06

 カイは戸惑っていた。どうしていいか全く分からなくなって途方にくれた。
 自分が書いたものを他人に読まれるのは何とも不思議な感じがするものだ。それが自分で書いておきながら全く覚えていない内容なら尚更。
「……天って」
 最初に口を開いたのは青い髪の青年。
「天って、あの、上にある――天だよな」
 ロウの問いかけは誰にも答えられるはずがなく、虚しく空をさ迷っていく。
「なんだか全然わけが分からないんだけど」
 難しそうに頭をひねっているのは一人の少年。本当にわけが分からなさそうに何やら必死になって考えていた。
 しかしそれよりももっとわけが分からないのは言うまでもなくカイだ。こんな絵空事のような内容の日記をどうして自分が書いたと信じられるだろうか。それに天などという存在は誰も知らない場所なんだ。それが一体何になるというのか。
 ふとカイが目をやると青年は頭を抱え込むようにして何かを考えている。見方によっては深く悩んでいるようにも見えなくはない。そっと耳を澄ましてみるとしきりに何かをぶつぶつと呟いている声が聞こえた。
「どうすればいい、どうすればいい?」
 誰かに聞いているのだろうか。まるで質問でも投げかけるような口調にカイはますますわけが分からなくなって頭がこんがらがってきた。
「あの、みんな」
 唐突に響いてきたのは今まで黙って佇んでいた少女の声。はっとしてカイが顔を上げると、栗色の髪の少女は瞳に迷いを込めながらも凛とした表情で言ってのけた。
「私、その天って場所へ行ってみたい」
 まっすぐな言葉に誰もが自らの行動を停止させた。
 ただ唯一顔を上げなかったのはロウだけ。

 

 四人は白い空の下にいた。
 カイは黙って突然訪れた三人について行くことにした。理由ならいくらでも出てきそうだが今はただ自分のことが知りたかった。自分が何者なのか自らの目で見たかったのだ。
 単純で深い理由。それだけで三人はあっさりと許してくれた。許すと言っても彼らに断る理由などなかったのだが。
 カイはおろおろしていた。三人が訪れてからずっとそうだ。周囲の状況についていけずに常に不安を抱えている。今も白い大地の上を歩きながら前を歩く三人の表情にやたらと注意していた。
 アクロスは相変わらず前を見つめている。前だけを見つめてそのままどこかへ走っていきそうだ。
 サキの瞳はぼんやりとしていた。栗色の髪が風になびいて気持ちよさそうに揺れる。
 そしてロウはまだ頭を抱えているようだった。考え事がうまく片付かないらしい。カイにもそういうことがあったような気がして、なぜか懐かしさと共に親近感が沸いてきた。昔のことなど忘れてしまったというのに可笑しな話だ。
 思いっきり頭を振ってカイは妙な気持ちを消去する。
「あ、あのさあ――」
 もう駄目だ。耐えられない。そう言わんばかりにカイは話を持ち出した。
「天ってどんな所なんだろうな? やっぱり天って言うだけあるから高い場所にあって、人なんかが入れるような場所じゃないんだろうなぁ。天に入るには大きな門があってそれを通り抜けるには門番から許しを貰わなきゃならなかったりして。その門番が話しにくい奴だったら嫌だな。正座なんかさせられたら俺はもうすぐにでも諦めちまいたくなるよ。だけど何とか門をくぐった先には目一杯の光が満ちてるんだ。楽しい笑い声が聞こえて、気分がうきうきして何でもないのに嬉しくなって、視界には色彩の溢れるものがいっぱい広がっていてさ。全て光でできているんだ。高い建物も、包み込む空も、咲き乱れる花々も。全て光。なんて綺麗な光! 天はまるで光の都だ。何者も立ち入ることを許されない聖なる要塞だ。その中央の最も深く高い場所には神がいらっしゃる。世界を創造せし偉大なる神、世界を見守りし慈悲深い御方! 神にもきっと名前がある筈だ。何だろう? マルドゥク? エンネア? それとも――」
 自分でも驚くほどに言葉が口から流れ出て止まらなかった。何を言っているのか理解できなかった。こんなのただの空想だ、ありもしないことだと言い聞かせても止まってくれない。しまいにはこんな自分に耐えられなくなり、カイはぼろぼろと涙を流して泣いてしまった。
「そうだ、マルドゥクだ、エンネアだ。よく分かったな、驚きものだ!」
 後ろから聞き慣れない声がした。涙が出てきそうになるのをぐっと押さえてカイは振り返る。気がつけば四人の足は完全に止まっていた。
 カイの後ろに立っていたのは黒い影。
「驚いたよ。本当にさ。その想像力もたいしたものだ! いい意見だね、どこでも通用しそうな平凡なものじゃない。光か。光で作られた都。試してみる価値はありそうな代物だな。そして門番のことも」
 相手の言葉を聞いてカイは一気に恥ずかしくなってしまった。あの言葉を聞かれていたんだ。なんて恥ずかしい。同時にそれを恥ずかしいと思うことを恥ずかしいと思った。しかしその思いには気づかないふりをしていた。
「そこまで分かってるなら俺の名前だって分かるんじゃないのか?」
 カイの前にいる影は他の者には目もくれない。カイだけに集中している。黒い布に隠された瞳はカイだけを貫いていた。
 どうして。
「らい?」
 試しに呼んでみた。
 相手はかぶりを振る。否定する。ゆっくりと。
「そうかお前、あいつの知り合いなんだな」
 影は一人で納得した。
 あいつ。親しみのこもった呼び名。この人はらいの知り合いなんだ。カイもまた納得した。
「あなたは一体――」
 手が宙をさ迷った。黒い影に向けてのばしたはいいがためらっていた。このまま先にあるものを掴んでしまっていいのか。後戻りができなくなるようになってしまっても構わないのか。

