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108

 扉が開く。その先にあるものは教えてもらわなくても分かる。
 ただ少しだけ、虚しく感じられた。

 

 そこはまるで部屋の一部のようだった。中は薄暗くて分かりにくかったが、よく見てみると背景の中にいくつもの本棚が見える。そのすぐ傍には机があったり、椅子が置いてあったり、割れた花瓶がそのまま放置されていたり。窓からは薄い光が少しだけ遠慮がちに差し込んでいた。
 扉をくぐってから一度立ち止まった。真正面から強い視線を感じる。鋭く尖った刃物のように胸を突き刺す。この痛みを俺はずっと前から知っていた。
 静かに正面を見据える。そこには暗い部屋の中で光を放つ金髪と、まるで創られたもののような異色を放っている赤い瞳を持つ人――シンがいた。
 唯一心を許していたシフォンの声も届かなくなってしまった人。俺やアレートの兄でもある人。そして自分の存在理由が分からなくなってしまって、運命に必死になって抵抗している人。それが彼だった。それが俺のよく知っている姿だった。
 相手は何も言ってこなかった。ただ黙って立っているだけ。俺が何かを言うのを待っているのか、それとももう無駄なことを言いたくないだけなのか。それ以上のことは分からない。
 一歩前に踏み出してみる。相手は少しも動じない。何かに引っ張られるようにもう一歩前へ進む。それでもやはり動かない。
 皆に見守られる中、俺は一人だけ歩いていた。何かをしたいのだろうけど、何をしたいのかなんて知らない。ただ引かれるままに進んだだけで、投げやりになったとか格好つけてるとか、そういう理由なんかじゃない。
 相手の目の前に立つと足を止めて顔を見上げた。ずっと変わらない表情がそこにあった。視線はこちらに向けられているらしい。その口から出てくる言葉を俺は期待しているのだろうか。
「シン」
 久しぶりに名前を呼ぶと急に恐ろしくなってくる。
「もう帰ろう」
 だけど同時に、心が穏やかになってきた。
 俺は相手に手をさしのべた。まっすぐ。恐怖と穏やかさに挟まれたままで。
 それでも相手は反応を示さない。
 当たり前か。ここまで来てしまったんだもんな。この程度で折れるなら彼の過去が全て無駄になってしまうから。
 静かな部屋の中でさしのべた手を下におろした。そうするとなぜか、偽善者として生きていた彼の姿が思い起こされた。
「何をしに来た」
 耳に飛び込んできたのは比較的静かな声。俺は数歩後ろに下がった。
「お前はそんなにあいつらの言いなりになりたいのか」
 彼にしては優しい口調で問いかけてくる。いや、これは問いかけなんかじゃない。ただ話しているだけだ。
「あんな奴らの言いなりになってあいつを殺して、それでお前は満足を手に入れるのか」
 とても静かな様子で話す。それはまるで独り言のように聞こえた。告白のようにも聞こえた。
「お前には何も聞こえないのか」
 聞こえるのはあんたの声だけだ。
「自分の知識だけで理解しようとするのか」
 それは分からない。けど。
「なぜ進んで人形なんかになった?」
「これが一番良い選択だと思ったからだよ」
 端から見れば平凡な会話のように思えるかもしれない。それほど相手の空気がいつもよりやわらかかったんだ。
「――何も知らない、欠陥品が」
 しかしそれも終わった。俺が相手を怒らせてしまったから、安心できる場はなくなってしまったんだ。
 普段通りの彼が戻ってくる。瞳の鋭さはそのままで、先ほどよりもびりびりした緊張を持つ空気が周囲を取り巻く。
「だからお前は出来損ないだと言っているんだ」
「何とでも言えばいい。でも俺はきっと出来損ないでよかったんだと思ってるから」
「全ての存在に嫌われても?」
 最後の質問は静かに、だが確かに深く胸に突き刺さってきた。この人は俺の弱さに入り込むすべを知っているらしい。すぐには答えられない質問が、俺はとても苦手だった。
「たとえ全存在が彼の敵になったとしても」
 ふと感じたのは、闇のようで光のようなもの。
「私たちは最後まで樹の味方だから」
 それは仲間の声だった。厳密に言えばアレートという少女の声。だけど俺には全員の声のように聞こえた。
 なんだろう。これは。
 恥ずかしいくらいにまっすぐで。言いたい放題だけど憎めなくて。いつも本気でぶつかってきてくれる人々。それが彼らの正体。
