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 どんなに望んでも叶わないものがある。
 どんなに叫んでも届かない声がある。

 

第三章 欠陥品

 

107

 これはただの夢のような気がした。本当はこんな現実は何一つ正しくなくて、全てが夢の中での幻想のような気がした。だってこんなでたらめな自分、そうだと言われてもすんなりと納得できるわけがない。こんな自分は自分じゃないって言いたかったのかもしれない。
 だけど俺はこれは現実なんだと分かった。俺の周囲にいる人々が、あまりにも真剣すぎて。嘘を言う人なんて誰もいないんだってほど真剣な眼差しだった。そんなものをまっすぐ見ていたら、よほど自分が滑稽に思えたのだろう、事実を疑っていた自分は確かに間違っていたんだと感じられた。
 目の前に広がる景色は白と黒。白い紙の上に真っ黒なインクを落としたようで。手を動かせばインクは物を形作っていく。そこから生まれるのは計り知れないものばかり。――まるでそれにそっくりな景色が俺の目に映っていた。
「世界の狭間、か」
 呟いてから隣を見てみた。そこにはつい先ほどと変わらない並びで人々が立っている。彼らもまたこの景色を見上げているようだった。それぞれ違った顔で同じものを見つめる。
 足下はふわふわして安定感がなかった。これは前にも味わったことがある感覚だ。もう二度と味わいたくないと思っていた感覚だった。再び感じるようなことがあってはならない気がしたんだ。だけど、狭間と言うだけあるから仕方がないことなんだろうか。
「こんな場所に本当にシンとラスがいるの?」
 率直に聞いてきたのは外人だった。本当に不思議そうな目でこちらを見てくるんだ。それは子どもにそっくりだった。
「とにかく進んでみなくちゃ分からないだろ。もう行こう」
 皆を前へ押しやるためにわざと大きな声で言う。そうした後で歩き出すとそろそろと誰もがついて来てくれたので安心した。
「ここはどうやら見る人によって違った景色に見えるらしいわね」
 歩いていると後ろの方から興味深い声が聞こえてきた。聞きなれた竜の少女の声は口を挟む前にまた耳に入ってくる。
「アユラツの世界が崩れかけた時にシンの魔力によって作られた。そんなところかしらね」
 誰に説明するわけでもなく言ったのだろうけど、俺はそれを聞かなかったらまた何も知らずに進んでいたに違いない。声に出さずに相手に感謝する。
「止まれ」
 なんてことを考えていると静止する声が聞こえた。その声には有無を言わさず従わせるような響きがあったので、反射的にぴたりと足を止めて後ろを歩いていた誰かとぶつかった。振り返るとその誰かとはアレートだった。相手はちょっと笑って軽く片手を上げた。謝っているつもりなのだろう。俺は一つ頷いておいた。
「何かが近づいている」
 命令した声と同じ人の声が続く。それは最後尾を歩いているラザーのものだった。彼はただ一点をじっと見つめたままぴたりと止まっていた。微動だにしなかった。
 静かに前方を見てみる。確かに遠くの方から何かが近づいて来ているのが分かった。それはまだ遠い場所にいるので何なのかは分からない。もしかしたら人かもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
 しばらくすると相手側の様子が分かり始めてきた。白黒の景色の中に浮かんだのは綺麗な青色。どこか見覚えのある、だけどあまりよくは知らない色彩。本当は知りたくてたまらないけど、知ることを許されないような存在。近づいてきてようやく分かった。それは常にシンと共に行動していた者、シフォンだった。
 ただ一人だけまっすぐこちらに歩いてくる。敵意は感じられない。いつもの銀色の鳥の姿ではなく、いつか見たことのある『天使』の姿をしていた。しかしあの時に見た純白の羽はどこにも見当たらなかった。
 声が届く場所まで近づくと相手はぴたりと止まった。こうしてまっすぐ向き合うのはこれが初めてだった。俺は相手のことを何も知らないし、相手も俺のことを知らないんだと思う。もちろん誰かに聞いて知っているかもしれない。だけどそれは所詮誰かから聞かされた俺の姿。実際に言葉を交わさないと知ったことにはならない。
「あなた方は」
 青い髪と黒い目を持つ相手は静かな声を発した。とても綺麗な声だった。透き通った水のようだった。その瞬間、俺は何も言えなくなった。
「何をしに来たんですか」
 純粋に不思議に思って聞いているのか、それとも裏があって聞いているのか。それは分からない。
「あの人を」
 言いたいことが巧く言えないように、シフォンは短く言葉を切る。
「あの人を壊しに来たんですか?」
 そしてようやく分かった。この人の言葉に裏なんかないということが。
 分かったら安心したのか、俺の身体は重荷が下りたように軽くなったような気がした。今は周囲が静かであることが嬉しかった。
「俺たちはシンを壊しに来たわけじゃない。ラスを倒しに来たわけじゃない。あの二人を連れ戻して、また一緒に笑い合いたいからここへ来ただけなんだ」
「あの人と、ラスを?」
 シフォンはシンとラスを親しみを込めて呼ぶ。一緒にいた時間が長いからそうしているのだろう。だけどそこにはいつも壁があるように聞こえる。それは尊敬だとか友情だとか、そういうものではない。もっと何か、儚(はかな)く消えてしまいそうなもののように思えてならない。
「あの二人にはもう僕の声は届きません」
 静かに語る様は、ただただ綺麗で。
「僕は誓ったんです。昔の約束の為に。ずっとシンのことを裏切らずに傍にいるって」
 綺麗なものって、どうしてこんなにも脆(もろ)いのだろう。
「精霊であるシフォンは死にました、僕の目の前で。そして代わりに僕が精霊になりました、名前と姿を借りて。その時に交わした約束が今も続いているのです」
 綺麗なものって、どうしてこんなにも儚いのだろう。
「だけど僕は時が来ると行かなければならないんです。僕には他にも任せられた事があるのです。そしてそれからは決して逃げられないんです。絶対なんです。僕はまだこのことをあの人に話していない――ああ、一体どうして僕はあの人に言えないのだろう」
 顔は苦しそうなのに、動作はぎこちないのに、シフォンにはまるで感情がなかった。ジェラーのような無表情だというわけでもないし、スーリのように自ら押し殺しているというわけでもない。
 この人と似ているのは誰だ?
「今のお名前を聞いてもよろしいでしょうか、ヴェイグさん」
 この人と似ているのは、シンだ。
「樹。川崎樹。それで、あんたは?」
「僕の名前は――」

