浮かんでは消え、忘れかけては思い出す景色。
それに囚われすぎずに生きることは無理なのか。
だけど今だけは忘れていたい。
すっかり忘れて、何も考えずにゆっくりしていたいんだ。
第四章 静寂
46
「水刃よ、サースィ!」
掛け声と共に水の刃が飛ぶ。高速で風を切って飛びながらそれは魔物の体を切り裂いていった。
「ふうっ、できたっ!」
嬉しそうに笑いながら相手、リヴァはこちらを振り返ってきた。俺はその様子を見てただ驚くことしかできない。
「見た? ちゃんと倒せたでしょ? ぼくだってやればできるんだよ!」
本当に心の底からの笑顔を見せられ、どう答えていいのか困ったものだった。
あれから俺たちはあの街を出て再びガルダーニアへ向けて出発した。街の人たちはシンさんに助けられてそんなに多くの被害はなかったらしく、すぐに立て直して街の修復作業に取りかかっているほどだった。成り行きとはいえリヴァが呪文で壊した壁を修復している様子を見るのには良心が傷ついた。まあそれは終わったこととして忘れることにしよう。
肝心のシンさんとラスのことだが、街の人に聞いた話によるとすでに街を出ていってしまったらしい。二人は一緒に出ていったらしいからラスの心配はしなくてよくなったけど、まだちゃんとお礼も言えてないのでまた会いたいと思う。シンさんはガルダーニアに向かっていると言っていたから多分また道の途中ででも会えると思うんだけどなぁ。
街を出ると魔物の陣地に入り込んだようなものである。この世界には前にいた世界、オーアリアよりも魔物の数が多いらしく、のんきに歩いている暇もないほど魔物の出現率が多かった。こんな時に聖水でもあったら便利なのに。
そしてついさっきも魔物に見つかり襲われた。また俺の無謀な戦いが始まるのかと思いきや、あの魔物の前では腰抜けにしかならない外人が前へ出ていったのだ。
何を考えてるのかと思ったが止める間も与えずに素早く呪文を唱えていた。そして魔物を一撃で倒していたのである。
「どうしたんだよお前。恐いんじゃなかったのか?」
あまりにも不思議でならなかったので声をかけてみる。どっか頭でも打ったんじゃないかと思ったほどだった。
しかし相手はそれに普通に答えてくる。
「ふふ、ちょっと頑張ろうと思ってね」
輝かしい笑顔で機嫌がよさげに答えていた。こんな姿からはあの魔物の前での姿は到底想像できなかった。まさかとは思うけど、今までのあれは全部演技だとかじゃないよな?
「いつまでも足手まといにはなりたくないから」
風に乗って聞こえたのは、一つの呟き。
「どんなものが相手でもちゃんと戦えるようにするから。どんなに恐いものが相手でも逃げ出したりなんかしないから。だから、どうか置いていかないで」
それにどんな意味が込められているのかは分からない。けど、俺にはあいつの望んでいることが何なのか分かるような気がした。
「そもそもお前が原因なんだから。ちゃんと最後まで付き合ってもらいたいのはこっちだっつーの。そんな理由で置いていくわけないだろ」
言いながら相手の頬をつまむ。これは喧嘩をするときによくしていたことだが今はそういう意味でやってるんじゃない。
「む……」
頬をつままれたまま外人は一つ頷く。その前に出した声が妙に気になったりもしたが、どうやらこれで納得してくれたらしい。それが分かったので手を放した。
それによく考えなくても俺の方が断然足手まといだよな。いや、それはそれで情けないけどさ。
「とにかく! ぼくはもう魔物の前でもスーリの前でも足手まといにはならないからね!」
ああ、なるほど。
スーリか。あいつスーリのことを気にしてたんだな。
確かにそうだ。外人はスーリに会うと真っ先に逃げないかと聞いてきていた。それはきっと恐かったからなんだろう。そう言ってしまえば俺だって恐かったけど、それでも逃げ場はないことを知っていたから立ち向かっていった。この行動が外人にとってスイッチを入れるものになったのだろう。だから今になって魔物にも立ち向かっていくと決めたんだな。
