09

 誰にでも知られているおとぎ話のような昔のこと。世界創造の話。現在それを知っている者は誰もいない。
 なぜならそれはこれから起こることなのだから。

 

 少年のサキを助けたいという思いは本物だった。もしも彼女を助けられるなら自分は表の世界へ行けなくても構わないと思うほどであった。あれほど行きたかった表の世界も、栗色の髪の少女に比べればちっぽけなものになっていたのだ。
 その思いにアクロスは気づいていた。しかし彼はそれを恥じたり隠そうとしたりなどはしなかった。そう思うのが当然だと言わんばかりに思いのままに行動していた。
 三人は天への階段をひたすら上っていっていた。それは限りがないのかと思われるほど高く長いものだった。しかし何ものにも限度というものがあるように、この長い階段にも頂上というものが存在した。
 辿り着いた場所には一つの大きな門があった。
 門といってもそれはもはや門とは呼べない代物になっていた。元は何かの彫刻などが施されていたのだろうがそれは跡形もなく壊されており、ただ高い空まで届きそうな柱が一本のびているだけだった。もう片方の柱は床に倒れてぼろぼろに風化している。
 そんな光景を眺めながら三人は門の向こう側へと足を向けた。
「ここが天なのかな?」
 アクロスは思ったことをそのまま口にした。
「ここにサキがいるんだな――」
「なあアクロス」
 また先へと一歩踏み出そうとした時、後ろから声をかけられて少年はぴたりと踏みとどまった。
 振り返ると青い髪の青年が目に入った。普段よりもちょっとだけ真面目そうに見えるその表情は何かよくないものでも抱えていそうで、アクロスはそんな表情を見るのがとても嫌だった。
「どうしてあの影はサキちゃんをここに連れてきたんだろうな」
「どうしてって……」
 アクロスはどう答えていいか分からなかった。そんなことは自分はあの影じゃないから分かるはずがない。それくらいロウも分かっているはずなのに、なぜわざわざ答えられない質問をしてくるのかその方がずっと分からなかった。
 その思いを察したのか、ロウはすぐに表情を変えてアクロスの頭を力任せになで始めた。
「なんてな。ちょっと聞いてみただけさ。さあ、早く行こうぜ」
 また子供扱いされたようでむっとしたが文句を言う暇もなくロウは先へ歩いて行ってしまっていた。アクロスは一つため息を吐いた。これからサキを助けに行くというのにどうしてこう緊張感というものがないのだろう。そんな思いを胸に秘めながら、少年は大人のような気分で青年の後を追い始めた。
 少年の後からは剣を握ったままのカイがついてきていた。彼は先程から周囲の様子をしきりに気にしているらしく、絶えず落ちつかない様子でおろおろしていた。前を歩く二人は彼のことにはお構いなしであったが、今はかえってそれが嬉しいほどであった。
 三人は再び目的地へと向かい始めた。

 

 天の中心地では雨が降っていた。本来なら降るはずのないその雨は銀色に濁っており、成分は水ではなく何かどろどろしたものでできていた。
 降りしきる銀色の雨の中でアスターは目を閉じ、祈っていた。その隣にはサキもいた。彼女はじっとアスターの様子を眺めていた。その瞳の中には疑いや恐怖はなかった。
 急にアスターは祈りをやめた。どろどろした銀色の雨が身体中に纏わりつく。しかし彼はそんなことは気にもとめずにただ自分のすべきことだけに集中していた。
 身体を風のようにして舞う。
 彼の衣服は銀色に染まっていた。真っ黒だったものが輝きを持っていた。それは彼に似つかわしくないものではなく、雰囲気や空気にぴったり合ったような、まるで彼のためだけに作られた色彩になっていた。
 光の衣とどちらが綺麗だろうか。サキはぼんやりとそんなことを考えていた。だがすぐに我に返り、なぜ光の衣などという物が頭の中に浮かんだのかわけが分からなくなってしまった。
 少女は完全に彼のことを信用したわけではなかった。ましてや心を許したわけでもなかった。だけど確かに伝わってくる思いがあって――彼女はそれを知っているような気がして、彼の中の哀しみを取り除いてあげたいと願っていただけだった。だから彼女は彼の傍でじっとしていた。
 自分がいるだけで救われるとは思えない。だけど少なくとも彼は自分を見ている。見失ったものを見つけた人のようにじっと自分だけを見ている。だったら自分はここにいるべきだ。確かに残してきた人たちのことは気がかりだけど、少女にはどうしてもここを離れることができなかった。
 サキはそっと目を閉じた。降りしきる雨の音だけが少女の耳に届いていた。

