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35 

 同じ間隔を保ち同じ青い物が並ぶ。さらに同じ動きで剣を振り、同じ標的を切り捨てようとする。そんな鎧集団に囲まれた俺ともう一人は、一番奥の部屋にいるというタシュトの元へ向かっていた。
 青い鎧のガーダンの攻撃はもう一人の手によってことごとく遮断される。硬い金属音が響いたかと思うと、ガーダンは床に転がっていた。
 しかしそのもう一人というのは、実はあのお調子者のグレンではない。では一体誰なのか。
 そう。それは今から約三十分前。
 残された俺たち四人は、コリアの言うとおり二手に分かれてタシュトの元と鐘の元へ向かうことにした。ちょうど四人なので二人ずつに分かれようということになって、その決め方は運任せであった。即ちじゃんけんで決めたのである。
 勝った人が鐘を鳴らしに行き、負けた人がタシュトを倒しに行く。そう決めてじゃんけんをしたところ俺は見事に一番に負けてしまった。そしてもう一人負けたのは、自称赤き星の王族のオレンジの髪の兄ちゃんである。
 かくして俺とヨスはタシュトの元へ向かい、グレンとリヴァは鐘を鳴らしに行くというなんとも変な組み合わせになってしまった。普通逆だよな。弱い人が鐘を鳴らして強い人がボスを倒す。明らかに俺とヨスは弱い組に入るのに無茶苦茶な決め方だ。
「そんなに心配しなさんな。お前には精霊がついてるじゃないか!」
 そう言ってグレンは笑っていた。そりゃあそうだけど、でもそれでも精霊の面々を召喚するには呪文を唱えなければならないわけであり、かなり時間が必要ということでもあって。結局危なくなっても自分でどうにかするしかないような気がするのである。
 そして今。俺は必死に自己防衛している。
 しかしヨスのことをさっきから弱い弱いと連発していたのだが、それほど弱いというわけでもなかった。ただ単にグレンが強かったから今まで弱そうに見えていたのかもしれない。とにかくグレンには敵わないにしろ、ガーダンに負けるほど弱いわけではなかった。つまり俺より強いと。そういうことなのか。

 

「よし、いいか! 樹とやら!」
 青き星の城の中を半分くらい進んで行った頃、ガーダンのいない空間でぴたりと足を止めてオレンジの髪の兄ちゃんは俺に言ってきた。
 しかし『とやら』とか付けられてしまったよ。今思い出せば、こいつに自己紹介なんてしたことがなかったから無理もないような気もしなくはないが。
「何がいいんだよ」
「一番強い奴は俺さまが倒すからな! 邪魔はすんなよ!」
 真正面から言ってくるヨス。かなり自信があるのか、自画自賛のようにも聞こえた。
 別に俺はヨスがそうしたいって言うなら邪魔なんかするつもりはないんだけど。さらに言えば俺が戦っても勝てそうにないから、ヨスに相手してほしかったわけでもあるし。
「じゃあ俺は後ろで見てるからな」
「そうそう。俺さまの格好いい姿をよぉく見ておけよ!」
 一言多い。
 このオレンジの髪の兄ちゃんは、やはりどこからどう見ても王族には見えなかった。
「そういえば、なんでヨスは精霊を元に戻そうとしてたんだ?」
 赤き星の住民はすでにどこかへ逃げて行ったとか言っていたのに、この自称王族であるヨスは一人で精霊を元に戻そうとしていた。つまり国を元に戻そうとしていたのだが、なんでたった一人でそこまでするのか分からなかった。
 ヨスは一度まばたきをし、腕を組んで少し黙った。何かを考えているのだろうか。
「王族ってのは、そういうもんじゃねぇのか?」
 ようやく紡ぎ出した言葉は普段よりおとなしいものであった。どうやらそれはヨスの本気の気持ちらしい。
「王族は国を守るためにいるんだろ? 赤き星の王族は今は俺さましかいないから、俺さまがこうしなきゃならなかったんだろ?」
 腕を組んだまま、いつもに比べれば小声で語る。オレンジ色の瞳は真剣そのものだった。
 少し勘違いしていたんじゃないかと思った。
 俺はヨスのことを甘く見すぎていたのかもしれない。普段の言動があまりにもおかしくて、本当の彼の考えを今まで知らなかった。
 やはり彼は王族であって、自称ではない。そう思った。