だけど無理してんじゃないだろうか。だって以前はあんなに怖がっていたのに、恐怖はそんなに簡単に捨てられるものじゃないんだから。
「リヴァ、無理はするなよ? 恐いものを恐いって思うのは当然なんだからさ。あんまし無茶して倒れたりすんなよ?」
「うん、大丈夫」
また笑って答えてきた。でもよく見てみると顔に汗が流れているのが見える。それになんだか息をするのも苦しそうで、今にも倒れそうなほど――。
「だいじょ……」
どさり。
まるで計ったように前のめりに倒れこむ。俺の目の前に倒れてそのまま起き上がってこなかった。
嫌な予感が頭をよぎっていく。
「おいリヴァ! やっぱお前無理だったんだろ! おい――」
「落ちついて、樹」
後ろから制してきたのは長い髪の少女であって。俺はそれに従って落ちつくように黙り、この場をロスリュに譲った。
しばらくロスリュは外人の様子をじっと見ていた。やがて外人の身体の上に手をかざすと、呪文を唱えたのかそこから暖かい光があふれだす。
光が消えるとこちらを振り返って状況を説明してくれた。
「大丈夫。気を失ってるだけよ。少し休めばすぐに目を覚ますから」
「そうか。ありがと」
ならよかった。けどやっぱり無理してたんだな。
「でも休むにしても、ここでか?」
まさかこんないつ魔物に襲われるか分からないような場所で休ませるわけにはいかないだろう。かと言って今から街に戻るにしても、もうかなり離れているようで戻る気にもならない。それに俺たちは早くガルダーニアへ行かなければならないわけだし。
「ここからしばらく歩いたら宿があるみたいだけど」
そう言って前を指差すのは藍色の髪の少年。なぜそんなことが分かったのかは聞かないでおくが、助かったのには変わりない。
「それじゃあそこまで俺が背負って行こうか」
結局はこうなるんだよな。以前倒れた時も俺が背負って行った。まあこいつってそんなに重くないからいいんだけど。
地面に座って外人を背中に背負う。案の定軽く、俺より軽いんじゃないかとどうしても思ってしまった。
「でも、どういうことなの?」
「へ? 何が?」
横から聞いてきたのはロスリュだった。立ち上がって俺を見上げている顔を見る。
「もしかして前にもこんなことがあったの?」
言ってしまっていいんだろうか。一瞬だけ悩んだが、ここは言っておいた方がいいと思い素直に答える。
「何度かあった」
いいよな。許してくれるよなリヴァも。こいつ自身のためなんだし。
「そう」
それだけを言うとロスリュは黙り込む。顔を少し下に俯け、何やら考え始めたので何も言わないでおいた。
「ジェラー、こっちか?」
「うん」
道を確認して歩きだす。魔物が出たらすぐに知らせてもらうようにジェラーに前を歩いてもらい、俺はリヴァを休ませるために宿へ向かった。
宿にはすぐに着いた。リヴァが倒れた場所からそんなに離れてなかったらしく、何分か歩いただけで宿の小さな建物が見えてきたほどだった。
こうやって外人を休ませてやるのもこれで何度目になるだろうか。ベッドの上に寝かせてやると小さな寝息を立てて静かに眠っていた。この顔ももう見慣れてしまったほどだ。
部屋の中には心配でもしているのか、ジェラーもロスリュも入ってきていた。いつもなら無視して自分勝手に行動するのに珍しい。何か気になる事でもあるのだろうか。
「ねえ、聞いて」
じっと立ったままだったロスリュが静かに口を開く。その顔はいつものような冷淡としたものではなく、何か嫌なことでもあるかのように歪んだものになっていた。
俺はそちらに体を向ける。それを見ていつもの口調でロスリュは話し始めた。
「この人、何かに取り付かれてるみたい」
「取り付かれてる?」
何だそれ。そんな話聞いたことないぞ。よくある幽霊とかか?