 

 雨の中を歩く足音がアスターの頭に響いた。
 青年はぴたりと動作を止めた。それと同時に銀色の雨もやんだ。それだけでなく彼や少女に纏わりついていた銀色のどろどろしたものも姿を消してしまった。アスターはまた真っ黒の影のような容姿になる。
 隣でサキが驚いた声を上げたのが聞こえた。しかし彼にとってそんなことはどうでもよかった。
 最初に見えたのは赤い髪の少年。次に青い髪の青年が、そして最後に時の止まった男の姿が目に入った。
 彼は少し考え込んでから、自らまた『影』になることを決めた。

「どうもこんにちは」
 影の青年は三人に声をかけた。彼のすぐ隣には驚いた顔をしているサキがいる。
 アクロスはただ感情のままに一歩前へ出た。
「サキ、大丈夫だった?」
 声をかけられた少女は少しのあいだ黙っていた。言うべき言葉が見つからないように必死になってそれを探していた。
 やがて出てきた言葉は本当の気持ち。
「私なら大丈夫。でもこの人は本当に悪い人じゃないの。どうかこの人を責めないであげて。私なら大丈夫だから」
 それだけを言うと今度はサキは影の方に視線を向けた。
「アスター、私はあなたの言うとおりにするよ。だからあの人たちを巻き込まないでほしいの。あの人たちはとても優しい人たちよ。優しい人を苦しめるようなことはしないで。あなただって本当は優しい人なんだから。
 ねえ聞かせて。私はどうすればいいの? どうすればあなたを哀しみから解放させてあげられる? どうすれば世界を助けられるの?」
 アスターと呼ばれた影は黙っていた。アクロスもロウもカイも黙っていた。誰も喋らなかった。そんな中でサキはじっとアスターの顔だけを見つめていた。
「――いけませんよ」
 やがてアスターは静かに口を開く。
「いけませんよ、沙紀様。あなたは勘違いをしていらっしゃる。あの者たちは決して優しい者などではありません」
 彼の言葉を聞いてサキは変な顔をした。怒っているような、それでいて悲しそうな顔だった。その表情には疑問がありありと刻み込まれている。アスターはそれを認めても少しも態度を変えなかった。
「それでは全て忘れてしまわれたあなたの為に私が解説させて頂きます。
 あの剣を持った男は時の呪いに縛られております。それだけでなく自らの力のなさに絶望しており、才のある者に対して異常なほどの憎しみを抱いております。あれは優しさなど持っていません。あれが優しさを持っていたのは昔だけの話なのです。
 あの青い髪の青年はあなたや他の者に対して秘密を抱えています。極端に言ってしまえばあなた方を騙しています。利用しています。正直に申し上げますとあなたをここに召喚したのは私よりもあの者の方が早かったのです。もちろん私も召喚するために力を使いましたが、厳密に言えば私ではなくあの者があなたを召喚したのです。そしてあれは私と同じ目的を持っております。立場としては別の位置に立っていますが、私とあれとでは同じ目的の為に動いているのです。あれは私と同じです。私と同じで少しも優しくなどありません。
 そしてあの赤い髪の子ども。彼が最もたちが悪い。今ではすっかり忘れてしまっているようですが、あれは優しい者などではありません。あれがこの中で最も酷い者です」