 だけど知っている。この人は俺を知っている。
 俺という人を。カイという人間を。
 知っている?

「カイ!」
 自分の名前が呼ばれてはっとした。カイはぴたりと動作を止めた。いや、もしかしたら意識せずとも誰かに止められていたのかもしれない。
 止まったかと思うと目前で白い光が煌いた。煌きは破裂する。何だか分からない力をまともに食らってカイは後ろへ吹き飛ばされてしまった。
 わけが分からない。
「カイさん!」
 サキの声が聞こえる。思わず放心してしまったカイはその声によって我に返った。ゆっくりと体を自分の力だけで起こす。
 痛みは薄い。まるで咄嗟に防御でもしたかのように。
「大丈夫?」
 少女は心配そうに傍へ駆け寄ってきた。カイは立ちあがってみせた。自分でも驚くほど身体は丈夫だった。それによってさらにわけが分からなくなってしまった。
「お前、何するんだよ!」
 怒りをあらわに叫んでいるのはアクロス。彼の赤い髪が燃えるようにざわついているのが分かる。それは今にも飛びついていきそうな小さな獣だ。
「何をする、だって? 人聞きの悪い。命に別状はないのだからよかったじゃないか。それに」
 まともに少年と向き合っている黒い影は一度言葉を切り、わずかに見える口元をほころばせて淡々と言う。
「どうせ巻き込まれた庶民の命だ。無くなろうと消滅しようとそんなものは問題じゃないんだ」
「お前――っ!」
 堪え切れなくなったのか、アクロスは地面を蹴って影の元へと走った。瞳には強い意志が宿ってぎらぎらと光っている。そして両の手は目の前にいるものを打ち壊すための握り拳へと変化していた。
「へえ、あなたが? あなたが俺の邪魔をすると? あなたが俺に楯突くとでも言うのですか? 愚かだな、何の力もないくせに!」
「五月蝿い! お前なんか、お前なんか!」
 確実に両者の距離が縮まっていくのをカイは見た。体中が麻痺したように動けなかった。何か叫ぼうとしても喉がつかえた。
 それでも何かをしたかった。声の限り叫びたかった。何を? 何と叫ぶ? 何でもいい。引けと言うのか、進めと言うのか? どちらでも構わない。叫んだとしても声は届かないだろうから。声を発して叫ぶことと、誰かに何かを伝えることというのは似ているようで全くの別物なのだ。
 カイはそれを知っていた。知っていたからこそ叫びたかった。声の出ない自分の身体を恨んだ。憎んだ。
 やがて何かと何かがぶつかり合う音が聞こえた。カイは思わず目を閉じる。暗闇になる。
「な、なんで」
 目を閉じるとなかなかそこから抜け出せられなかった。自分の心臓の高まりが時を打つように早く感じられた。
「どうして!」
 しかしすっと何かの拍子に目を開ける。二回続けて聞こえた声が不可解だったのだ。
 誰の声か? 少年のものだ。
 目を開けて見たものにカイはあっと声を上げそうになってしまった。
 静止したものたち。手をのばしかけて止めている少女。黒い布を被り直す影。そして影に向かって拳を振り上げている少年と、影を守るようにして立ちはだかる青年の姿。
「アクロス」
 その声は誰のものなのか誰にも分からなかった。確かに青年の口から出たものであるけれど、普段のそれとあまりにもかけ離れすぎていたのだ。
 影はちょっと頭の布を手で持ち上げた。
「どうして、どうして止めるのさ。あんな酷いことを言った奴をどうして庇うんだよ! 僕はこんな、こんな人の命を軽く扱うような奴が許せないんだよ!」
 祈るような口調の少年は自分より背の高い相手を見上げている。
「そこをどいて。どいてよ、ロウ!」
「無理だ」
 サキはのばした手を引っ込め、胸の上に乗せて状況を見守った。
「どうして――」
「ここで引いたらお前もこいつと同じようになっちまうからだ!」
 青年の声が大地に響き渡った。
「お、同じなんかじゃない」
 足元がぐらついた少年と、叱りつけるような意志のしっかりした青年。
 はたしてどちらの言い分が正しいのか。
「同じじゃない。同じじゃないよ。僕はこの人を殺そうだなんて思ってなんかいない。僕はこの人とは違うよ!」
「違わない。殺そうと思っていなくてもやっていることは同じだ。現に先程のこいつの行為を見ただろ? こいつはカイを傷つけはしたが命までは奪ってないだろ?」
 アクロスは何も言えなくなる。
「分かってくれ。俺はお前に俺と同じような道を歩ませたくはないんだ」
 申し訳なさそうに少年の頭を撫でる青年の顔をカイは黙って見ていた。

