 動揺したまま敬語を吐き出してしまい、相手は少しだけ不思議そうな顔をした。それからゆっくりと立ち上がって傍に寄ってくる。
「樹君は疲れて眠ってしまったようだ。起こすのも可哀想だし、そっとしておいてやろう」
 首を下に垂れて動かない樹は幸助の言う通り眠っているようだった。俺は他の誰よりも彼と話がしたかったけれど、今は我慢しておこうと考え直した。だって彼を不機嫌にさせたり、怒らせたいわけじゃないんだから。もうつまらないことで喧嘩はしたくないんだ。
「それで、ラザーラス君。僕は君と少し話をしたいんだが、構わないかな」
 正面から頼みをぶつけられ、俺はなんとなく頷いてしまった。俺の肯定を見た相手はわずかに顔から緊張を消し、そのまま俺を部屋の外へと連れ出した。彼に誘導されつつ廊下を歩き、ヨウトとセレナが話し込んでいる広間へと足を運んだ。
「あれ、ロイってばエダさんの所に行ったんじゃなかったの? もしかして部屋を追い出されたとか?」
 コップの中に入った氷で遊んでいたヨウトがくるりと身体をこちらに向けてくる。彼の向かい側に座っているセレナは手元にあるコップを空にしていた。
「追い出されたわけじゃないけど、ちょっと席を外してくれないか。幸助と話がしたいんだ」
「そんなこと言ったって、僕の部屋はケキさんが占領しちゃってるじゃない。ここに居られないならどこへ行けばいいのさ」
 何気ないヨウトの言葉が俺の胸に鋭い傷を作った気がした。いいやおそらく俺以上に傷付けられたのは相手の方だったに違いなかった。だけど俺も相手もそのことに気付いていない。本心では知っているはずなのに、気付かないふりを巧妙に演じるすべを心得ているんだ。
「とりあえずエダの部屋にでも行けよ」
「えええ、やだやだエダさんってケダモノだもん! あんな怖い人と同じ部屋で寝るなんてやだ!」
「お前、あいつのことをどういう目で見てるんだよ」
 ヨウトは散々嫌だと喚き散らしていたが、俺がしつこく頼むと渋々ながらもエダの部屋に向かってくれた。ついでに眠そうに目をこするセレナもヨウトについて廊下へ行き、やっとのことで幸助と二人きりになることができた。一つ息を吐いて落ち着いた俺は椅子に座り、幸助もまた俺の前の席に腰を下ろした。
「それで、話って?」
「清明と君たちとの関係を教えて欲しい。そしてあの場所のことも」
 相手の顔が蝋燭に照らされて赤く染められていた。炎がちらつくせいでその輪郭はなかなか定まらない。
「――あいつは俺の元上司だった。もっとも俺はあの組織から抜け出したから、今は何の関係もないけれど」
「その組織で君たちは一体何を?」
「犯罪」
 目をそらさず相手の顔を見ていた。だからこそ表情の微塵な変化にも気付くことができる。俺は平静を装った大人の顔にしわが一つ増える様をはっきりと見て取った。
「まさか、君みたいな若い子がどんな犯罪をしていたんだ」
「泥棒と人殺し。上からの命令に従って何百人もの人間を不幸にしてきた。あんたらの世界じゃ考えられないことかもしれないけど」
「それは、分かった……じゃあ、清明も君と一緒になって犯罪を?」
「そうだな。ただあいつはあまり組織から外に出なかった。立場としてはトップから二番目だったし、どちらかというと命令を下す方が多かったから」
 相手の目に映った炎が綺麗だった。俺はもうそれだけを見ていようと思ったけれど、一つのものだけを抱え他を捨てることは難しすぎて叶わない願いに他ならない。
「清明はなぜ、そんな組織なんかに……」
 呟きのような小さな声を漏らし、幸助は俺から目線をそらして俯いた。彼の頭の中にはもはや清明の姿しかないのだろう。それを淋しいとは感じないが、俺が口を挟むべき問題でもない。
「あいつだって初めて会った頃はあんな感じじゃなかったんだ。まだ若かった時は夢に燃えてて、一緒にいろんな所を見て回って――どんな時でも前向きな彼に俺も助けられていたんだ。だけどある時を境としてあいつはすっかり変わってしまった。何もかもに絶望して、笑う姿を見ることがなくなってしまった」
 彼とヤウラと三人でたくさんの町を行き来していた。大声で夢を語る彼を馬鹿にしながらも、彼の理想に惹きつけられている自分がそこにいた。振り返るとあの頃の俺は楽しかったのかもしれない。何も変わることもなく、ずっとあんな時間が続いていくと思い込んでいたのかもしれない。
 変わらぬものなどない。この世が時と空間に支配されている限り、全てのものは無常を強要されるから。だからこそ人は永遠に憧れるのかもしれない。
「あいつ、突然名前を変えたんだ。それまでは見城清明と名乗っていたのに、こっちの世界に慣れる為だとか言ってケキと名乗るようになった。笑うことはなくなったけど、組織の中でティナアって女性と仲が良くなっていたらしくて、いつの間にかティナアが妊娠していた。その頃になるとケキも少しは笑うようになっていて、二人は遠目から見ても幸せそうだった」
「妊娠って、清明は父親になっていたのか?」
「え、そうだけど――」