 

 目的の場所にはすぐに着いた。今までこういう経験は何度もあったが、今回は一番分かりやすかったと言えよう。目の前に天に届かんばかりの大きさの扉が現れたことにはかなり驚いた。そしてその扉の先には紫色の髪を持つ、以前藍色の髪の少年と話していた男がいた。
「やい、タなんとか! 俺さまがお前を倒しに来てやったぜぃ!」
 おいおい名前くらい覚えておけよ。ここまで来てそれはないだろ。
 そう言ってやりたかったが今は黙っておくことにする。俺は相手の姿を一目見ると、さっとヨスの後ろへ身を隠した。
「よく来たな、赤き星の王族か。あいにくだが俺はお前らに倒されようとは思っていない。帰りたまえ」
 タシュトの声が聞こえる。落ちついていて、感情もないような静かな声だった。
 この人を倒せば世界は開く。
 この人を倒せば世界は救われる。
 だけど、じゃあ一体なんでこの人はこんなことをしたのだろう?
 赤き星を壊して、精霊を封印して、世界を閉ざして。その先に求めたものは何だったんだろう?
 青き星と赤き星の支配? 世界の孤立? それとも――。
「タシュト」
 どうしても聞きたかった。
 なぜだか分からないけど、そんな欲求が心の中から涌き出てきて押さえ切れなかった。
 昔の自分だったら無視していたかもしれないことなのに。
 どうしても聞かなければならないような気がした。
「どうしてあんたはこんなことをしたんだ?」
 なぜそうやって独りでいようとするのか。
 そんなにもこの世界は辛いものだったのか? そんなにもこの国が嫌いだったのか?
 もちろん俺には相手の気持ちは分からない。相手が何を考え、悩み、この結果に至ったのか。それを説明されても分からないことなのかもしれない。だけど知りたいのだ。
 どうして。なぜ。そんな言葉が頭の中を回っている。
 何がどうあっても聞かなければならない気分になってきた。
「どうしてだって? そんなこと、知れたことだ! 青き星を頂点に立たせるためだ!」
「だけどそれじゃあ他の世界はどうなるんだ? この世界で頂点に立ったとしても、所詮はこの世界だけでの頂点じゃないか。それに頂点に立ってどうするつもりなんだよ?」
 止まらない。分からないことが多くて、妙な感覚を覚えながらもタシュトに問い詰める。相手はよく喋ってくれた。
「どうするつもりか? そんなものはない。頂点に立てればそれでいいのさ」
「…………」
 言葉が続かなくなった。
 やっぱり逆なんじゃないか?
 外見や口先は上手いけど中身が空っぽの青き星の王族と、空回りしたり変な言葉遣いをするが心の中に信念がある赤き星の王族。もしこの二人の外面だけが入れ替わっていたなら、ここまでわけの分からないことにはならなかったような気がする。
「へっ、そんなこたぁどうでもいい! 俺さまはお前を倒して世界を開く! これでいいだろ!」
 一歩前へ踏み出したヨス。オレンジの長い髪がゆらりと揺れた。
 って、世界を開くってのは俺の台詞なんじゃないだろうか。
「いいだろう。相手をしてやる。来い!」
 その瞬間、視界が真っ黒になった。
 いきなりきたらしい。ポケットの中を探り一枚の紙切れを取り出す。そこに書かれてある文字を早口に喋った。
「精霊よ、幾千年の年を越えし星の精霊よ。我は願う。魔の力なきこの空の器に、輝きの宿りし欠片より出で、その力を我が前に示さんことを――」
 ぱっと光があふれ、輝きを帯びた星の精霊エミュが現れる。
「エミュ、頼む!」
「分かりました」
 星の精霊は片方の手を空中にのばし、ふっと目を閉じた。するとさっと視界が開ける。
 闇は消えた。同時に星の精霊も消えたことに気づいた。

