月のない夜に

 

 

 木材の香りが漂ってくる。未開のまま放置されていた環境の中で暮らしているかのように、そこはあまりにも人の手から離れた空間だった。見慣れた床を踏みしめると軋んだ音が俺を出迎えてくれる。カイと共に生活していた場所はやはりどこか懐かしくて、再び戻ってきたことに嬉しさを感じていたのかもしれなかった。
「ラザー! 帰ってきてくれたのか」
「ああ」
 部屋の奥から飛び出してきたカイにとりあえずの返事をしておく。もうひねくれて口を利かないという反抗をする気にはなれなかったので、彼のささやかな罪も許してやろうと思ったんだ。彼は彼なりに俺のことを心配していたらしいから、俺はそれを認めなければならない。自分に向けられた善意を踏み潰すような行為は避けようと思ったんだ。
「今日は泊めてもらうよ、師匠」
「――川君も一緒だったのか」
 俺の後ろからひょいと樹が顔を見せる。彼を見たカイは少しだけ暗い表情を作った。彼は樹を嫌っているわけでもないのに、なぜそんな顔をしなければならないのか。疑問には思ったものの俺はそれを聞こうとは思わなかった。
「待ってろ、今すぐ夕飯を作るから」
 カイは慌てた様子で台所へと引っ込んでしまった。おかげで彼の本心を知る機会を失ってしまう。俺と樹は広間の椅子に腰かけてカイが戻ってくる時を待っていた。机の上にはまだあの頃と同じ赤い花が添えられていた。
 やがて夕飯を両手に乗せて戻ってきたカイは明るく振る舞いながら皿を並べ、三人で無駄に豪華な食事を頂くこととなった。短時間で作ったわりには料理の種類が多く、やはり彼は料理が上手いのだろうと密かに感じた。そのくせそれを活かそうともしないまま暮らすことは怠惰だと思ったが、彼にとってそのままでいいのならそれは俺が口出しすべき問題ではなかった。俺は知らないふりをして黙々と料理を口に運ぶ。
「ラザー、あのさ。……まだ怒ってるのか?」
 食事を終えた頃に弱々しい声が聞こえてきた。なんだか不安げな表情をしたカイがこちらをじっと見ており、あの頃いくら考えても分からなかった相手の思いがすっと頭の中に入ってきた気がした。俺はちょっと微笑んで彼の顔を見る。それに気付いた相手はどうしてだかさっと顔を赤らめた。
「怒ってたらこんな家には帰ってこないさ」
「そ、そうか! それはよかった!」
 大袈裟に胸を撫で下ろし、カイはぎこちない笑い顔を俺の前にさらけ出した。そこに嘘は含まれていないようだったが、底なしの笑みなのに眩しいとは感じない。
「それじゃ、これからも一緒に暮らせるんだな」
 どうやら彼は焦っているようだった。俺がいなくなることが怖かったらしい。俺は彼のことなど微塵も考えていなかったが、組織を抜け出してからはここにいることが当たり前で、彼にとってはその事実がとてつもなく大事だったのかもしれなかった。彼は責任を感じて俺の傍にいることを決めてくれていたんだ。
「エダの奴、そういうことか」
 誰にも聞こえないよう独りごちる。今なら彼の言った言葉の意味がよく分かった。
「ここは俺の家でもあるから、俺の帰る場所はここだよ」
「ラザー、お前って奴は!」
 カイは笑っていたかと思えば突然泣き出した。話をすればするほど相手が子供のように思え、だけどそれでもいいと感じる。
 酒も飲んでいないはずなのに泣く大人を俺はなだめ、動けそうにないカイの代わりに樹が後片付けをしてくれた。あれほど憎んでいた相手を簡単に許すことができたのはおかしなことだと思ったが、それがどこか必然的なものを秘めているような気がしてならなかった。
 そうして仲直りをした二人は穏やかだった。闇夜が迫ってくるまで三人で話し込み、俺は元の生活を取り戻すことができたと感じたんだ。

 

 

 自分の部屋に来たのは久しぶりというわけでもなかったが、もう長いこと訪れていなかったように目の端にたくさんの埃の姿が映っていた。机の上や棚の上にその姿はなかったが、床の隅やベッドの下など普段手を伸ばさない場所には居心地が良さそうに固まっている。おそらくカイは掃除をしていたのだろうけど、いい加減な彼のことだから丁寧さを追求することはなかったのだろう。それが彼の不器用さを助長しているのだろうけど、本人が気付くまでは何を言っても無駄なんだろうと思った。
 白いベッドに腰を下ろすと長い息を吐いた。ようやく落ち着くことができると思うと安心できたんだ。俺の前を通り過ぎた樹は窓を開け、ぐっと顔を持ち上げて空を見ている。以前も同じようなことをしていたことを思い出し、彼は空を見るのが好きなのだと気付いた。
「何を見てるんだ?」
 後ろから声をかけたが、相手は振り返りもしなかった。
「月が綺麗に見える」
「二階のベランダからだともっと綺麗に見えるぞ」
「本当?」
 振り返った彼の顔が月光に照らされ美しく煌めいていた。俺は一つ頷いて、相手を連れて二階へと案内する。
 誰も使っていない部屋にもベッドは置かれていた。わけもなく広い家なので部屋の数も多く、大勢で住んでいたわけでもないのに家具もきちんと揃えられている。家の持ち主は既に生きていないからその理由を訊ねることはできないが、用意されているのならそれを使ったとしても誰も叱りはしないだろうと思っていた。俺の部屋よりも高い空間に樹を連れ込み、彼の望みを叶える為にベランダへと足を運ぶ。二人でそこに並ぶとほとんどのスペースを埋められ、狭い隙間に押し込められた窮屈さを感じなければならなかった。
「ここってもしかして、あの時のベランダ?」
 空ではなく俺の顔を見ながら樹が何かを聞いてきた。だけど彼の質問の意図がよく分からない。
「ほら、俺が初めてこの家に泊まった時、ラザーと一緒にベランダで空を見たじゃん。それがここだったのかなって思って」
「――ああ、あの時のことか」
 なんとなくだけど覚えている。俺と樹が知り合って間もない頃、カイが勝手に樹とその他大勢を家に泊まらせたことがあった。その夜に俺はカイと喧嘩をしていたが、俺が吹っ飛ばされた先がこのベランダであり、そこで空を見ていた樹と偶然話をする機会を得ることができた。あれから何か月もの時が経ち、忘れていてもおかしくない些細な出来事だったはずなのに、少し思い出すとあの日の光景が徐々に鮮明に見えてくる。彼が覚えていてくれたおかげだろうか。彼と思い出を共有できているようで、それがなんだか嬉しい。
