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 今まで信じていたものが一瞬のうちに崩れ去って。
 今まで頼りにしていたものが一瞬のうちにかき消されて。
 何を信じていいのか分からなくなっても、
 俺は自分を見失わないでいられるだろうか。

 

第五章 破滅の理由

 

47 

 冷たいものが空から降ってくる。薄暗い空気の中を静かに雨が降っていた。俺はそれにもかかわらずにひたすら前へと歩き続けている。
 聞けばガルダーニアにはもうすぐ着くらしい。あと何分か歩くだけでいいらしいのだ。やっと着くのだと思うと今までにあったことが懐かしく思える気がする。
 リヴァが倒れてからすでに一日が過ぎていた。あれ以来外人は呪文を使うこともなく、使おうとしても誰かが止めて使わせなかった。原因はまだ不明だが、それはやはり相手が言うまで待つことにした。
「雨ってやだなぁ」
 日本でもそうだったけど俺は雨が好きではなかった。雨が降ったら道が泥だらけになるし、傘をさして動くのは不便だし。
「何言ってるのよ。急ぐんでしょ?」
 ずるずると衣服を引きずりながらロスリュは言う。泥だらけになっていてもお構いなしである。いいのかそれで。
「君って文句ばっかりだね。少しは楽しんだらどう?」
「うるさいなぁ。お前にだけは言われたくないぞそれは」
「ちょっと、それどういう意味?」
 むっと顔を歪ませながらリヴァは言ってくる。そんなこと言われたってそれが当然だろ。
「あ、見えてきたよ」
 今にも始まりそうな喧嘩を止めたのはジェラーの声だった。それにつられて前を見る。
 視界の中に飛び込んできたのは今までに見たこともないほど広い敷地の上にある巨大な城だった。威厳に満ちあふれたそれはその前に広がる街の影を薄くし、城だけで充分に成り立っているという印象を受けた。
 そこまでなら何も問題はない。だがその城は俺たちが見ている今、巨大な炎に包まれていた。
「なんだ、火事か?」
 自分で言っておきながらそれはおかしいと感じる。そんなに簡単に一国の城が火事にあうわけがない。だったら人為的なものなのか、それとも。
「行ってみようか」
 とにかく現地に行くしか原因を知る方法がない。それにもともと目的地はあそこなのだから、どちらにしても行くしかなかった。
 走るように足を早めながら城へ、街へと近づいていく。近づくにつれて何かの音が聞こえてきたがそれが何の音かは分からない。しかしそんなことを気にしている暇はなかった。
「これは、火事って言うか」
 入り口まで辿り着くとそこで止まってしまった。なぜならこれ以上進めなくなったからだ。
 街に入ることすらできない。火は城だけでなく、街全体を包み込んでいたのだ。そんな中へ入ることなんてできるわけないだろ。
 だけどここで止まるわけにもいかないしなぁ。どうしようか。
「まさかこんな所で立ち往生して終わりにする気? 中に行くよ、樹」
「え? おい――」
 外人に服を掴まれて引きずられるように街の中へ近づいていく。近づくにつれて火の熱さが伝わってくる。こんな中に入るなんて……って、
「ちょっと待てって!」
 掴まれていた手を放す。もう少しで火の中に飛び込むところだった、危ない。
「何言ってるのさ。中に入んないと意味ないでしょ」
 振り返って外人は意外そうな顔をして言ってきた。
 そりゃあこのままここでいるわけにはいかないことは分かってるさ。だけど今回ばかりは無理だろ。いくらなんでも火の中に飛び込んで真っ黒にはなりたくない。
 そう思うものの、やはり仲間たちはこの意見を許してくれなくて。
「いつまでもぼけっとしてないで、ほら、行くよ!」
「この程度で諦めるならもう帰りなさい。足手まといよ」
「それとも君の思いはその程度だったってこと?」
 三人がかりでぼろくそに言われる。ジェラーやロスリュなんて何もこんな時に限って張り切って喋らなくてもいいのにさぁ。
 はあ。仕方ない。
「分かったよ、行けばいいんだろ? 行けば!」
 こうなったらもう知るもんか。どうとでもなれだ。でもこれは俺のせいじゃないからな。
 もう何を言っても無駄らしいので、俺は渋々と中へ入っていくことに決めた。

