帰りたい。
 いや、帰らなければならない。
 私が守らなければならないから。
 私しか守る人がいないから。
 だから、帰りたい。
 帰らなければならないのに。

02

 空は青い。それは当たり前のこと。
 太陽は赤い。それは常識。
 だけど自分が見ているものは、当たり前のものや常識のものではなかった。
 困惑してくる。
 どうして空が白くて、どうして太陽が黒いのか。
 こんなもの見たことがない。
 視界に入ってくる世界の景色に、少女は驚愕していた。

 

「アクロス。おーいアクロス!」
 若い青年の声が白い世界に響く。その先にいるのは赤い髪の少年だった。少年は丘の上に登り、色のない景色を眺めている。
「何か見えたか?」
 青年はひょいと丘を登り、少年、アクロスの横に並んだ。少年は静かに首を横に振る。
「白と黒ばかりだよ」
「ま、そうだろうな」
 ふう、と息を吐く。青年、ロウは背中に背負っていた大きな荷物を地面に下ろし、自分もその場に座り込んだ。
 少年はその荷物を訝しげに見つめる。
「何? それ。ずっと持ってるけど」
「ああ、これか?」
 アクロスの問いにロウは確かめるように荷物を指差した。そして軽く持ち上げて見せる。
「お前には関係ない物だよ」
 再び地面に下ろすと、青年はにっと笑って見せた。それを見てアクロスも地面に座り込む。
「もしかして、戦争の物?」
「さあ、どうだろうな」
 少年の問いを軽くあしらうようにおどけて答えるロウ。アクロスはこれ以上何を言っても無駄だと感じ、口を閉じた。
 ロウはアクロスの知っている限りでは戦争の経験者だった。しかしそれ以上のことは何も知らない。彼は少年の兄のような存在であり、同時に唯一の理解者だった。だから少年は青年の言葉を信じて疑わず、彼の言葉を絶対のものと思い込んでいた。
 実際にこの世界には絶えず戦争が勃発しており、ロウの言うことはあながち嘘のようには聞こえなかった。
「表にも戦争はあるの?」
 それは何気ない質問。しかしその問いに答えられる人は誰一人としていなかった。

 ――否。答えられる人はいた。

 

 黒い空間の中を少女はさまよっていた。上も下も右も左も分からない空間だったが、何にもぶつかることなく前へ進むことができたのでずっと歩き続けていた。
 少女は自分の記憶を思い起こしていた。
 一体何が起こったのか? なぜ自分はこんな場所にいるのか?
 自分には助けを必要としている人がいる。その人のためにも早く家に帰らなければならないと思い、帰路を急いでいた。
 そして普段は使わない道を選んで進んでいった。そして気がつけば、黒い空間の中に取り残されていたのだ。
 早く帰らなければならない。そんな思いが少女を急かし、黒い空間に入ってからも足を前へと進ませてしまった。
 もはや帰る道はなかった。
 黒い空間を横切り、少女は一つの汽車のような乗り物を見つけた。
 まるで吸い寄せられるように中へ入ると、汽車は音も立てずに走り出した。
 黒い汽車は黒い空間を駆けぬける。少女はそれを止めるすべを知らない。
 やがて汽車は止まり、少女は足を地面に下ろした。
 大きな扉が少女を迎え、少女は扉をゆっくりと開いた。
 視界に入るのは白い空間。
 振り返って後ろを見てみると、そこにはすでに扉も黒い空間もなかった。
 少女は孤独になった。また取り残された。
 これはほんの数分前のことである。

 

「あそこに誰かいる……」
 気がついたのは少年だった。丘の上で立ち上がり、見たことのない人物の姿をじっと見つめている。
「そりゃあ人くらいいるだろ。この世界は広いんだから」
「違うって! 同じなんだよ、僕らと」
 珍しく声を荒げるアクロスの言葉にロウは起きあがる。そして少年の見つめる先を自分の目でも見てみた。
「あれは……」
 少年と青年が見つけた人。その人は、二人と同じように色彩を持った髪をしていた。
 それだけではない。二人からは遠くてよく見えなかったが、服装も色彩のある鮮やかなものだった。
 この世界の人じゃない?
 ――表の、世界の人?
 少年の心に変化が生じるのに時間はかからなかった。
 青年が何か言うその前に、アクロスは丘を駆け下りその人の元へ走りだしていた。
「あ、アクロス……」
 すでに青年の言葉は少年には聞こえない。ロウは荷物を背中に背負い、アクロスの後を追って丘を下りていった。