「あの日の空は、まだ覚えてるよ。俺にとって大切な空だったから。だけど本当は忘れていたはずだったんだ」
「――どうして?」
 樹は空を見上げている。俺は彼の真似はせず、相手の美しい顔に見惚れていた。
「あんたが誰よりも大事な人になるとは思っていなかったから。一人の友人として、永遠の一部にしてしまおうとしていたから」
 言葉を連ねながら樹は右腕を持ち上げた。それを遠い空へとかざし、寒々とした冬の風を全身で受ける。
「届きそうと思ったけど、さすがに届かないか」
 そう言って彼は苦笑した。静かに輝く月を映す瞳にはぼんやりと涙が浮かんでおり、そのおかげで彼の眼が宝石のように美しく見えた。俺は涙に気付かなかったふりをして前を向く。
「樹」
「うん? どうしたんだ」
 長かった冬もそろそろ終わりを迎えるだろう。春が来れば雪と氷は溶け、新しい命が芽吹き始める。同じ時代を生きる俺たちは互いに干渉し合うことができる。だからこれからの生き方を見守ってもらうことだってできるんだ。
「あの組織を壊して、あの人を警察に引き渡したら、また学校に通おうと思ってる。そしてそれが終わったら、今度は全く新しい生き方をしようと思うんだ」
「新しい……生き方」
 ふっと横から風を感じた。そちらへ顔を向けずとも、彼が俺の方を向いたのだと分かった。
「高校を卒業したら、俺は警察になろうと思っている」
 誰かを救う為には気持ちだけでは駄目だと知った。他人の力になる為には社会的な地位も必要だと分かった。だから俺は警察という道を選択しようと考えた。全てが思い通りにいくとは考えていないけど、それが今までの自分への償いになると思うから。
「俺なんかが警察として生きられるかどうかは分からないし、不安もたくさんあるけど――それでも始めてみたいんだ。俺の善が世界にどこまで通用するか試してみたい。だから樹、お前には俺を見ていて欲しい。俺が間違ったことをしないか見守っていて欲しいんだ」
「ラザー」
 名を呼ばれ、彼の顔を見た。半分だけ照らされた顔面に涙の筋が光っていた。それがぐっと近付き、俺は彼に抱き締められたことに気付く。
「ずっと見てる。ずっとずっと見てるよ、ラザー。あんたならきっとできる。絶対に立派な警察になれるから。俺は安心してラザーを見てるよ。生きている間はずっと傍にいて、死んだ後もあの月のようにラザーを見守り続けるから」
「……うん」
 小さな身体をぎゅっと抱き締める。少し力を込めれば壊れてしまいそうな身体なのに、俺はそれがなければまっすぐ立つことができなくなっていた。彼が俺を支えてくれていたのだと知っていたんだ。それを忘れないようにしなければならない。
 お互いの体温を確かめ合った後、俺と樹はしばらく月夜に包まれていた。そうやって声もない星と月の輝きを眺めていると、風の音に混じって美しい旋律が聞こえてきたような気がして、俺は目を閉じて月の歌に耳を澄ませていた。それはいつかどこかで聞いたメロディと同じで、俺は長いあいだ探していたものをやっとのことで見つけたような清々しい気分になることができた。

 

 

 樹を一人だけ二階に残し、俺は自分の部屋に戻ってベッドに潜り込んだ。暗闇の中で目を閉じて意識を手放そうとするが、耳の奥から聞こえる雑音がうるさくてなかなか眠りに落ちることができない。無理に無心を演じても闇がざわめくだけだった。何度も目を開けてしまい、夜に沈められた静寂をぼんやりと見上げることになる。
 俺の何が睡眠を妨害しているのか分からない。もう一度目を閉じると再び騒音が耳を支配した。それはよく聞くと誰かの怒鳴り声で、ふと気付くと俺は脚を踏みつけられていた。唐突に痛みが襲い、歯を食いしばってそれに耐えようとする。
 これは幻だと分かっているのに身体は貪られるだけだった。ここにはいない人間に傷付けられた個所がひどく傷む。目を開ければそれも終わるはずだったのに、意思とは反して瞼は強い力で閉じられ、なかなかそれを実行することができなかった。たくさんの男たちに囲まれた夢を見る。彼らに身体を掴まれ、自由を奪われたまま服を引き裂かれる。髪を引っ張られて切られ、手錠や首輪を付けられて床に突き落とされる。そして上に乗った男の身体が俺の中に入り込んでくる――。
「あ、うああっ!」
 大声を出すと目を開けられた。そこには当然男の姿などないし、手錠や首輪だって付けられていない。だけど手で確認しないと服を着ているかどうかさえ分からなかった。自分の黒服をぎゅっと握り安心しても、もう目を閉じることができなくなっていた。
 頭での理解と身体の反応が噛み合っていなかった。同じ思いを経験した夜に俺を眠らせてくれたエダが恋しくなる。また彼の所に逃げ込めばきっと俺を優しく出迎えてくれるだろう。だけど彼に頼ってばかりでは駄目なんだ、俺は自分でこの病から抜け出さなければならない。震える唇を噛み締め、その痛さで脳を刺激して再び目を閉じる。
『大人しくしていろ、お前なんかこのくらいの価値しかないのだから』
 降り注いできた声は身体じゅうに染み渡っていく。それが血液に溶け込んで全身をぐるぐると廻っていく。右手の爪で左手の甲を引っ掻き、溢れた血管から声を抜き出そうとした。だけど声は出口を素通りして再び心臓まで戻ってきてしまった。
『何でも言うこと聞くから、それだけはやめて――』
『口答えをするな。それ以上騒ぐとその口も塞いでやる』
 口の中にタオルが押し込められ、呼吸の自由が奪われる。両手と両足も縛られて身動きが取れなくなり、虫のように這ってその場から逃げ出そうとした。だけど身体の上に分銅のような男が乗り、押し潰された俺は容易く彼のものになる。
『お前を愛しているんだよ』
 聞こえる声はケキのものだった。あの哀しい男が俺に救いを求めているんだ。俺は逃げ出さなければならないのに、完璧な大人の力には少しも抵抗できなかった。俺の無力が彼を更に苛立たせてしまうというのに!
