前へ  目次  次へ

 

 

第六幕
―辿り着いた先の要(かなめ)に―

 

 信じるべきものは自分で決めなければならない。
 しかし信じられるものは数が限られている。

 

第一章 善と悪

 

100 

 目の前には久しぶりに見る顔があった。
「もう起きても大丈夫なのか?」
 場所は師匠の家。小さな部屋の中には俺と相手の二人しかいない。しかしだからといって、目の前にいる相手は心を許せる人だというわけではなかった。
「おかげさまで」
 二人きりで誰にも邪魔されずに話をする。それは相手が一方的に望んだことだった。
 目の前にいる青年は――スーリは、色のない世界で見た時と同じ顔をしていた。

 

 全員が集合してロスリュが家を出ていった後に彼は意識を取り戻した。まだ誰もが物事をよく理解できていなかったので、あまり混乱が起こらずにすんだのであの時に起きてくれてよかったのかもしれない。そうでなければきっとラザーや師匠が気分を悪くしただろうから。それだけはどうしても避けたいことだった。
 スーリは自分が俺の世界にいることに驚いていたらしい。しかしそれはほんの少しのことで、誰も何も説明しなくても自分の頭の中で物事を整理していたようだった。すぐにそんなことができるなんてやはり欠陥品の俺とは違うということか。まあ別にそんなことはどうでもいいんだけど。
 相手は落ちついた様子で俺を呼んできた。誰にも邪魔されずに二人で話したいと言った。俺はそこに何かがあるように思えて、すんなりと相手の要求を承諾してしまったのだ。だから今こうして向き合って座っているわけだ。
 他の皆に聞かれるとまずい話なのか、俺と相手は一つの部屋の中にいた。以前ならものすごく怖かった相手でも今はなんとなく違うように見えた。それはやはり、あの人に力を奪われたからなのだろうか。
「まず何から話せばいいのか――」
 思案顔になってスーリは少し俯く。俺は何も言わずにじっと座って待っていた。
「……何か知ったことがあるか?」
「知ったこと?」
 質問の意図が分からずに問い返すと相手はさらに俯いてしまった。俺、何かいけないことでも言ったんだろうか。
 しかしそんな疑問はすぐに消し飛んだ。一つ思い当たることがあったからだ。どうして相手がそれを知っているのか知らないが、確かに俺は彼が眠っているあいだに、一つの事実を突きつけられたのだった。
「じゃあ、あんたはあいつのことを知ってたのか」
 あいつ――ラス・エルカーン。
 スーリはちょっと驚いたようだった。俺がラスのことを知っているとまでは察しなかったのだろうか。だったら一体何を期待してあんな質問をしたのだろう。
「そうか、じゃあ、話は早いな。ダザイア様には止められていたけど、俺の知っていることを全て話す」
 そうして彼は顔を上げた。まっすぐに俺の顔を見てきた。その瞬間だけはもう兵器だとか欠陥品だとかいうことが忘れられて、相手も自分も普通の人間のように思えた。

 

