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111

 一族の少年は、もはや少年と呼べるような人ではなくなっていた。
「シンさんはどうしたんですか?」
「分からない」
「そうですか。きっとあの人のことだ、自分の魔力の暴走を抑え切れなくなったのでしょう」
 今でもまだ敬語を使って話してくる。昔と同じでそこに敬意なんか見えないけれど、今ではそれがなんだか不自然で奇妙なものだとしか思えなかった。
 ただ、静かに。静かに時は流れていく。
 俺なんかよりずっと長い時を彼は過ごしてきた。そこで見たものは、一体どんなものだったのだろう。そしてそれを見る瞳は、どのように現実を都合のいい幻想に変えていってしまったのだろう。
「スーリさんはどうしましたか?」
「俺の世界にいるはずだ」
「そうですか。だったら邪魔されることもありませんね」
 どれだけのものが彼の前にあっただろう。どれだけの綺麗なものやかけがえのないものが、彼の前から消えていったのだろう。
 そして、どうして、彼はそれらを壊してしまおうとする?
「しかし、可笑しな話ですね。あれほど厄介だと思っていたスーリさんが、こんなにもあっさりと邪魔にならなくなってくれたのですから」
「ラス」
「あと邪魔だったのはロスリュさんやジェラーさん、それにカイさんでした。それがどうしたことでしょう、今僕の前に立っているのはまるで気にも留めなかった人々ばかり! あなた方は本当に僕を止めに来たのですか?」
「ラス」
「あなた方に一体何ができるというのです? 誰かに守ってもらわないと何もできないあなた方なんかに!」
「ラス!」
 強く名を呼ぶと彼はこちらを見た。やっと目が合ったんだ。やっと。
 視線は痛かった。シンのものとはまた違った鋭さを持っていた。ただ強く睨みつけてくるようなものじゃなくて、軽蔑や卑下が混じっているような視線だった。まるで自分の方が遥かに優れていると言わんばかりの。
「何か、言いたいことがあるのですね」
 だけど言う言葉はとても優しい。
「邪魔はしませんよ。どうぞ仰(おっしゃ)ってください。僕はその言葉を深く胸に刻むことにしましょう」
 そして態度もまた、優しかった。
 優しいけれどそれは嘘。彼は態度にも嘘をついている。きっと今まで皆を騙していることも気づかずに、ずっと平気な顔して騙し続けていたのだろう。
 これじゃあ考えたって分からない。彼がなぜ俺たちを騙していたかなんて。
「どうかそんな風に、自分に嘘をつかないでくれ」
 真っ先に口を開く。言いたい言葉は勝手に出てきた。
 相手は黙っていた。表情も変わらない。
「どうしてなんて問わないけど、また一緒に帰れたらいいな」
 素直さを見せながら言ったのはリヴァセール。言葉が彼らしくって、とても穏やかなものだった。
「理由なんか興味ない。けど、壊されたら困るんだ」
 ラザーラスもまた口を開く。彼らしい台詞は厳しくもあり、また願望も含まれていた。
「許してほしいだなんて虫の良いことは言わない。だけどね、そんな哀しい目で世界を見ないでほしいの」
 厳しさと優しさとが混じった言葉をアレートは吐き出す。その目は敵に対して向けられた鋭い瞳ではなかった。
 相手は黙って聞いていた。微笑むでもなく、怒るでもなくただ黙って。全員が各々の言いたいことを言い終えてもまだ黙っていた。目前に立つ対立者は、とても静かだった。
 この静寂が。この、やるせなさが。
「それが、あなた方の望み?」
 やがて出てきた声は、紛れもなく彼自身のものであり。
「僕は嘘なんてついてません。僕は帰る気などありません。僕は理由を説明する気もありませんし、許しを求めるような気もさらさらありません」
 彼は一気に吐き出した。それは俺たちの言ったこと全てを否定するものだった。
「あなた方も知っているでしょう、僕の昔の姿を。あなた方も知っているでしょう、一族と人の話を。僕は人が嫌いなのです。ただそれだけなのです」
「嘘だ」
「――何ですって?」
 俺は否定していた。
「そんなのは嘘だ」
 相手の持つ空気が変わったことを静かに感じる。それでも恐れるものなど何もなかった。
「昔はそうだったかもしれないけど、君は一族じゃない。君はきっと人なんだ」
 どこか遠い記憶の中から叫んでいる。叫んで、伝えてほしいと言っている。何か熱いものが、悲しみと共に押し寄せてくるんだ。
「……ダザイア?」
 呟くようにラスは言った。そうして俺も、やっと自分の親のことを思い出した。
 突然胸が苦しくなった。ここに立っていることが苦痛に感じられてきた。それはきっと、この先に起こることを知ってしまったから。
 心臓の鼓動が高鳴る。嫌だけど、逃げ出せない。怖い。怖かった。何を言っても強い信念を持っている相手が、とんでもなく怖かった。
 だってこのままだと俺は。
「樹さん、引いてください」
 俺は、相手の心を壊してしまうような気がしたから。
「僕は期待を大きくしすぎたのかもしれない」
 光が彼の手元に集まる。目を閉じ、空色が見えなくなる。
「あなたなら分かってくれるかもって――馬鹿なことを考えてしまったのだから」
 瞳を開く。その両手には、光を纏った剣が握られていた。
 やるせない気持ちのまま俺は剣を抜く。きっとこれが最後だろう。何かを傷つけるのは、最後であってほしい。
「引いてくれないなら仕方がありません。いいでしょう、お望み通り壊してさしあげましょう」
 そして――終わりが始まる。