 

 少女は、その時初めて『色』を見た。
 白や黒はすでに見てきたが、それは到底『色』と呼べるものではなかった。
 やっと見つけた色は赤だった。燃えるような炎の色。
 そしてもう一つは青。静かで、だけど深い海のような静寂の色。
 少女は人と出会った。

 少年は初めて知らない色を見た。
 今までに見たことのない色だった。そんな色を、目の前の人は持っていた。
 相手にとっては当たり前かもしれない色彩。だけど少年はそれを知らなかった。
 それはやわらかい栗色だった。茶色よりもいくらか明るく薄い、静かな色彩だった。
 少年は人と出会った。

 青年は、後ろで二人を見比べていた。
 ただ静かに様子を見ていた。それだけだった。
 相手を怪しむこともなく、逆に相手をどうにか導いてくれる人に仕立て上げたいという思いが溢れていた。
 色彩については何も驚くことはなかった。なぜならそれを知っていたから。
 青年は孤独と出会った。

 

「……あなたは?」
 驚きの中から抜けきれないでいる少年や相手に代わり、青年は口を開いた。
 目の前にいるのは見たこともない少女だった。かなり困惑しているのか、なかなか口を開いてくれそうになかった。
「えー、俺たちは怪しいものじゃありません。だよな? アクロス」
「えっ? あっ、うん、そうそう!」
 こちらはこちらで困惑しているようだった。ロウはやれやれと一つため息を吐く。
「何も取って食おうってわけじゃないんだから。そんなに驚いてくれなくったっていいだろうに」
 おどけてロウは肩をすくめて見せた。少女はその動作をまっすぐ見ている。どうやらやっと困惑から解放されたらしい。
「えっと、君は誰かな? どこから来たの?」
 ようやく口を開いたのは少年の方だった。今度は少女はそちらに目をやる。その瞳は髪と同じ栗色をしていて、少年はじっと見入ってしまった。
「……私は」
 小さな声で、ゆっくりと口を開く少女。
 二人は少女の声に静かに耳を傾けた。
「私は沙紀(さき)。日本から、来たの」
「ニホン?」
 聞きなれない単語に二人は首をかしげた。
 すっと少女の表情が苦渋のものに変わる。
「知らないの……?」
 アクロスは素直に首を縦に振った。それを見た少女は、ますます顔を歪ませた。
「そんな、そんな。私は帰らなければいけないのに。早く帰らなければならないのに! ねえ、どうすれば私の世界に帰れるの? 私は帰らなければならないのよ!」
 先ほどとは打って変わって少女は二人に訴えかける。少年と青年はその様子を見てすっかり困ってしまった。
「まあまあ、サキちゃんだっけ? 落ち着いて落ち着いて。俺の話をよく聞いてね?」
 ロウは少女の肩に手を置き、落ち着かせるように穏やかな口調で言った。
「はっきりとしたことは分からないけど、多分君は表の世界の住人で、裏の世界、つまりここに迷い込んでしまったんだと思うよ」
「……裏の、世界?」
 少女、サキは今度は打って変わってぽかんとしてしまった。
「俺たち一応表の世界へ行こうとしてるんだけど、その様子じゃあ、行き方とか分かんない……よな?」
 青年の問いに、サキは素直に一つ頷いた。
「じゃあ、どうしようか? その姿だったら街に行っても変な目で見られるだけだし……」
「一緒に行こうよ」
 悩んでいたロウはすぐさまのんきそうな意見を言った少年を見る。アクロスはにこりと笑い、再び繰り返した。
「大丈夫、一緒に行こう」
 はたしてそれはよかったのか悪かったのか。
 ロウはしばらく悩んでいたが、少年の意見に承諾を示した。
 裏の世界に迷い込んだ少女も他に頼る人がなかったので同意する。互いに互いを紹介し合い、三人は白い世界の道を歩き始めた。

 こうして三人は出会った。

 

 

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