105
白い空間の中に青みが差したように煌いていた。
うっすらと青みを帯びた頑丈そうな鱗、何ものでも切り裂いてしまうほど鋭く大きな爪、そして今は閉じられている大空を舞うための翼。
見据えてくるのは――いや、見下ろしてくるのは、空のように青い瞳を持った竜だった。
これが彼女の正体なのか。これが彼女の本当の姿なのか。そうだとしたら、なんだか怖い気がした。
「我が名は水竜。生命を司りし者」
頭の中に声が響くような感じで相手は言ってきた。だけど実際には音として発せられていたので、ジェラーのように頭の中に話しかけてきたわけではないようだった。どちらがどちらなのか分からないほど、相手の声は特殊なものに変わってしまっていた。
「あなたは私の何を奪ったと思う?」
次に出てきた言葉は明らかにロスリュのもので。
「少し考えてみなさい」
それだけを言って相手は霧に溶けて消えてしまった。
大きな存在に残されて俺たちは途方に暮れたように立ち尽くしていた。誰も何も言えないようだった。最近驚くことばかりだ。いや驚いたんじゃない、これは――驚いたんじゃないんだ。
「ラザー」
俺より前に立っている青年に話しかける。相手はゆっくりと振り返ってきた。いつもと変わらない表情の中にも何かが確かにあることが分かった。
「ロスリュが言っていたことを考えよう」
「そんなこと言っても、お前」
「いいから」
動揺している。みんな動揺していて、どうしていいか分からなくなっているんだ。ここでしっかりしなければならないのは誰だ? 俺だって動揺しているんだ。
皆を呼び寄せて円を作り、その場に座り込む。なんとも不可思議な光景だがこの世界には誰もいないのでやりたい放題だ。それに今は格好なんか気にしている場合じゃない。
「ラザーが不老不死になったのって、その……」
言い出してからちょっと躊躇(ためら)った。彼の過去を簡単に皆にばらしてしまってもいいのだろうか。俺が言ってしまってもいいのだろうか。カイならきっといいと言うだろうけど、ラザーだったら拒む可能性がすごく高い。
気にして銀髪の青年の顔を見るとちょっと困ったような、それでいて諦めてしまったような顔があった。俺が言い出したことを恨んでいるんだろうか。憎んでいるんだろうか。俺は彼を怒らせてしまったんだろうか。そして俺は、相手に対して異常なほどに気を遣っていることに気づいた。
「俺が不老不死になった原因か。そんなもの、考えたこともなかった」
どこか遠くを見ながら呟くように言う。しかし音のないこの世界では、呟きでも普通に喋っているのと同じように聞こえた。
「ラザーはどういう経緯でそうなったの?」
無防備に聞いたのはアレート。怖いもの知らずのようにも見えて、少し羨ましくなったりもした。
「経緯? 経緯なんて――つまらないものさ」
すっと目を閉じて赤い目が見えなくなる。彼の耳についた黒いピアスがきらりと光るように煌(きらめ)いた。
「俺は昔はある組織の端くれだった」
うっすらと目を開けてラザーは話し始める。
「組織の最初の部下……と言うよりも、従僕だった」
「従僕?」
相手の話を聞いていて真っ先に嫌な顔をしたのは外人。そういう表現が嫌いなんだろうか。しかしラザーはその呟きに気づいていないようだった。むしろ気づかないふりをしているように思えた。
「ただ組織の頂点の人のために働いた。命を賭けて働いた。その人に言われたことは何でもした。それがたとえ法に反するものでも、躊躇いなんかなかった」
「なんでそこまでその人のために?」
嫌な顔をしたまま外人は話を遮断した。ラザーはちらりとリヴァの顔を見て、ふっと悲しそうな表情を見せた。
「その人は俺の命の恩人だったから」
リヴァは何も言えなくなった。なぜならこいつも同じだったから。
「そうやって組織で働いてたら、ある日突然呼び出されて、不老不死にされた」
「どうやって?」
「知らない」
相手に聞いてみてもそう言われただけだった。しかしこれでは何も分からない。
「じゃあ、その時のことを細かく覚えてる?」
今まで黙っていたジェラーが口を開く。そういえばあまり口出ししてこなかったよな。いつもなら俺の考えに何かと文句を言ってくるのに、何か思うことでもあるんだろうか。