 それまで目を下に向けていた幸助が噛みつくように俺の顔を見てくる。何をそんなに驚いているのかは分からないが、こんな反応であっても俺にとっては小さな救いとなっていた。
「じゃあ、清明とそのティナアさんの子供は?」
「悪い環境だったけど無事に産まれたらしい。名前はアニスといって、ケキと同じ黒髪の女の子だった。だけどケキにとっての幸せはそれまでで、どうしてだかそれからティナアがケキを避けるようになったんだ。子供のことも放って子育てさえせず、仕方がないからケキが一人でアニスを育てていたらしい。俺もその頃のことはよく知らないけど、あいつの部屋に行くといつも赤ん坊を抱いて慌てふためいてたことを覚えてる。だけどしばらくすると部屋から子供が消えていたんだ。ケキに聞いても何も答えなかったから、子育てに失敗でもして死んだのかと勝手に思っていた」
 そう思わせるほどあの頃のケキは暗い顔をしていた。この世の絶望を全て舐め尽したような顔をしていて、他者の心をえぐる罪を知らぬロイでさえ踏み入ってはならぬ領域があることに感付いたほどだった。ただそれでもロイは相手に憐れみなど抱かなかった。自分と相手とを全く異なる生物として認識し、道端に落ちている小石程度にしか思っていなかったのかもしれない。
「俺がケキの子供のことを忘れていた頃、組織から離れた位置にある図書館を訪れた。そこで一人で暮らしていた少女がアニスだったが、初めて会った時は彼女がそうだとは気付かないままだった。子供と距離を置いたケキはどういうわけだか――俺を抱くようになっていて、でもその頃はまだ優しかったんだ」
「待ってくれ、それは」
 相手が机の上に手を置いたせいで小さな音が広間に流れた。ぐいと顔を近付けてきた幸助は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「……それは、清明の方から君を誘ったということか?」
「当たり前だろ、それまで俺はそんなことをした経験なんかない子供だったんだから。当時の俺の年齢を教えてやろうか?」
「いや、いい――分かったから、続けてくれ」
 当然のことながら、あの頃の自分の年齢など覚えていなかった。ただロイの身体は確かに子供であり青年ではなかった。それを欲しがった清明の姿を幸助は直視することができないのだろうか。抱き締めるには知ることが重要なのに、彼はまだ事実に怯えて隠れようとしているんじゃないのだろうか。
「それから俺はアニスと知り合いになったんだ。たまたまアニスが大人に苛められている場面を見て、頭に来て彼女を助けたことがきっかけだった。アニスはとても優しい人で、父であるケキのことを心配していたらしく、時々会いに来てくれるけどいつも元気がないと話していた。そうやって俺は事あるごとにアニスに会いに行っていたが、それがケキの気に障ったのか、今度はあいつに無理矢理襲われるようになった。それはセックスというよりも単なる暴力で、アニスとは会うなと言って俺を殴ってきた。俺はあいつに抱かれるのが嫌だったけど、アニスもまたケキに襲われていることを知って更にあいつが怖くなったんだ」
 彼が暴力や暴言を振りかざすまでは彼との行為を受け入れている自分がいた。だけど相手が怒って俺を見るようになってからは、彼との行為ではなく性行為そのものが嫌になってずっとそれから逃げ続けていた。愛されること、セックスは怖いことで、不健全でだらしないことだと考えるようになった。その感情が今まで俺の底にあり、だから愛する人との交わりでも嫌悪を隠すことができない。それでも身体を求めてしまうことに酷い苛立ちを覚えることもあった。
「どうしてあいつが俺を叱って、アニスまでをも苦しめるようになったのか、そればかりは俺には分からない。ただその苦痛が積もってアニスは耐えられなくなり、死ぬことで救われる道を選ぶこととなってしまった。でも彼女が死んでもケキは変わらなかった。あいつは俺が組織を抜け出すまで怒鳴り続けてきたんだ」
 幸助は両手で頭を抱えている。彼の目が暗闇の中に沈んでいてよく見えなかった。ただ赤い炎は彼の姿をくっきりと浮き出している。
「そこまで傷付けられたのなら、君は清明のことを恨んでいるだろう? それなのになぜ彼のことを友達だなんて言ったんだ」
「……恨んでる? 別に俺は、そんなこと」
 正直な気持ちを口にすると、相手は勢いよく顔を上げた。彼の双眸は驚愕の色を示しており、逆にこちらが驚かされることとなってしまう。
「恨んでいないのか、君は? ずっと清明に酷いことをされていたんだろ?」
「それは確かにそうだけど、恨むべき要因なんてないじゃないか。あいつは機嫌のいい時は普通に話せる相手だったんだ、地べたを這いずり回っていた連中と比べると好きな部類だったほどだし」
「しかし、君――」
 依然として変わらぬ表情を見せつけられ、俺は好奇の目で見られていることに気付く。また俺は世間から捨てられた子のようにおかしな常識を掲げてしまったのだろうか。普通の生活をしていた人間なら、ケキのことを恨まなければならないとでもいうのだろうか?