「取り付かれてると言っても霊とかそういうものじゃなくて、人の――そう、人の深い欲望に取り付かれてるわ」
人の欲望? それがなんで取り付くことにまでなるんだよ。そんなこと可能なのか?
まるで自分に言い聞かせているかのように一つ一つの言葉を噛み締めながらロスリュは言う。
「取り付くと言ってもこれは呪いのようなものね。まだ新しいものだけど、過去に何かあったとしか考えられない」
「過去、か」
またそれかと思う。
俺の記憶が正しければリヴァの魔物嫌いは過去に原因があるらしい。その過去に何があったのかは知らないが、少なくとも複雑なものであることで間違いないような気がした。
それにしても深い欲望だなんて。一体どんなことをやっていたんだろうこいつは。何も話してくれたことがないので分からない。
「今は特に大きな被害はないようだけど、だんだんと症状が大きくなっているみたいね。呪文を唱えると熱が出るようになっているみたい。これからはあまり無理をさせないようにしないといけないわね」
淡々と状況を説明してくる。それを聞いても状況がよく分からなかったが、呪文を唱えると熱が出るという事は知っていたのでなんとなく分かったような気もした。
でも。だったらどうすればいいんだろうか?
「今は安静にしておくことね。直接の原因が分からない以上、余計なことはしない方がいいわ」
そう言い残すとロスリュは部屋を出ていった。それに続いてジェラーも何も言わずに部屋を出る。俺は一人だけ部屋に残された。
静かな空間に一人の寝息が聞こえる。今は安静にしているためか非常に落ちついており、呼吸も安定しているようだった。
こいつは自分の状況を知っているのだろうか。ちゃんと原因を理解して呪文を使っているのだろうか。そんなことは一度も口に出していなかったし、振る舞いにもそれらしい言動がなかったので何とも言えない。
とにかく今はゆっくりしていればいいらしい。原因についてはあいつが話すまで待つことにしよう。言いたくもないことを聞くのは失礼だもんな。
部屋を出る前に一度だけ振り返る。本当にぐっすりと眠っているのか起きる気配が全然なかった。そんな姿を見ると俺まで寝たくなってくる。
それでも邪魔をしちゃ悪いと思って静かに部屋を出ていった。
「あれ」
部屋を出るとすぐにある人物の姿が目に入ってきた。一人で壁にもたれかかり、何やら難しい顔をしている。
「ロスリュ」
声をかけてみる。相手、ロスリュははっとしてこちらに顔を向けてきた。
邪魔しちまったかな? ちょっとだけ反省してみる。
「何やってんだ? こんな所で」
「別に……ちょっと考え事をしていただけ」
そう言うとまた視線をそらした。その声はいつもと変わらないものであって。
「そういえばさあ、スーリに襲われた時、手を貸すって言ってたけど」
「そのままの意味よ」
一言で返される。会話が続かない。なんだか気まずい雰囲気になりつつあった。
「私は」
「え?」
向こうから話し始めたので少し驚く。ロスリュはそれに気づかなかったのか、いつもの口調でいつものように喋り始めた。
「私は戦わないのよ」
それは告白だった。
「私は二度と戦えないのよ」
それは訴えだった。
俺は何も言わずに邪魔をしないように静かにそれを聞く。
「昔、親友と約束をしたの。二度と戦わないって」
ロスリュは俺に話しているというよりも、自分自身に言い聞かせているようだった。一人で言葉を口に出し、一人でその内容に納得しているようである。
「私はあいつに会って一緒に旅をしなければ、ずっと武器を握り続けていたから」
あいつとは誰のことなのか。そんなことさえ聞く暇がない。
「でも、あの時はそんなことを言っている場合じゃなかったでしょう?」
長い髪がふわりと揺れる。相手の視線を感じたかと思うとロスリュはこちらを見上げてきていた。その表情には薄い笑みが含まれている。
「だから、少しなら許してもらえると思ってね」
ロスリュは後ろに手を回し、そこから何かを取り出す。目の前に持ってこられて見てみるが、古い袋の中に入っていてそれが何なのかは分からなかった。