「細かく? 再現しろとでも言いたいのか?」
「それで何か分かるなら」
やっぱり口出ししてこない。普段ならラザーが口を開く前にでも厳しい一言がやってくるはずなのに。
『うるさいね。今は君のことなんてどうでもいいんだよ』
……そうですか。ああ、そうだよな。俺のことなんかどうでもいいんだよな。はあ。
「まあ、覚えていなくはない」
「だったら説明して」
とにかくつまらないことにこだわっていても仕方がない。俺もラザーのことに協力しないと。
ラザーはいきなり立ち上がった。ちょっとびっくりしたが驚いている暇なんてなかった。なぜなら俺も手を引っ張られて彼に立ち上がらされたからだ。
何をするつもりなんだろうか、この青年さんは。
「特に変わったところはなかった。最初は何をされたか分からなかったけど、きっとあの時にそうされたんだろうと思う。あの時は、そう――」
相手は話しながら俺の手を放し、今度は俺の顔面に向けて手をのばしてきた。それはまっすぐのびて額に当たった。冷たい手が肌に触れる。
「こうされて、終わり」
触れられたのは一瞬だけ。すぐに彼は手を引っ込めて腕を組んだ。
「これだけ?」
「これだけ」
聞いてみても納得のいく答えは返ってこなかった。
「これじゃ別に……何とも」
「だから分からないって言ってんだよ」
腕を組んだまま機嫌が悪そうに言ってくる。さっきまでの静かな感じの彼はどこかに行ってしまったようだった。これがいつものラザーなんだけど、こういう時はずっと静かな感じでいてほしかったなんてことを考えてしまう。
「だ、だったら今度はロスリュのことを考えてみようじゃないか」
「は?」
思いついたことを言ってみたら全員に変な目を向けられた。そんなことされても負けるものか。
「ロスリュは自分の何が奪われたのかって聞いてきただろ。だったらロスリュに足りないものは何かを探せばいいと思うんだ」
「へえ。なるほど。君でもまともなことを言う時はあるんだね」
酷い奴だな。
説明すると外人に軽く馬鹿にされたがそれは無視しておくことにする。再び地面に座り込み、ぼんやりと空を見上げてロスリュのことを思い出してみた。
「何が足りないんだろう」
ロスリュ。水色の髪の少女。最初に会った時は腕輪を盗まれて、道中では回復呪文でよくお世話になった。自らのことを水竜だと言った人。
「そもそも竜って何なんだろう」
雰囲気的にすごいものだってことは分かる。だけどそれ以外は何も知らない。相手は何も教えてくれなかったし、この中で知っている人なんているんだろうか。
「竜ってのは精霊と同じようなもの」
ふと傍から声が聞こえた。そちらに目をやるとぼんやりとした目の外人がいる。
「精霊よりも高位な存在。それぞれ司るものを持っている、世界を見守って維持している者たちのことなんだ」
独り言のように相手は呟いていた。なんだろう。話す姿はまるで彼のように見えない。別人が喋っているように見える。もちろん真相は見えてこないけど。
「とりあえず思いつくことを言ってみようか」
気を取り直して皆に向かって言ってみる。リヴァとアレートは相変わらずぼんやりしていたし、ジェラーは無表情で皆の有り様を眺めている。その中でラザーだけが唯一真面目に考えてくれているようだった。この人って何が起こってもどうでもいいと考えているように見えるけど、本当はいつも自分たち以上に頭を悩ませているんじゃないのだろうか。
もし彼が自分の感情をすぐに表に出すような人だったら。もし彼が、常に自分に正直な人だったら。そうだとしたら彼は今とは全く違った人物に見えたに違いない。
なんてことを考えていても仕方がない。もしだとか仮にだとか、ありもしないことを予想するのは時間の無駄だ。それが未来のことならまだしも、過去や今のことなら尚更。
「感情が足りないとか?」
考え込んだままの姿勢で呟いたのはラザーラス。
「笑ってたり怒ってたりしてたじゃん」
覚えていたので反論してみた。確かに彼女は普通の人のように感情を持っていた。さすがにそれはないと思う。
「あれは作りものだったとか」