 だけどどうして恨まなければならないのか、いくら考えてもやはり俺には分からなかった。彼によって築かれたトラウマは俺の大部分を支配したが、それでもあの環境と境遇とが招いた悲劇だとして、俺が彼個人を責める権利を持つわけでもない。現に俺は彼を救いたいとさえ思っているのに、本当は彼を見捨てることが正解だと幸助は考えているのだろうか。だとしたら人間とは俺の想像以上に醜い生命なのかもしれない。それでも分かっていることが一つあるとすれば、幸助は本気で俺がケキを恨んでいないことを喜んでいるということだろうか。
「清明をそんな人間にしてしまったのは僕のせいでもある。だから僕は清明を更生させたい。一筋縄じゃいかないことも分かったけれど、それでも諦めたくはないんだ」
「俺も、同じ気持ちだよ」
 閉じられたまま置かれていた相手の手に自分のものを重ねる。それは熱を帯びてあたたかくなっていた。互いに目線を交わして確かめ合った。そしてこれまでケキに対し興味を持たなかった俺にだって、あいつをあんなふうにした責任があるのだと気が付いた。

 

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 消えぬ思い出を抱えながら目を覚まし、すっかり固まって重い身体を起き上がらせる。俺は幸助と共に広間の床に寝転んで朝を迎えていた。エダの部屋は満員だろうし、ヨウトの部屋に戻ったなら樹を起こしてしまうかもしれなくて、結局居場所を失った俺たちはベッドのない部屋で休息しなければならなかったのだ。俺が起き上がると幸助も目を覚ましたらしく、素早い動作で床の上にしっかりと立った。
「おはよう、ラザーラス君」
「ああ」
 短い挨拶を交わしてから洗面所へ向かう。ゴミの一つさえ見当たらない鏡を覗き込んでから水で顔を洗い、誰の物か分からない櫛で髪を梳いた。髪の形に満足したなら広間へ戻り、俺がいない間に起きたのだろうセレナと挨拶を交わす。朝食の準備をする彼女を手伝いながら俺はケキのことを考えていた。
 朝食が出来上がってから広間に現れたエダとヨウトを適当にもてなし、狭い机を大勢で囲む食卓が作られた。ヨウトの料理に比べ清潔そうな朝食を口に運びつつ、ふとこの場に樹が来ていないことに気付く。唐突に心配で落ち着かなくなり、早めに食事を切り上げてヨウトの部屋へ急いで向かった。
 部屋の扉はきちんと閉められており、耳を澄ませても中で誰かが動いている気配はない。俺はとりあえず一度だけノックをした。それでも返事がなく、仕方がないので了承を得ないまま中に入り込む。
 樹は椅子に座ったまま目を閉じていた。その隣でベッドに入っているケキは目を覚まして身体を起こしていた。何をするでもなくじっとしており、扉を開けて部屋に入った俺の方へと注意を向けているようだった。
「起きてるんならベッドから出ろよ」
 確かめるように声をかけてみるが、相手はまばたきをするだけでとても静かだった。だから俺は警戒を解き、ゆっくりと彼との距離を縮めていく。
「ロイ。お前は言っていたな、頼みを聞いて欲しいと。その頼みってのを言ってみろ」
 樹を起こさないよう気を遣っているのか、相手はとても小さな声でひそひそと話していた。それでも俺にちゃんと聞こえる声量で喋り、やはり彼は大人なのだと感じた。相手に息が降りかかる所まで近付くと足を止める。
「あの組織を壊そうと思ってる。正確に言えば、あの人を警察に連れ込もうと考えてるんだ。その為にあんたには、ティナアのことを頼もうと思ってたんだ」
「だったらなぜ幸助を連れてきた? あいつは関係ないはずだろう」
「――あんたの昔話を教えてもらったんだ。その代価として、あんたと会いたいってことだったから」
 長く深い息を彼は吐く。少しのあいだ目を伏せ、それを開いた時には俺の姿を見ていなかった。口の中で誰にも聞こえない言葉を言い、もう一度向けられた視線はいつもよりもずっと穏やかだったように思えた。
「ケキ、怒ってる?」
「当たり前だ。人の過去を勝手にばらされて、いい迷惑だ。だけどお前の計画には手を貸してやるよ」
 思いがけない台詞が飛び出し、俺は声が出なくなってしまった。この耳が幻聴を捉えたのかとさえ思え、彼に確認の言葉をかけることすらできなくなっている。そんな様子を眺めているケキはいつになく冷静で、俺は余計に困惑して何が起こっているのか分からなかった。
「なんだよお前、協力してやるって言ってるのに嬉しくないのか」
「え、だ、だって――あんたは断ると思ってたから」
 頭で整理されていない声だけが喉の奥から放出されていた。そうしてはならないと教えられた男を相手に、俺は彼の望みを壊す形で自分の輪郭を理解する。
「確かにあの組織だけが俺の居場所だったわけだし、俺がそこにしがみついていないと言ったら嘘になる。あの組織は俺にとって都合のいい場所だった。けど俺はずっと、あそこに縛られるようになってから毎日、クトダムのことを憎んでいた。あいつの存在を消してやりたいくらいに途方もなく憎み続けていたんだ!」
 彼は突然ズボンのポケットから銀色に光るナイフを取り出した。それを器用に振りかざし、自身の太ももに深く突き刺す。
 ベッドに赤い血がじわりと滲んだ。彼の行動は狂気としか思えない。
「だってあんたはあの人に贔屓されてたじゃないか、あの人はあんたのことを好きだって言ってたんだぞ」
「その贔屓ってやつがどんなものだったのか、お前は何も知らないからそんなことが言えるんだ。奴は人間じゃない、幼女趣味の下衆親父よりも意地汚い、この世で最も腐った野郎だ! あいつが何をしたか教えてやろうか――」
 ぐいと胸ぐらを掴まれ、相手の顔が大きくなった。バランスを崩した俺の身体は彼の胸元へ倒れ込んでしまうが、それを直している余裕などどこかに置き忘れてしまっていた。
 彼が怖い。彼自身が怖いんじゃない。彼の口から吐き出される事実が怖い。知りたくないことを知ってしまう前兆を感じ、俺は両手で耳を塞ぎたくなっていた。だけどそれはできなかった。色のついた映像に背を向けている場合じゃないと分かっているから、何が飛び出そうとも俺はそれを平気な顔して見ていなければならなかったんだ!