 

「これ、は」
 思わず吐きそうになる。気持ちが悪い。
「うわ、何て言うか。ひどい有様だね」
 隣からは外人ののんきそうな声が聞こえてきたが、俺はそんなに落ち着いてはいられなかった。
 目の前の床の上には数えきれないほどの人が横たわっていた。大人もいれば子供もいて、男も女もごちゃ混ぜになって一つの場所にかたまって積み上げられている。その人たちはすでに息が絶えている人ばかりであって。
 床は人の血が染み込んでどす黒くなっている。そしてそこから臭ってくる悪臭がたまらなくて、悲しくもないのに涙が出そうになった。
「この人たち殺されたんだねぇ」
 のんきそうな声は続ける。俺の気も知らないでよくもそんなことが言えるものだ。
 こんな現場を見たことがなかったのは俺だけなのかもしれない。リヴァなんか当たり前のように死人の山を見ているし、ジェラーやロスリュは何にも動じた様子もなく平然としている。だけど普通、こんな現場に慣れてる方がおかしいだろ。
「君、大丈夫なの? 顔色悪いよ」
「う、うるさい――」
 話しかけられても落ちついて喋れない。それに気づいたのかそうでもないのか、外人はまた続けた。
「うん、まあね。これに慣れろって言う方が無理があるとは分かってるから。もう休む?」
「……」
 気を遣ってくれているのだとは分かる。けどなんだかそれって情けない。
「いい。城に行こう」
 見なければ大丈夫だ。見なければ気持ち悪くなんかならない。
 できるだけ何も見ないようにしながら城を目指す。それでいいだろ。
 それだけを決めて一歩前へ足を踏み出した。
 しかし。
「伏せて!」
 その直後。
「え?」
 誰かに倒されて見えた空が爆発した。
 空が染まる。
 空が赤に染まる。
 赤に、真っ赤に、リンゴの色に。
 白い景色の中にただ一つ見えたあの赤のように染まった。
 後から大きな音が追ってくる。
 音も染まった色も収まると、そこにはただ静寂が残されただけだった。

 