「まさか。ジェラーじゃあるまいし」
そう簡単にジェラーのような人がいたらそれこそ困るって。竜も精霊と似たようなものだったら、感情を持っていても何も不思議なことはないはずだ。
「じゃあその他に何があるってんだよ」
苛々(いらいら)した様子できっと睨んでくる。怖いって。
「だから、それを考えるんだろ」
本当に怒りっぽい人だなあ。そんなすぐに怒ることないだろ。
不老不死の青年は一つ息を吐いて腕を組み、目を閉じた。いつも見せるようなこの仕草は彼の癖なのだろうか。この仕草を見せられたら、ああやっぱりこの人は大人なんだと勘違いしてしまう。本当はいくら年上でも、俺たちと似たり寄ったりな子どもであるというのに。
大人の事情に押し潰されて息が詰まって。子どもながらに足掻いて、足掻いて、手をのばして、それでも何も掴めなくて。挙句の果てには自分勝手な理由から人生を操作された人。よく考えなくても、なんとなくだけど、俺と境遇が似ている人。
ラザーは永遠の命を持っていて、俺は兵器の寿命を抱えている。二人ともそれを望んだわけじゃなく、大人たちの勝手な理由でこうなった。なってしまったからには生きる他に道はなく、親元を離れた今でも見えない何かに束縛され続けているんだ。
自分の恩人のために働いた彼に対して、俺は世界のために働いている。もっとも最初は何も知らなくて反抗していたんだけど、知ってしまったから後戻りができなくなった。彼もまた同じだったんじゃないのだろうか。最初はただ恩人のためにと思ってやっていた犯罪が悪いものだと知って、だけどそこから抜け出したりなんかしたら自分の居場所も何もかもがなくなると知って、どうしようもなくなって、後戻りできなくなって。
似ていると思うのは俺だけなのだろうか。相手側から俺はどんな形として見られているのだろう。彼の赤く鋭い瞳は、俺の何を見ているのだろうか。
「――瞳?」
あれ? そういえば。
「なあ、もしかしたらロスリュって、目が見えないんじゃないのかな」
相手は俺の意見を聞いて変な顔をした。明らかに疑っている目を向けられていい気はしない。けど。
「光の精霊のオセや闇の精霊のソイは目が見えないんだ。二人とも過去に盲目になって、精霊になった今でもそれは変わらない。盲目って言っても普通に何もかもが見えてるように振る舞ってるし、外見上からではほとんど分からないじゃないか。だからそうじゃないかって」
「ああ――そうか。竜の瞳か」
知らない単語を吐き出した相手は本当に大人のように見えた。俺には何も分からないが、相手には何か思い当たるものがあったのだろう。俺はそれを邪魔しちゃいけない。
「カイの奴から一度だけ聞いたことがある。竜の瞳がどうとかって」
「カイから?」
もしかしたらあの人がここにいれば一瞬で答えが出ていたのかもしれない。それをこんなにも時間をかけて考えていた俺たちって一体。俺とラザー以外は誰も話し合いに参加してくれないし。ジェラーなんか最初から全て分かってたんじゃないんだろうかとか考えてしまう。
「おい。放心するな」
「え? あ、えーと」
ラザーに注意されてしまった。危ない危ない。本当に意識がどこかに飛んでいってしまいそうだった。
「ロスリュ、怒ってんのかな」
「なんでだよ」
そこを聞くか、不老不死の青年よ。
「オセやソイの話なんかを聞いてたら、目が見えないのって俺たちが想像する以上に辛いものなんだと思ったから。オセは視界が真っ暗になってしまったから光を求めて精霊になったし、ソイは逆に闇を求めて精霊になった。二人とも盲目じゃなかったら精霊になんかならなかったんだろうけど、そうなってしまったのは紛れもない事実だろ。だから、だからそう思っただけ」
ラザーは俺の話を静かに聞いてくれた。だけどその落ちつきの裏に何かがあるように思えた。彼もまた普通の人とは違った存在なのだから、オセやソイの気持ちも分からなくはないと思うんだけど、それでもやっぱり顔に出さないので何を考えているのか分からなかった。
ふと顔を上げると風が頬に当たった。短くなったラザーの銀髪が風に揺れている。白黒の湖は音もなく水面を震わせ、やがてどこか遠くへ流れて消え去った。