08

 静まり返った空間の中をサキは歩いていた。
 彼女の前を歩いているのは真っ黒の服を纏った金髪の青年。サキをここへ連れてきた人だった。
 サキはざっと周囲を見渡してみる。そこには多くの建物があって、たくさんの人の息遣いが感じられそうで、だけど誰一人として姿を見せるものはいない淋しい場所だった。そして全ての建物はこれ以上ないほどにぼろぼろに崩れていた。まるでそこは廃墟だった。
 青年はサキの手を掴んだまま無言で歩いていく。ただひたすら前へ歩くだけで、周りのものに目を向けることなど一度もなかった。彼もまた一つのものだけに集中して前だけを目指しているようだった。
 そんな青年の後ろ姿をサキはぼんやりと眺めていた。一体どこへ連れて行かれるのだろうとか、何のために自分が連れてこられたのだろうとか、そういう疑問もあったことはあったのだが今はそんなことはどうでもいいことのように思えた。そればかりか、なんだか自分はこの景色のことを知っているような気がしてならなかったのだ。
 風もない空間。全てを囲っているのは美しい空色。そして壊れた建物や大地。ここが天だというのだろうか――サキはぼんやりとした頭で考えた。
 やがて二人は大きな建物の中へ入っていった。そこは他の建物よりもずっと大きく、そしてやはり壊れていた。昔は厳かな彫刻などが威厳を醸し出していたのかもしれないが、今ではそんなものはすっかり無意味になってただの瓦礫の山になっていた。
 建物の中は暗かった。だけど妙に明るかった。どこからか光が差し込んでいるらしい。青年は中央の広間まで歩くとそこでぴたりと足を止めた。サキもまたそこで止まる。
 青年はサキの手を離した。そしてくるりと振り返り、じっとサキの目を見た。
 対峙するのは金色の瞳。
 彼は周囲の景色とは似ても似つかなかった。どうしてか分からないけどサキはこの青年と周囲のものとを比較していた。周囲のものは淋しい。けれど、この人はとても――。
「あなたの名前は?」
 声をかけられ、サキははっとした。すると急に不安が胸の中を支配した。
「どうして、どうしてあなたに教えなければならないの?」
「アナエル」
 心臓の鼓動が高鳴る。
 何を言っているのだろうこの人は。
「あなたの名前は、アナエル」
 身体が凍ったみたいに動かなくなっていた。
 何を恐れているのだろう、自分は。
「無事でよかった」
 そして少女は力を失い、地面に膝をついた。
 青年はそんな少女の姿を見つめながら、相手の心に触れられない自分がもどかしいと思っていた。

 

 観察者の青年は、影は、ずっと栗色の髪の少女だけを見つめていた。
 少女の周囲には他にも人がいたが、そんな人のことなどどうでもよかった。ただ栗色の髪の少女だけを、自分が救いたいと切に願ったあの少女だけを追いかけていたのだ。
 その少女が今自分の目の前にいる。自分の前で困惑している。自らの本当の姿も知らないで、ただ直面しそうな事実を拒むかのごとく瞳で訴えている。
 彼はしゃがんだ。少女の瞳がまっすぐ見えた。栗色の瞳は彼をどのようにとらえているのだろうか。彼は自分でも気づかないうちに相手に手を差し出そうとしていた。
 しかし影は少し俯いた。のばしかけた手を引っ込めた。影は相手の顔を見た。相手は厳しい表情をしていた。彼はそれを読み取ってしまったため何もできなくなったのだろうか。
 相手はとても厳しい表情で――それでも恐怖を隠し切れない表情をしていた。
 違う。彼は違うと思った。こんなことをするためにこの人をここへ連れてきたわけじゃない。この人を連れてきたのは、この人を守るため。
「あなたは全て忘れてしまわれた」
 口から出てくるのは敬意に縛られた嘘ばかり。
 構わない、あなたは何も知る必要はない。忘れてしまったのならそれでもいい。あんなことは知るべきことじゃないのだから。
 心の内では二つの思いが交差していた。
「あなたは私のことも覚えていないのですね」
 知らない方が、幸せになれる。知らない方がいいものは世の中にごまんとあるのだから。だから知る必要はない。知れば必ず、悲しみに捕らわれてしまうから。
「いいのです、あなたには何の罪もない――」
 だけど本当は。
「こんなことに巻き込んでしまい申し訳ありません。ですが今はあなたの力が必要なのです。見てのとおりここは崩壊してしまいました。ここは世界の中心です。このままだと世界は崩壊してしまうのです。
 あなたは創造を司る者なのです。だから私があなたをこの世界へ導きました。迷惑なことだとは充分存じ上げております。ですが我々も命ある者。自らの命を守りたく、あなたの力を借りたいと考えたのです。
 難しいことではありません。容易です。そして全てが終わったならばもうお帰りなさい。この先へ踏み込んでいっては決してなりません」
 本当は、ずっと。
「力を貸してください」
 ずっとずっと。
 青年は手を差しのべた。少女は少し戸惑いながらも、その手にそっと触れた。
 そして青年の顔を見ながら静かに言う。
「あなたはどうしてそんなに悲しいの?」
 触れた手は温かい。

 気づかないふりをしていた。心の中で渦巻く二つ目の思いなんかには。
 知らないふりをしていた。一番目に言いたかったことを言えないもどかしさなんかには。
 でも彼の仮面は完璧ではなかった。感情が表に出てしまった。
 一筋の涙が頬を伝う。

 

 淋しい。
 嬉しい。
 もどかしい。
 腹立たしい。
 そして、哀しい。

 

「あなたが無事だったので安心したのですよ」
 出てきたのは二つ目の本音だった。
「だけど本当はあなたに忘れられたことが悲しいのです」
 そして最も言いたかった言葉が外に出る。
「関わってはなりません。関わっては……いけないんだ。そうでなければ君は壊れてしまう。君は幸せにはなれないんだ。俺は必ず君を守ると誓った。神だからじゃない。神なんか関係あるもんか。俺は俺なんだ。俺は神なんかじゃないんだ。だから――」
 ずっとずっと伝えたかったこと。伝えたかったけど伝えられなかったこと。
「こんな世界の理(ことわり)なんかに縛られてはいけない」
 そしてそれは誰かから自分に言ってほしかった言葉でもあった。
 目の前の少女は何も知らない。何も知らないからきっと何を言っているのか分かっていないのだろう。それでいい。それが本来あるべき姿なのだから。
「あの、あなた」
 おずおずとした、でも優しさのこもった声で少女は問いかけた。
「あなたの名前は? 私はね、沙紀っていうの。違う世界から来たの。たくさんの色のある世界から来たの。……」
 青年は栗色の髪の少女を見た。瞳を見た。それでも彼女の心の内までは見えなかった。それが当然であるはずなのに、彼にはそれがとてつもなく嬉しく感じられた。
「……エン」
「え?」
 青年は首を横に振る。
「いや、アスター」
 定められた名前を否定した。そして『自分』の名前を相手に教えた。
 それが意味することを相手は知らない。
「あなたは本当は悪い人じゃない」
 手を握ったまま少女は言う。じっと青年の金色の瞳を見続けながら。
「なんだかとても哀しい人。あなたは自分を隠しているみたい」
 握った手は温かかった。だけど青年の手はいつも冷たかった。
「そうでしょう? アスター」
 青年は――アスターは表情を崩さなかった。

 

 

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