 

「ほう、少しは成長したようだな」
 見えた景色の中には、こちらに向けて片手を広げて立っているタシュトの姿があった。その二、三歩手前にはオレンジの剣を握ったヨスがいる。
 俺だって弱いままで世界を開けるなんて思っていない。どうやったのかは知らないけど、エミュに助けられたのでそろそろ精霊に頼るのもやめにしなければならない。自分の力で切り抜ける。そうしなければならないのだ。
 腰にゆっくりと手をのばす。そこには街で買った剣と、藍色の髪の少年から貰った剣が鞘に収まっている。それらをすっと抜き、剣の重みを確認した。
 立ち止まったままじゃいけない。進まなければ。そのためにここまで来たのだから。
「来いよ、タシュト」
 相手に呼びかける。
「俺はお前を止める!」
 これが勇者の役目というものなのか。
 俺は勇者という柄じゃないと思っていたが、そんなものは何も関係なかった。
 何かに立ち向かっていくとき。正義をまっとうするとき。勇気を兼ね備えている人は皆、勇者と呼ばれる人になれるのだ。
 倒すんじゃない、止めるんだ。
 それが俺の正義。
 人には頼らない。自分だけで解決する。
 それが俺の勇気。
 相手は下に手を下ろすと、不適な笑みを見せて空中から剣を取り出した。
「適うかな、お前が俺に! 弱いくせに口はよく動くものだな!」
 その後、相手が地面を蹴るところが見えた。まっすぐこちらへ向かってくる様子が以前よりゆっくりした動作のように見える。それはまるでガーダンのようで。
 頭上に上げられた相手の剣が光る。来る。
 がきんっ、と鈍い金属と金属がぶつかる音が間近で聞こえた。思わず目を閉じてしまう。
「おい樹とやら。俺さまのこと忘れんじゃねーよ」
 相手の剣を受けとめたのは俺じゃない。俺の両手は下に向けられたまま、動きについていくことができていなかった。目を開けると視界に明るいオレンジ色が真っ先に入ってきた。
 もう一度同じような音が聞こえると、ヨスは俺の隣を通って後ろへ飛んで下がった。同様に紫色の髪の男も下がり、敵との間に距離があいた。
「俺さまが倒すからお前は引っ込んでろって言っただろぉ! なんで俺さまより目立ってんだ! こら!」
 怒りながらヨスは俺の隣まで歩いてきた。そこで止まり、まっすぐ相手の姿を凝視する。俺も隣で相手を見ていた。向こうもこちらから目を離そうとしていない。
「でもせっかくここまで来たんだ。俺だって何か手伝いたい」
 そうでなければ何のためにここまで来たのか分からなくなる。とにかく後ろで見ているだけなのは嫌になってきたのだ。
 おかしな話だと思うかもしれない。ついさっきまでは、自分は後ろに隠れてるだけで全部ヨスに任せようとしていたのに、今はそうすることがどうしても嫌でたまらなかった。なぜだかは分からないけど、どちらがいいかなんて考えれば分かる問題だ。
「まぁそこまで言うなら、俺さまの援護でも任せてやってもいいぜぃ」
 相変わらずの口調だが、ヨスはとりあえず承諾(しょうだく)してくれたらしい。自然と笑みがこぼれた。
「だったら早く済ませてしまおう!」
 ぎゅっと両手の剣を握り締める。手の中に汗があふれ、体が熱くなってきた。緊張する。
 だけど俺は今は一人じゃない。頼りないかもしれないけどヨスがいる。そしてどこにいるのかいまいち分からないけど精霊たちもいる。
 俺はたくさんの人に囲まれて、守られながら今まで生きてきた。だったら今度は俺が頑張る番だ。
 負けられない。けど、倒すわけじゃなく止めるだけ。
 甘いと笑われるかもしれない。腑抜けとけなされるかもしれない。だけどきっとそれが必要だと俺は知っているから。
「行くぞ、ヨス!」
 張り上げた声と共に、二人同時に地面を蹴った。

