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 運命ってなんだろう。

 

 

02

 爽やかな朝が目覚めの時を知らせてくれる。俺はいつものように時間通りに起き、七時半を指している時計を横目で眺めた。今日も時間ぴったりに起きることができたようだ。さすが自分。
 なんてことを考えながら寝呆けた頭を回復させる為に身体を起き上がらせる。心なしかだるいが、そんなことを気にしていては家事は出来ないのだ。だから半ば無理矢理引っ張り上げた。
「おはよう、少年」
 どこからか不自然な声が聞こえてきた。誰だよ朝っぱらからそんなでかい声で挨拶する奴は。俺にもまる聞こえだっつーの。まったくこれだから公園添いの家は嫌なんだよ。近所の会話まで聞こえちまう。
 まだぼんやりする頭で今日の予定を思い出す。まず飯食って洗濯して掃除して――、そういえば今日はごみを出す日だったな。忘れないようにしねぇと。で、買い物行って昼飯食って、……他には特にすることがないな。適当に遊んで晩飯作って。まあいつも通りということか。
 耳を澄ましても何の音も聞こえないことからして、姉貴は既に出かけたようだった。そういえば今日は早いって言ってたような気がする。
 俺はベッドから降り床の上に立った。そしてその時、まだぼんやりしている視界に黒い人影が映った。
 ――ん? 人影?
 目を擦り、よく目を懲らしてみる。人影はいる。
 目を閉じ、瞬きを幾度か繰り返してみる。人影はいる。
「…………」
 突然俺の脳裏に嫌な記憶が甦ってきた。いやそんな、まさか。
 笑おうとしても笑えない。じゃあ何だ、さっき挨拶してたのはこの目の前にいる奴だっていうのか?
 いいやそんなはずはない! そうだ、これはきっと夢だ、夢に違いない! でないと俺の目の前にこんな黒い奴がいるわけがない!
 だんだんと眠気が薄れてきていたが、この際もうそんなこと気にしていられなかった。もう一度寝ればきっとこんな夢は終わるはずだ。終わるよな?
 頼むから終わってくれ。俺はそう念じながら、またベッドの中に潜り込んだ。
「ちょっと、また寝るつもり? いいかげん起きなよ」
 隣からそんな声が聞こえたが聞こえなかったことにする。これは夢。これは夢。
「起きろって言ってるだろ。聞こえてるくせに無視するんじゃないよ」
 心なしか怒った声が聞こえるけど、聞こえないなあ。だってこれは夢。これは夢。
「おい、本気でいい加減にしろよ。でないと――」
 ばしっ。
 変な音が耳元で聞こえた。
 恐る恐る目を開けてその音が発生した方を見てみると、そこにはベッドの布団に一本の刃物らしきものが突き刺さっていた。
 って。え、……刃物?
 まさかこいつ、常人には理解できない思考の持ち主? そういえば最近この辺りを通り魔とかいう奴がうろついてるってニュースで言ってたけど、こいつがそうなのか?
 う、嘘だろ!
 俺は慌てて飛び起きた。目の前にはやはり人がいる。
 あ、でもちょっと待てよ。通り魔だったら家の中まで来ねえか。来ねえよな。気が変わったとか無しだぞ。
 それにしてもまだ頭がぼーっとしている。やっぱりこれは夢なんじゃねえのか?
「あんた、昨日からずいぶんな扱いしてくれたな」
 目の前の奴はそう言った。ちょっと待てよ、何だよ昨日って。……昨日?
 は!
 俺はその時になってやっと全てを思い出した。そうだった。確か昨日の夜こいつが俺の部屋の中にいて、なんかいろいろ言ってたけど眠たかったから無視して寝ちまったんだった。ということは、これって夢じゃねえのか?
「……あのー」
 とりあえず聞いてみることにした。はたしてこれは夢か現実か!
「何?」
 そいつは平然とした態度で答えた。
 よし、聞くぞ。
「これって、夢……じゃないですよね?」
 相手の迫力におされてなぜか問いかけるように聞いてしまった。相手はしばらく黙っていたが、やがて口を開き呆れたような口調で言ってくる。
「あんた自分が何聞いてるか分かってる?」
 分かってるさ。失礼だな、こいつ。
「夢かどうか確かめたいのなら――」
 相手がそう言ったかと思うと俺のベッドに突き刺さっていた刃物を抜き、それを俺に首に突き付けた。ぴたりと刃物が制止し、銀色の刃が不気味に煌めく。
 は……?
 おい、そりゃあどういうことだよ?
「もし夢だったら痛くなんてないよね? これで切られても」
 う、嘘だよな?
 その時の俺がどんなに情けない顔をしていたかは分からない。でもきっと今まで体験したことの中で、この時この瞬間が最も怖かったと思う。
 それを察したのか察しなかったのか、目の前の奴は肩をすくめて刃物を引っ込めた。
「なんてね。うそうそ。意味もなくそんなことするわけないだろ」
 相手はふざけたような口調でそう言った。そんなことってなんだよ。つーか、何しようとしてたんだよ。そう思ったが、今の俺には相手に文句を言うほどの余裕は残っていなかった。