『俺の子を返せ、俺のアニスを返せよ、ロイ!』
 泣きながら叫ぶケキに俺は後ろから犯される。我慢の限界を超えてもなお我慢を続けた清明と同じように、俺は彼の幻影として途方もない時間を彼に捧げた。決して手放さなかった自我が俺を苦痛へと導いたが、それを失うことの方が怖かったから痛みに耐えることができたんだ。
 積み重ねられた痛みは赤色をしている。それが目の奥に何枚も広げられ、やがて世界は真っ赤に染まるのだろう。
「ああ、嫌――嫌だ!」
「ラザー!」
 自分の叫びに誰かの声が混じっていた。はっとして目を開けると、俺の顔を覗き込んでいる目が二つ並んでいた。それは闇に紛れて黒くなっているが、俺のよく知る樹の目に相違ない。夢から戻ってきた俺を彼は心配そうに見つめていた。
「樹」
「大丈夫か? すごい汗だけど」
 彼に縋りたくなる思いを抑え、俺は残った力でゆっくりと身体を起き上がらせた。樹はベッドの傍の床に座り込み、俺の顔を不安げに見上げてくる。俺の身体は彼が言及した通りに汗で湿っていた。胸の辺りにひっついている黒服を握り締め、でたらめに脈打つ自身の鼓動を落ち着かせようとする。
「目を閉じると昔に戻ってしまう。俺を叱る大人の声が耳元で鳴り響いて、それをまともに聞いているとあの頃の痛みまで本物のように感じられてしまうんだ。なあ樹、これを消すにはどうすればいい? 夜が来るたびに眠りを妨げられるのは怖いんだ」
 自分の口から出た相談の言葉にはもはや歯止めは存在しなかった。彼の懐へと飛び込む覚悟ができていたから、俺は彼に何も身に付けられていない自分をさらしてしまったのだ。ガラスより分厚い壁は砂のように散ってしまった。あの頃必死になって自分一人で解決しようとしていたことは、つまり俺は彼らに対し信頼という扉を閉ざしたまま接していたということだったんだ。
 人を信じることは怖い。愛が冷めた時に見捨てられることがつらい。だから氷の衣に身を包んで隠れていた。いつか訪れるであろう春を夢見ながら、俺はずっと一人きりで窓の景色を眺めていたんだ。
「フラッシュバックっていうのかな、そういうの。俺にはよく分からないけど、時間が過ぎれば徐々に忘れられるんじゃないかな……忘れるっていうことも、効果的な解決方法だと思うよ」
「忘れる? 一体何を」
「今まで体験したつらいこと全て、だよ」
 相手は笑っていない。その表情を見て俺は笑えない。ただ泣くことも怒ることもできなかった。彼の強い意志が俺の感情を奪い去ってしまったんだ。
「忘れるのは嫌だ。だって俺が覚えていないと、清明が可哀想だから」
「ラザー、それはティナアと同じ罠にはまるってことだよ。分かってる?」
「分からない」
 正直に答えると樹は一呼吸置いて立ち上がった。そっと傍に寄り添い、ベッドの上に腰を下ろす。
「今は分からなくとも、いずれ分かるようになるよ。忘れることが嫌だと言うのなら、俺は他の方法を知らないから何も言えない。俺はラザーが思っているほど賢い人間じゃないんだから」
 相手の言葉が俺の中に染み込んでいく。静寂の球体の中で同じ息を吐き出す心地良さが俺を穏やかにさせていた。二人で空を見上げると怖いものが見えなくなる。だけどそれはこの世に存在する最も恐ろしい孤独であり、何も知らない俺たちは月の世界で星の海に溺れ泡沫と化すのだろう。
「お前は清明を――ケキのことをどう思っている? そしてあの不幸な男を救えなかった俺を愚か者だと思っているか?」
「そうだな……」
 白い息を吐き出し、樹はくっと顔を俯けた。彼の影が俺の腕に落ちている。
「あの人が不幸になったことも、アニスが死者となった理由も、全て彼らが選択した自由の結果だと俺は感じた。前にも言った通り鳥は空という名の自由に縛られているけど、それは人間だって同じなんだ。俺たちはこの世で所詮自由でしかないから、その中ではどうしたって何かを選択しなければならない。自分と他人との選択結果がクロスした場合、一つの未来が決定される。他の未来を切り捨ててそれが彼の現実となる。そうやって選んだ結末なら、もうそれ以上考える余地はないんじゃないかな」
「それは、あいつの不幸はあいつ自身の手でもたらされたものだということか? だってあいつは望んで親を失ったわけでもないし、義父に虐待されたことも、俺に救いを求めたことも、全て彼の生きる環境がそうさせていたじゃないか! 他の強い力によって強制的に選択させられた未来でもそれはそいつの責任ということになるのか? お前だって同じだろ、大人の勝手な理由で作られて、連中の為に生きていたお前だって」
「いいや、それは違うよ、ラザー。きっかけや環境は確かに人を束縛するけど、そこにも自由は存在する。俺が生きていたことは俺が選んだ未来で、大人の理由で決められたものじゃない。それに清明だって、母親の事故を防ぐ手段を選ばずに、義父から逃げる道を手に取らず、あの組織から抜け出す機会を見て見ぬふりをし、アニスをクトダムから遠ざける方法を知っていながら実行しなかった。彼の一つ一つの選択がどうしようもない不幸を作り上げてしまったんだ。なあ、ラザー。この世の中は確かに限りなく不公平だと思う。裕福な人もいれば貧しい人もいるし、清明やアニスみたいに幸福を求めるのに結果として遠ざかってしまう人だっている。だけどそれが誰かのせいだったり、環境のせいだったりすると考えるのは間違いだと思うんだ。清明の闇に気付かずに助けられなかったラザーが悪いわけじゃない。アニスを使って彼を縛っていたクトダムが悪いわけでもない。ましてや彼をその場所へ追い詰めた家庭の事情が悪かったわけでもないんだ。この世の中は不公平だけど、それでも世界は自由で溢れているから、結局はその自由により幸せか不幸せかが決定する。自由とは行動の選択だ。幾つも伸びた分岐の中からたった一つを選択し、そこへ到る道筋だけは誰にも邪魔されない。そうやって選んだ結果がそれだというのなら、選択をする側である人間にできることなんて、選ぶことにより形成された未来を「学習」し、その経験を今後に活かすことくらいしかないんだよ」
 彼の言葉から強いものを感じた。その強さに憧れていた自分がどこかにいて、いつのまにか彼に助けを求めていた。俺は助けられるほどの人間に成長しただろうか。彼に愛されるほどの自分でいられただろうか。
 すっと目を閉じると怒鳴り声が消えていた。傍に彼がいてくれるだけで俺は強くなることができたのかもしれない。だけど必ず一人きりになる時間は訪れるだろう。その時を迎えたなら、俺は襲い来る幻影を一つ残らず踏み倒すことができるのだろうか。
「樹、お前は強い人間だ。でも俺はその強さの足元にも及ばない。弱い俺はやっぱり忘れることが怖いんだ。俺が過去を忘れてしまったら、いつか清明と同じ道を辿ってしまうんじゃないかって思ってしまう。お前の言うように人間にできることが経験を理解することだけだったなら、経験を忘れてしまった人間はどうしようもない過ちを犯してしまうんじゃないのか? 過去の痛みを知っているからこそ傷ついている人を助けてやりたいと、そう思うように出来ているのが人間じゃないのか?」
「じゃあラザーはこれからも眠ろうとするたびに苦痛を味わって構わないと言うのか? 今までの過去があんたを傷つけ、いつか精神を取り込まれたとしてもそれは仕方がなかったことだと言って片付けられるのか?」
 どんな憎しみが込められた言葉より、彼のその真剣な眼差しは鋭く研ぎ澄まされている。彼の前では全てがひれ伏してしまうような、そんな威厳と確信とが棘のない花を包み込んでいたのだ。俺は何も言えなくなって口を閉ざす。
「選択から作られるものは経験だけど、経験から導き出されるものは過去と直結しているわけじゃない。そこには感情という名の膜が存在する。過去が消えても感情は消えないだろう。だって感情と経験は別のものなんだから」
「それでも忘れるのは嫌だ、俺はロイのことを覚えていたいんだ! ロイが見てきたもの、感じたもの、その全てを忘れたくはない――」
