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106

 ロスリュは人じゃなかった。俺と同じように人じゃなかった。命を司る竜としてこの世界を守っていた。俺なんかが触れていい存在じゃなかったんだ。
「目が見えない、と。それがあなた達の出した答え?」
 腕を組んで冷淡な言葉を投げかけてくる様は普通の人間のよう。それでもあんな姿を見せられたら、相手は自分たちとは違うものなのだと意識してしまう。
 彼女と対峙しているのはラザーラス。不老不死の青年。ロスリュが言うにはラザーが不老不死になった時に何かを奪われたそうだ。それを見つけ出せというのが相手側の質問だった。
「そう。そう――その通りよ」
 何度も頷きながら竜の少女は言う。
「私は何も見えないの。だけど、誰がどんな姿をしていて、どんな顔をしているのかなんてことは、全て分かるの」
 一つ一つ言葉を噛み締めるようにロスリュは言った。俺はラザーの後ろからその声を聞いていた。その声からは何も感じられなかった。ジェラーのように無感情な声だった。
「だけどそんなことを今更言っても何にもならない。そうじゃないのか?」
「随分と優しくない人ね」
「当然のことを言っただけだ」
 苛立ったようにラザーは言っていた。彼が納得できない理由も分からなくはない。過去に起こったことは変えられないのだから。それを今更とやかく言ったところで、一体何になるというのだろう。だけどロスリュだってそれくらい分かってるはずだ。だから俺は何も言わない。
「まあ、あなたの言うことも間違っているわけじゃない。でも……」
 ふと空気が変わったのを感じた。何と言えばいいのか――湿っぽくなったとでも言うのか。
「樹」
「え?」
 いきなりロスリュに話を振られて驚いた。ラザーと話してたんじゃなかったのかよ。このタイミングで話しかけてくるなんて予想していなかったので、自分でも滑稽(こっけい)なほどに反応に困ってしまった。
「お、俺?」
 どこぞの漫画のように自分の顔に指を差す。そうするとロスリュは素直に頷いてくれた。確かに俺の名前を呼んだらしい。しかし一体、何のために。
「光の精霊と闇の精霊を呼んでくれる?」
 どきりとした。
 精霊を呼んでいいのは主である俺の意志がある時だけ。つまり俺が呼びたくなかったら召喚する義務はない。他人に頼まれて召喚することは極力避けたかったけど、なんだか今はそれが許されないような気がした。
「……精霊よ」
 言われた通り、光と闇の精霊を召喚する。
 互いに相対するオセとソイは間をあけて出てきた。そこで気づいたんだが、二人はあまり近づきすぎることができないのだろう。たとえ幼馴染みだろうと知り合いだろうと、光と闇になった以上、互いに惹かれ合うことは決してない。それははたして良いことなのか。
「何の用だ」
 厳しい顔と口調で質問を投げてきたのはオセ。相変わらずだと笑うこともできるが、その瞳は俺に向けられていたわけではなかった。
 光を見ることのできない目はロスリュに向けられている。
 なんだろう。胸が締めつけられるような感じだ。俺は悲しんでいるのだろうか。それとも同情しているのだろうか。
「こんにちは」
 ロスリュの二人の姿を見てからの第一声はそれだった。
「あなた達は精霊になれて、さぞ気分がよかったことでしょうね」
 そうして続けられた言葉は、耳を疑うような内容だった。
 まさかそんなことを言うとは思わなかったので驚いた。彼女のことだ、きっと何か裏があるのだろうとは思うけど、それでも驚きは隠し切れない。
「なんだか人が変わったみたいだね」
 隣からアレートの囁きが聞こえる。俺は静かに頷くことしかできなかった。しかし同時に、昔のことを思い出していた。
 昔のこととは、俺の世界でのこと。ラザーとカイの家でのこと。ラザーに向けて言っていたロスリュの言葉は、今のものと非常によく似ていた。まるで人が変わったような。だけど紛れもなく彼女自身の。その声は厳しいものだけど、本当はとても正直なものなのだろう。
 きっとロスリュは本音を言っているんだ。ラザーに対する本当の気持ちを。
「精霊や竜は普通の人間以上の能力を持っている。たとえば大きな魔力を持っていたり、他のものから束縛されなかったり、耳がよく聞こえたり、目がよく見えたり。……あなた達はそれを知っていた?」
 そんな話は初めて聞いた。大きな魔力を持っているのは聞かなくても分かっていたけど、他にもそんなことがあったなんて。自分は精霊達を率いる契約者であるのに何も知らない。そうだ、俺はなんにも知らないんだ。
 オセもソイも黙っていた。じっとロスリュの姿を見下ろしていた。小さな少女の姿を見下ろしていた。だけど本当は、大きな竜の姿を見上げていたのだろう。
「分かってる」
 やがて黙ったままの二人から視線をそらし、竜の少女は小さく呟いた。
「今はつまらない意地を張っている場合じゃない」
 ラザーは腕を組んだ。
「だけど覚えていて。過去に起こったことは変えられないけど、未来に起こることは変えられる。それがたとえ無駄だと笑われたものであろうと、他の人が全員諦めてしまったものであろうと、気持ちの持ち方一つで未来は変えられる。そう、未来は変えられる。永遠に、変えられる。あなた達が思っている以上に変えられる。ずっとずっと努力していなさい。そうすればあなた達にも光が見えるはずだから」
 少し笑ってロスリュは背を向けた。ゆっくりと歩いて湖の水面に近づく。長い髪と衣服が引きずられる音が無駄に大きく聞こえた。いつだってそのように聞こえていた。
「闇は人を変えるって言うけど、そうでもないと思わなくて?」
 背を向けたままだったので表情は分からない。それでも俺には相手の顔が見えたような気がした。
 精霊なんかじゃなくても。竜なんかじゃなくたって。気持ちの持ち方一つで変えられる。物事の見方も、未来の姿も、闇の中での光も。だって精霊も竜も人も、みんな同じなのだから。
『そう、そういうことだよ』
 今まで静かにしていた声が頭に響く。
『別に目が見えなくても見えるものはある。彼女はただそう言いたかっただけなんじゃないかな』
 逆に目が見ないからこそ見えるものもある。それも言いたかったんじゃないだろうか。
 オセとソイは無言のまま石の中へ帰っていった。最後までソイは沈黙を通していたな。呼ぶのは俺の責任だけど、帰るのは精霊たちの意志でおこなわれる。結局のところ、どちらが主なのか分からないものである。
 少し笑みが零れたが、それを目にした人は誰もいなかっただろう。
「いらっしゃい。あなた達の目的の場所へ連れて行ってあげるから」
 湖を背に振り返った姿は、今まで見た中で最も美しく見えた。