 

 + + + + +

 

 自分のことを一番よく知っているのは自分。
 だけど、自分のことを一番よく知らないのも自分。
 私には追い続けたい夢がある。
 その裏側で、私には守らなければならない人々がいる。
 どちらを選んでいいか分からない。
 一方を選べば自分を偽り、他方を選べば人々を見捨てる。
 その先に何があるのかは分からないけど、いつかは、どちらかを選ばなければならないのだろうか。

 

 + + + + +

 

「あんたには聞きたいことがあるんだ。人を探している。知っていれば教えろ」
 相手が醸し出している雰囲気が瞬時に切り替わった。俺には全く理解できないが、どうやら相手にとっては真面目な話が始まるらしい。
「そいつは赤い髪をしている奴で、特徴としては金色の四角い棒状の物を首から吊り下げている。なんでもこっちの情報を盗み出した奴と関係があるらしくて、この辺りにいるらしい」
 黙って相手の話を聞く。でもいくら真剣に聞いてみても、そんな奴を知ってるはずがないしなぁ。
「そいつの名はスイネという。知らないか」
 何やら外国めいた横文字が聞こえてきた。スイネか。やっぱ俺とは関係ない世界の話じゃねえかよ。
 とりあえず俺は相手に思ったままのことを答えてやることにした。
「俺、そんな奴見たことも聞いたこともねえよ。残念だったな」
 あ、やべ。
 言い終わってから敬語を使うのを忘れていたことに気付いた。機嫌損ねてねえかな。
「……」
 相手は何も言わなかった。何だよ、知らねえもんは知らねえんだ。仕方ないじゃんか。文句言われたって意見は変えられねえぞ?
「本当に知らないのか? スイネという男だぞ?」
 へえ、スイネって奴は男なのか。そいつの正体が何なのかは知らないが、なんとなく悪そうな匂いが名前から漂っているぞ。
「だから知らねえってば。他の奴に聞けばいいだろ? ほら、もう帰んなって」
 ぱたぱたと手を振って俺は相手を諦めさせようとした。しかし相手は俺の行動を見て何か深く考えているようだった。
「……怪しい」
 挙げ句の果てにはこの台詞。いや、怪しくないって。俺は正直に言ったぞ。
 そう言おうとしたが、それよりも早く相手の腕がこちらに伸びてきた。こいつの手に握られているのはさっきの刃物。短剣にしては短くて、ナイフにしては長い刃物。いや、そんなことはどうでもいいだろ俺! その刃物は俺の首すれすれのところで止まっていた。
 今度は脅しかよ!
「お前は知っているんじゃないのか? 誰かに口止めされているんじゃないか? もう一度知らないだなんてぬかしてみろ、この刃でお前の首を切り落とすぞ!」
 はあ? おい、ふざけんなよ! そんな一方的な質問があるかってんだ!
 文句の一つでも言ってやろうとしたが、……やっぱ怖えよ。だって刃物だぞ? めちゃくちゃ卑怯じゃねえかよ!
「さあ、どっちだ! 知っているのか、知らないのか!」
 相手は怒鳴ってくる。
 うう。俺、まだ死にたくありません。
「知って、ます」
 仕方なくそう答えた。そして相手が何か言う前に俺は慌てて続けた。
「でも俺あいつとはしばらく会ってなくて、今どこにいるか知らないっていうか、その……」
 思わず口ごもる。相手は俺の言葉が終わった頃に刃物を持った手を引っ込めた。ふう、やれやれ。安心して一呼吸。
「黒い髪と茶色い目をした少年がスイネの知り合いだと聞いていた。やはりお前がそうだったんだな」
 いや違うけど。そもそもそんな奴この日本という国にはごまんといるだろうに。でもそんなこと怖くて言えない。勝手に納得しちゃって、まあ。
「つまり、お前の傍にいればいつかは会えるってことだな」
 だから会えませんって。それもやっぱり言えない。
 というか、は? どういうこと? 俺の傍にって?
「よ、要するに……俺の傍にいるとー、スイネに会えるからー、俺の傍にいる……と?」
「そうそう、その通り」
 目の前の奴はそう言うと満足したようにぺらぺらと喋り出した。
「まったく苦労したんだ。いくら探しても知らない奴ばかりでさあ。頭にきたりしたけど怒ってやめなくてよかったよ。おかげでやっと知ってる奴に会えたしね。あ、そういえば君」
 相手はいきなり声色を変えてこちらをまっすぐ見てきた。実際には目は見えなかったが、はっきりとした鮮やかな視線を感じるんだ。
「名前を教えてくれないかな」
 正直答えたくなかったが、黙ってても仕方ないので答えてやった。
「俺の名前は、川崎樹」
 俺が答えると相手は身を乗り出して聞いてきた。
「へえ、イツキか。どんな字書くの?」
 はあ。なんかどうでもいいような気もしたが、とりあえず答えてやった。
「樹木の樹だよ」
 相手はまた満足したみたいだった。よく聞き取れなかったが小さく感嘆の声を上げて俺に話しかけてくる。
「川崎樹君、か。いい名前じゃん」
「え?」
 はっきり言って驚いた。こいつがこんなことを言うなんて思わなかった。それに俺は自分の名前で褒められたのなんて初めてだった。今の時代、こんな樹なんて普通の名前を褒める奴は珍しいと思ったんだ。
「ねえ樹」
 目の前の奴はまた話しかけてきた。しかしよく喋る奴だな。俺より喋ってんじゃねえかよ。
「自己紹介がまだだったね」
 どんな恐ろしいことを聞かされるのかと思いきや、相手が発した言葉の羅列は俺を引き込むには充分な魔力を持っていた。俺のことを聞いたから次は自分の番だと言わんばかりの態度だ。そして相手は俺の目の前で頭に被っていた布を取る。
 それを見て、俺はまた驚いた。
 相手はかなり若かった。なんとなくそんな気もしていたが、俺と同い年くらいだった。ちょっと年上にも見えるけど、外見だけでは似たり寄ったりだ。
 肌は不健康に思えるほど白く、髪は少し濃い水面の色で短くばさばさとしていた。左耳には金色の棒状のピアスらしきものが垂れており、地味な外見を補うようにきらりと輝いている。
 こいつ、外人か。
 俺は無意識のうちにそう決め付けていた。そういえばスイネって奴も名前が外人だし、彼らは来るべき場所を間違えているんじゃなかろうか。
 目の前の奴は銀色の瞳で俺の顔を覗き、手を差し出しながらこう言った。

