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 スイベラルグと呼ばれている異世界の天気は晴れだった。
 こちらもまた冬が訪れているのか、吹きつけてくる風は非常に冷たかった。冬の象徴である雪こそ降っていなかったが、吐く息は白く滲み、この季節独特の虚しさが胸の中を支配する。
 この景色を忘れたことがあっただろうか。この場所を忘れたことがあっただろうか。
「そろそろ異世界が懐かしくなってきたんじゃない?」
 隣から外人が言う。今思ったけど、もうこいつのことを外人とは呼べなくなったんだよな。リヴァは異世界の住民であり、外国人じゃない。だけど今まで呼び続けて癖になった表現はなかなか直せるものではない。
「お前こそ異世界が恋しくなってきたんじゃねーのか?」
「あはは、それはないよ」
 なぜか笑って答えられる。その意味はよく分からなかったが、本当にそう思っているような気がしたのでそれ以上は何も聞かなかった。
「樹! リヴァ!」
 なんてことを考えていると懐かしい声が。
「久しぶり。元気してた?」
 笑顔で出迎えてくれたのはガルダーニアのお姫様。最近は忙しいからと言って会ってなかったので本当に久しぶりだ。
「アレートも元気そうで何よりだな。国の方は?」
「うん、そろそろ大丈夫そう。これでまた自由な生活が待っていると思ったら、もう胸が高鳴って高鳴って!」
 うっわあ、また国から脱走する気だよこの人。本当に大丈夫なのか? かなり心配だ。
「やぁやぁ皆さんお揃いで」
 続いてやって来たのは不老不死の青年とその師匠だった。もちろん声をかけてきたのはいつも気楽そうな顔をしているカイである。もっとも、ラザーが声をかけてくるなんてことは考えられないんだけどな。
「二人も呼ばれたんだ?」
「いいや。呼ばれたのは俺だけだ」
 ラザーは質問に丁寧に答えてくれる。しかし、だったらなんで二人で来たんだろう。
「こいつは勝手について来ただけだ。留守番でもしてりゃいいものを」
「酷いなあ。俺だけ仲間外れにしようとしてるんだろ。その手には乗らないからな」
 二人はいつになっても相変わらずだった。仲がいいのか悪いのか、他人である俺にはさっぱり分からない。それでも今まで一緒に暮らしてくることができたんだ、俺は少し二人の関係に憧れを抱いてしまう。
「憧れだなんて何の意味も持たないものだよ。何かを夢見るならそこに必ず痛みを伴うものだから」
 聞き覚えのある懐かしい声に驚き、振り返る。そこにはまるで当たり前のように、藍色の髪を持つ少年が佇んでいた。
「ジェラー、お前、今までどこに――」
「身体の方は大丈夫?」
 俺の言葉を遮断するかのように少年は言う。それには素直に頷いておいた。
「そう。だったらもういい」
 何も教えてくれないらしい。彼が一体何を考え、何を望み、何を目指しているのかということは、俺には何一つ分からないままだ。しかしそれもまたいいと思えるようになったのはいつの頃からだろう。
 そんな感じで時は流れていく。
「皆さん、お揃いのようですね」
 冬の冷たい空気の中に現れたのは、俺たちを呼び出した張本人であるシフォン。
「……と思ったんですが、ロスリュさんがいらっしゃらないようですが」
 青い髪の人はここにいない人物の名を口にする。確かに彼女はここに来ていない。
「だってほら、ロスリュって竜だって言ってたじゃん。そう簡単に動けるような立場じゃないんだよ、きっと」
 それでもここに来ていないことは淋しく感じてしまうけど。なんだか俺には、全員が揃う機会はこれで最後のような気がしたから。
「勝手に人を欠席扱いしないでくれる?」
 背後から鋭い言葉が。振り返らなくても分かる。この冷淡な声は竜の少女のものだ。
 長い髪と衣服を引きずりながらロスリュはやって来た。態度も容姿も、あの頃と何も変わっていない。竜って結構すごい存在なのかと思ってたけど、こんなに自由に動けるならそんなに大層なものでもないのかもしれない。
「なんだかんだ言って、ちゃんと全員揃ったな」
 あまりにもあっけなく全員が揃ったので少し拍子抜けしてしまった。行方不明だったジェラーもやって来るし、竜であるロスリュも暇そうにしてるし。俺たちって結局みんな暇なんだな。そう思うと苦笑せざるを得ない。
「あ、じゃあ――」
 少し控え気味にシフォンは呟く。それによって皆の視線が一気に一点に集中した。
 青い髪に黒い瞳。中性的な顔立ちをしていて、前は背に白い羽が生えていた。今は質素な格好をしているだけで、以前のような純白の羽は見えない。
「もうすでに感づいているとは思いますが、先日、スーリさんとシンの命は止まりました」
 口から語られるのは真実。
 それは避けられなかったこと。避けようとしても、避けたいと思えなかったこと。
 それは彼らにとっての答え。
「伝えたかったのはそれだけです。こんなことのためだけに呼び出して、すみません」
「ありがとう」
 誰かが言う。
「伝えてくれて、ありがとう」
 誰が言ったのかは分からない。
 だけど俺には、それは皆の声のように聞こえた。
「……あんたはこれからどうするんだ?」
 今までどこで何をしていたのか分からない相手に聞いてみる。シンもいなくなってしまった今となっては、この人に残された道があるのかどうか心配になった。
「僕はこれからはシフォンではなく、僕自身として生きていこうと思っています。最後の契約者であったシンもいなくなり、シフォンとしての役目は終わりました。だから今度は僕として――クミフォリーとして、やるべきことをやっていくつもりです」
 相手の――クミフォリーの姿が光に包まれる。質素な服装に色彩が彩られ、手に集まった光が帽子の形を成していく。
「ま、時が来るまでは気楽に生きますよ」
 少し笑い、青いシルクハットで頭を隠す。
 コートのような長い上着を羽織り、花がついたシルクハットを被っている姿はまるでマジシャンか何かのように見えた。本当に気楽に生きるつもりなんだろう。
「それから樹さん、これを」
 相手は一つの封筒を取り出し、それを何も言わず俺に手渡してくる。なんだかよく分からないが受け取っておいた。
「それでは皆さん、さようなら。またいつか会う日があれば、それまで――」
 この瞬間にシフォンという名の人の存在は消え、クミフォリーという名の人が甦った――そんな気がした。
 シフォンはただ真実だけを残し、光の中に消えていった。

 

 

 雪はまだ降り続けていた。
 色鮮やかだった世界が白で埋め尽くされていく。それでも完全に真っ白になることはなく、そこに現実味をひしひしと感じた。
 あの静かな世界とは似ても似つかない。
 家の外に出て公園へ行く。まだ雪が降り続いていたので、公園には誰もいなかった。
 人気のない場所にモクレンの木が生えている。まるで吸い寄せられるようにそこへ行き、白い花を少し眺め、手に持ったままだった封筒に目を落とした。
 真っ白な封筒は雪の景色に溶けて消えてしまいそうだった。それでもその感触は俺の手の中に確かに感じられる。封筒の存在を確かめながら、中に入っている何枚かの紙を取り出した。
 そこには素朴で小さな文字が、今にも消えてしまいそうな形で、ためらいがちに並んでいた。
「いつか信じられるであろう、あなたへ――」
 静かに言葉を胸に刻み込む。

 

 

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