 何が起こった? 何が。
「大丈夫だった?」
「あ、ああ」
 体を倒してくれたのは外人だった。そのおかげで爆発に巻き込まれずにすみ、何の怪我もなく助かったのだ。感謝せずにはいられない。
「今のは呪文なのか?」
「そうみたいだけど、こんな呪文なんて見たことないよ」
 リヴァと一緒に首を傾げる。
 ここはやはり一番よく知ってそうな奴に聞くべきだ。
「なあ、ジェラー」
 藍色の髪の少年はちらりとこちらを一瞥すると、すぐに視線を前方に戻した。そしてゆっくりと話す。
「これは源(げん)属性の呪文だね。それだけだよ」
 いや、それだけだと言われても。
「今の時代、この属性を使える人なんて珍しいんじゃない?」
「そうなのか?」
 少年の言葉に少し驚いた。呪文なんて全部同じだと思ってたのに違うらしい。しかし俺にそんな話をされても困るだけなのだが。
「当然だよ、珍しいどころじゃないよ」
 話に割って入ってきたのは外人だった。そんなに話したいのか、ためらいもせずに急によく喋り出した。
「源属性の精霊は今行方が分からなくなってるんだ。呪文を普通に唱えても発動しないからてっきりもう力を貸してくれないのかと思ってたほどだよ。でも今こうやって使える人がいるってことは新しい精霊でも決まったのかな?」
「はあ」
 早口に喋ったのでほとんど聞き取れなかったが、どうやら源属性の呪文は珍しいらしい。それだけがよく分かった。でも呪文を全く使えない俺にとっては正直どうでもいいことだな。
「ねえ、あれは?」
 後ろからロスリュの声が聞こえた。振り返ると何か遠くにあるものを見ていたので、俺も真似して見てみた。だけど遠すぎて何があるのか分からない。
 それでもなんだか嫌な予感が胸をよぎっていった。
 無意識のうちに体が動きだし、前へと足を踏み出す。ゆっくりとだが前進していき、何かが前方の床の上にあるのが分かった。
 近づいて距離が短くなるにつれてそれは鮮明になってゆく。見えたのは黒く焦げた家の煉瓦の山と、それの下敷きになっている一人の若い男の人であって。
「た、大変だ――」
 この光景を見てやっと頭が冴えてきた。今までは何だかぼんやりしていておかしかったのだ。考えも通常のものに戻ってくる。
 瓦礫の山に駆け寄ると下敷きになっている男の人は目を開けてこちらを見てきた。どうやらあの爆発には巻き込まれなかったらしかったが、体中に切り傷のようなものを負っていて非常に痛々しかった。
「誰だい? 君たちは」
 落ちつきのある言葉が聞こえる。だが今はそんなにのんきに話をしている場合ではないのだ。
「喋らないでください。今、俺が瓦礫を退けますから」
 黒焦げになった煉瓦の山に手をかける。煉瓦は炭のように黒かったが重さは軽くなく、持ち上げようとしても全く動いてくれなかった。
 なんてこった。どうしよう。こんな時には自分の非力さが恨めしい。
「樹、そこ邪魔」
「え? あ」
 後ろを振り返る隙もなく。俺は気がつけばジェラーと場所を交替していた。藍色の髪の少年は無言で煉瓦を一つずつ床に下ろし始める。
 こいつって明らかに俺より年下だよな。なんでこんなに力の差があるんだよ。普通は年上の方が強いはずなのに。これって逆じゃないかよ。
 そんなどうでもいいことを考えていると少年はすべての煉瓦を床に下ろし、男の人はゆっくりと立ち上がった。
「すみません、助けてくださって」
 礼儀正しく男の人は頭を下げる。その動作にはなんだかあの慈善家の青年を思い出させるものがあった。
「いや、そんな。お礼なんていいですから」
「そうそう。でしゃばったくせにこの人なんにもできなかったしね」
 横から余計な言葉が聞こえる。とりあえず足を踏んでやった。
「あーっ、痛いなぁもう!」
 顔をむっと歪ませながら外人は俺の頬をつまんできた。今はこんなことしてる場合じゃないというのに。
「あなたはここで何を見たの? この国に何が起こったか分かる?」
 男の人に聞いて寄っていたのはロスリュだった。その声によって俺と外人の喧嘩はとりあえず止まる。
「私が、見たのは」
 ためらいがちに、だがはっきりと男の人は言う。
「私が見たのは炎を街中に放っていた若い青年の姿だけです。それ以上は、何も……」
 若い青年。
 まさか。もしかして。
 一気に血の気が引く思いがした。胸の鼓動が高まる。
「そ、その人ってどんな姿でしたか!?」
 気づけば相手に詰め寄っていて。
「それは――」
 声がそこで途切れた。
「え?」