手に収まるには少し大きい袋の中からロスリュは何か黒い物を出す。それは俺にとっては初めて見る、戸惑いを隠せないような物だった。
「知ってるわよね?」
聞かれて、頷く。俺はそれを確かに知っていた。
黒くて重そうだけど手の中に収まるのは俺の世界でも見られる物。
それは一丁の銃だった。
「どうしてもね、捨てられなかったのよ。今でもまだ未練があるらしくて」
慣れた手つきで銃をもてあそぶ。そんな姿は今までに見たことがなくてなんだかしっくりこなかった。
「私の目的はただの人捜し。だからあなた達について行こうと思ったのよ」
「そうなのか」
はじめて聞かされた目的はごくありふれたようなものだった。俺はそれ以上は何も聞けない。
「だから、ね。私のことはあまり気にしなくていいから」
銃を袋に入れながらロスリュは言う。そしてふっと背中を見せるとそのまま歩き出した。
「仲間なんて成り行きのようなものなんだから」
最後に聞こえてきたのは、いつもよりも優しい声だった。
宿の外に出ると空は晴れていた。澄んだ空気が気持ちいい。風に当たると寒かったが、それでも気分がすっきりしてきた。
なんかここって田舎みたいだなぁ。何もない道がずっと続いてたり、空気が澄んでておいしかったりして。俺は都会より田舎の方が好きだからいいけどさ。
たまに思うんだけど、異世界ってのも俺の世界と似てるところも少なくないよな。むしろよく似てることばっかりだし。違うことと言ったら魔物がいることとか、呪文があることとかぐらいかな。なんでこんなに似てんだろ。それってちょっと不思議だな。
「何馬鹿なこと考えてるの?」
「わっ!」
突然背後から声が。思わず大声を出してしまったが振り返って見てみると藍色の瞳が俺を見上げていた。
「なんだ、ジェラーか。驚かすなよな」
本当にさっきのはびっくりしたんだから。そうやって足音もなしに近づいてくるなっての。
「気づかない方が悪いでしょ」
少年は見上げたままそんなことを言ってくる。まったく、こいつは。
「あのなぁ。それはそーいう問題でもないだろ。人のせいにするのはやめろよな」
「よく言うよ。あの時は手も足も出なかったくせに」
かーっ! またそんなこと言いやがって!
って、あの時ってどの時?
『あのスーリって人だけど』
急にジェラーは口に出さずに話し始める。こんな場合はたいてい人に聞かれては危ないようなことを言ってくることが多い気がする。
『心の中は見えたけど、おかしかった』
おかしい? なんだよそれ。わけが分からない。
『変なんだよ。頭で考えてることと行動がまったく別のもので、まるで考えを読まれないようにしているみたいだった。だから変な人だ』
考えを読まれないようにしてるだって? そんなことが可能なのか? いや、それよりもそんなところまで隙がないのかあいつは。そう考えるとひどく恐ろしい気がする。
だけどそれが可能だとしても、相手は誰かが心を読む力を持っていることに気づいていたのだろうか。それともそんなことは知らなかったけど用心のためにそうしていたのか。考え始めるときりがない。
相手は、スーリは俺たちとはレベルが違う。力の差がありすぎるんだ。俺たちの理解をはるかに超えた力と知識を持っている。そしてそんな相手に立ち向かっていくのは無謀だとはっきり分かってるんだ。
だけど。
「なあジェラー」
俺の言葉に少年は答えずにこちらをちらりと見上げてくる。俺は目の前の空をぼんやりと眺めながら呟くように小声で言う。
「俺、やっぱり勇者にならなくてもいいや」
「樹――」
「でも!」
何か言いかけていたジェラーの言葉を止める。どうか、頼むから最後まで聞いてくれよ。
「逃げたりしないから。絶対にガルダーニアまで行ってガーダンを全部壊して、アレートの無事も確認してから俺の世界に帰るから!」
中途半端なところで終わらせはしない。ちゃんと自分の責任に片をつけて、仲間の安否も確認して。そうしないと俺の気がすまないんだ。
もしそれが終わったら後はどうとでもなれ。俺の出る幕じゃないんだ。第一、俺なんかができることなんてたかが知れてるし。いない方がいいんだ、きっと。
「本当に、それでいいの? 君は」
構わないさ。これ以上何を望めと言うんだよ?