 アスターがそれだけを言うと辺りはしんと静まった。それぞれが異なる表情をしていた。彼の台詞は三人とサキに大きな打撃を与えた。アスターは静かに目を閉じた。
「……どうして」
 最初に口を開いたのは、『酷い者』と言われた赤い髪の少年だった。
「どうして僕は酷いのですか?」
 少年はアスターに問いかけた。アスターは目を開け、ちらりと赤い髪の少年に視線を向けた。そこには明らかに軽蔑の色が浮かんでいた。アクロスは素直な心を隠すまいと必死になっていた。
 空気がざわつき始めた。サキはアスターの軽蔑の色を読み取って不安になった。一歩アスターの傍へ寄り、彼の黒い服を手で握った。
 サキの気持ちを感じて、アスターは複雑な気持ちが胸の内に現れるのを感じた。彼女の手を振りほどいて一歩遠ざかった。サキの顔を見ても少年への軽蔑が消えることはなかった。
「なぜあなたが酷い者なのか?」
 問いかけを繰り返すように影の青年は吐き出す。
「酷いと言う他はないでしょう」
 少女から離れてアスターは少年に近寄っていく。
「だってあなたが――」
 青年はぐっと手を前へ突き出した。そこにあるのは、問いかけるような少年の顔。
「お前が天使を創り始めたのだから!」
 アスターはアクロスの頭を掴んで地面へ押し潰すように倒した。それを見てロウとカイはアスターを止めた。ロウはアスターの両腕を掴み、カイは自分でも驚きながら剣を彼の首筋に突きつけていた。
 しかし最も驚いていたのは他でもないアクロスであった。
「てん、し?」
 ゆっくりと体を起こし、何も分からない子供のように耳にした単語を口の中で繰り返す。
「つくり……?」
 呟きながら、頭の中で何かが囁いていた。聞いたことのない声が自分の中に潜んでいた。それが何を言っているかまでは分からなかったが、小さな少年の心の中では大きな何かがぐるぐると渦巻いていた。
「そうさ、お前は大きな力を持っていたから、神に認められていたから、だからお前は神の代わりに天使を創っていたんだ! 神に忠実で少しも逆らわなくて、神にとってはどんなに都合のいい奴だったことか! だってお前は神に初めて創られたものだったのだから!」
 両腕を掴まれて、首筋に剣を突きつけられて、それでもアスターはそこから抜け出そうと叫びながら足掻いた。アスターを止めていたロウは力を入れていたが、今にも相手の気持ちに負けてしまいそうで不安に押し潰されてしまいそうだった。カイはこの状況についていけずにただ困惑するばかりだった。
「お前が、お前が彼女を創った! 沙紀を――アナエルを創った! 彼女だけじゃない、らいも、レカンも、そして俺も――」
「僕が?」
 戸惑っている少年の顔を見てアスターはさらにかっとなった。一気に押さえていた二人を振りほどいてアクロスの胸ぐらを掴む。
「全て忘れたからといって彼女を弄(もてあそ)ぶな!」
 そして怒りのままに一発殴った。
 再びアスターはロウとカイに止められた。しかし今度はそれはあまり効果がなく、アスターはさっと身をねじって二人から離れた。二人が体勢を整える前に片手をまっすぐ前へ突き出す。そこから溢れるのはまばゆい光。
 空気は怒気に満ちていた。
「罰を受けろ」
 光が世界を染めてゆく。

 

「――やめて!」

 光の中で、怒りの中で、哀しみの中で。

「アスター!!」

 自分の名前を呼ぶ人がいた。

 