 ベッドに染みていた血が俺の服を汚した。相手の大きな手の中には痛みを切り裂く刃が握られている。それは簡単に俺の首をはねてしまうだろう。ただ力を込めて握り締めた手は微かに震えており、彼の意思がそこにはないことが目に見えて分かってしまった。
「あいつは、クトダムは、毎日と言っていいほど俺につきまとってきやがるんだ。さっさと抵抗を捨てて他の連中と同じように堕落して欲しいから、俺に絶望を与えることばかり考えついてそれをすぐさま実行してくる。勝手に記憶を消されたり、おかしな薬を飲まされたり、恐ろしい世界の絵を見せられたりして、俺は頭がどうかしてしまいそうだった! 極めつけにあいつはアニスにも手を出しやがった! アニスがなぜあの図書館にいたと思う? なぜあの子が精霊になり、一方的に傷付けられていたと思う? 全部あいつの命令だ、何もかも全部、全部! アニスはあの男によって命を奪われたんだ、畜生!」
 大きな音が響いたかと思うと、相手の手が質素なベッドを叩きつけていた。はっとして首を横に捻ると驚いた顔の樹がこちらを見ていた。
「アニスを殺したのは俺だよ、ケキ。彼女に頼まれたから」
「違うんだ! お前に罪はないんだよ、あれは、お前が考えているような話じゃなかった!」
「どういうことだ、何が違うんだ!」
 わけが分からない。俺の知る事実が粉々に砕かれ始めていた。今まで信じてきたものに裏切られる気分とはこのようなものなんだろう。頭を左右に大きく振る相手の肩に手を置き、彼だけが知る物語を導き出そうと俺は更に言葉を重ねた。
「教えてくれ、あんたは何を知ってるんだ」
「クトダムは人の記憶を操作することができるんだ。だから奴はアニスに恐ろしい記憶を与えた。それは父親である俺が彼女に死ぬよう命令した記憶で――あの子はそれを実行してしまった! 俺は全てが終わった後からあの男に聞かされた。あの男は笑いながら話してきて……だけどもう遅かった。その時アニスは俺の手が届かない所にいたんだ」
「う、嘘だ」
 俺の口が信じられないと言う。そう言うことによって目の前の壁を掻き消そうと奮闘している。
「だってアニスは、あんたの暴力に耐えられないから殺して欲しいって――」
「お前にそう言うよう命令した記憶を作ったんだよ、お前をあの子の死で永遠に縛ることができるように!」
「じゃあ彼女がいつもあんたに怯えていたのは、それもあの人に作られた嘘の記憶が原因だったとでも言うのかよ!」
「それは、違う――あれは俺の責任だ。感情と誘惑に負けてクトダムの言う通りにお前やアニスを抱いてしまった、脆弱で下卑た俺が一方的に悪かったんだ」
 彼の口はおかしなことばかりを言う。まっさらな世界を薄汚れた紙で埋め尽くすような、俺の足元に広がっていた事実を惜しげもなくさらしてくれる。
「――嘘だ」
 あの頃の苦しみの色が見えない。俺が彼に教え込まれた痛みや愛は一体何だったのか。アニスが死ななければならなかったという必然性はなぜ生じなければならなかったのか。あの人の仕業だって? 俺の前にいる男は押し潰された生命だったって? 人間の弱さを罪と呼ばないことが真実ならば、この悲劇の価値は一体どれほどのものなのか――。
 彼の悲しみと頑張りが必要以上に理解できてしまった。幼い頃の義父による虐待と、大人になってからの子供を使われた苦しみ。彼が弱い生命だった? 彼は意地汚い欲にまみれた大人だっただって?