 

 欲望があるのは、人だから仕方がない。
 でも、本当に、それで終わりにしてもいいのだろうか?

 

「どうしてなんだ?」
 心が押し潰されそうな気がした。
 相手の力は強大だった。今まで会った誰よりも剣の使い方が上手で、呪文の使い方も的確で、俺なんかじゃ歯が立たないほど強かった。がむしゃらに剣を振っても意味を成さず、吹き飛ばされてそれでおしまい。俺一人だけだとまったく勝負になっていなかった。
 それでも持ちこたえていられるのは、他の皆が力を貸してくれているから。
「どうして、ラス、あんたは――」
 言葉を発しながら体勢を立て直す。相手は隙を見せたらすぐにでも攻撃を仕掛けてきた。だから悠長に構えている暇なんてないんだ。
「あんたはなぜ、そんなに必死になってるんだ?」
 弱々しい疑問が口の外へ出ていく。
 真正面に呪文を放たれた。雷の光線がまっすぐ高速にこちらに向かってくる。それは顔面すれすれの所で現れた壁によって弾かれた。壁を作ってくれたのはリヴァだった。
「なぜ、ですって?」
 今度は呪文の代わりに本人が目の前に迫ってきていた。素早く振られた剣を受け止め、そこで一瞬相手の動きが止まる。
 そうではなかった。止まったわけではなかった。動きは止まったけど、彼の口元は動いていた。そこでは声にならない声で呪文が唱えられている。
 はっとして体を離しても遅かった。すぐ近くで彼の呪文は発動し、大規模な呪文が発動する。
 渦だった。水と風が合わさった竜巻。こんなものの前では壁なんて役に立たない。しかしどういうわけなのか――俺は渦にのみ込まれるようなことにはならなかった。
 よく見てみると周囲に薄い壁のようなものが見える。俺の体を囲んでいるそれは、端から見ればボールのように見えるかもしれない。俺はその中に入っていた。ちょっと間が抜けているかもしれないが、一体誰が――。
「まったくよぉ」
 ふと頭上から声が聞こえた。すぐ近くからだった。
「しっかりしろよな、主様」
 肩にぽんと手を置かれる。振り向かなくても声で分かった。
「エフ、お前」
「悪いな、勝手に出て来ちまって」
 姿を見るのは久しぶりだ。相変わらずの精霊はまた呼んでもいないのに出てきていた。
「でも文句は言わせねぇぞ。オレが出てこなかったらお前らすでに死んでたんだからな」
 お前ら、ということは皆も無事だということか。頼りなさそうな性格してるわりには頼りになって、とても格好よく思えた。
「分かってる。ありがとな」
「おうよ」
 ふっと渦は姿を消した。それと同時にエフも光となり石の中に帰っていった。
 そうして対峙するのは空色の瞳。
「あなた、今更何を僕に聞いているのですか?」
 やはり怒るでもなく笑うでもなく。だけど無表情だというわけでもない。こんな表情を何と呼べばいいのだろう。それでもそれは、彼の中に存在する表情だった。
 ラスは攻撃を止めて立っていた。それを不思議に思ったのだろう、皆はそろそろと俺の周囲に集まってくる。俺だって何も分かっていないので何も言えない。それでも相手は変わらずにこちらを見ていた。
「今更僕に何かを言うことで、何かが変わるとでも思っているのですか?」
 そう思っている。だからこそ聞いているのだろう。
 しかしそうはっきりと言うことはできなかった。
「……僕らは何もしていないんですよ?」
 なぜなら、次に聞こえた相手の言葉があまりに胸に響いてきたから。
 心の奥底にある静かな叫びが再び甦ってきた。これは、ダザイアの言葉であり記憶。俺を創った時にでも入れ込まれたのだろう。そう考えるとますます俺は道具のように扱われていたんだと思えたが、どうしてかな、それが嫌だとは思えなかった。
「何もしていないのに、彼らは僕らを利用しました」
 言うのは、絶望を見てきた少年。
「何もしていないのに、彼らは僕らの全てを奪い去りました」
 話すのは、深淵を通り抜けてきた大人。
「ねえ! これは一体どう説明できますか? これは僕らが悪かったんですか? それとも彼らが悪かったのですか? どっちなんですか!」
 次第に強くなっていく相手の感情を見て、ああ、分かったかもしれないと思った。相手の表情の名前が。相手の嘘の正体が。
「考えなくたって分かる。そんなの、人が悪かったに決まってる」
「だったら!」