 何が起こったか理解するよりも先に、どっと胸に重みを感じた。目線を下げて自分の体を見てみるとそこには倒れかかった男の人がいて――。
「危ない!」
 誰かの声が聞こえたかと思うと思いっきり体を突き飛ばされる。地面に背中を打って痛かったが顔を上げて前の光景を見ると痛みすら忘れてしまった。
 そこには見覚えのある人物が立っていた。静かに、本当に静かに俺を見下ろしている。
「……スーリ!」
 立ち上がり相手の名前を呼ぶと、青い髪の青年はふっと笑みを見せた。
「奇遇だな、また会うなんて」
「うるさい! これもお前の仕業なんだな!」
 いいや、そんなことは聞くまでもないだろう。あいつの仕業に決まってる。
「まあ、その話はもう少し待ってくれよ」
 話をそらす気か。
 青年は足元に倒れている男の人の服を掴み、軽々しく片手で持ち上げた。何をする気なのか分からないがひどく嫌な予感がする。俺は思わず声をあげた。
「待てよ。何を」
「死ね」
 鈍い音が辺りに響く。
 青年は手を放し、男の人を蹴って床に叩きつけた。さらに床に倒れた男の人を足で踏み付け、まるで物か何かのように扱っていた。
 ……痛い。
 やめてくれ。こんなものを俺に見せないでくれ!
「くだらない奴らだな」
 冷たい青年の声が頭に響く。
「国のため、民のため? そのために命を懸けた結果がこれか。自業自得だな。意志のない鎧集団なんか作るからいけないんだ。それが破滅を招く。不幸を招く。それに気づかないこいつらは愚かな人間にすぎない。だがくだらない国家のために命を懸けられたのなら、愚かな人としては幸福だったのかもな」
 何を言っているんだこの人は。
 どういう意味なんだ。どういうことなんだ。何がどうなっているんだ。何が起こっているんだ。
「人はいつか死ぬ。短い生の時間をどのように過ごすかは個人の自由だ。だが、ここにいた連中は判断を誤ったな。誤りは幸福を遠ざける。誤りはどうあっても誤りでしかないのだから」
 何なんだこれ。
 自分がなんだかおかしい気がする。
 俺には少しひどいものだがスーリの言っていることが本当のように聞こえる。
 どうして。
 どうして……。
「だけど利口だな、こいつは。抗わない。自分の最期を知ったのか、それとも」
 青い瞳は今度は俺に向けられた。男の人の上から足を退け、じっと睨みつけるようにこちらを見てくる。
「去れ」
 短い命令。
 頭がかっとなった。
「なんで俺があんたの命令に従わなければならないんだよ」
「そんなに死にたいのか? これ以上知るな。それを拒むようなら殺す」
 冷たい言葉で返される。
 そう言われると俺は何も言えなくなる。
「だったら確かめさせてよ」
 横から口を挟むのが好きなのか、そう言って話に入ってきたのはリヴァだった。
「ぼくらがここに来た理由は二つある。一つはガーダンを壊すこと、もう一つはアレートの無事を確認すること。どちらか一つでも達成できないと帰る気にはなれないね」
 スーリは腕を組んで黙って聞いていた。その顔には表情がなく、深く何かを考えているように見えた。
 しばらく沈黙が訪れる。やがて一つのため息が聞こえるとスーリは俺から目をそらさずに呆れたように話し始めた。
「だったらお前らがここにいる理由はすでにない。帰ることだな」
「どうしてさ?」
 間髪入れず外人は反発する。
「考えてもみろ。ここまで破壊されていてガーダンだけが無事だと思うか? これだけの物が燃やされ、人が死に、何もなくなった状態でまだガーダンを作ることが可能だと考えられるのか? 無理だろ。おそらくこの国にあった機械も破壊されただろう。それに今はこの国以外ではどこにもガーダンは作られていない。もう二度とガーダンは作られないだろうな。それから、何だって? ああ、あのお姫様のことか。それならもう考えずともおのずと分かるだろ。そんなことも分からないほど馬鹿じゃないだろ?」
 青年は表情を変えないまま淡々と言う。
 けどこの人の言っている言葉におかしなものがあることに気づいた。
 スーリはこの国をこんなにした張本人だと思っていた。だけどそうだとしたら矛盾するものが浮き上がってくる。彼の言葉の中には曖昧さを含むものが多くあった。それはすなわち、事実を知らないということであって。
 もしかしてこの人は偶然この国に来ただけなのか?
 けど、だったら一体誰がこの国をこんなにしたんだ?
「分かっただろ。もうお前たちがここにいる理由はない。去れ」
 再び投げられたのは厳しい命令だった。