 一人、また一人と集(つど)っていく人々。彼らは俺の元に集まってきたんじゃない。俺が彼らの元に引き寄せられていた。
 好きなのかと聞かれると首を傾げるようなところもある。けど絶対に嫌いなんかじゃない。それだけは間違いないことだ。でも、腹の底から好きだとは言えない。
 そんな微妙な感情を抱くような相手がシンには必要だったのかもしれない。彼の傍にいたのはいつも決まった人々だけ。昔は家族に囲まれて、後にはシフォンとラスの傍にいた。彼が偽善者になりたくなった理由が、今更だけどなんとなく分かったような気がした。
「そんなことを言っているようでは、あいつの声は決して聞こえない」
 相手の言った言葉に俺は素直に頷いてしまいそうになった。それを適当な仕草で誤魔化しておく。だってそうでもしなければ、相手はまた怒ってしまうだろうから。
 やっぱり俺は、相手を怒らせるような真似はしたくなかったんだと気づいた。ただ単純に怒ったら怖いからというわけではない。理由はそれよりも簡単だ。誰だって誰かを怒らせるようなことはしたくないだろ? 怒っている人の姿を見るのは、それだけでなんだか怖くも悲しくもなるから。
 できることなら笑ってほしい。ずっとずっと優しい人であってほしい。偽善者なんかじゃなくって、本当の意味で善人であってほしかった。だけどそれはもう夢物語のようにしか聞こえない。現実は容赦なく、俺の前に降りかかってくるんだ。俺はそれをちゃんと受け止めていられるのだろうか。
「もしここで自分の命が終わったとしても」
 呟くように言うと、すぐ傍を何かが通りすぎた。続いてそれは俺の顔面に向かってくる。とんでもなく速いスピードだったのかもしれない。だけど俺の中の兵器はそれよりも速かった。
 剣を握り締め、相手の呪文の光線を弾く。
「悔いは残らないとは言えない。それだけは確信できる」
 赤い瞳は少しも変わらない。ただ静かにそこに存在しているだけ。
 呪文の光線はすぐに止まった。効果がないと覚ったのだろうか。しかしそれで手を休めているような相手じゃないことを知っている。
「息をすることさえ難しいこの世界を、好きになれとは言わない」
 藍色の髪の少年は竜の少女と共に皆から離れた場所に立ち、静かに事の成り行きを眺めていた。俺の言葉が届いているかどうかさえ判断できない。
 源属性の呪文はあらゆる姿に形を変えていた。以前見たものは単なる爆発。改めて見せられたのは光の光線。じゃあ次に見せつけられるのは?
 足場が揺れる。
「許しがたいことも醜いものもあるこの世界。好きになれって言う方が難しいのかもな」
 地面が割れた。バランスを崩して転びそうになる。足場っていうのは兵器にとっても重要なものらしいな。それだけでバランスなんか崩して、相手に隙を見せたりなんかして。
 頭上に魔力を感じたのか、兵器は上を見上げる。
 兵器は俺じゃない。
「もしかして、怖い……だけなのか?」
 言葉に反応するように頭上で竜巻が形成された。風が刃みたいに鋭くなっていて、まともに受けたら一瞬で命を奪われてしまうだろう。
 竜巻の威勢はすぐに消失する。いや、奪われたと言えばいいのか。呪文ではなく魔法でそれを操る人がいたのだ。竜巻を瞬時に消し去ったのは他でもない、銀髪の不老不死の青年。
「いつもいつも兵器に身体を乗っ取られて。自分の思うように事を運ぼうと必死で。俺は一体何をしている?」
 風のように一人だけ前へ飛び出したのは黄色い髪の少女。いつか見せてくれた鍵を相手に向かって振る。相手はそれを避けたが、同時に鋭利な呪文を放っていた。
 少女はこちらに吹き飛ばされ、外人が彼女を受けとめる。
「今更言っても仕方がないかもしれないけど」
 届くだろうか。この言葉。
「生まれてきて幸せだって思えるような世界を、きっと俺たちが創っていくから」
 響くだろうか。こんな綺麗事。
 ふっと空気が和らいだ気がした。相手の攻撃はぴたりと止む。まだ戦闘体勢だった他の三人も不思議そうな顔で相手を見ていた。俺の中の兵器は、どこかへ引っ込んでいってしまった。
 なぜだろうか、空気がとても澄んでいるように感じられる。これは安息? それとも、嵐の前の静けさ?
「俺は
 吐き出すように言ったのは俺じゃない。
「自分が生まれてきて幸福だなんて一度も思ったことはない」
 言うのは偽善者。話すのは兄。伝えるのは、全てに疑心を抱いている人。