 

 +++++

 

 シフォンとはそのまま別れた。だけど最後に一つだけ約束した。シフォンの本名は誰にも言わないでほしいという約束を。どうしてそうするのか分からなかったけど、俺は素直に頷くことしかできなかった。
「結局、精霊のシフォンは死んでたんだね」
 歩きながら隣でリヴァが言う。
「一度でいいから話したかったんだけどなぁ」
「あいつと話せたからよかったじゃんか」
「だってあの人は」
「代わりでも精霊だって言ってたろ」
 俺がそれだけを言うと外人は口を閉ざした。反論できなくなったらしい。無理もない、シフォンの口から直接聞いたことだもんな。
「それよりいつになったら目的の場所に着くんだ?」
 後ろから聞きなれた声が言う。それはこの白黒の世界にすっかり解け込んでいるラザーラスの声だった。そういえばさっきから歩いてばかりだよな。本当にこれでシンとラスの元に辿り着けるのかと聞かれたら、それは……どうなんだろうか。急に不安になってきた。
『馬鹿じゃないの?』
 そんなこと言わないでくれ、ジェラー君。こういう時はアドバイスか何かを与えるもんだろ。
『知らないし。自分で考えれば?』
 魔力を使い切った少年は相変わらずだった。戦力外となっているにもかかわらず言いたい放題である。そりゃまあ声に出してはいないけど、とにかく少しくらい俺の味方をしてくれたっていいのにと思ってしまう。
「ねえ。ここって見る人によって景色が違って見えるんでしょ?」
 何気なく発したのだろう、後ろからアレートの声が聞こえた。そういえばそんなこと言ってたっけ。ということは、今歩いているこの白黒の景色が見えているのは俺だけだということだよな。
「リヴァは何が見える?」
「ぼく?」
 アレートは前に出てきて俺の隣を歩く。俺は外人とアレートに挟まれるような位置になってしまった。
「ぼくは夜の街が見えるよ。樹とアレートは?」
「私は城の近くの景色が見える」
「俺はアユラツ」
 答えた瞬間、両側から妙な視線を感じた。二人とも変な目でこっちを見てくる。
「な、何?」
 堪えかねて聞いてみた。しかし二人とも乾いた笑いを見せてきただけだった。
「君の考えがあまりに単純すぎて呆れてるだけだよ……」
「なっ!?」
 後ろからジェラーが解説してくれた。しかし単純って何だよ。なんでアユラツが見えたら単純になるんだよ。
「だったらさ。ジェラーは何が見えるんだ?」
「なんでそんなこと教えなきゃならないのさ」
 …………。あっそう。
 本当にいつもと変わらない少年はいいとして、今度は後ろの方を無言で歩いている二人に話を振ってみた。
「ラザーとロスリュは何が見える?」
「私はワノルロの湖よ」
「俺は――って、なんでそんなこと言わなきゃならないんだ」
 ジェラーと同じことを言う人がここにもいたよ。
「素直に言えばいいじゃない。減るものじゃないんだし」
「なんでそうなるんだ!」
 冷淡にロスリュは言いたいことを言う。さすが竜として長年生きてきただけあってか、考え方が違うというか何というか。と思ったがラザーも不老不死として長い時間を生きてきたんだよな。それなのになんでこの二人はこんなに。
「で、何が見えるんだ?」
「だから言うつもりはないって――」
「俺はアユラツが見えるんだ」
「なんでそんなに聞きたいんだよ」
「友達じゃん」
 答えると相手は変な顔をした。また俺は変なことを言ってしまったのだろうか。
「なんで俺がお前と友達なんだよ。っつーか、いつそうなったんだ。勝手なこと言うな」
「あれ、ラザーもしかして怒った?」
 こんなことで怒るなんてちょっと予想外だ。いつも冷静に物事を見てるようなイメージがあったから驚いた。でも本当はそれも知っていたような気がした。
「安心なさい。彼は怒っているんじゃなくて恥ずかしがってるだけだから」
「そーなの?」
「そーなの」
 無責任なことをロスリュは言う。しかしそれは本当のように聞こえた。だから本当だということにしておこう。うん。
「で、結局何が見えてるんだ?」
 そして話はまた元に戻る。
「……き」
「へ?」
 ラザーの声は小さすぎて何を言っていたのか分からなかった。彼は目を隠すように片手を顔に当てた。それは考え込んでいる仕草にも見えなくはない。
「だから、組織」
 それだけを言うとそっぽを向いてしまった。
 組織って、ラザーが昔に働いてた場所のこと、だよな。詳しくは知らないけど。そこってそんなに広い場所だったんだろうか。
 などということを考えていると目的の場所らしき場所に着いた。なぜそんなことが分かったのかというと、そこには明らかに周囲の景色と違う建物が置かれてあったからだ。
 いびつに歪んだそれは、俺の心に少しも似ていなかった。

 

 

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