「だからって滅ぼしていいわけじゃない。全ての人が悪かったわけじゃない。悪かったのは、欲望に負けてしまったあの世界の人々だけだったのだから」
 自分に仮面をつけた少年は少し黙った。
「やっぱりあなたも、兵器なんかじゃなく人だ」
 やがて出てきたのは今にも消えそうな声で。
「あなたも言いますか? 彼らと同じように、人には消そうと思っても決して消すことのできない欲望があるのだから、これは仕方がなかったことなんだと。一族のことを知りたい、一族の力のことを知りたいという欲望は、思想を持った人がやむを得ずに抱えてしまう欲望だから、仕方がなかったのだと言うのですか?」
 胸を貫く。
 俺は何も言えなくなってしまった。こう聞かれることを最も怖れていたのだから。
「仕方がなかったとしたら、それがどうしたんだよ」
 後ろから声が聞こえる。あまりにも俺の考えと離れているその意見に、驚きつつも耳を傾けて彼の――ラザーの声に聞き入ってしまう。
「たとえ仕方がなかったとしても、そんなものは全て過去のことじゃないか。お前だけでも生き残ることができてよかったとか思わないのか? 人に復讐する為だけに生きるだなんて、まったくくだらない奴だな」
 本当に彼の意見は俺には考えられないようなことばかりだった。この状況でそんなことを言ったらどうなるかとか、そういうことなんか微塵も考えていないのがよく分かる。だけど、それはとても綺麗に見えた。
「うん、そうだね。ラザーの言う通りだよ。せっかく生き残ることができたんだから、せめて楽しんで生きなきゃ」
 ラザーの意見に同意を示すのはリヴァセール。こいつが言うのもどうかと思うが、その考えは悪いもののようには聞こえない。
「あなたにとっては嘘だったのかもしれないけど、あなたよく笑っていたじゃない。笑うことってなかなか難しいものなのよ、それを常に見せていたのは、少しでも私たちを認めてくれてたからなんじゃないの?」
 まるで何かを確認するようにアレートはラスに言う。その声を聞いた途端に、初めて会った頃の彼の姿が思い起こされた。
 ラスは黙っていた。仮面をつけたまま、本音を曝(さら)け出さずに。
「そうだよきっと、そうすればいい。世界なんか滅ぼさなくたって、一族のために怒りを持たなくったって、きっと」
「……仕方が、ない?」
 俺の言葉を止めるようにして、彼の口から小さな声が漏れる。次の言葉が続かなくなった俺は、黙っている他にはどうしようもなくて。
「仕方がない? 仕方がない?」
 何度も噛み締めるようにして単語を吐き出す。それは一体どんな味がしただろう。決して俺たちには分からない、淋しい味がしただろうか。それとも俺たちにも分かるような、虚しい味がしただろうか。
「そうやってあなたは、仕方がないと言って笑い飛ばしてしまうのですね」
 彼の言葉はいつでも俺の胸を締めつけた。その中でも、この言葉が最も痛かったかもしれない。
「過去に起こったことだから? 自分だけ助かることができたから? そしてそれらは、『仕方がない』ことだったから? だから諦めろと? だから、一族の皆の悲しみを無視して自分だけ幸せになれと? あなた方はそう言いたいのですか?」
 誰も反論しなかった。できなかったのだろう。浅はかだったのだろう。軽率だったのだろう。俺だって同じだ。
「一体何が仕方がないのですか? どうしてそれは仕方がないのですか? あなたは変えられない現実に直面して、それから逃げているだけだ。
 そうです、変えられないんです、人は何も変えることができない! 変えようともがいても全て空回りで終わってしまうし、そのように創られたのだから『仕方がない』と諦めてしまう他はないのですよ!
 僕はもう飽き飽きです。一体これ以上どうすればいいと言うのです? たとえ僕らがあの世界ではない場所で暮らしていたとしても、人はあの世界の人と同じことをするでしょう。それに僕らのことを知りたいと思うなという方が無理な話でしょう? 欲望を持つなという方が、無謀な話でしょう? だから何もできない、それが悔しいのに、悲しいのに、こんな思いは、彼らには少しも届きません。いくらぼろぼろになって叫んでも、僕らの声は誰にも届かないのです」
 俺は一つ頷いた。肯定した。
 そうすると当たり前のように睨まれる。
