前へ  目次  次へ

 

 未来は過去を語り。
 過去は未来を創造する。

 

第二章 未来と過去の歌

 

104 

 再び訪れた白黒の世界は何も変わっていなかった。本当に誰も住んでいないんだな、と改めて考えてしまう。もし誰かが住んでいれば少なくとも何か変わったことがあるはずだから。人は常に変わっているから。
 機械によって飛ばされた場所は、以前よくお世話になった家の前だった。景色は閑散としていて何の面白みもない。だけどじっと見ていると寒気がした。あまりに美しくて寒気がした。こんなこと、以前は少しも気がつかなかったのに。
 そう、この世界は美しかった。色がなくて静かで落ちついていて、美しかった。人の手があまり込められていないからだろうか。自然に全てを任せているからであろうか。だけど人は何かを創ることができる、そんなに悪いものじゃないはずなのに。
「樹」
 振り返ると皆がこちらを見ていた。いろんな色の瞳が俺を正視している。一瞬だけこの世界に花が咲いたように見えた。それはすぐに枯れるように見えなくなってしまったけど……。
「ワノルロの湖はここから北へ行けばあるって言ってたよ、スーリが」
「そっか」
 教えてくれたのはアレート。この人は彼のことを兄だと認めたのだろうか、認めなかったのだろうか。感情を外に出してくれなかったので分からなかった。
「じゃ、行こう」
 そう言ってそろそろと歩き出す。北の方角はリヴァが方位磁針を持っていたのですぐに分かった。大きな建物から遠ざかっていくと視界が広くなり、どこからか吹く風が髪に纏わりついて遊んでいた。
 もう何も心配なことはなかった。
 本当は心配だらけだった。
 世界のために嘘をつくのはいけないことだろうか。世界のために嘘をつかなければならないのは、いけないことなんだろうか。

 