 違っていた。彼は俺を抱くことにより、逃げ場を作ろうとしていたんだ。過去の自分を抵抗できないロイの姿と重ね合わせ、彼の行動を自分の理想として実現する為に俺を苛むように抱いていたんだ。どこにも逃げることのできなかった彼にはその方法しか残された道がなかった。そして俺が彼からの逃走に失敗ばかりしていたから、彼は余計に苦しくて怒るようになったんだ。
 彼にとっての快楽とは苦痛にしかならないのか。彼にとっての愛とは肉体関係でしかなかったのか。だからアニスを愛する手段を間違えた。そうしてアニスのわずかな嫌悪感を知った彼は、更に追い詰められて歯止めが利かなくなってしまう。その感情がそのままロイにぶつけられる。ますます恐れ震えているロイは逃げ切ることに失敗する。それが彼を苛々させ、理想が遠のくビジョンに焦り始める。だけどアニスを愛していたからまた彼女のことを抱きたくなる。
 中毒のようだったのだろう。抜け出せなくなった迷路は深すぎて、彼を助けるには外から手を差し伸べるか、あるいは彼から全てを奪ってしまうかという二択に限られていたんだ。時の流れが選んだ籤は後者だった。アニスとロイを失った彼は誰を怒鳴ることもない、エダが言っていたようにだらしのない腑抜けになってしまっていたんだ。
 ただ誰も彼を責めることはできなかっただろう。俺だって彼に責任を押し付けることはできない。だって彼は一人だったんだ。子供の頃からずっと一人で、周りの人は誰も彼を助けられなかったから。
 ロイに自身を投影し、理想を夢見て抱いていた本当の原因は、誰も彼を助けようとしなかったからではないだろうか。もし彼が自分自身を救おうとあんな行動に出たというのなら、彼が絶望の中で編み出した答えが自分でしか自分を救えないというものだったのだとしたら、俺はなんと馬鹿なことをしてしまったのだろう――誰も助けてくれなかったから自分で自分を助けようと必死になっていた彼を、俺は一体どんな目で見続けていたのだろう! いいや! 今更後悔しようとあの頃気付いていようと、それは何にもならない紙の上だけの感情にすぎない。彼は悪くなかったし、俺もまた悪くなかったんだ。彼は被害者でありながら加害者であり、俺も同様に被害者面をしながら加害者として生きていたんだから。
 ただ一つだけ感じるものがあるとしたら、それは何よりも純粋な真っ白の感情だったんだろう。
「可哀想――」
 いつの間にか溢れていた涙が頬の上を滑り、俺は一人の人間に同情していた。それを具現化するかのように彼を抱き締める。
「ロイ、何を」
「あんたも、アニスも、可哀想だ。今はそれを深く感じて……気付いてあげられなくてごめん」
 それは彼が話した物語を全て信じるという行為に他ならなかった。彼の知るあの人と俺の見ていたクトダム様を同一人物として認めることを示していた。心の底では彼を信じようとする俺を叱る自分も存在していた。だけど俺は負の感情よりも信頼できる人を作りたくて、見城清明がケキとして生きた道筋をありのまま受け入れようと考えた。
 そうやって彼の話を聞いた時、俺の中に湧き出たものは彼を憐み助けてやりたいという同情と名付けられた感情だった。熱が冷めれば離れてしまうとても冷たく薄情なものであるはずなのに、俺にはそれを隠すことができないほど強く根付いてしまっている。そして自身の内面から外側へと放たれたことにより、それもまた愛情の一種なのだと気が付いたように感じられた。理屈では分かっていたことだけど、自分の中から生まれた思いは正直で、俺の意識と魂とに直接囁きかけてくれている。ただそれはとても静かだった。美しい小川が新緑の間を流れるように、広大な青空の海を白い雲が悠々と泳ぐように、音もない隔絶された空間で祈りのような理解が施される。穏やかさと確かに潜んでいる苦しみとを肌で感じながら、俺は相手の身体を抱き締め続けていた。
「ティナアさんと話をしてくる。おそらくあの人は俺のことを見てくれないだろうけど」
「一緒に行くよ。あんたのこと、見ててやるから」
「……」
 声にならない言葉が彼の喉から聞こえた気がした。それでも何も聞くことができなくて、彼と俺は違う個体なのだということをひしひしと感じた。だけど今はそれが心地いい。
「それから、俺はもうロイじゃないよ。ラザーラスっていうんだ。あんたにはそう呼んで欲しい」
「知ってる」
 誰も彼を救うことができなかったのなら、俺がその人になる努力をしよう。誰も彼に手を差し伸べなかったのなら、俺が彼から伸ばされた手を掴もう。そして一緒に歩いていくんだ。お互いに傷付け合うことばかりだったけど、今度はきっとうまくいくから。
 彼の姿も感情の形も、俺の内側にあるものとよく似ている。
 もともと恨んでいたわけじゃないけど、許せないところはあった。アニスを苦しめたこと、弱い自分に負けたこと、俺をいいように使ったことは褒められることじゃない。だけどなぜ彼を裁くことができるだろう? 彼がそれを望んでいなかったとすれば、彼の罪は一体どこにあるのだろうか? 俺は許そうと思う。彼の無知と無力と狂気を、最大限の敬意をもって許そうと思った。