「世界を変革しろって言われただろ」
 最初に飛び出してきた言葉は懐かしいものだった。
「言われた。ダザイアに。でも具体的に何をすればいいのかってことは何も言ってなかった」
「気にならなかったのか?」
 問われてから疑問に思った。そういえばなぜ俺は今までそれを気にしなかったのだろう。相手側はどんな目的を持って、どんな理想を掲げて、どんな事柄を俺に求めていたのかということを、どうして今になるまで明らかにしようとしなかったのだろうか。
 しかしいくら心の中で疑問をぶつけても答えは返ってこなかった。そして俺はその理由までちゃんと分かっていたに違いない。なぜなら俺は自分のことだけに精一杯で、相手の目的とか理想なんかを聞くほどの余裕がなかったからだ。俺は逃げていたんだ。それを聞いたら後戻りできなくなると思い込んで逃げていた。それも半端なものじゃなく、とても強い思いとなって心の中を支配していたんだ。だから気になっても口に出さなかった。気にしているふりをしていた。ようやく分かった。分かったけど、分かったところでどうにもならない現実がある。
「だったらそれは何なんだよ。どうせアユラツにとって都合のいい変革なんだろ」
 決して嫌になったわけじゃない。全てを投げやりにして、自分には関係ないと主張したくなったわけでもない。ただ単純に思ったことを言ってみただけだった。
 しかしスーリはそれを肯定した。
「そうだな。確かにアユラツにとってとても都合のいい変革だな」
 俺は少しだけ希望のある返事を期待していた。だから彼の肯定は俺の期待を裏切ってしまったのだ。もちろん、兵器なんかを創るような奴が俺の期待する答えを示してくれるとは思っていなかったけど、それでもやっぱり痛いものは痛かった。
 これで俺は、どうすればいいのだろうか。そんな自分勝手な欲望に彩られた世界を、どうすれば嫌いにならずにいられるというのだろうか。どうすればその世界を認められて、どうすればその世界を愛せるというのだろうか。もはや何も残っていなかった。光に向かって突き進む道は遮断されてしまったのだ。
「だが、なにもアユラツだけに都合がいいわけではない。むしろ全ての世界にとって都合がいいことなのかもしれない。ただ一人――いや、数人の人を除いては」
 次に聞こえた言葉は全く予想していなかったものだった。
「どういうこと?」
 子供のような問いをしてしまい、後からすごく後悔する。しかしスーリは俺のことなど見ていないようだった。
「ダザイア様が考えていたことは、世界を変えること。世界を変えるために兵器を創った。しかし兵器に意志を持たせたことは間違いだったはずだ」
 強い否定。そんなものが相手から出てくるなんて誰が予想できただろう。
 俺は何も言えずにじっと相手の顔を見ていた。相手は俺と目を合わさなかった。
「世界を変革するということは、世界の運命を変えること。世界の運命というのは、今現在起こっている事態のこと。今現在起こっている事態というのは――」
 まさか。
 そんなまさか。
「あの方は言っていた。色のない世界も捨てたものじゃないって」
 そんなことって。
 どうして。
「そして、色のある世界はもっと素敵なんだろうって、言ってた」
 それじゃあまるで。
 まるで――。
「だから世界はどうあっても守らなきゃならないんだって」

 

 思い起こすものは自分の姿。
 必死になって否定していた。真実を知りたくないと喚いていた。
 一方的な感情に走った幼い子供。

 ただ単純に真実を知りたくなかった。
 ただ単純に世界を守りたかった。

 そして一人よがりの思い込みが、多くのものを傷つけてきた。

 

 ――傷つけてきた?
 違う、そうじゃない。
 傷つけたんじゃなくて、守っていたんだ。
 必死になって否定して。
 必死になって肯定して。

 そして守っていたものは何?

 

 俺は確かに兵器なのかもしれない。
 俺は確かに欠陥品だ。

 俺がなすべきことは世界の変革。
 俺の役目は世界を守ること。

 俺が今まで守っていたのは――。

 

 

 護っていたのは、自分の心。

 

 何も言うことはなかった。肯定する事柄も、否定する事柄も何一つなかった。
 必死になって肯定していたのは自分をいい人のように見せたかったため。必死になって否定していたのは自分にとって都合の悪いものを知りたくなかったため。それらを乗り越えることができずに辿り着いた結果はあまりにも単純すぎた。そしてあまりに無惨だった。
 俺は彼らに何を望んでいたのか、ほんの小さな望みの欠片すら分からなかった。だけど分からなくて当然のことだった。俺には相手側のことを理解しようという気持ちがなかったから、相手側と本気で対峙したことがなかったから、だから彼らがどんな秘密を抱えているのかとか、どんなことを俺に望んでいるのかということが、いつになっても分かることはなかったのだ。

 