「その為にラザーラスを殺すのか? 違うだろ! あんたの中に宿るロイの記憶は、これからも永遠にあんたを苛み続けるだろう。もしもラザーラスを救いたいと願うなら、もう全てを忘れること以外に道はないんだよ」
 俺の気持ちを知っているはずなのに、彼は忘れることこそが救いになると言う。このまま思い出の中で苦しみながら生きるより、新しい白い世界で生まれた方が幸せなのだと言っているのだろう。俺はそれこそ幻影にすぎず、記憶とはふとした瞬間に襲いかかってくるものだと分かっていたから、彼の提案は俺自身に破滅をもたらすものと信じて疑わなかった。ただ俺は彼を心底頼っていたから、相手の薄っぺらい意見を否定する一方でどこか期待していた側面もあったのだろう。誘われるように彼の手を取り、そこに軽く接吻する。内部から崩れ始めていた僕の世界の中で、彼の存在はあまりに大きくなりすぎたのかもしれない。或いはこうなることは分かっていて、僕が自ら彼を求めたのかもしれなかった。しかしそんなことはどうでもよくて、僕は小さな子供のように親のぬくもりを欲し、それと似た愛を授けてくれる樹の中に黙した光明を感じていた。僕は彼に身体を預け、狭苦しい暗闇の底で沈み込んでしまっていたのだ。
「今は少し思い出してしまっただけなんだよ。だってこれまでは忘れていられたんだろ? 夢の中の出来事のように、不確かな情報として心の奥で漂っていたんだろう? その頃の感覚を取り戻せばいい……恐れることはないよ、全てを忘れるってことは。だって思い出したその後にはもう、忘れることしかできないんだから」
 目を閉じ、彼の声を聞く。落ち着いた様子の美しい声。誰の色にも染まることのない、汚れを知らぬまま保たれた宝石のような煌めきを感じる。
「忘れたら、本当に救われる? だけど全てなくなってしまったなら、嬉しかったことも、楽しかったことも、忘れるべきじゃない繋がりの記憶も、たとえば意図的に消さねばならないのなら、それらは一体どこに行ってしまうんだ? 僕の身体を離れて……迷子になって、可哀想だ」
「心配しなくていい。ラザーの記憶の居場所は、俺の中にあるから」
 薄明かりの下に相手の黒い髪が揺れた。彼の手が僕の肌に触れ、そこからはっきりとした体温を感じさせてくれる。そうやって僕は彼に愛され、一方で彼を平気な顔をして傷付けてきた。僕の肌に触れるたび、僕の声を聞くたびに、彼は心を黒いものに侵食されていく。僕が彼を守ろうと犠牲になったり、感情を抑え切れず彼を愛した時などは、彼の精神は深い痛みに悲鳴を上げ、それを聞きながら僕は執拗に彼を傷付けようとしていた。かつて僕の目を見て許しを請い、それでも容赦なくナイフを突き刺したあの子と同じで、既に精神が腐った僕には相手の苦しみが理解できない。そう、そんなふうに、ありもしない理由を作り上げて逃げようと必死だった僕は、自分が他人の苦痛を全て受け入れようとしていたことを認めたくなかったんだ。僕は悪い人間でありたかった。誰かに優しくしたくなかった。見返りを求めるんじゃなく、心に潜む良心に従うのではなく、誰からも見捨てられ、踏み躙られ、罵声を浴びる人間でなければならなかった。だってそうでもしなければ僕の闇が表に出た時に、一体どんな言い訳をすれば世間は納得してくれるだろう? 僕はもう決められた人間で、名前を変えたところで生まれ変わることもできない哀れな操り人形にすぎないのだと考えていた。そうやって悲劇的な自分の役割を受け入れながら今まで普通に暮らしていたというのなら、その日々を壊すようなことはあってはならないはずだった。しかし一体どういうことだろう、僕が救われる方法は存在していたのだ。この黒い鎖を断ち切る手段が無垢な少年の口から発せられた時、僕の心は確かに揺れ動いていた。悲劇を失うことが唯一の救いだとすれば、僕は僕という存在を忘れ、全くの別人として生きることができるのだろう。精神だけじゃない、肉体も失ってしまえば完璧だ。僕は新しい世界を創造する。いつだったかあの人が描いたような、光と闇とが混合し、美しさと醜さが交互に顔を出すような世界、それが手に入るのだと考えたなら僕は僕を手放すことさえ怖くはなかった。
「でも、忘れられるだろうか。そんなに簡単に過去の全てを死に差し出せる?」
「大丈夫、俺が一緒にいるから。さあ、まずは思い出すんだ。今まで起こったたくさんの事実、あんたが感じた形も色もない不明瞭なものを」
 まばたきをするとまつ毛が相手の肌に引っ掛かる。白い、誰よりも白い彼の身体に包まれて、僕は死人のように大人しくうずくまっていた。彼の手が僕の髪をかき上げる。部屋に留まって動けない空気が露わになった僕の頬にぶつかってきた。
「思い出すのは嫌だ。もし忘れられなかったら、また同じ苦痛を経ることになる」
「一人では無理かもしれない。でも今は俺がいる。だから大丈夫、これまでのことを聞かせて欲しい」
 いつの間にか後ろから彼の腕が伸びてきて、他人に隠し続けた身体を抱かれていた。彼が触れている部位から仄かな熱と香りを感じる。彼の手に自分の手を重ね、僕は相手の生命に溶け込もうと力を抜いた。
「これまでのこと……僕はロイとして、アニスの為に生きていた。それだけだ」
「クトダムは? あの人の為に組織から逃げ出さなかったんじゃなかったのか?」
「あの人の為に生きることは、僕にとっては常識なんだ。ただ僕が今から意識できることは、アニスやルノスなんかの為に、弱い人たちに代わって苦痛を受け入れていたということだけだ」
「その苦痛はどんなものだった?」
 背中にぬくもりを感じる。彼の心臓が僕の身体にぴたりと貼り付いていた。それは安易に壊すことのできない、確かに価値のあるものだったのだろう。彼は服の上から僕の胸を撫でる。そして僕は彼から放たれる静的なエネルギーを全身で感じ取る。
「苦痛は、ほとんどが清明によってもたらされていた。彼は昔、初めて会った時は若くって、とても純粋な目をしていたから僕とは住む世界の違う人だと感じた。いつも明るくて、わけもなく元気で、聞いてもいないのにいろんなことを話すお喋りな奴だった。それが信じていた人に裏切られて、彼はきっと壊れてしまったんだ。だけど組織に来た後の彼はティナアと仲が良くなってたし、二人とも幸福そうな顔をしていて……僕はそれが羨ましかった。それなのに、急に駄目になったんだ。ティナアが清明を避けるようになってから僕は彼に犯されるようになった。それまでは鞭もナイフも使わなくて、稀に銃を持っていることもあったけど、僕に怪我をさせるようなことは一度だってなかった。僕は彼が暴力を振るう前からなんとなく彼の心を感じていたのか、あまり抵抗せずに彼に抱かれ続けていた。おそらくその頃から僕は彼の行動の意味をうっすらと感じていたんだと思う。だけど僕がアニスと会って、彼女と仲が良くなって、彼女が「虐待」されていることを知ってから、彼は僕を叱るようになった。怒って暴力を振るってきて、鞭で打たれたりナイフで刺されたりもした。彼は銃が「好き」だったから、口の中に銃口を入れられて引き金を引かれることが多かった。僕はそれが嫌いだった。水竜のロスリュから奪った生命が飛び散って、変な感触がしたし――頭を殴られた時みたいに頭の一部がぶっ飛んだように感じられるんだ。血もたくさん出てくるし、とにかく気分が悪くなる。彼はそれを知りながら続けていた。逃げようとする僕に条件を押し付けて、逆らえなくなった僕を無理矢理縛って犯すんだ」
 それが彼の痛みであったと知らなかった僕はその当時、きっと最大の疑問に押し潰されて必死に足掻いていたのだろう。それでも清明は僕の逃走を執拗に妨害した。大人の逆らえない力で僕を縛り続けていた。彼の経験が僕を必要としていたけれど、それに気付かなかった僕はただひたすら自分のことだけを考えていた。僕の行動が彼を追い詰め続けていただなんて考えたこともなかったんだ!