「どういうつもり、ですか?」
「その通りだって言いたいんだ」
 相手はますます警戒を強くする。
「俺はジェラーじゃないんだ」
「そんなことは分かってます。ふざけないでください」
「けど、ジェラーだって人が本当に伝えたいことは分からないって言ってた」
「僕は無駄なことを喋るつもりはありません」
「言ってたじゃないか。自分の声は誰にも届かないって。俺はそれについて肯定してるんだ」
 それだけを言うと相手は黙った。
「俺にはラスの考えてることなんて分からない。あんたが本当に伝えたいことなんて分からない。あんたの言葉を聞くことはできるけど、それを誤解してしまう可能性だってある。そしてそれは俺やあんただけに言えることなんかじゃない。
 だけど、分かることだってある。俺にはよく分かることだってあるんだ。その伝えたいことが巧く伝わらないもどかしさ、言いたいことがちゃんと伝わらない悔しさ。そういうものはよく分かる。嫌というほどよく分かる。辛いよな。哀しいよな。嫌になるよな、全てが。誰も自分を理解してくれないんだって、孤独を感じてしまうよな。視線が冷たくなるよな。優しさが痛くなるよな。全てのものが、自分を見捨てたんだって思えてしまうよな。
 だから俺は、あんたの考えてることが分からない。分からないから無理矢理にでも連れて帰ろうとしてるんだ。いつかはきっと分かってくれるだろうと信じて、連れて帰ろうとしているんだ」
 ふっと相手の空気が変わった。ほんの少しだけ驚いたような表情を見せた。しかしそれはすぐに仮面の下に隠されてしまう。
「――何も知らないくせに、分かったような口を利かないでください」
「どうしてラスは、まだ俺たちに敬語を使うんだ?」
「くだらない!」
 いきなりラスは剣を振る。びっくりして避けたが、それは避けなくても俺に当たるようなことはなかった。
「うん。くだらないかもな」
 相手は長く息を吐き、剣をぎゅっと握り締めてこちらを見てきた。痛そうだった。とても、とても痛そうだった。
 傷つけてるのは俺。けど、止めるつもりはない。なぜならこの先にあるものは、彼のためになるものだということを信じているから。
「人ってすごいんだ。他人から見たらどうでもいいようなくだらないものを大切に思えるんだ。そんなくだらないことのために必死になったり、くだらないもののために悩んだり。くだらないことで笑って、泣いて、怒って、また笑ったりして。くだらないことを信じていたり、くだらないことを疑ったりするんだ。そしてくだらないものを期待して明日を迎える。――これをあんたは笑うかもしれない。なんでそんな、くだらないことを誇らしげに語るんだって。それでも俺はこんな人を誇りに思う。くだらないもののために生きる姿を、とても素晴らしいものだと思う。そうやって何かのために必死になれる姿は、人の素晴らしい部分だと思うから」
 世界から見たらきっと、全てのものがくだらなく見えるだろう。それでも俺はそれが好きだ。好きだから、守りたいから、彼に言っている。言って、分かってほしいと願っているんだ。
 彼にとっても守りたいものはあるだろう。例えばそれは一族の悲しみだったり、無念だったり。そのために彼は戦っている。たった一人で、孤独を感じながらも大勢に戦いを挑んでいるんだ。
 俺たち人はそれを受け止めなければならない――決して目をそらさずに、真正面からぶつかっていかなければならない。なぜならそれが、彼に対する最大の敬意だから。
 だから俺は嘘なんか言わない。
「そんなの、綺麗事だ――」
「そうかもな。綺麗事だって笑い飛ばされるかもな」
 はっとラスは息を呑む。その様子を見てから俺は、彼と同じことを言ったのだと気づいた。
 笑い飛ばす。
 それは何気ない言葉だったかもしれない。だけど、その内に秘められている意味はあまりに無慈悲だった。
 相手はそれを知って使っていたのだろう。俺は知らなかったとはいえ、相手に酷いことを言ってしまったことになる。
「僕は……」
 目は見えなかった。金色に染められた髪が邪魔で、空色の瞳は隠れてしまっていた。
「――あぁぁああっ!」
 乱暴に剣を振り、こちらにまっすぐ刃を向けてくる。そこにはもはや洗練された技術の面影はなくなっていた。だから俺は相手の剣を容易に受け止めることができた。