 

 さて、これでようやく本来の目的へ近づいたわけなのだが、その前にまた一つの障害を発見してしまったのである。
「魔力が足りないわね」
 すました顔で事実をはっきりと告げるのは竜の少女。
 ワノルロの湖を背景に集まったのはいいものの、どうやら世界の狭間へ行くには竜の力ともう一つ重要なものが必要らしい。そのもう一つのものが魔力なんだそうだが、ロスリュが言うにはそれが足りないらしい。
 しかしそんなことは俺に言われても困る。
「この中で移動呪文を使えるのは?」
 そんなことを今更聞くか、と思ったが誰も文句を言わなかった。ロスリュの問いに挙手をしたのは二人。今ではもう分かり切ったことだけど、リヴァとジェラーの二人である。
「……あなたは?」
 まるで深く疑っているような目を向けられていたのはラザーだった。なんだかすごい勢いで睨みつけているように見えるのは俺だけだろうか。
「俺は呪文なんて使わない」
「そういえばそんなこと言ってたわね」
「お前――」
「静かになさい」
 この二人、本当に大丈夫なんだろうか。
「世界の狭間へ行くためには魔力が必要なの。だからどちらか一人の力を借りたいんだけど、ここで力を使ったらまず向こうへ行っても戦える状態にはなれないでしょうね」
「それって、思いっきり足手まといじゃん。だったら力を使った人は向こうへ行かないの?」
「強制的に飛ばされるわ。私も一緒にだけど」
 それが意味するのは一人分の戦力を失うということ、なんだろうか。確かに世界の狭間へ行けなかったら元も子もないんだけど、せっかくここまで一緒に頑張ってきたのに。一人だけ足手まといになるのは本当につらいことだ。それをこの二人のどちらかが味わうことになるんだ。
『だから君は甘いんだって言ってるでしょ』
 ふと頭に響いたのは少年の声。別の方向ではロスリュとリヴァが話をしており、他の二人はその様子を見守っている。ただこの藍色の髪の少年だけが俺の姿を見ていた。
『何も犠牲にせずに何かを得られると本気で思ってるの?』
 それだけを言うと俺に背を向け、話し合いの中へ入っていった。
 言われなくても分かっていた。現に俺は今までそうしていたのかもしれない。知らない間にいろんなものを犠牲にして、ここまで歩いてきたのかもしれない。だけどそれは過去のこと。もう今では昔と呼ばれる時代のことなんだ。
 ジェラーはここで魔力を使うことを皆に告げた。誰も反発しなかった。俺は止めようと思ったら止められたかもしれない。俺はあいつが少しでも心を開いてくれてる人だと思うから。だけどあいつが自分で決めたことなら、俺に止める権利はないのだろう。あいつの思う通りにしてやらなければならないのだろう。
 思えばいつも助けられてきたんだよな。移動呪文を使ってもらったり、危ない時に呼んで来てもらったりして。そんなことばかりを繰り返してきて、俺は一体彼に対して何ができるだろう?
 考える暇もなく事は運ばれてゆく。湖の前に立って、何もできない俺はじっとしていた。他の三人も同じように。ロスリュとジェラーは湖の水に触れ、立ち上がったかと思うと一気に眩しい光をこちらに投げつけてきた。
 風が舞う。ただ白と黒だけの空間の中で。
 光は優しく体を包んだ。そして意識がはっきりとしている中、目の前の景色が一転して変わった。

 

 何もかもここから始まる。
 今までのものは何だったのだろう。
 頭の中を真っ白にして、最初からやり直し。
 ゲームのようにリセットして。

 そんなことができたら、どれほどよかったことか。

 実際はここで終わりを迎える。
 今までのものはただの過程。
 もう引き返すことはできない。
 リセットはできても、意識の中にデータは残っている。

 そんなことができるから、どれほどよいことか。

 

 

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