「そう」
会話が途切れた。風が音を立てて吹き抜けていく。
もう俺に言うことはない。だから黙っている。相手はどう思っているか知らないが、これが俺の考えのすべてだった。
「じゃあ、もういいよ」
隣からは小さな声が。
「中に入って、そばにいてあげなよ」
それは思いやりにあふれたものであって。
「ああ、そうだな。そうするよ」
相手の言葉に素直に従ってしまう自分がいた。なぜなら本当はこの藍色の瞳を持つ少年が一番優しい性格をしているのだと気づいたからだ。
俺はお人好しだとよく言われるけど、それは本当の意味では優しさじゃない。
他人に厳しく当たったり、時には思いやりにあふれた目を向けたりすること。それが優しさなのである。
お人好しは一方的な優しさだ。つまり偽善者だ。そんなものは優しさでもなんでもないのである。
俺はここでも敗けている。いつになっても誰にも勝てない。
そんな情けない奴だと自覚しているけど、それでもまだここにいたかった。それはきっと俺のことを受け入れてくれる人がたくさんいるからだろう。
感謝の気持ちを忘れちゃいけない。
言葉に出すには恥ずかしいが頭の中では何度でも言える。そんな思いを胸に抱きながら再び宿の中に入っていった。
部屋の中には何の音もない完全な静寂だった。おまけに窓もカーテンも閉められていたので薄暗い。その部屋の隅で、リヴァは一人でベッドの中で眠り続けていた。
手近な椅子を見つけてそれに座る。何もすることがなかったが何かをする気力もなかったので一人でぼんやりとしていた。
そのまま時間は過ぎていく。十分、二十分、三十分と。
「……あ」
眠気が襲ってきてうとうととし始めた頃、一つの視線を感じた。同時に小さな声も聞こえてきたのでそれによって眠気はどこかに飛んでいってしまった。
「起きたのか。大丈夫か?」
ベッドに寝たままだったが外人はこちらに視線を向けている。しかし焦点が合っていないようにぼんやりとしていた。
「前にも言ったでしょ。平気。慣れてるから」
ぼそぼそと聞き取りにくい声で話してきた。普段のような調子は微塵も感じられない。
「なあ、リヴァ」
ひどく気になることがあった。どうしても聞いてみたいことがあった。
許してくれないかもしれない。答えてくれないかもしれない。それでも一度だけは聞いておきたいことがあるんだ。
「何? どうしたの? そんなに深刻そうな顔して」
俺はそんなに深刻そうな顔をしているのだろうか。
「お前ちゃんと分かってるのか? 自分がなんでこんな目にあうかってことを」
最初は聞くまいと思っていた。だけどもしかしたら知らないんじゃないかと思うと心配になった。何も知らないで呪文を使っていたとなるとそれは不憫でならない。そうなるよりは全部知らせておく方がいいだろう。
相手はぼんやりした焦点の合わない目でこちらを見ていた。しばらく黙っていたが、やがて静かに口を開く。
「誰か、分かった人がいたんだ?」
「じゃあ知ってるのか!」
俺の問いかけに一つ頷く。
それだったら話が変わってくる。
「誰のものなんだ? その深い欲望ってやつは」
まさか顔も知らない相手からのものではないだろう。しかし相手は顔を伏せ、黙り込む。
教えてくれないことに少し苛立ちを覚えた。
「誰かから恨みとか買ってんじゃねーのか?」
「そんなわけ――」
「だってお前は暗殺者なんだろ?」
いつだったか自分で言っていたもんな。本当にそうなら恨みだってあるはずだ。
相手ははっとしたように顔を上げてこちらを見てくる。銀色の瞳の視線が突き刺さった。
「それは、違うよ」
否定する。
嘘だ。
「違うことないだろ! お前は人殺しなんだろ!?」
無意識のうちに相手に詰め寄っていた。気持ちが高ぶっていることにも後から気づいたほどだった。ただ、相手が自分の行為を認めないことが悔しかっただけだった。それだけなのに怒ったように言ってしまう。
「違うよ、違う! ぼくはそんなんじゃない!」
それでもまだ相手は否定し続けた。リヴァは体を起こしてまっすぐこちらを見上げてき、珍しく声を張り上げて反発してきた。
「あいつらは法に裁かれた人間なんだ、ぼくは何も悪いことをしていない!」
「だけどお前は人殺しなんだろ! だったら同じじゃないかよ!」
「同じなんかじゃない!」
なんで否定するんだよ。
なんで素直に認めないんだよ!