 

 目にも留まらない速さの戦いが目前で繰り広げられる。オレンジの長い髪が見えるおかげでどうにか状況は把握できるが、細かい部分は何が起こっているかさっぱり分からない。それから少し離れた場所で、俺は手の中に握った紙を静かに見つめていた。
 いざというときはやはり頼るしかないらしい。俺は自分で思っているほど戦いは甘いものではないと分かったのだ。あの二人の中へ割って入ったところで、真っ先にやられるのが目に見えるように分かる。
 少しだけ悔しかった。
「樹とやら! 行ったぞ!」
「え!?」
 とっさに右手に持っていた剣を顔の高さまで上げる。剣が押されるような圧力を受け、そのまま二、三歩後退してしまった。
 しかしそうかと思えば今度は勝手に腕が上がり、剣が空中に投げ出されたように感じられた。これでは体が無防備だ、危ない。
 そこを相手が見逃すはずがない。いやもともとこうするつもりで俺の剣を上に上げたのだろう。腰を低く下ろして一直線に剣を突き出す姿が見えた。
 やばい、やられる。
 召喚するにしてももう無理だ、間に合わない。何をしても駄目だ。体勢を整えることにも、防御することにも時間がかかる。
 危ない。いや、危ないとかそういうレベルじゃない。格が違うと言うべきなのか。

 格が違う。
 格が違う?
 決して届かない。決して適わない。
 格。位。ランク。
 引き離されていく絶望感。置いていかれる孤独感。
 重々しいメロディが頭の中を支配する。幾千もの音が重なった重圧な旋律。
 空気が震える。体中に稲妻が走った。