「お前なんかに何ができる? 何も知らずに騙されていたお前なんかに」
 思い起こされたのは遠い昔のこと。騙されてたと分かった時、情けないほど辛くなったっけ。なんで騙されたんだろうとか、何がそうさせていたんだろうとか、無駄に悩んでは苦しんでた。それはきっと通過点。通過点を通り越した今、俺はただ一つでも分かっていなくちゃならない。
 それがきっと大人になること、だよな?
「それは否定しない。っていうか、否定できないしな。俺は見事にあんたに騙されてたよ。可笑しいほどに見事にな。
 でもさ、なんでだろうな? 今なら何でもできそうな気がする。世界を滅亡から救うことも、ラスを止めることも、あんたと手を繋ぐことだって。いつか来る争わないでもいい時が、すぐ傍まで来てるような気がするんだ。そりゃ未来なんか分からないけどさ、それでもそれに向かって努力することはできるだろ?
 未来の実現のために。今はその一歩ってやつかな。綺麗事なんて聞くつもりもなければ言うつもりもなかった。けど、変だよな。あんたの顔見てたら、綺麗事を言っても許されるような気がするんだ」
 最初で最後かもしれない。この人に向かってこんなことを言うなんて。
 相手は俺の兄だ。兵器だから血は繋がってないけど俺の兄貴なんだ。それなのに今までは腹を割って話すことはおろか、まともに話をしたことすらなかった。確かに相手は全てのものを嫌っている。俺もスーリもアレートも嫌われている。だけど本当は皆の態度や接し方が彼をこうさせているのではないか――ふとそんな気がした。
 もしも、どんな人とでも平等に接することができる人がいたら。
 もしも、どんなに信じられないような人でも心の底から信じてあげられる人がいたら。
 夢の見すぎかもしれない。そんな人、いないのは分かってる。俺だってそんな人にはなれない。どんなに優しい人でも必ず心のどこかに闇を持っているから。
 この人に必要だったのはそんな人だったのだろうか。夢の中の住民みたいな、欠点のない紳士が必要だったのだろうか。
「理想は素晴らしいものかもしれない。でもその裏でそれを望んでない人だっているんだ。許してくれとは言わない、だけど、分かってくれよ、世界を滅ぼしたって何にもならない!」
「黙れ!」
 相手に俺の声は届いた。届いて、その胸に響いたんだ。だから反応を示してくれる。まだ全てが終わったわけじゃなかったんだ。
「黙れ、黙れよ――」
 だけどそれは予想していたものとはあまりにもかけ離れていて。
「ねえ、ちょっと」
 横から小さく囁くように外人は言う。こんな時に一体どうしたというのだろう。
「今更だけど、急に怖くなってきた」
「我慢しろよ。俺だって怖いんだから」
 励ましにもなっていない言葉を投げてみても、昔のように文句を言ってくることはなかった。
「同じ場所で生きていたのに、こんなにも彼は違っているなんて」
 独り言のように言うのは黄色い髪の少女。前をじっと見つめたまま、誰に言うでもなく呟く。
「何だろう、悲しいとか怖いとかそういうものじゃない……残念なのかな」
 特に誰かに伝えたかったわけではないのだろう。だけどそれは俺の耳に届いた。聞くつもりじゃなかったけど聞こえてしまった。たったそれだけで、少女の呟きは大きな意味を持つことになってしまった。
 ふと風が吹いたような気がした。室内だというのに風が吹いたんだ。はっとして顔を前方に向けると、そこには変わらないあの人の姿があって。
「消え去れ!」
 忘れてたわけじゃない。むしろよく気にしていた。
 まっすぐ投げつけてきたのは巨大な魔力。巨大だとしか言い様がない。だってそれは人が持っていいほどの量じゃなかったから。
 もともとあの人は魔力が多かったと言っていた。それにスーリから奪ったものが加算されたとしたら、一体どうなるかくらい分かっていたのに。
 地面が崩れた。直接魔力にぶつかりはしなかったけど、巨大すぎるそれは空間をも壊していった。俺たちになすすべなんてあるわけがなく、ただ崩れていく空間に飲み込まれていくだけだった。
 やっぱり無理だというのだろうか。欠陥品なんかじゃ不充分で、世界は救えないんだろうか。
 これで終わり? 世界も俺も、あの人の心も終わり?

 

 闇に飲み込まれていく中で、さらなる闇に呼ばれたような気がした。

 

 

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