 話しながら相手の手の動きを肌で感じていた。彼は僕を安心させようとしているのか、強引だったり暴力的だったりする行為は何もせず、ただ一心に僕の身体を撫でていた。それは気持ち良かった、愛されていると感じることのできる非常に幸福な時間だった。僕は彼に甘えたかったのだと気付く。
「その縛るっていうのは、物理的に縛るってこと? 毎回そうされたのか?」
「そうだけど、最初だけだよ――僕を捕まえて部屋に連れ込んで、それからロープで両手を縛られる。足を縛る時もあったけど、それはあまり多くはなかった。それから彼は目隠しも「好き」だったから、視界を奪われてよく打たれたり殴られたりしていた。そうやって乱暴が終わったら、ロープをほどいて愛し始める。もちろん外さない時もあったけど、足だけは必ず自由にさせていた」
 目の前に彼の声が立っている。僕を見下ろして怯えさせる一人の男。彼の語る夢は美しく、彼の見せる闇は怒りに満ちていた。彼の中にある悲しみはすっかり隠されてしまっていたのだ。もはや彼によって付けられた傷跡は消えたはずだし、殴られた箇所の痣も染み込んだ体液も、もう僕の中に残っているはずはなかった。それなのに口に出して彼のことを語ったおかげで甦ってきた。僕の中に潜在していたのだと教えられた。僕はそれがなんだか嬉しくて、やり直したい衝動と共にそこへ戻りたくなってしまう。
「足だけは自由にさせていたって言ったけど、それはどうしてだったんだ? 足が自由なら、簡単に逃げられるんじゃないのか」
「逃げられるわけがなかった。僕が大人しく彼に従わなければ、僕の代わりにアニスが打たれるんだから」
「それなら手のロープだって必要なかったはずだろ。どうしてそんないい加減なことをしていたんだ」
 優しげな手つきを裏切りたくない。でもたくさんの過去を知られたくもない。僕は彼の光を欲しがっているけれど、彼は僕の闇を求めてはならないんだ。思い出したくない記憶の一端を僕は彼の前に恥ずかしげもなく見せねばならない。それでも知られたくなくて、今まで僕に偏見もなしに接してくれた彼に嫌われたくなくて、だからこそ隠していようと黙り込んでいたはずなのに、結果として僕は彼を巻き込み、今は彼に支えられている。ああ僕は彼を愛するようになってしまい、彼もまた僕を見捨てられなくなったのだろう。僕も彼も相手を必要としているけれど、その関係は非常に危なげで、或いは今すぐにでも壊してしまわねばならないものなのかもしれない。それでも離れられもしないで――また僕らはお互いを傷つけ合ってしまうんだ。その裏側で僕らは求め合い、確かめ合い、愛おしさの根底にある苦しみに溺れていく。そうやって僕らはここから抜け出せなくなったのだろう。
「脚を……開きやすいように、だよ」
「え?」
「足を自由にする理由。ロープで縛ったままだったら、やりにくいって彼が言ってた」
 心の中がもやもやする。僕はなぜ彼に教えたのだろう。本当は言いたくなかったことなのに、また彼に蔑まれる気がして怖かったのに。
 胸の上から彼の手のぬくもりが消え、相手が俺の正面に座った。彼の白い肌が服の隙間から闇に紛れて美しいまま染められている。彼は俺との距離を縮め、背中に手を回して俺を抱き締めてきた。そうやって体重を傾けて、俺をベッドの上に押し倒す。
「それで? 他にケキには何をされたんだ?」
 樹は彼を清明と呼ばない。彼の本当の名前を呼んでやらない樹が何を考えているのか、俺には分からない。
 肩の辺りに彼の口があった。相手の息が肌で感じられる。俺はそっと彼の髪を撫でた。ただ俺だけの為に自らの純潔を差し出した、優しすぎる少年に変わらない祝福を与えたかったんだ。
「彼は俺のことを恨んでいると思わせていた。俺がアニスと仲良くすることに腹を立てているように見せ、いつもアニスとはもう二度と会うなって言われていたんだ。それに、彼は俺がアニスと寝ていると思い込んでいて……もちろん俺はアニスにそんなことはしていない、でも彼はいくら説明しても聞く耳を持たなくて、自分の見ていないところで勝手なことをするなと怒られてばかりだった。それから……ああそうだ、彼は大勢を連れて来るんだ」
 目の中に当時の光景がちらついている。徐々に鮮明になっていく「トラウマ」の姿は、俺の身体全体を覆い隠す色のないベールだった。その下から現れるロイの感情はいつか眠りから目覚めるだろう。失ったと思っていた罪人の無情が、俺の中に舞い戻ってあの頃の従順さが俺の全てを支配するんだ。
 俺の痛みとはつまり清明の痛みであった。清明の怒りとはつまり義父である慶一郎の怒りであったのかもしれない。
「大勢を連れて来るって、組織の人を?」
「ああ、組織で何もせず生きている連中を引きつれて、俺の部屋の中に押しかけてくるんだ。そうやって大勢で俺を襲う。でも……そう、俺はその頃はもう経験済みだったから、それほど大きな絶望は感じなかった」
「経験済みって、どういうこと」
「大勢でやられたのは組織の奴らが初めてじゃなくて、確か――牢屋の中の、警察に捕まっている奴らにやられた。どいつもこいつも知らない奴ばかりで、どうやら組織の誰かにお手軽な奴がいるとでも聞いていたみたいだった」
「お手軽って、そんな物みたいに!」
 はっとしたように樹は身体を起こした。それは俺の為の反応だった。俺だけを想い、心配してくれる怒りの混じった正直な言葉。それがこんなにも心地のいいものだったなんて知らなかった。それをいつまでも独り占めして沈み込んでしまいたい!
「お前は知らないだろうけど、あの世界じゃそれが常識だったんだ。他人の不幸なんて知ったことじゃない、自分の幸せだけ掴めればそれでいい。俺はそういう環境に放り込まれたから、他人の為に何かをすることがとても苦手なんだ。分かるだろ、相手の話も聞かないで、自分が犠牲になれば相手は救われると思い込んでいる男なんだから。――まあいい、それは今話すべきことじゃないな。何の話をしていたか……そうだ、初めて大人数にやられたことだったな。あいつら俺の身体を力任せに押さえつけて、声が出せないように口にはタオルを押し込めてきたし、とにかく連中は俺の気持ちなんか知らないで好き放題やってたんだ。いつもは仲が悪くて言い争いばかりしてるくせに、ああいう時だけはちゃんと順番を守って一人ずつ俺の中に入れてくるんだよ。他の奴らは俺が逃げられないように押さえつけててさ……我慢できなくなった奴は順番を守らずに口の中に押し込んできた。そういうことされて、俺は苦しくて、頭の中は真っ白になるし、とにかく何回も絶頂を味わうもんだから疲れてて……ヤウラが言うには終わった後もしばらくは気を失ってたみたいなんだ」
「知ってる……よ」
「え」
 相手が俺の上に覆い被さり、その顔がよく見える位置で姿勢を保っていた。何か嫌なものを思い出しているかのように、彼の顔にある表情は不安定だった。ふっと相手の手が伸び、俺の頬を撫でるように触れる。その手は俺を安心させる為にあるはずなのに、今は彼の感情が前面に押し出され、わずかではあるが震えていることがまっすぐに伝わってきた。
「つらかっただろ――いや! つらかったと言ってくれ!」
「ああ、つらかった。でもそのつらさは清明ほどのものじゃなかった。俺が彼よりもつらい経験を重ねるたびに、清明は消えない痛みを思い出さなければならなかったんだ」