 負の感情のぶつけ合いはもう終わりにしなければならない。それを教えてくれた人の為にも、俺は相手の大きな手をきゅっと握った。
「行こう」
 ぱっと差し込んだ光が彼の顔を照らした。それがあまりにも眩しく見えて、俺は彼の胸の中へ飛び込みたくなっていた。……

 

 

 懐かしい景色が俺の鼓動を落ち着かせた。そこは一面の緑に囲まれ、たった一つ淋しげに浮かぶ赤い屋根が人間の気配を感じさせる。誰も住んでいないはずの家の傍には狭い畑があり、だけどもう触れる者はいないから荒れ放題になっていた。
 一歩一歩が軽いのか重いのかさえ分からず、だけど確実に前進しながら昔のことを思い出す。この場所へ向かって駆けたあの日はよく晴れた昼過ぎだったと記憶していた。二人の幼い子供たちが陽気にはしゃぎ、彼らを見守る優しい母親がいる。そんな絵画を微塵に砕き踏みつけた悪魔は自分自身だった。宝を奪われ悲しみに身を売った母親は崩れ落ちるしかない。今でもあの二人を忘れぬようにする為か、彼女は今でも定期的にこの場所へ足を向けているようだった。
 ケキの言葉に従って組織ではないここへ来てみたなら、彼が会うべきティナアは家の傍に立っていた。吸い込まれるような青空を見上げて立ち竦んでいるように見える。
「あの人は一週間に一度はここへ来るんだ。それに時間もきっちり決まってる。だから分かったんだ」
 彼女の姿を遠くから眺めつつケキは憂いを帯びた声を漏らした。風に吹かれるだけで崩れそうなそれはティナアの耳に届くはずがない。でも俺は届けばいいと思った。彼の言葉が一つでも彼女の心に突き刺さるよう祈っていたんだ。
 目で合図を受け、俺が頷くとケキは一歩ずつ丁寧に歩き出した。俺は彼の背を追って足を動かし、俺の後ろからは少し距離を開けて樹と幸助の二人がついてきたようだった。その陣形を崩さぬよう機械的な行進がしばらく続く。
 風が草を撫でる音と靴が大地を踏みしめる音、そして自分たちが息を吐く音だけが彼方まで木霊し、ティナアの傍に辿り着く前に彼女の方からこちらへ振り返ってきた。彼女はしっかりと瞳を開き、閉ざされた唇には様々な思いが彩られていた。だけど彼女が貫く視線の先にあるのは俺の前を行くケキの姿ではない。
「ティナアさん」
「何しに来たの」
 腕を組み、ケキの言葉を自身の声で書き消した。ケキは立ち止まってその場から動かなくなる。それでもティナアは俺を睨みつけていた。ケキの姿など最初から見えていなかったかのような眼をしていた。
「そんなに大勢をぞろぞろと引きつれて、私を笑いに来たの? 本当に最低なガキだわ、あんたは!」
「ティナアさん、俺の話を聞いてくれ!」
 俺は口出ししないようにと頼まれていた。だからぐっと思いをこらえ、はみ出さないように手のひらを力を込めて握り締める。
「あんたの理由なんて何だっていい。とにかく、今すぐ帰って」
「ティナアさん!」
 黒髪の男はティナアとの距離を詰め、両手で彼女の肩を掴んだ。そのまま顔も近付けて息が直接降りかかるまで傍に寄る。
「俺のことを見てくれ、ティナアさん!」
 ティナアはケキの手を振り払った。彼女の瞳にケキの姿が映っていた。
「あなたと話すことなんて何もないわ」
「いや、たくさんある。たくさん話さなければならないんだ、俺とあなたは。ずっと口を閉ざしてきたけど話し合わねばならなかったんだ。知っているか、ティナアさん。アニスはもう死んだんだ」
 落ち着いた様子で喋るケキを前にしても、ティナアは何も答えない。それでも彼女は逃げもしないし目をそらしもしなかった。黙って大人しくケキの話を聞こうとしているようだった。
「俺はあなたと出会って、あなたと共に過ごす日々を得て、自分が生まれ変われるものと信じて疑わなかった。今まで失敗ばかりして不幸なことしか経験しなかったけど、あなたと一緒なら新しくやり直せると、憧れていた幸せに届くと感じていたんだ。あなただって一度は俺と同じ思いを持っていたはず。あなたと心が通じ合った瞬間を俺はまだ覚えているよ。目が合っただけでお互いの考えが分かった気がしていた。声に出さなくとも肌に触れるだけであなたの全てを知った気がしていた。そうやって作られるはずだった安堵が、アニスがこの世の空気を吸った時に奪われてしまったというのなら、俺はあなたを責めなければならないのだろう。だけど――たった一つでいい、あなたに認めて欲しいことがあるだけだ。どうかお願いだから、ティナアさん、アニスの母親になってくれ。俺じゃ駄目だったんだ、あの子には本物の母親が必要なんだ! それはティナアさん、あなたにしかできない役割だ。あなた以外の人間があの子の母になることはできない!」
「あんな子、私の子供じゃないわ」