「――うぅああああっ!!」
 わけも分からずに叫んでいた。
 嫌だった。ただそれだけだった。
 何がどうなっているかなんて分かるわけがないけど、とにかくこの空気が耐えられるものではなかったのだ。
 気がついたら止まらなくなっていた、ただそれだけ。
 大きく腕を振り相手を退けようとする。手に握っていた紙は思いっきり握り締めてしまい、小さな音を立ててしわくちゃになってしまった。それでも構わない。
「来るな! こっちに来るなぁっ!」
 俺は叫び続ける。目をぐっと閉じ、視界は真っ暗になってしまった。相手の姿も自分の姿も見えない。
「なっ、なんだお前は」
 耳に入ってきたのは相手の、敵の声。ちょうど前方から聞こえた。
 構うものか。
「あっ、おい!」
 再び剣を思いっきり振ろうとしたところを誰かに遮られる。目を閉じたままなのでそれは分からない。
 どうなっているんだ俺は。自分で自分が止められない状況になりつつあった。俺を止めてきた奴にも力のかぎり剣を振る。
「うわっ、おい!」
 聞こえたのはヨスの声だった。俺の剣はもう止まらない。
 がき、ん。
 何か刃物にぶつかったように剣が、腕が止まったことが分かった。
 体が震えた。
 今度こそ終わりだと思った。
 もう駄目だ。俺はわけも分からないまま味方に攻撃し、そのまま止められてしまった。こんな場面を敵が見逃すはずがない。
 恐くて、怖くて。どうしても目が開けられなかった。
「樹。落ち着いて」
 ふっと聞こえてきた静かな声。それはここにはいないはずの人のもので。
「え――!」
 驚いて思わず目を開け、前を見た。
 はたしてそこにはいるはずのない人が――リヴァセールがいたのであった。
「本当にひどい人だね君は。味方にも攻撃するなんて、こんなところ見られたら友達なくすよ?」
 外人は俺の目の前で地面に座り込んでいた。その傍らの地面には刃物が突き刺さっている。もしかして俺の剣がその刃物をはじいて床に突き刺さったのだろうか。
 相手は目を見て話そうとしてこなかった。そればかりか頭に黒い布を被っていて、こちらからは表情がまったく分からなかった。
 なんで、どうして。
 ここにいるはずがないのに。鐘の元へ向かっているはずなのに。
「聞きたいなら聞いてよ。ちゃんと喋って」
 俺が聞きたいことが分かっているくせに教えてくれない。それがこいつの嫌なところ。
「なんでここにいるんだ」
 言葉を声に出すことによって自然と心が安定してきた。それをあいつは知っていたのだろう。これがあいつの好きなところ。
「少しは落ち着いたみたいだね。いいよ。頼まれたんだよ、彼、グレンにね。心配だからこっそりついていってやれってさ」
「……そうか」
 長く息を吐く。
 結局自分はただ守られているだけだった。それがこの上なく悔しかった。同時に、情けなくもあった。
 けど嬉しかった。それが本当の気持ちだ。
「とりあえずはここまで来れたんだね。だったらもう話は早い」
 頭の布を押さえながら外人はゆっくりと立ちあがる。その時に横の刃物を抜くことも忘れない。
「あとはあの人を倒すだけ。そうでしょ?」
 俺をかばうように前へ進み出る外人。その後姿に隠れたところにタシュトはいるのだろう。そして俺の隣にはヨスがいた。
 そうだ。元々の目的を忘れちゃいけない。何のためにここへ来たんだ。何のためにタシュトを止めるんだ。
 何のために。
「やっぱ、分かんねえな」
 ぽつりと一人で呟く。
「タシュト。あんたはどうしてこんなことをしたんだ? 頂点に立てればいいって言ってたけど、それだけじゃないだろ?」
 どうしても信じられなかった。ただ頂点に立ちたいだけで世界を閉ざしてしまうようなことがあるだろうか。彼は嘘を言っているんじゃないかと思ってしまったのだ。
「まだ言うのか。よっぽど気になるみたいだな」
「だったら――」
「俺に勝てたら教えてやるよ!」
 そこで会話が途切れる。素早い足音が近づいてくるのが分かった。
 そうだったんだ。やはりそうだったのだ。タシュトの理由は頂点に立ちたいということだけではなかった。そりゃそうだ、たったそれだけではこんなことできないだろう。
 それが分かったからには負けられない。
 握り締めてしわくちゃになった紙をポケットの中に押し込み、片方の剣を鞘から抜いた。それを握って味方の二人よりも前へ出ていく。
 唐突に相手の姿が視界に入ってきた。それを確かめて片方の剣を顔の高さまで上げる。以前のようにそこに圧力が加わった。
 しかし今は一本じゃなく二本だ。相手の剣を受けとめたものとは違うもう片方の剣が余っている。それを思いっきり相手をなぎ払うように振る。