 ワノルロの湖はすぐに見つかった。大きな湖だった。だけど遠くから見たらちゃんと湖だと分かるほど小さかった。近くに寄ると海のようにも見えた。大きくて小さな湖だった。
 真っ白な湖。色がないから仕方がないけど、絵本のような世界のように見えた。自分がそのまま分からなくなってしまいそうな感覚に襲われた。
「ここに来て、それでどうするって?」
 口火を切ったのは髪が短くなった不老不死の青年。彼の一言によって俺の頭は急速に回り出す。
「スーリが言うには、ここにいる者に会えば世界の狭間へ行くことができるらしいけど」
 自分で言いながら、変だなと思った。ここには誰も住んでいないはずなのに。だけどあの人が嘘を言っていたとは考えにくい。彼はあれでかなり正直な人だから。
「いらっしゃい」
 ふと声が聞こえた。どこからか、湖の奥の方からか。静かな声色。透き通った言葉。
 聞き覚えのある声だった。そして相手はすぐに姿を現した。湖の水面が少し揺れ、彼女は現れた。
「いらっしゃい、兵器さん達」
 白に混じるのは本来の湖の色。空の色。水の色。
 彼女の名前はロスリュ。
 湖に溶け込むようにして立っている少女。
 彼女を前にして誰も口を開かなかった。俺も同じだった。なぜなのかと聞かれたら困るのだけど、それほどの何かがそこにあるということだけは確かだった。
「あなた達ならきっと私を頼るだろうと思っていたから驚かないわ。むしろ、あなた達が驚いたでしょう。私がこの世界のこの場所にいるということに」
 少女は一歩前へ進む。距離は小さく縮まった。
「そうね。もうここまで来たんだから……」
 相手はちょっと表情を曇らせた。何かを伝えたいけど伝えることは困難だ。そう言っているように見えた。
「それに、世界の狭間へ行くためにはあの力がどうしても必要だから」
 世界の狭間。
 やっぱりこの人は何でも知っている。
 自分で未来が見えると言っていたこともあった。だけどそれだけじゃなくて、この人はどんなことでも知っていた。ただ一人、俺たちの中で何もかもを知っていた。知らなかったことといえば俺のことくらいだろうか。でもそれだって知っていた可能性がある。どうしてこんなに知っているかなんて、少しも見当がつかなかったが、相手の話を聞けば少しくらい理解できるかもしれない。そう思うとますます何も言えなくなってしまった。
 俺たちの誰もが黙っていることを相手は不思議に思わないのだろうか。俺たちの誰もが何も言えないのを悲しく感じないのだろうか。久しぶりに会えたのに。そう、仲間と再会できたのに――。
『余計なことは考えなくていいよ』
 その声にはっとして、俺は下に広がる地面を見つめた。この下には何があるだろう。この下には真実がある?
「このワノルロの湖は、一族の本拠地だった」
 静かにロスリュは語り出す。俺は下を向いたまま相手の顔を見なかった。
「湖には大きな魔力が秘められていて、一族の人たちはこの水を生活に使っていたから徐々に湖の魔力を吸収していった。それで一族は『一族』となった。ただそれだけのことよ」
 だったら彼のことはどうなのだろう。あの異端とされていた少年のことは。彼は自分は一族だと主張していたが皆と違うことを認めていた。それって、生粋の一族じゃなかったということだろ?
「ワノルロの湖はもともとある者の所有物だった」
 そうして話は別の方向へと展開する。
「それが私。私がずっとここを所有していた」
 だから彼女はここへ帰ってきた。自分の場所へ帰ってきた。
 本来自分がいるべき場所へ。
「ねえ。私ずっとある人を捜していたのよ。そして樹について行くことで目的は達成された。それがどういうことかあなた達に理解できる?」
「つまり俺たちの誰かが捜していた人物だったということか」
 一番に口を開いたのは誰だったろう。俺じゃない。俺はずっと黙っていた。
 すっと前へ出るのはラザーラス。
「あんたは俺を捜してたんだろ」
 ラザーは静かに問う。それはまるで怒っているような響きを持っていた。
「そうね。ご名答。私はあなたを見たかったの」
「見たかった?」
 相手の不思議な答えはラザーの心を捉えたようだった。誰も二人に口出ししなかった。何を不思議に思っても、何も知らない顔をして後ろで見ていることしかできなかったのだ。
「そう。見たかった。知りたかった。あなたがどんな容姿で、どんな職業で、どんな志を抱いていて、どんな人間であるのかということを。それ以上は何もいらなかった。なんにも望まなかった」
 どういうことなのか少しも分からなかった。ただ分かったことは、ロスリュはラザーを知らなかったということだけだった。知らなかったけどラザーを捜していた。そしてラザーラスがどんな人なのかということを知れば、それだけでよかった。そういうことなのだろう。
「この世界ではあらゆる欲望が蠢(うごめ)いている。あなたもその一つだった。あなた、ねえ――どうやって不老不死になったか自分で分かっていて?」
「……何を言っている?」
 ふと気づいた。ラザーラスを取り巻く空気が変わった。彼は何か気にかかることがあるらしく、片手で頭を抱えるようにして押さえていた。
「そうね。分かってないんだわ。分かっていたら、きっと私には会えなかったはずだから」
「だから何を言っているんだ、お前は」
「静かになさい。分かっていないなら教えてあげる。あなたが不老不死になったのは、この湖の力を借りたからなのよ。そしてその力を借りるということは、私から多くのものを奪っていくことに値するのよ」
 急に強い口調になったロスリュはそれだけを一気に吐き出した。ラザーは黙った。何も言えないように見えた。
「ロスリュは、ここの管理人――なのか?」
 確かめるようにして俺は初めて口を開く。すぐに相手の視線を感じた。鋭い突き刺すような視線だった。怒っているような瞳だった。だけどその中に宿る光は、諦めたような悟ったような、かすかな光だった。
 それを見た時に、どうしてだろう、どうあっても人というものは別々の存在であって、同じ考えを持っている人は誰もいないのだということを見た気がした。そのために何度も拒絶して傷つき、対立して悲しむ。どうにかしようとしてもどうにもならないことが、たった今目の前に降り立ったのだと思った。
「管理人? そうじゃない。私は」
 世界の風が一点に集中した。それは静かに優しく水色の髪の少女を取り巻く。
「私は人間じゃない」
 湖が揺れる。波紋が湖全体に広がり、やがて音もなく消えた。
「かつてはそうでも、今ではもう、何もかもが変わってしまったから」
 歌うように吐き出したその言葉はいつまでも忘れられない響きを持っていた。
 そうして目の前に現れたのは、変わり果てた相手の姿だった。

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system