 幾本もの棘に守られた声がケキを真正面から貫く。後ろに立っているから彼の表情の変化は分からない。ティナアはずっと顔を変えていなかった。彼女が望むことをケキは知らなさすぎたのかもしれない。もっとも、それを知ったところであの螺旋は形を変えなかっただろうけど。
「どうして、ティナアさん――アニスを見てくれないんですか! 子供にはどうしても母が必要なんです、子供が縋ることのできる唯一の存在が母なんです! 母がなければ子は生きていけない、だからアニスは最後まで生きられなかった! お願いです、ティナアさん、たった一度でいい。一度きりで構わないから、あの子の母親になってください」
 大人が頭を下げていた。きちんとした動作で身体を曲げ、一人の女性に向かって淡い願いを口にしている。それを叶えられるはずのティナアはやはり黙っていた。彼女が見るものとケキが見るものはどうしてこんなにも違っているのだろう。
 ティナアの目に映る子供の姿は、いくら時が流れようと二人以上になることはない。少なくともこの景色にはそう思わせる効果が強く出ていた。彼女が今でもこの場所に縛られている理由を知らないケキではなかっただろうけど、他の誰よりもそれを深く感じる彼だから理解できないのではないだろうか。彼女をここに留まらせる思い出を破壊しない限り、おそらくティナアはアニスやケキを家族として認めることはないだろう。
 風だけが喋っていた。相手の赤い髪がなびき、さらさらと心地の良いメロディが奏でられる。
「やはり、母になってはくれませんか」
 縮こまった彼の身体がくずおれた。膝を緑の上に乗せ、両手で上半身を辛うじて支えている。俺は何かにはっとして口を開こうとした。だけど言うべき言葉を見失ってしまい、小さくなっているケキの姿を見下ろすことしかできない。
「そうだ。やはりそうなんだ。誰もなろうとしない……即ちそれは、こういうことだったんだ。はは、ははは……」
 笑い声が円を描き広がっていく。それが狂気めいていることは分かっていたが、何を意味しているかなど考えることができなかった。俺は彼の傍でしゃがみ込んだ。そうして何か言葉をかけようと思ったけど、彼の笑い声を聞いていると無意識のうちに喉の奥に蓋をしてしまっていた。だけど決してそこからは離れまいと覚悟を決める。
「守らなければ、約束――あの人が望んだ、指きりの約束を。ああ! 真もアニスも俺の子だ、俺の子供だから、俺が守らなければ!」
「ケキ、あんたが一人で頑張らなくても……よかったんだ」
 月並みな慰めなど彼には届かないだろう。部外者である自分の言葉など信用してはくれないだろう。迷いを断ち切れぬまま放った声は草原を越えてどこか遠くの方へ消えてしまった。そして彼は独り言のように彼だけが知る言葉を呟くだけ。
「二人は、俺の子だから俺が守るんだ。そんなこと当然だろ? 俺は当り前のことをしてきた。アニスを、真を守って、あいつから毎晩違う愛を受け取って――身体が壊される、心が凍りつく、頭がおかしくなる。ああ! お母さん! ぼくの、ぼくの身体を見ないでください! こんな汚れた身体は、あなたの理想には相応しくない! でも見てください、綺麗でしょう? この身体を使ってあの男を釣るんです、簡単に釣ることができるんです、ぼくの身体は都合がいいから! だからぼくはあなたの大事なあの子を守ることができました。ぼくの守りを必要としなくなったあの子はぼくから離れ、ぼくを憎むことでぼくに対する依存を断ち切ることができたのです」
 ケキは確かに喋っていた。彼が語りかける相手はティナアだった。彼の目には彼女が自分の母親として映っているのだろうか。だとすれば、彼の独白が母の前に暴露され、そして母は何を思うのだろう。母は彼の何を見ていたのだろう。
「お母さん、あなたはぼくに言いました。私に代わってあの子を守ってと幼いぼくに言いました。ぼくはあなたとの約束を守り続けてきました。それを達成することができました。だけどぼくが親になった時、その約束がまだ続いていることに気付いたのです。ぼくが守るべき存在は妹だけではなかったのです。娘を守らなければならなかったのです。そして娘には母がありませんでした。ぼくは再び同じ存在になりました。だけど、それはできませんでした。ぼくはあなたの理想に押し潰されてしまいました。お母さん、お母さん。ぼくはやはり「それ」にはなれません。あの子を貫く鋭さと、全てを包み込む許容を、大人ではないぼくでは持ち合わせていないのです」
 ゆっくりと頭を下げ、それは緑を押し潰して地面にまで到達した。
「お母さん、ぼくは――」
 懺悔をしているかのように、ケキはティナアに向かって土下座をする。
「ぼくは「母」にはなれません。ぼくでは「母」になれません! ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい! ああ、ごめんなさい、ごめんなさい――!」
 涙が零れていた。緑の葉っぱにぽろぽろと落ち、滑った先の地面に吸収される。