 そうしてまた後悔しても何も変わらなかった。ただ現実が虚しく俺の前を横切っていくだけだった。だけどもう俺はそれに驚くことはなかった。
「世界を守るとか守らないとか、何を言っているのかよく分からないと思う。だけど俺にはもう何の力も残されていないし、他に頼れる人は誰一人いないんだ。だから――だから君に――」
 相手は俺を気の毒に思っているんだ。そんなこと、思ってくれなくてもいいのに。
「俺はあの方の希望を受け継いだんだ。だからここで終わらせるわけにはいかないんだ。迷惑なことだとは分かってる、けど、どうしても俺はあの方のために」
「ダザイアのためだとかそんなことは関係ない」
 俺が口を開くとスーリは驚いたようだった。俺は相手の話を遮断してしまったんだ。
「ダザイアのためじゃなくて、あんたはあんたの意志で世界を守りたいって思ったんだろ」
 だから一人で頑張って。だから自ら悪役を演じて。たくさんの人に憎まれたり嫌われたりしても誰にも頼らなかった人。多くのものを奪ってきて、逆に奪われもした人。
 それが全て他人のためにしたことだなんてどうしても信じられなかった。いや、信じたくなかったのかもしれない。
「そんなことはない」
 聞こえたのは否定の声。
「俺は自分の意志なんか持っちゃいけない。これは全てあの方の意志だ」
 まだ言い張るのか、あんたは、それで満足しているのか。
 胸の奥が熱くなる。何かを強く感じる。
「どうしてそうやって言うんだよ、どうしてあんただけが自分をそんなに抑える必要があるんだよ。意志を持って生まれてきた命なんだから、俺やシンみたいに何かを望んだり、嫌ったり、好んだりしたっていいのに、どうしてあんたはそうやって否定ばかりするんだよ!」
「そんなことばかりをするから狂いが生じたんだ、俺はお前たちとは違うんだ!」
 返ってきたのは思いがけない答えだった。相手の言うことは分かる。けど、分かるのは半分だけ。
「同じだろ、同じだろ! 何も違うことなんてないじゃないか。自分が特別だとか欠陥品だとか、そんなものはもう関係ないじゃないか! なんでそんなに否定するんだよ! そんなに自由になりたくないのかよ!」
 この人は心が麻痺したみたいに凍りついている。この人はあまりに辛いことばかりを経験していたんだ。
 俺はこの人を救ってやりたいんだと気づいた。
「自由?」
 ふっと静かになって相手は言う。
「自由なんて存在しない」
 救ってやりたいんだ。
 自分でも分からないうちに、俺は相手を殴っていた。
 それは兵器の力なんかじゃなくて、俺の――川崎樹という人の力だった。

 

 自分を正当化したかった?
 相手を否定したかった?
 その光は。

 

「自由なんてあり得ない」
 相手は尚も否定していた。俺の力は弱かったので、殴っても少しもこたえていないように見えた。その証拠に相手は地に倒れることなく立っている。
「そうやって何でもかでも決めつけるのは間違ってる」
「決めつけるさ! そうしないとやっていけない」
「じゃあやっていけなくてもいいだろ」
 俺の答えがさぞ意外だったのだろう、相手は言葉を続けなかった。でも俺は別に変なことを言ったつもりはない。
「強制しなくていい。服従しなくていい。尊敬しなくていい。受け継がなくてもいい。あんたとダザイアは別々の生命だし、別々の考えを持ってる。別々の生き方をすればいいし、別々の望みを持てばいい。それを否定するってことは、他の全ての生命を否定することになるんだ」
「そんなものは皆、綺麗事だ」
「綺麗事でも構わない」
 相手は少し心が乱暴になっていた。
「綺麗事でも、それであんたを救えるなら構わない」
 相手を救うということはつまり相手と対峙すること。
 そして相手と対峙するということはつまり……?
「――いや」
 首を振って否定する。これは相手に対してした行為ではない。相手に対してじゃなくって、分からなくなってきた自分自身に対して。
 何だろう。何か大切なことを忘れているような気がする。あの白黒の世界で聞いた忘れてはならないことを、すっかり忘れてしまったような気がする。この人から聞いたことじゃなくて、この人じゃなくて、確か、あの――。
俺の命。あいつの命。それは元から決められていた』
 限りのある時間。
 このためだけに創られた生命。
 そう。
 そうだった。そうだったんだ。こんなに大切なことを、なぜ今まで忘れていたのだろう。
 いや、俺は忘れようとしていた。痛ましい現実から逃げるために。辛い過去から逃れるために。希望のない未来を見たくないがために、俺はただただ必死になって否定ばかりをしていたんだ。
 本当に、否定ばかり。
 いつかはこの人たちの存在も否定してしまうのだろうか。
『お前がやるべきことを成し遂げたその時、俺の命は止まる』
 しかし、俺にはもはや選択肢は用意されていなかったのだ。

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system