 響くのは、金属音。
 そしてそれが割れる音。

 乾いた音がして欠片が落ちる。
 剣は折れた。あまりに強すぎる力に耐えられなくなったのだろう。それは硝子のように綺麗だった。同じように、もう片方の剣も割れてしまった。
 折れた剣を握り締めているのは俺じゃない。それは相手。
 そうして彼は、力が抜けたように地面に座り込んだ。
 下に俯いて顔が見えなくなる。
「……あなたは」
 ぎゅっと握り拳を作り、ラスは小さく、だがはっきりとした口調で言う。
「あなた方は、僕らの存在を認めてくれますか?」
 そしてあふれてきた涙を拭った。
「もちろん。ラスも、一族の人たちも、シンやスーリや他の皆のことだって。この世に要らない命なんてないんだから」
 空色の瞳がこちらを見上げる。ゆっくりと立ち上がり、後ろの皆と一度だけ視線を合わせた。最後に俺の目を見る。
「さあ、帰ろう」
 俺は手を差しのべた。
 それを見て、ラスは驚いたようだった。どうして俺がこんなことをしているのか、理解できないでいるようだった。
 最初は唖然としたように差し出されていた手を見ていた。しかし次第に彼の顔はぎこちなさを失い、作り上げた仮面は静かに壊れ、本当の彼の表情を見たような気がした。それは悦びではなかった。しかし哀しみでもなかった。ただ、とても淋しそうな顔をしていた。俺は彼の中から光を見出したような気がした。
 淋しさは彼を支配していたのかもしれない。支配して、決して逃げ出せない場所へと追いやっていたのかもしれない。だとしたらどれほど辛かったことだろう。悲しかったことだろう。だけど、推測するのは簡単でも、本当の彼の気持ちは誰にも分からない。
 俺は思い出していた。全てを聞かされた故郷での自分のことを。あの時に暗闇の中で考えていたことは、彼の言葉とまったく同じ意味のものだった。
『分かってくれないことがこんなにも苦しいなんて。悲しいなんて。思ってもいなかった。少しも考えたりしなかったんだ!』
 あの時の言葉。今でも覚えている。
 自らを異端者だと呼んでいた少年は俺の顔を見た。俺はちょっと笑って見せた。それはぎこちないものだったかもしれない。綺麗とは言えないものだったかもしれない。それでも相手は、本当の表情で、少しだけ微笑んでくれた。
 そうしてラスは微笑みを浮かべたまま、俺に向かってゆっくりと手を差し出す。

 

 

 

 

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