「はじめまして。ぼくの名前はリヴァセール・アスラード。よろしく、樹」

「あ、ああ」
 戸惑いつつも出された手を握った。こいつ、恐い奴かと思ったけど握手だなんて可愛いとこあるじゃん。
 それで名前は、リヴァ――何だっけ? そんなに長い名前覚えられるかよ。
 眉をひそめた俺の気持ちを察したのか、相手は肩をすくめて俺に言葉を投げかけてきた。
「リヴァセール・アスラード。リヴァでいいよ」
 ああ、それなら短くて言いやすいな。もうそれでいいや。
「じゃあリヴァって呼ばせてもらうからな。……ん?」
 ふと頭に何かがよぎった。
 何かとても大切なことを忘れてないか?
 ……は!
 はっと思い出し、思わず叫んだ。
「そうだった! こんなのんきにしてる場合じゃなかった! ごみ! ごみ捨てなければ!」
 そう。ごたごたして忘れていたけど今日は大事な日だったのだ! さっき忘れないようにしなければって注意したのに。ちくしょう、まだ間に合うよな?
 俺の近所に来るごみ収集車は異常なまでに早いことで有名だった。そのせいでいくら間に合わず涙したことか。
 窓のところまで走り、外を見てみると……よっしゃあ! まだ来てない、間に合う!
 俺は今だかつてないほどのスピードでごみ箱にたまったごみを片っ端からかっさらっていき、一つの袋の中に詰め込んでいった。くそお、間に合ってくれ!
 その勢いのまま袋を縛り、片手に抱え込むようにして下の階に下り、やや近所迷惑な音を立ててドアを開けた。車は、車は――、

 来てるぅうう!

「うおおおおお!」
 俺は叫びながら必死になって車に向かって走った。行くな、まだ行くな!

 ばたん。
 がーっ。

 俺の必死の努力も報われず、車は何事もなかったかのように走り去っていく。俺の手の中のごみを回収してもくれずに。
 ――ああ、終わった。
 俺は地面にへたりこむ。
 それもこれも、元はと言えば。
「なに叫んでたんだよ、樹。近所迷惑だろ」
「お前のせいだっ!」

 

 + + + + +

 

 ひたすら真実が知りたくなった。
 自分が生きているということ。
 自分が存在しているということ。
 それに関わってくる全てのこと。
 全ての偶然。

 

 今生きている意味を追い求めて。

 

 

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