 視界が滲んで何も見えなくなってしまう前に手の甲で目元を拭った。熱いものが目の奥から溢れてきて、その熱がそのまま自分の手でも感じられた。頭を下げて懺悔を続けるケキをティナアはじっと見下ろしていた。ただ彼女の顔に大きな歪みが生じ、かすかに震える唇が何かを紡ぎ出そうと動いている様が見えていた。
「もう、いい」
 風に消されそうなほど小さな声は、確かにティナアの口から吐き出されていた。だけどケキの独白は続く。彼の口からはとめどない謝罪の言葉だけが繰り返し作られていく。
「もういい、もう分かった。あなたの気持ちは分かったから」
 強い口調とは裏腹に、彼女の瞳には戸惑いともう一つの感情がくっきりと浮かんでいた。それは誰が見ても分かるくらいに鮮やかだ。
「もう、いいから。分かったから。だから、だから――」
 彼女はきゅっと唇を噛んだ。両手の手のひらを握り締め、動かない身体を呪っているかのように全身を震わせている。しかしながら彼女の声は綺麗だった。叫ぶことも喚くことも忘れた声は、生まれたばかりの子供のように美しい音色を奏でていた。
「顔を上げてよ、お願いだから……」
 彼女の厚い殻は破り捨てられ、見えた素肌では感情が剥き出しになる。
 それでも「肯定」できないティナアは、最後まで汚れたケキの手を握ることは決してなかった。

 

 

 ティナアはもう組織には戻らないと言い残し、どこかへ向かって去っていった。彼女がどこへ向かったのか知る方法はなく、ケキは意識を失っていたので彼女を追うことはできなかった。居場所を失ったケキの面倒は幸助が見ると約束した。その為にも一度彼の家へ赴き、ケキが目覚めるまではそっとしておこうということになった。
 エダたちに一応の挨拶をしに彼らの家へ戻り、それから俺は樹と共に日本に帰ってきた。幸助の家へ寄った帰りに二人で散歩に出かけ、あてもなく四方に伸びる道を何気なしに歩いていた。それを始めた時は昼だったはずなのに、いつしか太陽は隠れる準備を進め、世界は美しいオレンジ色に染められる。俺と樹は少しの車が通る橋の上を歩いていた。
「綺麗な夕日だな」
 俺は立ち止まり、樹に向かって正直な感想を述べる。水面に映された夕日がきらきらと光っており、その景色はひたすらに美しい。
「うん」
 少し遅れて返事が聞こえ、俺は彼の顔を振り返って眺めた。彼はまっすぐ夕日を見つめていた。そっと橋の手すりに両手を乗せ、背中を伸ばして遠くにある沈みかけた太陽だけを見つめている。俺は片手をズボンのポケットに突っ込んでそれを見た。
 彼が何を考えているのか肌に触れるだけで分かればいいのにと思うけれど、その一方で俺は彼の感情が分からなくてよかったとも感じていた。もし深く繋がり合うことで互いの何もかもが赤裸々に映し出されるのなら、俺はきっと清明の感情の渦に飲み込まれたまま脱出することができなかっただろう。人間は一つ一つの点であるからこそ生きられるのだと感じる。そしておそらく大昔には、それらはたった一つきりの生命だったのだろうと思った。
「ラザー」
 再び夕日から樹の顔へと視線を戻す。彼は身体をこちらに向け、穏やかだけど陰を帯びた美しい表情をしていた。
「今夜はラザーの部屋に泊まってもいいかな」
「どうしたんだ、突然」
「なんだか離れたくなくて」
 俺の為を思って遠ざかったはずなのに、彼は自ら元に戻そうとしていた。決定権を持つ俺はそれでも選択肢を与えられていない心地だった。彼の中に静かな騒音を感じる。この世の全てがここで止まってしまえばいいと思った。
「じゃあ、帰るか」
 流れる景色を見つめながら、俺は止めていた足を動かした。自分の影を踏むように一歩を踏み出して進んでいく。数歩だけ歩いてから風の匂いに気付き、ふと振り返って樹の姿を夕焼けの中に探した。彼は同じ場所に立って変わらぬ表情で俺の姿をじっと見つめていた。
「早く来いよ、樹」
 彼の名を呼ぶと口元が穏やかになる。小さな音の群れが大海原より深い安堵を与え、音の連なりが身体じゅうを優しく解きほぐしていく。樹はゆっくりと歩き出した。彼の肩がすぐ傍まで近寄り、だけど俺はもうそれには触れずに前を向く。
 多くの事柄に取り巻かれ、無論俺は疲れていたのだろう。俺だけじゃなくエダやケキも疲れ果てていたのだろう。だけどただそれだけだ。まだ俺たちは確実に呼吸をし続けている。
 だから必ず手に入れる。立ち止まっていた時間を踏み倒すほどの勢いで、俺たちは殻の外へと飛び立っていかなければ。これまでの罪を贖う時がすぐ傍まで迫っているんだ。被害者となった人々の瞳は話を始め、俺たちは彼らの音のない声を聞く準備をしよう。手を伸ばせば彼らに触れられることにようやく気付いたのだから。
 ロイとしてのしがらみが消える刹那はおそらく背後まで来ているだろう。そのせせらぎにも似た足音を感じながら、俺は目の前で沈む太陽を滲んだ瞳で見上げ続けていた。

 

 

 

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