「どうして彼と比べようとするんだ、あんたは彼と同じじゃない! 彼の知る痛みとあんたの持つ苦しみは同等じゃなかったんだ、彼だけを哀れんで見る行為は間違っているんだ! あんたは確かに傷付いていた――そればかりはどうしたって消せない事実じゃないか、そんなふうに自分のことをおろそかにしないでくれ!」
「やめてくれ、樹。俺は同情されるべき人間じゃないんだ。彼の事情を知ってしまった時から俺は、自分の受けた傷がぼやけて見にくくなってしまっている。自分が恐ろしいまでに滑稽で、愛することも愛されることもできなかった俺は彼には決して勝てないから、俺の痛みを表現するには彼の過去がどうしても必要なんだ」
「ラザー……ラザーラス、それは違うよ、それは違う……」
 ぐっと顔を近付け、彼は俺に接吻を贈る。冷たくなった唇で彼のキスを受け止め、同時に頬の上には相手の涙を感じ取った。
「どうしてお前が泣くんだ。俺は平気だよ」
 彼を安心させようと微笑みを作る。上手く出来ていたかは分からないけれど、樹はそれを見てますます涙を止められなくなっているようだった。目を赤くしてしゃくり上げ、まるで小さな子供のように素直に泣いている。零れ落ちる涙は俺の肌に雨のように降りかかり、なんだか見ていられなくなって身体を起こして相手の涙を拭ってやった。その熱さが俺を優しくしてくれた。いつまで続くか分からない動的な光景を俺はただ愛おしく思っていたのだろう。彼が求めたからキスをした。相手の唇は塩っぽい涙の味がした。
「お前がいるから平気だ。お前が受け止めてくれるから平気でいられる。だから俺はお前を失うことを最も恐れているのかもしれない。今はもう、クトダム様よりもアニスよりも、真やヤウラやエダたちよりもお前を必要としているんだと思うから」
 動かない彼の身体を抱き締め、胸の内に浮かんできた感情を吐露した。樹は黙って聞いていた。俺には誰かを愛することなんてできないはずなのに、どうしてだか彼なら許されるんじゃないかと思っていた。光のように手を差し伸べてくれた彼ならば、どこまでも一緒にいられるような気がして――もし彼がその生を終えたとしても、ずっと手を握っていてくれるような気がして彼を愛することをやめることができないでいたのだ。
「俺だってラザーのことは大切に思ってる、かけがえのない友達だし、いっそのこと恋人になってしまってもいい。でも、俺が傍にいたって傷付けるだけなんだ。ちょっとしたことに腹が立って、思い通りにならなければ苛々して、結局言葉や暴力によってラザーを傷付けてしまう。今までだって何度もそうしてきたじゃないか。俺じゃ何も得にならないよ、ラザーは俺から離れてしまって、師匠やヤウラさんのところへ行った方がいいんだ」
 俺から遠ざかるようなことを言いながら、彼は涙を流しながら強い力で俺を抱き締めてくる。いつもどんなに目の奥を覗いても見えてこなかった彼の考えが、今だけははっきりと俺の元へと近付いてきていた。
「俺を愛しているのなら、なぜそんなことを言うんだ」
「愛してるからこそだよ! 俺はラザーを傷付けたくない……あんたには幸せを知って欲しい、そして笑っていて欲しいんだ! だから俺がそれを奪うようなことがあってはいけないんだよ、このままじゃ歯止めが利かなくなって――二人とも崩壊する!」
「崩壊したら、どうなるんだ?」
「どうにもならないよ……ただ時に流されて、永遠に吸収されてしまうだけだ。そうやって誰の目にも映らなくなったら、奴らが喜んで皆が悲しむんだ」
 誰もが目をそらしていた悲しみが二人の間を駆け巡っていた。俺も彼も犠牲者のような面持ちでそれを迎え入れている。この世に存在し得る最高の絶望を我が物顔で踏みつけながら、俺は彼だけを愛そうと試みていた。彼さえあれば他には何も要らなくて――あわよくば彼も同じことを考えてくれていればいいと期待していたんだろう。
「ごめん、ラザー、俺が何を言ったってどうにもならないのにな。話を元に戻そう。……ケキのことはもういいから、他の人のことについて話してくれないかな」
 止まらない涙を両手で強引に拭い、彼は再度の抱擁を俺に与えてくれる。俺もまた彼の背に腕を回し、色を失った感情を元に戻そうと息を吐き出した。顔の近くに彼の黒い髪があり、清明とは違って癖の少ないそれは仄かな甘い香りを漂わせている。彼の首筋にキスをし、肩と鎖骨に指を当てて彼からの愛を待っていた。
「ティナアは几帳面なんだ。俺はよく仕事をサボっていたから、そのたびに叱られて足で踏みつけられたし、俺が髪を伸ばすことが気に入らなかったらしくてよく強制的に切られたりしていた。そしたらヨウトが俺を心配して……何も考えたくなくなって暴れ回ったりしていたら、ヨウトが俺を探して止めに来てくれるんだ。あいつ、普段は鬱陶しいくらい明るい奴なのに、そういう時には決まって暗い顔になっていた。感情が顔に出る奴だったから分かりやすくて、俺があいつに手と口でのやり方を教えた時も戸惑ってたし、皆が死人みたいに静かな組織の中であいつの存在は俺と同じで異端だったのかもしれない。サクもヨウトと一緒になってよく笑っていたけど、あいつの笑顔はいつだって作り物だった。それから、エダは……彼のことはあまり知らなかった。顔を合わせたこともほとんどなかったし、いつも部屋に閉じこもってる奴だったから、ただエダって奴が組織の事務を任せられてるってくらいにしか認識してなかったんだ。だけど今から思い返せば、清明について来て俺の部屋に来たことがあったのかもしれない。あの時は清明に目隠しをされてて、声だけしか分からないような状況だったんだけど――最近じゃよく聞くようになったエダの声は、清明が終わった後に俺を試していた奴のものとよく似ている。知らない間に彼に犯されてたのかな……だけどあの頃はそれが最後だったと思う。それ以来彼の声を聞いたことはなかったから」
 思い出が頭の中を自由に交叉していた。その合間から零れ落ちるのは現在と繋がりを持つ新しい真実だっただろうか。ばらばらに散らばっていた記憶が思い出すことによって整理され始めていた。それは俺の心を落ち着かせ、また様々なものを吸い込む準備を整えている。俺が話しているうちに彼は俺の身体を服の上から撫でていた。優しさよりも刺激を優先したような触り方で、俺の身体は徐々に興奮して汗ばんでいく。
「ラザー、じゃあ、今度はアニスのことを聞かせて」
「……アニスは、可哀想な人だった。だから俺は彼女を愛したのかもしれない。俺が彼女を初めて助けた時、アニスは俺のことを頼ってきたんだ。俺はなんだか頼られたことが嬉しくて、彼女を清明から遠ざけようと考えたし、精霊の呪縛からも解放してやろうと奔走していた。それなのにアニスは俺の誘いを全て否定した。だって彼女は清明を愛していたんだ、それは仕方のないことだったけど、いつも彼に襲われることを怖れていた彼女の否定が俺には理解できなかった。アニスは清明を一人にしたくないと言ってロイからの手を振りほどき、だから俺は余計に彼女にのめり込むようになってしまった。それは本当に愛だったのか――今となってはもう何も分からない。俺が愛だと信じたかっただけかもしれない。俺は何か……アニスを悲しませるようなことをしていた気がする。アニスは清明から聞いて、俺がヨウトに手と口でさせていたことを知って泣いたんだ。俺を汚い人間だと思ったのかもしれない。俺はアニスに向かって、もうヨウトには頼まないと約束して彼女の涙を拭ってやった。それから組織に帰ってすぐにヨウトに同じことを頼んだけれど」