 

 ――馬鹿馬鹿しい。

 

 カイはふとおかしなことに気づいた。影の姿が消えている。
 前にいる二人はそのことに気づいていない。何か嫌な予感みたいなものが胸の中をよぎったように思えた。
 どこか近くの方から小さな音が聞こえた気がした。びっくりしてカイはそちらに目を向ける。
「あ」
 声を出してしまってさっと口を塞いだ。
 そこにいたのは黒い影の人。頭から被っていた布を外してその顔をカイに見せている。
 男だった。若い若い、ロウと同じくらいの年の。髪は輝くような金髪で、少し癖があるように曲がっており短い。瞳も同じ色に輝いている。その視線は睨まれたら痛いように思えるほど鋭く尖っている。
 髪に隠れて四角い棒状のピアスのような物が見える。両耳に一つずつ。大きさは握り拳ぐらいか。それも金色に輝いていた。
 影はカイの視線に気づいたようだったが何も言ってこなかった。彼の視線の先にあるものは何なのか。
 すぐに分かった。サキだった。カイの斜め前にいる栗色の髪の少女なんだ。
 しかしサキは影の視線に気づいていなかった。影はサキの斜め後ろ辺りに立っている。サキは前にいる二人を見ている。気がつかないのも当然なのかもしれない。
 それでもカイは気づいてしまった。
 心臓が高鳴る。
 何をしようとしている。
 何が目的だ。
 何を求めている。
 何のためにここへ来た。
 頭がくらくらしてきた。
 影は一歩前へ踏み出す。小さな音がカイの耳にも届いた。
「なあ」
 声を出してみたけれど誰も気づいてくれなかった。それほどまでに小さすぎる声だったのだ。
 影はまた一歩前進する。
 膝ががくがくした。
「サキ」
 危ない。逃げた方がいい。影が君を狙ってる。
 言いたい言葉はたくさんあるのに声にはならず頭の中から消えていく。
「ロウ、アクロス」
 気づいて。頼むから気づいて。
 誰か気づいてくれよ。俺に全てを押し当てないでくれ。
 お願い――。
 音が止んだ。
 カイはまたびっくりしてしまった。影のいる方へ視線を向ける。影はちゃんとそこにいた。場所を変えたりせずに、逃げたりもせずに。
 ただ違うことは、カイの目を見ているということ。
 相手と目が合った瞬間、カイの思考は凍りついてしまった。
「え……?」
 耳の中に入ってくる雑音。
「大丈夫。あなたの目的の地へと私が運んでさしあげましょう」
 細い少女の身体に後ろから回された腕。優しく包み込むような行為に驚いている栗色の瞳。
 目に映る光景。
「な、何? 何をするつもり? 私をどうする気?」
 少女の声によってやっと二人の青年と少年もこの状況に気づいたらしい。しかし気づくのが遅すぎた。
 カイの視界に光が映った。
 びっくりしてまばたきをすると、そこにはもう少女と影の姿は残されていなかった。

 

 

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