 俺の攻撃を察したのか、相手は飛んで後ろへ下がった。そこに待ち構えていたのは赤き星の王族。
「よぉし、あとは俺さまに任せておけ!」
 しっかり自画自賛してからオレンジの剣を振る。しかし相手もそう簡単にやられはしなかった。体勢をすぐに立て直し、ヨスの剣を受けとめる。
「精霊よ、我の願いを……」
 背後から聞こえるのは外人の静かな声。それは呪文を唱える文句。
「伏せて! ――雷よ、ライ!」
 一気に声を張り上げる。よく響く声と共に空中から雷が落ちる。その対象は言うまでもなく紫色の髪の男で。
 稲光が眩しくてまともに見ていられなかった。しかしそれはほんの一瞬のこと。ヨスの前に立ちふさがっていた男はどうやら真正面から雷をくらったらしい。辺りに煙が立ちこめていた。
 終わったか?
 相手は立ったまま俯き、動かない。
 皆が彼に注目している。誰も動かなかった。
「俺が、負けるかぁあっ!!」
 叫び。これは相手の――タシュトのものだった。張り詰めた空気の中を彼の声が支配する。
「うわっ、ちょっと!」
 後ろからはなんだか慌てている声が聞こえた。振り返ろうとすると足元がおかしいことに気づく。下を見てみると床がでこぼこになって崩れ始めていた。
「やい! どうすんだよこれ! 崩れちまうぞ!」
「そんなこと俺に言われたって! リヴァ、どうにかしてくれよ!」
 こんな時に頼れるのはあいつしかいなかった。しかしその肝心のあいつも、足場が崩れることに慣れていないのか、なんとも情けないことを言ってくる。
「ぼくに言わないでよ! 君が精霊でも召喚したらいいじゃないか!」
「あ、そうか」
 言われるまですっかり忘れていた。剣を鞘に収め、ポケットの中を探る。ごみみたいに小さくなった紙を取り出すとそれを広げて文字を読む。
「精霊よ……」
 しかしそれは最後まで続かなかった。急に足場がなくなったようにがっくりと体が倒れ、そのまま背中から倒れてしまったからだ。
 やばい。頭がくらくらしてきた。早く召喚しないと!
 紙を見えるところまで持ってきてもそれが震えて文字が見えない。こんなことならちゃんと覚えておくべきだった。でももう後悔しても遅い。
「自業自得だ」
 誰にも聞こえないように、自分でも聞こえないように小さく呟いた。その言葉を言うと体の中が熱くなる。
 地面の揺れが大きくなった。視界には植物の茎のようなものが見える。それが何本も交差して何が起こっているか分からなくなってきた。
 緑色の茎。数え切れないほどのそれがこちらに向かって下りてくる。危ないような気がしたが、地面の揺れが大きすぎて、俺は何もできなかった。だからそのままされるがままになる。
 どうなるのかと思えば茎は俺の身体に巻きついてきた。このまま締めつけられるのかと考えたがそうではなかった。どういうわけかゆっくりと空中に上がって地面から離れる。
 なんだこれ。タシュトの仕業じゃないのか?
 だんだん頭が冴えてきた。上に上がって止まると下の様子がよく見えた。そこにはすでに外人もオレンジの髪の兄ちゃんもいない。二人は俺と同じように茎に空中に上げられていた。
「樹、これって君の仕業?」
「俺が聞きたいんだけど」
 まだ精霊だって召喚していない。そんな俺がこんなことできるはずがない。
「なあおい。そんなことより鐘はどうなったんだ?」
 横から口を挟んだのはヨスで。
「……あ」
 最も重要なことをすっかり忘れていたことにようやく気づいた。

 

 それは二手に分かれる前のこと。俺はじゃんけんで負けてタシュトを倒す組になってしまった。
 鐘を鳴らすのはグレンとリヴァだったが、外人はこちらにやってきてしまったのでグレンだけである。そして俺はグレンにこう言ったのを覚えている。
「もしタシュトを倒したら大声で知らせるからな。それまでは鐘の元にいろよ」
 そんなことを言っておきながらすっかり忘れていたとは。何やってんだ自分は。
 今じゃ、もう無理か? もうタイミングを外してしまっただろうか?
 たとえそうでも知らせないわけにはいかない。タシュトを倒したかどうかは分からないけど、今は普通じゃないのが分かる。
 だから、もしかすると。
「グレン!」
 腹の底から声を出す。思いっきり息を吸い込み、力の限り叫んだ。

「鐘を――鳴らせぇええっ!!」

 届いたかどうかは分からない。
 だけど風に乗って音が聞こえてきた。
 それは鐘の鳴る音。世界を開くための音。
 茎は動きをやめ、地面の揺れも収まった。
 静かになった空間に鐘の音がよく響いていた。

 世界はこの時を待っていた。

 

 

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