「どうして? アニスと約束したんだろ、それなのに?」
「分からない。分からないけど俺は、心のどこかでアニスを抱きたいと思っていたのかもしれない。だからアニスに俺の欲望を否定された時、ヨウトに縋りつく他に道はなかったんだ。俺はアニスの肌にさえ触れられなかったのに……彼女に向けた愛がそう思わせていたのかな」
 樹は俺の身体を押し倒し、ベッドの上に静かに寝転がせてきた。そのまま俺の上に覆い被さり、片手で下半身に刺激を与えてくる。驚いた俺の身体は大きく跳ね上がったが、彼はそれをなだめるようにやわらかい動きで俺を高ぶらせていた。服の上から示される汚れを今だけは純粋なものとして見ようと意識する。
 何でも知っているエダとは違い、俺は出来上がったばかりの彫刻のようだ。本来ならば真新しくて愛も嫌悪も知らないはずなのに、生まれる前から持っていた想いがそれを低俗なものと認識させていた。だから身体が反応する。心が置き去りにされ、何も分からないままに否定を繰り返そうとする。
「樹、俺の世界を……壊して」
 両腕を持ち上げて彼の背をまさぐり、ずっと昔から望んでいたことを相手に伝えようと口を開いた。消されそうな声を聞いた相手は一つ頷き、俺の服をめくり上げて肌に触れ、それからゆっくりとズボンを脱がされる。まだ慣れていない手つきで指を一本だけ俺の中へ侵入させ、入り口をほぐすように中を押し広げていく。彼の控えめな手の動きが俺には心地よく感じられた。清明やエダとは違って初心な彼の速度が俺だけの為に作られて、だから彼に愛されていることを知ることができたのかもしれない。
「ラザー、俺は前に言ったよな。あんたの世界を壊してって。あの時のことを覚えてる? 俺はあの時、あんたの世界はクトダムに操作されていることを知っていたんだ。だからもう、クトダムから離れて欲しい。あの男から離れて、完全に忘れ去って、俺たちの所へ来て欲しい。大丈夫、こわいものなんて何もないから。ラザーがもう二度と恐怖を見なくて済むのなら、俺は悪者にだってなれる。だから俺の所へ来てくれ、ラザー。そして新しく始めるんだ――誰もが羨むような幸せな家庭を、俺たちみんなで作っていくんだ」
 彼の言葉はとてもあたたかいのに、それを包んでいるのは限りのない悲しみだった。だけどもう彼は涙を見せない。俺の代わりに泣く時間は過ぎ去ったのだ。
「俺が今から壊すよ。あんたの世界を、あんたが築き上げてきた全てのものを」
 手早く服を脱ぎ捨てた彼は俺の身体に手をかけ、こちらが何かを言う前に彼のものを内部へと押し込めてきた。それは優しくゆったりしたものではなく、勢いのまま肉の間を突き進んできて、身体の芯を見失うような不安感が押し寄せてきた。頭の中が恐ろしいもので溢れ返る。助けを必要とした俺は無心に彼の背に回した腕の力を強めた。身体の全てが熱くて、彼が俺の内側で息をし、何か靄のように隠されているものがちらちらと目の前を横切っていく。息が乱れて苦しかった。俺は彼に何度も突かれ、あの頃の光景を一つ残らず思い出していく。
 最も多かったのは清明だった。身体を縛られ、目隠しをされて、鞭で打たれたりナイフで切られたりした後に犯されていた。彼との性交がアルバムの写真のように何枚も目の前に降り注いでくる。それは今まで忘れようと努力していた記憶であって、一度でも思い出したら逃げられないほど鮮明な事象として甦っていた。溢れ出る光景が俺をおかしくさせていた。樹に犯されることを望み、もっと奥に欲しいと口走り、彼の身体が離れぬよう腕に目一杯の力を込めた。彼は俺の要望通りの動きを見せ、俺が想像するより奥の方まで入り込み、俺は手も足も胸も背も支配されて服従する快楽を得ていた。俺はこの感覚を知っていて、ただ彼と重なりそうな幻覚もこの場に存在していた。
「あ……アニス、アニスが――俺が!」
「ラザー? 何か、思い出したのか」
「う――」
 目の奥に途切れた映像が舞い降りてくる。それは愛しかったアニスの涙。大きく顔を歪め、深い悲しみが彼女を侵食する場面であり、彼女の肌を手で触れて無理に唇を押し当て、彼女の身体で快楽を感じようとセックスを強要しているのはロイだった。彼の長い銀髪がアニスの白い肌に垂れている。理性を失って息を荒げ、温かい少女の中へ突き刺しているのは彼の硬くなった陰茎だった。幾度も彼女の名を呼び、相手の声を聞いて興奮を高め、体力の限界が訪れるまで彼女の中に射精した。終わると気を失っていた。アニスは涙を止めることもなく、自分を見下ろす誰かの顔を見上げていた。
 信じられなかった。いや、単に信じたくなかっただけだった。事実を否定して綺麗に忘れてしまうことで俺は自分の心を保っていたんだ。彼女を愛していると言いながらあれは何だ。夢の中で彼女が泣く原因は、清明ではなく自分だったんじゃないか! 失っていた断片を取り戻したおかげでその前後の記憶も鮮明になり始めていた。アニスを見下ろしていたのは清明だ。彼が彼女を襲っていて、僕がその場に来たことに気が付いて、アニスを自分の目の前で犯してくれと頼まれた。僕は一度は断ったが、清明の切羽詰まった表情に押され、また彼女の汚れた姿を見て興奮を抑えることができなくて、それをアニスに指し示すかのように清明が僕の服を切り刻んだ。僕は彼女の目の前で裸にされた。それからは、簡単だった――僕はロイとしての全てを投げ出して彼女を抱いた。そう、ただそれだけだったんだ! 僕は彼女を愛していたから、僕にとっての方法で彼女を愛しただけなんだ。それなのに、どうしてこんなに苦しい? 息が詰まって身体が冷えて、手も足も動かなくて、目に見える景色がぼやけている。ああ、俺を捕まえてくれる人はどこ? 俺を愛して殺してくれるはずの樹はどこにいる? 探し求めて腕を伸ばすと手にあたたかいものを感じた。それは彼の手で、俺を現実に戻してくれる最後の奇跡だと感じた。
「俺は……嘘をついていた。偽りを真実だと思い込んでいた。なあ樹、俺はアニスを襲っていたんだ。彼女を泣かせて、それで快楽を手にしていたんだ」
「ラザー」
「それなのにアニスは俺に笑いかけてくれて」
「ラザーラス」
「俺のことを愛していると言ってくれて……」
「……」
 樹は無言になって俺の身体を抱き締める。彼の抱擁が俺を救ってくれていた。
 しばらく黙り込み、誰もが全ての動作を止めていた。それは彼の愛が感じられる時間だった。絡まっていた記憶がするするとほどけていく。広がる波紋はやがて消えねばならない。
「……続けてくれ、樹」
 俺が頼むと彼は身体を起こした。じっと俺の目を見つめ、ゆっくりと動作を再開する。
 彼に乱暴をされることによって頭の中の閉じられていた扉が開こうとしていた。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけど、それでも一度開いた扉を閉じる方法を知らなかったから、流出する数々の記憶を驚いたように眺めることしかできなかった。
 それは俺の左右にあり、上にも下にも敷き詰められて、暗かった空間が照らされたように色を持ち始めていた。しとしとと雨が降る中、大勢の見世物となる少女の姿があった。見慣れた警察の一室にて、服を脱がせたヤウラに何かを頼んでいるロイがいた。黒い組織の廊下で自ら身体を捧げたロイがいた。色とりどりの花が咲く隣でルノスを襲っている俺がいて――。
「あ、ああ!」