「ぼくは悪いことはしてないよ」
まだ言うのか、こいつは――。
「本当だよ」
その時、俺は自分の目を疑った。
「信じてよ……」
次第に弱くなっていく声はいつか消えてしまいそうなもので。
「お願いだから、そうだと信じさせてよ!」
目に涙を浮かべながら言う姿には言い様のない哀しみがあふれていた。
「信じさせて。でないと、ぼくはぼくでいられなくなりそうで怖いんだ」
小さな声が訴える。
俺はそれをただ聞くだけで何も言ってやることができない。
逆にこっちが泣きそうだった。相手の哀しみが伝わってきたようで、もらい泣きしそうになる。それをこらえることで必死になったほどだった。
「ぼくは自分が分からないんだ」
顔を下に向け、相手の表情は髪に隠れてしまった。
「自分の行為が本当に善なのか、それとも救いようのない悪なのか。いくら考えても分かんないんだ」
声が震えている。聞くのも辛い。
「だけど正しいことをやっているんだと信じたい。だから、だから……」
心の奥底から何かが沸き上がってくる。それはすぐに俺の心を満たし、熱いものが瞳の奥からあふれてくる。
ふと気づけばリヴァは不思議そうに俺の顔を覗いていた。俺には相手がそんな顔をする理由が分からない。
「どうして」
声と共に、ぽろりと涙が零れる。
「どうして君が泣くの?」
泣いたのはリヴァじゃなかった。泣いたのは俺だった。
「知るかよ、そんなもん」
恥ずかしくなって背中を向ける。手で涙を拭うと、その温かさに驚いてしまった。
実際に自分でも分からなかった。なぜ俺は泣いたのだろう。なぜ俺は悲しいのだろう。分からない。
分からない。自分でも分からないんだ、これをどう説明しろと言うんだ? 無理じゃないか。
「ごめん」
口が勝手に動いていた。
「え? 何が」
「でかい声出してごめんって言ってんだよ!」
ああ、本当に恥ずかしい。だけどそれ以上に情けない。
相手に合わせる顔もない。背中を向けたまま話すのは失礼だと分かってはいたが、そうする他には何もできなかったのだ。そのままの姿勢で俺は立っている。
「いいんだよ、それは。むしろ嬉しかったほどだから」
え? 何だって?
「やっぱり叱ってくれる人が一番必要なんだね。よく分かったよ、ありがとう。君のおかげだよ」
思わず目を丸くする。
そんな言葉を聞くとは思っていなかったのでどう反応していいか困ってしまった。振り向いて顔を見ることも何かを口に出すことさえもできずに、ただその場で立っていることしかできなかった。
「ごめんね、今日は迷惑をかけっぱなしで。明日になれば熱も下がるから」
「お前、それは――」
「大丈夫だから。余計な心配はしないで」
振り返るとそこには笑顔があった。
俺はそれ以上は何も言えずに、ただ相手の言うことに従うことしかできなかった。