「何故」
 観察者の青年は少女の優しさに包まれていた。
「私はこんなこと望んでない」
 天使の少女は青年を後ろから抱擁していた。
「どうか怒りを静めて。落ちついて。これ以上人を傷つけないで。そして願わくば、彼を許してあげてください」
 サキは小さく笑った。
「天使って何?」
 アスターは答えなかった。答えられなかった。
 静かになった空間の中でアクロスは立ち上がった。今にも心は泣き出そうとしていた。だけど少年は大人でありたかったので、まっすぐ観察者の青年を見つめてそちらへ近寄っていった。
 ロウは額に片手を当てた。申し訳なさで心が潰れてしまいそうだった。カイはその場の成り行きをただ見守っていた。彼は一つだけ、もう自分がここにいることの意味がなくなったことだけをはっきりと覚(さと)っていた。
「あなたがどう思おうと、私はあの者を許すことができない」
 呟きのように小さな声で観察者の青年はサキに言った。天使の少女は彼の黒い服に顔をうずめる。
「あの」
 アクロスは観察者の青年の前に辿り着いた。
 青年は金色の瞳を彼に向けた。少年は決めたことは最後まで貫かなければならないと思い、アスターに向かってはっきりと言った。
「あなたの言うことが本当なら、僕は全部忘れちゃったことになる、のですよね。えっと、それはごめんなさい。なんだか忘れちゃいけないようなことだと思ったから。……あの、罰は受けます。受けさせてください。だからロウやカイを許してやって。そしてサキを助けてあげてください」
 言ってしまってから気がついた。いや、はっきりと心の内で語る声が聞こえるようになったのだ。それは絶えず相手を非難していた。ただただ非難し続けていた。アクロスは発作的に両手で耳を塞いだが、声は心の内から頭に直接響いてくるものなので彼の行動には少しの意味もなかった。そんな様子をアスターはじっと眺めていた。
 今までアスターの後ろで黙っていたサキは、アクロスの言葉を聞いて一気に胸を打たれたようになった。観察者の青年から手と身体を離して風のように少年の前に立った。少年の赤い髪はこの場に似つかわしくなかった。少女はただその赤だけをじっと見つめながら、言葉の意味を噛み締めるように、ほんの少しだけ希望をあらわにしようと努めた。
「アクロス、アスター。あなた達の言う『罪』って、そんなに大事なものなの?」
 問いかけられた二人はどちらも何も答えなかった。
 サキはまた言葉を続ける。
「だって私は、アスターの話が本当ならだけど、アクロスがいてくれたから今ここで生きていられるんだよね。私は生きていられて幸せなの。幸福なの。だって生きていればいろんなものに出会えるじゃない? 新しい風、新しい景色、新しい生命――」
 サキはまるで舞を踊るかのように風に身を任せ、それでいて祈りを捧げるかのように天を仰ぎ、さらには歌を歌うように言葉を綺麗な音で吐き出していった。
「たくさんの出会い。たくさんの幸福。その裏に隠されているたくさんの哀しみや妬み。綺麗なもの、美しいもの、可愛らしいもの、醜いもの、それら全てを使っても言葉で表せない大きなもの。たくさんの人と触れ合って、たくさんのものを知って理解して、たくさんのものに感動し、悩み、笑い、時に泣く。生きるってこういうことでしょ? 生きるって、つらいことも楽しいことも全部含めて、それでもまだ説明し切れないものでしょ?」
「あなたは創造主になってくださいますか」
 言葉を中断させるように影は早口に言った。口調は穏やかなものではなく怒気が含まれていた。しかしその裏に隠してある感情は、それを向けられた少女には嫌というほど伝わってきて、悲しくなった。
「みんなが幸せになれるなら」
「あなたにはそれができるのですか」
「それは私がすることではなく、あなたがすることでしょう?」
「しかしあなたはその土台を創らなければならない。あなたにはそれができますか。それを創れますか。創ってくれますか」
「分からない」
 本音でぶつかることを最も怖れていたアスターは、相手の返答を聞いてからひどく後悔した。

 

 

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