 頭が割れそうな痛みを感じ、ベッドから逃げ出そうと手を前方に伸ばした。身体をうつ伏せに転がしてベッドの先にあるものを求め、それでも空気しか掴まない手が恨めしくて吐き気をもよおす。俺はベッドの下にある床に胃の中のものを吐き出した。だけど気分が晴れることはなく、優しく俺の背をさする樹の手だけが俺を助けてくれていた。
 落ち着くには時間が必要だった。樹は俺が吐いたものを綺麗に拭き取り、床を雑巾で掃除していた。どうしてだろう、彼に触れられただけで忘れようとしていた全てが襲ってきたんだ。今までこんなことなんてなかったはずなのに、なぜ簡単に思い出してしまったのか? だけど、まだだ。まだ心に何かが引っ掛かっている。喉の奥まで来ているのに吐き出せず、扉の隙間から覗く光景は暗く隠されていて全貌が見えてこない。俺の隣に戻った樹を抱き締めた。彼の魂から金の光を感じる。彼の腕に手を這わせ、俺は身体を仰向けに寝転ばせた。そこに彼が覆い被さり、頭の端からぼやけていく。
 ――身体を触られていた。相手の手がいろんなところにあった。おかしいくらいにべたべたと触られた。部屋の隅に茶色い服が落ちていて、自分の横には蝋燭が一本だけ立てられている。
『ロイ』
 僕の名を呼ぶ声がここにあった。だけどそれは樹のものじゃない。僕は思い切って目を閉じた。
 暗闇が見えると思っていたのに、そこには世界があった。僕の知らない世界が僕の中にあったのだ。僕は黒い廊下の上に立ち、左右にはめ込まれた銀縁の扉に囲まれている。それは全て開いていた。一つ残らず中の光景を見せびらかし、だけどそのどれもが完全には開いていなかった。そっと奥を確認しようと顔を近付けるが、届く悲鳴が生々しくて僕はどうしても一歩を踏み出すことができない。響き渡る全ての音が僕の知っている悲鳴だったのだ。僕は息を奪われた心地で廊下を走った。小さくなった身体が僕の前進を邪魔しようとしていた。やがて辿り着いた行き止まりには閉ざされたままの扉があった。それは重い鉄でできた扉で、前面に銀が塗りたくられており、手で触れると氷よりも痛い冷たさを感じた。思わず手を引っ込めてしまったが、引き寄せられるように再びそれに手を伸ばす。
「お待ちなさい」
 聞こえた声に驚き、僕は振り返った。黒い廊下の上に誰か知らない人が立っていた。静かな金髪を持つ若い人間がこちらに近付いてくる。相手の深い青色の瞳に吸い込まれ、僕は声が出せなくなっていた。
「それを開いてしまうと、二度と元に戻れなくなる可能性があります。その中に潜むのはあなたが強い自我と共に消し去ろうとした記憶。あなたの意思により閉ざされた扉なのです。今まで通り苦しまずに暮らしたいならば、それは開かずにそっとしておくべきです」
「それでも」
 長い髪が肩に垂れてきた。それは銀色ではなく明るい金色に染められていた。
「俺は知りたい。思い出したい。もう自分から逃げるのは嫌だから」
「それによって今のあなたが崩壊しても?」
 怖れるものは何もないのだ。だって僕は既に、ラザーラスとして生きることを決めていたのだから。
「鍵をくれ」
 俺は手を伸ばした。相手はじっと俺の目を見つめ、それからおもむろに懐から鍵束を取り出す。二つしかない鍵のうち銀色に煌めくものを俺に差し出した。それをしっかりと受け取り、俺は再び自分よりも大きな扉と向き合う。
 鍵を近付けると扉はひとりでに開いた。俺はぐっと地面を蹴り、その中へと身体を飛び込ませる。
『あ、何――何をするの』
 暗い部屋の中にいた。広々としているのか狭苦しいのか分からないような薄暗い部屋だった。隅の方にぼんやりとした明かりが揺れており、そちら側から誰かが蠢く音が聞こえてきている。
『心配はいらないよ、素敵なことをするだけだから』
『すてきなこと?』
『そう』
 僕は歩いて明かりに近付く。床が軋んだような音が響いた。
『大人しくしているんだよ――』
 そして僕は知る。
『クトダム様、痛い! やめて、痛いよ!』
『我慢するんだ、すぐに気持ち良くなれるから』
『いた、痛い!』
 部屋の中では大人と子供の交わりが行われていた。一人はまだ幼い顔をしたロイであり、もう一人はこの部屋の持ち主であったのだろう。傍で揺らめく蝋燭の光が二人の姿をくっきりと映し出していた。棚の上に寝転ばされているロイは衣を一切纏っておらず、彼の身体を支配する男もまた床の上に茶色の衣服を投げ出している。男の足元には赤い血の滴がぽたりぽたりと落ちていた。それを生み出した少年の下半身は赤みを帯びており、望まない快楽のために身体は反応を示していない。男は少年を貫き、何度も身体を揺らしていた。優しげな言霊で少年を落ち着かせようとするが、子供はただ襲い来る痛みに悲鳴を上げ続けるだけだった――。
『愛している』
 身体から力が抜けた。床の上に立っていられなかった。全身が痙攣しているように震えている。
 これが僕の記憶。消してしまいたかった過去だったのだ。僕は僕を信じなければならないが、これほどまでに信じたくないものなど果たして存在し得るのだろうか?
 僕の世界は壊された。
「ラザー!」
 強い呼び声により目を覚ます。俺は白いベッドの上で樹に抱かれていた。だけどそれ以外の光景がまるで認識できなかった。宇宙の中にでも放り込まれたような、安定のない空間で星の間を彷徨っている。
「樹」
 名を呼んで彼の身体に縋りつく。悲しんでいいはずなのに涙は出てこない。怒っていいはずなのに力も出てこない。ただ俺を支えてくれる人に身体を預ける。そうしなければ一人きりじゃうまく起き上がることすら敵わないから。
「樹」
「ラザー?」
「思い出したんだ」
 彼の喉が小さく鳴る。そして俺に必要な静寂を与えてくれた。
「初めて僕を犯したのは清明じゃなかった。初めて僕を犯したのは、あの人だった」
 そして何度も繰り返されたのだろう。開かれた記憶が教えてくれた、僕はあの人に犯された後は必ずその事実を忘れていたのだ。それが意図的だったか偶然だったかなどはどうでもいい。信じたくなかったから信じなかっただけなのだ。僕が信じなければそれは事実にならない。あの人はずっと黙っているから、僕さえ認めなければあれは闇に消えてしまうのだ。
 僕はあの人に犯されていた。あの人は僕をそういうふうに使っていた。そして幾度も「愛している」と言った。僕に彼以外の愛を受け入れさせない為に、他人との行為は汚いものだと言葉で教え込んでいたのだ。
 僕の世界は。
「ラザー、おいで」
 顔を上げる。月の光に照らされた顔がこちらを見ている。
「こっちにおいで。俺の世界に……おいで」
 手が差し出されていた。それに気付かずに長い時間を一人きりで走っていた。失うものがなくなった僕は水の底でうずくまっている。だけど僕に手を差し出す人間が僕の目の前に確かにいるのだ。
 僕は力の限り手を伸ばす。そして自分から彼の手を掴む。二度と離してしまわないように、ぐっと力を込めて掴む。すると相手は僕の手を握り返した。僕は彼と共に生きることができるのだと知った。
 水の外へと出た刹那に美しい波紋が広がっていく。それが徐々に小さくなり、僕の身体は空よりも高い所にあった。
 手の中のぬくもりを知りながら、僕は、ようやく居場所を見つけたのだと――そう感じた。

 

 

 

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