 どうするか。このまま相手の言ったことに従うか、それとも。
「やっぱり、俺は帰れない」
 意識することもなくひとりでに口が動く。
「ちゃんと自分の目で確かめるまでは帰れない!」
 それが本音だった。
 偽りではない。だってもしかするとという可能性だって捨てきれないじゃないか。推測だけで何もかもを決めつけるのは駄目だとたった今分かったところなんだ。これが今の状況での最高の答えなんじゃないかと思う。
 青年の瞳がすっと細くなるのが分かった。それを見るとさらに心臓の鼓動が高まっていく。
「抵抗する気か」
 静かな怒りの声。だがそこに怒気は含まれていないように聞こえた。それでも迫力は充分にある。
「引けないんだよ。悪いな」
 怖くないわけではない。むしろ手が震えるほど怖い。
 けどここで引くわけにはいかなかった。ここで引いたら今までの努力や決意が無駄になってしまうのだ。
 それだけはどうしても避けたかったから。
「俺はもう前にしか進まない。そう決めたんだよ」
「ふぅん」
 今までと打って変わってスーリは緊張感のない声を出した。それには思わず驚いてしまい、次の言葉が続かなくなる。
「樹、ねぇちょっと!」
 後ろからぐいぐいと服を引っ張られた。なんでこんな大事な時にそんなことするんだよ。
「なんだよ?」
 視線を青年から放さないまま後ろの相手に話しかける。服を掴んだ手はまだ離れてない。
「ここは素直に相手の言葉に従った方がいいかもしれない」
「は? 何言ってんだよ!」
 思いがけない言葉に動揺してしまい、くるりと振り返って相手、リヴァの顔を見た。外人は真面目そうな顔をしてスーリにも聞こえるほど大きな声を出した。
「スーリの言うとおり、多分ガーダンはもう作られないと思う。それとアレートのことについては――」
 少しだけ言葉を切る。しかしすぐに続けて言った。
「彼女は君より賢い。生き延びているならきっとどこか別の場所へ逃げたはずだ」
「じゃあ、俺は」
「従うべきだよ」
 分かっていた。
 分かってはいたんだ。どんなに俺が足掻いても相手には、スーリには絶対に適わない。
 それでも逃げたくなくて無理を言った。
 だって何もできないなんて哀しいじゃないか?
「分かったよ。帰るよ、スーリ」
 青年の顔は変わらない。
「行こう」
 相手に背中を向け、仲間の顔を一人ずつ見ていった。その時の俺の顔はどんなに情けなかっただろうか。
「そうね、賢い判断ね」
 長い髪の少女は小さく呟いた。その重い口から出る言葉にはいつも冷たさと優しさが混ざっている。ロスリュはゆっくりと歩きだした。
「別にどっちだってよかったんだけどね」
 諦めたように呟く少年の瞳には藍色の光が宿っている。その瞳には全てが映っているようで、それを前にしたら嘘が吐けなくなる。ジェラーはロスリュの後を追うように歩きだした。
「ほら、ぼくらも行こう」
 背中を軽く押される。最後まで残っていたリヴァはぎこちない笑みを見せると、いつものように軽い足取りで歩いていった。
 俺も歩きだす。一歩前へ足を踏みだすとなんだか地面が硬く感じられた。
 あいつは本当に何を考えているのか分からない。
 前も、今も、ずっと前もそうだ。どうして逃がしてくれる? どうして妙な優しさを持っているんだ?
 あいつはひどい奴で、人を平気でさらっていって、街を危険にさらして、挙げ句の果てには人を殺すような奴なんだ。それがなんであんなことを言って俺たちを街の外、つまり安全な場所へ導こうとしているんだ。おかしいじゃないか。
 そうだよ、おかしいじゃないか。悪い奴がこんなことするはずがない。こんなことするのはいい人だ。じゃあスーリはいい人?
 違う。
 違う! そんなはずない。そんなはずはない!
「樹」
 遠いところから投げかけられたのは俺の名前。自然と足が止まる。
「もう戻ってくるな」
 言葉は厳しいものだったが、その中には穏やかさが満ちあふれていた。
「……っ」
 胸が熱くなる。
 なぜだろう。泣きそうだ。
 とにかくそこから離れたくなった。顔を下に俯けて足早に歩いていく。途中からは走ってしまった。
 相手の姿が見えなくなっても安心できなくて、しばらくは顔を上にあげることができなかった。ずっと離れた場所にいても胸の鼓動は高まるばかりで、それはおさまることを知らないかのようだった。

 

 

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